有り

鈴木正吾著

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 孫の有(あり)が先日、いちご大福を持ってきてくれた。ああ、なるほど、私もそんな歳か、と思った。私が祖母に、おばあちゃんなんだからいちご大福が嬉しいだろうな、と思って、お小遣いで買って、渡したら、笑って、すごく喜んでくれたことを思い出し、ふと、私は有に、ちゃんと笑って、すごく喜べただろうか、と思い返してみる。

 ずっと続く。延々と続いているような、果てしない道の先にある駅。そこへ向かう人たちの後ろ姿をぼんやり眺めている。走っていく若いサラリーマン。後ろから、白いシャツが、ちょっとだけ出ている。みんな慌てる朝、間に合いますように。この駅は、都心を走る地下鉄が乗り入れ、都心アクセスが良くなると、一人暮らしのサラリーマンが増えた。その一人暮らしが結婚するようになって、家族連れも増えた。これまでの田んぼや畑が売却され、マンションが増えた。高層マンションは、住民からの反対運動が起こるため、もっぱら低層で、土地に余裕があるから、ゆったりしたマンションが多い。点在する低層マンションと、昔からある民家。そして、民家を改築して、貸し出す賃貸スペース。この町も、ここ二十年で、ずいぶん変わった。一人暮らしのサラリーマンの他にも、画家や写真家といった芸術家も多く住んでいる。新しい住民のために、また新しい人がやって来て、ベーカリーやカフェをオープンさせた。郊外にある、おしゃれエリア。この町は、そんな風にしてテレビで紹介されることもある。
 この一連の変化の流れに取り残されるように、昔から、私のこの店はある。その店からまっすぐ、駅までの一本道が通っている。その沿道には、またまた、昔からずっとある団地が、異様なほどレトロに生き残っている。私が子供の頃、この団地に住んでいるということは、ちょっとした自慢だった。四階建てというだけで、羨望の眼差しで、三LDKという間取りもハイソに響いた。今では、団地住民の多くは、年老いて、私と同じように、朝からぼんやりしている。ほうきで掃きながら、駅まで歩く人を見ていたり、ベンチに座ってお話ししたり、ゴミをまとめたり、と、朝のルーティンをのんびりやっている。
 ここには、おしゃれエリアだから住んだという住人と、そんな風に思われていると認識する昔からの住人がいる。新しい人と、元からいる人。この両者が、融合することはない。融合は難しい。混合することは出来ても、一つになることはできない。新しい価値でやって来た人たちの価値を、自分の中に飲み込んで消化するには、元々からこの町にあったことや、当然だと考えられているルールを変える必要があり、それを変えるには、年々こりかたまる頭には厳しかった。もっと言うなら、融合してひとつになろうという考え方は、新しい人たちの中にも、元からいた人たちにも希薄だった。
引っ越してきた人の、隣にも引っ越してきた人がいて、その連続で、エリアができ、そのエリアで、じゃ、こういうことにしますか、とルールが自発的にできる。そのルールが、元からあった私たちのルールと相容れないとしても、それは、それで、問題ないのだ。なぜなら、それは一定程度以上のエリアだからだ。そのエリアは、サイドと呼ばれていた。
 そのサイドエリアとは別に、ここ最近増えてきたのが、大きな国道沿いににょきにょっきと建ってきた大型マンションの建ち並ぶエリア。ここには、昔は靴の量販店や、大きめの電気店、ファミリーレストランなんかがあったが、それらを壊して、窮屈にマンションを建て並べた。二十三区内ではマンションが変えないけど、ここなら手が届く。そういう層がこぞってやって来ているらしい。その住民たちの多くは、子育て世代だ。なので、横の繋がり、縦の繋がりが素早く、コミュニティが出来やすかった。幼稚園や保育園が、新しい人たちのモノになり、そのまま小学校も染め変えられてゆく。昔から住んでいる私のような者にとっては、同じ町のことなのに、テレビの中で起こっていることのようで、ただ俯瞰するような気持ちだった。
 私の町が、塗り替えられていく。それを見るようで見ず、見ないようで見ていた。もちろん、そんな動きにいちいち文句をつけ、元々あったルールを押し通そうとする住民もいた。他人が大勢でやってきて、荒らしている。相続のタイミングで、自分の田畑を売却してしまったにも関わらず、元々あったルールを固持したい人が、割合としては多かった。しかし、大金をはたいて自分の古い空き家を改築したり、アパートを建てたりした人たちは、あまりうるさいことを言うと借り手がつかなくなるからと、反対していた。元々いた人たちの中にも、事情によって、スタンスはまちまちだった。それがこじれて、あちこちでほころび、そのごたごたの中で、ごく自然に、新しい人たちによる、新しいルールをもった、新しいエリアが町の中に出来ていった。

 店番をしているうちに眠ってしまうのは、今に始まったことではない。これは、一種の、私の癖のようなものだ。決して、歳のせいではない。私はまだ、うとうとと眠ってはいけないところで眠ってしまうには早すぎる、六十四歳なのだから。「すいません」。お客さんの声でハッとする。たばこ、二十九番のやつ、二つ。いつも来てくれる人だ。ありがとうございます、と、お客さんの方が大きな声で言ってくれるのも、この店の普通。たばこを吸うのも、最近では肩身が狭そうだなと思いながら、手渡す私の手。これは、年相応にしわくちゃだ。私は、私の息子が生まれたときから、ここで、こうして店番をしている。

 嫌だって言ったら、嫌なの。結婚相手ぐらい、自分で決める。そう言って、何度目かのお見合いを断り、家を飛び出した時、私の母は、どんな気持ちだったのか。父は、気持ちのほとんどを、ちゃんと、言葉にしたようにも思う。けれど、母は、ずっと黙っていた。黙っていた母の気持ちが、今の私には、痛いほどわかる。私の息子も、私が何も言えない、黙ってしまうようなことを言ってくるのだ。
 私が結婚したのは、三十五歳の時。相手も同じ三十五歳だった。自分で選ぶと言ったからには、自分で選ばないと思い、必死に、躍起になっている間は、ちっとも出会わなかったのに、もう、結婚なんていいかな、と思ったときに、ふと現れた相手だった。息子は、私たちが結婚してすぐに、私たちのところへやってきてくれた。その息子のおかげで、それ以降の私は、華やいでいった。
 コバルト。今でこそ呼び慣れたこの息子の名前も、最初は違和感があった。まだお腹の中の赤ちゃんが、男の子だと分かる前に、夫は「こどもの名前、なんだけど、さ、コバルトって、どうかな」」と言ってきた。夜、真っ暗にしないと眠れない夫のために、真っ暗な部屋で、ベッドに二人。ひとしきりしゃべって、うつらうつら、眠りに落ちようとしていた時だった。ビリビリっと、何が何だか解らないモノが、頭から心臓を通ってつま先まで流れ、私は「かわいい名前ね」と即答した。コバルト。男の子でも、女の子でもそうすることに決め、漢字をあてると暴走族みたいになったので、カタカナのままにした。こうして、お腹の中にいるときから、コバルトと呼び続けていると、一人の人として濃厚に感じるようになった。コバルトがのびのび遊べるようにと、私たちがこの家へ移り住んでから、あっという間に時間が過ぎたように思う。

 反対されるかも知れないけど、これは相談じゃなくて、なんていうか、報告だから。
 コバルトが、二十歳の時、突然、そんな風に突きつけてくるまでは、コバルトの育て方に、多少の自信のようなものがあった。だけど崩壊した。結婚しようと思っている、ではなく、結婚する、という報告。それを聞いて、夫は、成人まで育て上げた喜びだと解釈しており、どうもその意訳的な考え方に、しっくり来ていない私は、何も言えなかった。普段はおとなしい夫が、この時ばかりは、饒舌だった。ひょろりと背が高く、痩せていて、頭が小さい。後ろから見ると、そっくりな親子。私には、ずっと突っ立ったままで話す二人の会話が、どこか遠い他人事のようでもあり、それを背後からぼんやり聞いていた。
 コバルトが結婚する。まだ二十歳になったばかりで、都内の大学に通う学生で、子供で、息子で、宝で、まだまだ私たち家族のもので、なのに、結婚する。
 相手は、南と呼ばれる新興住宅エリアではなく、サイドとよばれる古い民家を改築した、一番のおしゃれエリアに住んでいる。トモさん、と言うらしい。ウェブページのデザインをする仕事をしているという。学生の息子が、結婚するということは、親として、どれだけの金銭的援助をしなければならないのか、と皮算用している間に飛び込んできた、相手の情報で、私は複雑だった。学生同士よりはましかとも思ったが、相手が働いているのに、コバルトだけこのまま大学に通うなんてことが出来るのか、と思ったりもする。何もそんなに、慌てて、結婚する必要はないだろう? 夫が繰り返しコバルトに発していた言葉に、コバルトは、ものすごく言い辛そうに、相手のトモさんが、三十五歳であることを告げた。思わず、声が出た。驚いたし、即答するように、駄目、だと思った。三十五歳の相手なら、孫がどうしても欲しい私にとって、猶予がなくなってしまう。三、四年は、夫婦だけの生活をして、基礎工事のような土台をしっかりと築いてから、子供を授かり、そうなった時、私は何歳になっているのかな、なんて、勝手に、にんまりしつつ考えていたのに、そんな悠長なこと言ってられないじゃないか、と心の中はモヤモヤし、ハラハラし、さっきから一本調子で同じ事ばかりを繰り返す夫の話が、まるでクラシックミュージックのようで、ゆら・ゆら・ゆら・ゆら・と・・・

 ソレニ コドモ モ デキタ 

 ガツン、とハンマーが振り下ろされた。雷がシャビッと落ちてきた。空を切り裂いた。そんな言葉だった。コバルトは、相手の年齢が三十五歳であることを告げたときよりも、心なしかあっさりと、子供を授かったことを言った。これは、相手とコバルトが、何度も何度も話し合い、自分たちの中でかみ砕いて、色々と悶々とした結果、すっきりした「結果」だからだろう。そんな息子の気持ちは、人としてはよく分かる。しかし、母親としては、ショックだった。結果が出るまで、何一つ相談してくれなかったこと。何より、お付き合いしている彼女が居ることすら知らされていなかったのだ。逆に、まったく居ないというのも気を焼くが、まさか、そういう人がちゃんと居て、そういうことをして、結果そういうことになって、というのが、一気にやって来たので、これが、まだまだ子供だと思っていた息子の現実かと、ショックだった。
 夫は、相手の年齢を聞いて、職業を聞いて、もしかすると、相手は夫婦だけの、子供をつくらない生活を望んでいるのではないかと心配していたらしく、子供を授かったというコバルトの告白を、完全とまではいかないまでも、どうやら歓迎しているような節があった。父さんも母さんも、三十五歳の時におまえを産んでいる、からな。と、私に向かって同意のようなものを求めて来た時には、私は、何だか、ああ、そうか、と納得しながらも「だって、母さん達は、お互いが三十五歳だったからね。コバルトの場合とは違うわよ」と言ってしまった。
 それまで黙っていた母親が、どうも収束に向かって進んでいた会話の中で、ようやく発したこんな言葉。コバルトは、いつもする、うつむいたまま、目だけ上に上げる格好だった。私は、私の息子という檻の中から、コバルトを出して、そこに立っている一人の男を見ていた積もりなのに、この、目をされると、駄目だった。まだまだかわいい息子のままだった。
 しばらく続いた沈黙に、耐えきれなくなって「いつからなんだ、そのトモさんとお付き合いをはじめたのは」と尋ねたのは、夫だった。高校時代の時に云々、コバルトの話す時系列にそって、その時々で、私は何々してたな、と、そんなことをぼんやり考えていた。

 高校生の方に、ちょっと伺ってます、ご協力お願いします。
いや、けっこうです、すみません。
すぐに済みますから、コレ、これを見て、パッと直感で、良いですか、悪いですか?
 え? う〜ん、分からないです。

 トモと俺の出会いは、こんな感じで、隣町にある高校に通っていた俺は、いつも電車通学で、部活帰り、もう薄暗い夕方、駅前で、A3サイズの紙を持って、ウェブページのデザイン調査をしていたトモに声をかけられた。A案とB案とC案。その中で、高校生にうけるデザインはどれか。そんな路上アンケートで、「分からない」と応えた俺の意見なんて、カウントされていない訳で、トモは、だからか、俺と初めて出会ったこの時のことを覚えていない。駅前で調査していたことは覚えているが、俺に話しかけたことは、完全に記憶にない。それはそうだ、百人の高校生に聞こうと決めて、午後からずっと駅前に立ちっぱなしで、何人にも声をかけて、その中の、薄暗くなってからの、一人である俺。それも、分からない、と応えた俺。ああ、なんてしょうもないんだ、と自分のことを思う。
 俺は、トモと再会したとき、まぁ、トモにとっては初対面という記憶だけど、なぜか、パッと、あ、あの駅前でA3の紙もって、アンケートしてた人、と思い浮かんだ。「なんで、なんで、なんで、そんなに悪目立ちしてたの? 変だったの? だから、記憶に残っているの?」。トモは、自分は完全に忘れているのに、相手が覚えていることの多くは、良いというより、悪いと取った方が合っている、とこれまでの経験から思っていたらしく、だから、とても心配そうに聞いてきた。良くも悪くも、トモと出会うまでは、完全に俺の中からも消え去っていた記憶だ。それが、巻き戻しのスキップボタンを数回押して、ぱちっと、そこに行き着いたような。「きれいな人だな、とは思ったよ」と、目の前のトモには言う。当時の俺は、薄暗くて、突然話しかけられて、顔なんてまったく見てなかったけど、もし、顔を見ていたら、そう思ったに違いない、から、トモにはそう言った。
 俺は、十七歳の時、学校で書いた作文が入賞した。その授賞式で、トモと再会した。それは、町が主催する小さなコンクールで、小学生から高校生まで、全員が同じテーマで、強制的に書かされたものだった。その年のテーマは「十年後の自分」。毎年、そんな感じのテーマで、前の年は「最近、嬉しかったこと」、その前は「自分が一番大事にしていること」だった。なんでこんなに毎年のテーマを覚えているかというと、俺は、心の底から、いや芯から、作文が嫌いだったからだ。時間がとてもかかる。書き始めが、ぜんぜん出てこない。何より、これを書いて、何になるのだ、という疑問が頭から離れないので、全然進まないのだ。
 十年後の自分が、二十七歳になっているということを前提に考えられることが、とても幸せです。
 そんな趣旨のことを、原稿用紙に一枚は書きなさいという教師の条件をぎりぎりクリアする形で書き上げた。その作文が、勝手にどんどん拡大解釈されて、最近の混沌とした世の中の空気感を敏感に感じ取っているだの、十年という未来に、無限の夢を広げるのと同程度、このまま普通で続けられることが大きな夢になっているようだ、などなど、不景気と世界中で起こる価値観のぶつかり合い、テロ、少子化、云々と結びついたようだ。ただ、俺は白い皿を置いただけ。そこに勝手に、盛られた感がある。その入賞作品の授賞式、といっても完全に打ち上げ、お疲れさん会と化していたが、最優秀作品賞、各学年の優秀賞、そして入賞作品(これは二十四作品あって、一番年上だった俺が、代表して授賞式にはよばれたらしい)の表彰式が終わり、それよりも長い時間をとって、今回で九回目を迎え、来年は記念すべき十回目なので、また皆さんで力を合わせて頑張りましょう、みたいなことが役所の担当者から述べられて、受賞者そっちのけで乾杯があり、みんな酒を飲み始めた。小学生と中学生は帰ったが、俺とあと高校生の学年優秀賞をとったやつらは残って、色々食っていた。と、そこに、今回の作文コンクールの応募ポスターや、募集要項冊子のデザインをしたトモも招待されていた。
 再会した俺たちが、二人きりで話すことは一度もなかったけど、トモは、役所の関係者と話しており、俺は、たまたま近くにいて、立食形式だから、自由に動けば良いんだけど、元々俺が居た場所に、二人がふらりと来て、目の前にあったケータリングの寿司を取り、それを受け皿に入れて、それを持って、二人は立ち止まって話し始めてしまったのだ。俺の、ほぼ、目の前で。俺は、そこでトモのことを思い出す。そんな俺の視線を感じたのか、まずは役所のおっさんが俺に会釈し、それにつられてトモも会釈した。
 ええ、そしたら、私たち、同じ歳ですよ。
 ほんとですか、もっと、お若く見られるでしょう。
 いえいえ、もう駄目ですよ、三十を越えたら一気におっさんになっちゃました。
 あはは、と笑う声が重なり合って、三十二歳同士だというトモと、その役所の男(おっさん)が笑っていた。二人の会話は結婚について、ということになり、その役所の男(トモは、その男が、男性アイドルの弟で、アナウンサーをしている人に似ているといっていた)が、半年前に結婚したばかりで、相手は五歳下の二十七歳であることに、その年の差は本当に理想だと、何度も言っていた。女が二十七歳だと、焦る必要もなく、子供が二人は産めるし、トモは、自分で、子供が二人は絶対に欲しいから、結婚は焦っていると言うことを打ち明けていた。お相手は? という役所の男の質問に、首を振って、だけど子供は欲しいから、ちょっと前に、真剣に精子バンクに行こうかと思ったぐらい、と笑いながら話していた。社会で働いている人たちが、家の外で過ごす夜というのが、こんな感じなのかと衝撃を受けていた俺は、三十を超えるだの、結婚だの、子供だの、精子バンクだの、手に持ったアップルジュースが、とても甘く感じられるぐらい、なんて言ったらいいんだろう、負けた気がした。子供すぎる自分が、なんとも腹立たしかった。
 午後六時を過ぎ、もう高校生の受賞者の皆さんも、お帰りください、と言われ、一秒でも早く帰りたいと思う反面、もう少しいて、色々見聞きしたいなとも思っていた。もうすっかり暗くなっていた。階段を下りて、外に出ようとした時、階段を駆け下りてくるヒールの音に、俺は何となく振り向いて、そしたらそれはトモで、彼女の後ろにはさっきの役所の男が居て、俺を追い抜いて、出口に行き、それではお疲れ様でした、また、来年もよろしくお願いします、と役所の男が言って、これからまだ仕事が残っているなんて、大変ですね、頑張ってくださいと付け加えた。役所の男はきびすを返し、俺とすれ違い、おめでとうございました、と言って、俺は、あれ? 近くで見ると、こんなに若かったのか、とおっさんと思っていた男に、ありがとうございます、と言った。
 出口を出て、俺は自転車に乗り、大通りに出る。と、優に二十分はかかる駅までの道をトモは歩こうとしているようだった。俺は、あの時、何にも考えていなかった。ただ、駅までは遠いだろうな、と思っていた。その駅までは、俺もこの自転車で行くな、とも考えながら、トモが近づき、そして、車もさほど通らない大通りで、追い抜こうとしたとき、
 あ、あの、よかったら、乗りますか?
 と話しかけた。きゃっ。トモは小さく悲鳴をあげた。後になって聞くと、この時、トモは「こんな真っ暗闇をひとりで歩かせるなんて、この町の役所は、ほんっとにどうしようもないな。タクシーを手配するのは、当然でしょ」と、苛々しており、それでも自宅までの道のりをひたすら歩いているときに、急に声をかけれて、完全に、襲われた、と思ったらしい。
 あ、すいません、急に。俺、あ、じゃなくて、ぼくは、さっきまで役所で、授賞式に出てて、これから帰るとこで、駅まで行くなら、乗っていきますか?
 説明する俺。それを聞くトモ。トモが、東京から来たのではなく、この町に住んでいることを知り、都会的な雰囲気はどっから来るんだろうと思っていると、最近、この町に超してきたばかりだということを知り、この町の事、色々教えてね、と、そんな会話しているときには、トモは俺の腰に腕を回して、自転車に乗っていた。
 十八歳の俺の誕生日は、トモの友人がやっている恵比寿のバルを予約してくれた。そして、二人きりで、祝ってくれた。この時に、そう、俺は、あの自転車の後ろに乗せた夜から、この日までの半年近く、もやもやして、聞きたくても、聞けなかったことを、誕生日をここまでして祝ってくれてことで、自信がついた、というか、思い切れたというか、たぶん、大丈夫だろうと、思ったというか。「ぼくたちって、付き合ってます、よね?」と聞いた。何とも言えない、ばくばく、何かが身体の中から飛び出してきそうで、熱が出そうだった。
 そうね〜、それは、ないかな。
 トモは笑って言った。無い。俺は、なんて言うんだろう、これまでのメールのやりとりや、土曜になる度に、トモと一緒に東京へ出かけて、いろんな所で初めての体験をして、それらは全部楽しくて、だけど、無い。俺たちが付き合っているということは、無いのだ。あの、駅までの一本道が、まるで滑走路のようで、東京という漠々とした無限大に楽しい世界へ飛び立てた日々の、一つの明確な回答だった。
 俺は、あの誕生日の後から、トモとは会わず、勉強した。受験勉強。遅すぎるスタートだったが、もう、夢中だった。無我夢中で、受験勉強という所に逃げ込んでいた。
 大学が決まり、東京で一人暮らしをした方がいいと、高校の先生にも、塾の先生にも言われた。大学までの往復だけで、三時間近くかかるし、その遠さを理由に、通わなくなるかも知れない。両親も、しぶしぶという感はあったが、東京での一人暮らしを了承してくれて、俺は、一人で、東京へ部屋を探しに行った。
 大学、受かりました。
 東京へ向かう電車の中で、俺はトモに、久しぶりの連絡をした。付き合ってないと言われた日から、突然、連絡を絶ち、それは、付き合ってないのだから異常なことではなくて、むしろ、それまで、付き合ってもないのに、あんなに頻繁に連絡しあっていた方が異常で、俺は、受験の間だ、たまに、トモとのメールのやりとりの履歴をぼんやり眺めることもあった。大学に、受かったら、連絡をしよう。連絡ができるまで、なんだか、それが大きな目標になって、受験勉強を乗り切ったようにも思う。
 大学が決まってから、いろんな言葉を考えていた。トモに報告する言葉。何度も何度も打っては消し、また打って。でも、なかなか送れなかった。のに。この日、東京へ一人で行き、そこで、これから住む部屋を探すという日。これまで、子供である自分に対するコンプレックスから、トモに付き合ってないと言われても、受け入れるしかなかった引け目を、なんだか、これで、やっと払拭できるとも思いながら、トモにメールをした。とても、自然に、それは他に使いまくっていた言葉で、大学、と打ったら、予測変換で自動で出てきた、文面。だ・い・が・く(変換)大学(受かりました)。
 おめでとう! お祝いしなきゃね。
 トモからの返信ははやかった。俺は、これから向かう代田橋という駅の事を想像していた。一体、どんな部屋なんだろう。気にいった部屋があればいいな、家賃が安ければいいのにな、なんて、そんなことを考えて、あと十五分ほどで新宿に着くという時に、返信が来た。トモに連絡することは想像していたが、トモからの返信は、受験中、まったく想像していなかった。そして、実際に来たトモからの返信は、想像もしていない言葉だった。お祝いを、してくれる? 
 新宿に着いて、京王線に乗り換えて、二駅。代田橋という駅は、想像していたよりもすごく小さかった。駅を下りると、小路に店が密集していて、その中に、予約をした不動産屋があった。行くと、若い男性が、とても元気にいらっしゃいませ、と言ったので、一瞬、びっくりしたが、彼は、いい人だった。大学まで、この駅からだと乗り換えが一回で済むこと。世田谷区にあるこの駅から、徒歩数分で杉並区にかわり、そちらの物件だと、ぎりぎり予算内で住めること。とにかく、今は、即決しないと、次々新入生が部屋を探しに来ること。などなど、色々聞いて、徒歩で四つほど部屋を見させてもらった。その中の一つがとても気に入ったが、予算よりも二万五千円高かった。即決、したかった、が、できなかった。帰って、親に相談してから、また、連絡してもいいですか? と言うと、その若い男性は、あからさまに表情を変えて、「その時には、ないかも知れませんけどね。それでも、いいですよね?」と言った。
 物件のまわりながら、俺がずっと考えていたこと。お祝い、トモからのお祝い、というのは、何かをくれるのか? それとも、誕生日の時のように、なにかをしてくれるのか。ああ、なんて返事をしようか。ということだった。そればかりを考えていたと言ってもいいぐらいだ。正直、両親からも、決めるなら、早く決めてくれば良いこと。コバルトが気に入れば、お金のことは何とかするから、第一印象で決めてこい、とも言われていた。母は、とはいっても、実際に決める前には、電話ぐらいしてね、とも言われており。つまり、この日、トモからあんな返事が来なければ、たぶん、決めていたと思う。
 帰り道は長かった。新宿駅から中央線で一時間。お祝いしてくれるんですか、ありがとうございます!(打った後、消す)。そんな、お祝いなんて、いいですよ、気持だけでうれしいです、ありがとうございます。(打った後、消す)。今、東京に行ってました。部屋を探してました。久しぶりに会いた(途中で、消す)。結局、ありがとうございます。とだけ打ってトモに送った。
 早く、代田橋の部屋のことを返事しないといけない。トモからは、いつでも良いから、都合の良い日があれば教えてくれと言われている。そのどちらも急ぎで、なのに、ちゃんとした期日がなく。だから、俺は、どうしたもんかと色々考えていて、ふと、あれ? とも思ったりしていた。トモに会うことと、代田橋の部屋に、返事をすることは、まったく関係ないではないか。なのに、その両方で、なかなか煮えきれなくなっているのは、やっぱりおかしくないか、と。この時、俺は、俺の中のことなのに、それが、とても難しかった。よく、分からないでいた。まずは、トモだ。トモと会って、東京に住むと言おう。それで、トモがなんて言うか分からないけど、とにかく、それからだ。なぜか、そう思った。
 トモは、新宿に出来たばかりの店で、ランチのコースを予約してくれた。ジーパンとスニーカーだけはNGみたいだから、よろしくね、と言われると、俺には、当時、全くと言っていいほど、着ていく服がなく、本気で悩んで、真面目に出した答えなんだけど、俺は、制服を着ていった。店の前で待ち合わせて、制服で着た俺を見て、トモは、笑った。いつもみたいに、カラカラと気持ちよく乾ききった笑いではなく、どこかジメッとした笑い。すみません、ごめんなさい、という言葉が俺から漏れて、まぁ、しょうがないという顔で、トモと俺は、その店に入った。制服なんかで来てしまって、本当にごめんなさいと俺が言うと、そんな恰好じゃ、お酒で乾杯もできないじゃない、せっかくのお祝いなのに、なんてことを軽く話すようになって、ちょっとホッとしていると、
 親子に見えるのかしらね、私たち
 とトモが笑い、それに対して、そんなことあるわけないじゃないか、と強く否定するのもおかしかったので、「まさか」とだけ、言った。
 そう言った後で、ハッと思った。俺が高校生だということで、引け目を感じていたのは、俺、だけではなく、トモも、だったのか。確かに、一線を引くという感じをいつも受けていた。俺は俺で、トモはトモで、なんというか、普通というのに、実は、たぶん、とても弱い。周囲からの目、その周囲の中にいる自分たち。肝心な二人の、距離とか気持ちというより、断然、周囲からの目の方が重要だった。距離感を計りながら、これ以上は、駄目だという気持ちがブレーキをかけていた。大学に受かって良かったね、といった後のトモは、ワインを飲んで、前菜を食べて、そして、先週の日曜日にお見合いをした、と言った。結婚しろ、結婚しろ、と実家がうるさいらしい。そんなこと、分かってるっていうのよね、と、トモは、またワインを飲んで、そのお見合いの結果、というのか、どうするのかを言わなかった。もう、慣れて来ちゃって、お見合いっていう雰囲気にも。だから、何の刺激も無いの、とも言っていた。
 コドモ ガ フタリ ハ ホシイ カラ アセッテイル
 あの日、あの授賞式の日に、役所の男と話していたトモの言葉を反芻する。この言葉は、俺の中にずっとあった。トモと、そういうことになるときは、なんというか、子供というか、結婚というか、とても、それは大きなことに繋がっていて、だけど、正直、俺には、それは歓迎というか、むしろ、トモが子供を欲しいなら、俺も欲しい。よく分からないまま、そんな風に思う俺もいたり、寝る前にちょっと考えたりすると、いやいや、どうやって子供なんて育てていくんだよ、と子供の自分を自制したりもした。
 都内に、住もうと思って。大学まで、ここからだと遠いし。
 トモの見合い話が一段落して、トモのお姉さんの子供、つまり甥の話になって、子供ってやっぱりかわいいという所まで話して、あ、ごめん、今日は、お祝いだもんね、と俺の方をやっと向いたので、一人暮らしをしようとしていると言った。代田橋に住もうとしているというと、トモは、つつじヶ丘という駅に住んでいたらしく、京王線沿いのことを色々話してくれた。その、どれもが、何一つピンと来ず、一人暮らしは楽しいよ、ということと、大変よ、ということを言って、そして軽く、遊びに行っちゃおっかな、と言い、もちろん、来てよ、と俺も大きく頷きながら、
 なんだか、コバルトも、普通の大学生になるんだね
 と、トモが言った。寂しい、とも言っていた。都内で、一人暮らしで、大学生をする。そんな普通。それに対して、残念だという声音と、俺は、普通に、ちゃんと、なっていくんだね、という、トモにしか分からない「何か」が交じったような、そんな言い方だった。
 俺は、代田橋に住むのを辞めた。
 片道一時間半かけて、実家から大学に通うことにした。その遠さを理由に、通わなくなる。そんな予想を覆したかったけど、実際に、一年生の夏休み前には、そうなってしまった。

