〈先頭を走ります、光来学院大学の高橋ですが、様子がおかしいようですね、解説の脇田さん、どう思われますか?〉
 眉間に皺をよせたぼくの顔が、ブラウン管にうっすらと映る。舌打ちをして、落ちた黄色いタマゴをつまんだ。そして、またカップ麺を啜った。
〈十キロを過ぎた辺りから、しきりに、右の太ももを気にしているようですね〉
 モワっとしたフレーバーが、鼻をつく。チキン。不味くないが、旨くもない。色んなものを誤魔化して、似せただけのインスタント。
〈レース前、監督がおっしゃっていた通り、高橋は、万全ではないということですね〉
〈そう考えるべきでしょう〉
〈あぁ、また、太ももを揉むようにして、押さえています〉
〈これは、相当に辛そうですよ〉

 プルプルプル プルプルプル……

〈今年で九十三回を数えます、箱根駅伝。現在、各校のエースがそろう二区で、トップを走りますのは、連覇を狙う光来学院大学の高橋。その胸には、しっかりと、襷がかけられております〉

 ズルズル、ズルズル。プルプルプル、プルプルプル……

〈このところ、暖かい日が続いておりましたが、年が明けて一気に気温が下がり、今朝は、関東地方でも雪がちらついておりました。この急激な気温の変化が、選手にどう影響するのか。現在トップは光来学院大学、二位と大きく差をあけて、早くも独走かと思われましたが、先程からお伝えしています通り、エースの高橋に、何か異変が起こっているようです〉
〈もう、二位集団が、後ろに見えてきましたよ〉
 アナウンサーの声、麺を啜る音、鳴り響く電話の音。それらが融合してもなお、静かなワンルーム。漂うのは、気怠いリズムで、一定の音波は、どれも耳鳴りで、頭の中をただ混ぜ返す。

 ぼくは、いつだってそうだ
 周りで起こることを
 見るようで見ないし
 聞くようで聞かない
 触れる前に
 溶けて無くなるのを
 じっと待つだけ

〈テレビをご覧のみなさんにも確認できるかと思います。現在、二位集団は三校。距離にして……〉
〈百メートルといったところ、じゃないでしょうか〉

 プルプルプル、プルプルプル……

 食べ終えたカップ麺をゴミ箱に捨てる。電話の相手は、諦めて呼び出し音を止めた。テレビにも飽きた。ぼくは、スイッチを切った。何分か前の、いつもの状態になる。ぼくだけが、居る空間。追いつめられ、傷ついたエースの歪んだ顔。あの高橋の姿。この部屋から、箱根までの距離は遠く、なのに、近いと思わせるバーチャル。 彼のタンクトップには、学校名が記されていた。肩からは、黄色い襷がかけられていた。その襷には、いくつもの染みができていた、ように思う。静寂の中で、混乱する。静かすぎて、消せない像。紛らすことの出来ない、気になる続き。「がんばれ」なんて言えない。ただ、彼の顔を思い浮かべ、近くて遠い別の世界を、ぼくは想う。高橋とぼく。ぼくが、高橋、なら……。
 また、電話が鳴り始めた。普段、携帯ばかりで、固定電話は使わない。かけてくるとしたら、実家ぐらいだ。相手が切らない限り、いつまでも続く呼び出し音。相手はきっと、儀礼的な新年の挨拶をして、義務を果たした満足感に浸るのだ。電話の相手は、継母に違いない。ぼくは、背後にある電話に目をやる。その上の、十二月のカレンダーを取り外す。今年のカレンダーは……まだない。呼び出し音が続く。終わる気配はない。このアパートの住人は、帰省することもなく、部屋の中でじっとしているのだろう。控え目ながら、人の動きが響いてくる。誰も、眠ってはいないはずだ。何か大きな「考え」の途中にいて、そのことで、ため息をついたり、胸を締め付けられたり、そうに違いない。みんなぼくと、同じはずだ。人間はいても、空っぽの空間。そんな空間を、まるでパチンコ玉のように跳ね返り、響き渡る呼び出し音。相手も、そして、その内容も分かる電話。ぼくは出たくなかった。
 この正月も帰省しなかった。毎日、仕事に追われながら、決して「熱く」なれずにいた。レールの上を運ばれるように、冬を迎え、気付けば、正月になっていた。帰省しようと思えば、それほど無理をしなくてもできたが、帰省しないための理由作りに、四苦八苦した。ぼくは、仕事を理由に、東京にいる。ぼくにとって、実家は、帰る場所として存在していないのだ。
 想像する。継母の「おめでとう」。それから「元気にしてるのか?」といういつもの挨拶。それで会話は尽き、後は、寒くなったことを話すのか、年末に起きた少年事件に云々するのか、それとも、近所の誰かの近況を聞かされるのか。とにかく、時間を消費する言葉だけを並べるのだろう。あの家の、階段下にある旧式の電話、コードのついた受話器を持ちながら、父にしつこく言われ、しょうがなくかけている継母の姿。鳴り響く呼び出し音が、だから、煩い。
 ぼくはまた、テレビのスイッチを入れる。高橋は、みるみる二位集団に差を詰められ、CMを挟むタイミングをはかりながら、ディレクターとアナウンサーの間で、ちぐはぐなやりとりが見て取れた。解説の脇田だけが、〈ん〜、あ〜〉とため息をついたり、驚きの声をあげたり、時には、意味不明な擬音を連発していた。電話は、鳴り続ける。もしもここに、先輩教師の吉野がいたら、早く出ろよと、ぼくの頭をはたいただろう。もう限界なのか、画面が突然、CMに切り替わった。ぼくは、それと同時に、座椅子を倒して、受話器を取った。

「あっ、カケルか? なんや、あんたおったんかいな。ぜんぜん、出えへんから、メッセージだけでも残しとこ思て。そこ、留守電、無かったんかいな?」
「いや、あるけど、セットするの忘れてた。なに?」
「なに? って。お父さんがなぁ、電話せえせえって、うるさいから。あっ、あけましておめでとう」
「はい、はい。ほなら、切るで」
「ちょっと、待ってや、『お父さ〜ん、出たよ。しゃべらへんのか?』『元気やゆうてたら、それでええ』『ほんなら、もう切っても、ええねんな?』 あ、もしもし、カケル。ほならな。最近、急に寒なったから、風邪ひかんように気つけや」
「はいはい」
「あっ、そうや、また岡田さんとこの息子さん、ほれ、あれ、なんて言うんやったかいな……」
ぼくは、寝ころんだまま、右足の先でテレビのボリュームを上げる。子機を耳にあて、画面を眺めていた。高橋は、もう二位集団に吸収される。彼はもう、右足を引きずるようにして走っていた。顔は、走っていることを忘れているかのような、地獄。それはものすごく、リアルだった。
「んっ、うん」
「あんた、人の話、聞いてんのか? そやし、あんたも気つけんと。変なんに騙されて、大金とられてからでは、遅いんやで。他人事やないんやから。な、」
「はい、はい、ほなら」
ぼくは、子機を後ろのベッドに放り投げた。
〈あっとぉ〜、光来学院大学の高橋、ついに、止まりましたぁ〜〉
 ぼくは、高橋が見ているだろう景色を想像した。前を走る中継車。黄色と黒のデジタル計時。テレビカメラを抱えたカメラマン。背後から迫る足音、息づかい。リアルみたいなバーチャル。二位集団は、彼を一気に追い抜き、そのまま離れていった。そして、画面から、高橋の姿が、消えた。白いタンクトップの高橋に代わって、画面いっぱいに映し出されたのは、黄緑と紫と小豆色のタンクトップ。先頭集団が三人になった。彼らは、並ぶように快走していた。軽快に走る彼らの姿を見ていると、ぼくは落ち着く。川が流れるように、風が吹くように、ランナーが快調に走る。その光景は安定して、気持ちを楽にしてくれる。とても静かに感じるられる。

「もしもし」
 今度は、ぼくから、実家に電話をかけた。
「あ、和恵さん、父さんいる?」
 電話に出た継母は、「ちょっと待ちや」とだけ言うと、受話器を置いて離れていった。スリッパの音がかすかに聞こえた。ぼくは、継母のことを「和恵さん」と呼んでいる。「おばちゃん」と呼び始めて、ちょっと、とか、なぁ、に変わり、和恵さん、で落ち着いた。母さんと呼んだことはない。
 和恵さんがうちに来たのは、五年前。始めは、お互いに気を遣い、必要以上に疲れていた。元来、口数の少ないぼくも、それなりに努力した。そんなぼくのことを、小学生の頃から知っているおしゃべりな和恵さんも、どこかぎこちなかった。どの言葉にも「よろしくね、仲良くやりましょうね」という気持ちを込めているようだった。臆することなく話すように見えても、彼女なりに、努力していたのだろう。しばらく経つと、和恵さんも諦めたのか、必要なこと以外は話さない、という、今のような二人の関係になった。お互い、少なくともぼくにとっては、ベストな関係。和恵さんは、父の再婚相手だが、ぼくの母親ではない。彼女にとってぼくは、夫の連れ子だが、息子ではないのだ。ぼくらには、それ以上のモノはない。ジメジメせず、とてもドライで心地よかった。
 ただ、父だけは違った。いつまでも「親子」という強引な関係に固執した。時には、和恵さんを責め、またある時は、ぼくに協力を求めた。ぼくが幼少の頃から、実母は入退院を繰り返していた。父は、仕事と母の看病に追われていた。父の職場である学校でも問題が続発し、学校と家庭で手一杯の形相。そっと覗き見る父に、ぼく(、、)の(、)分(、)の(、)余裕はなかった。一人っ子であるぼくは、いつも空想の中で「遊ぶ」か、本を読むことしかできなかった。子供心に、だだをこねたり、甘えたりは、しちゃいけないと思っていた。疲れ切った父の顔が、病院で寝ている母の顔よりも、そう思わせていたのかも知れない。居て欲しい時にはなく、思春期を過ぎた時期に、「母」だと言われても、和恵さんは、和恵さんだったし、「母」は二つと無い。そんなことで、いじけてしまうほど、ぼくは子供じみてないと思っていたが、やはり、心のどこかで、それに近い気持ちがあった。母さんと呼ぶことに、抵抗していた。
 和恵さんは、細胞の隅々まで明るく、元気な女性だ。考え方はポジティブ。よく気が利くし、社交的でユーモアもある。だけど、それらの要素が、ぼくにとっては、全てマイナスに働いた。とにかく、彼女を避けたかった。ぼくには、ポジティブな考え方も、社交的な面も、他人より気が利くことも、ユーモアだって……、ない。和恵さんと同じ空間にいると、とても焦ってしまう。彼女を見ているだけで、自分を否定してしまう。和恵さんを遠ざけるぼく。それが伝わり、ぼくと距離を置く和恵さん。当事者同士にだけ分かる、最良な距離感と、その快適さ。それが分からずイライラする父。

「もしもし、カケルか」
「あぁ。あけましておめでとう」
「おぉ、おめでとさん。どうや、東京は? だいぶ、慣れたか?」
「やることがいっぱいあって、毎日、終電で帰ってる。今日もこれから学校に行って、やらなあかんことがたまってるし」
「そうか。そりゃ大変やなぁ。まぁ、始めのうちは、慣れへんから何でも大変なんや。とにかく、がんばれ」
「うん」
 頭の中で、高橋が、太ももを押さえながら走っていた。
「まぁ、担任になったら、色々あるからなぁ。父さんも、初めて担任まかされた時は、そらそら、大変やった。始業式までに、生徒ぜんぶの名前を覚えてな、ほんでギャグなんかも、いくつか持っとった。ぜんぜんウケへんさかい、お前ら笑わんかい、言うて怒鳴ったこともあったわ」
 父は、嬉しいんだろうな、とぼくは思った。
「そやけど、一番大変やったんは、家庭訪問やな。あれは参ったなぁ〜。なにしろ初めてやろ、そやさかい、一軒、一軒、丁寧に話して、出されたもんは全部食べて、飲んでな。最後の方になったら、時間は遅なるわ、腹はちゃぷちゃぷやわで、それが二週間以上も続くんやさかい。今は一クラス三十人もおらんやろうけど、父さんらん時は、少のうても四十五人はおったさかいな。この時間に行きます、言うてても留守やったりな。家で仕事してるとこなんかは、子供のこと聞かんと、仕事場で作業の工程を一時間ぐらい聞かされたこともあったなぁ」
 父だったら、高橋に手を差し出すのだろうか。もし、父が高橋のことを知れば、ぼくが高橋なら……。
「そやけど、カケルはこっちで二年間研修しとったさかい、だいぶ慣れとんのとちゃうんか?」
「いや、研修っていっても、副担任やったし、ほとんど教えてもらうばっかりやったから。それに色々あって、あんまり、うまいこといってなかったし。こっちに来て、いきなり担任持たされても、わからんことが多いよ。副担任の先生が、ぼくより二つも年上の同期なんやけど、それも、気つかうしな」
「吉野君は? 色々教えてもろてるか?」
「あ、うん」
「そうか。あいつは、優秀な生徒やったさかいな。よう覚えてんのが、あいつサッカー部やったやろ。ある時な、練習さぼって喫茶店にいた部員を、あいつが見つけよったんや。ほんで、父さんとこに、こっそり言いにきよった。顧問の先生に言うたら、そいつらが試合に出られへんようになるからいうてな」
 サッカー部、さぼり、喫茶店。まるでドラマに出てくるような学校生活が、父の時代には、本当にあったのだ。
「あいつは、勉強はできるんやけど、運動はさっぱりでな、万年補欠やった。そやのに、試験期間中でも休まんとサッカーの練習に行っとったなぁ。そのさぼっとるやつらが試合に出られへんかったら、お前が出られるやないか、って父さんが言うたら、あいつ、それでは勝てへんからって。結局、最後まで部活して、現役で国立に合格したんやさかい、たいしたもんや」
「そうなん? 吉野先生、今はうちのサッカー部の顧問で、自分は、サッカーだけは才能ある、っていうてるけどな」
「サッカー以外やったら、あいつは、才能あるよ」
歯車がかみ合って、会話が乗る。こんな感覚は、久しぶりだった。父を透かして吉野先生がいるようで、いつもブツブツ胸の中だけに吐いている言葉が、自分の声が、受話器を通して、父の耳に届いている、実感。
「そういや、吉野先生が言うてたよ。父さんは、めちゃめちゃ怖かったって」
「そんなこと言うてるんか、あいつ。あぁ、まぁ、そうかも知れんな。あの頃、父さんも、若かったさかいな。もう、何年前や? んっ? 十……、十五年前になるんか。十五年かぁ。お前が、もう二十三やさかいな。父さんも、五十六になってしもたわ。歳いったなぁ」
「五十六なんか、もう」
「そやけど、父さんはな、生徒が怖がって、しゃべってもくれへんような教師にだけは、絶対なりたなかったし、そうはなってないっていう自信はあるんや。学校の先生みたいなもん、生徒といかに会話できるかにかかってるんや。それがあって、初めて教えたり、伝えたりできる。それがのうて、ただ授業でしゃべってるだけやったら、NHKのラジオ放送と一緒や。お前も、それだけは気つけんとあかんぞ」
 高橋の襷が、ヒラヒラと、ぼくの頭の中でさまよう。ぼくは、この父から、そして死んでしまった母から、襷を受け取ったのだろうか?
「お母さんも、最近は体がえらいみたいやわ。年末にほれ、毎年やってる飯田さんとこの餅つきあるやろ、あれに行ってから、腰が痛い、腰が痛い、いうて寝正月や。まぁ、もうお母さんも歳やさかいなぁ」
「……」
「お前、二月の連休は帰ってこられるんか。いつでもええさかい、帰って来いよ」
「できればそうする。で、父さんは大丈夫なん? 腰とか」
「ワシか? 丈夫なもんや。教頭みたいなもん、校長になる意志がなかったら、ただの便利屋やさかいな。あっち行ったり、こっち行ったりしとるわ。定年までに校長にもなれへんやろうし、まぁ、このまま、あと何年かしたら退職や。それを待つだけやな。教師を三十年以上やってきたさかい、退職したらのんびりさせてもらうわ」
「長いなぁ。三十年かぁ。ぼくも、これからまだまだやっていくんやな、教師」
「まっ、あかん時ばっかりちゃうさかいな。そら嬉しいて、泣いてしまうこともある。そやさかい、またがんばれる。あっちゅう間や、そんなもん。カケルは、とにかく、はよ慣れるようにがんばれ」
「うん」
「吉野君、こっちに帰ってきてるんか?」
「よくは知らんけど、奥さんの実家が東北で、そっちに行くっていうてたけど」
「そうか。久しぶりに、一緒に飲みにでも行きたいと思とったんやけどな。あいつは、高校生の時から先生になりたい、父さんみたいになりたい、っていうてくれてたんや。嬉しかったなぁ。大人になったら、酒おごったろって約束もしてくれた。覚えてへんやろな」
「吉野先生が言うには、ぼくと父さんは、まったく違うタイプの教師なんやって」
「どういう意味や?」
「なんか、ぼくは父さんと違って熱がない、って。さっき、担任になった時、名前覚えたりしたって、言うてたやろ? ぼくは、そんなこと、なかったもん」
「まぁ、いろんなタイプがあるよ」
「向いてないんかな、やっぱり」
「そんなこと、まだわからんやろ。ただな、どんな教師でも、一番大事なんは、一つだけや。生徒はな、三十過ぎても、家庭持っても、もしかしたら、そのもっと先まで、長い人生ずっと、教師の言葉を覚えとるんや。ええ言葉も、あかん言葉も。ワシらがやってることの答えは、ずっとずっと先に、それぞれの生徒の中で出てくる。そやさかい、焦ったらあかん。なんでもそうや。問題が出てきたら、取り繕ろうたらあかん。じっくり、根っこの部分から見ていかんと、また同じ結果になるだけや。教えることなんか、ほんまのちょっとや。一番肝心なんは、一人ひとりちゃう個性があって、足らんとこも別々。それをしっかり見極めて、しっかり伝えてやる。間違ごうてるんやったら、分かるまで伝えてやる。ほなら、いつかその生徒が、ほんまに困った時、フッと思い出すんや、教師の、お前の、言葉をな。分かるか?」
「うん」
「まぁええ。とにかくがんばれ。父さんが、言うてやれんのは、それだけや」

