赤ちゃんポスト
2007年03月12日
保護者が育ることを拒否、もしくはその能力がないとなった場合、赤ちゃんをどうするか。
先週、熊本市にある慈恵病院が市に申請していた「赤ちゃんポスト」について、厚生労働省は設置を認める見解を出した。ポスト。この「無機質」なネーミングが、より衝撃的に伝えられ、新聞やテレビでいろんな人がいろんなことを言っている。大方、「反対意見」が多いようだ。
ちなみに、この慈恵病院では「ポスト」という名前ではなく、「こうのとりのゆりかご」と呼んでいるらしい。(朝日新聞より)※以下、通称として赤ちゃんポストと記す。

まず、親は子供を育てる義務があり、子供は育てられる権利がある。これは絶対的に保証されるべきであり、親が、その義務を放棄した場合、その親は非難されて当然である。【だから】、この赤ちゃんポストは反対だ、、、というのは少し違うような気がする。こういう場所があるなら、育てられないなら預ければいいと簡単に考えてしまう。そんな意見も僕は違うように思う。つまり、反対を全面的に押し出す人は、「親」目線で考えているのだ。この問題で真っ先に考えるのは「子供」である。育てることを拒否「された」、もしくはその能力がないからと「育てられない」子供。その子供をどうするかである。ポストに入れる親にいくら非難を浴びせても、仮に何らかの罰が与えられたとしても(そんなことは現状ありえないが)、子供は、常に被害者だ。
ポストがない=育てられないのだ。もっとひどい場合、虐待なども考えられる。これは、保護するという観点から論じるべきだし、最大にして根源的なことは、悲しいかな“その需要が確かにある”ということである。

病気腎移植の問題を考えるときも、「求めている人」がいることを忘れてはいけないし、京大医学病院の手術自粛の問題にしてもみんなそうだ。AとBの立場それぞれから考えなければいけない。

で、僕はこの「赤ちゃんポスト」について賛成か反対か。制度化されるなどということには反対だが、概ね賛成である。それは先述の通り、需要があるという悲しい現実の前に導かれる。
親と子は永遠に深い「絆」で結ばれ、DNAレベルで絶対的な繋がりがある。が、セットではない。親の「失敗」を、無防備な乳幼児がそのまま被ることは避けなければならない。それは一人の人間として。その、権利として。救えるものは救うべきではないかと。それが倫理云々で再考の余地があったとしても、安易に利用する親が増えるかもしれないという危惧があっても。

その上で、僕はポストに預ける「親」を最大級に非難する。



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