 トモとは、大学に入ってすぐ、正式に付き合い始めた。だけど、基本的には、誰にも言っていない。地元の友達にはもちろん、大学で新しくできた友達にも、彼女はいる、とだけ言って、それがどんな子なのか、という質問は、いつも濁していた。だからか、コバルトには、妄想彼女がいるという噂があるようだった。
 トモとは、これまでのように休日になれば二人で東京のあちこちへ出かけ、平日は、なんと、彼女のオフィスでアルバイトをするようになった。トモは、自分が住んでいる部屋の近くにある、古い倉庫をモダンに改築した建物のデザインオフィスで働いていて、そこは、男女六人の小さな会社で、社長の意向、らしいが、これまで、ずっと、雑務をやってもらうアルバイトは、男性限定となっているらしかった。それも、若い、男性。条件は、PCが使えて、ちゃんと話ができること。コバルトが、顔合わせ程度の面接に行くと、時給の説明だけして、履歴書も不要で、即採用となった。その採用理由らしきことを社長がいったのが、モチベーションを上げてくれる、だった。後で、トモに聞くと、俺の、若さが眩しかったそうだ。
 社長は、結婚しているが、子供がいない。ご主人は、大手出版社の偉い人らしく、仕事が絶えず来るのは、どうもそれが関係しているらしい。正直、最初のうちは本当にお茶くみかコピー取り、せいぜい簡単なリスト作りをしていただけなので、トモの会社が実際のところ何をやっているかは、よく分からなかった。
 平日も週末も、一緒にいる時間が長いと言うことの善し悪しは色々あった。が、俺にはありがたかった。それは、トモは初めから自分の彼氏として俺を紹介しており、その年の差をいじられ、罪だと言われ、いつまで続くんだと言われながらも、何となく、みなさんに認めてもらえたようで、だから、俺のバイト時間が終わり、トモも残業が無いときは、二人でトモの部屋に行っても、それは何ら不思議ではなく、つまり、友達にも親にも言ってない二人の関係が、そこでは、とても自然に出来ることが、ありがたかった。
 大学二年になって アルバイトも一年が過ぎようとしていた。この頃になると、大学のあるときはバイトを入れず、無いときにはバイトを入れるというスタンスから、バイトが暇なときには大学に行って、忙しくなると大学に行かないという生活になっていた。トモとは、変わらずで、それは楽しく、普通に幸せだった。トモの部屋では、簡単な食事をして、お酒を飲み、そして、抱き合った。その一連の流れが、とても心地よかった。
 コバルトが二十歳になったら。それは、付き合い始めたときから、トモが口癖のように言っていたことだった。俺が二十歳になったら、もうちょっと堂々とできるかな、とか、なんか変わるかな、とか。俺には、変わると言う言葉が怖かったけど、今でも堂々としているし、何も変わらないよ、と言うのだけど、実際の所は、彼女の存在を相変わらず、友達や親には話していなかった。
 女には、時間制限のようなものがある。
 大学では、女子達が、ヤバイ、モウ、ハタチニ、ナッチャッタヨ〜、オバサンダヨー(ハハハ)と言っている。確かに、俺の中にも、カチカチと音を立てて、時間の経過が、なんかやばい、という感覚も少しある。二十歳になったのだから、十代のようにはいかない。そんな分母も少ないうちから、年齢というのは、多かれ少なかれ、焦燥をかきたてる。
 それと、これは、同じなのか? トモのいう、時間制限のようなものとは、俺や大学の女子達が言うのと同じなのか? いや、違うの、とトモは言った。一生のうちで、回数が、ね。決まっているの。女には、そういうのが、あるじゃない? と、トモは、俺に再確認をするような言い方をした。こういう時、俺はだいたい、うん・うんと頷く。それは、ジェネレーション・ギャップからくる不一致だと、トモに言われないための、とりあえずの防御策だった。ただ、何となく、女性にとっての回数というのは、俺が中学の時に噂になった、自慰しすぎると最後に赤い玉が出て、精子が出なくなる、というのを連想させた。

 俺の二十歳の誕生日。正確には、その前日、トモは、仕事が大詰めで、早くても夜の十一時にならないと仕事が終わらないらしく、先にトモの部屋で待っててくれと言われた。俺の二十歳になる瞬間を、午前0時を、一緒に迎えよう、と。そうやって、俺は、トモと一緒に二十歳になった。ワインを飲んだ。とてもビターなチョコレートの、二人でちょうどいいサイズの丸いケーキ。トモは、今日、新宿まで行って、有名なのだろう店でケーキを買ってきてくれた。クライアント先に、ちょうど行ったから。そのついでに、らしい。俺は、チョコレートケーキを食べる。そして、ワインを飲む。ちょうどいい。なんとも言えない、ビターな甘さと、赤の渋み。そんな風にトモが言うから、俺は、この何とも言えないちょうどいい感をそんな風に言うのか、と覚えた。
 トモは、俺に対する二十歳、と同程度、並列するようにして、自分の三十五歳を連呼した。私が二十歳の時は、という話から始めて、三十歳になると、結婚を焦りだして、ああ、いよいよ三十五歳かぁ。「で、今は、何に焦ってるの?」と、俺はいたずらっぽく笑って聞いた。
 コンドームなんて、しなくてもいいよ、子供ができたら、うれしいじゃん、一緒に育てていこうよ。俺が、いつも、トモとベッドにいるとき、言おうとしていた言葉だった。トモが焦っていること。それを俺の二十歳が、解決できるんじゃないかと期待もしていた。

 コドモ、カナ、ヤッパリ
 ごめんね、こんなこと言ったら、コバルトが変に気にしちゃうから、絶対に言っちゃ駄目だって、ミカたちにも言われるんだけど、やっぱり焦っちゃうの。オフィスで一緒に働くミカさん。そのミカさんとトモの会話。俺に、言っちゃ、ダメなこと。トモが、子供を欲しがっていて、それも二人は産みたくて、逆算すると、もう、産まなければいけない年齢で、それは、女性には、回数の制限のようなものがあるからで。分かっている。全部、分かっている。それを分かった上で、俺は、二十歳になった。いつも、俺が言おうとしていた言葉を口の中に転がしながら、ワインと一緒に飲み込んだ。
こども、作ろうよ
 俺は笑った。そしたら、トモも笑った。その晩、俺は二十歳になっていて、先に三十五歳になっていたトモと、抱き合った。避妊具は、つけなかった。

 夫は、コバルトの話を黙って聞いていた。黙りながら、何を考えているか。今日まで連れ添ってきて、それは手に取るように分かる、ような気がする。夫は、今、これまでのコバルトと、トモさんという方との過去を聞いているが、考えているのは、心配していると言った方がいいかもしれない、未来のことだ。これからのコバルトのこと。
 大学に通っている身でありながら、学生結婚。それも、子供を授かっているとなると、これからのことはどうするのか。私は、また皮算用する。結婚式、新居への引っ越し代、出産費用。諸々全部をトモさんと言う方と折半ということなれば、そのうちのコバルト分だけは、親として払わないといけない。学費と、その費用と。私は、頭の中で、そろばんをはじきながら、しかし、実感に乏しかった。孫、が、できた。そんな実感よりも、目の前にいる息子の、ことで精一杯だった。
 学校は。大学はどうするんだ、と、夫がコバルトに聞いている。
辞める。と言ったコバルトの言葉に、私はハッとした。エッと思った。直感にまた、ダメだっと思った。「って、言ったんだけど、トモに反対されて。卒業するまで、通うつもり」だとコバルトが続けて言ったので、ホッとした。
 夫も、どこか安堵したように思えた。しかし、そんなことで男としてどうなんだ、結婚というのはそういうことではない、親になるという重さを分かっているのか、と言葉を並べている。コバルトは、「ちゃんと、分かってるよ」と言いながら、(うるさいな、ったく)と、いう態度で、それは思春期の頃から、あまり変わらない彼らしい、子供の態度だった。男としてどうか、は分からない。が、結婚するということ、ましてや親になるということは、私自身も分かっていなかった。三十五歳にもなって、ようやく結婚した私にとっては、結婚、出産、子育ては、分かっていたし、理解したつもりでもいたが、ピンときたのは、ずっと後だ。それは現在進行形で進まなければ分からない。進んだ後、過去のこととしてピンと来て、後悔するのだ。その後悔を伝えなければならない。コバルトには、色んな事が、まだ伝えられていない。子育てをして、学校教育の最後、大学というゴールまで来たが、社会に出て、色んな事を伝えないといけないような気がする。これまでのように、教えることは少ないが、伝える事。それは、私自身、がどうだったか、ということ。経験。それを一番伝えて欲しい夫は、男として、結婚について、親になるということについて、を、なんだか、社会一般的なことでまとめてしまおうとしている。
 ダラダラと話す夫、それを黙って聞いているコバルト。だいたい、こういう時、他の事を考えている。コバルトの小さい時からの行動パターンだ。私は、夫が話す一般論を聞きながら、コバルトには、何か、別に、言いたいがある。それは、なんだろう、と考えていた。
 話し続ける夫。彼もまた、私と同じく三十五歳まで、独身だったのだ。詳しくは聞いてないが、それまでお付き合いした女性もいないと言っていた。私が、初めての相手、だ。そんなこと、もちろん嘘かも知れない。見た目は悪くない。むしろ、身長がある分、なんだかシュッとしても見える。だけど、女性とは、縁が無かったのか、縁を縁として理解出来ず逃したのか、そもそも、キャッチする気などなかったのか。その夫にとっての、結婚、出産、親になる、ということ。つまり夫の経験が、今、目の前で胡座を組んで座っている二十歳の息子に、刺さるのかというと、それは全く別次元のことのようにも思えた。
 だったら、いっそ、世間一般のことを話し聞かせる方がいい。うつむく息子は、改めて、まだ子供だ。それ(、、)なのに(、、、)、親になるのだ。〈分かっているのか〉〈分かってるよ〉という夫とコバルトの会話を思い返して、「分かるはずが、ないよ」と、私は思った。私も、解ってなどいなかった。
 母さんはどう思う? と聞いた夫の言葉だけがぷかぷか浮かび、私はうまく言葉にできず、そうねぇ、といったきりだった。沈黙。それは、三人ともが、何かを言いたいが、言えないという、変な緊張感に包まれているような。その雰囲気を作っていたのは、コバルトだと私は思った。彼は、何かを私たちに言いたい。だけど、それが言えていない。
 続く沈黙。夫は、もう、それを埋めようとしない。私は、コバルトの結婚後のことを想像して、ということは、私は夫と二人になるのか、ということも少し思って、考えてみれば、結婚してすぐにコバルトが産まれたので、ふたりでの生活はなかったな、なんてことを考えていた。
 あのぉ。
 彼女ぐらい、いるよ。高校生のコバルトに、彼女もいないのか? と夫が軽く聞いた夕食の後の、あの時のコバルトの声を思い出していた。
 あのぁ、さ。
 夫は何を考えているんだろう。ま、とにかく相手の方に会わせなさい、話しはそれからだ、みたいなことを考えているのではないだろうかと心配になり、夫なら、そんな風には思わないだろうな、と思いつつ、話は、もう済んでいる、のだ。これは相談ではなく、報告なのだ。コバルトが、そう言ったのだ。
 お願いが、あるんだけど。
 とても言いにくそうな、コバルト。さっきから、なかなか話し出さない。なんだ? と、いつもの夫ならさっさと聞き出しているところ、夫も黙ったままだ。学費だけ、これまでのように、卒業まで払ってもらえないか。コバルトが、とても言いにくそうに「お願い」したことは、それだった。私は、そんなことか、と思った。夫も、「そんなことは、心配しなくてもいい」といった。学費を払うのは、もう決めていたことだ。そこに、どれだけの費用が上乗せされるのか。私が心配していたのは、むしろそちらの方だ。コバルトは、学費さえ、払ってもらえるなら、後は自分たちでやっていけると、言う。私は、コバルトを見る。コバルトを見るようで、彼の後ろにいるトモさんという方を見ている。「学費をこのまま、払って欲しい」ということを(そんな、当たり前のことを)こんなに言いにくそうに、緊張しながら、お願いしてくるなんて、コバルトではない。それは、彼の言葉ではない。確実に、トモさんという方の言葉だ。
 二人で、いや、三十五歳だというトモさんが主になって考えた「これからの夫婦生活」で、どうしてもカバー仕切れなかったコバルトの学費。だからといって、ここで大学を辞めさせるわけにもいかず。トモさんの、苦渋の決断というところだろうか。いや、二十歳のコバルトと比較して、三十五歳のトモさんを想像しているが、実際に、三十五歳で結婚した時、私の場合、まだまだ子供だった。親にも頼っていた。学費を払い続けて欲しいということが、自分たちが不甲斐なくて、お恥ずかしい話、ではなかったはずだ。トモさんという方は、一体、どんな人なんだろう。そんな肝心なことに、ようやく気持ちが回るようになっていた。

 なかなか、話し出そうとしないトモの前で、俺は、レモンスカッシュを飲む。
 レモン、スカッシュ。スカッとして、シュワッとするから、スカッシュかと思っていたら、ぎゅうっと押しつぶすからであり、スカッシュに、ソーダのシュワシュワ感を示す意味はないそうだ。俺は、そんなことをスマホで調べている。
 トモは、まだ話さない。話し始めようともしていない。そんなことはよくある。俺は、手持ちぶさたになって、スマホの検索窓に、今度は「トモ」と打ってみた。どかの会社の名前がずらっと並んで、その次に居酒屋、スクロールしていくとお笑い芸人も出てきた。「検索のトップに出てくるための戦略」なんてことを、この間のミーティングで社長が言っていた。お金を出して広告サイトにしてしまうと、スルーして飛ばされてしまう。だから、どうするのがいいか。どんな言葉がハマるか。トモたちデザイナーとは別に、コピーライトと編集を担当している二人が、うんうんと唸りながら話す場に、バイトの俺も参加した。それは、俺がインデザインが使えないからで、かといって、それほど雑用もないからで、イマ、ヒマ? ナラ、イッショニ、カンガエテミル? と、誘ってくれるからだ。編集の月島さんは、優しい。とても温和な方だ。おじさんだが、若い。そして、俺なんかよりも、新しい。それは、敏感だということになるんだと社長が言っていた。検索エンジンの会社が、何かしらのルールで並べている検索結果の順。それを上げるためには。どうしいたらいいか。そんな答えも結論もない話し合いの中から、ふと出てくるモノが、今度プレゼンをするコンセプトのようなものになったりするから、面白い。
 先日のミーティングでもこんなことがあった。これがあったら、もっと楽しく過ごせるってだけの商品ですからね。必要性に駆られないというか。そういう商品って、なんか、やっぱり、どこかわざとらしくなりますよね。コピーライターの圭太さんが言って、うんうんと煮詰まって、そんなときにふと、嗜好品だから、広告するんですよね? と俺がつぶやいたら、圭太さんが、必需品でも広告はいるだろうと言い、確かにそうだな、と思う反面、そもそも、広告して買ってもらおうとする時点で、それはもはや必需品ではないんじゃないか? とも思えてきて、沈黙する時間、俺は、広告するイコールわざとらしいノットイコー―ル必需品。ニアリーイコールで、損得勘定。みたいなことを考えていると、生きていく上で必要なものとそうでないものはなくて、存在した時点で何かしら必要だからで、それが存在し続けることは、意味を持っている、という月島さんの話で。イコール、ノットイコールなんて考えていたので、話の変わり目を聞き逃したが、おそらく、嗜好品だの必需品だのというのは、広告に関係ないというような話になって、存在していることに意味あり、となったのだろう、と俺は想像する。
 生きている以上、必要。それらは全て、死んだら不要か? と圭太さんが投げかけて、また沈黙する。残された者には必要でも、死んだ者にとってはどれも不要だろう、と月島さんが言って、生きる、死ぬ、に話が変わり始める。生きているから、買う。買おうとする物には、存在するだけで意味がある。「生きていくって、やっぱ、なんていうか責任ですよね」と、圭太さんが言って、お前のつぶやきやには、いつも言葉が足りないと、月島さんが指摘する。助詞だの接続詞だのという言葉の欠如ではなく、主語や目的語がない圭太さんのつぶやき、〈生きていくって、責任ですよね?〉。
 「何の、責任なんだ」と月島さん。「いや、もう、それは全部ですよ」と圭太さん。曰く、子供や家族を守るために生きる、というわかりやすい責任から始まって、生きなければならないという重みは、子供にとっても、親を悲しませないため、ネコならご主人様を癒やすため、消しゴムは間違いを消すため、デジタルサイネージはエコと多様性のため。存在する、し続けるには、責任があるんだぞ、わかったか、コバルト! と、圭太さんは、俺をオチに使って、話しを切り上げた。ぼんやり、ただ、なんとなく生きている俺が、学生なんて立場が、心の底から羨ましいといった圭太さんの言葉を、俺は、なかなか話し出そうとしないトモの前で思い出していた。

 できたみたいなの、あかちゃん

 トモが絞り出した言葉は、なんとも形容しがたい声音だった。そして、やっと絞り出した一言の後は、間を置かず、流れ出すようにしゃべった。生理が遅れていて、割とちゃんと来る方だったからおかしいなとは思ったけど、しばらく待ってみて、それでもやっぱり、遅れすぎだなと思って。もしかしたら、変な病気になったかもしれないなと思ったけど、念のために、と薬局で、〈うまれてはじめてだから、ぷるぷるとふるえた〉手で取って買った妊娠検査薬で、できてる。って分かった、の。
 そこまで言って、トモは、自分が嬉しかったとも、びっくりしたとも言わず、どうしよう、どうしよう、ばかりを繰り返していた。俺に意見を言わせないつもりなのか、と目の前のトモを見る。違う。一番、聞きたがっているだろう俺の意見を怖がっているのか。意見よりも先の、俺の反応。子供が出来たと聞いたときの男の反応。女にとって、目の前のトモにとって、それではかる重さや広さや深さがあるのだろう。
 俺は、まず、子供ができたと聞いて、どんな反応をしたのかを思い返していた。それを見て、目の前のトモはどう思ったのか。不思議なことに、俺はそんな事を考えていた。この、今の沈黙。刻々とカウントダウンするように、何かに向けて、それはおそらく壮大で、大変で、宇宙で、これから先の期間が、〈卒業〉までという区切りのあるものではなく、俺は、頭の中で色々考えて、ごちゃごちゃになって、だけど、何か、言わなければならないというデッドラインが確実に来ていて、トモに、子供が、出来た。それで、俺は、何かを言わなければいけない。
 堤防の下の、草のボウボウの、そこを必死で走ってあっちへ抜け出したいと思っていた小学生の頃、俺は、よく服にくっついてくる草を一つ一つ丁寧に取っていた。どうせまたくっつくのに、くっついたって分かると、取らずにはいられなかった。どうせ、また付くんだから、最後にまとめて取ればいいじゃないか。あの時、一緒にいたはずのない父の、あの頃の若い父の、声がする。下から、いつも見上げていた角度の父。

 コバルトは、どう、思う?