 話すだけ話すと、父は電話を切った。よくしゃべるようになったなと、ぼくは、子機を持ったまま思う。記憶の中にある父は、あんなにしゃべる人ではなかった。母が死んで、看病することから解き放たれたことが、父を変えたのか。和恵さんの「明るさ」と「元気」が、父のスイッチをオンにしたのか。どちらも否定できないだろう。何より、離れて暮らし始めた息子と、久しぶりに話すという状況がそうさせたのかもしれない。とにかく、父は、人が変わったようだった。変わったと言うよりも、外で見せていた顔を、うちでも見せるようになったということかも知れない。父と話すと、急に正月気分になった。
 昔、正月といえばいつも、母方の実家に行き、そこにいる同年代の子供と遊んでいた。凸凹なので、自転車で通ると、おかしなぐらい揺れたあぜ道。どぶ川の表面は凍り、そこに石を投げて穴を開けたり、離れにあった、脱穀機のスイッチを勝手に入れて怒られたり。凧上げも、コマ回しもそこで覚え、ちょっと自慢できるぐらい、ぼくは上手かった。ただ、同じ小学校には、そんなことをして遊ぶ友達は、いなかった。ぼくの学校では、『プレステ』が上手くないとハナシにならなかったのだ。プレステなんて、それが欲しいだなんて、言えなかった。だからこそ、正月の帰省が、大好きだった。冬休みになるとすぐに、山の中の田舎に行く。大晦日から三日までは大阪の家に戻り、一時退院を許された母と父の三人、家族水入らずの正月を過ごす。母が病院に戻ると、ぼくはまた田舎に行く。そして、始業式の前日に帰ってくる。それが、ぼくの正月だった。電話の子機を持ったまま、ぼくは、あの山道を思い出していた。高速道路を運転する、父の姿を回想していた。
 左腕がしびれてきたので、ぼくは子機を戻し、そのままテレビを消そうと、何気なくチャンネルを変えてみる。若手のお笑いコンビや、師匠クラスの芸人が、ゲームをしたり、各地の新年の様子を生中継でつないだり。どの番組も代わり映えがなく、一様に華やかで、笑いに溢れていた。炬燵と蜜柑が、似合う雰囲気。ぼくはひとり、座椅子を倒して、また寝ころんだ。オレンジや黄色がチカチカする画面。パチパチとチャンネルを変える。一瞬、駅伝にチャンネルが合ったが、そのままの勢いでチャンネルを変えた。それを二巡ほど繰り返した後、なんとなく気になり、駅伝にチャンネルを合わせた。そこには、悲劇のエース、高橋が画面いっぱいに映し出されていた。画面の中の彼は、歩いている。歩いてはいたが、まだ止まってはいなかった。
〈はい、こちら三号車です。現在も光来学院大学の高橋は、歩いては止まり、また歩きという状況が続いております。トップとの差は約十二分。先程から、武部監督が止めさせようと近づくんですが、高橋は、首を振って応じようとはしません〉
 画面右下に、小さく映っていた先頭集団が、変わって一面に映し出される。
〈ありがとうございます。依然、トップ集団は三校。いずれも昨年の区間記録を上回るハイペースでここまで来ております。そして、はるか後方には、光来学院大学の高橋が、まだ進むことを止めず歩いています。胸にかけた襷。そこに込められた想いと、それをつなぐという責任感。脇田さん、彼を動かしているのは、その重みということになるんでしょうね〉
〈そうですね。ただ、あまり無理はして欲しくないですね。彼には、将来がありますから〉
〈では、ここでお知らせです〉
 CMに変わり、ぼくは乾いたため息をついた。太ももを押さえながら、顔を歪めて走っていた首位の高橋を思い浮かべ、歩いては止まる「今の」彼を重ねる。彼に投げかける言葉を、ぼくは小さくつぶやいた、「もう、ええやろ」。
 隣の部屋、廊下、窓のすぐ前を通る道路。みんな正月休みなんだ。急に、そんなことが「特別」に思えて、フワッと浮き上がる気持ちになった。門松も着物姿も雑煮もない、普段通りのアパートが、それでも独特の新年の風の中にあった。
 ぼくが、このアパートに来たのは、去年の五月。連休明けに大急ぎで決め、ボストンバック一つ分の荷物を持って引っ越してきた。四月の入学式に合わせて上京したぼくは、しばらく、ウィークリーマンションで暮らしていた。急な転勤ということで、学校側が費用をもってくれた。長くても二週間。それだけあれば、部屋を決めるだろうと思っていた学校側は、なかなか決めようとしないぼくに、催促し始めた。五月の連休までには、お願いしますよ。副校長に肩をたたかれた日の帰り。あの日、たまたま、このアパートの前で、張り紙を見つけた。『入居者募集 ただし独身者に限る』。
 大家さんは、不思議な人だった。還暦を過ぎているのに、眼差しには力があり、綺麗だな、と思わせるおばさんだった。張り紙に書かれた番号に電話をすると、近くに住んでいるからと、大家さんは「今から行くから待ってて」と言った。電柱の前で、チカチカする街灯の下で。つっかけのまま、小走りでやって来た大家さんは、ぼくを見て、一瞬驚いたような表情をした。そして、「悪いけど、お兄さんには貸せないわ」と、悲しそうに言った。駄目だ、と言われることが、何よりもぼくには、苦痛なのだ。「なぜ、ですか?」と聞くと、「う〜ん」と、彼女は考え込んだ。考え込んで、「水、かぶる気じゃ、ないんでしょ?」と、訳の分からないことを言う。「え?」と、ぼくの声は裏返った。
「だから、バケツリレーってあるでしょ。火事だぁ〜なんていったら、みんなかり出されて、次から次にバケツを運ぶわけ。前の人から受け取ったバケツは、次の人に渡さなきゃなんないの。そうしなきゃ、火事場まで水は運べないからね。バケツを受け取ったのに、渡す相手を決めなかったら、それはもう、自分でその水かぶるしかないのよ。ず〜っと長い歴史の、それが掟なの。分かる?」
 薄暗い中で、一気に捲し立てる綺麗な還暦過ぎの大家さんが、その時は、とても怖かった。言っていることの主旨が、そもそも分からない。ぼくはただ、なぜ入居できないのかということを尋ねているわけで、バケツリレーだの、火事だの……。避難訓練でもあるのか?と思ったりもした。
「確かに、この辺じゃ、うちのアパートは相場よりもずいぶん安いからさ、お兄さんみたいな若い子もよく来てくれるんだけど、やっぱりね。今、住んでる人の目もあるから」
「かぶります」
「え?」
「だから、水、かぶりますよ、ぼく」
 咄嗟に出た言葉だった。意味は分からなかったが、相手が出してきた条件だ。それを飲めば、いいことだ。
「あのねぇ」と呆れた顔になった大家さんは、アパートの入り口に招き入れ、詳しい意味を教えてくれた。
 入居の条件は独身者。それは、一生を独りで生きていくと決めた人たち、に限るという意味だった。つまり、「今だけ」独身者ということではない、と大家さんは言った。続けて、「お兄さんは、そうじゃないでしょ?」と、確認する。このアパートには、日本人や、そうじゃない人、結婚に疲れ、それがトラウマとなって逃げてきた人、男、女、老若入り交じって、皆一様に、同じ「方向」を向いているのだという。ゴールを見切り、見切った先に続くべき未知を拒絶したかのような、強さと脆さ。人生を、誕生と死の間に限定してとらえている……独り。そんな人たちの「空間」なのだと説明された。大家さんの話の途中で、一人の若い女性が挨拶をして、アパートの中に入っていった。
「あの方もそう。聞いたらびっくりするような企業で、バリバリ働いてるんだけど、結局、ここに住むのが一番いいんだろうね。もう、十年になるかしら。なにもさ、こんなボロアパートじゃなくて、都内の立派なとこに住めると思うんだけどねぇ」
 シェルター。大家さんは、何度もその言葉を使った。親から譲り受けた土地があり、それをうまく運用して大きくしたが、その土地を譲る「次」がいない。大家さんは一生、独身を貫き通すつもりらしかった。結婚すること、男性と交際すること、子供を産むこと。そのどれもが、大家さんにとってはピンと来ず、それじゃいけないと思い始めた二十代の後半から、全てが恐怖に変わったという。自分は変なんじゃないか。そう思い続け、誰にも言えず、会えば結婚を問われ、一人で寂しいねと同情される。そんなことに嫌気がさして、言われれば言われるほど、本当に寂しくなってゆき。仕事の関係で、大家さんがアムステルダムに住んだのが三十四歳の時。外国人という奇異な目が向けられることに吐き気がするほど悩んでいたという。ある日、仕事仲間とのホームパーティで、言われたそうだ、「あなたは、いつまで私たちを外国人だと思っているの?」と。「それじゃ、仲間になれないわよ」と。
「ありきたりだけどね、その時わかったのよ。私が向けてる眼差しが、相手を通して自分に向けられるんだな、って」
 大家さんは笑い、笑うと、目尻の皺が目立つ。そのホームパーティの後、会社仲間と徐々に話すようになった大家さんは、「男性に興味がない」というカミングアウトをしたという。「へぇ、そうなの」と、仲間達は応え、「そんなことより今度の週末、うちでパーティやらない?」と話題が変わったそうだ。
「その時に思ったの。話題を変えた彼女達は、何も私のことを思って、気を遣ってくれた訳じゃないのよね。ただ、心の底から、そうなんだ、という感想しか浮かんでこなかったのよ。そんな彼女達とは、絶対にわかり合えないと思ったわ」
 帰国してからも、大家さんはずっと「分かってもらえない」自分の気持ちを閉じこめ、自分でもうまく説明できない状況に苦しんでいた。そんな時、テレビのニュースで「シェルター」の存在を知った。夫から暴力を振るわれる妻の逃げ場。同じ境遇の人達が身を寄せられる「場所」。だったら、ということで、空き地だった土地に、アパートを建て、以来、ずっと入居の条件が「独身者限定」というものになっているという。もう、二十年も前の話になるらしい。
「言葉なんていらないのよ。ただ、なんていうか、このアパートに、同じような人が住んでいると思えるだけで。それだけで、安心できるのよ」
 あら嫌ね、長々としゃべっちゃって、ごめんなさいね、と大家さんは笑って、笑いが収まらないうちに、「で、いつから住み始めるの?」と、きいてきた。お兄さんは違うでしょ、との問いに、ちゃんと返答することもなく、ぼくは、このアパートに住み始めたことになる。大家さんには、何か、分かっていたのだろうか。ぼく自身も知らない、ぼく自身が。

 天井に埋め込まれた蛍光灯が、やけに眩しい。首を回している電気ストーブが、微かな音をたてる。目を閉じると、また、頭の中で高橋の姿が浮かんだ。ぼくは、座椅子の背を上げ、テレビの画面を眺める。
〈あっと、走り出しましたね〉
 アナウンサーの言葉と同時に、監督が、白いタオルをもって、高橋に近づいて行く。首を大きく振るエース、高橋。三号車のアナウンサーが、三日ほど前から、高橋の調子が思わしくなかったこと、それでも四年生の彼にとって、これが最後の箱根になるので、無理をおして走ったこと、彼が、去年まで二年連続で区間賞を取っているランナーであることを大声で伝えた。高橋は、その間も、監督の説得に首を振り続けた。そして、一歩一歩、前へ進んでいた。解説の脇田が、〈これ以上無理をするよりも、まだまだ先のある選手だけに、思い切った判断が必要だと思いますよ〉と言った直後、監督が手に持っていたタオルを高橋の肩に強引にかけた。その瞬間、光来学院大学は、失格となった。
 ぼくは、大きく空気を吸い込んだ。そしてはき出した向こう、テレビ画面には、泣き崩れる高橋と、それを支える監督の姿が映し出されている。もう一度、目を閉じて吸い込んだ。タオルを掛けられた高橋が、ほんの一瞬だけ見せた顔。ぼくは、見逃さなかった。それは、放心状態の奥で、とても安堵した瞬間。ぼくには、その気持ちが分かるような気がした。アナウンサーが嫌というほど繰り返していた「襷の重み」。それをつなげなかった高橋の無念。「水をかぶることに決めた、このアパートの住人」。シェルターを始め、住人が集まってきた時の、大家さんの気持ち。

 それらは、安堵ということになるのだろう
 一つの結果が、明確に出たという安心感
 一つの事実を、はっきりと自分に認めたという区切り
 だから泣けるし、次に進める
 
 独身者限定の、このアパートに響き渡るような、アナウンサーの声。次に進むための、明確な何か。曖昧なまま、ここに住み始めたぼくの襷は、分からない。ただ、ここに居て、同化しようとしているだけなのかも知れない。画面はすぐに切り替わり、いつの間にか単独トップにたっていた農政大学の選手をアップで映し出した。ぼくは、顔を洗いに行く。毎朝、五分足らずで済ませる洗顔を、いくぶんゆっくりと済ませた。すっかり細くなった日差しが、小さな窓から漏れてくる。ため息をつきながら、自分の顔を鏡に映し、また、ため息をついた。服を着替え、いつものカバンにサイフを放り込む。つけっぱなしのテレビには、二区と三区の中継地点が映し出され、高橋が来ることの出来なかったゴールを見ながら、

 たすきを受け取った感覚も
 それを背負っているという自覚も
 次へ繋ごうという意志も
 ぼくには、ないのサ
 と、節をつけて歌ってみた

 今のぼくは、どこへ向かって、何のために走っているのか。そもそも、走っているのか、歩いているのか、止まっているのか。それさえも分からないでいる。どんな結果なら、良くて、何がダメなのか。分からない。ふと、さっきの電話の、父の言葉を思い出した。「ワシらがやってる答えは、ずっとずっと先に、それぞれの生徒の中で出てくるんや。そやさかい、焦ったらあかん」。
三十年以上も続く、教師という仕事。これからカバンをもって向かう所に、ぼくは三十年以上も通うことになる。出された問いに、マークシートで答えた。そこに○を付けてくれた「これまで」とは違う掴みどころのなさに、ぼくはまた、ため息をついた。

 年明けの地下鉄は、空いていた。アパートから学校までの、いつもの通勤電車。隅の席に座って眠った振りをする。ガランとした車内を見ると、こんなに広かったのかと、思った。いつもと同じだが、どこか違った雰囲気。ぼくは、これに乗って学校ではないどこかへ、そう、まるで遠足にでも行くかのような錯覚に陥っていた。特に遠足が楽しかったという思い出はないが、ワクワクしていたのを覚えている。目を閉じたまま、静かに「今年初、電車に座った」と、カウントした。年が明けると、その年のハツモノを数える癖がぼくにはある。それは何だってかまわない。今年初の歯磨き、今年初の牛乳、今年初のため息。それらを数えながら、一通り全てをやり終えると、ようやく新しい気持ちが消えてくれる。電車に乗ったことと、自分の部屋の鍵を開けたこと、シャワーを浴びたこと、ベッドに入ったこと。この一連の帰宅の流れは、大晦日から新年にまたがる残業帰りに済ませている。
 大晦日、ぼくは、残業で職員室にかじりつき、書類を黙々と整理し、報告書の山に埋もれていた。職員室には確か、ぼく以外にも四、五人の先生がいたような気がする。誰ひとり話す者はなく、ただひたすら、早く済ませて帰宅したいと一様に焦っていた。職員室で日をまたぐことは珍しいことではないし、むしろその方が多かった。けれど、大晦日はやはり特別で、夜八時を示した時計を見つつ、ぼくも、心なしか「今年のうちには帰宅したい」と思っていた。なんとしても、職員室で「年」を越すことは御免だ、と。ジリジリと迫るように一年が終わろうとして、迫るように一年が始まろうとしていた。結局、職員室を出たのは十二時過ぎで、電車を待っていたホームでは、大学生だろう数人組が「おめでとう」と叫びながら大騒ぎしていた。その花火のような爆発音で、ぼくは初めて新年が明けたことを知った。だから、去年から途切れることなく、ぼくは、いくつかのハツモノを済ませたことになる。ダラダラとつながったまま、ぼくは新しい年を迎えた。節目がほとんど感じられなかったし、いつ十二時になったのかも定かではない。十二時半の最終電車に乗ったので、職員室を出る寸前が、年明けだったのだろうか。
 片道二十分の通勤電車。普段は息苦しいほどの圧迫感があるが、年も明けて、座ったまま目を閉じていると、すごく短く感じられる。初詣などの行事に無縁な学校の最寄り駅は、閑散としていた。冷たい風とは不似合いな、暢気でゆるんだ空気が漂っていた。学校の関係者専用出入り口の重い扉を押した。モワッと、校舎の中から学校の匂いがする。パタパタっと何かが飛び散るような、眠っていた所をおじゃましたような、そんな感じに、思わず「すいませ〜ん」と言いながら、ぼくは学校に入った。
 正月期間は、常駐の管理人もいない。ぼくは、冬休みの前に使用許可の申請を出していたので、例え、扉の上に備え付けられたカメラに写っても、不審者扱いをされることはない。ピッとカードが認識され、錠が解かれる。同時に、廊下の電気が、パッパッパッと順につく。職員室まで一直線、長い廊下が続く。中に入ると、オートロックで鍵の閉まる音が響いた。その音を聞くと、誰も入って来られないようにするというよりは、ここから出られないようにするためのように思えてくる。と、同時に安心もする。甲羅の中に、顔を埋められるような気分だ。誰もいない真昼の学校。この巨大な校舎の中に、ぼくしかいない。
 学生の頃から、放課後の廊下が好きだった。いつもは騒がしいのに、不思議な程、静かだからだ。ひんやりして、気持ちがいい。ひとりでいることに、安心できた。普段なら、一目散に職員室に向かい、自分の席に座ってパソコンのスイッチを入れるのだが、廊下の途中で、立ち止まってみた。窓が、こんなに大きかった事に気づく。どんよりした冬の空を見上げてみる。薄い雲が青空を隠し、グランドが白っぽくぼやけている。誰もいない。ひとりたたずみながら、「いいな、やっぱり」とつぶやいた。スリッパを履いていても、廊下は冷える。 ぼくの息で窓にできた白い楕円形に「丘野翔」と、自分の名前を書いてから、手の平で消した。ちょうどその時、職員室の電話がなった。慌てて中に入って受話器を取る。相手はいきなり「お前は誰だ」と言う。「緑山中学です」と答えると、「そんなことは分かってる。だから、お前は誰なんだ?」と繰り返す。妙な電話に出てしまったものだと思いながら「丘野と申します」と答えた。「知らねぇなぁ」と言い残し、電話は一方的に切られた。正月だなと、ぼくは苦笑いして、「今年初、走って職員室に入った」「今年初、学校の電話をとった」と、カウントした。
 いつもと違う感じ。ひとりきりの廊下を歩き、窓から空を見上げる。ひとりきりの職員室で、いたずら電話に出る。この、感じ。いいな、とぼくは思う。職員室を一周するように、ゆっくりと自分の机についた。
 大晦日、終電までかかっても終わらなかった、生徒管理表の続きから始める。これは、生徒一人ひとりのカルテのようなものだ。別に病気という訳ではないが、ミスなく、そして効率よく指導するための書類という意味では、そう大差はない。うちには手に負えず、他へまわす時も、この書類を同封して送りつける。テストの点数はもちろん、悪い箇所、処置方法、経過、改善点などなどが書き込まれている。必要に応じて、外科医と同じく、内部を切り開いてみるような場合もある。死活問題ではないのだが、生徒にとっては、そう言えなくもないのが、この緑山中学の生徒管理表だ。不思議なことに、素行についての記述は、担任ではなく、副担任が書いてもよく、その理由は「担任は忙しくて、手が回らないから」というものだった。つまり、手が回らないから、触れない。それが、生徒一人ひとりの素行ということになる。
 緑山中学は、大学まで直列の附属中学校だ。一年生からグレード制が導入され、毎年度末に、進級のラインをクリアしなければ上へは進めない。外部入学で高校、大学と新入生を迎え入れるが、中学からそのまま上がっていく方がステイタスが高く、生徒の中にも「自分たちはエリートだ」という認識がある。世間は「緑山ブランド」ともてはやしている。詰め込まれた知識を持って入学してくる生徒たち。その知識を完全に忘れ去るまで「生徒」として過ごすことになる。電池が切れるように、すっかり空になったら、そこに、社会人としての「い・ろ・は」が詰め込まれる。そして「大人」になっていく。誰も言わないが、それが彼らの「道」だった。それまでの「指導・教育(治療)」。出来る限りの現状維持。それが教育なのだと勘違いするほど、生徒一人ひとりの管理は大変だった。
 腐らないように、こぼれないように、はみ出さないように、逐一報告書の提出が、担任教師には求められる。ぼくにとっての今の関心事は、ぼく自身に求められたことを漏れずにこなすこと。そうすることの意味や意義は、もう考えないようにしている。生徒管理表。それには、二学期までの「数字」と呼ばれる成績、課題点、改善点、得意不得意分野、去年同時期との比較をA4用紙に五枚程度打ち込まなければならない。そのぐらいはスラスラ書けるよう、生徒との関係を密にしてくださいと、副校長は朝礼で繰り返している。それがいかに難しく、ほとんど不可能に近いかということは、他ならぬ、副校長が一番よく分かっているくせに、だ。
 授業中は「教え」、ホームルームでは「報告する」。それ以外の生徒との接点は、ぼくにはない。どこで何を話せば、密な関係がもてるのだろう、と鼻で笑ってしまうのだ。大晦日から置いたままの空き缶を捨てる。残りの生徒管理表ファイルを開く。
 出席番号十八番、高井俊から。「数字」をまず打ち込む。自動計算を設定したエクセルのシートが、一瞬のうちに高井の進級率を出す。進級率五十五パーセント、名前のセルがイエローに反転した。レッドが進級見込みのない「危険な」生徒、順にオレンジ、イエロー、グリーン、ブルー、パープル。生徒を五つの色で分け、ひとりの落第者も出さないように新学期からの方針を定める。それを報告書に書き出していく。ぼくのクラスには、レッドの生徒もオレンジの生徒もおらず、イエローに反転したのは、今のところ高井俊、ただひとりだ。平均的に均衡のとれた生徒だが、何一つ秀でたモノがない。緑山中学では、それをもっとも嫌う。例えば、まったく数学の出来ない生徒でも、絵画展などで入賞の経歴があればブルーに属する。つまり、すべてを六十点でこなす生徒はイエローなのだ。
「十八番の個性を見つけ出し、それを伸ばせるよう指導する。そして……」と、新学期に向けての指導方針を書き始めて、ぼくの指は止まった。「どうやって?」という疑問が浮かび、それに対する答えが、まったく考えつかなかった。初めからもう一度読み返し、何やってんだ、とぼくはデリートキーを押し続けた。生徒の名前を出席番号で記していることにも(それが慣例だったのだが)、「個性を見つけ出す」という教育方針にも、ましてや、それを短期間でやろうとすることにも……、すべてに、「何やってんだ」、だ。 



