劇場で見るべき映画だ。とても良質で、音楽のシーンを音楽以上に感じさせる演出の妙が心地良い作品だった。まずは、ボブ・ディランという存在感、彼の生み出すノーベル文学賞的世界観、吐き出される言葉の数々。ぐっと揺さぶられる。そして、それを可能にしたティモシー・シャラメの演技。5年にも及ぶ指さばき、声、表情を寄せる役作り。素晴らしかった。
ただ、これはボブ・ディランと(見る人)の距離感によって、感じ方は変わるかも知れない。例えば、井上陽水を題材に、同じような映画があったとき、私にとっての井上陽水は、ファンが過ぎるので、違和感を覚える箇所もあるかも知れない。が、私にとってのボブ・ディランは、この映画で描かれている全てを肯定的に、さらには好印象に捉えられるものだった。
冒頭、ジメッとした湿感を絶妙に表現した映像から始まり、病院という場の、冷戦時代の、ニューヨークの、なんとも複雑な光景が折り重なる中。ボビーの歌唱シーンは、心をわしづかみにされた。思わず、歌唱部分だけ本物を使ってる?とすら思わせた。
素性のしれない、ぼろ着でギターケースをさげた青年の、出会い、葛藤、恋。セックスに作曲に、とにかくタバコ、タバコ、タバコ。吐き出される歌詞と低音とリズムは、確かにフォークだった。地下のバーで、はたまたニューポートのフェスで。ぐっと感情を持ち上げられた。
登場したボブ・ディラン。これは、新曲だ、といって歌い出し、2番からはサビのThe
Times They Are A-Changin'を観客が叫ぶシーンは特にグッときた。
そこからのサクセスストーリーも、ボブ・ディランの葛藤。エレベーターで、荷物を背負わされた馬のやりとり。いつまでも、風に吹かれて、と求められる像(イメージ)。フォークという定義にしがみつく不自由を、音で破壊した名曲の結果。
キューバ危機やケネディ暗殺などの史実を、ニューヨークの地下のバーやアパートの一室から眺めた空気感が、とても普通すぎて、重厚だった。
スプーンで、少しずつ平衡に保ってきたフォークの世界を、シャベルでかき回したボブ・ディラン。大きな音で、とにかく演じきった時代を表現する演出の中に、ノーベル文学賞の授賞式に出なかった、と言うテロップが、妙にリンクした。
エンディング。暗闇の中で、「ライク・ア・ローリング・ストーン」「風に吹かれて」「ミスター・タンブリン・マン」が流れるのが、音響の整った劇場だと、魅力が倍増した。
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名もなき者
A COMPLETE UNKNOWN
2024年(アメリカ)
監督:ジェームズ・マンゴールド
出演:ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、エル・ファニング、モニカ・バルバロ、ボイド・ホルブルック、スクート・マクネイリー他