 沈黙を破ったのは、トモだった。デッドラインが来た。俺には、父と母がいて、トモは俺の彼女で、そして今、問われているのは、俺が、トモに子供が出来たことについて、どう、思うか、ということで。それらを整理して、はやく、何かを言わなければ、またトモに何かを言わせてしまう。

 うーん。よくわからない、ごめん。

 我ながら、最低の応えだった。
 謝らないでよ、とトモが、少し声を荒げて言ったのも当然だった。ごめん、俺は、また謝った。子供ができたことについて、どう思うかを答える問いは、おそらくテストの中でも主要なポイントで、配点の高い問題だろう。俺がどう思うか。それは、ストレートな言葉を求めているのに、なんて答えるのがトモにとって正解なのかと考える俺。この、ちぐはぐな沈黙の時間。それをお互いが分かっていると、俺には思えた。
 よくわからない。やっぱりそれしか出てこなかった。今のこの状況で、適切な単語。これから先のこと。トモに子供が出来て、これからの俺たちのこと。嬉しい、悲しい、楽しい、幸せ、やったぁ、ほんとかよ、と、浮かんでは消える言葉を消去してゆく。突然、トモから告げられた俺は、それがどういう意味か分からなかった。とてもシンプルで、簡単なことなのに、ひらがなばかりで書かれた文なのに、理解できなかった。ちょっと経って、子供が出来たと言うことは、結婚する。ということは、俺は大学に行っている場合ではなくて、働かなければならなくて、と、自分のこれからが浮かんできて、考えることが出来るようになってきた。
 トモは、どうするのだろう。この間、デザイナーの一人、岡本さんが産休に入ったばかりだ。小さな事務所の少数精鋭の会社で、二人も同時に産休・育休は厳しいだろうな、と俺はあくまでも他人事で、アルバイト先のことを心配したり、いや、トモのことを考える。トモは、気持ちよく長期休暇へ送り出してもらえるだろうか、会社を辞めてしまうのだろうか。会社にとっては、痛手だろうな、と思った。月島さんや圭太さんは、岡本さんが産休に入ると言った時、新しく代わりのデザイナーも雇えない、と嘆いていた。こんな小さいとこで、産休は正直いって、残されるた方がきつい。そんな二人の言葉が、トモに向けられる、トモの知らないところで、トモには笑顔でおめでとう、と言っておきながら。
 妊娠を突然告げられてから、時間の経過とともに、色んなことが見えてきた。俯瞰できるようになった。うれしい。この大事な言葉をトモに伝え忘れていることも含め、俺は、俺の不甲斐なさをかみしめて、うれしいと伝えるタイミングをはかっていた。
 子供ができて、うれしい。それはトモの願いだった。俺は、これから、どうなるのか、が分からない。どうすべきなのかも、正直よく分からない。うれしいか、というのすら、ピンと来ていない。トモは子供を欲しがっていて、それには時間制限があって、だから焦っていて。そんなこと、あの授賞式の時から俺は知っていた。だから、俺は、トモの時間制限に合わせて、どこか焦っていて、それが、一つ解消された。本当のことを言うと、トモに子供ができたことに、俺は、ホッとしていた。それが一番しっくり来る気持ちだった。
 俺は、心のどこかで、トモの願いを叶えるのは、俺ではない誰かじゃないか、と思ったこともある。先延ばしにはできないこと。それを叶えられる条件みたいなものが、俺には不足していること。だから、俺ではない、と。トモが四十になるまでには子供を作る。俺が勝手に引いていたラインだ。俺が大学を卒業して、就職して、三年ほど経って、その時までには。色々調べると、四十歳での初産は、そんなに珍しくない。その時までには、子供を作る。二人は欲しいというトモの気持を考えると、その後、間を置かずに二人目を作ることになるが、不可能ではないはずだ。なんとか、その時までには。
 俺は、あまり深く考えていなかったけど、やはり、子供をつくる使命のようなものを感じており、それはトモにとって、ふさわしい相手になる条件だと思っていた。トモが四十歳になるまでには、欲しい。そう考える時にはいつも、なぜか、それまでには出来ないことが前提だった。大学の学食で、男友人としゃべっている「できてしまったら、どうしよう」とか、「できないために、こうしよう」という感覚からは、かけ離れていた。俺の、相手の年齢。これを気にしないとは言っているし、実際、普段トモと会っているときに十五歳差を考えたこともない。これは本当だ。ただ、トモと付き合っていることは、誰にも言えなかった。それは、俺と、トモ、を見るんじゃなくて、勝手に、十五歳差のカップルを珍しがるだけだからだ。
 コバルト。学生。まだ。はやい。負担。だけど。だから。これから。二人のこと。色々。私だけじゃ、決められない。確かに。よくわからなよね。私も。コバルトは。
 トモは、独り言のような小ささで、ぼそぼそと話していて、「え? なに?」と、俺が聞きかえすことが出来ない雰囲気で、それに、俺は俺で、頭の中の交通整理をしていた。ブツ切りに聞こえてくるトモの言葉を聞き流しながら、自分の中の整理を。

 私、生みたいの。

 そこへ、スパンと、トモの一言が入ってきた。俺は、咄嗟に、しまった、とも思った。トモが、子供を生むという、そんな当たり前のことを言うために、いつもとは違う、とても小さな声で、色々と、言葉を並べていたのだ。
 申し訳なくなった。それは、俺の年齢からくる不足の数々が原因で、〈今後のことを考えると、よく分からないとこがいっぱいあるけど〉それは、別にして、生みたいと言っているのだ。こればっかりは、二人のことだから、私だけじゃ決められないことでしょ、と。その根本的なこと、子供を生もうという回答をまず言うべきだった。その後の、色んなことについて、よく分からない、と言うべきだった。
 俺は、俺は、俺は、と何度も、根本的なことを伝えようとする。トモは、なんだか、そのチャンスを俺に与えないように、ため息をついたりしている。うれしいはずなのに。子供が欲しいと、あんなに言っていたのに。相手が、俺だから、俺なんかだから、トモは迷っている。そして、とても困っている。俺は、子供が欲しい。そう、言わなければ。トモをぼんやり眺めながら、ふと、俺は、子供が欲しいと言い切れるのだろうか、と思った。
 これまで、子供は「作らなければならないもの」だと思ってきたけど、俺は、実際に、どうなんだろう、と自問する。二十歳で、学生で、今、か? 子供。自分の息子もしくは娘。いやいや、その前にトモが妻で、俺が夫。夫婦。結婚すら、まったくイメージ出来ずにいるのに、普通は、その後のことだ。親となる自分は、きっと、夫婦という関係を先に安定させて、そして、責任ある子育てへとステップアップしていける。何となく、俺の中にある「順序」。トモには、トモの順序や時間制限があって、確かに、これまで、トモの時間軸で考えていたが、俺にとっては、どうか。
 この時、トモに子供が出来たと聞いて、彼女は、俺に、喜んで欲しかったのだろう。そして、〈これからのことは、ゆっくり考えていくとして、とにかく、やったね、うれしいよ。俺も、父親かぁ、自覚は全くないけど、がんばるよ。二人で頑張っていこう〉という、満点の反応を待っていたのだろう。いや、そこまでうまく行くとは思っていなかっただろうけど、この目の前のトモの煮え切らない表情を見ていると、それは、予想していたよりも、俺の反応が悪かったのだということは分かった。反応が鈍く、思った以上に、何か。こう、違う、感じ。俺にもそこはよく分からないが、とにかく、こんなトモの表情は、見たことがなかった。
 トモにとっては、相手が二十歳で、学生で、仕事先のバイトの男の子で、十五歳の年の差があって、それで、子供が出来た、ということを相手に言っても、無条件には喜べないという想像はある程度ついていただろう。が、そこは、まだ二十歳で、何も知らない俺ぐらいは、せめて、無邪気に喜ぶべきだったのだろうか。そんなことを考えていると、ふと、結婚って、なんだろう、とも思えてきた。俺は、トモが好きだ。トモも俺のことを好きでいてくれる。だから、二人は結婚をして、子供を生む。とても自然な流れの中に、何か、こう、決定的な「ダメ」があるように、俺たちは、お互い口には出さないが、そう思っていた。

 親に、聞いてみないと

 俺は、俺の口から、まったく考えもしなかった言葉が出て、驚いた。驚いて、すぐに、いや、あの、その、別に親がどうとかは関係ないんだけど、やっぱり、こういうことは一応、まぁ言ってから、許可、っていうか、そういうのもいるのかな、とも思うし。俺も二十歳だし、もう大人なんだけど、まだ学生だし、働いてないわけで。
 のらりくらりと、俺は、口をついて出た「親」という言葉の説明をしながら、自分の「子」という立場を否定しようとしていた。しかし、結果的には、自分は未だ子供だから、子供を育てることなんかできるだろうか、という話の主旨になってしまい、トモは、黙って聞いていた。何も言わず、うつむいていた。黙る、トモを、じっと見てると、しかも、俺が〈まだ学生なので、育てる自信なんてない〉というようなことを、結果的にそうなってしまったといえど、言ったのに、それでも、ただただ黙られると、もしかすると、トモは、彼女は、一人でも産むということが言いたいのだろうか、とも思えてきた。
 俺と結婚しなくてもいい。だけど、子供は絶対に欲しい。沈黙は、トモのそんな言葉に変わっていった。俺は、なぜか、そこに俺がいないことに、腹立たしさを感じた。好きな人と出会って、結婚して、子供ができる。その順番にばかり固執していた俺。トモにとって、そんな俺は、端から論外にあった、ということなんだろうか。「コバルトとのあかちゃんができたみたいだけど、コバルトはどう思う? 私が一人で産んで育てるけど、それで、いいよね?」。トモは、そんな確認を、俺に取ろうとしているのだろうか。
 財力の無さ、器の小ささ、まだまだコドモなところ。トモがこれまで言ってきて、俺は、だから、俺でいいんだ、と思っていたことが、全部、真逆に感じるようにもなってくる。〈お金なんて、どれだけあっても、無い、無いって嘆くものだから、私は、別に、お金持ちになりたい、って思ったことはない〉、〈絶対に、どこかで無理をしてる気がするのよね。器の大きい人なんて言っても、みんな嫌な時は嫌だし、やっぱり誰でもわがままだと思うし。言っておくけど、私は器が小さいからね。だから、同じぐらい、小さい人の方が、私には合うと思うの〉、〈人生、長く生きてれば、確実に経験値が上がるから、色々と役に立つかも知れないけど、それって、結局、時間さえ経てば同じところに行けるんだよね? 私はそういうんじゃなくて、なんていったらいいのか、例えば、私が高校生の時、コバルトが書いてたような、あんな作文が書けるかな、とか考えていると、やっぱり素直に凄いな、って思う〉。
 まだ、トモは黙っている。俺も黙っているように見えているのだろう。頭でも心でも、身体の中のほぼ全てのところが、こんなにもざわつき、こんなにも色々と考え、震え、流れ、逆流しつつ動いているのに。外見上、黙っている。トモと同じようにうつむきながら。トモも、考えているのだろう。俺と同じように、身体のほとんど全ての箇所を使って。お互いが、外に出さず、内で激動している「静寂」。
 周りの客の声も、コーヒーを混ぜる音も、店内に流れる音楽も、なにも聞こえない。沈黙。この沈黙が重い。そして、痛い。

 ごめんね

 トモは、ぽつりとそう言って、そして涙が、すーっと、流れた。
俺の中のほとんど全ての箇所が、それを見て、一瞬にして止まり、凍り付くように、涙が流れるのを見ていた。まるで、スローモーション。涙が顎を伝って、下へぽとんと落ちるまで、俺は、何も考えていなかった。考えられなかった。
 俺は、レモンスカッシュを飲む。氷が溶けて、かなり薄くなっていた。
 トモの、ごめんと涙をこの時初めて見た、それも同時に一緒に。ごくごくと喉に流し込んだ薄くなったレモンスカッシュが、喉を全部通り過ぎたのを確認してから、俺は、俺の口から出てくる言葉に身を任せようとおもった。上手く言えないけど、そういうことが、俺には何度かある。特に、重要な局面で、それは多い。やけくそになっているわけでもない。サイコロ任せにしているわけでもない。考えて、考えて、それで、ふと出てくる言葉。それには、考えて、考えて、という身体の中の動きがいる。その結果、出てくる答えのような、俺自身の、「これから」。俺は、言葉少なめに、数分か話し、目の前のトモは、それを黙って聞き、さっきまでと違うのは、うつむかず、俺の方を向いており、それは俺が話しているからで、中でいろいろと思っているだけではない、なんというか、全部を知って、それを考えて、そして、出し切っているという証拠で、その言葉をトモがどう判断するか。
 トモは、俺の話を聞いて、涙を止めた。
 それは、彼女らしいというか、ハンカチで拭うのではなく、両手で顔全体を隠し、そして、勢いよく、両指で両目を引っ張り出すように、涙を止めた。そして、ありがとう、といった。これから、がんばろうね、とも言った。私は単純に嬉しいといい、コバルトに出会えたことに感謝するといい、こどもを授かったことが奇跡だといい、絶対に、幸せにしてみせると、お腹をさすった。
 俺は、その一つひとつに頷いた。強く、頷いた。同感、アグリー、イエッサーにウィームッシュ。とにかく、その通りだと思った。腹をくくった。トモは、最後にそう言った。俺も、この言葉にだけは、言葉に出して、「俺も、腹、くくった」と言った。
 トモは、俺に抱きつき、俺はトモと、トモのお腹の子に抱きついているんだと、この時、全然実感もないのに、なぜか絵的に、とても表面的にそんな風に思った。抱きついて、トモは、泣いていた。声に出さず、震えるように。嬉しいのだと、俺はすぐに分かった。そんな彼女に、俺は、嬉しいよ、すっごく、とつぶやくと、トモは大きく頷いた。
 しばらく経って、席を立とうとしたとき、ちなみに、と前置きして、トモは〈ふたりだからね、私のこども、じゃなくて、ふたりのこどもだからね〉と言った。
 俺は、ハッとして、自分がずっと、トモの子供、トモのコドモ、と言っていたことに気づいた。そう、ふたりの、子供なのだ。
 わかりきっていることだけど、自分で、俺とトモの子供、と浮かべてみると、初めて実感のようなものが、湧いてきた。

 これからのことをゆっくり考える上で、俺とトモの間で、重要とすることの不一致がいくつか見られ、その度に衝突した。住む所、トモの仕事、産休・育休、子供の名前、出産費用、これからの家計、結婚式、ハネムーン。色々と、毎日のように話しながら、詰めていた。両家へのご挨拶については、編集の月島さんに言われるまで、俺もトモも考えてもいなかった。マナーや一般常識の乏しい俺たちは、月島さんに根掘り葉掘り教えてもらった。
 中でも一番衝突したことは、俺の大学だった。俺は、当然、中退して働こうとしていたが、トモは、卒業するようにと引かなかった。確かに、学歴社会でもなければ、大卒だからといって、なんら優遇されることはないかも知れない。しかも、俺にとって大学での勉強は、興味のすごくあることでもない。それでも、とトモは言う。大学に入ったら卒業するのは容易いのに、みすみすそれを捨てることはない、と。専門学校しか出てないトモは、普通のOLになりたかったのに、それが難しかったと振り返る。十五年前のことだから、今とは違う、けど、と言いながら。結局、俺は、子供を授かって父親になるけど、まだ親のスネをかじる学生で、子供で、そんな自分が嫌だったから、俺は働くと言って引かず。
 この衝突は、尾を引いた。あと二年、俺が学生か、社会人かという違いは、俺とトモと生まれてくる子供の将来から見れば、そんな始まりの二年なんてたいしたことではない。将来のために俺が働いて、家族を養い続けるためには、ここで慌ててバイトのような仕事に就くよりも、大学を出て、しっかり正社員で雇われた方がいい。これは、トモの一貫した考えただった。俺は、子供ができるまでとは、全然違うトモの考え方や話し方に、時々苛々したけど、たぶん、全部正解で、だからこそ、余計に俺の無力さを助長させていった。そんな日が一週間、二週間と続いた。
 俺が学生のままでいるか否か。その話し合いの中で、論点は「お金」をどうするんだ、ということになった。トモは、自分の貯金を切り崩しながら、生活費はなんとかするしかないと言う。だけど、俺の学費までは、さすがに払えない。学費が払えないなら、すぐにでも働かないとダメだと俺は主張した。その繰り返しただった。
 俺の大学では、就活の話が二年生から話題に上っていた。インターンでほぼ決まるから、大学二年から、実際に「社会」にアクセスしないと不利なのだ。そんな就活の話の中で、一番はじめの会社は、あくまでも社会経験のため。その会社で、定年まで何十年間も働くやつなんて、ほとんどいないし、定年までずっと働きたいと考えているやつなんて化石だった。ちゃんと卒業して、ちゃんと就職する。そんな風に考えるのは、大学に行ったことのないトモの幻想だ。俺は、何をしててでも、しっかりと家族を守る。そう思っていた。トモが貯めてきたお金は、そのまま置いておきたかった。
 そんなことを言う俺に、トモは、一ヶ月、どれだけのお金がかかるのかをリストにして、示す。小さなデザインオフィスに勤めるトモが、出産と育児の間に給料がでることはない。そんな、一つ一つの福利構成的な面でも、俺には、だから大きな企業に入って欲しいとも言っていた。言葉は分かる、その気持ちや仕組みも理解出来る、が、トモのいうことは、どれもピンとこなかった。
 お金の問題は、トモが、トモの実家に何らかの援助を受けると言うことで話がすすんでいるようで、俺には、このまま俺の両親に学費を払ってもらえるかどうか訊いて欲しいということだけだった。俺は、大学に行き、大学のないときにはバイトをして、そのバイト先ではトモが働いていて、結構、みんな忙しくて、この小さな会社の中で、今、すぐに消えてしまって、一番困らないのは明らかに俺で、そんな俺が、父親になる。なれる、のか。大丈夫か? くくった腹が、内の方からキュルキュルと鳴りだし、痛かった。お腹が痛くて、眠れない夜も、何日かあった。
 トモとは、俺の大学のこと以外、話もまとまり、まずは、引っ越すことになった。
 トモが今住んでいるところでは、ゆくゆく三人が住むことは出来ない。サイドエリアにある古い民家をリノベーションした一軒家。家賃は、想定していたより少し高いが、立地、内装、部屋の数など、二人の理想に近いところが気に入った。
 まずは、俺が、俺の両親に話さなければならない。何も知らないことを俺よりもトモの方が気に病んでいた。一緒に行こうか、と何度も言われたが、俺はそれを断った。とりあえずは、結婚すること、子供が出来たこと、トモが安定期の間に、引っ越しすること。それらだけは報告しないといけない。俺、ひとりで。俺の、問題として。それからのことは、二人でしっかりと報告していけばいい。最初は、まず、俺だけで。

 あの夜、俺の話を聞いている間も、聞き終わってからも、母は何も言わなかった。父が、いつになく話し続けて、それを聞きながら、俺は、ずっと、母が何を考えているのか、どう思っているのかを心配していた。
 父が話せば話すほど、俺が応えれば応えるほど、話しの流れが違う方へ進んで、もともと俺が言おうとしていたことが、半分も言えないまま、つまりは、トモとのこととか、もっとちゃんと、色々考えていて、だから、心配っていうか、そういうのは不要だということを言いたかったのに、俺は、なぜか、あれもこれも全部を言おうとして、その順番とかを考えるうちに、こんがらがって、なんだか、最後に、学費のことを話した。
 大学にこのまま行く。それは、両親を前にして報告しようとした時点でも、決めていなかった。俺は、すぐにでも働こうと、心のどこからで、まだ少しは思っていた。だけど、俺の大学が、卒業することが、そのための学費が、トモにとって、一番の気がかりであることは明らかで、俺は、この時、それを払拭したかった。学費を払ってもらうなんて事は、正直言って、当たり前だと思っていた。それをこんなにもトモが気にすることが、最初は、なんていうか「すごいな」と思った。でも、色々と、俺の大学卒業が、イコール学費をどうするんだという所に焦点が向かうと、確かに、それを払うのは、トモと俺では厳しい。もし、万が一、両親が結婚に反対で、学費も払わない、親子の縁を切るというようなことに発展したら、行き止まりだ。だから、そんなことは99・99パーセントないとは思っていたが、絶対は、ない。だから、変に緊張した。

 目の前のコバルト、そして妻。妻は、わたしにとって、ずっとコバルトの母親という存在だった。結婚して、すぐに子供ができ、だから、始めから母親として見てきた。
 妻がどうだったのかは分からないが、わたしがそうなのだから、妻も近いものだろう。わたしが、二十歳の時。つまり、目の前のコバルトと同じ歳の頃。女性は遠い存在で、誰かと恋人同士になるなど、別世界の話だった。ましてや子供ができるとは。わたしは、コバルトも、わたしと同じく奥手で、三十を超えても結婚しないと思っていただけに、正直、びっくりすると同時に、やるな、とも思った。
 とはいえ、まだまだガキのコバルトに、子供は育てられない。お相手の女性に迷惑がかかる。が、その相手が三十五歳ということは、これは、本物の結婚か? というところも怪しくなってきたりもした。本物の結婚がどういうものか、私の中では明確だ。愛し、愛された結果のもの。子供という存在は、そこをあやふやにする。子供、が、理由になったりするからだ。わたしたちの場合もそうだった。
 コバルトの場合は、その相手の女性を愛し、その女性は、コバルトを愛しているのか。本当に、本物として?
 今はいい。大人の女性として、コバルトの周りにはなかなか居ない相手として、憧れるように好きなんだろう。しかし十年後。コバルトが三十前後になり、お金にもそれなりの余裕が出て、社会という舞台でしっかりと立てるようになったら、そうなったとしても、コバルトは、その女性と子供を今と変わらず愛することはできるだろうか。わたしは、直接的なことはできるだけ言わないようにして、社会生活の色んなことを色んな側面から彼に伝えようとした。
 分かっている、とコバルトが応える度に、なんとも言いようのない不安が浮かんだ。ぶくぶくと、それらはまるで、コバルトがわたしの話を吸い、分かっていると吐くごとに、発生する水泡のようだった。
 妻は、何も言わず、おそらくは必死で、コバルトの味方になろうと、努力しているようだった。そういう彼女の気持ちは、長く連れ添ってきただけに、手に取るように分かる。そして、コバルトは、いつもと違う母の態度を見て、少し心配になってきているのだろう。
 ここにいる三人が、同じ空間にいるのに、違う次元で向き合っているような変な感覚。わたしは、コバルトの言う、相談ではなく報告だという言葉をずっと気にしていた。相談してほしかった。引っ越す先も、日にちもすでに決まっている。子供の出産予定日から逆算して、いろんな事を行い、結婚式もハネムーンも、とにかくいろんなことが落ち着いてから。だから、大丈夫、というコバルトの説明は、なるほどそうだろうな、とは思うが、なんというか、そこにたどり着くまでに、共有したかった。間違いなく、妻もそう思っているはずだ。
 相手の女性とも会って、どんな方なのか、どうしていけばいいのか、二人がふたりだけで頑張らないといけないもの、わたしたちが助けなければいけないもの。そんな一つひとつを一緒に決めたかった。
 わたしの時は、妻もわたしも三十五歳。人生の中で、ほとんどのことは済ませていた。やりたいことにチャレンジして、それに失敗して、だけどそこで得るものもあり。なんというか、酸いも甘いもじゃないが、やり残した感は、あまりなかった。だから、わたしらの両親には、結果を報告した。それまでの人生における様々なイベントと同じような感覚で、結婚する、子供ができた、と。だから、いついつから、どこどこに住む。結婚式をするから、来てください、と。コバルトは、まだ学生なのだ。せめて、相談ぐらいは、して欲しかった。相談してくれたなら、これだけは言ってやりたかったのに。
 結婚、子育て、家族を持つということに、付いて回る自分の中の犠牲。そこに調整弁のようなものを用意する余裕は、二十歳のコバルトには、まだ無いだろう。
 一つひとつを「やらなければならないこと」と受け止めて、必死で頑張るのだろう。その毎日の、ちょっとしたことの全てを、我慢しなければいいが、とわたしは思う。勝手に我慢して、頑張って、都合良く、それらをある日、突然爆発させて、全部をゼロにしなければいいが。
 自分の息子だから、分かる。コバルトが、幼稚園の頃から、瓜二つだと言われた外見だけでなく、考え方も、わたしに非常に近いから、なおさら心配になる。
 遠回しに言うつもりはない。が、一つのことを言おうとすると、それを経験していないコバルトには、背景まで説明しなければならず、だから、ダラダラと話してしまうことにもなった。コバルトは、目の前で、こうやって、胡座を組んだ右の太ももをぶらぶらと動かし、いらいらしているような態度になるのだ。
 大学のこと。まず、わたしが一番気になったところは、どうやら、なんとかなりそうだ。学費の心配をする辺りが、これまでのコバルトなら皆無なのだが、少しは自覚がでたところかもしれない。歳がいってからの、一人息子であるコバルト。そんな彼が、知らず知らずのうちに持っていた当たり前という感覚。それも、自分が親になったということで、少しは改善されたのだろうか。