 ぼくが、教師になりたいと初めて思った時、なりたいモノがなく、なれそうなモノを探していた。そしたら、身近にあったのが、教師だった。昔から、人付き合いの苦手なぼくは、必要に駆られて話す相手といえば、担任の先生だったし、教師である父だった。小学生の時から、ぼくは本ばかり読んでいた。「なんで? どうして?」と、次々に浮かんでくる質問に答えてくれる「大人」は、周りにはいなかった。ぼくは、自分でその答えを見つけるしかなく、唯一おねだりして買ってもらったマッキントッシュを使いこなすようになった。「マック」と「本」が、ぼくを育てた。
 必然的に、学校の友達とは会話が合わなくなり、休み時間も、本にかじりついていた。ぼくの学校は、当時ではまだ珍しかった、小中一貫の公立校。初等部の四年、中等部の三年、高等部の二年に分けられ、基礎の四年間と、次の段階の二年間で、ぼくは、全九年間分の授業の内容を理解していた。中等部に進む頃にはすでに、学校の教科書など、簡単すぎてつまらないと感じるようになっていた。ますます、友達はいなくなり、話し相手も先生だけになっていった。
 そんなある日、しばらく外出許可の出た母と、父の帰りを待っていると、父が「タイムカプセル」を持って帰ってきた。NASA、アメリカ航空宇宙局が、十年後の未来に向け、世界中からタイムカプセルを受け付けているのを知り、一つ三千円も出して、家族三人分を買ってきたのだ。袋から出しながら、「十年後の自分や家族に向けてのメッセージを書くんや」と、嬉しそうに父は笑った。「で、十年後、郵便局に取りに行く。どうや、面白そうやろ」。三千円も出して買ってこなくても、何か他の物に書いて、どこかに埋めればいいじゃないの。NASAということは、英語で書かないといけないのかしら。「私、その頃にはもう、生きてないんかなぁ」と、母は、タイムカプセルを手に持って、ぶつぶつと、つぶやいていた。ぼくは、必死で笑っていた、ような気がする。
 そこに、ぼくは「学校の先生になる」と書いた。初めて、教師という職と、自分とに接点を持たせた。書き終えた後に、父は間違いなくそれを見るだろうと予測して、ぼくは、父が喜びそうなことを書いたような気もする。自分と同じ職を目指す息子に、嫌な想いをするはずがない。身近にあり、なおかつ、喜ばれる自分の未来。それが、ぼくの将来への希望となった。当時、父は母に生きる望みを持たせようという意味を込めて、そのタイムカプセルを買い、家の中に「光」を持ち込もうとしたのだろう。その行為ひとつとっても、父の想いが、ぼくには痛いほど分かった。「なっ、みんなで書こう、タイムカプセル」と、無理に明るく振る舞う父を見ていると、ぼくはすごく痛かった。
 当時から、なりたい自分は「今の自分と違う自分」で、それが「大人になる」ことだと思っていた。それほどに漠然としたものだった。ただ、「プロ野球の選手になる」と具体名をあげる程、ぼくは暢気ではなかった。「夢」と「将来」は明確に違うものだと心得ていた。
 歳を重ねるにつれ、選択肢が狭まる将来像。ぼくの中で、どんどん定着していった。何気なく掲げた「教師」というぼくの将来像。なりたい訳ではなく、なれるだろう将来。好き嫌いでは決してない。将来像なんて、そうゆうものだと思っていた。
 ぼくが、国立の付属中学に編入した頃には、「教師になる」ことは明確な「印」になっていた。それを目指して進んでもいた。きっかけはどうあれ、一度固まったモノを修正することは、「負ける」ことになる。
 編入のきっかけは、中等部の担任教師が「国立の附属中学に、息子さんを受験させてみてはどうか」と、父にもちかけたことだった。担任教師は、ぼくが学校になじめていない現状を報告する代わりに、その話をしたらしく、学力面で卓越しているので、そこを伸ばすべきだと、力説したらしい。父にすれば、「学校は楽しいか?」とぼくに尋ね、ぼくはぼくで、心配させては申し訳ないので「うん」と答える。このやりとりがあったので、その必要はないと、父は判断したのだろう。ちょうど、母の病状が芳しくなく時期とも重なった。そこに来て、ぼくのことなど、先送りできるなら、そうしたいというのが、父の本音だったのだと思う。
 それでもぼくは、中学受験を決めた。それは、そうでもしないと自分の存在価値が見出せないと思ったからだ。当時、ぼくが書き込みを続けていたウエブサイトで、中学受験の話題が盛り上がっていた。受験して余所へ行く。あの時、胸の奥に沸いた、それまでに体験したことのないような、高揚感。これで、みんなを見返せる。ぼくは、そう思った。ぼくのクラスでは「オカノっぽい」というのが流行っていた。例えば、跳び箱が三段までしか跳べない、算数の得意なヤツ。放課後だれとも遊ばず図書館へ行くヤツ。マンガじゃなく文章ばかりの三国志を読んでいる社会の得意なヤツ。机の中に食べ残したパンを入れている理科の得意なヤツ。それらはみんな「オカノっぽい」と、呼ばれていた。ぼくがそのことを知っているとは、みんなは思ってもいなかったのだろう。それを言う時は決まって、みんな小声だった。もちろん、そう呼ばれている、例えば算数の得意なヤツにもバレていないと思っていたはずだ。ヒソヒソ声は、余計に聞こえてしまうことを知らないのだ。何より、ぼくが嫌だったのは、みんなの言う「オカノっぽい」ヤツらが、ぼくにとっても一種「オカノっぽく」、つまり、その言葉の持つ蔑んだニュアンスが、しっくりくる連中だったのだ。そんなヤツらの代表が、このぼく自身だというみんなの判断。それを見返すには、国立の附属中学への受験がもってこいだと思った。
 クラスの連中ともオサラバできるし、オタクで勉強している訳ではなく、尊敬に値するほど「できる」ヤツという評価になり得る。これしかない、とぼくは決心した。
 オカノはいったい何をやりだすんだ? と、クラスメイトの大半は奇異の眼差しで遠目に眺めていた。「オカノっぽい」と呼ばれたうちの二人が、「オレも受けるんだ」とぼくに話しかけ、三国志が好きで社会が得意な田中は、「一緒にがんばろう」と仲間意識まで持ち始めたようだった。ぼくは、それらを拒み、周りの全てから距離を置いた。中心の小さな点になることに徹した。教室にいても、家にいても、それまでのぼくは、隅の方で、真ん中に憧れる点でしかなかった。それが、受験を決めてから、ぼくは自分を中心に置き、周りを気にせず、自分だけの世界で「勉強」をした。
 好意的かどうかは別にして、ぼくに対する注目度は増し、周りがぼくを見るようになった。そんな視線をシャットアウトして「自分」と向き合う。中等部の二年目を、そうして過ごした。誰とも話さないのに、ぼくはあの頃、自分の存在価値というものを濃厚に感じていたような気がする。それを意識すると、自然と勉強にも力が入った。幸い、勉強することは苦ではなかった。やればやっただけ結果がついてきたし、読んでも理解できないというよくある「つまずき」は、ぼくにはなかった。結果は見事に実り、ぼくは中学受験に受かった。動機はどうあれ、将来にどう広がっていくかも別にして、目指したことに良い結果が出た。それで、ぼくは、溢れんばかりの充実感と、喜びを感じていた。
 中等部の二年目。他の生徒にとっては、あまり重要な節目ではない三学期の終業式。担任教師は、ぼくが来年から国立大学附属の中学に行くことになったと発表した。想像していたようなみんなの反応はなかったが、漏れ聞こえてくる言葉が「オカノっぽい」から「オカノらしい」に変わっていた。それだけで満足だった。
オサラバだ! と、ぼくは、心の中で大笑いしながら言ってやった。
 ぼくが入学した中学は、大阪府の北部にあるニュータウンに新設された国立大学附属美空中学校。当時、ぼくが住んでいた家からは、電車で二十分もあれば通えたが、父は、入学の手続きと同時に、寮の申し込みも済ませていた。ぼくには、なんとなく父の気持ちが分かったので、そこで「なんで?」と聞くことはしなかった。
 美空中学では、給食ではなく、各自お弁当持参で、さらに毎週木曜日の放課後には「保護者」の懇親会がある。寮に入れば、寮母さんがお弁当を毎日作ってくれ、懇親会にも「保護者」として寮生すべてのクラスに顔を出してくれる。側にいて子供を見守り、他の保護者とも関わりを持ってくれるのだ。父にとって、時間的に出来ないことの多くを、寮母さんが代わりにやってくれる。好都合、好条件だったのだろう。ただ、大阪府内はもちろん、近畿一円、遠くは四国や九州からも生徒が集まる美空中学では、寮の人気が高く、入学手続きと同時に申し込まなければすぐに埋まってしまう。同僚の教師からそんな事情を聞いた父は、真っ先に、ぼくに相談することもなく、寮の手続きをしたのだ。
 結果的には、その方が良かったのだが、「カケルは、学校の近くで寮生活をすることになる」と、唐突に聞かされた時は、少なからずショックだった。出て行け、と聞こえなくもない、あの声音が、なんとなく不安だった。母の看病で手一杯なのだという父のSOSは、しっかり理解していたつもりでいた。だけど、父の説明が「お前も、同年代の友達と一緒に生活して、色々経験したほうがええやろ、良い経験になるはずや。寮の生活が嫌になったら、いつでも帰ってきたらええねんから」という、それらしい理由だったので、ぼくは頭で理解するよりも、心がザワザワと反応してしまった。何というか、ぼくは、それから、父と二、三歩、距離を置くようになっていった。
 地元以外の生徒が中心で、大阪府に住みながら寮に入れるのは希だったが、ぼくは幸運なことに入寮できた。父が、申込書に何と書いたかは不明だが、初日に、寮母さんが「いろいろ大変ね」とぼくに優しく笑いかけた。一部屋を一人で使える寮には、基本的に何を持ち込んでも自由だった。朝食も夕食も、自分の都合に合わせて作ってくれた。ダイニングで顔を合わせる寮生は、ほとんどが関西弁ではなく、それぞれの方言をしゃべり、中でも九州弁で四六時中しゃべり続ける背の高い男が、寮の中心的存在だった。彼は、ぼくのことを唯一「カケル」と呼ぶ寮生でもあった。
 入学式はとても奇妙な思い出だ。式の二週間ほど前に、ぼくは新入生代表の挨拶を頼まれており、ネットで検索したそれらしい言葉を並べた原稿を式の最後に読み上げた。クラス分けが中庭に張り出され、みんなが各々の教室に入る。担任は胸に大きな字で「名前」の書いたカードを付けており、それと同じサイズのネームカードが教室の入り口で一人ひとりに配られた。それを持って席につく。「丘野」という名前で、あちこちからヒソヒソ話から漏れてくる。後ろからも前からも、そして左右からも。「トップ」「あれが?」「ガリ勉っぽいもんな」「一緒のクラスなんだぁ〜」「丘野ってあっちの『丘』かぁ」……。ぼくは知らなかったが、どうやら入学試験でトップの成績をおさめた者が、新入生代表の挨拶をするらしかった。それは、全員が着席し、挨拶を始めた担任教師の話でわかった。
「このクラスには、式で挨拶した有名人がいますからね。でもみなさん、みなさんはこれから、この学校で、どんどん成長していきます。入学試験を突破したみなさんに、差なんてほとんどありません。同じスタートラインに立っているんです。丘野君、いいですか、君もこれからもっとがんばって、どんどん成長しないと、すぐに追い抜かれますよ」
 一クラス三十一名。全員が、それぞれの小学校で「できる」と言われた者たちで、自分の「上」には誰もいなかったのかも知れない。その中で一番「上」にぼくが立たされている。勉強ができる、というよりは、むしろ勉強しか出来ない、という「オカノっぽい」者たちのトップに、また、ぼくがいる。奇妙なのは、その雰囲気に、とても安心していたことだ。居心地の良さを心の底から感じていた。ぼくは、どんどん閉じこもっていった。
 何をおいても「勉強」と呼ばれるものに時間を費やした。寮では必要な時以外、ひとり部屋から出たことはない。やればやるほど結果がついてきたし、それがぼくを安心させ、それだけが、ぼくの存在価値だった。閉じこもりの寮と、学校での生活。ただ、周りが同情するほど不快でもなかった。今になって思えば、当時のぼくは、自分の中だけで解決できる問題だけを取り組み、あとは知らん顔して通り過ぎていたのだと思う。授業でも、試験でも、次々浮かんできた疑問でも。「相手」は存在せず、いつも対峙するのは「知識」だった、「事例」だった、「情報」だった。それを自分の中に、取り込めば完結した。
 ぼくの成績は、中学に入って飛躍的に伸びた。それまでのぼくが、「自分が少し変なのかもしれない」と隠すようにしていたことの多くが、勉強として認められ、さらに褒められるようになった。褒められる度に、自信につながる何かへと変化していく。周りでは、ぼくのことを「天才」と呼んでいた。もちろん、その言葉は、ファイティングゲームの上手いヤツや、掃除をさぼる理由がパッと思いつくヤツなどにも、同じように向けられていたのだが。つまり、クラスには「天才」で溢れていた。同じような羨望の眼差しは、足の長いジャニーズ系の男子や、甘い声のあっさり顔の女子にも向けられた。憧れと同時に、ひがみの眼差しも。美空中学では、それほどに「勉強」が重要視されていたのだ。そういう環境にいたことが、ぼくには心地よかったのだ。他へ行けば、「オカノっぽい」と陰で言われるだけの存在だったが、ここでは、ぼくに価値があるのだ。
 二年生になると、自分は何だって出来る才能があるのではないかと思うようになった。その反面、「できない」ことに、恐れを成すようにもなっていった。苦手なことは、「できる」ようになるまで誰にも見せない。それまでの過程をさらすことは、ぼくの価値を無くしてしまう。だから、運動はしなかった。中でも水泳は大の苦手で、苦手だということすら自分で認めず、ぼくはいつも「水泳はやらない」と言い張っていた。出来ないんじゃなくて、やらないだけなのだ、と。新しいことに挑むこともなく「それまで」の自分だけで、ぼくははみ出したり、曲がったりはしなかった。勉強一直線。本当に幸運だったと思う。その「道」で、どんどん結果が出たことと、その結果に応じて、周りが尊敬の眼差しでぼくを見るようになったことは。
 ちょうどその頃、ぼくは「教える」ことに、楽しさを感じ始めてもいた。中学に入学して間もない頃、体育の教師が、授業中に「丘野のお父さんは立派な先生だから……」という話をチラッとしたことがあり、クラスメイトの間では「だから勉強ができるのだ」とつながっていた。そこからどう展開したのか「丘野は教師になるらしい」という噂が広まり、教えてもらおうという風潮が生まれた。あのタイムカプセル以降、ぼくの中で凝固していった「教師」になるという気持ちは、他言したことはない。しかし、その噂を否定したこともないのだから、周りがそう思い込んでいても不思議ではなかった。試験前になると、「ここを教えて欲しい」と、それまで話したこともないクラスメイトから頼まれることがしばしばあった。寮の中でも、いつからか恒例となった。そのうち、専用の机とホワイトボードが用意されるのではないかというほどに、人数も増えていった。その気になって、ぼくも教え続けた。授業中は、先生に指されて板書をしながらぼくは答える。チョークが黒板に擦れる感触が何とも心地よく、袖についた粉を払いながら、自分の席に戻る時には「これだ!」という将来像さえ見えたような気がしていた。自分は理解できていることを、分からない者へ教える。そうすると、相手は一目を置くようになる。持ち上げられた場所からの眺めは、なんとも爽快だった。
 高校に上がると、ぼくには中学の成績をもとに飛び級が適用された。在籍学年は一年生だが、授業は飛び越えて二年生のクラスに入る。ただ、精神と知能の成長には、バランスが大事だとする学校側の判断で、完全に飛び越えることは出来ない。ホームルームや学校行事には、授業で顔を会わせることのないクラスメイトと一緒に行う。それは、ぼくをいっそう独りの世界に引きずり込んだ。外部から入学する者も多かった。教室では、紙の上にまかれた砂鉄が、下に置いた磁石に引き寄せられるように、あっという間に、みんなうち解けあっていく。ぼくは、その中にあるビー玉だった。だからと言って、二年生のクラスで気の合う友達がいたかというと、また違った磁石があるだけで、ガラスのぼくは、それにも対応できなかった。
 授業を受けている時は、周りから「イチネン」と呼ばれ、ホームルームでは「トビキュウ」と呼ばれていた。ぼくは交わることなく、必死で自分を磨いて、ダイヤになろうとしていた。何か壁にぶち当たると、体当たりして自分自身が割れるのを恐れた。ただ安全な場所で、コロコロと転がり、太陽が照らす光を反射して、まるで自分から光っているのだと勘違いしていた。
 壊れやすいガラスのビー玉。今になって思うと……。例えば、誰しもがオンとオフの使い分けで一日を終えていくが、ぼくの場合、そのスイッチがなかったように思う。テレビやゲームやデートをする多くの生徒たちのオフタイム、ぼくは、当たり前のように本を読んだり、課題を解いたりしていた。それを「オン」だとするならば、ぼくの高校生活は、ずっとつけっぱなしだったことになる。それだけの「課題」が、次から次へと用意されていたということは、ぼくにとって幸運だった。ひとつクリアすれば、すぐにまた次のステージが与えられる。休むことなくそれらを解き、漕げば漕ぐほど加速する手こぎボートで、一緒にスタートした者よりも早く、向こう岸へと近づくことができたのだ。ぼくは、一年半で、三年分のカリキュラムを修了し、無事に試験にもパスした。科目的には、卒業したことになる。
 残った一年半、ぼくは西洋哲学と文学を専攻し、附属大学の講義を受け、そこで単位を取得していった。まるで、お菓子の家に迷い込んだ少女のように、むさぼりついた。西洋哲学から宗教に関心が傾き、それが仏教への興味に変わっていった。進むうちに、日本文学に深く関わるようになったぼくは、結果的に国文学を中心に単位を重ねた。プラトンが伝えたソクラテスの哲学から始まり、「武士道」と「茶の本」を読みながら〈日本人とは〉という問に向かっていたのだから、どれだけフラフラと寄り道したかが伺える。ぼくの中では、ちゃんとつながっていたのだけど。
 周りからの「できる」という評価が、飛び級をすることで明確になり、ぼくは自他共に認める「できる」存在になった、と判断した。だから、「教えよう」と思ったし、そのために、「教師」になろう、と教職課程も受講した。
 そんなぼくの高校生活は、始まりから順風満帆だった訳ではない。高校に入ってすぐ、母が死んだ。
 騒がしい私語が飛び交う中、ポツンとひとり、座っていた、いつものホームルーム。教頭先生が、父から電話が入っていると伝えに来た。授業中だったせいか、職員室はガランとしていた。時間にして一分もなかったと思う。父は短く「母の死」を伝え、帰ってくるように言った。ぼくは、それを他人ごとのように聞いた。
 学校から家までの電車。二十分。ぼくは、最期の母に会いに行った。寮に戻って数日間分の荷造りをしていると遅くなり、夕方のラッシュアワーと重なってしまった。押し合うように車内に詰め込まれ、ぼくは、つり革に掴まりながら読み始めたばかりの『異邦人』を窮屈に開いた。読みながら、「ぼくもまるで異邦人ですよ」と。あの時の、あの乾いた感情は、今でもはっきり残っている。それは、十分に考えられた母の死であったが、実際に「あう」までは、信じられないと疑う気持ちが勝っていた。それまで、誰の葬儀にも参列したことはなかったが、頭ではイメージしていた。とても静かで、濡れた光景。実家の寝室で、母が死んでいる。その母にあいにいく。
 玄関を開けると、思っていたよりもバタバタと慌ただしかった。
 大声で笑いながら、十数年ぶりに会う親戚の伯母が、「大きくなったねぇ」とぼくの頭を撫でた。台所では、四、五人のおばさんたちが、ひしめき合っており、続きにある居間では、おじさんたちが、酒を飲んでいた。ぼくは、その「輪」からすぐに抜け出した。父が、そこにいないことは分かっていた。誰に聞くまでもなく、廊下の突き当たり、一番奥の部屋に向かった。父と母の寝室。ドアを開くと、父は一人であぐらをかいていた。その前で、母が横になっていた。母の横に座る父。それは、ぼくにとって最も「家族」を感じさせた。いつも、母は横になり、父が側で座っていた。そこには、ぼくの入る余地がないと感じながら、遠くから、眺めていた幼い頃を思い出す。父の側まで歩み寄り、近づくに連れて、その「いつもの」光景から、明確な違和感が漂い出した。それは、母が死んでいるからではない。それよりも強く、父の顔にそれまでと違った雰囲気を感じ取ったからだ。
 あの日、父には、張りのようなものがなく、泣いていると言うよりも、どこかホッとしているように思えた。少しでも長く「生かそう」とする、強い気持ちから開放された安堵感だろうか。ぼくは、父の横に正座し、母の顔を覗くように一度だけ眺めた。
「ちゃんとお別れしなさい」
 父が、小さくつぶやいた。
 ぼくは、いつもしていたように、母の掛け布団の中に手を入れ、母のお腹の上に手を乗せながら、ゆっくりと話しかけた。中学に受かった時も、ぼくは同じ格好で報告した。あの時も、母は病院のベッドで点滴を打たれながら眠っていた。母のお腹の微動に合わせて、ゆっくりと手の平で円を描きながら、ぼくはこれからの中学生活についての不安や期待を話していた。そんな数年前の光景を、微動すらしない母の横で思い出していた。あれが、「生きている」母に会った最期となった。中学に入学してから、実家が近いという安心感も手伝って、ぼくはあまり帰省しなかった。長期の休みには決まって「合宿」に参加し、朝から晩まで、とりつかれたように講義を受けていた。帰省しても、母の病院まで行くことはなく、「変わりはない」という父の言葉を聞いて「母さんによろしく」というのが常だった。
 グルグルと、手の平で、ぼくは、何度円を描いただろう。突然、涙が溢れた。母がとても冷たいのだ。ひんやりとした掛け布団の中。目を閉じ、息を無くした母を眺めながら、しばらく、ぼくは泣き続けた。もう、会えない、永遠に、絶対に。そう思えば思うほど、また胸がつまった。黙ったままの父が、隣でタバコに火をつけた。小さく吸い、大きく吐く。フーッと吐き出された煙が、母の上に淀んだ。ぼくは、その煙をぼんやり見上げていた。ぼくは、言い忘れたままになっていた言葉をつぶやく、「ただいま」。
 父は、終始、何も言わなかった。母の元気だった頃のエピソードを懐かしんだり、ぼくの知らない母の一面を聞かせたり、亡くなる数日前に、その兆候ともいうべき不思議な言動があったりしたことも、一切なかった。ただ一言だけ、父は、「すまんかったな」と、ぼくに、母ではなく、ぼくにそう言った。
 翌日、通夜のために母の遺体は葬儀センターに運ばれた。そこで最期のお風呂に入れられ、化粧をされ、そのまま棺の中にシマワレタ。まるで「製品」のように扱われる「死んだ母」。丁寧だが、職員の手つきは、傷を付けたら売れなくなる、とでも言うかのようだった。ぼくは、一部始終を眺めながら、どこかの新しい病院で、新しい治療が始まるような錯覚に捕らわれていた。
 ぼくの記憶にある母は、いつも誰かに何かを「されて」いたのだ。ハコに詰められた母の顔を小さな窓から覗く。悲しい、という気持ちは深すぎて、うまく感じることができなかった。ただ、その棺があまりにも小さいことに驚き、その中にいる母が、こんなに小さかったのかと思うと、少し不思議にも思えた。ベッドに眠っていた母は、いつも自分より大きかった。だから、何を言っても受け止めてくれる存在だったのに、母はこんなに小さかったのだ。ぼくは、突如突き上げた「自分がやらなければ!」という思いに奮い立ち、通夜に訪れた一人ひとりに頭をさげ、挨拶した。奥の部屋でうなだれる父の代わりに、ぼくは、母の横で頭をさげ続けた。そんなぼくの毅然とした態度に、涙を誘われると言った親戚もいた。叔父は、喪主である父に代わって、葬儀の諸々を仕切ってくれた。献花の配置、読み上げる弔電の選択、葬儀の進行など。父はあきれるほど黙って、母の写真を胸に抱いていた。泣くこともせず、話しかけることもない。ただ目を閉じて、上を向き、母の写真を抱いていた。
 葬儀が終わると、ぼくはすぐに寮へ戻った。それから、帰省した事は一度もない。大学生と一緒に講義を受け、研究課題をこなすことで毎日が精一杯だった、というのが表向きの理由だ。父は、休みになる度に、帰って来いと言ったが、勉強を理由に断った。父が言いたいこと、そしてぼくが拒む理由、それは、お互いに口に出さなくても分かっていたと思う。
 継母と父の関係は、母の葬儀が終わってすぐに分かった。
 母の看病と仕事に疲れた父に代わり、まだ小学生だったぼくの、夕食を何度か作りに来てくれていたおばちゃん。それが、継母の和恵さんだ。三十代後半で独身。彼女は、父の愚痴を聞き、母に対する父の愛情の深さに感動すると、よく言っていた。「おばちゃん」であるうちは、ぼくも何かと甘えたりしたこともある。公園に行って鉄棒をしたり、縄跳びをしたり、周りの同年代の子がするからこそ、自分もやってみたいと思った諸々を、母の代わりに叶えてくれた。しかし、ぼくが思っていたほど、二人の関係は割り切れたものでもなく、葬儀が終わって半年もしないうちに、父は継母と暮らすようになった。
 一度きちんと紹介したい、口には出さないが、異常なほど頻繁にかかってくる父の電話からは、それが推測できたし、そんなことは認めたくないから、ぼくは家に戻らなかった。和恵さんの何が嫌かと聞かれれば、はっきりしたことは言えない。「嫌」なのかすら曖昧だ。とても言葉では説明できないが、ぼくは、父が再婚することに反対だった。どうして欲しいのか、どうして欲しくないのか、ぼくはただ、父には「そのまま」でいて欲しかった。何も変わらずに、母の抜けた暮らしを続けてもらいたかった。持っていきようのない気持ちをそのままに、ぼくは、会わない事で、誤魔化そうとしていた。
 幸いというべきか、ぼくには寮生活が快適だった。一人の部屋で与えられた課題をこなす。それは、時間を潰すように。やたら褒められ、褒められると自信がつく。だから人よりも多くやる。これは変わることがなかった。ただ、知らないことの方が多いのはちゃんと分かっていた。その知らないことの中に、楽しみがいっぱいあることも理解しているつもりでいた。だけど、ぼくは決して知らないことへ手を伸ばそうとはしなかった。ライブも、映画も、合コンも、カラオケさえ、ぼくは知らなかった。自分の居場所として、寮が提供してくれる空間に満足だったことに並行し、実家には、ぼくの居場所がなくなっていった。
 誰よりも、和恵さんがそのことを気にしており、父と籍を入れることに渋っていたと、後になって聞かされた。息子に強く言えない状況になった父にも、和恵さんは気を遣っていたのだろう。「このままがいい」。 それは、ぼくにも、父にも、そして和恵さんにも、心の奥の方にあった気持ちなのかも知れない。「こんどの休みは、いっぺん帰ってこい」と、電話で話す父の言葉も、次第に儀礼的になり、ぼくは「元気?」という挨拶と同じ軽さと調子で「帰れない」ことを告げるようになった。益々自分だけの世界に閉じこもっていくぼく。唯一とも言える話し相手は、「母」だった。死んだ、母。入院していた頃は、病室で生きている母が「遠く」に感じられたが、明確な場所をなくした母は、いつもぼくの「側」にいた。遠くで生きている時よりも、ずっと近くで死んでいる。ぼくは、どこかで聞いてくれているだろう母を想うことで、自分の中にある言葉を包み隠さず出すことができた。学校のこと、同級生のこと、勉強のこと、そして、父と継母のこと。
 空想上の母は、どんな時もぼくに都合の良い回答を投げかけてくれた。自分の考えを尋ねるように想い、それを母の言葉として自分で回答する。時には、窓から千里丘の林立するマンションを見ながら、また時には、街灯のない暗い帰り道の途中で星空を見ながら。いつでも、どこでも、母との距離は、近くに感じられたのだった。



