AFROSICK
MIYAZAWA(宮沢和史) (1998年発売)

AFROSICK
ILUSAO DE ETICA
E TUDO TAO MENOR
NA PALMA DA MAO
BRASILEIRO EM TOQUIO
CAPITA DE AREIA
CINCO OU SEIS
DUVIDA CERTA
EM BUSCA DA ALMA PERDIDA
ANJOS (IRMAOS)
LAIAS

音を楽しむ。そんな「楽しい」が、「愉しい」と記したいような、ワーとなってパーとくるガチャガチャ感を、いい具合に抑えているというか。

始まりの20秒、扉を開いたらブラジルの民家の、なんだかエプロン姿で子供の帰りを待つ恰幅のいいお母さんが、壺か何か、大きなそういう器を洗いながら「イヤァ〜イヤイヤ」と鼻歌を歌っているかのような。インストゥルメンタル。

当時、大学生だったぼくは、このアルバムが平積みされた一枚を手に取り、「あ〜、宮沢和史、アルバム出たんだ」と思いながら、ソロデビューアルバムも買っていたので何の気為しに購入した。で、始まりの、上記「AFROSICK」で心地よく『扉』を開いたのだ。

2曲目、場面は変わって「そんな家」に帰る子供が下校の地下鉄に乗りこむかのような疾走感。声と音が気持ちいいぐらい調和している。《幻想》というコトバが頭に浮かんでは消え、その対面にある現実感が、迫ってくる。

3曲目。日本語バージョンのアルバムでは「矮小な惑星」というタイトルの一曲。お得意の「語りつつ」唱う一曲。サビの穏やかで柔らかい歌い方が、THE BOOMファンの耳にはフィットして気持ちいい。“エ・トゥード・タォン・メノール”。連呼されるこの箇所は、なんだか「なるほど」と頷きたくなる。

そもそもサンバやボサノヴァのないこの「ブラジル音楽アルバム」(この辺りに宮沢和史のこだわりを感じる)において、サビからはじまるこの4曲目は、日本っぽくもあり、聞き込めばクセになり、耳に残り。日本語版が出たとき、「愛を見失うほど、狂わせてよ、今夜だけは」と唱われているのに、正直ピタッとニュアンスがあった。

全曲ポルトガル語のこのアルバムは、作曲はすべて宮沢和史だが詞はレニーニ、、ペドロ・ルイス、カルリーニョス・ブラウン、パウリーニョ・モスカなどが名を連ねる。そんなブラジル人からみた日本・東京を唱う5曲目「ブラジル人・イン・トーキョー」は、デビューまもなくのTHE BOOMの感じにとても近い。

キャピタ、キャピタ、キャピタージャレーア。砂の戦士が、どこかの丘の上か何かで風に吹かれ遠くを眺め、哀愁やら郷愁を浮かべる曲の始まりから、いざ出立の時を思わせる曲の終わりまで。名曲「中央線」のような物語りを感じる一曲だ。

7、8、9曲目。この三曲はぼくの好きな曲たちだ。アルバムの構成の中でも一番の「聴き処」になっているのではないだろうか。『CINCO OU SEIS』はヴォーカルの伸びやかな声がもっとも活きている。『DUVIDA CERTA』は中でも一番好きだ。「死」に向かっていく人間の「生」を唱う歌。雑踏を進み、嫌気がさしては立ち止まり、だけど腹は減り、快適を求めては苦労する。そんな一曲。次の『EM BUSCA DA ALMA PERDIDA』は前曲の雰囲気を引き継ぎながら、サビで一気に吹っ切れたような爽快感すら感じる邦題「難破船」。

天使。そんな10曲目は生きた後を唱っているのか?生きている一片を唱っているのか。コーラスとともに唱うサビがいい。

ここまでの宮沢ワールドwithブラジルともいうべき曲たちを聴き、ゆっくり幕を下ろすような『Laias』。夕景を思わせる。この曲に限りは日本語版のほうがいいかと。ポルトガル語だが、曲は完全にジャポンだ。この曲の世界感は、日本語のほうがしっくりくる。


全て聴き終わり、ふと、ブラジル音楽?と思わせるオリジナリティ。言ってしまえば宮沢ワールド。そこに、これだけのブラジル要素がはいったのかと。融合して、新たなモノが生まれた音・リズム・雰囲気。ジャケットデザインを担当したMUTI RANDOLPHは、ブラジルのコカ・コーラの広告など手がける若きアーティストらしい。そんな彼が、竹や槍を多用し、仏像を思わせる色合いで表現したほど、このアルバムは、ブラジル人から見て「日本的」とうつっているのだろう。ここにもまた、「融合(双方向的)」が感じられたりする。


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