 コバルトを授かった時のわたしを思い出してみる。思い出したところで、二十歳の彼と、当時三十五歳だったわたしでは、何もかもが違う。ましてや、わたしには、父親がいなかった。父親が、こういうとき、息子になんていうのか。記憶の隅っこにもないのだ。だから、完全にオリジナルだし、比較のしようがない。
 わたしが中学に上がる前、両輪は離婚した。
 原因が何かを兄も弟もしつこく聞いていたが、わたしには、どうでもよかった。それが、結果だということがわかったからだ。結果だけ突きつけられ、相談されない。その悲しさやむなしさを感じながらも、〈パパとは不一致だったの〉という母の言葉だけが頭に残っている。その後、親兄弟など、関係が近ければ近いほど、わたしには皆、相談ではなく結果の報告をしてきた。
 わたしは、だから、母一人の手で、兄弟三人と一緒に育てられた。兄は、大学に行かず、地元の工務店で働きながら二十三歳で結婚した。子供が三人いる。二つ下の弟も、二十八歳で結婚し、転勤先の大阪で暮らしていた。三人の息子のうち、ふたりが片付き、ホッとしたのか、母は病気がちになって、兄の家の近くの施設に入っていた。
 そんなとき、結婚はまだか、すら言われなくなっていた頃に、わたしはようやく結婚すると決めた。報告は、兄にだけ、メールで伝えた。兄が、おそらくは親戚中に伝えてくれたらしく、酒好きで、酒癖の悪い親戚のおじさんから、突然電話が来て、夜遅くまで説教のような祝いのような話をされ、正直参った。
 わたしにとっての家族。それは、出て行った父も、残った母も、兄も弟も、なんというか、同距離であるし、父が他人になった日から、なんとなく、他の家族も他人のようになったという感じがする。兄は、長男として、父親代わりも買って出たのだろが、それは、わたしには知ったことではなかった。兄も、わたしのことを分かっており、何の協力要請もなかったし、相談事や愚痴のようなものは、弟に言っていたようだった。わたしは、三兄弟の中で、最後に名前の挙がるような存在で、ええっと、ほら、もう一人、何君だっけ、いますよね、ご兄弟、という、そんな感じで、わたしは、確実に、そこ(、、)に定住していたと言える。
 独りぼっちだということを悲しがる感覚すらない独り。それが、家族の中での、わたしだった。
 コバルトは、わたしにとって、だから、そうはさせたくなかった。家族という輪の中で、もっと近く、激しく、強力に、くっついていたかった。もし、わたしにあの時、コバルトが出来ていなかったら。私と妻は結婚していただろうか。結婚しようという話にはなっていた。それまで、わたしは一度も女性とお付き合いをしたことがなかったので、比較は出来ないが、わたしにはぴったりの相手だとも思っていた。その基準というか、ポイントというか。どこに、どんな風に、惹かれたのか。それは言葉にはできない。しかし、確実にあったのだ。
 コバルトにとって、相手の女性も、ぴったりきているのだろうか。コバルトはまだ二十歳だ。そんな歳で、わかるのだろうか。全体的に、賛成だが、言っておくべきことは言わないといけないと思い、目の前のコバルトに話しているのだが、話していくうちに、本当にこのまま賛成していいのか? という気にもなってくる。
 二十歳で、相手を見極める? そんなことができるのだろうか。わたしの場合、女性とお付き合いをしたことはなかったから、分からなかっただけなのか。中学生のころから、わたしはどういうわけがモテた。高校生になってもそれは続き、わたしのアドレスは出回り、告白もされた。その度に、何とも言いようのない、申し訳なさがあった。中学二年生の時、高校進学が決まった一つ年上の女性と、彼女の部屋で、そういうことになった。服を脱ぎ、抱き合い、ああ、こうしたら、こうして、という手順通りのセックスを、わたしは、中二にして、経験しているのだと、変な優越感があり、なのに、わたしはその時、何も出来ず、立たず仕舞いでどん底を経験した。
 もう、嫌だと、思った。あの時、彼女は、わたしを責めた。とてもひどい言葉だったように記憶しているが、どんな言葉だったかは忘れた。忘れたと言うより、消した。ホモなんじゃないか。それは、その時の女性が言ったのかどうだったのか、定かではないが、わたしは、あの時、初めて女性とベッドに入り、興奮しながらも何もできなった日から、恐れていた。自分が普通ではないことを。普通でいたいと強く思っているのに、そうではないことを。
 二十歳、二十五、三十路。わたしは人生の一定期間において、「そんなことではいけない」と思い直し、女性と、そういう関係になろうとしたが、ずっとダメだった。
 妻に会い、人生の中で今がチャンスで、ここを逃したら、などと考えることもなく、それはごくごく自然に、そういうことになり、コバルトを授かった。なんともあっけないというか、それが自然すぎて、だから美しいというか。道があって、石ころが転がり、蝶々が舞って、見上げて、空。雲もあって、妻がいて、抱き合って、射精して、コバルトが来てくれた。このナチュラル・ハーモニー。奇跡的な配色で、わたしの人生を色濃くしてくれた。
 コバルトが、できたと聞いたとき。それまでのわたしが、一人称で思っていた〈何かしなければいけない〉というマスト感のようなものが、あの時、ふたりにとって、というものに変わった。
 子供のために、ふたりが、しなければならないこと。そのために、わたしが、妻にしなければいけないこと。そんなものが一つずつ連鎖して、ドミノのように繋がっていった。今、この二十歳の息子との共通点。結婚する前の、わたしとはあまりにも違いすぎる境遇でも、ひとつだけ共通する点があるとすれば、それは子供だ。
 子供を授かったと言うことだ。そこを、コバルトは、どう感じているのか、何を思っているのか。「ピンと来ない」「よくわかんないけど」「やってみる」「できる、と思う」。そんな歯切れの悪い言葉から、コバルトへ、わたしは言うべきことがたくさんあるように思った。
 わたしは、わたしの家族を、妻とコバルトを、誰よりも近く、誰よりも強く大切に思っている。そう思ってやってきた、つもりだ。妻からは時々、「あなたの、ドライなところが、コバルトにもある」と言われ、わたしは、そこが気がかりだった。これからは、ひとりではないのだ。二人で、三人のことを決めていく。そこに、快感のようなものを覚えないと、それを負担だと感じてしまうと、結婚生活などできないのだ。
 そこが重要だ。そこをなんとか快感してほしい。そのために、言える助言。それはたった一つ、結婚する相手がいて、子供が出来ることは、奇跡なんだ、ということ。それらを普通にこなして、結果が奇跡的なこと。それが家族なんだということ。そのことを伝えたいのに、なかなか上手く言えず、いろんな方向に話がそれていくうちに、いよいよコバルトは限界のようで、態度に出てきて、そんなコバルトを見て、妻が、「まぁ、これから、おいおい、ゆっくっり考えていきましょう。お父さんも、今日はこのぐらいで」と終わりのチャイムを鳴らした。

 菅野智(とも)が、コバルトと籍を入れると言ってきた時、私は、驚きと罪悪感とがない交ぜで、お、おめでとう、と口ごもってしまった。
 社長である私の、そんな態度を見て、菅野は「人手の足りない時に、都合のいいことを言って申し訳ございません」と、また謝った。産んで、産後の子育てを終えたら、ここに戻ってきたい。これまで一度の前例もなかったことが、岡本という女性に続いて連続してやってきた。この小さくて、一人ひとりがフルパワーで働いてやっとなんとかなっている現状で、残された社員のモチベーションは保てるか。私は、そちらが心配だった。
 代わりを雇うと行っても、期間限定になるし、一人分の席は確保して一年半から二年もの間、待ち続けるのだ。正直言って、それは厳しい。厳しいと言うよりも、無理だ。とはいえ、働き初めて一年と数ヶ月妊娠した岡本戸違い、菅野の場合は経験が桁違いだ。みすみす捨てるにはもったいない。デザイナー達のまとめ役であり、彼女が軸になって仕事を回していることも多い。その軸を失うのは痛い。十年以上のここでのキャリアは、菅野にしか分からない案件も多く、代わりのデザイナーを入れるなら、それ相応でなければならないだろう。期間限定で、ちょっと「手」になるような人を雇うわけにもいくまい。と、ヘッドハンティングしてマネージャークラスに来てもらうと、菅野の席はなくなってしまう。
 三十五歳の女が、二十歳の男の子と入籍するというだけでも驚きで、子供まで作ったとなると、産休・育休が欲しいという、菅野からはあまり考えられないような、なんとも現代的なことを要求してきたことも、分かる気もした。
 もちろん、待っているわ。とにかく、元気な赤ちゃん、産みなさいよ、と私は言った。

 私が、一デザイナーだった時代は、結婚したら、仕事なんて続けられないというのが常識だった。
 仕事を取るか、結婚するか。仕事をするということは、特に、OLではなく、自分の手で、自分にしかできないものを創るデザイナーは、二十四時間、アンテナを張って、いろんなモノを吸収しなければ、すぐに古くさい誌面になったり、ポスターになる。誰もが、見た瞬間にストンと落ちてきて、こんな簡単なことなのに気づかなかった。言わば、コロンブスの卵のようなデザインを、アイデアを、必死で追いかけているのだ。
 仕事と結婚。それらが両立できる訳などないのだ。私は、そう思っていたし、当時の私の回りの先輩も、結婚してる者など一人もいなかった。それが、言い訳にもなって、結婚できない女の負の連鎖にもなっていたのだが。
 私は、その負の連鎖が嫌だった。なんだ、それは、と思っていた。確かに、結婚したら、締め切り前はきついだろう。徹夜ありきで仕事をするので、それを理解してくれる相手でないとできない。結婚して、専業主婦になればいい? それも、考えてみた。考えてはみたが、想像しただけで無理だった。朝、旦那さんを送り出して、スーパーへ買い物へ行き、ランチはどこかで友人なんかと食べて、夕方ぐらいから夕食の準備に取りかかる。そして、旦那さんの帰りを待つ。確かに、楽しそうだし、幸せいっぱいで、女として生まれて来たからには、そういうのは幸せの象徴のようにも思えた。しかし、それが無理な理由として最大なのは、私は料理ができない。そして、旦那の帰りを待つという、相手の時間軸で生活するのも、おそらくは無理だと思った。
 これは、女だから、男だからの関係はなく、性格の問題。結婚するということは、だから、理解してくれる相手を見つけるしかなかった。ぜんぜん思ってもなかったときに、思ってもない方向から、フラッと舞い降りてきたのが、今の主人だった。クライアント先の、編集部で、あまりパッとしない第一印象とは対照的に、ゆっくり話すと、彼の口から、脳から、心臓から、出てくる、出てくる、面白さ、尊敬、感心、関心の数々。徐々に、結婚したいという気持が育ってきて、それでも、自分にブレーキをかけていた。
 子供を産むという問題。私は、仕事が続けたかった。それと結婚を両立するには、コレと無い相手と出会うことができた。だけど、子供を産むと、さすがに仕事は無理だ。仕事を優先すると、それはエゴになる、ような気もする。だから、私は、子供を産みたくなかった。
 それを相手が受け入れてくれるかどうか。私は、しばらくそんなことばっかりを考えていた時期にあった。が、ある日、ふと、何かのバラエティー番組で、ものすごく嫌いな芸人が、ものすごくあっさりと、「子供がいるから結婚でしょ?」という、訳の分からないことを言っていた。
 収録観覧のお客さんが、悲鳴のような非難と、それすらも示さない引きを見せていた。それが、生放送だったから、見ているこちらまで凍り付いてしまった。私も、たまに、夢に見る。考えに考えて出したデザインラフ案が、悲鳴もあがらないほどに、ダメなときのこと。それほど恐ろしいことはない。この時、私も、その嫌いな芸人の言葉に、同じような反応だったが、もし、自分が、あのステージで、お客さんにあの反応をされたら、と考え、ゾッとしている側、つまり、嫌いな芸人側で考えてしまったので、少しだけ距離が縮まり、そうすると不思議なもので、「子供がいるから結婚でしょ?」という言葉が、子供がいないなら、夫婦という形、つまり結婚という制度に入る必要性は、低いかも知れない、とも思うようになった。
 テレビでは、嫌いな芸人が、他の出演者から色々と突っ込まれているが、それにいちいち一生懸命、大声で言い返しいているから、余計にサムい状態になり、私は、さーっと、観ている側に戻ってきて、首を傾げて、チャンネルを変えた。
 子供を産みたくない私が、誰かと結婚して夫婦になること。それは、将来における安心、保険、保障、社会的地位に、様々な権利。結婚という形をとることで、メリットが大きいからか? 同性愛者の人がよく主張する感じに似ているのかな、と思って見たりもする。
 しかし、私には、分からなくなっていた。仕事と結婚を両立している自分に酔いたいだけなのかも知れない。考えれば考えるほど、結婚したいという気持ちが、だんだんと側にいるだけでいいのではないか、というのに変わってきて。私は、だから、山なりを描いて登っていった気持ちを、その勢いのママ、下げていった。
 そんな時、相手が、つまり主人が、プロポーズしてくれた。君となら、暖かい家族がもてそう。それが理由だった。私の、どこを、どう、見て? 主人曰く、「見なくてもいいところは、いっさい見ないところ」が、暖かい家族を築くためには必須らしい。それを持っているから、と主人は言った。
 私は返事を渋った。一週間、十日間。それまでにも、食事に行ったり、飲みにも行ったが、主人がプロポーズしたことは、一旦、おいておいて、なかったことのようになっていた。一ヶ月ほど経ってからだったか、旦那から突然「返事を渋っているのは、仕事が原因かな?」とメールが来た。仕事じゃ、ないです、と返した私のメールに、「今晩ゆっくり話そう」とだけ返してきた主人と、その夜、話をした。
 何を、どう話したのか、おそらくは、私のこれまでの人生において、最も大事な夜だったのに、あまり詳しく覚えていない。
 ただ、泣いていた。それは、嬉しくて、泣いていた。それだけは強烈に覚えている。その夜、主人は開口一番、独立してみないか? と言った。デザイナーとして、フリーになる。その自由度たるや、想像に易い。出来ることなら、みんなそうしたい。ただ、リスクがすごいのだ。そのリスクを結婚するということで回避できるのではないかと主人は言う。確かに、彼は大手出版社の編集者。妻が働かなくても、生活できるだけの給料はもらっているのだろう。私が、当時勤めいた小さな制作プロダクションで、結婚するというと、イコールそれは退職を意味し、それを感じ取っていた主人の、素晴らしい提案だった。
 ここまで言われたら、「ちょっと考えます」とは言えない。ただ、違うのだ。私が返事をしない理由。できない理由。それは、結婚しても、仕事を続けたいということだけではなく、子供の問題がある。私は、子供を産みたくないということなのだ。それを主人が受け入れるかどうかなのだ。そこを渋っているのだ。
 子供が欲しいというのと、欲しくないというのでは、善と悪。欲しくないといっている方が悪者という感が強い。それを重々承知の上で、しかし、私はやっぱり、仕事を中心に、結婚生活を送りたいし、そのためには子供は諦めざるを得ないのだ。そのことがなかなか言えない。フリーとして、自由に仕事をすればいい、とまで言ってくれる彼。そんな人に、子供のことを、どう、言えばいいのか。
まだ、何かひっかかるものが、あるのかな?
 と、のぞき込む主人の顔を私は凝視できない。それを反らしたと思ったのだろう主人が「ぼくのことは、好きでいてくれてるよね?」と再確認をしてくる。しまった、こんな言葉を言わせる前に、子供のことを言えば良かった。好きでいてくれている? そう言われてから、イエスと答えても、その後に、でも、子供は産みたくないというと、好きじゃないからか、と考えられないだろうか。私の頭の中をぐるぐると色んなことが巡って、「子供をね、私はつくりたくなくて、それは、ずっと昔からなの、あなたと出会う、ずっと前から、そう思っていたの」と、思い切って打ち明けるまで、主人は、ずいぶん長い間、黙っていた。
 それを聞いた瞬間の主人の顔は、今でも鮮明に浮かんでくる。驚きや疑問、悲しみなんかが混ざって、ひとつの怒りのような表情になっていた。「それは、産めない、ということ? 体の問題?」という旦那の言葉が宙に浮き、黙って首をふる私を見て、「まぁ、そればっかりは、二人で一つだからね。どっちか一方が望んでも、できないことだし。ぼくだけじゃ、どうすることもできないよ」と言った。
 結婚するということが、子供ができて家族を持つこと。それが、普通であればあるほど、多くの場合が、「普通」にしていればいるほど、そこを歩かない者にとってはキツイ。「ただ……」と、主人は最後に「もちろんのことだけど、ぼくは、君と、結婚したいのであって、その返事を待っているんだからね」と笑った。その笑顔を見ると、なぜか、急に、私の目から涙がどんどん流れて、とても嬉しくて、ものすごく暖かくなった。
 主人とは、特に、結婚してからも、子供の事については話していない。それは、独立した私には、主人の仕事だけではなく、彼の知り合いの仕事、それまで付き合いのあったところの仕事、と、どんどん舞い込んできて、それらを必死でこなすうちに、一人、二人と手伝ってもらうデザイナーを雇い、郊外でいいから広さのある事務所を探し、デザインだけではなく、特集ページなど丸々を一括で受注することが増えると、編集やコピーライティングも必要で、主人の知り合いを通じて、紹介してもらい、小さなデザインオフィスにした。
 そんな目まぐるしい日々を、結婚生活を、送っているうちに、子供のことは話さなくなった、という方が合っているかもしれない。とはいえ、私が三十五歳を越える時や、四十歳になるときには、主人も、ちらほら、子供のことを持ち出し、まだ、考えに変わりはないの? なんて聞いてきたけれど、その時は、会社があるからというのを理由にした。
 理由に、できた。TIC。ティックと名付けた私の会社の、本当の意味はディス・イズ・チャイルドだ。何の略ですか? と聞かれる度に、意味なんてない、響きだけで決めたといっていたが、もう、あの小さな会社は、私のこども。雇った従業員に対しては、責任があるのだ。
 驚いた、菅野の妊娠報告。それも、また戻ってきたいという彼女の感覚。今、菅野は三十四か五歳のはずだ。私が、結婚した年齢よりも十近く上だ。そんな、歳になってまで、妊娠して子供を産んだら、また働きます、と言えるなんて。確かに、そうか、とも思った。私の場合は、まだ、作業、作業に追われて、全体を見通せない内に仕事というのはこうだと決めつけて、だから、子供を産んだら出来ない、と思っていたが、菅野ぐらいベテランになると、自分の時間の使い方が分かるようになるのか。そうなると、保育園に子供を預けて、6時まで働きます、というのができるのか。
 時代がそうさせるのか、人生経験がそうさせるのか。ただ、驚きの中には、もちろん、祝意もある。だけど驚きの方がやっぱり大きい。
 恋人だと学生のコバルトを紹介され、アルバイトで雇った時の衝撃。まさか、そのまま結婚するというところまで進むとは、正直、私を含め、TICのメンバーは誰も思っていなかった。コバルトが大学を卒業すると、バイトも辞める。そうなると、別に二人が別れても、気まずくない。
 月島は、恋人だと知って雇うことに、初めは反対だった。私情が交じると、少人数だけに面倒なことになる。確かにそれもあるが、圭太がトモミと付き合っていることもバレバレだし、別に私情なら、恋人云々じゃなくても、色々とある。そんな二人が、別れるどころか、結婚して、さらに子供を産むとは。驚きとしか良いようがない。
 そこにない交ぜになっている私の罪悪感。それは、コバルトのことだ。月島がコバルトの採用を反対したとき、ごもっともだ、と思った。確かに、それまで来てくれていたアルバイトが辞めてずいぶん経つし、そろそろ「手」が欲しいとは思っていたが、菅野の彼氏を連れて来られても、と、まぁ、会うだけならという簡単な気持で実際に会ってみると、コバルトは、ハッとするほど受けがいい、と直感した。それは、働くおばさま方に。そして、主人に。
 主人は、趣味で、それは悪趣味なのだが、若い男の子のスチール写真を集めている。
 それも、素人の男の子のスチール。それらを何かの法則に従って、切り抜き、データ化して何かに使っているのか、ただただ眺めているだけなのか。とにかく、スタジオに入って、しっかりとポーズを決めたものから、普段の、それはスマホで撮るような簡単な写真まで、できるだけ集めて、編集している。
 それらを誰かと共有したりして、犯罪の臭いのするものに使っているわけではなさそうだ。ただ、正直、私も、何に使っているのか、正確には知らない。ただの個人的趣味という部分が大きいのだろう。だた、時々、コバルト宛てに会社案内の新入社員モデルだったり、再現ドラマのエキストラのような役だったりの仕事が入る。それは、主人の紹介というモノが多いので、どこかで、コバルトのスチールが出回っているのかも知れない。コバルトの前の子も、その前の子も、よく似たルートで仕事が来ていたので、そろそろTICには、そこそこの若い男の子がいる、という簡単なモデル事務所のような扱いで電話をかけてくる人もいる。
 主人受けの他に、働くおばさま受け。これは、コバルトの前の子から始めたことなのだが、私がまだ若い頃、先輩だった女性が、四十オーバーの未婚女性を集めたサークルをやっており、そのサークルのイベントに呼ばれるのだ。
 四十まで働きっぱなしなので、それぞれ部下になる若い男の子はいても、ひとりの女性として、若い男の子と話す機会がない。そこで、と相談を受けて、始めたTICのサービスだった。何かの飲みの席で、コピー取りやお茶くみのアルバイトまで雇う程、仕事が好調なのかと言われ、それだけではないことを教えたことがきっかけだった。そんなかわいい男の子がいるなら、お小遣いを出すから、今度の花見に来てよ、と言われた。SNSで広めてくれたので、その先輩のサークルだけではなく、月に一回ぐらいは、おばさまサークルのお供という仕事が入っている。
 罪悪感。菅野に対するそれは、コバルトのそんなちょっとしたサイドビジネスに関することではなく、やはり、モデルにしても、おばさまのお供にしても、始まりが主人の悪趣味で、それはコバルトから始まったわけではなく、そのずっと前からで、つまりは、菅野の彼氏と知りながら、私は、コバルトをそういう目で採用したのだ。
 主人の若い男の子を見る目。頭では、もう整理済みなので、悪趣味だ、と一言で終わらせることができるが、心のどこかでは、やっぱり変だ。言ってみれば恥部だ。そこに、コバルトを利用していること。上手く言えないが、そういう申し訳ない気持ちがあった。
 初めてその悪趣味に気付いた時、悲鳴が出た。仕事で使うデザインをデータで送ってもらってからロムに焼き、それを自宅に持って帰っていた。それは古いバージョンのソフトで作られたモノで、うちにある古いマックでしか開けなかった。そのロムと、旦那の趣味のロムを間違えて開いたのだ。キャッ。何、これ、え? うちの子? なんで、こんな。
 そこにコラージュされた男の子は、私が、会社の様子はこうよ、という説明のために主人に送っていた写真だった。その中には、みんなの仕事している姿や、飲み会、何の気なしに話している様子が写されていて、その写真は、私が、TICの公式ブログにアップするためにとったものだった。その写真の中から、男の子だけを切り抜いて、寄せ集めている。ゲイなのか。そういうことなのか。これをどうしているんだ。
 私は、主人の帰りを待ちながら、何からどう切り出していいものか、考えていた。考えれば、考えるほど、この行動は気持ち悪い。このまま、夫婦でいられるのか。とは言っても、TICがここまで来たのは、彼のおかげであるし、今でこそ、一人で独立してもなんとかやっていけるかも知れないが、それでいいのだろうか。そんなことよりも、まず、これだ。このコラージュしたデータを何に使っているかだ。
 帰ってきた主人に、問い詰める。彼が帰ってくるまでは、頭の中で色々と考えていた。私が子供を産みたくないと言ったから、彼は、子供に未練があるのだろうか。息子だと思って、こんなものを作っているのだろうか。そうだとしたら、責任の一端は、私にもあるのかも知れない。いや、それとこれとは関係ないだろう。そもそも、自分の息子というには大きすぎる。もう成人しているのだ。なんだろう。やっぱり、そういう性的なものとして、見ているのだろうか。よくニュースになる、男の人による男の人への性犯罪。主人は、そっちだったのだろうか。だとしても、かまわない。私との間に、性交渉がなくても、私はかまわない。ただ、上手く言えないけど、嫌だった。自分の夫が、そうであることに嫌悪した。
 玄関からリビングに入ってくる足音。待ち構える私。手より先に言葉が出た。
 「何よ、これ」
 「ん? ああ、それか。うまく出来てるだろ?」
 画面一杯に出したコラージュ画像を見て、主人はあっけらかんとした。上手いか、どうか。そんなこと、微塵も考えていなかった私は、
 「そうじゃなくて、なんで、この子ばっかり集めてるの、って聞いてるの」と、画面を閉じた。
 気持ち悪い、これ以上、見たくもない、と思った。主人は、それは男だから聞いているのか、と私に逆質問し、ふと、他の若い女の子ばかりをコラージュしていた時のことを思った。確かに、そちらは、なんというか、また種類の違った気持ち悪さがあり、どっちの方が嫌か、という問題ではない気がしてきた。例えば、自分の子供や子供のお友達の写真を集めて、かわいらしくコラージュするママがいて、それをSNSにアップしたりしている人が多い。アラフォー女子にもなって、同じくSNSに、自分の子供ではなく、若い男性アイドル、それも中学生や高校生の子の写真をコラージュしたりする人もいる。それを見ても、何も思わないのに、主人が、若い男の子の写真を集めてコラージュしていると、嫌悪する。それが女子でも同じ事で、もし、仮に、私なら? 私の写真をこっそり集めて、コラージュして、データに落として持っていたら。それは、たぶん、嬉しい。色々考えれば考えるほど、男の子の写真を集めているなんて、気持ち悪いに決まっていると、やっぱり思う。それに対して、「なぜ」という質問はおかしいのだ。「男だろうと女だろうと、なんか、変じゃない?」と私は言い返し、主人は、風呂でも入る、と浴室に移動しながら、「そうかなぁ」と首をかしげていた。
 そんな後ろ姿を見て、私は、なんだか、フッと可笑しくなった。別に、夫婦なんだから、ちょっとぐらいおかしいところがあったって、いいっか、という気になった。
 風呂から上がって、ビールを飲みながら、男の子の写真を見ると、落ち着くという主人。犬やネコや、アイドルのカレンダーや鉄道模型や、飛行機のダイキャストや、そんな感じが男の子らしい。それも、二十歳前後。もう、話せば話すほど、主人がどんどん変態に思えてきて、「ゲイ、っていうわけじゃ、なんだよね?」と、それだけは聞いた。「違うよ」と答えた顔を見ながら、私は、子供を産みたくないっていったからなのか、と、全然関係のないようなことなのに、思ってしまった。仮にゲイだとしても、子供を作らない前提の二人なら、それは、心と心の繋がりという意味で同性愛と同じかも知れない、とも、かなり強引に思ったりもした。体の関係のない、心だけの繋がり。そこに限界も感じつつの、私の気持ちは揺れていた。
 子供が欲しくないとは言ったが、歳を重ねるにつれ、主人との体の関係を求めてもいた。そこに、相手がゲイだと知ると、私は自分でどんな結果を出すか分からない気もしていた。それを恐れてもいた。
 主人の男の子のスチーム集めが夫婦間で公認されたようになり、コバルトの前の「代」からは、物撮りで抑えたスタジオを延長利用して、男の子を連れ出し、スタジオ撮影をするまでになった。もう、私は、何も言わなかった。特に、コバルトはスタジオ撮影が多かった。何というか、主人の中にある不満のはけ口。それが、男の子の写真を眺めること。それが気持ち悪くてもなんでも、彼にとってはけ口になるなら結構だと思った。その不満は、私が、やっぱり子供をいらないといったためだろうだから、と。
 コバルトが菅野と結婚して、菅野は育休を終えると復活する。そんな流れになった今、コバルトは使い捨てではなくなった。
 これまで、アルバイトで雇う男の子は、気持のどっかで期限付き。だから、主人の趣味に使っていても、まぁ、それはずっと続くわけではないのでいいか、と思っていた。が、もう、コバルトを使うのは止めなければ。私が、私の責任において預かっている大事なスタッフ、しかも、一番の古株の菅野の、その結婚相手なのだ。主人と私、夫婦の間ではふっきれて、諦めて、容認している「趣味」も、やっぱり他人には言えない。ましてや、そこに利用しているなんて、菅野トモには、言えるはずもなく、結婚を告げられ、妊娠、産休、育休と、どんどん驚く報告の間も、やはり、コバルトへの、そして菅野への罪悪感があった。「コバルトくんは? 彼は、アルバイト、続けられそう?」と、聞いてはみたものの、入籍してまでアルバイトという訳にはいかないだろう、と思っていた。しかし、返ってきた答えは、このままお世話になる。ということは、大学には、このまま通うということか。二十歳で結婚するというのは、子供の卒業を意味するわけではないのか、と私はぼんやりと考えながら、そういう結婚もあるのだ、と思った。そして、そういう結婚をするのは、TICの大事な大事な仲間なのだ。応援できる限り、応援しようと思った。コバルトさえよければ、モデルやコンパニオン的な仕事をもっと入れてもいい。時給にプラスして支払っている手当も、彼らには助けになるかも知れない。なんだったら、それも一つの事業の柱にすべく、男の子を二、三人入れてもかまわない。私は、そんな風に考えながら、頭の隅で、コバルトに代わる、主人へのプレゼントを考えていた。