 ふと、ぼくは職員室の時計に目をやった。
 午後五時半を少し回っている。窓の外は、すっかり日が落ちている。思い出したように、高井俊の管理ファイルを手にして、再びパソコンにレポートを打ち始めた。どこか遠くで花火が打ち上がり、それとは真逆の静寂が職員室を包んでいた。正月であることは、そんなカラっぽな雰囲気からも伝わってくる。パソコンを打ちながら、ぼくはまた、知らず知らず回想を始めた。


 
 高校を卒業すると、そのまま上の大学に進む者もいれば、中には働く者もおり、別の大学へ受験し直す者もいた。外部生として大学に入ってくる受験者は、相当にレベルが高いらしい。卒業式の日、ぼくの前で「大学に行ったら、そろそろ真面目に勉強してみよかな」とヘラヘラ笑う同級生が肩を揺らせていた。それを聞いていた周りの生徒が、「お前は絶対せえへんわ」と笑いの渦を広げていく。ひとり、ぼくは、自分の出席番号のひとつ前の、この生徒を眺めながら、いったい何ていう名前だったかと、思い出そうとしていた。結局、分からなかった。
 寮は、中高の六年間だけで、大学に進学すると出なければならない。大学のキャンパスは、高校の校舎と同じ敷地にあるので、通う場所は同じだ。ぼくは一人でアパートを借りたいと言ったが、父がそれを許さなかった。帰ってこい、という言葉には、久しぶりに聞く凄みさえあった。「っで、三人で暮らそやないか」と、続いた父の言葉に、ぼくは反発した。なんとかして寮に残れないか、大学の近くで、アルバイトをしながら住めるアパートはないか、ぼくは卒業してからずっと探した。しかし、適当な所は見つからず、寮を出なければならない三月の末日に、渋々実家に戻った。
 中学まで使っていた「ぼくの」部屋は、和恵さんの私物が積まれた荷物置き場となっており、二階の奥の部屋が、新しくぼくの部屋として用意されていた。その部屋が唯一、家の中で独立性を持っているので、ぼくにあてがおうとしてくれたらしい。これは、和恵さんの提案だったという。よくしゃべり、よく笑い、よく叱った「和恵おばちゃん」は、なりを潜め、嫌いでもあり、大好きだった昔のイメージは、和恵さんにはなかった。家に戻ったぼくに、気を遣う和恵さん。ぼくも、どう呼べばいいかすら分からずにいた。自分のことを「お母さん」という言葉で示す和恵さんに、嫌悪感さえ持ちながら、あのぉ〜、とか、ちょっと、とか。「お父さんが、今日は、カケルとお母さんの三人で外食しようって。何食べたいか、考えといてな」と、話しかけられた時、それだけでムッときてしまった。それはまだ、引っ越しの荷物も片づいてない三月三十一日のことだ。その日の夕食で、父は和恵さんと籍を入れることを伝え、和恵さんもそれをお願いした。ぼくは何も言わず、餃子が美味しいと評判の、小さくて汚い中華飯店で、ただ料理を掻き込んだ。
 それから二日後の月曜日、二人はぼくの父母として大学の入学式に参列した。ぼくは、二人に対して、どうしようもない無力な抵抗を感じた。帰り道だったと思う。ぼくは「母親やなんて、絶対認めへんから」と言った。
 大学生活は忙しかった。高校時代、後半の一年半で大学一年生、二年生分の単位を取得していたぼくは、入学と同時に専門分野の研究に没頭し始めた。ぼくと同じく飛び級進学した生徒もおり、その中の一人、菜月かほるとは、何度か話したことがある。彼女は、附属の高校からではなく、外部の高校で飛び級して、姉妹校だったぼくの大学に編入してきたのだ。米文学を専攻していた菜月は、アメリカの生んだ恐怖小説の巨匠、エドガー・アラン・ポーについて研究していた。周りの学生からは変わり者扱いされていたが、ぼくはなぜか、彼女に親近感をもった。
 眼鏡、バランスを無視した上下の服、ノーメーク、花柄のトートバック。そんな姿で、いつも図書館に居座る彼女のために「菜月シート」なるものがあった。三方を囲まれた机に、埋まるようにして座る彼女。前からあたる蛍光灯が、白髪を何本か目立たせていた。ぼくと菜月は、ポーについて語り合った。完全犯罪を企み、遂行した犯人が、最後の最後に自分の心臓から鳴り響く「言葉」に耐えきれず、一部始終を白状してしまうという物語は、二人で首をかしげていた覚えがある。おしゃべりな心臓に負けるほど、柔な殺人犯は、今の時代にはもういないだろう、と。一度だけ、なぜそうなったのかは忘れたが、二人で映画を見に行ったこともある。小さな劇場の特別レイトショー。上演されていたのは、ヒッチコック監督の『下宿人』だった。心の奥の方をわしづかみにして、雑巾のように絞り出される恐怖が、ストーリーの進行に合わせて増大し、ぼくらは話しもせず、ガラガラの映画館で夢中になっていた。
 あの映画の日の少し後、菜月は小説家になるといって、二年の途中で退学したらしい。噂によると、学内の男子学生と駆け落ちするように、アジアのどこかの国へ旅に出たという。まったく、何がどうなってそうなるのか、いつも彼女は謎だった。考えてみれば、女性と映画に行ったのは、あれが最初で最後の経験だ。
 膨大な講義を履修していたぼくは、試験の直前になると準備に追われ、詰め込むだけ詰め込む「量」に比例して、菜月のことを忘れていった。実家での暮らしも、「だから」快適だった。父が不満に思う現状、つまり和恵さんとぼくの間には、母子の関係はもちろん、他人でもあり得るだろう関係さえ持たない限り、ぼくは、ひとりの世界に閉じこもることができたのだ。完全なる個室は、中高時代の寮のようであった。その閉ざされた部屋で、ぼくは持てる時間の全てを費やして、課題をこなしていった。寝るのは、余ったときだけ。窓の外の明暗に関わらず、ぼくは、いつも机の上に広げた紙の中で暮らしていた。
 難関だと言われた試験にパスし、何度も書き直した論文が認められたのが二年の秋。ぼくは、学士の学位を取得した。その後、教職課程もパスし、三年に進級する頃には、附属の中学に「研修教師」として派遣されるまでになっていた。ぼくは、二十歳の新人教諭になったのである。
 この研修教師は、給料は支払われるが、研修実績が大学側に伝えられもする。教師であり、学生でもある期間。当時、ぼくの大学で研修教師として派遣されるのは、非常に希なケースだった。理由として考えられるのは、飛び級で進級を続ける者の中に、「わざわざ」教師を目指す者が少なかったということだ。わざわざ……。それは、当時の時代背景にある。家庭の崩壊に後を押され、世論は「学校」という場に子供の教育を丸投げした。それではいけないという風潮が芽生えた自治体では、地域社会という言葉をスローガンに「みんなで力を合わせよう」と動き出していた。そして、誰もが責任を取らぬまま、監視だけを強め、真ん中で宙ぶらりんの子供たちが、自由に犯罪を繰り返した。
 校舎の窓ガラスを割る? グランドをオートバイで走り回る? そんな分かりやすい行動より、ハードな犯罪。簡単に言えば、非行という言葉では収まらない行為だ。音のない騒音、無臭の毒ガス、真っ白い戦場。捉えることの出来ない脅威が、日常の光景の中に溶け込んでいたのだ。昼下がりの、眠たくなる数学の授業にも、下校時の校門横で戯れる集団の中にも、そして、最寄り駅までの寄り道の途中にも。見えない「脅威」が、生徒たちを吸い込んでいた。
 教師は聖職だ! 子供の将来を、この国の未来を、背負っている! 人間として未熟な教師に、免許を与えるな! そんな時代に教師になる? 選択肢がないわけじゃないなら、他を選ぶだろう。そうして、外野から「そうだ、そうだ!」と、批判する側に回ろうとするだろう。なにもわざわざ……、教師になんて、ならなくても、と。
 そんな時代に、ぼくは通常より二年も早く、わざわざ教師という職に就いた。実用的な社会への貢献を、という観点から、学んだモノをより早い段階で実施するための「研修制度」は、教育の他にも、医学、法学、精神分析学などで同じようにあった。それまでのように、一斉にスタートするのではなく、ある者は早く、またある者は何十年も寄り道してから始める。他の道から教職という場に移ってくる者も少なくなかった。つまり、様々な経験や価値、考え方を、教師であれば「学校」という場でプレゼンするのだ。ルールはたった一つ、共通の「教科書」だけだった。
 ぼくが初めて研修先の母校、美空中学に行った時も、そんな背景を反映してか、多色の教師の中に、単色の生徒の群れがいるという構造が、明白に感じ取れた。ぼくは、渦の中に飛び込むようにして、意気込んでスタートを切ったのだ。この研修教師の話が決まり、それまでとは違う大きな変化が、ぼくの中に芽生えた。うまく言えないが、背中に羽が生えたかのような、自分でどこへでも飛んでいけるかのような、具体的に言えば、実家のあの部屋から、抜け出せるような、そんな感覚だった。
 ぼくは、アパートを借りて、一人で暮らしたかった。寮でもなく、実家でもない、一人暮らし。そこには、ぼくを引きつける何かがあったし、それが今までよりも、ずっと実現可能に思えた。できる、自分の力で。それは嬉しいというより、頼もしい希望だった。しかし、現実はそうは行かなかった。
 確かに、給料はもらえるが、七万某かの家賃を払い、さらに生活費を捻出するには無理があったし、社会的にはまだ学生という立場で、賃貸契約には親の保証が必要だった。何件も不動産屋を回り、実際に足を運んで部屋も見た。それを繰り返す度に、理想の部屋はなく、どうしても一人暮らしをしなければならない状況でもないぼくは、そこで二の足を踏んでしまった。
 決め手がない。ドンッと背中を押してくれる何かが足りない。ぼくが勝手に期待し、そして落胆した現実。「したい」と思った自発的な行動は、結局、叶えられなかった。
 研修教師として勤務する前日、ぼくはいつものように家に帰り、いつものように自分の部屋に入った。いつもと違ったことは、明日から「働く」という自覚が高まっていたこと、それに呼応されて、何だかむしゃくしゃしていたことだ。そんな気持ちを抑え込んで、ぼくはベッドに寝ころんだ。そこからの記憶は、あまりない。なぜそんな事をしたのかも分からない。しかし、事件は起こった。
 事件と言うのは、大袈裟すぎるかもしれない。だけど、それが元になって、ぼくたち一家は引っ越すことになったのだから、ぼくには事件だ。父が春休みの半日出勤を終え、夕方に帰宅する。玄関まで駆け寄った和恵さんは、まだ靴も脱いでない父に、勢いよく訴えた。
「私、もう限界」
 ぼくは、部屋のベッドに寝ころんでいた。
「どうした?」
「もう、あかん。カケルが一人で暮らせるように、なんとかできひんの?」
「だから、どうしたんや?」
「今日、買い物から帰ってきたら、三面鏡やらドライヤーやら、包丁もエプロンも、みんなないんよ。おかしいなとおもて、カケルに聞いたら『母さんのやから、村瀬さんが使うのはおかしいやろ』って。しれっとしていうんや。それも今日になって突然。私、何か怖なってしもた」
「どこにもっていきよったんや?」
「知らんよ。ドライヤーなんかは、明日買いに行ったらええけど、鍋も包丁もないから、ご飯もできひん」
「カケルは? 部屋におんのか?」
「そうじゃないの」
 それから、父がぼくの部屋に来て、「聞いてんのか」という言葉を連発しながら、なぜそんな事をしたのかを問い質した。うつぶせのままベッドに寝転がったぼくは、ゆっくり呼吸する小さな虫のように、頭が心筋の動きに合わせて波打っていた。
 聞こえているが入ってこない、思っているが発しない。音のないヘッドホンだけが、やわらかいぼくの内部を守ってくる甲羅のようだった。どうして、そんなことをしたのか? それは、ぼくにも分からない。今でも分からない。ただ、それまで詰め込み、大きな塊になっていたぼくの内部が、グルグルとかき回されていたことは事実だ。研修教師として勤務し始めること、アパートを探したこと、そして、見つからなかったこと。行動を起こすと、心の中がうねり、その度に、はみ出した気持ちが鋭角を増した。
 想像の世界で成り立っていたものとは違う「想定外」の現実。苛立ち、無力。その矛先が、周りに向かう。その晩、父は引っ越しすることを提案した。
 和恵さんは、「村瀬さん」と呼ばれたことがショックだったとつぶやいた。テーブルに並ぶ出前の器から、湯気が細く昇っていた。ぼくは、むしゃくしゃしたままだった。突然の父の提案。一番驚いたのは、和恵さんだった。ぼくと一度も目を合わせない彼女は、父の顔をのぞき込んでお金の心配をした。引っ越しの理由を長々と説明する父。端々に「カケルの気持ちは、父さんにもよく分かる」と繰り返していた。ぼくでさえよく分かっていない自分の気持ち、それを分かっていると言う父。ぼくは、さらに苛立った。
 母が死んだあの夜から、父に向けるぼくの眼差。表には出さないが、ため込んでいた反感。母の遺体の前で、遠くを見ながら「やっと終わった」と、安堵したようなあの日の父。ぼくだけが、ポツンと置き去りにされたような……。再婚の話を聞いた時、確信に変わったあの気持ち。ぼくは、父が分かると言っている「ぼく」ではないのだ。もう、そこにはいない。
 父が固執する「家族」という像。母が病弱で、ほとんど寝たきりだったために作れなかったカタチ。その再生を、「ぼく」のために願っている。ぼくが分かっている〈父の気持ち〉はそれだ。それを、ぼくの勤務先が近くなること、余っている部屋がもったいないことだけを理由にして、だから引っ越そうという父の言葉。その裏側に、ぼくは、反発し、引っ越しに反対した。家族は、人を代えて再生できるものではない、というのがぼくの気持ちだった。しかし、翌月には新しい家が決まり、その翌週には引っ越した。
 公団にたまたま空きがあり、すべての条件がうまく作用したらしい。引っ越してからも、ぼくと和恵さんの距離は変わらなかった。なんとかしなければならないと思い続けていた父だけが、酒に酔うと「和恵さんなんて呼ぶな」とか、「わたし、なんて他人行儀にするな」と愚痴っていた。父の気持ちに反発する理由。それは、実母に対する想いが、継母を上回るからなのか? 答えはイエスでもあるし、ノーとも言える。結局、和恵さんは、幼い頃「和恵おばちゃん」として接していた時のままなのだ。育ての親でも、実母でもない継母は、ぼくにとって、うまく話せない他人の女性と同じ距離にあり、それが「母親」という立場で同居しているのだから、どう向き合っていいか分からない。分かるのは、距離を保つしかないということだった。
 研修教師として二十歳の若者が挑戦する。それは、地方新聞の小さなコラムで取り上げられるほど、ちょっとしたニュースだった。入学シーズンを終え、桜も散った四月下旬、延びに延びていたぼくの出勤開始日が、ようやく決定した。大学側と研修先の中学で、人数調整が上手くいかず、四月一日からの派遣が一ヶ月以上も遅れたのだ。正式に勤務を始めるのは、五月の連休明けという、なんとも中途半端な結果になってしまった。ぼくは、その執行猶予期間中のような一ヶ月の間に、学校の近くの家に、三人で引っ越した。
 生徒としてではなく、教師として校門をくぐった日。風が吹けば、まだひんやりと冷たかった。緑がやけに濃く、空は透明だった。ぼくはずっと、頭の中で「いっち、にー、さん、しっ」とリズムを刻む。そうでもしないと、浮かんでくる期待や不安に、いちいち一喜一憂しなければならなかった。母校なのに、こんなに近いのに、道を間違えそうになる。何も考えず、ススメ、ススメ。いっち、にー、さん、しっ。卒業して五年、学校の雰囲気は、何一つ変わってないように思えた。真正面に建つ校舎、真ん中で時を刻む丸い時計。ぼくは、校門の前で大きく深呼吸をした。あの日の陽射しと、スーツの変な匂いは、今でも鮮明に覚えている。すでに授業が始まっており、何百人という人間がいる場所とは思えないほど、ひんやりと静寂だった。だから、なのか? どこかちぐはぐな感じだった。校舎の裏側にある寮で暮らしていたぼくは、いつも裏門から登下校をしており、真正面から校舎を眺めた経験はあまりない。だけど、それだけが違和感の原因ではなかった。スーツを着ていたこと、授業の途中であったこと、校門の前に一人でたたずんでいたこと。いや、違う。そのどれでもなく、ぼくの中に「やるぞ!」という、それまでにはなかった「気持ち」が、奥の方から湧いていたこと。それが、あの日の違和感の原因だった。
 ぼくはあの時、でっかい校舎へと立ち向かおうとしていたのだ。「そこに山があるから……」、ぼくは挑んだのかもしれない。挑む、という未知の世界。小学生のぼくが、父と母、テーブルを囲んで書き記した「将来へのタイムカプセル」。それが、実現されようとしていたのだ。
 約束の十分前、ぼくは校長室をノックした。思っていたよりも簡素な部屋だった。古めかしい革のソファが向かい合い、挟まれるように置かれたガラスのテーブルには、埃ひとつなく、大きな灰皿が置いてあった。窓を背にした校長の机は、畳一畳分はあるだろう広いもので、ほとんど何も置かれていなかった。両側の壁に、歴代校長の写真があった。本棚は、スライド式の大きなもので、ソファに迫りくる。並べられた膨大な本からは、少しだけカビの匂いがした。ぼくは、そのソファに腰を下ろすこともせず、校長がやって来るまでキョロキョロしていた。窓辺のゴムの木が、気持ちよさそうに光合成をする。日に照らされた窓辺の明るさ、そして、ぼくの居た扉側の影。「ここから、あっちへ」。ぼくは、これからの日々に、期待するように、日陰から、その日向を眺めていた。
