ボブ・ディラン。もしくは、BOB DYLAN。この、アメリカを代表する「シンガー」が、ことばとして、最近、氾濫しているように思う。ノーベル『文学賞』に輝いて、数日間の世界。2016年10月、受賞が報道されると、ボブ・ディラン本人は何もコメントせず、賞を贈る側のスタッフも本人にコンタクト出来ていないと言う状態。日本では、村上春樹さんの受賞かと期待がふくらみ、違ったことへの落胆が、ここ10年の風物詩で、もはや「季語」いう人までいて、アメリカでは賛否両論。小説家が、「と言うことは、私もグラミー賞がとれるのか」と皮肉ることもあるとか。

ノーベル文学賞は、もともと、作家個人に与えるもので、「作品」に贈るものではない。なので、受賞した作家の代表作が、発表翌日から本屋に並ぶというのが例年のことだが、今回はCDショップがその対応。

そもそも、グラミー(音楽)、アカデミー(映画)をとって、ノーベル(文学)というこの三冠は、凄まじい。誰かが言うには、「ディランは、ノーベル賞を必要としていないが、文学は、ノーベル賞を必要としている」。史上初、作家ではなく、歌手に贈られたノーベル文学賞。その受賞理由は、「偉大な米国の歌の伝統の中に、新たな詩的表現を創造した」こと。

名曲の数々が、しゃがれた声で流れ。それが文学賞という違和感。作詞を並べた一冊がでるのか否か。それも英語でないと、韻をよんだり、リズムに酔ったりできないだろうから、その発売を待つか。

それまでは、「よく知らないけど、すごい」ボブ・ディランという言葉だけが、一人歩きするのか。

2016.10.16記