 トモさんと初めて会ったのは、息子のコバルトから結婚報告を受け、それからすいぶん経ってからのことだった。
 サイドエリアに家を借りて、引っ越して行ったコバルトからは、しばらく何の連絡もなく、こんなにうちと近所なのに、なかなか連れて来ないのはなぜか。私も夫も、そのあたりのコバルトの感覚に苛立ち、トモさんの鈍さも疑問だった。
 自分たちの時代とは違う。そればかりを夫とお互いに言い聞かせながら、コバルト達には、それなりの考えがあるのだろうと思っていた。それにしても、音沙汰がなさ過ぎる。コバルトに連絡をとっても、引っ越したばかりでバタバタしている、と言うばかり。引っ越し先の住所も知らされていない。肝心の、入籍届を出したのか否かも、分からない。普通、こんなことってある? 夫に詰め寄る私。夫も、コバルトからの連絡をまずは待とう、とそればかり。口ではそう言いながらも、夫は、私よりも気をもんでいる様子だった。手に取るように分かる夫の苛立ち。それを見る度に、男親ならびしっと息子に言って欲しい。そう思えば思うほど、コバルトに対する苛立ちが、そのまま夫へとベクトルを変えていく。それをうけて、夫も苛立つ。何の連絡も無いことが、私たち夫婦の仲も切り裂いていくような日々だった。
 たった一人の息子。彼のために、小さい時から学費とは別に、結婚費用などもいくらかは貯めている。それを渡すタイミングすら、ない。
 学生のコバルトが、一家の大黒柱になることは、金銭的には無理だ。トモさんも、身重で、働き続けられないだろうし、いくら必要で、それをどう工面するのか、そこのところをどんな風に考えているのか。私には、コバルト達の考えが、毛頭分からないでいた。引っ越してから二週間。落ち着いたら連絡するという期限も、さすがに二週間は長すぎだ。私は、唯一分かっているコバルトの携帯に何度も連絡を入れた。繋がらない電話。それでも、色々と考えて、考えて、考えているだけならおかしくなりそうなので、また電話を入れる。
 留守番電話にも、気が付けば十数件は入れているだろう。なのに、それでも、コバルトからは何の返事もない。これは、もしかすると、何かよからぬ事に巻き込まれたか、いやひょっとすると、よからぬ事を考え始めているのではないか。これから先の不安に押しつぶされて、やけを起こしていたり。そんな想像が浮かぶと、もう居ても立ってもいられなかった。
 夫は、私が店番をしている間に、黙って、引っ越し先だと聞いていたサイドエリアの、民家を改築したところという少ない情報を手がかりに、何度かバイクで探しに行っているようだ。常連さんが、店の前を通る度に、おたくのご主人をサイドで見たよ、と言ってくれるので分かる。夫は、もし、家を見つけたらどうするつもりなんだろう。こっそり、見つけて、二人の姿を確認したら、安心するのだろうか。そして、安心したら、それで満足なのだろうか。もともと、フレキシブルな時間割で働く夫のことだ、その気になれば、何日も連続して捜索することはできる。そのことを、つまり探しているということを私に一言も告げず、夫は、一体、見つけたとして、どうする積もりなんだろう。
 コバルトに電話する。繋がらない。夫が帰ってくる。何も言わない。またコバルトに電話をする。繋がらない。夫が出かける。何も言わない。どいつもこいつも、私のことをばかにしている。そんなことを思い始めて、全てを投げ出してしまおうかと言う時、コバルトから電話がかかってきた。
 大学が、忙しくて、なかなか連絡出来なかった。彼はそう言った。大学が、忙しい。この家から二年間も大学に通っていたが、忙しい様子など見たことない。三年生になると、ゼミが始まり、ほとんど東京にいるそうだ。だから、ごめんなさい、と言う。電話、いっぱい、もらってたみたいだけど、なに? どうしたの?
 息子の、この第一声を聞いて、私の中で巨大化していたモノが、それが何かは、明確には言えないけど、それが、シュルシュルと縮み、なんとも言いようのない、わらい、が漏れた。どうしたの? じゃ、ないでしょ。連絡もよこさないで、それでいいと思ってるの、心配しているって思わないの。私は、声に出さず叫んだ。一通り叫んでから、「どうなの、もう、落ち着いたの、部屋の方は」と聞いた。あ、うん。まだ段ボール箱が残ってるけど、なんとかやってる。
 コバルトの声がおかしい。彼が、一番「ダメ」なときに出す、一番明るい声だ。
 何があったんだろう。どうしたというのか。この不自然なほど長い連絡のなさ。そして、連絡をしてきたと思ったら、無理に明るい声。大丈夫な状態ではない。ここで、連絡をしてきたということは、助けを求めているのではないか。金銭的なことか。それとも、トモさんと喧嘩でもしたか。これからのことを考えて、怖くなったか。私は、できる限りゆっくりと、冷静に、そうすることが、こんな時のコバルトには一番有効だと知っているから、「とにかく、一度、帰ってきなさい」と言った。

 久しぶりにコバルトから電話があり、その通話を切ると同時に、バイクで出かけていた、おそらくはサイドエリアを探していたであろう夫が帰ってきた。いつもは、何も言わず、居間にデンと腰を下ろすのに、この時ばかりは店の方に来て、私に、小さな声で「コバルトにとって、両親って、どういう存在なんだろうな」と項垂れた。
 存在。それは、居て当然、なんでも言えて当たり前、甘えられて、相談できて、そういう存在である、つもりだったが、確かに、ここのところのコバルトを見ていると、夫と同じく不安にもなってくる。
 何でも、言える関係じゃ、ないんだろうな。夫が言う。その言葉が、「母さんは、コバルトにとって・・・」という風に聞こえる。夫は、決して、私を責めているのではない。それは分かる。が、夫の言葉が、それは、今、瞬間に沸き上がって発したのではない、ここ数週間かけて、見つかりもしない息子の引っ越し先をバイクで探しながら、そうして、何度も、何度も咀嚼して、そうして発したものだと分かる。その分、重い。
 コバルトにとって、私とは。昔から、あの子は我慢する子だった。それに対して、偉い、偉いといって育ててきた。それが、いけなかったのか。何でも言えるという親の存在が、だけど、何でもかんでも言うことなく、我慢すると「偉い」ということに転換されてしまったのだろうか。本当に困ったとき、自分だけで頑張って、自分だけでは頑張りきれなければ、諦めるか、自暴自棄になるか。
相談じゃなくて、報告なんだけど。コバルトが、結婚を告げたときの言葉。夫が、ずいぶんと、相談じゃなかったことを気にしていたのを思い出す。何でも、言える関係。そうじゃなかった。コバルトにとっての、私たち夫婦。
 私は、応えず、夫も、それ以降なにも言葉にしなかった。長い沈黙。夕焼け小焼けが流れてきた。駅から、ちらほらと会社帰りの人が一本道を通っている。帰路につく先。その家では、誰かが待っていて、その待っている人と帰っていく人とは、何でも、言える関係なのだろうか、と思ったりしていた。

 ただいま。
 玄関の方から声がして、コバルトが、屈みながら勝手口から店へ入ってきた。彼が生まれてから、こんなに長い間、見なかったことはない。久しぶりに会った息子は、少し、痩せたようにも思えた。いや、もともと体重のない子だけに、変わってないのかも知れない。
 両親そろって、客もいない店でぼんやり突っ立っていることに違和感を覚えたらしい息子は、「何、やってんの、こんなところで」、と言った。長い間連絡もしないで、ひょこっと帰ってきて、もっと他に言うことはいっぱいあるだろうに、そんなことを一番はじめに言った。夫は、いや、別に、父さんも今、帰ったとこだから、と私を見た。母さんは、ほら、店番だから、と当たり前のことを考え、店内をうろうろと歩き回っていたコバルトが、「いやぁ、やっぱり、うちはいいね」と、少しだけ笑った。その言葉が嬉しくて、それは、そうではないのかも知れないと考えてしまった後だけに、倍増しで嬉しくて、それをそのままダイレクトに表に出す夫が、「今晩、飯でも、食っていけるのか?」と聞いた。とてもうれしそうに。「あ、うん。そのつもりで来た」とコバルトがいい、いつもダメだと言っているのに、店の棚からチップスターを一つとって、居間の方へ行った。
 コバルトにとっての実家。我が家。それは、「やっぱり、いい」もんなんだろうか。そうであれば、本当に嬉しいと思う。夕方五時に流れる夕焼け小焼けの音楽を聞くと、いつも店を閉め始める。昔は、夕方のラッシュ時まで店を開けていたが、駅前にコンビニが出来てから、開けていてもそれほど効果がない。今夜は、コバルトもいることだし、夕食は何にしようか。考えながら、店を閉め、居間に入ると、コバルトは、寝転んだまま、眠っていた。その横で、夫が夕刊を読んでいる。子供だ。本当に、まだ、息子は子供だ。つい三、四年前まで、高校から帰ってきて、同じように、夫のよこで夕飯まで眠り、夕飯を食べたら、風呂に入って、さっさと自分の部屋へ行き、そして、すぐに寝ていた。よく寝る子だった。
 背ばかりが高くなって、何を食べさせたらそんなに大きくなれるんだ、と聞かれる度に、とにかく寝るから、ず〜っと寝てるから、と言っていたもんだ。そんなことを思い出す。結婚だの、出産だの、父親になるなんて、この寝顔を見ていると、信じられない。
 夕飯は、天麩羅にした。夫婦ふたりだけでは、脂っこいモノは作らない。だから、息子がいるときぐらいは、と思って張り切って、作りすぎてしまった。作りすぎたかな、と思ってテーブルに並べて、それが、みるもる無くなっていくのは、実に気持ちがいいものだ。作り甲斐がある。ビールでも、飲むか、と夫がコバルトを誘い、二人で乾杯していた。私も、久しぶりに、ビールをいただくことにする。
 今、一番、聞かなければならないことは、何も聞かず、とにかく、ちょっと前まで、普通に存在した夕飯の時間を楽しんだ。
 ここに、本来なら、トモさんもいるわけだな
 そう言ったのは、夫だった。トモさんの体調、どう? と聞いたのは、私だ。その二つの言葉を聞かないように、コバルトは天麩羅を頬張った。そして、美味しいと大きな声で言った。連れてこないか、はやく、と夫が言う。籍は、入れたんでしょ。役所には届けたんでしょ、と私が言った。せっかく近所に住んでるだ、ちょくちょく顔を見せなさい、と夫。近所って、住所、母さん達、住所も知らないから、帰るとき、どっかに書いていってよ、と私が言うと、コバルトは、箸を置き、うつむき、おもむろに正座になって、
 ごめん
 と言った。
 言いながら、泣いた。
 
 住所も教えていなかったこと、近所なのに、まだトモを連れても来ないこと、そんなことを謝っているのではない。泣きながら、コバルトが言いたいこと。私は、目を閉じた。もう、何があっても、何を言われても、驚きはしない自信があった。できるなら、報告ではなく、相談でありますように。そんなことをぼんやり考えていた。
夫は今、どんな表情をしているのだろうか。目を閉じている私を見ているのだろうか。それとも、コバルトのことをみているのだろうか。
 やっぱり、無理だ
 コバルトの声は、まだ泣いているようだった。何が無理なんだ。夫なら、聞くだろうタイミングなのに、何も言わない。待っているのだろうか。何でも、言える関係。夫の言葉を思い返してみた。
コバルトは、しくしく泣いている。彼だけが、抱えている言葉、そこにある問題。無理、なこと。私は、コバルトに連絡がつかない間、彼だけで考えて、無茶をすることだけはないように、と願っていた。大学も、通い続けると決めたのに、トモさんと話すうちに、やっぱり働くと決めて、勝手に退学しているのではないかと心配になって、こっそり大学に電話を入れて、コバルトがまだ在学しているかを確認していた。
 コバルトだけで、抱えて、考えこまないで欲しい。「やっぱり、無理だ」といって、泣いている息子。そんな彼を見ていると、嫌な予感が的中していたように思う。彼は、この連絡もよこさない一ヶ月近くの間に、何かを抱え込んで、そして、パンクしかけていたのだ。それが一体、何なのか。彼のタイミングを待つしかない。
 今日は、このまま言わないかも知れない。そうだとすれば、できるだけ早いうちに、言って欲しい。私は、心の中で、願っていた。いや祈っていたといった方が良いかもしれない。
 ごめん。心配かけるから、全部がちゃんと済んでから、きれいになってから言うつもりだったんだけど
 目を閉じている私には、そこで、言葉を止めたコバルトが、また、話し始めるのを待っていた。しかし、なかなか言い始めない。
私は、ゆっくりと目を開けてみた。身体の体勢でも変えたのかと思っていた夫の動きは、なんと、コバルトを強く抱きしめていた。身長は追い抜かれたが、お互い座っていると、やっぱり父親と息子だ。抱く父と、抱かれる息子。その二人が、止まったまま、何も言わない。私は、また目を閉じた。
 引っ越しした日。実は、トモさんが、まずはコバルトの実家へ挨拶に行こうと、段ボールも積み上げたまま、二人で出かける準備をしていたらしい。コバルトは、一秒でも早く、住める状態にしたいから、挨拶なんて翌日でいいから、片付けてしまおう、と言っており、二人で、ササッとやろうと最後までごねていたという。じゃ、とにかくリビングだけでも片付けてから、挨拶に行こうということになって、そこから二人で、急いで段ボールを整理していた。「トモの、体のこと、なんも分かってなくて」。コバルトは、また声を詰まらせる。引っ越すだけでも、相当に体を使うのに、その日のうちに、片付けまで一気にやろうなんて、お腹に赤ちゃんがいるのに、本当に、バカだった、と。あまり遅くなっても迷惑だから、夕方、お店を閉める頃にご挨拶だけでも行こう。それまでに、片付けよう。二人分の荷物を、一人分ずつ、荷ほどきするなら、そんなに時間はかからないかも知れないけれど、二人分のものを、一つのところにまとめながら締まっていくのは、色々、悩んだり、相談したりするので、時間がかかった。
 挨拶に行かなければいけない、と焦るトモと、挨拶なんて明日でもいいから、とにかく片付けてしまいたいコバルト。いつからか、二人の雰囲気も悪くなって、小さなことで苛々して、それで、言い合いになって。引っ越しの日は、そんな感じだったらしい。もうすぐ片付くな、という頃になって、トイレに行ったトモが、全然出てこないことに気づき、コバルトは、また怒って、出てこないのだろう、と思っていたという。
 こんな日に、まったく、と舌打ちをしながら、残りの片付けを終わらせた。
 終わったから、行こう。挨拶に行くなら、何としても、この険悪なムードをなんとかしなければならない。
 呼んでも、出てこないトモ。
 コバルトは、おかしい、と思った。
 そこまで、もめるほどのことは、言い合っていない。
「どうした、トモ、トモ、大丈夫か」と叫ぶと、
「タクシーか、救急車、呼んで」と、か細いトモの声が返ってきた。

 タクシーでかかりつけのクリニックへ行き、そのまま、救急車で病院に搬送された。ずっと付き添っていたコバルトの、頭の中は真っ白で、なんて声をかけていいのか分からず。クリニックでは、その危険性があるといわれ、搬送先の病院で、流産だと言われた。
 トイレから、トモのか細い声を聞いたとき、タクシーを呼んで、それからも、なかなか出てこないトモを、トイレをこじ開けて、コバルトが見たとき。出血したトモの、あの何もない表情。泣きもしない、怒りもしない、顔。色のない、顔。
 コバルトは、病院で先生から今後のことを聞いた。ご主人、と呼ばれる度に、しっかりしなければ、とも思った。原因は、色々なことが複合して起こるので、コレと確定することは難しいらしく、とにかく、少し、処置を施さないといけないので二、三日、入院するように言われた。
 病室に行き、トモの顔を見た。トモは、部屋の窓から外を見ていた。コバルトの顔をなかなか見ないトモ。コバルトは、声をかけることすら出来なかった。その晩、コバルトは病室にいた。
とても静かで、真っ暗闇。音もなく、風もなく。なんだろう、なのに、心の奥から突き上げてくる喪失感、涙。もう、どうすることも できない無気力。
 子供が、いなくなった。
 トモは。どうだろう。コバルトは、自分ですら、こんなにも真っ暗なのに、あんなに子供を欲しがっていたトモは、一体、どう思っているのだろうか。分からない。ただ、今は、これからのことよりも、今のこと。他の誰よりも、トモのために、コバルトは生きようと思った。
 翌朝、目覚めたコバルトの顔をのぞき込んでいたトモ。一睡も出来なかったらしく、目の下に隈が出来ていた。「コバルトの寝顔を見てた」。よだれを拭いながら、「勝手に、みんなよ」と言うと、トモは笑った。
「原因、先生、なんか、言ってた?」
「いろんなことが複合しておこるから、コレってものは無いって」
「あ、そう。やっぱり、高齢だからかな」
「関係ないと思うよ」
 コバルトの寝顔が可愛かった。寝てるとこは、まだまだ子供ね、と悪戯っぽく笑いながら、「二十歳だもんねぇ、まだ」とため息をついた。妊娠したことが分かってから、一緒に住むって、話がとんとん拍子に進むうちに、忘れてたけど、「二十歳なんだよね、まだ」と言った。この朝、トモは、五回、二十歳なんだよね、まだ、を言った。
「どうする? これから」とトモが言った。
「とりあえずは、手術、っていうか、なんか処置が必要らしいよ。子宮のなんとかって言ってたけど、ごめん、俺も、あんまよく聞けなかった。なんか、ぼんやりしてた、ショックすぎて」

「ごめんね、産めなくて」

「謝るのは、俺だよ。俺、ぜんぜん分かってなかったんだと思う。妊婦って大変なこととか、協力がいっぱいいることとか。そんなの、俺、全然できてなかったし、トモに、すげぇ、負担かけてたし」
「そんなことないよ。心強かったよ。ほんとに。なんか、ずっと年下なのに、頼もしいなと思ったよ。いいパパになってくれるだろうな、とも思ってたよ。だから、余計に、本当、くやしい。本当に、ごめん」
 トモは、泣いた。初めて、泣いたんだと思う。やっと、泣けたんだとも思う。
 結局、施術室に空きがあり、午前中には処置ができて、翌日には退院できることが分かり、コバルトも、一旦帰宅するのが面倒だからと、ずっと病院にいた。
 ひとりになるのが、嫌だったんだ、とコバルトは、言った。トモのことを心配するようなことを言いながらも、引っ越したばかりの部屋で、一人になるのが、嫌だったのだ。

〈うちに、帰ってくれば、よかったじゃないか〉。話を聞きながら、夫が言う。それは出来なかった、らしい。トモさんは、まだ実家に結婚のことも妊娠のことも伝えておらず、伝える前にこうなってしまった以上、色々と整理したいといい、それまで、時間が欲しいと言ったそうだ。
 