 事務の女性が、お茶を出してくれた。ぼくは軽く会釈して、座るように勧められたのを断った。お茶の置かれたテーブルと、向かい合ったソファの側で、ぼくは立ったままでいた。しばらくすると、校長が小走りで入ってきて「ちょっとだけ、待ってくださいね。午前中に目を通さんとあかんもんが、あるさかい。どうぞ、どうぞ、座っといてや。タバコも吸わはるんやったら、かまいませんよ」。着慣れないスーツは、座るよりも、立っていた方が楽だ。勧められるままにソファに腰を下ろしてから、ぼくは思った。大学ノートが、ブカブカのコートを羽織るように、カバンの中には入っており、手持無沙汰なぼくは、それを取り出してHBのシャープペンシルを手の中でグルグルと回した。校長からの「次」の指示があるまで、ぼくは真っ白いノートに意味もなく何かを書き留めた。沈黙の漂う校長室。ジリジリと何かに圧迫されるようで、無性に喉が渇いた。テーブルに置かれた湯飲み茶碗に手を伸ばす。ペラペラと、校長がめくる書類の音、静かな廊下を誰かが掃く音。いつも誰かに見られているような、監視下。校長室には、そんな雰囲気があった。開いたノートの一行目に日付を記す。そして、自分の名前を続け、三行ほど間隔をおいてから、丁寧に書いた。
 一、 自分の全部で教える
 二、 分け隔てをしない
 三、 元気な挨拶から始める
 四、 生徒が何でも話せるように接する
 ぼくが、教員試験の面接で何度も繰り返した教育方針だ。同時に、ぼくが最も苦手とすることでもあった。その文字を眺めながら、これから自分が教える生徒のことを想像し、その生徒に感謝される自分を創り上げた。卒業式の日、何人もの生徒が別れを惜しみ、映画で見たような、泣き声の飽和する教室で、ぼくは抱き寄ってくる生徒達に、黒板まで押しつけられる。「うん、悪くないな」と、ソワソワし始めた。早く生徒の顔が見たくなっていた。
 ボンッと、校長が書類に判を押した。ビクッとぼくの体が反応した。間髪おかずもう一度、ボンッと判がつかれる。その音が響く。それはまるで、「始まりの合図」を示すピストルのようであった。あの日の、あの校長室が、ぼくのスタートだった。
 ひとりの世界で大きく膨らませた社会。「走れ!」という合図で、ぼくは走り出したのだ。ぼくをゲスト扱いするかのような緑茶が、すっかり冷め切ったあと、校長は、ソファに腰を下ろした。
「丘野さんは、ここの卒業生なんやね?」
「はい」
「え〜っと、六年? いや五年前になるんか?」
「そうです」
「そのまま高等部で飛び級とらはったとか」
「そうです」
「もう聞いたはるかもしれませんけど、二年間は一応研修という形での採用です。藤沢先生の、あっ、三年の学年主任をやられてる方なんですけど、その方の下で、丘野さんには副担任をやってもらいます。優秀なんは知ってますけど、わからへんことも多々出てくるかと思いますから、その先生に何でも聞いて下さい。何か、今、質問とか、聞きたいことはありますか?」
「いえ、特に」
「ほんならっと、あと十分ほどで休憩時間になりますので、その時に職員室でみなさんに紹介しますわ。それまで、ここで待っといて下さい」
「あの〜」
「なんです?」
「学校の近くで、教職員用の寮があると聞いたんですが、そこに入ることはできないのでしょうか?」
「いやぁ〜、わからんわ。それは……、誰に聞いたらええんかいな、まっ、後で教えますわ。丘野さんは、家が遠いんでしたかいな?」
「いや、そういうわけではないんですが」
「まっ、よろしいわ。ほんなら休憩時間まで、ここにおってください」
 久しぶりに聞くチャイムだった。飛び出しそうな心臓。足の指先に汗をかいているのが分かる。ぼくは、緊張しながら、その休憩時間を迎えた。校長について職員室に向かう。懐かしいケンブリッジ・ブルーの学生服を着た生徒が、廊下を走りすぎる。「コラッ」と叫んだ校長の言葉だけが、天井にぶつかってそのまま消えた。
 元気よく、元気よくと、ぼくは呪文のようにつぶやく。職員室の前、校長がぼくの方を振り返り、「緊張してないね。まぁ、する必要もないんやけど。大概は、顔があお〜なったりする人が多いんやけどね」と笑った。顔に気持ちが出ない、ただそれだけです、と言いかけて止めた。ドアを勢いよく開く校長。「元気よく」ともう一度、つぶやいた。
 ぼくが職員室に入ると、ほとんどの先生が席についていた。一番前の教頭の席へ歩き出すと、拍手が湧いた。それはさながら義務的で、無愛想なパラパラという三秒ほどのもの。
「今日から研修教師で来られた丘野君です。まだ二十歳の若者ですが、非常に優秀ですから、お互いに切磋琢磨して、よりよい教育のために、がんばって下さい。それじゃ、一言、自己紹介してくれますか」 
 頭の中が真っ白になった。名前と大学名、この中学の卒業生であることを早口で話すのが精一杯だった。その後、また校長が話し始め、研修教師制度がどうの、ぼくの父親が教頭だの、今朝、花壇に空き缶が捨ててあっただの、長い話が続いた。ようやくそれも終わり、ぼくは学年主任、藤沢先生の隣へ誘導された。
「さながら、転校生ですね、あれじゃあ」
 隣に座ったぼくに、白髪交じりの藤沢先生が言った。うまく、顔が、溶けない。このような一言に対して、「ええ、まぁ」という笑顔が出ない。ぼくは無表情のまま、空っぽのかばんから大学ノートを出して、机の上に置いた。藤沢先生は頭をかきながら、
「それに、丘野君いうことは、ないですね。研修教師とはいえ、丘野先生と、ちゃんと呼ばんとあきません。まぁ、しゃーないですね、あれでも校長なんですから」
 ぼくは二年間、この藤沢先生の下で研修を行った。先生の担当は理科で、専門は化学。当時で三五年目のベテラン教師だった。口癖は、ことある毎につける「しゃーない」という言葉。不規則な化学反応ばかりの世の中では、そんな諦めで切り抜けるしかなかったのだろう。仕方がないという口癖は、とてもネガティブに聞こえ、それを聞くと、ぼくまでため息がでた。「教師なんて、周りから信頼されてません。まぁ、しゃーない、こんな時代ですからね」「しゃーないですよ、こちらは手が出せへんし、生徒はやりたい放題です」「お金もうてやってる仕事なんで、我慢せなしゃーない。ストレスためへんことが、長くやっていく秘訣ですよ」「そりゃ、しゃーない。そうゆうもんです」、と。
 初出勤の日は、授業が終わるまで事務の方が学校中をオリエンテーションしてくれた。どこに何があるか、提出する事務書類の数々、お弁当の注文時間と返却方法などなど。卒業生とはいえ、分からないことは多く、どの部屋であっても、いつであっても、何から何まで申請書がいることに、ぼくはメモを取るのを放り出した。最後に、教職員用の寮について聞いてみたが、「それは校長先生に聞いて下さい」と言われた。それでも分からないから聞いたのだけれど。結局、自分のテリトリー以外は、誰も関与しようとはしない。そんな個々の集まりで、学校が成り立っているのだった。
 終業のホームルームを終え、職員室に戻ってきた藤沢先生が、明日のホームルームでぼくのことを生徒に紹介すると言った。初出勤は、それで終了した。ぼくは、生徒に紛れて下校するかのように帰宅した。早く教壇に立って教えたかった。それでこそ、教師だ。自分がやるべきことなのだ、と思った。
 家に帰ると、和恵さんが「ごくろうさん」と出迎えてくれた。一日をそんな風に終える日々に、ぼくは成長したように感じていた。その晩、ぼくは考えた。生徒のために、学校のために、そして、これからの日本のために、ぼくができること。机上の紙の世界で生きてきたぼくにとって、頭の中に創りだした「学校」で、「生徒」たちはプレイヤーなのだ。決まり切ったことで悩み、挫折し、そしてぼくが「教え」て助ける。「将来の日本」は、そんなぼくの考えつく通りの道を通って、最後には〈ちゃんと〉なる。ぼくは、「課題」をこなす要領で生きる。問題には答えがある。それを導き出すために、教師になろうとしていたのだ。
 翌日、ぼくは三年三組の教室にいた。藤沢先生が、副担任であること、まだ二十歳で、生徒との年齢差も近いこと、研修教師という立場であることを読み上げるように紹介し、生徒は黙ったまま黒板の上にある時計を見ていた。入れ替わってぼくが教壇に立つ。黒板に自分の名前を書き、「よろしく」と言った。五年前まで、あの制服を着て、そちらから、こちらを見ていたのに、今は教壇に立っている。「怖かった」。あの時の生徒たちの「目」が怖かった。焦点の合っていない視線が、ぼくに突き刺さった。みんながぼくの言葉を聞き、次の瞬間には、あくびをするか、笑うか、怒りだしてナイフを取り出すか。どう出るのか、まったく予想出来ない彼らの表情に、ぼくの足は震えていた。音も立てずに黙っている。生徒一人ひとりが原子となり、教室中を高速で動き回っている。なのに、温度をまったく発しない。静寂と冷血。藤沢先生に声をかけられてハッと気付くまで、ぼくは、しばらく黙り込んでいた。ぼくに代わって教壇に上がった藤沢先生が、
「じゃ、みなさんよろしくお願いしますね。えっと、今までは現代文も古文も小橋先生が担当されてましたが、これからは、現代文をこの丘野先生が、それから古文を小橋先生が担当されます。それじゃ、みんなで丘野先生によろしくと言って下さい」と告げる。「よろしくお願いします」。バラバラではあったが、ほぼ全員の生徒が、ぼくの方を向いてそう言った。あの冷血な表情からは、想像できない彼らの行動。まだ十四歳であることを改めて感じた。
 それからのぼくは走り続けた。面白い授業というのが、ワッハッハという笑いの絶えないものだと限定するなら、ぼくの授業は決して面白くない。何しろ、教科書の内容から外れた話はしないし、ギャグも話した記憶がない。女子の中に、ぼくを「テンネン」だと面白がる者も何人かいたが、だからおもしろいということにはならない。だけど、ぼくは一生懸命だった。そんなことが、生徒たちにとってどれだけの価値を持っていたかは分からないし、ただただ「ウザい」だけなのかも知れない。が、ぼくは、生徒にすすんで話しかけるように心がけていた。教科書を読み上げ、主人公の気持ちを紐解いていく。このとき、主人公がなぜこんな行動にでたのか。考えられるのは……、と板書をする。背後の生徒は沈黙している。氷の塊を端の方から崩すように、一番つまらなさそうにしている生徒に「ぼくの授業、面白い?」と尋ねる。「そんな質問するところが面白い」と言われ、それで教室にドッと笑いが起こる。その笑いをかき消すように、また、他の生徒に意見を求める。最後まで読むと、答はAで、主人公はこの時こう思っていた、という正解が導き出せる。そこに至るまでには、生徒から様々な意見が出る。それは当然だし、歓迎すべきことなのかも知れないが、ぼくは「でも……」とか「仮に……」などと言葉を濁しながら、全員を正解の方へと、はやく導いた。ぼくが梶を切るから、しっかりこの船につかまってろ! ぼくの授業スタイルは、こんな感じだった。
 休み時間も、放課後も、ぼくが受け持っている生徒を見つけると挨拶をした。どんな反応が返ってくるか、本当はドキドキしていたが、どんな返事が返ってきても、冷静を装って対応した。
 一ヶ月も経つと、若いというだけで女子生徒の一部に「人気」が出ていたらしい。それまで人気ナンバー1だった体育教師の木崎先生が、「いやぁ、最近は丘野先生にもっていかれてますよ」と冗談で言っているのを聞いたことがある。確かに、生徒から手紙をもらったこともある。靴箱に入れたり、ぼくの帰りを待ったりするのではなく、他の先生に「渡してください」と託すのがその頃のスタイル。自分の気持ちを密かに伝えたいというのは、昔の話なのかもしれない。「私のLINEのIDです。絶対、LINEください」「結婚したいとかじゃないので、安心して下さい」などと続く文面。返事には困ったが、堂々と渡された分、堂々と返事をすればいいのだろう、と「こないだ、手紙ありがとう」と、ぼくは授業中にその女子生徒に言ったことがあり、非常識!と、非難された。それからは、手紙をもらうことも減り、もらったとしても、返事を書くのはよそうと決めた。
 欠かさずに続けていたことは、学級日誌を読むことだった。藤沢先生に代わって、ぼくが返事を書くこともあった。〈何々の授業中に、誰々が怒られた。でも、ぼくは、私は、誰々が悪いとは思わない〉とか、〈何々先生の話はいつも面白い、それに比べて何々先生の授業はつまらない〉とか。ぼくは、「なぜ怒られたのか、もしあなたがそうやって注意されたら、どう思いますか?」「どういう所か面白く、なぜつまらないのか?」などとペンを走らせる。日誌に返事を書いていると、「実感」というのだろうか、そういうものをすごく感じるのだった。
 五月から始めて、夏休みまではあっという間に過ぎた。その三ヶ月間、ぼくは生徒とすすんで接触を試み、納得のいく時間を過ごしていた。と、思っていた。しかし、実際は、見ているようで見ていない、接するようで接していない日々だった。現実を思い知らされたのは、夏休み前の、三者面談の時だ。三組のほぼ全員が、そのまま附属の高校に進むことを希望しており、中学三年生の三者面談も、「進路」に対する緊迫感が少なかった。担任の藤沢先生は、七月から九月まで、大学での生涯学習の講義を請け負い、ほぼそちらに手を取られていた。当時、生徒数の減少に伴って、各大学が広く一般に門戸を開き、退職した人や社会人、主婦などを対象に「ナポレオンの軌跡」や「邪馬台国の謎」、「太宰治を読み直す」などの講義を開設していた。それがなぜか毎年好調で、もはや、なくてはならない収入源となっていた。国立大学とはいえ、「黒字」を出さなければならない時代だったのだ。藤沢先生は、主婦を対象に「イオンパワー」というテーマの講義を開き、日々の家事に活かせる化学を教えることになっていた。そんなこともあり、三者面談は、副担任であるぼくが、ひとりで行うことになった。一対二の三者面談。始まる前から緊張していた。
 ぼくは、藤沢先生に提案し、三者面談の時間を二つに分けて、前半の十五分を三者で、残りの十分を生徒との個人面談にしてもらった。その理由として、「生徒とゆっくり話す機会が少なく、三者面談だと、生徒たちの本音が見えてこない」からだと説明した。「イオンパワー」のレジュメ作りに忙しい藤沢先生は、二つ返事でオッケーしてくれた。本音を言うと、一対二という「敵」の数をできるだけ減らし、一対一にしたかっただけなのだが。
 期末試験が終わると、午前中のみの授業となり、昼からは面談に充てられた。実に様々な家庭があり、親子関係があった。この三者面談で気付いたことは非常に多い。母と子というのは、「喧嘩」するように会話をするし、思った以上に他人の事を気にしている。どちらも経験したことのないぼくには興味深かった。母とあんな風に話したことも、クラスメイトのことを気にしたことも、ぼくにはない。生徒と保護者は、ぼく(=先生)の話が絶対であり、その一言一言に集中する。特に、それは保護者の方に強く見て取れた。「なかなかがんばってますよ」と抽象的なことをいうと、その具体例を尋ねられたり、「努力家ですね」と褒めると、ムッとされて「才能はないという意味でしょうか」と返されたり。きっぱり、「努力出来ることは、才能ですよ」と言い切っても、「はぁ……」と渋々返事をする母親もいた。大概、話すのは保護者で、生徒は黙っていた。自分の子供を謙遜し、他の子供の様子を知りたがる。その中で、自分の子供が何番目ぐらいなのかということに、必要以上の興味を示す。生徒はというと、「早く終わって欲しい」と顔に書きながら、黙って座っていることが多い。そうかと思うと、信じられないほど仲のいい親子もいたりする。普段、教室ではツンッとして、「思春期真っ最中です!」という雰囲気を醸し出している男子生徒や、大人の女性に片足を突っ込んでいるかのような、ませた女子生徒が、意外に親と仲が良い。漫才でもしているのではないかという親子もいた。こちらから知りたい「家庭」での生徒の様子よりも、保護者が知りたい「学校」での生徒の様子を話す時間が圧倒的に多く、それだけで終わる場合もしばしばだった。
 三者面談が終わると、保護者には退室してもらう。だからといってホッとすることはできなかった。それから生徒と一対一の個人面談を開始する。ぼくは、一言目がなかなか見つからず、しばらく沈黙することも多かった。向かい合うように並べた二つの机の上に、淀む重い空気。「すごいね、君のお母さん」とか、「面白い方やね、お母さんは」とか、「教育熱心やわ、君のお父さんは」など、最初は三者面談で感じた保護者の感想を述べることが多かった。生徒の反応は、はにかむでもなく、温度を失った無表情に戻る者がほとんどだった。「家でもいつもあんな感じ?」と家庭での生徒の状況を聞き出し、その後でクラスでの状況を尋ねる。先導して話しを勧めてくれる保護者の存在が、あれほどありがたいものだということに、ぼくはもっと早く気付いておくべきだった。しかし、この二者面談で、ぼくは今でも忘れることの出来ないいくつかの言葉をぶつけられたのだから、無駄ではなかった。