 退院してから、しばらく、トモが話したいと思う時以外は、子供のことはもちろん、これからのことも話さなかった。朝が来て、すぐ昼になって、そうこうしてたら夕方で、夜になったら電気を消して、それでも寝られず、色々と考えて、時々話して。そんな日が続いた。
 信じられないぐらいあっという間に、何日も過ぎていた。食欲はなく、何もする気になれなかった。トモの会社には、コバルトが電話をした。流産したこと、トモがしばらく休むこと。ぼつぼつと話すようになると、トモは、「これからの二人」のことを一番気にかけていることがわかった。妊娠した、ということから始まった「結婚」であるから、子供ができなかった以上、結婚から考え直すべきではないかと言い始めたのだ。
 もちろん、コバルトは、子供ができたから、結婚しようと思った訳でないことを言った。トモも、それは分かっているという。ただ、今、じゃなかったはずだと言った。学生の間に、結婚しようとは思わなかっただろう、と。このタイミングで結婚を決めたのは、やっぱり妊娠があったからで、だったら、白紙に戻してみようと、トモは言う。
 引っ越してから、どうせ色々と提出する書類があるから、その時に入籍届も一緒に出そうと思っていたので、まだ届けは出していなかった。白紙。なんだか、それが、別れを切り出されたようで、コバルトは、悲しく、だけど、もしかすると、妊娠に縛られて結婚を決めたのは、トモの方なんじゃないか、とも思えてきた。それなら、白紙に戻して、考える時間も必要かも知れない。
 一週間が過ぎ、十日が経とうとする頃、ようやく、ここで同棲をしてみて、お互いにもっと色々知った上で、時期が来て、その時まで結婚したいという意思があったら、籍を入れよう、と決めた。それは、ほとんどトモが、自分で納得するような形で決めていった。
トモの実家は、青森県で、トモが東京に出てきて、もう十年以上、帰省していないという。男の人と一緒に住むことにしたこと、そこへ引っ越したら、二、三日、実家に帰ること。トモは、引っ越しが無事に済んだら、コバルトと子供のことをちゃんと話そうとしていたらしく、青森のご実家からだろう、トモの携帯電話には、この十日間、何度も電話があった。コバルトの電話にも、何度も着信があった。
 ここで、こうして、止まっている二人の事を、心配して電話をかけてきてくれる人がいる。
 コバルト達は、決めたという。ちゃんと、今の、二人の気持ちを伝えようと。
 トモは、青森の実家へ戻り、今までのことを伝えてくるという。そして、これからもことも、話してくるつもりだという。コバルトは、どうする? トモが聞いた。先に、二人でコバルトのご両親のところへ行った方がよければ、青森に帰るのはずらすけど、と。コバルトは、トモの帰りを待つことにした。ちゃんと、トモのところが決着してから、それから、うちには、自分から伝える。そう約束して、この日、久しぶりにコバルトがうちへ帰ってきた日、トモさんは、青森の実家へ向かったそうだ。
 母さんが、帰ってこいって、電話で言ったとき、なんていうか、ほんと、じわっときて、今日まで、いろいろありすぎたから、弱ってきてて。結婚する、父親になる、っていう息子が、そんなんじゃ、心配するだろうな、と思ったけど、まぁ、顔だけ見せて、すぐに帰ろうとしてたんだ。
 トモもまだ連れて来られてないし、これからのことも、トモが実家で、どんな話になって、どう転ぶかも分からないから、全部が決まってから、それからじゃないと何も言えない、って思ってたし。

 ありがとな

 夫の突然の言葉に、え? と声を出してしまったのは、私だった。
「今日は帰ってきてくれて、うれしいよ。そして、話してくれて、よかった。父さんも、母さんも、何も言わない。お前が決めた通り、やってみろ。応援する。忘れんなよ、応援してるんだからな。力になってやれるんだからな。なんか困って、どうしたらいいか分からなくなったら、全部がきれいに決まってなくてもいいから、言いに来い。待ってるぞ」

 コバルトから、電話が鳴って、涙声の彼から聞かされた。応援されている。力になってくれる。奇しくも、私も青森の実家で、父親から似たようなことを言われた。
 トモのたった一人の父親だから、どんなことがあっても、世界の誰より一番嬉しいし、悲しい、と。二人の甥たちも、帰郷した伯母のために、車で四十五分かけて駆けつけてくれた。継母も、今では母娘の間柄で話せる気がする。子供を産んだことがない継母にとって、妊娠の喜びや流産の悲しみは分からない。だから、何て言っていいかわからないけど、と言って継母は、私をぎゅっと抱きしめてくれた。
 台所で、何か料理しながら、聞いたわよ、大変だったわね、と言った後で。ぎゅっと。抱かれながら、私は、高校生の時にやって来た継母に嫌悪感をもって、色々反発していた自分を思い出した。親と子には、親と子にしかわからない何かがあって、そこに必須なのは血のつながりで、他人は、所詮他人だと思っていた。だから、私は子供が欲しかった。そして、私は母のようには簡単に死なない、と思っていた。
 あの頃から、三十五歳になっても、考え方の根本は成長していないな、と自嘲した。継母は、この家で、確実に「母」になり、祖母になっていったのに。私だけが、あの頃のままであるような気がした。妹が呼ぶ「おばあちゃん」という声。継母が呼ぶ甥たちの名前。そして、甥たちが呼ぶおばあちゃんという顔。その全てが、時間の蓄積の上に成り立った、とても安定したもののように思えて、私は、一人、実家なのに、異物だ、と感じた。父も妹も甥たちも、そして継母も、私をとても自然に、なんら肩肘張らず迎えてくれている。だけど、すっぽりと抜けた時間が、どうしようもなく、そうさせているようだった。
 いつまで、青森にいられるのか。継母の問いに、未だ決めてないという私に、父が、お前のいる場所は、今も、これからも、ここじゃないんだろ、そう決めたんだろ? といい、早く婿に会わせてくれよと、笑った。昔から父は、とても豪快に笑う。

 東京へ戻った日。コバルトは大学に行っており、誰もいない部屋は、いくぶんか散らかっていた。てっきり、私のいない間、コバルトは実家にずっといるもんだと思っていたので、こっちにいたのか、と、なんだか嬉しいような気もした。何が嬉しいのかは自分でも分からないが、とにかく私の方にいてくれた、と思った。
 一応は、片付けて出かけたのだろう、リモコンも、ティッシュも、クッションも箸もコップも、置かれるべき所には、置かれている。私から見ると、並べられていなかったり、乱雑だったりはするけれど、コバルトの中では、かなり丁寧に置いたはずだ。「明日、帰るね」と言ったときの、「待ってる」というコバルトの声。青森の実家では、二十歳の婿なんて周りにいっぱいいて、それは東京とは違って、二十歳なんて立派な大人。三十五まで嫁にいかないというよりも、よっぽど普通だと言われ、だんだん、そんな気もしてきて、コバルトの声を青森で聞くと、とても、なんというか、旦那だった。頼っていいんだとも思えてきた。そう思って、この部屋の、なんだか一生懸命片付けた彼を想像すると、可笑しかった。かわいいな、とも思えた。
 コバルトの実家は、歩いて十分ほど。私は、どこにあるか知っていたし、この町に来た当初は、駅前のスーパーを利用していたので、コバルトの店の前をよく通っていた。
 玄関を開けて、ただいま、とコバルトが言う。お義母さんが出迎えてくれて、「おかえり、いらっしゃい」と、コバルトを見て、私を見て、にっこり笑って言ってくれた。
 居間にいたお義父さんも、待ちきれない様子で、突っ立ったまま、私たちを迎えてくれた。私が、初めまして、というよりも先に、お義父さんは「あ、背が高いんだね」と言った。私がコバルトと並んでいると、あまり言われることも減ったのだが、私は昔から背が高いと言われるのが嫌だった。大女と言われている気がしてたまらなかった。だけど、もう歳だからか、お義父さんの言い方が良いのか、この時は、なにも思わなかった。「そうなんです、背だけは高いんです」と、それが初めての会話らしい会話になった。
「ははは、それじゃわたしと一緒ですね、わたしも、昔から背だけは、高いんですよ」と義父。「いやあねぇ、私だって、そんな低い方じゃないわよ。運動だって出来た方だし」と義母が参戦する。背が高いのがいい、という前提で話が進むと、私も気持ちよくなってくる。
 三人が立ったまま話している横で、コバルトは一人、もう座っていた。胡座をかいて、テーブルに肘をつき、三人を見上げてニコニコしていた。その顔を見下ろすと、やっぱり子供だった。この空間の中ではとくに、両親に囲まれた息子でしかなかった。が、この時、それが、なんとも心地よかった。
 お義母さんは、とてもいい人だった。それは、第三者に儀礼的に言う「いい人」ではなく、なんというか、馬が合うというか、波長が合うというか、良い人、というより、私にとっていい人、あう人、だった。
 例えば、お寿司とピザという独特のコンビネーションで出前を取ってくれたご両親が、わたしたち三人は寿司、コバルトはピザだろ、と義父が言った後、義母が「トモさんもピザよね、まだ」とフォローしてくれたりする。まだ、という最後の言葉に思わず笑みがこぼれると、「笑われているじゃないか、母さんが変なこと言うから」と義父が、無理しないで寿司を食いなさい、というようなことを言う。そんな会話が一区切りすると、突然、お義母さんが「出前の方が、いいでしょう? 私も料理はするのよ。でも、ほら、ね、相手の実家に行って、いきなりガツンと手料理を出されても、ねぇ」と言ったりするから、気を遣わせてしまって、すみません、としか応えられなかった。このなんとも突然なのだが、タイミングがいいというか、話している言葉よりも温度がいいというか。とにかく、私は、コバルトのお義母さんと馬が合った。
 お義父さんも、いい人だった。お酒が進んでくると、顔が真っ赤になって、コバルトはお父さん似なんだな、とぼんやり考えてたりすると、「トモ、さん」と大声で呼び、「トモ、でいいですよ」と私が言うと、
「あ、そう、じゃ、トモ、」
「はい」
「申し訳ない、とか、そんなこと思っちゃったら、ダメですよ」と言った。
 この日、義母も義父も、私たちの過去には触れなかった。これからどうするのか、という未来についても、何も触れず、ただ、今のこと、目の前で起こる事ばかりを話してくれたように思う。それは、ご両親が二人でそうしようと決めたわけではなく、自然とそうなった気がして、そんな雰囲気が、私には心地よかった。そんな中での、お義父さんのこの言葉は、唯一、過去や未来に触れた言葉だったように思う。
「申し訳ない」と思うこと。それは、流産してしまったこと。三十五歳にもなって、ご両親に挨拶もないまま、二十歳の学生の息子さんと同棲しているということ。そもそも、三十五歳の嫁であること。申し訳ないと思うことは、一杯ある。そのどれかでも、ちゃんと言葉にしようかと思っていたが、私は、この日の、この空間の、この雰囲気に任せて、申し訳ないと思っちゃうことは、止めた。

 俺は、トモの完全復活を待って、大学の単位の追い込みと、バイトの詰め込みに加え、就活に本腰を入れ始めた。入籍は未だしていない。子供が出来たタイミングとかそういう、向こうからやって来るものではなく、自分たちで決めたいと思っていた。
 トモは、コバルトに任せると言う。任された俺は、結婚できるだけの男に、はやくならなければ、とも思っていた。大学で学んだことは何ですか、と面接で聞かれる。法律と経済をミックスさせた学部で学んだ知識を応えてもしょうがないだろうから、俺は、トモの会社でアルバイトをしながら感じ取ったことを話した。アルバイトで得た経験で、弊社に入社したら使えるあなたの武器のようなものはありますか。そんな質問には、トモとの日々、子を授かり、出会えなかった喜びと悲しみを思いながら応えた。三月から始めて、四年生になって本格化した就職活動。インターンに行っていたヤツらが、事実上の内定を勝ち取る中、俺も、一応、早い段階で二社から内々定をもらった。双方ともに言われたのが、「他の学生さんに比べたら、肝が据わっている」ということだった。二十歳の、まだ子供な学生が、結婚して親になるなんて、とずっと思われてきた俺も、それを経験すると、経験していない者よりは肝が据わるものかもしれないと、この言葉は嬉しく頂いた。
 大学の単位もなんとかなりそうで、就活も目処が立った。あとは、アルバイトだ。TICでのバイトは、事務作業よりも、最近は、撮影だったり、コンパニオンが増えた。学校説明や会社説明のパンフレット関係の、一応モデルの仕事が八割で、後の二割近くはカラオケに行ったり、小さなホールでなんか食べたり飲んだり。それをおばさまグループとご一緒する「仕事」だった。全部、時給制だったので、事務仕事の方が楽で割が良いけど、撮影やコンパニオンは外に出るので、その分は、社長が「色をつけて」くれていた。もっと食え、ガリガリだ、棒みたいだ、と言われてきた自分の体型が、何を着ても似合うと言われるモデルの仕事に繋がり、口べたで、いるかいないか分からないと言われたのに、ただいてくれるだけでパッとすると言われるコンパニオンに繋がっている。
 これまでのダメが、ここまで繋がって、なんだか良い方向に向かっている気もして、俺の毎日は、充実していた。
 トモとは、一緒に暮らし始めて月日が経ち、お互いの生活が、お互いの中に浸透していった。バイトがある日でも、外出の多い俺とトモが一緒にいることがないので、一緒に住み始めてからの方が、お互いが顔を合わせる時間は減ったのかも知れない。が、確実に、距離は近づいた。
 物理的な距離よりも気持ち的な距離というのだろうか。ふと、コンビニでヨーグルトを買うときも、二ついるかな、と考える。一人で、外食をするときにも、ついつい二人分の合計金額を計算するようになる。いつも、そこにはトモがいた。トモも、俺がそんな話をすると、「わかる、わかる」と言っていた。俺たちは、二人で住んでいる。些細な事で言い合いもすれば、喧嘩もする。口もきかないと言われたり、言ったりして、せっかくの日曜日を嫌な気分で過ごしてしまうこともある。だけど、俺はトモを、トモは俺を、ものすごく近く、そして大切に思っていたように思う。
 夜、俺たちは同じベッドで寝ていたが、流産して以降、ずっとセックスはしなかった。トモが、ちゃんと復活というか、回復するのを俺は待っていた。トモがどう思っていたかは分からない。もしかすると、俺がトモを抱くこと、それを恐れているというか、懲りたと思っているなんて考えているのかも知れない。が、それは分からないままだった。
 お互い、そこは注意深く避けていた。セックスのない、二人の同棲。俺にとっては、初めて親元を離れて暮らす日々で、もう卒業の目処もたった大学も、休みの平日は、アルバイトがなければ一人でずっと部屋に居て、そういう自由な時間に、俺は自由で、色々処理するものは処理も出来たし、付け加えるものは、付け加えることができた。
 一緒に住み始めてから、二ヶ月、三ヶ月と経ち、気づけば半年以上過ぎたある夜、俺は、トモを抱いた。というよりも、トモが、俺に抱かれに来たという方が正確かも知れない。俺の就職が決まった夜も、お互いの誕生日も、クリスマスの夜も、俺たちは、ベッドで並んで、色々話しながら、何もしないで、自然と眠っていったのに、あの夜、何の記念日でもなかったが、いつものように、ベッドで話していると、トモが、俺を抱いてきた。
 その夜から、俺たちは、毎晩のように、抱き合った。それは、とても充実したセックスだった。俺は、トモが、心から愛おしくて、だから、抱いていた。以前は、そうではなかったのかも知れない。子供が欲しいというトモとのセックスは、あくまでも子供をつくるためのモノだった。トモの向こうに、何かを見ながら、トモを抱いていた。もちろん、それは義務でもなかったし、そもそも嫌ではなかった。ただ、心の何処かに、強烈にそんな気持ちがあったのは事実だ。
 だけど、もう、そんなことは俺の中になかった。冬が過ぎて、春になって。俺は、品川にある会社に就職して、スーツを着て出かけるようになった。
 通勤時間の長さは、学生の時にも通えたから問題ないだろう思っていたら、毎朝決まった時間に出かけ、それもラッシュで、帰りも、残業なく普通に帰れれば夕方のラッシュだし、ちょっと残業すれば、家に着くのは遅くなるし、会社の先輩や同僚と飲みに行くことがあれば、いつも途中で切り上げて早い終電で帰る。そんなことを繰り返していると、通勤時間というのは、単純な時間以上に、精神的な負荷時間というのがあった。
 だからといって、東京で一人暮らしをするという選択者はもちろんなかった。トモには、この町での暮らしがあり、俺は、そのトモとの暮らしがあるのだ。夜、俺が帰宅する。計ったように、十分後ぐらいにトモが帰ってくる。二人で夕食を作る。とても簡単なモノをいつも作る。トモがメインを作れば、俺がサイドを、その逆もあった。俺は、そう、同棲を始めてから料理ができるようになった。飲み物は、サングリアだった。何かの深夜番組で、ポルトガルに行って自家製サングリアを作っているのを見て、俺が始めたことだった。こり始めると無限。それは、奥深く、理想とする味にするのは不可能なものに思えた。だから、楽しかった。今回のは浅い、深い、パンチがきいている、きいていない、と、二人は勝手な表現で、しかし、二人にとってはしっくりくる言葉で味を批評した。
 夕食を食べると、風呂に入る。トモが先に入って、トモが風呂上がりに色々とやっている間に、俺の風呂は済む。しばらく、深夜番組なんかを二人で見ながら、ベッドに入る。そして、抱き合い、終わった後、少し話す。そんな日々。俺が、会社勤めを始めて、ゴールデンウィークも過ぎた頃、つまり慣れてくると、恐ろしい程に、二人の生活は、この通りの規則正しいものとなった。
 抱き合った後のベッドでは、いつも、将来のことを話していたような気がする。夕食の時には、現在のことを話し、セックスの後、未来のことを話す。過去のことは、あまり話さなかった。
 将来、子供ができたら。そんな話もするようになっていた。俺は、ぼんやりと息子が欲しかった。トモは、男の子でも女の子でも、元気であれば嬉しいといった。元気な、赤ちゃんを、生む。トモがこの言葉を言うとき、いつも、語気が強まる。それを聞くと、俺の頷きも強くなる。
 俺は、心からトモが好きで、その延長線上に、トモとの子供が欲しかった。そんな当たり前の自然なことを考えることが、ようやくできるようになっていた。しかし、トモは違ったようだ。ある晩、いつものように、セックスの後で未来の話をしていると、急に、トモが現実に戻って、「わたし、最近、子作りのためだけに、セックスしてるようで、コバルトに申し訳なくなる時がある」と告白した。
 排卵日を計算して、今日がチャンスだと思ったり、生理が来る度に、またダメだったか、と思ったり。三十六歳、七歳と歳を重ねる度に、それが、本当のタイムリミットのように思うのだという。俺は、ショックだった。何がショックかというと、俺とは、真逆の事を考えていたことだ。俺は、子供のためのセックスを脱し、トモを心から抱くようになった。なのに、トモは、あくまでも俺と言うよりも子供のためだったのか。
「俺とは、真逆だな」
 そんな告白をうけて、そっと、小さな声で、夜のベッドで、真っ暗で、そこで言った。
「逆?」
「そう。俺は、今、すっごいトモが好き」
「何、それ」。フフフと笑いながらトモが言う。「私もすっごい、コバルトが好きよ。ぜんぜん逆じゃないじゃない」
「好きと嫌いの逆じゃなくて、順番。順番が逆なの」
 トモは、黙った。眠ったのかと思うほど、何も言わずに、寝息のような、ちょっと荒い呼吸をしながら。
「俺は、前まで、子作りが先で、トモがその次だったけど、今は、逆。トモが先で子供がその次になった」
 自分で言いながらも、分かるようで分からないこの言葉を、トモは聞いたのか、聞いていないのか、それも分からない。そのまま、眠った。

 妊活というまでもないが、トモは、いろいろと子供ができやすくなるために、ドリンクを飲んだり、サプリを買ったり、お酒を止めたり、身体を温めたりし始めた。それが、なんというか、オープンになっていった。
 子供が欲しい。そのためのセックスなんて、順番が逆だ。ごめんね、歳だから、若くないから。そんな諸々が、じっとりして、お互いに言うに言えないような雰囲気でクローズしていたけど、開け放たれた。それはとても爽快だった。子供が欲しい。それを口にして、そのために、こうしようという行動に出る。
 トモが三十七歳の誕生日を前に、そうなっていった。俺も、そんなトモを見て、何かできるか。コバルトは若いから大丈夫。その若さがないから、私はこうするだけ、とトモは繰り返す。でも、色々とネットで調べると、出てくる。男もサプリを飲むのがいいとか、身体のリズムを相手(女性)と合わせるように心がけるといい、とか。精子に関する病気も検索で引っ掛かって、それは大丈夫だと思いながらも、だんだん心配になってきたりする。
 社会人になって、初めての俺の誕生日。トモが名付けた未来の子供、「有(あり)」について話した。
 男の子でも、女の子でもつけられる名前って何かないなか。そんな会話をしたのは、数ヶ月前。突然、トモが、有ってどう、と聞いてきた。俺は、直感で、いいな、と思った。「いい名前だね」と応えた。「そう?」と嬉しそうに笑いながら、「じゃ、決定ね。私たちの子供、名前は、有」。まだ、授かってもいない子供の名前が決まると、不思議なもので、いつか会えそう(、、、、)な気がしてくる。
 出会えなかった、流産してしまった子供。一人目の子供が、無し、になったとき、トモは「有」という名前を思いついたのだという。生んであげることが出来なかった子供に、名前をつけようとして、あの暗い病室のベッドで、脇で寝る俺を見ながら、一睡もできなかった夜に、あの長い夜に。トモは、名前を考えていたのだという。
 有。一人目の無しまで、有りにする子。俺たちは、有に出会える日に向けて、子供が欲しいという共通意識のもとで生活を送った。
働き初めて、三ヶ月、半年と経つうちに、それまで、新人だからという理由で許されていたことが、許されなくなった。その微妙な会社での変化が、俺とトモの生活のリズムというか、あ・うん、というか何というか、そういうものを少しずつ崩しはじめた。
 主に、夜。トモは、週一回の残業の日というのを自分で決めて、そこに急ぎでないものは集中させ、他の日は、ほとんど同じ時間に、早く帰ってくるようにしていた。それが、トモにはできる。十年以上も働くと、自分のペースができるのだ。
 俺には出来ない。まだ研修期間のような時期は、毎日、ほとんど早く帰ってきて、二人は、余裕のある中で食事をして、風呂に入って、ベッドに入った。しかし、俺の帰宅時間はバラバラ。それも、急に早く帰る、帰れないが決まるのだ。また、仮に、お互いの帰りが早く、以前と同じ時間だけ確保できても、微妙に違った。
 俺は、会社のことはトモにほとんど話さない。話しても、よく分からないだろうし、伝わらないから、というのもあるが、一番は、トモといる間は、トモとのことを話したいからだ。それでも、トモが知りたいだろう俺の会社のこと、部署は、デパートなんかで行われるイベントを企画、運営するところで、俺のチームは服飾系を主に扱っていて、女性ばかりで、男は、新人の俺と、三年目の先輩と、十五年目になるマネージャーだけだということ。これまでは完全に女子向けのイベントばかりを扱っていたが、ここ七、八年は、男性向けの男性ファッションイベントはもちろん、女性ターゲットの男性ファッションのイベントや、男性へプレゼントする雑貨イベントなどが増えた。そのために、女性ばかりだと分からないところがあって、男性社員も配属して欲しいと言われて、三年前に先輩が初めて男性として配属されたということ。それまでは、管理職だけが男性という、会社の中では、ちょっとした噂の部署で、あそこに行ったら、あそこに染まるしか生きてゆけない、と言われる部署だった。
 伏魔殿。誰かがそう呼んでいた。一人のボス女性社員がいて、その人を中心に派閥が幾つもあり、表の顔とは全然違う裏の顔を持つ者ばかりが、噂話、文句、蔑みなどを「陰」でやるのだ。なので、自然と、もともといた男性社員が、移動という形でこの部署に入ってくることはなく(おそらく、嫌がるから)、先輩は、新人として、それは俺と同じように何も知らず、入ったのだ。
 そして、揉まれているのだ。男性としての視点。そればかりを強調して意見を求めるくせに、そんなことは聞いてない、答えになっていない、それでは企画にならない。そんなきつい言葉を会議の場で直接ぶつけられる先輩を見て、俺はいつも冷や汗をかいていた。が、たまに、昼飯を一緒に食べたり、帰る時間が合えば、ちょっとだけ飲みに誘ってもらう時もあって、そんな時は、この間の会議の時、大変でしたね、あんな言い方は、ちょっとひどいですよね、と言うと、先輩は、「直に言われるだけ、百倍マシだよ」といいながら、俺にもそのうちわかってくるよ、と笑うのだった。笑うしかないんだろうなこの人、と傍目に見て思う時の、そんな人のような笑い方で。
 ただ、先輩は、あまり話さない。たぶん、俺と性格が違いすぎるか似すぎているのか、とにかくちょうどいい距離にないのだろう。一緒にいても、あまり会話が弾まないのだ。それに、昼飯も、お互いが同じ時間に出られることが少ないし、一緒に仕事をすることも少ないから帰る時間も違う。
 俺の話。俺の会社での評判は、最低らしい。まず、ぼーっと突っ立って、何もしてないようにしか思えないわね、と女性ボス社員が飲みの席か何かで言ったらしい発言が、色々尾ひれをつけて広がったようで、俺、イコール、ぼんやりしてて何もしない、イコール、何もできない、という風になり、だから、何かをお願いするにも、あの子じゃ無理でしょ、ということになって、何も任されず、そうすると余計に、あの新人はいったい何をやっているの? という負の連鎖。
 先輩は、そんなことはもう乗り越えたといったけど、そういう噂話が、耳に入ってくる度に、嫌な気分になる。腹が立つし、言い訳したいし、じゃ、任せてみてくださいよ、とも言いたくなるし、だけど、どの言葉も、誰かから明確に言われた訳ではないので、誰にも言えないのだ。
 この、鬱憤。日々、耳に入ってくるそんな言葉たち。もはや、俺の耳にわざわざ入れるために、話しているとしか考えられないようなタイミングと声のボリュームで話す女性もいる。
 もう、全部、放り投げて、「あんな会社、さっさと辞めてやったよ」という学生時代の友人の言葉を思い返す。あいつは、いつも明るかった。なんでも前向きだった。だから、さっさと辞めるという思い切った行動がとれるのだ。「コバもさ、第二新卒にひっかかるうちに、辞めるなら辞めるで、方向転回しないと、ずるずる行くとやばいぞ。後になってからは、なかなか修正できなくなるからな」と。俺のことを「コバ」と呼んだだけで、泣きそうに懐かしくなる。
 会社では、女性ボス社員が、キラキラネームね。私、そういうの虫唾がはしる、といった日から、どの女性社員も、俺の、コバルトという名前には触れないし、名字で呼ぶ。
 最初、新入社員として挨拶した日、女性ボス社員はいなかった。何かのトラブルで、新年度早々謝罪に出かけており、だからか、なんだか和やかで華やかな、ちょっと緩いムードもあった。女子ばかりなのが、ちょっと気になったが、それでも、いいとこに配属されたと思えた。自己紹介すると、どの社員も、コバルトと口にし、聞いたことない名前だ、センスあるわねご両親と、口々に言っていたのに、今では、もう緘口令がしかれたようだ。
 あの最初の日、挨拶する俺を見て、洋介よりも顔が小さいね、とか、洋介にはできなかったカジュアル系とかもいけるんじゃない、なんて、洋介、洋介と先輩の名前が出てきたので、てっきり、俺は、ここでコバルトと呼ばれると思っていたのに、呼び方まで、顔色をうかがう感じ。それがこの部署なのだ。
 ここでは、女性も男性も、イベントの企画書にラフ案としてはもちろん、小さなイベントなら、フライヤーにもモデルとして登場することが多い。先輩はフォーマルなファッションがしっくりくるし、見栄えがとてもいい。だけど、ファストファッション系やカジュアル系、中高校生向けのファッションは、対応できなかったらしい。そこで、そういう系は俺が担当している。
 どの社員も、びくびくしながら企画書を書き、女性ボス社員に褒められると、何か裏があるのか、今度はもっとドでかい災難が降りかかるんじゃないかと思い、否定されたり、無視するかのようにスルーされると、もう、陰気なカーニバルのはじまり。トイレ、休憩室、ありと、あらゆるところで、誰々ちゃんが、また「ブー」にやられたらしいわよ、と噂が飛び交う。
 ブーとは、その女性ボス社員の隠語だ。そんな噂話を聞く度に、学生時代のあの友人の言葉をまた思い出してしまう。「人間関係っていうか、それはさ、合うか合わないかの二択なわけで、これは何年経ったって、合わないから合う、に変わることはないからね。特に、ムードみたいな、社風っていうのかな、そういうのは、絶対変わらない。それに合わないなら、辞めるしかないんだよ。その見極めは早いほうがいい。三年も経ってから辞めたら、それは、続かなかった、としか判断されなくなるから。そんなごまんといるような、駄目な新人の仲間入りをしないためにも、即決。判断だけは、間違うなよ、コバ」。

 会社でのモヤモヤ。一年が経とうとする頃になると、人の噂、俺の噂、全部が嫌で、特に仕事でのことならまだしも、先輩を好み派、と俺を好み派、みたいなのが出来ているらしく、それにはブーは関与せず、自然に発生したものなので、余計に収拾がつかなくなっていた。まったくもって、ヒマなことだと思う。先輩派の女性が、その人が先輩派だと知ってしまうものだから、彼女にその意図がなくても、俺への言葉は色々と違う意味にも取れた。
 先輩の悪口や噂話がスピーカー付きで飛び交う中で、先輩の彼女のことがあった。何処そこに住んでいる三十過ぎのおばさんで、「たぶん、洋介も、社会にだいぶ慣れて、お金もそこそこ貯まった頃だから、気づいちゃうんじゃないかな、他の方がいい、って。で、あっさり別れるんじゃない」、とか、「若い男って、なんで、アラサーにいっちゃうのかな〜」と耳にすると、俺は、トモとのことが、どうかばれませんように、願ってしまうのだ。
 そんなことを願っている自分が、絶望的に嫌で、でも、この部署で生きていくためには、できるだけ、何も知られず、ただ、空気のようにいるのがよくて、ああ、そんなの無意味だと思い始めると、会社辞めようかな、とも思い始めた。
 でも、トモとの生活がある。子供がもしできたら、また前みたいに、カネのことでトモに心配させたくもない。どうしようか、どうするか。そんな気分を、長い通勤時間は、忘れさせてはくれなかった。切り替えることはおろか、増長させる一方で、鬱々とした考えが、膨らんでいった。
 駅について、家まで帰る、その前に、ちょっと一呼吸置きたい。そんな夜が増えた。立ったままで、ちょっと飲んで帰る。そんなちょい飲み屋の多くは、店主がやたらと客と話してくる。
 たこ焼きスタンドのタコキングもそんな店で、大阪人の店主のこてこてした話と、あっさりしたたこ焼きは、俺が一呼吸して、気分をチェンジするのに、ちょうどいい場所だった。ビールを一杯、そして、たこ焼きを六個。それを食べるだけの時間。それが、チェイサーになった。そして、トモの元へ帰る。
 飲んできたの? と、最初は聞いてきたが、そのうち、たこ焼き好きね〜となり、またタコキングいってたの? に変わる。たこ焼き四百円、ビールが三百円。三十分弱に、七百円をわざわざ使わなくても、十分歩けば家でしょ、そんなにたこ焼き好きなら、冷凍の買っておいて、缶ビールと飲めば良いのに、なんてそんな会話をしていた頃はまだ良かったが、もう、ビールとたこ焼きの匂いで帰っても、トモは何も言わなくなり、そんなトモが、自分を責めるようなことを考えているかも知れないな、と思ったりもし始めて、だけど俺は、トモにどう説明していいか分からず。
 トモのせいではない。それは確実だ。だけど、トモのことをばれないで欲しいとも思っている。そんなことを思わないとやっていけない会社に、俺は今、居て、だからなんだか、どうしていいか分からず。「毎日、毎日、チョイ飲みしてくるのは、なんかやましいことでもあるから、すぐには帰れないんじゃないか」って、圭太が言ってたよ、とトモに言われ、コピーライターの圭太さんならいいそうだ、と思いつつ、「ああ、バイトの頃は、よかったな〜。俺、TICで雇ってくれないかな〜〜」なんて口にしてしまうと、一気に勘の良いトモなら、俺の会社というか現状を心配する。だから、「やましい事なんて、もしあったら、トモは絶対気づくでしょ」と笑いながら、俺はタコキングの店主のファンで、とにかく話が面白いから、長い時間電車のって、やっと着いたと思ったらホッとするから、ついついタコキングに入ってしまう、というのを理由にした。そんなものなかなぁ、と、そこは女子と男子の差ということになった。
 そんな調子で帰るから、トモと俺との生活は、少しずつズレ、トモが先にベッドに入って、俺が風呂からあがってベッドに行くとすでに寝ていることもあり、起こすと悪いから、俺はソファで寝てしまうこともあった。一緒に、ベッドに入って、少し話をして、そのまま俺は寝てしまうときもあったり、セックスだけして、何も話さず寝てしまうこともあったりで、なんともカチッとはまっていない生活していた。
 それは、なにも俺が会社での気分を引きずっているから、というだけではなく、同棲生活に慣れてきたからというのもあるかも知れない。社会人二年目に入り、うちの部署には女性社員が二名入った。その二人が正反対の性格で、一人はブーに取り入って大のお気に入りになり、もう一人は女子力が高く、同じ女子力の高い派閥でかわいがられるようになった。
 ブーに気に入られる代償に、他の女子社員から総スカンを食らう新入社員A。この娘が、俺のことをかっこいいだの、タイプだの、好きだのというので、ブーまで感化されて、確かにそうかも知れない、なんて展開になり、急に、飲み会だの、カラオケだの、ゴルフバーだの、と、色々ブーに付き合わされることが多くなった。
 ブーは、プライベートがカラからに乾ききっていて、会社の部下を強引に連れ回すしか時間が埋められず、そりゃ、あのお局さんで独身ならカネの使い道もないから、おごってくれる、と陰口を叩かれながら、気分次第で部下の誰々を誘いなさいと新入社員Aに命じ、その命をうけた者は、しぶしぶ、付き合うことになるのだ。
 この新入社員Aの〈ご当選です〜〉的な誘い方が、女性社員たちには不快で、心底嫌いだという人が多くなっている。俺は、なぜか、三回に一回、下手をすれば二回に一回は、お声がかかるようになった。週一回の強制的なノー残業デー。その日は、よほどブーに何かの仕事が入っていない限り、開催される。俺は、陰で文句を言っている女の顔と、実際にブーの前で見せる笑顔や相づち、合いの手なんかに、人間不信になってしまいそうだった。
 まぁ、それが会社というものなのだろう。TICのように、少人数で、しかもひとり一人が個人商店のようにスキルがあって、役割がはっきりしていれば別だが、会社組織というのは、そうではない。そう言い聞かせながらの俺。
 グルメなブーは、自分ですべて店を選ぶ。そのどれものが、外れ無しに旨い店なのだ。ブーから誘われた、あぁ、嫌だ、でも、まぁ、確かに料理が美味しいとこだし、只だし、これも仕事、仕事、と割り切っる人もいる。
 ブーは、こういう席でも仕事の話しかしない。他に話がないからだ、と誰かが陰で言っていたような気もするが、ブーはブーで、会社に文句があるらしく、それをずっと愚痴っていた。そして、それをずっと聞く俺たち。
 新入社員Aは、家が遠く、終電が早いからいつも途中で帰る。そのタイミングで、家の遠い俺も、店を出ることが多かった。二回、三回とそんな風に、居ても何も話さず、これといってグルメでもないので料理にも感動はない。お酒もおしゃれなものばかりで、みんなが頼んだのを一口ずつもらいたい、というブーのリクエストで、自分が頼みたいものより、まずは誰ともかぶらないこと、そして、ブー好みであるものを考えて注文しなければならず、普段、ビールしか飲まない俺は、ブーが自分でビールを頼んでいるので、ビールは頼めず、いつも困っていた。だから、最後に、誰も頼んでないものを適当に頼む。まぁ、その一杯目の変な儀式が終われば、あとは自由に頼めるので、俺は、そのあと、時間いっぱいまでビールを飲み、話を聞いて、右から左へ受け流して、やり過ごすのだった。
 ブーの会に行くのは、嫌だったが、まぁ、しょうがないかな、と思っていたのが、もう行くのが嫌になって、ノー残業デーの日は、ずっと午後から休みたい、とまで思うようになった。それは、何回目かのブーの会で、誰かが、自分の彼氏がずっと水泳をしていたので身体がきれいだ、という話になった。そこで、マッチョが好き、嫌いの話に展開して、なぜか、男の裸の話には食いつきがいいブーも参戦して大盛り上がりになった。
 その話の中で、俺はどうなのか、ということになり、何度も何度も何度も何度も嫌だと拒否したのに、なんだか、しつこく、もう、どうでもいいやって感じで、俺は上半身裸になった。
 ガリガリだの、子供だの、若いからぴちぴちしてるだの、今度は、俺の上半身が好きか嫌いかみたいな話になった。もう、俺は、すぐにでも逃げ出したかった。元々、ブーが酔うと男の体をべたべた触るので、気をつけたほうがいいと洋介先輩に聞いており、離れた所に座ることが多かったが、なにぶん、ブーの会に参加して、ブーの隣に座りたい人は新入社員Aぐらいなので、遠く離れた所は競争率が激しい。自然と、まだ二年目の俺は、ブーの隣になることが増え、忠告通り、ブーはとにかく触ってくる。肩から始まって、腕、横っ腹に太もも。さすがに太ももの内側に手が回ってきたときは、思わず「止めてください」と声が出た。その不快も相まって、俺が上半身裸になることが恒例みたいになって、裸見たさに参加したがるやつもいるなんて聞くと、とにかく嫌になった。
 洋介先輩は、減るもんでもないし、サッと脱いで、サッと着ればいいだけじゃないか、と言う。確かに、そうだ。そんな気にすることもないのかも知れない。だけど、そういうノリも、裸を見て照れたようにみんなが笑うのも心底嫌で、第一に、俺は俺の、この細っちい体が大嫌いなのだ。
 ブーの会の憂鬱。そして、ますます広がり、深まる、噂の世界。女子達の園。時々巻き込まれる災難。全部が、なんだか沈んだ中での、仕事の失敗が重なると、もうやっていけなくなる。
 長い通勤電車。揺られながら、混み合いながら、マスクをして、自分を覆って、そうやって行き帰りする道のり。家に帰ると、トモがいる。それが、当たり前になり、居てくれるから楽しいと思うことも当然になると、その逆、喧嘩したり、なんだかしっくりこないことがあると、思ってしまう。とにかく、一人になりたいな、と。
 二十三歳になってしまった。そんな風に思うのは、間違えているかも知れないが、俺は、もう、何かを早く形にしなければいけない歳になっている気になった。だから、焦りのようなものも感じていた。トモとのこと。会社のこと。色々。
 大学時代の友人に、子供が出来た。そいつは女子で、いつも活発で、カンボジアかどこかへ長期で旅していて、自由気ままだと思っていたやつが、結婚して母になるのだという。まだ早い、まだ子供だと思われていた自分達が、手のひらを返したように、大人になりなさいと言われているような気もした。
 会社、どうなの? とトモが聞くときは、トモが自分の仕事の話をしたいときだ。だから俺は、「別に普通だけど、トモは?」と聞きかえす。そうすると、トモが話し始める。
 その話は、俺も知っている人たちが登場人物なので、面白い。圭太さんとトモミさんが、近く結婚するらしい。結婚式の招待状や座席表は、お祝いの代わりにデザイナーみんなで作ると言っていた。結婚が決まってから、トモミさんは急に、綺麗になったらしい。次は、俺とトモだね、とみんなが言っているらしい。
 確かに、同棲して年月が経つ毎に、これからの事が、なんだか大げさに思えて、大変な気持ちになっている。勢いなんだってね、結婚って。トモが舌を出すようにして言っている、気がした。暗い部屋で、隣で寝るトモの顔は見えない。俺は天井を見ていて、右耳でトモを聞いている、感じている。そして、ゆっくりと、トモを抱く。俺たちには、もう、子供は来て(、、)くれない(、、、、)のだろうか。

 どんよりした曇り空の下では、サクラの花もエメラルドグリーンの海も、白いビーチも魅力が半減する。スカッと突き抜けるように、透明度のある、そんな空を待ちながら、俺は通勤電車に揺られ、噂の園で翻弄され、飲みに連れ回され、触られ、脱がされ、トモに言い訳するように、ベッドでは笑い、明るく、そして、トモを抱きしめる。トモは、頻繁に、コバルトのことが好き、大切、ずっと一緒だよ、というのを口にするようになった。

 あかちゃんが出来たみたい。それを聞いたのは、土曜の朝だった。
 前の日、最寄り駅までくる電車は終わっており、数駅前止まりの電車を降りて、歩いて帰宅するとトモは寝ており、俺は一人で、ソファで、スーツだけを脱いで、寝てしまった。朝起きて、風呂に入り、その音で起きたのだろうトモがリビングに来て、俺はバスタオルだけを巻いて、髪の毛も濡れたままで、トモは、いつもの分厚い眼鏡で、髪の毛もぼさぼさで、スエットで、マグカップに水を入れて飲んでいるところで、昨日遅かったんだね、と言い、あ、ごめん、水波駅止まりにしか乗れなかったから歩いた、と伝え、若いね〜と、言われ、ごはん、どうする、食べる? と聞かれたので、あるなら食べる、と応え。
 そのまま脱衣所に行き、俺は髪を拭いて、Tシャツにスエットに着替えて、そうしている間に、脱衣所までトモが来て、あかちゃんができたみたい、と伝えた。
 初めは、誰に、できたのかがピンと来なかった。それは、近所のおばさんがゴミをまた黒いゴミ袋で出していたとか、自転車を家の前に停めている人がいるとか、そういう小言かと思っていたので、そんな言葉のトーンだったので、俺も、へぇ〜そうなんだ、と普通に応えた。
 ま、まだ確定じゃないけどね。今度、病院行ってみるよ、と言い残して、トモはキッチンへ行き、目玉焼きを作り始めた。
 え、え、ええ? 子供が、できたのか。俺たちの、子供が! と、ふつふつとこみ上げてくる明るく元気な何かに突き動かされて、「うぉ〜、やったぁー」と叫んでしまった。
 その勢いでキッチンへ行き、トモに後ろから思い切り抱きついた。火、使ってるから、危ないから、とトモも笑顔でそう言いながら、「遅いわよ、喜ぶの」と笑った。「わたしなんて、昨日の夜、早く言いたくて、言いたくて、帰り待ってたのに、あまりにも遅いから寝ちゃって、朝、コバルトの顔みたら、ぼぉーっとしてるから、朝食を食べてる時に言おうかなと思って、でも、もう我慢しきれなくて、言いに言ったのに、へぇ、そうなんだ、みたいな反応だし」と言いながら、味噌汁の鍋に切った油揚げを入れた。
 俺は、ゴミとか自転車とかそういう話かと思ってしまったと言いながらも、そんなことはもうどうでも良くて、子供が出来たこと、授かったこと、来てくれたこと、が嬉しくてたまらなかった。
一人目の流産から、三年が経っていた。この三年は、俺の気持ちにこんなに変化をもたらし、俺の子を迎え入れることができた。俺たちに、子供が、できた。

 私が息子のコバルトから、妊娠の話を聞いたのは、確か土曜日の昼前で、突然、一人でぷら〜っと自転車に乗って店に来て、眠りかけてる私をタバコの小窓をトントン叩いて起こし、がらがらっと開けると、外は晴天で、気持ち良いぐらい晴れていた。
 ちょうど逆光になっていて、コバルトの顔には影がかかり、なのに、満面の笑顔なので光っているようにも感じた。
 できたよ、俺たちの、こども、やっと、できたよ
 コバルトの後ろで一人、タバコを買おうとしているお客さんがいて、その輝いた息子の顔越しに、私は「いらっしゃいませ」と言った。その声で、コバルトも振り向き、軽く頭を下げて自転車をよけた。
 四十九番のタバコ。カートンでありますか? 私は、腰をかがめて、下の棚からカートンを取り出す。笑みがこぼれ落ちた。笑いがこみ上げてきた。嬉しかった。二人に、また、子供が出来て、心底よかったな、と思っていた。
 にこにこする私を不気味そうに見ながら、その客は、五千円札を出し、私は百円玉を四枚、手のひらに乗せて渡した。
 「おとーさん〜」と、私は店から叫び、叫びながら居間の方へ駆けていた。気が付いたら、駆け足になっていた。家の方に回り込んで、駐車場に自転車を置いたコバルトが、居間に入ってくるのと、私が居間に入るのがほぼ同時だった。
 お父さん〜、こども、こどもができたって、コバルトとトモさん。
俺は、こんな父さんの、笑顔を見たことがあっただろうか。くしゃくしゃになるとは言うが、この時の父さんは、顔を壊して笑っているようだった。よかったなぁ、そうか、そうか、本当によかった。おめでとう、コバルト。夫はコバルトに抱きついていた。
「で、今、トモさんは?」
「うちにいる」
「そうか。いやぁ、よかった。子供ができたから、言うけど、昨日も母さんと、もしかしたら、トモさんはもう、子供ができないのかもしれないなって、話してたんだよ」
「おとーさん、そんなこと言わないでよ。良い気分、しないでしょ。トモさんも」
「いいじゃないか、わたしらがバカだったんだ、そんなこと、杞憂だったんだよ。な、コバルト、よかったなぁ」
 夫はコバルトの頭をゴシゴシと撫で、また抱きついた。トモさんも一緒に報告に行くって行ったけど、昨日からちょっと気分が悪いと言うから、大事をとって家の中にいるらしい。病院にはまだ行ってないので、ちゃんと鼓動があるのかは調べてないらしいが、とにかく元気で、かわいい孫の誕生しか頭に浮かばなかった。
 こんなに、諸手を挙げて喜べる日が来るなんて。色んな事は、どんな時だってあって、それに一々「それが問題」なんて言い出したら、何一つできない。いつになってもできない。
 トモさんのご実家は青森と遠い。こんなに近くにいる私たちが、トモさんを全力でサポートする。私は、あの土曜日、誓ったのだ。
 コバルトが家に居たのは十分もなかったかもしれない。しかし、もう、それはそれは何十時間にも感じるほど、長く幸せに感じた。あの日、夕方になって突然、何か元気のでるものを作ってやれ、と夫が言い出し、私は店を早めに閉めて買い出しに行き、料理を持って、コバルトの家に行った。一応、メールで、夜ご飯はまだ食べてないことだけを確かめて。夫は、一緒に行くのかどうか。そんな私の迷いなんて阿呆くさくなるほど、端から行く気満々で、二人で、大皿と鍋を抱えて、団地を抜け、古い民家の並ぶエリアまで歩いた。
 十分から、十五分の道のりも、全然遠さを感じなかった。鍋の重さもなんのそのだった。突然、やって来た義理の両親をトモさんは気持ちよく迎えてくれた。こちらから伺うところ、すみませんと恐縮していた。
 立つな、持つな、転ぶぞ、休め。夫は、ことある毎にトモさんに言っていた。それが可笑しくてたまらなかった。そんな、おとうさん、運動して体力つけないと、出産なんてできないんですよ、ねぇ、おかあさん。トモさんの口調がとても柔らかく、すごく身近に感じた。
 娘。そんな気がしてきた。籍はどうするんだ、と夫が言い、母子手帳をもらうタイミングまでには正式に入れるとコバルトが応え、そんなもん、待ってる必要ないから、月曜になったら届けを出してこい、と夫が言う。婚姻届を出す出さないなど関係なく、トモさんにとっては義理の両親で、私たちにとっても娘である。それは、前から何も変わらない。が、そういうことをきっちりとするいいタイミングなのかも知れない。
 平日じゃなくても婚姻届は出せるんじゃないの? と私が言うと、トモさんがそうです、と言う。じゃ、用紙は、わたしが月曜になったらとってきておくと夫が言うと、もうすでにある、とトモさんが言う。その婚姻届には、すでにコバルトとトモさんのサインがあり、承認の蘭の下側に、トモさんのお父様の署名もしてあった。
 コバルトもそれは知らなかったようで、いつの間に秋田のお父さんのサインもらったのか、としきりに聞いていたが、トモさんは、けっこう、前かな、と答えを濁していた。夫が、それじゃ、もう、トモさんのお父さんはこんなもの、とっくに出したと思ってらっしゃるんじゃないか? と、自分もペンを取り出し、上の署名の蘭に名前を書いた。
「そんな、勝手に、おとーさん」と私が言ってから、初めてハッとして、「ここには、わたしのサインでいいんだろ?」とトモさんに聞いた。
 笑いながら、していただけるなら、嬉しいです、お願いします、とトモさん。その二人を、コバルトも私も、微笑ましく見ていた。