S君 「丘野先生って、まだほんまの先生とちゃうんやろ?」
Eさん「なんかなぁ、丘野先生は面白みに欠けるって、みんな言うてるで」
I君 「ほんまに、何でも思てること言うてええの? 怒らへん? 先生ってなぁ、なんか、いっつも偉そうやねん。わかったような顔して注意するやろ。ほんでボクらがまた同じことしたら、あの顔して同じように注意するやろ。ボクはあんまりそう思わへんけど、先生のことムカツクっていうてるヤツ、結構多いで」
Tさん「先生ってカノジョとかいるんですか? なんか、付き合ったこととかもなさそうなんですけど」
O君 「別に、なんとも思いません。関心ないから」

 これを一週間以上繰り返されると、それまで「実感」していた全てのことが虚像に思えて、落胆は隠せなかった。この三ヶ月、日を重ねる毎に生徒の中にぼくの言葉は浸透し始めていると思っていたのに。授業中も、放課後も、日誌でも。なのに、彼らから放たれた言葉は、まるで矢のようにぼくに突き刺さった。膨らみかけた「期待?」「希望?」、そういった類のものを次々に割っていったのだ。そんな一本一本の矢が束になって、ぼくに向けて放たれたのは、夏休みも終わって二学期が始まってからだった。
 夏休み中、このクラスの留学生、グエン・タット・チューという生徒がアルバイトをしており、それを学校側が認めていたということに対して、他の生徒が「私たちにも認めろ」と訴え始めたのだ。藤沢先生を始め、学校側はこの問題に対して直視しようとはせず、できるだけ触れないようにやり過ごそうとしていた。「グエン君は、ベトナムの両親を少しでも助けるために働いており、強制的に止めさせることに正当な理由はない。そもそも、アルバイト禁止というのは、学生の本業は勉学にあり、それをおろそかにしないためのもので、グエン君の場合、その勉学においても、水準以上の成績を収めており、素行においても何ら問題はない」
 これが、学校側の発表した正式なコメントだった。ぼくはその通りだと思ったし、ちゃんと生徒にも説明すべきだと考えた。だから、ぼくは授業中に、わざわざ自分からこの問題を取り上げた。
 まず、グエン君に思っていることや、言いたいことがあるなら、みんなの前で言ってみるようにと促した。彼は、
「ぼくが、アルバイトをするのは家族のためです。ぼくはもう十七歳なので、働いてもいい、と所長さんも言いました。だから、ぼくは働きました。お金はベトナムに送りました。家族は喜びました。ぼくは、悪くありません」
 堂々とした態度だった。ぼくは拍手したい気持ちにかられ、沈黙を続ける生徒一人ひとりの表情に、怒りのようなものを感じた。その怒りが突如、言葉として発せられた。
「みんながみんな、自分らと同じように恵まれた環境にいると思ってんのか? グエン君は、ベトナムで中学にあたる学校を卒業して、それから日本に来てるんや。これだけ日本語も達者で成績もいい。グエン君がやっていいなら、自分も働きたい? 働いてどうするんや? お金稼いで、何に使うんや。せいぜい、服でもこうて、遊ぶお金の足しにするだけやろ。だいたい、君らはお小遣いもろてんのとちがうんか。それで十分やろ。よう考えろよ、君らを雇うてくれるとこなんか、どこ探してもないぞ。君らがが働くんと、グエン君が働くのは、根本的に違うんやからな」
 動き出すと止まらない暴走列車の如く、ぼくの口から、それまでのぼくからは想像できな言葉が次々と吹き出した。初めてだったと思う。あんなに激しい感情に駆られ、それをそのまま口に出したことは。ぼくは確実に、それまでの自分とは違っていたのかも知れない。すぐにこのことは職員に知れ渡り、藤沢先生は「えらいこと、してしまいましたね」と、白髪交じりの頭をかいた。その日のホームルームで、藤沢先生は「避けては通れない」ことと前置きをし、ぼくと生徒たちから同じ場で意見を求めた。黙ったままの生徒と、じっと待つ藤沢先生。一人が挙手して、「部活があるんで、はやく終わって下さい」と言ってからも、沈黙は続いた。女子生徒の一人が、「丘野先生が、勝手に熱くなって、一人でバーッとしゃべっただけで、うちらには、訳がわかりませんでした」と意見を述べると、無表情の顔の群れが一斉に縦に揺れた。最後に、グエン君が発言を求められ、「丘野先生、ぼくは、恵まれてない訳ではありません。謝って下さい」と、言った。
 ぼくは真っ白だった。グエン君をかばった気でいたのに、その彼から謝罪を求められた。確かに、ぼくの発言は適切ではなかった。なにしろ、この教室にいる、一体どれだけの生徒が「自分たちにもバイトさせろ」と訴えていたのかなど分からない。それを一緒くたにして「非難」してしまったのだ。それも感情のままに。そして何より、肝心のグエン君も傷つけてしまった。「日本人であるみんなより大変なんだ、一緒だと思うな」と、見下すように。ぼくは、「すいませんでした」と、生徒の前で謝罪した。
 それで話しはおしまい、とはならなかった。一度こぼしてしまった汚点は、藤沢先生の「イオンパワー」でも落とせない。生徒は、ぼくのことを完全に無視し、ぼくも勢いを失った。いくらエンジンをふかしても、ぬかるみにはまったタイヤは、空回りを続けるばかりの日々。時を同じくして、職員室でもぼくに対する眼差しが変わってきた。
 二学期の中間試験を終え、十一月に入った頃、三年生の職員会議で、突然名指しされたぼくは、授業方法の改善を求められた。うちのクラスの生徒は、ほとんどが丘野先生の授業はわかりにくいと言ってます。一体、どんな授業をされているのですか、と。このままの状態が続くなら、小橋先生に代わって頂かないといけなくなります、とも言われた。背景にあったのは様々だ。生徒からの言葉をそのまま受けて、その先生もぼくの事を批判した訳ではない。五月に採用され、ぼくは日を重ねるうちに藤沢先生が「しゃーない」と言って諦めていることの多くに、いちいち立ち向かおうとしていた。学校の名前を全国に広める活躍をした運動部の生徒だけに、特別な加点を与えることや、お世話になっている業者には、見積もりが高くても依頼すること、上(教育委員会)から言われた以上のことは、してはならないという風潮。こうした方がいいのではないかというぼくの意見は、その都度、曖昧に流され、それでも、ぼくは訴え続けていた。今でも、当時のぼくが間違っていたとは思っていない。しかし、大事なところで、踏み外していたように思う。
 ぼくは、客観的な判断から自らの主張を繰り返し、改善される見込みがないと、ひとりで突っ走ってしまったのだ。あの時、他の先生とコミュニケーションをとっていれば、少なくとも、藤沢先生だけには相談していれば、少しは違ったのかも知れない。何人かの合意の上で、一緒になって訴えることができていれば、効果も増しただろうし、しくじった時の痛手も少なかっただろう。ぼくは、乾いた教科書の一文のように、それを頭に浮かべ、そして理解した。きっと、藤沢先生も、ぼくには手を焼いていたのだと思う。「まぁ、丘野先生のことですから、しゃーない」と繰り返しながら。
 他の先生が、ぼくのことをどんな風に思っていたのか、この時期を境に少しずつ明らかになっていった。