 入籍はしたのか、式はどうするんだ、カネはあるのか、コバルトは、どうなってるんだ。夫は、コバルトが働き初めてからというもの、毎日のように私に聞き、そんなに気になるなら自分で聞いたらどうですか、と言うのに、言ってくるまで待つ、と意地を張っていた。
 私も、そりゃ気になるから、コバルトに電話するが、繋がるのは夜で、なんだかいつも疲れているようで、だから、聞けないままだった。子供を授かったと言うことは、結婚式やハネムーンはお預けかな。私が、それとなくトモさんに聞くと、式は端からやるつもりは無いらしく、それじゃ、だめですか、と、コバルトが一人息子で、結婚式に親として出られるのも一回きりのチャンスなのに、それをつぶしてもいいですか? という聞き方だった。
 夫がいれば、そんなの気にしないで、と言っているところだが、私とトモさんだけで話していた時のことなので、正直に「見てみたい気はするけどね、二人の結婚式」と、応えた。言った後で、私はすごく後悔した。これは、余計なプレッシャーをかけたかも知れないと。
 婚姻届けを出して、口座の名前や諸々、色んな役所処理を済ますと、そんなものは出しても出さなくても変わりないと思っていたのに、グッと自分の娘になった。
距離が近づいた。さらに、トモさんのお父様とお母様がわざわざ秋田から上京してくださり、丸の内にあるレストランで、両家の顔合わせを済ましたというのも大きい。
 トモさんは、頻繁に店へ顔を出すようになったし、一人でも、フラッと立ち寄るようになった。レジの横にある丸い椅子に座って、一時間近く話し込んでしまうこともあった。周りの人には、安定期に入るまで妊娠のことは話してないようだった。誰にも言わず、会社ではつわりの苦しみとひとり戦っていたのだ。言えば、色々と助けてくれんじゃなの、と言っても、「前のことが、ありますから」と言うばかりだった。
 私は、トモさんが前の事と言う度に、それをいうトモさんの気持ちが手に取るように分かり、同じ女として、高齢出産と言われる年齢での初産を体験した先輩として、私は、ふと、前の時、なんで、もっと、サポートが出来なかったんだろうと後悔した。前の事、前の事。もちろん、今考えるべきは、未来であるのは当然だが、前のことを考えれば考えるほど、思えば思うほど、今を、未来を、もっともっと強く考えることができた。
 産休と有休。あれだけ、怪訝そうな顔をしたTICの社長さんも、流産を乗り越えた経緯を知っているだけに、大喜びで、もっと早く言えば、安定期に入るまでも休めるようにしたのに、とまで言ってくれたらしい。それに、トモさんとは別に、もう一人、子供がいつできてもおかしくない社員がいるようだった。これも時代の流れ。そういう制度は、安心を与えるというプラス要素ではもはやなく、必須のものなのだと言う社長さんも、「なかなかできた方だな」と夫が舌を巻くとおりだと思った。
 臨月に入り、孫が男の子だと分かっていたので、夫は、電車や車のおもちゃを早くも買い始めていた。それらを並べて、遊ぶ真似をして遊んでいた。
 私は、コバルトの時を思い出していた。子供のこととなると、夫は時間はもちろん、何もかもを忘れて、遊びに集中する人だった。大人げないと言われる程、子供と言い合うこともあった。それが、とても微笑ましかった。この人は、子供が好きなんだ。私は、そう思う度に安心できたし、夫でよかったと思ったものだ。
 コバルトは、トモさんにとって、どうだろう。かなり年下で、頼り甲斐なんてないけど、そんなことはどうでもよくて、女が男から得られる安心なんていうのは、年齢や器なんてものではないような気がする。もっと、根源的というか、簡単なことと言うか。三歳の頃のコバルトからも、私は安心をもらっていたようにも思う。そういう、絶対的なもの。
 コバルトとトモさんのことを考えた。考えたけど、分からなかった。そんなの当たり前だ。私の両親にも、私たちのことは分からなかっただろう。夫婦の事は他人には分からない、というのではなく、夫婦の事は夫婦にしか分からないのだ。

 俺は、有(あり)が無事に生まれて来てくれた瞬間、ぼんやりしていた。
それは、何も考えられず、真っ白な世界で佇むようなぼんやりではなく、ものすごくカラフルで、猛スピードで色んなモノが蠢き、熱を発し、ぐるぐる回転しているようなぼんやりだった。色んな事を感じて、色んなことを考えているから、結果、そこに見える俺はぼんやりして、それまでのトモの苦しみの叫びが、有の誕生の泣き声で美しく塗り替えられていく空間でかみしめていた。トモと有と俺の、未来を。

 私には、何がなんだか解らなかった。頭の方にコバルトがいてくれて、私のおでこにそっと手を置いてくれていた。もう、そこからは、何が何だか解らない激痛に、耐えようというより、耐えさせられているというより、耐えなければならないというより、耐えるしかないというより、どれもうまくはまらない時間を、耐えていた。
生まれたよ、ありがとう。コバルトの声が優しくて、私は、なんだか背骨から全部抜け落ちたような脱力感で、有の泣き声も聞こえなかった。おめでとうございます、元気なあかちゃんですよ。周りでは、数人の看護師さんたちがおめでとうを連呼してくれる。だけど、私の心の中には、コバルトが言ってくれた、ありがとう、がずっとこだましていた。

 夫が、待合室に飛び込んできた。泣き声が聞こえたぞ。あれは、絶対うちの孫だ、と。分娩室の方へうろうろと落ち着きなく動き回って、一時間、二時間と経ったころか、夫の言った通りのタイミングで、孫は、有は、誕生した。
 私はコバルトを生んだときのことを思い出していた。思い出して、ぼんやり考えると、コバルトが待合室に来て、有の顔、見てやってよ、と私たちを別の部屋へと誘った。ちっこいな。お前も、こんなだったんだよな。夫が独り言を言う度に、コバルトが笑っている。
 私の顔からも笑顔はこぼれている。トモさんは、大丈夫なの? と私が聞き、コバルトは大きく頷いた。それにしても、すごかった、この世の終わりかってぐらい叫んでた、とトモさんの顔を真似、夫は笑うが、私は笑わなかった。笑えなかった。なぜなら、知っているからだ。だから、その分、トモさんに感謝した。
 私たちには言えないことも多々あって、いろんな苦労や危険もあったのだろう。トモさんは、そういうのをしっかり調べる人だ。その上で、覚悟を持って出産に臨んだのだ。私は、元気いっぱいに泣き声を上げる孫を産んでくれた。もう、それで十分だった。本当に感謝しかない。

 俺の携帯に、一番はやくおめでとうメールをくれたのは、圭太さんだった。「有(あり)か、言い名前だな。おめでとう。今は、トモさんに、今までで一番やさしくしろよ。コバルト! 生きることは責任である! K」
 圭太さんのところも、妊娠中だとトモから聞いていた。だから、俺たちの子供の誕生に、いち早く反応してくれたのかも知れない。学生で、いちアルバイトで、手が空いているからと手伝いにもならない手伝いで参加したミーティングで、あの時、圭太さんが言った言葉。生きることは責任である。俺は、生きることを考えて、そこに責任があるということに鈍感なんだろうな、と思ったのを思い出す。権利があって義務がある。それはあくまでも自分にとっての自分のこと。生きる自分にとって、他の者に対する責任。それが、誰にでもある。生まれて来てくれた有には、まずは、俺とトモに対して、彼が生き続ける責任があるのだ。なんだか、この俺たちの結びつきが気持ちよかった。雰囲気やムードなんていう、なんとなくというあやふやなモノではなく、明確。確固たるものとしてある。それが、揺るぎないものとなり、その土台の上で起こる様々なこととは、しっかりと線引きができた。
 有が生まれてから、会社でのことが、家庭に進入してくることはなくなった。有がいて、トモがいる。有の夜泣きに付き合い、授乳して寝付かせるのに手間取って、いつまでも眠れない。そのことに対する疲れ、苛立ち。トモは、有のせいで、いつもどこかで疲れていて、そんなトモを思い切り笑わせることができた唯一の存在もまた、有だった。俺は、何もできなかった。何かをしようとしても、いつもトモは心配そうに見ていて、完全に任せることは出来ないらしかった。俺の中にもどこか、例えば、夜泣きで起きて、トモが授乳なりおむつ換えをして、その後、俺が抱っこして部屋中をゆっくり歩き回っても、一向に泣き止まず、トモは寝ているのを見たりすると、明日、俺は会社なんだけどな、朝、早いんだけどな、トモは、ずっと家にいるのにな、と、思わなかったと言えば嘘になる。そんな些細な事がたまってくると、喧嘩もした。トモからすれば、ずっと家にいるから疲れるのであって、早く、少しでも外に出られるようになりたい、と言ったりもしていた。
 入社二年目、二十三歳で父親になった。そのことが、会社のみんなに知れ渡ると、一様に驚いていた。結婚するとは思わなかった。それも、こんなに早く、と口々に言われ、せっかくブーのお気に入りだったのに、とか、ちゃんと承諾を得てから結婚したのか、なんて冗談っぽく言われることもあった。
 今まで、一日の中で一番長く過ごす会社でのことが、ここでのピース違いやボタンの掛け違いが、ずるずると尾を引いていたのに、自分の中のベースが「家」になると、逆に、家でのちょっとしたすれ違いや言い争いが、会社の方に影響し始めた。

 孫の有が成長する。そのスピードに合わせて、コバルトもトモさんも、家族の濃度を増しているように感じた。三ヶ月ほどすると、天気の良い日には、トモさんと有が散歩の途中に寄ってくれて、私は、トモさんを居間に上げて、休んでもらって、有を独り占めした。これは、両者にとって、非常にありがたい時間だ。トモさんは、有のことを心配せず、スマートフォンをいじったり、何処かに電話したりしながら、一人の時間を過ごし、私は夫に店番を任せて、有と散歩する。団地の小道には、花がいっぱい咲いている。有は、花や虫が大好きだ。実際には、分かっていないが、蝶々を見ると、ニコニコ笑う。サクラの時期には、サクラを見上げながら、声を出して笑った。
 トモさんが仕事に復帰したのは、有が一歳になるちょっと前だった。私たちが面倒をみるから、保育園なんて入れなくていいというのに、それではさすがにトモさんが気を遣うから、とコバルトたちは、有を保育園に預けることにしたらしい。一歳になるかならないかの子を他人に預けるなんて、可哀想だ。私は、ずっと思っていた。しかも、その預ける保育園は、団地の中にあり、かつて、団地ブームの時に子供がたくさんいたとき開園したものだった。今では、一歳児が数人という小規模で、目は行き届いているようだった。にしても、店の前の一本道を駅の方へ向かう途中に保育園はあり、歩いたら三分とかからないのだ。
 まぁ、それでも、私たちに気を遣って保育園に預けるなら、それはそれでいいし、確かに、毎日、有の世話をするのも、年齢的に厳しいかも知れない。毎朝、コバルトが保育園まで送って、帰りは七時にトモさんが迎えに行く。トモさんが遅くなると時は、私が代わりに迎えに行く。そして、私たちの家に、コバルトかトモさんが有を引き取りに来る。どうしても泣いて、保育園に行けないとき、コバルトはよく、うちに有を預けに来た。ごめん、かあさん、助けて、と。私は、しょうが無いわね、とかなんとか、その日は一日幸せなものだった。ミルクやおむつの入ったバックごと預かり、一日、有とデートする、そんな気分。実は、私よりも、そんな日は、夫の方が嬉しかったのかも知れない。
 保育園にも慣れて、トモさんの代わりに私が迎えに行っても、まだ帰らない、遊んでる、と言い出すこともあるようになったのは三歳になってから。有には、早くも、有の世界があった。親も祖父母も知らない、孫だけの世界。
 トモさんは、だんだん本格的に仕事を始めており、ほぼ毎日、保育園へ迎えに行くのは私になっていた。それを見ながら、夫は、有を引き取りに来るトモさんに、二人目はどうするんだ、と聞くことが多くなった。私も夫も、有には、是非、兄弟を作ってやってほしかった。コバルトは、小学校に上がる前や、小学生の頃、中学生になってもまだ、兄弟が欲しいと言っていた。それを聞く度に、申し訳ないと思ったものだ。
 そんな思いはして欲しくないし、やっぱり、有には兄弟がいた方がいいような気もした。そうなると、四十歳になったトモさんにとって、二人目を考えるならぎりぎりの年齢というのもあった。
私たちは、歳がいってからコバルトを生んだので、どこか孫感覚だった。私も夫も、お互いにやりたいことは一通りして、だから子育てに専念できた。そもそも、子育てをしている年齢なのに、と焦りもしていたから、渇望した子育てだったのだ。ほとんどの事よりも最優先という姿勢で、コバルトを育てた。
 たけど、実際に孫が出来てみると、孫感覚だった息子とは全然違った。孫は孫だけの持つ、特別で絶対的な可愛さがある。そして、二十代で子を生んでも、コバルトを見ていると、ほとんどの事よりも最優先という姿勢で子育てをしている。四十歳までは自然に任せて、もし授からなかったら、一人っ子でもいい。私たち夫婦が、頭でっかちで考えて、勝手に思い込んでいたものが、なんだか違っていたような気がしてならず、私と夫の間では、ヒマさえ有ればトモさんの年齢、身体の状況、そして有の兄弟の話になった。
 四歳になる。有は元気いっぱいに育った。成長するにつれ、顔も変わっていき、ずっとトモさんの顔そのものだったが、コバルトの要素も入ってきた。
 一度、夫が有に直接、「おとうとか、いもうとほしいよな」と聞いたことがあり、それを有がトモさんに言ったらしく、コレばかりは、コバルトにひどく叱られた。有には、ちょっと、弟か妹とか、言わないで欲しい。彼は、優しくしか代弁できない。トモさんの気持ちが痛いほど分かる。私は、トモさんの気持ちを、その強さのまま、夫を非難した。だから、許して欲しいとトモさんにメールをしたが、返信はなかった。
 この頃が、私にも夫にも、コバルトにも、そしてなによりトモさんにとって、一番辛かったように思う。二人目、二人目、二人目。その言葉を言う、言わないの加減もそうだし、触れてはいけないような感覚に凝り固まっていたことで、責められているように感じていたのはトモさんなのだ。私には分かる。私は、夫と結婚してからずっとここまで来て、もうゴールは近い。しかし、これからのコバルトたちには、いくつもの道がある。選択肢がある。どこを選んで進んだっていい。無限なのだ。
 私は、ある日の店番で、そんなことを考えながら、これまで歩いてきた一本道を振り返った。その道が、店の小窓から見える駅までの一本道と重なりあった。振り返った道も、これから進むだろう道も、結局は一本なのか、と思った。私は、ハッとした。あれもこれもと、なんだか自分じゃ選べなかったモノをトモさんたちに都合良く押しつけているではないか、と反省した。有に兄弟をつくってやってほしい。確かに、そう思う。でも、それはもう、止めた。
 夫に相談したのは、トモさんが二人目問題を忘れられること。今は、そこに集中しすぎているから、なんか、良い方法はないか。毎日のように夫と話して、ふと、夫が、「そういえば、あいつら、結婚式、どうするんだろうな」とつぶやいた。さぁあね、もうやらないんじゃないですか、と私は応えた。なんか良い方法はないかと言って考えているときに、そんなことはどうでもいいでしょう、とも思った。
 何日か考えて、それでも良い言葉が見つからず、ある日、コバルトが有を引き取りに来たとき、私の口から、ふっと「そういえば、あんたたち、結婚式はしないの?」と聞いた。お父さんが言ってたわよ、といって。「もう、しないよ、有も五歳になるし」。コバルトが自転車に有を乗せて、「ありがとう、じゃ」と手上げて帰って行った。その後ろ姿を見る。もう、二十八歳になったのか、と考えてみる。早かったな、とも思う。色々あったけど、よかったな、と改めて思う。私たちのところに、コバルトが生まれて来てくれて、本当によかったな、と。

 ちょっと、話があるから、今度の土曜、三人で行っていい?
 コバルトから、電話があった。夫も私も、もしかしたら、二人目を授かったか、と思わなかったかと言えば、嘘になる。電話では言えないことなのか、と夫は、責めるように私に言う。気持ちは分かる。私もそう思う。なんだか、そわそわしてしまい、その日、店は臨時休業にしてしまった。
 昼に来るのか、夕方に来るのか、ご飯は食べるのか。まぁ、一日中、いつ来たってかまわないし、ご飯なんて、食べると言えば作るし、いらないんだったら作らない。もう、三人がやってくるまでドキドキしていた。

 おばあちゃ〜ん、ねぇ、ねぇ、しってる? ぼくね、おとうとなんだよ。でもね〜、もうおほしさまになっちゃったから、あえないんだけどね

 有が大きな声で、そう言いながら居間に入ってきて、ドキッとした。一瞬、やっぱり、妊娠したのか、とも思った。だけど、弟、お星さま。その単語をもう一度、かみ砕いてみる。少し遅れて、トモさんとコバルトが入ってきて、ニコニコ笑っている。いや、やっぱりそうなのか、と私はなぜかドキドキした。トイレに入っていた夫が、居間に来て、なんだ、なんだ、できたのか、二人目? と、単刀直入に聞く。コバルトはきょとんとした顔をしている。トモさんは、なんとも言えない表情だった。
 違った。がっくりきた。勝手に想像して、膨らんで、そうかもしれないという偶然の言葉をつなぎ合わせて、そしてがっくりきた。それが、なんだか可笑しかった。
 三人揃ってわざわざ来たのは、簡単な結婚式を挙げることにした、という報告だった。あの時、私がコバルトに言って、それをトモさんに言ったら、トモさんも思い出したのかも知れない。私たちが、結婚式に出られるチャンスはコバルトにしかない、ということ。ちょっと急に、話が盛り上がって、トモさんの会社のメンバーが中心になって、ふたりの結婚式を挙げてくれるらしい。
 サイドエリアにある、庭付きの民家を改造した、イタリアンレストラン。そこで、結婚式を挙げるそうだ。日取りと、その日の簡単なスケジュール、少ないけど、何人か親戚も呼んで欲しいと言われた。招待する親戚の選定は私たちに任された。トモさんの方からは、トモさんのご兄弟が家族を連れて来てくれるらしい。お父様は、去年から入院しているので、東京まで来るのは無理なのだそうだ。それを聞いた夫が、退院されるのを待ってからでもいいんじゃないかと言ったが、トモさんは、今のうちにやっておいた方が良いかもしれない病気なのだと言った。
 当日は、テレビ電話を繋いで、病室で見るらしい。最近は、タブレットいう小さい画面で、ライブ映像が見られるようなのだ。二人は、とても楽しそうに話している。有もニコニコしている。兄弟がいる、と知ったことが嬉しかったのだろうか。おそらく、有が保育園で、お友達には兄弟がいるのに、自分にはいないのはなぜか、いつ来て(、、)くれる(、、、)のか、というようなことを尋ねたのだろう。それで、トモさんか、コバルトが、いやもしかすると二人で、困り果てた末に伝えたのだろう。生まれてこられなかった、有のお兄ちゃんか、お姉ちゃんの話を。
 コバルトにとっても、トモさんにとっても、それは辛かっただろうな、と想像する。だけど、もしかすると、この結婚式の話が出て、それに邁進する中で、だから有にはちゃんと伝えられたような気もする。居間にいる三人。いや、私たち夫婦も合わせて、五人全員が、前を見ている。楽しそうにしている。その空間が、私には心地よかった。最高、だった。
 色んな選択肢の中から選んで歩いて、振り返って一本になった、わけじゃないかもしれないとも思った。実は、ずっと一本道で、選ぶべくして選んだ道。もう、それは初めから進むと決まっていた道。その道を進むために、もしあのとき、こうしていたら、というような複雑に見える何かがあるだけで、それは、全部、今を笑うためなのだ。笑えないときは、その先を笑うためなのだ。
 夫が、コバルトを授かったときに言っていた言葉がふと浮かんだ。
「人間ってさ、結局は、笑うために泣いたり、怒ったりするんだろうな」
 
 結婚式当日。もっと手作り感あふれたものかと思っていると、かなり本格的だった。私は、もしかすると人生で最後かもしれない着物に袖を通し、夫は、久しぶりに正装だった。歳はいっても、スタイルだけはいい。だから、似合っていた。そのスタイルを遺伝したコバルトは、シルバーの、すこし光沢のあるタキシード姿で、横に居るウエディングドレスのトモさんを引き立てていた。有は、黒で決めた一張羅だったが、すでに尻と膝のところが汚れていた。じっとしていろ、という方が無理な話だ。
 秋田から、新幹線で来てくださったトモさんの親戚、友人の方々、そして、うちの親戚、コバルトの友人。全部で五十人ほどになっていた。堅苦しいセレモニーは、しっかりと堅苦しく、歓談の時は、立食形式で、なんともカジュアルに。メリハリのきいた結婚式ですね、と、トモさんの働く会社の社長さん夫婦がおっしゃっていた。私は、今、本当に思う。コバルトの門出を、しっかりとした形で見られることができて、本当に良かった。
 式も終盤に入り、誓いのキスであれだけワイワイ騒いでいた友人達も、ハンカチをもって涙を拭うスピーチに入る。サプライズがいくつも用意されていた。一つ目は、有から、パパとママへの手紙だった。

 ぱぱとままへ
 だいすき これからも いっぱい だいすき
 ぱぱへ かっこいい
 ままへ ままもかっこいい
 ずっと かっこいいよ
 ありもかっこよくなって
 ぱぱとままと ずっとあそびたいです
 おめでとう

 拍手喝采の中、有は得意げな顔でピースサインを作る。コバルトが後ろから抱え上げ、肩車をした。その肩の上の有に、参列者から、また惜しみない拍手がおくられた。
 二つ目のサプライズは、秋田のお父さんからの生メッセージだった。映し出されたお父さんは、丸の内のレストランで会ったときよりも、ずいぶん痩せていた。話すのも、少し、苦しそうだった。タブレットについている、小さなカメラをのぞき込みながら、

 自慢の娘です。よろしく頼みます。ありがとう。おめでとう。

 トモさんは、泣いていた。私も、涙が止まらなかった。みんな、トモさんとコバルトを見ていた。
そして、花嫁の挨拶、かと期待していると、トモさんが、それだけはどうしても照れるからといって断った、という件が、トモさんの同僚でもある司会者から説明され、「まぁ、四十過ぎの花嫁のわがままですので」と言って笑いを取っていた。
 最後のサプライズ。最後の挨拶はコバルトだ。これで、式が終わる。二人の、いや三人の、もしかすると、お星さまになってしまった子の分まで、四人の、門出だ。
 コバルトは、緊張したときに見せる、例の顔だった。眉と眉が真ん中に寄る。その表情は、小さい時から変わらない。小さく咳払い。満点の太陽。抜けるような青空だった。

 ええっと。本日は、私たちのために、お集まり頂き、誠にありがとうございます。
 私は、高校生の時に妻と出会いました。周りからは、騙されてる、なんか裏があるとさんざん言われる年齢差がありましたが、私は、初めから、今日まで、そしてたぶんこの先も、ずっと好きなんです。前に、ちょっと話したら、すごく怒られたのですが、たぶん、とろとろにとろけたチーズが、始めから、好きなのと似ていると思います。

 チーズだったら、歳いくと、食えなくなるぞ〜、と誰かが茶化すように言った。それで会場が、どっと沸いた。

 そうですかね。たぶん、おじいちゃんになっても、とろとろのチーズは好きだと思います。その自信だけは、あるんです。私は、妻と結婚して、本当に幸せ者です。有に出会えて、ラッキーです。なかなか、普段は言えないので、ちょっと言っていいですか? トモ。いや、トモさん、俺なんかでごめん、でもありがとう、愛している。そして、有、

 コバルトは、有の名前を言ってから、しばらく黙ってしまった。泣いているようだった。その様子を誰もが黙ったまま眺めていた。

 すいません。ええっと、有、ほんとに、ほんとに、生まれて来てくれてありがとう。パパも、パパのお父さんから言われたんだけど、ずっと、有を応援してるからな。応援してあげられるんだからね。それだけは、ずっと忘れないでいてね。

 しーんとして、降り注ぐ太陽の光の音が聞こえる様だった。シンシンシンシン、と。

 ええっと、最後に、私たちには、苦しい経験がありました。子供を授かりながら、顔を見ることができなかった子がいました。それが分かった時、病室で、私は妻と二人でした。私は、眠ってしまったのですが、妻はずっと眠れず、その時、このメモを書きました。

 おそらく、このことはトモさんも知らなかったのだろう。驚いた顔で、コバルトの方を見ていた。

 私は、こっそり、このメモを今日までずっと持ってました。落ち込んだときとか、一人で駅前のタコキングにいるときとか、通勤電車とか、そういうところで読み返してきました。それを、ここで、ちょっと読みたいと思います。これは、私たちの宣言であり、私たちが家族になった理由だとも思うからです。有、有にはちょっと難しいけど、しっかり聞いててね。

 空は、空らしい色と形なんだな、と私は、見上げながら思っていた。ここに、集まって祝ってくれる人たち。コバルトは、こんなにもたくさんの方々に祝福されている。それが、急に、とてつもなく嬉しくなった。隣で、夫も、泣いていた。



[了]

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