T先生 「自分は飛び級で、特別やとおもてるんやろうけど、こっちまで巻き込まんといてほしい」
E先生 「そこまで言わんでも、分かってはるとおもてたから、何にも言わへんかっただけです」
A先生 「まぁ、いずれはこうなると、おもてました」
 ぼくは、自分があの会議の中で、どんな顔をしていたのか分からない。どの先生も、ほくそ笑んでいるように見えたし、「そら、みたことか」と肩を揺らせているように思えた。結局、ぼくの授業を小橋先生がしばらく見学するということで決着がつき、それを翌月の会議で小橋先生から報告することになった。その報告を受けて決定を下す。ボーっとしていたせいで、何が何だかよく分からなかったが、どうやら、ぼくは「試される」らしいことが分かり、「ちょっと待って下さい。仮にもぼくは教師ですよ。そんな監視されるなんて、プライドが許しません」などとは、言える状況でもなかった。ぼくにはもう、そのトライアウトに、勝ち残るしかなかった。
 生徒の反応も、教職員の視線も、あまり変わることはなかったが、どうにか、小橋先生の報告を受けた職員会議の判決は、ギリギリのところでセーフとなった。明らかに、ぼくの授業が他より劣っていることはない、という判断。不服だったが、ホッとした。
 秋が過ぎて、冬になり、梅の花が香り、卒業の季節になった。夏休みからの半年間は、本当にはやかった。ぼくは、走り出した勢いの惰性で、残りの日々を暮らした。日誌を読むことも止めた、廊下で生徒にあっても声をかけられなくなった。藤沢先生の指示にいちいち噛みつくこともなくなり、いつも「イエス・マン」で暮らした。自分の存在価値を見いだすために、集団から離れ、一人で努力し、実績を積んできたぼく。だから、周りから評価されたきた。評価された自分、「できる」自分こそが、ぼくがぼくであることの証だった。しかし、この頃のぼくは、普通になっていた。様々な経歴を持つ教職員のメルティングポットの中で、一つの個体として投げ込まれたぼくは、だんだん溶けて形をなくしていた。そうすることによって、それまで以上に、この学校の教職員であると認められるようになっていたのだ。多数決はいつも、何十対ゼロで決着した。何かの行事には、決まって去年の例が参照された。生徒には、こちらが期待しただけの結果を求め、過剰に煽ることを避けた。よく聞き、よく話す、その上でよく考える。そこまでをスムーズにこなせば、どんな結論を導いても大きな問題にはならない。これらは、ぼくが感じて導き出した「教育」の現状だった。
 卒業式の日。それは、ぼくがあの校長室で想像していた光景とは、似ても似つかないものだった。もちろん、中学校を卒業しても、ほとんどの生徒がそのまま高校へ上がるので、ここでお別れということではない。「涙」など皆無だった。藤沢先生に至っては、式にノーネクタイで出席した。間延びした式の最後に、生徒全員による『卒業写真』が歌われ、「人混みに流されて、変わっていく私を あなたはときどき、遠くで叱って」と、何度か繰り返された。変わっていく、生徒。それを叱るのか? と、ぼくは少し皮肉っぽく笑った。むしろ、「変われよ」と応援したい気持ちもあった。
 二年目は、驚くほど当然に、おかしなほど素早く通り過ぎた。春のうららかな日曜、ロンドンにある広大な公園でクリケットを見ながら、前を横切るリスに気づいて静かに笑う。そうしているうちに、一年が過ぎたという感じだった。つまり、ぼくは、ぼんやり腰を掛けながら教えたし、生徒たちのことや学校組織の問題は、まるで距離をおいて行われているクリケットの試合であるかのように他人事に思えた。目の前を横切る事(それがたとえ良いことであっても、悪いことであっても)を眺めながら、静かに笑うだけだった。藤沢先生は、そんなぼくを見て「成長した」と言った。大人になった、という陰での噂も聞いた。不思議な事に、去年よりもずっと接触の減った生徒たちからは、ぼくの評判が上がった。そういうものかも知れない。
 嫌いじゃないものは、好きという部類に入る。好きでも嫌いでもない、ただ関心がないだけという全体の雰囲気も、アンケートを採れば、嫌いではないから好きなのだろう。五段階評価の三。触れてくれるな、という事かも知れない。そして、ぼくは就業適正年齢の二十二歳の年を迎え、教員として正式に採用された。教師をやって三年目に当たる。美空中学の事は、ほとんど分かった気でいた。本採用という節目を迎え、どこか新たな気持ちも芽生えていた。二月に入り、来年度、三年生の職員に欠員が出ることになり、周りも、そしてぼくも、その席に着くのは自分だと思っていた。来年からは忙しくなるぞ、と少々身構えてもいた。そう思っていた矢先、校長先生から突然の不採用が言い渡された。
 美空中学では、ぼくを来年度の教職員として迎えるつもりはない、と。客観的に自分の姿を見返して、この判断に不服かどうか。妥当だと言われれば、そういう気もするし、そうではないといわれれば、そうとも言える。何しろ、この頃のぼくには、何一つ「色」がなかったのだ。〈無〉色とも言えるし、〈白〉色とも言える存在だったのだ。
 校長先生は、いつもの長い説明をダラダラと続けたが、核心は分からなかった。どうして、ぼくが不適格なのか。最後に校長先生は一言、「私に聞かれても、最終判断をしたのは上やから」と逃れた。自分が一番「上」なのだという自覚のなさ、そして、他が決めたという逃げ方。ぼくが、何度も何度も煮え切らなかった校長先生の態度が、最後になっても見られた。「そうですか」と言ったぼくは、強がりじゃなく、心から「ここじゃないどこかへ行きたい」と思っていた。
 この不採用通知を受けたのが遅く、それから別の学校を探すのは大変だった。履歴書を生まれて初めて書き、それを何校にも送った。それでも、ぼくの就職活動は不発だった。場所も課題も与え続けられたぼくにとって、それを自分で見つけ出すのは、骨を折るだけだったのかも知れない。東京の、大学の附属中学である緑山から手紙をもらったのは、ちょうどそんな時だった。
 一度お会いしたい、と手紙には書かれていた。関西圏で探していたので、東京という場所にハッとさせられたと同時に、なぜだ? という疑問も湧いた。この緑山中学には、何一つ書類を送っていない。それなのに、なぜ? と考えたあげく、とにかく行ってみることにした。
 指定された日、「一応の、顔あわせだから」と言われ、拍子抜けしたぼくに、緑山中学の校長先生は、父の話を始めた。そして、今回のことが、父からの紹介だったことも告げた。採用。その場で、ぼくは緑山中学への就職が決まった。大慌てで必要なモノだけを持ち、東京に引っ越した。無口なぼくでも、言葉は完全に関西弁であることに、少し笑えてしまう。逆に、無口なぼくでも、三ヶ月もすれば、言葉は標準語になった。
 父が何も言わないので、ぼくも聞きはしなかった。だから、どういう経緯で緑山中学がぼくを採用したのか、父とどのような関わりがあるのか、未だにはっきり分かっていない。けれど、先輩の吉野先生が、父の教え子だったことから考えても、かなり太いパイプが父にはあったのだろう。四月一日付けで採用され、同期には、ぼくを含め三人が赴任した。男二人、女性一人。ぼくは「過去の実績」と呼ばれる美空中学での二年間の研修教師経験を元に、いきなりニ年一組の担任になった。あの時のぼくは、とにかく、新しい職員室に、溶け込むことだけを考えていた。はみ出さず、飛び出さず、とにかく馴染むよう、馴染むようにと。
 同期の先生方と、横のつながりはない。名前をかろうじて知っている程度だ。佐々木という二つ年上の同期が、ぼくのクラスの副担任をやっている。新人二人に担任、副担任を任せるのは、職員室内でも色々と反対意見が多かったようだが、君たちならできる、と副校長の期待を含んだ判断で決まったらしい。「新しいモノを吹き込んで欲しい」。副校長は、ぼくら新人ペアに、真顔で言った。縦のつながりは、重要視した。とにかく、先輩の先生方の中でうまく転がれるように、ぼくは、腰をかがめて丸くなった。口を閉じて凹凸を消した。そうして、スタートを切ったのだ。
 教壇から眺める教室の景色は、相変わらず、無色透明の乾燥したものだった。生徒より、先生方との関係に重きを置いている。言われたことを的確に、完全にこなしていく。そして、それ以外はやらない。ぼくはそうやって、この世界の中にいようと決めた。それは、とても「前向きな諦め」だったように思う。ルールやシステムに縛られることの方が、そうでない「自由」よりも何倍も楽だ。「新しい風」を吹き込むどころか、今吹いてる風にうまく乗りたい。ぼくは、そう思って今まで九ヶ月を過ごしてきた。
 幸い、副担任である佐々木先生も、ぼくの考えと大差はないようだ。分からないながらも主張して、変えていこう、などというタイプでは、決してない。ここに赴任して初めての授業。生徒の目が怖いとは思わなかった。大阪の中学でも同じ目で「眺められて」いたが、「慣れ」という経験が、ぼくを鈍感にさせていたのかも知れない。淡々と出席を取り始めるぼくに、生徒は、安心していたように思う。そのままのリズムで、授業を進めた。そのあっさりした、空気のような授業を気持ち良さそうに吸い込む生徒たち。彼らにとって、教師の話す言葉など、空気のような存在で、なくては困るが、なくなりはしないだろうという絶対の安心の上に成り立っている程度に過ぎない。
 授業に関しては、二年間の実践を踏んだことが大きく影響して、それほど躓きもしなかった。もちろんそれは、吹いている風に乗っかっている限りは、という意味であるが。ただ一つ、辟易したのが膨大な報告書だ。毎日何通もの書類を作成し、それをサーバーに入れ込んでいく。担任の仕事であるから、佐々木先生は気を遣ってか手を出さず、ほぼ定時に帰宅する。「お先です」という彼の言葉を聞きながら、まだ残っている「自分」の仕事を眺めると、余計に疲れてしまう毎日だった。左斜め前方にある壁掛け時計が、ぼくと、にらめっこをする時間帯の始まりなのだ。副担任が作成してもいい報告書もあるが、どうしても頼めない。ぼくが一言、「これは、佐々木先生、お願いします」と言えば、少しは楽になるのだろうが、言えなかった。ぼくはとても「弱い」のだ。
 集団の中に溶け込み、色を消すと、ぼくは単なる口べたな存在になる。集団から距離を置いて、ひとり勝手に努力していた時代の「強い」無口とは違う。黙々と書類を書き終え、授業の準備をして職員室を後にする。日の長い夏でも、校門を出ると、いつも暗かった。そんなぼくを揺さぶるのが、吉野先生だった。彼は、「それでええんか、ほんまに?」と、一々口出しするような存在だ。吉野先生も、大阪の学校でしばらく教師をした後、制度化されたばかりのFA宣言で、この緑山中学に赴任してきたらしい。FA宣言とは、自分の得意分野やアピール点を元に、教育委員会に宣言する。そして、その教師が欲しいと手を挙げた学校と直接交渉して赴任する。ただ、ぼくが知っている限りで言うと、このFA宣言で納得のいく結果が持たされることは非常に希だ。吉野先生の場合も、ぼくの父の存在が、一枚も二枚も咬んでいるような気がする。それは、吉野先生の、ぼくに対する態度からも何となく察しがついた。就職活動で惨敗したぼくには、とてもできない宣言だ。
「自分はこれがしたい、これができる、っちゅーことを主張するんが重要なんや。学校なんか、日本に腐るほどあるけど、一つひとつみんな違う。ようさんあるうちの一つにしがみついて、そこに自分を合わせていくんやったら、オレらは単なる歯車や。確かに、学校っちゅー組織が、安定して動いて行くためには、歯車は必要や。ただ、オレはこんな歯車や、っていうことを言うて、それやったら、うちに欲しいっていうてくれる、なんちゅーんや、ニーズとウォンツって言うんか、それが合致してこそ、オレらには、意味がある。まっ、実際は、そー、甘ないけどな」
 ぼくには、吉野先生が言う「そー、甘ない」現実ばかりが大きく、それに立ち向かうだけの「強さ」はなかった。「歯車」でも「埃」でもかまわない。ただ、なんであろうと、動いている機械の中で、ちゃんと回転できる歯車なら、どんな風であろうと、それにうまく乗れる埃なら、それでいいと考えるようになっていた。



 職員室の電話がなった。赤いランプが、何十と並ぶ机の上で、一斉に点滅している。受話器をとると、何人かの、おそらくは生徒の、それも女子生徒の笑い声が響き、相手は何も言わず電話を切った。「まただ」。正月の学校には、いたずら電話が多い。ぼくは、高井俊のファイルをパソコンの横に立て、カチャカチャとキーボードを叩いた。ここに記されるぼくの言葉が、この高井という生徒の人生にどう影響するのか。それを考え出すと、ゾッとするので考えないようにする。ただ、「これじゃ、ダメだ、やり直し」と副校長から突き返されることだけを恐れ、そうならないよう、決められた文体で、聞こえの良い言葉を選んだ。それは、引き出しにすんなりと「入る」ように工夫するという具合だ。単にそれだけだ。高井俊の管理表を終えると、すでに十九時を回っていた。正月から、一人の職員室で、ぼくは一体なにをしているのだと、もうひとりの「ぼく」が尋ね、「二人」して苦笑いした。まだ半分近く残っているが、後は「数字」を打ち込むだけでパープルかブルーの評価がでる生徒ばかりだ。進級に関して心配のない成績を収めている生徒は、副校長のチェックも甘くなる。このままの調子で二十二番が進めるように、気を抜かず云々と書いておけば問題はないだろう。残りは、明日にする事にした。また明日も、ぼくはこの職員室に来る。
 新年早々に出勤して、教職員の仕事始めである四日には、なんとか生徒管理表を提出することができた。緑山中学の三学期始業式は毎年五日。小学生の頃、聞いたような副校長の「一月はいぬ、二月は逃げる、三月は去る。みなさん、今年度もあっという間に終わります。最後まで気を抜かず、がんばってください」という挨拶を聞き、乾杯した。お茶で、コーヒーで、ジュースで。それぞれの先生が、形だけコップを上に掲げた。毎年のことらしいが、吉野先生は、ひとりで缶ビールを一気に飲み干した。誰も注意しないのが、ぼくには不思議だ。吉野先生には、こういうことが許される何かがある。
 この日から仕事をする先生は少なく、そのまま帰宅したり、何人かで新年会を開いたりと様々だった。ぼくは、「たまには付き合え」という吉野先生の誘いを断りきれず、二人で、駅前の居酒屋に行った。まだ夕方の五時だったが、店内は、サラリーマン達で混み合っていた。どこの会社も同じなんだと思った。毎日、前を通るが一度も入ったことのない店。カウンターが縦に細長く続き、その背後に座敷席が六席あった。サッカー部の練習を終えたばかりの吉野先生は、隣で生ビールをゴクゴクと飲み干し、「仕事の後のビールはうまい」と、音を立ててジョッキを置いた。ぼくは、ウーロン茶で良かったのだが、「生、二つ」と勝手に注文されたので、舐めるように一口だけ飲んだ。「うまい!」というビールの味が、ぼくには、いまひとつ理解出来ない。例えば、喉がカラカラの夏の日、キリンレモンを一気に飲むと、確かに美味しい。そんな感じなのだろう、とぼくは想像している。メニューを凝視しながら、ぼくは餅チーズと焼きおにぎり、ピザマルゲリータを注文した。枝豆と子持ししゃもを吉野先生が付け足した。ぼくは、自分と他人の間に流れる沈黙が気にならないが、吉野先生は、沈黙を埋めるかのように話し続けた。それが、強いてそうしているのか、ごく自然にそうなのかは分からないが、とにかく、彼は話し続けた。
「なぁ、管理表、出したか?」
「はい」
「ちゃんと書けたんか、お前。なんや事務で聞いたら、正月の使用届け出してたみたいなや。正月もやってたんか?」
「はい。終わらなかったので」
「そうか、そら、ごくろうさん。俺なんか、嫁さんの実家で毎日毎日、朝から晩まで酒浸りやったわ。さすがの俺も、もう、ええわ、っていうたもんな。東北の人って酒つよいわぁ」
「これ、食べます?」
「ええわ。俺、チーズはあんまり好きちゃうから」
「最後の一個、食べますよ」
「どうぞ。お前、酒、飲めへんかったんかいな。お茶でも頼むか?」
「いいですか? すいません」
「損してるなぁ。ビールは最高やぞ」
「吉野先生って、ワイン好きって言ってませんでした?」
「おう、大好きやぞ」
「なんでもいいんですか? アルコールなら」
「アホッ、俺は味のわかる男やぞ。そやけど、まぁ、酔えたらええかな」
「やっぱり」
子持ししゃもと、焼きおにぎりが、テーブルの隅に置かれた。
「丘野、お前、管理表って、どう思う?」
「どうとは?」
「そやから、数字書いて区分けしていくこともそうやし、点数だけでレッドとかイエローって、空港のテロ防止策みたいな、あれよ」
「欠陥品を出さないためには、有効だと思いますけど」
「お前もそれを言うか。うちの副校長もよう『欠陥品』って使うやろ。なんやしらんけど、普通にその言葉をつこてる奴が多いけど、考えてみたら恐ろしいぞ。生徒のことを、人間のことを、製品扱いしてる証拠なんや」
「そういう意味では使ってませんよ」
「ほなら、どうゆう意味や?」
「いや、これは一つの代名詞ですよ。進級の危ない生徒に対する」
「なんや、それ。俺が一番危惧してんのは、お前らみたいな若いのが、何の疑いももたんと、平気でそうゆうのを受け継いでることなんや。それやったら、なんにも変わらへん。このままや、いや、もっと悪なるかもしれん」
「悪い?」
「そうや。今の学校みてみ、教師は管理して教育するふりして、生徒は生徒で管理されて、教わるふりをしてる。時間が経つまで、そこにいるだけなんや。その空間を共有してる他人と通じ合おうとせえへん。そやから、何やってもおもろない、だりぃ〜だけや。よういうやろ、『だりぃ〜』とか『うぜぇ〜』とか。通じ合わへんから、生徒が教師を刺し殺したり、先生が生徒を製品扱いしたりするんや。目の前に置かれてる、タンスと変わらんのとちゃうか」
「なんか、ぼくにもよく分からないですけど、結局学校なんて、時間と空間的な話で、そこで何をやるかは、生徒個々の問題なんじゃないですか」
「お前、カノジョはできたんか?」
「なんですか、急に」
「いやな、丘野先生から、お前の親父さんな、年賀状もろたんや。お前のこと面倒みたってくれって」
「それとカノジョが、どう関係あるんですか」
「いや、そうゆう、ええ娘がおらんのかなぁ、とおもて」
「いいじゃないですか、どっちでも」
「おらんやろなぁ」
「なんでですか」
「そう、ムキになんなよ」
「関係ないでしょ、カノジョなんて」
「いや、ある。俺はお前を見てて、むしろそれが一番大事なことのように思えるぞ。お前が言うことは、いっつも自分の中だけで完結してるんや。決められた時間に学校に来て、そこで、それぞれが勝手に勉強したり、運動したりして、出した結果でその後の人生を生きていったらええ、ってお前は言いたいんやろ。お前は、学生の時にそうやってきたんかもしれん。それで、たまたまうまいこといったんかもしれん」
「いや、ぼくは何も……」
「ええか、丘野、時間と場所を平等に与えたからいうて、結果は個々の問題です、っていう訳にはいかへんぞ。機会の平等ってよういうけどな、機会っちゅーのは、ただ教室の扉開いてたら、ええっちゅうもんちゃう。生徒一人ひとりの中にある問題やら、要望を平等に聞き出して、生徒からしたら、そうやって聞き出される『機会』を均等に受けるっていう権利なわけよ。それを聞き出したら、解決するための手助けを俺らがする。それが、教師と生徒の関係や。結局は、人間対人間なんや。何ひとつ聞き出そうともせんと、機会は均等に与えてるいうて誤解したらあかん。例えば、親子でもめてることがあるとしよ。俺ら教師は、親の立場に立って考えて、それから生徒の立場に立っても考える。ほんで、自分の考えも含めて問題と向きおうていくんや。答えなんかない。あったとしても、それは一通りやないし、普遍でもない。自分の頭だけで考えて、勝手に答えを作ってしもたら、双方が本気で納得いくようなことにはならへん。それは、勝手に自分の中だけで解決してるだけや。カノジョもそうや。こいつのために、こいつのことやったら、そうやって自分の時間も空間も無条件に投げ出せるのは、俺は優しさやと思うし、つながりやと思う。そうゆう相手が出来たら、お前もちょっとは、変わると思うんやけどな」
 吉野先生の横には、空いたジョッキが七つも並び、次の「生」を待っている。
「管理表にしても、俺らが書くこというたら、点数を入れて、はじき出された結果に対する短いコメントと目標だけやろ。どう書くかによって、生徒のこれからに、どんな関わりがあるかは関係ないことなんや。出せって言われたから、出す。それで、俺らは教師をしてるように感じるんや。そうやのうて、生徒が、この先このままやったら困る、そやさかい、ここだけは、こうした方がええとか、ここがこんなに素晴らしい、っていうアピールなんかを書くんやったら、管理表にも意味があると思うけどな、今のままやったら、意味はないわ」
 ぼくは、お茶漬けを頼もうかどうかを、悩んでいた。
「学校やから、こうしなあかんとか、これはしたらあかんとかって、決めるんは、そもそもおかしいんや。学校が必要か不要かいうたら、絶対、必要やわな。そやけど、学校やないとあかんかいうたら、そんなもん、あらへんのかもしれん。そもそも、学校は、塾から始まったみたいなもんやからな。それぞれの学校で、一番必要なことをドンドン取り入れてやっていったらええんや。少々目をつぶって、見逃した方がええこともある。どうしてもって言うときは、シバクことも必要やろう。それを外から、あーだ、こーだ、言うだけ言うて満足されたら、俺ら現場は、どうしたらええんや。『事件は会議室で起こってるんじゃない!』って叫んだらええんか。ほんま、なんとかせなあかんなぁ……」
 この場に、ぼくは不要だった。吉野先生は、完全に酔って話し続けていたが、その相手がぼくではなく、もっとでっかい、不特定多数の「世間」というヤツで、目の前のぼくの反応など、気にもしていなかったのだろう。仮に、ぼくがこのまま立ち去っても、次の日の朝には「おはよう」と、いつもの調子で挨拶してくるはずだ。今ここで、こんなに長々話したという記憶を一切消し去って。いつもと同じように。
 ぼくは、カウンターテーブルにおでこをつけたまま、動かなくなった吉野先生を横目に、鮭茶漬けを注文し、一人だけ、それを食べた。「カノジョかぁ」とため息まじりにつぶやいた。
「なんや、お前ひとりだけ、茶漬け食べてるんか。俺のも注文しといてくれよ。すいませ〜ん、梅茶漬け一つ」
 吉野先生はそう言うと、また、腕の中に顔を埋めて眠ってしまった。ぼくは、冷め切った梅茶漬けを眺めながら、起こそうかどうしようか迷ったが、起きるまで待つことにした。翌日、吉野先生は予想通り、昨夜のことは記憶になく、いつものと同じ調子で「おはよう」と挨拶した。ぼくも、同じ調子で挨拶した。
 三学期の授業が始まる。
 ぼくが教室に入っても、しばらくは、ざわつきが収まらなかった。いつもなら水を打ったように静まりかえるのだが、冬休み中の話しは、ぼくが来るまでの間では収まりきらず、はみ出してしまうのだろう。ぼくが話し始めると、沈黙がまた漂い始めた。そうなのだ。生徒には、生徒の時間と場所があり、それは、教師の目の前には、決して出さない。学校生活の中でも細分化され、十分休憩の時、給食の時、掃除時間、放課後、部活。それぞれに、生徒は自分の行動を分けている。そして、学校以外の、つまりは、家族と居る時間、塾の時間、週末、などはもっと細分化されている。
 教師も、それは同じかも知れない。職員室にいる時間、授業中、勤務外の時間、という具合に。昔がどうだったのかは知らない。父を見る限り、授業中も休み時間も、職員室でも週末でも、いつも教師だったような気もする。同じように生徒もまた、対学校、対教師に対して、四六時中その関係を崩すことはなかったのだろう。だけど、今は違う。少なくとも、ぼくと、ぼくが知っている限りの生徒は、細分化したそれぞれの時間で、それぞれの「自分」を生きている。だから、冬休みなど特別なことがあると、その区切りが少々ずれ、休み時間の自分のまま、教師を迎え入れてしまうのだ。
 恋人。中学生の頃のぼくには、恋人はいなかった。もしかすると、二人の間には、細分化した時間の壁を飛び越えて「いつも」同じ自分を生き、それをお互いに見せ合っていけるのかも知れない。吉野先生の言葉を思い出し、ぼくはそんな風に考えた。静まった生徒から、ぼくは冬休みの課題を集め、進路調査書を配る。この調査票を月末に回収して、また管理表を書き直す。進学希望から、受験に変える者もいるだろうし、他の道を目指す者もいるかもしれない。とにかく、この一ヶ月で保護者ともう一度話し合い、提出させる。三学期の初日は授業がない。これで終了だ。ぼくは、集めた課題の数を数え、生徒に解散を告げた。ゾロゾロと教室を出る生徒を眺めながら、「始まったかぁ」と溜息混じりに実感した。
 教卓に両肘をついていたぼくに、一人の生徒が近づき「話がある」と言った。いつもは大きな声で話す生徒だが、この時は、とても小さな声だった。ぼくに向かって、生徒が歩いてくる光景は、ぼくを驚かせる。こんなこと、始めてだった。その生徒の背後から、「おおっ、なんだ、なんだ」と二、三人が集まり、ぼくとその生徒を交互に見つめるので、「なんでもねえぇよ」と、顔を真っ赤にしたその生徒は、集団に埋もれて教室を出て行った。何だったんだろう、と考えたが、大したことじゃないだろうと思い直した。
 その生徒の名前は、町田友介。吉野先生が顧問をするサッカー部で、二年生ながらレギュラーだ。身長が高く、細身である彼は、モテるタイプというのを地でいっている。例えばぼくに、理想という顔形があるなら、それは町田のような顔の事を言う。成績は、このクラスでも三人しかいないパープルで、ほぼ満点だったし、素行に問題がある訳でもない。一度だけ、あれはまだ春だったと思うが、町田の机に女性の下着が入っていた。これが事件になったのは、その下着がクラスメイトのものではなく、町田本人も必死に「自分は知らない」と主張したため、真犯人は誰なんだということになったからである。しばらくは、その話題で持ちきりだった。生徒の間の噂では、「ぼく」が、真犯人だと言われたこともあるそうだ。「オカノなら、やりかねない」と。
 もう一つ、彼には気になることがある。それは、学校での彼と、家庭での彼が違いすぎることだ。四月の家庭訪問で初めて分かった。もちろん、私生活の中に教師が入ってくるという異様な状況下では、生徒のほとんどが殻をかぶって「違う」顔をするのだが、それを加味したとしても、町田の様子はおかしかった。家庭訪問の希望日を何度言っても提出しないので、ぼくは、町田の家に直接電話をした。母親は、そんな知らせはもらっていないと驚いている様子だった。「やっぱりか」とぼくは思い、家庭訪問の期間が二週間あるので、その中から希望を聞いている旨を説明した。すると母親は、「うちは別に必要ないですよ」と言った。ぼくは「えっ!」と声を出してしまった。そういうわけにはいかないので、と説明し、母親が家にいる日に、町田には部活を休ませて日にちを決定した。家庭訪問の予備期間にしか都合が合わなかったため、通常は一日に何件か回るのだが、その日は町田の家のみの訪問だった。一通りクラス全員の訪問を終えて、報告書もそろえた後、ゴールデンウィークに突入する前日だったと思う。吉野先生は、近く対抗戦があるので、町田を休ませるのに不服そうだったが、なんとか押し切った。
 ぼくは勝手に、町田はきっと何不自由なく育てられた「温室イチゴ」のようだと思っており、虫もつかず、雨風も当たらない環境下で、理想通りに真っ赤な実に成長したと思いこんでいた。彼の家を見た時、だからぼくは意外に思った。四軒が連なる長屋の右から二番目。玄関の前に植木鉢もなければ、町田と母親の自転車が無造作に置かれているだけ。自転車の荷台に、サッカーのスパイクが干してあった。
 扉を開けると、〈慌てて掃除しました〉という空気がモワッと溢れてきて、押入という押入が、パンパンにふくれあがっているように思えた。すすめられるままに居間へと上がる。町田は、うつむいて体育座りをしており、そのすぐ横にあるテレビのブラウン管の埃が、太陽に照らされて余計に目立っていた。赤いフード付きパーカー、黒のジャージ。うつむいた彼の前髪が顔を隠し、表情は分からなかった。母親は、その部屋には不釣り合いなティーセットでロイヤルミルクティを入れてくれた。それに砂糖を入れてしまったものだから、やけに甘ったるく、暖かい気温が輪をかけて、ねっとり感じさせた。一年生の時から変わったことはあるかと、ぼくは何気なく尋ね、「意外な質問だ」という表情をあからさまに出した母親が「特に、ない」と答えた。
「ただ、ねっ、こんなことになってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいというか。この子には、分かってもらったと思ってるんですけど」と、続けた。情けないことに、ぼくは、その時にハッと思い出したのだ。町田の両親は、彼が一年生の二学期に離婚している。
それから、ぼくはしどろもどろになって、「学校で友介君は優秀です。女子にも人気がすごくありますし、なっ、友介君」と、この段階で自分の意志とは無関係に、口が動いていた。町田は顔を上げなかった。母親はそんな息子を見て見ないふりをしていた。この時、包んでいた雰囲気。それは裕福でも貧しくもなく、仲が悪くも良くもない。思春期の男の子にはよくあることだと言えばそれまでだし、それとは全く異質だと言えば、そう言えなくもない。はっきりしていた事は、親子共に「早く終わって欲しい」という空気を醸し出していたことだ。ぼくには、はっきりそう思えた。母親はつぶやくように、
「この子に期待するのは、普通に成長してくれることだけなんです。今は先生の前だからこんな態度ですけど、普段は話してくれるんですよ、部活の事とか学校の事なんかを。私は、それを聞いて自分の子供ですから、学校での様子はなんとなく察しがつくんです。ちゃんとやってくれてるんだな、って。だから、私は何も心配してないんです。普通に、ちゃんと大きくなってくれるって、私、信じてますから」
「ええ、心配はいらないと思いますよ」
「そうですか。先生の口から、そう言って頂けると、また安心できます」
「友介君は、クラスでも明るいですからね」
「よくしゃべるんですか?」
「ええ」
「そうですか。昔はね、まだ小学生だったからかもしれませんけど、家でも冗談ばっかり言ってたんです。最近は、そういうこともあまり言わないので、まぁ、難しい年頃かな、と考えてたんですけど。そうですか、学校ではよく、ねぇ」
「ええ、冗談もたくさん言ってるようですよ」
「別れた旦那も冗談ばっかり言う人でしたから。ついつい、この人は大丈夫だ、なんて思ってると、陰でコソコソやられてましてね。今も、金銭的には、私が働きに出なくても大丈夫なほど、養育費を払ってくれるんです。だけど、二人で暮らすのに、そんなに大きな家も必要ないですし、私も遊んでるのはあれですから。それで働いてるだけなんです。私がちゃんと生活しなきゃ、示しがつきませんからね。こうなってしまったんですから。この家に父親はいませんけど、だからって、普通の暮らしができないって思われたくないんです。わかってもらえますよね」
「ええ……」
 ぼくは、ええ、と返事をしながらも「んっ?」と、首をかしげてしまった。
「勉強は、そりゃできるに越したことはないですけど、とにかく普通に、この子には、普通に育って欲しいんです、それだけです」
普通、普通、普通。
 分かった、ぼくが引っかかっていたのは、この母親の言う「普通」という連呼にあった。その言葉が、まるで「ぼく」に向けて投げかけられているような、だから、反論したい衝動に駆られてしまい、
「普通、普通って、さっきからお母さんはおっしゃいますけど、それに縛られて、ちっちゃくなってたんじゃ、いけないですよ。これは、何も友介君のことを言ってるわけではなくて一般論ですが、普通なんて曖昧なものに邪魔されて、本当の自分を誤魔化すような生き方には、わたしは反対です。仮にわたしが、今したいことがあるとしますよね、それが普通じゃないって誰かに言われても、わたしにとっては、それが普通なんですよ。だから、したいようにして、生きたいように生きていくべきだと思います。仮に、お母さんが、もっと広い家に住みたいけど、養育費でそんな贅沢をするのは、世間の目もあるから、なんて考えているなら、そんな我慢をしているなら、よくないと思います」
 言い過ぎだった。ぼくは、言ったあとで、相当に後悔した。みるみる紅潮していく母親の顔。町田は顔を上げて、ぼくの話を聞いていた。「すいません」、力なく、ぼくはつぶやいた。
 時間にして三十分もいなかっただろう。その次の日、町田は変わらず友達と戯れていた。遠巻きに、女子はため息に近い音質と、うっとりした表情で「かっこいい〜」と言っているように見えた。彼も、そして彼の周りも、何も変わっていない。ただ、ぼくが、あの家庭訪問を境に、彼を見ると「泣き顔」をも、笑いにしているような、どこかピエロのように思えるようになった。実際、無理にはしゃぐ町田の姿を垣間見ることが、何度かあったのだ。居間でうつむいている彼とは決定的に違う、「彼」。
 だからと言って、とぼくは考え直した。話したいことは何だったのか。勉強のことではないだろう。両親のことか? まさか部活で三年生の先輩にいじめにでもあってるのか。それなら吉野先生に言わなければならない。でも、ぼくから「何かあったんですか」と聞いていいものか。町田は、自分のことは自分で出来るし、仮にぼくなら、こちらから歩み寄った時には助けて欲しいけど、やっぱりいいや、って思ったらしつこくされたくない。彼も同じだろうか。話したいこと、かぁ。
 ぼくはしばらく、職員室で考えていた。まさか、恋の話じゃないだろうな。それはないか、とすぐに否定した。普通、教師に、それもぼくに、相談するのは、泥棒を捕まえて下さいと言って、一一九番するようなものだ。町田には、それが分かっているだろう。その日も職員室を出たのは午後九時過ぎだった。コンビニでいつもの唐揚げデラックス弁当を買い、アパートの階段を上がる。と、携帯がなった。知らない番号だった。出るか出まいか考えて、ぼくは通話ボタンを押した。
「先生?」
「んっ?」
「町田です、町田友介。先生のクラスの」
「あぁ、どうかしたか?」
「いや、ちょっと話したいことがあるんですけど」
「教室でも言ってたね。何か相談事?」
「そうです」
「君も携帯か?」
「う、うん。あっ、先生の番号、緊急連絡簿にあったから」
「ああ」
「先生は? もう、うち?」
「今、帰ってきたところだけど」
「そっか、もう帰ったなら明日でいいや」
「急用なら今、聞くけど? 電話じゃ言いにくいことか?」
「いや、明日でいいです。すいません、突然」
 一方的に電話が切られた。ぼくは、いつもそうするように、着信履歴から番号を呼び出し、『町田友介』と登録いした。( )をつけて「生徒」と付け加えた。翌日も、その次の日も、町田は何も言ってこなかった。ぼくから聞き出すこともしなかった。もう、いいのだろう、と彼を目の前にすると思うのだが、いない所では、気になってしょうがない。
 一週間ほど経ってから、ホームルーム終了と同時に、教室を飛びだす生徒の中で、町田だけが最後まで残っていた日があった。ぼくは、「話って何だ?」 と彼に声をかけた。町田は、手に持っていた進路調査書を教卓の上に置いた。そして、何も話そうとはしなかった。それを見ながら、「あ、こいつはわざと最後まで教室に残っていたのか」と、気づいた。
 希望進路 [アメリカ留学]
 ぼくがゆっくり顔を上げると同時に、町田が口を開いた、
「この学校に姉妹校あるでしょ? サンノゼの。ぼく、そこに交換留学で行きたいんですけど」
「話っていうのはこれか?」
「うん」
「また、なぜアメリカなんだ?」
「普通じゃない?」
「そうじゃないけど」
「アメリカの、」
「あれっ! 町田、お前、何やってんの?」
町田といつも一緒にいる、小松という生徒が教室に戻ってきた。
「いや、別になんでもないよ」
「なんだよ、それ」
小松が、教卓の上の調査書を覗きこもうとしたので、ぼくは咄嗟にそれを取って後ろに隠した。
「隠すことないじゃん、先生。何、何? 町田、お前もしかして受験すんの?」
「あ、まぁな」
「なんでだよ。一緒に高校行こうぜ。サッカー、お前どうすんだよ。ゼンコク行くんじゃねぇのかよ」
「俺がいなくても、お前らだけで行けるよ」
「アホ、行けるわけねぇだろ。お前以外に上手いヤツいないんだからさ」
「そんなことないさ」
「な、本気なのか? お前?」
ぼくは、この小松の問いと同じ事を思っていた。
「あぁ」
「うちの高校、外部からじゃ相当難しいんだぜ。それをみすみす捨てて、どこの高校受けるんだよ、一体?」
「……」
「アメリカだよな」
「はっ!?」
しまった、つい、言ってしまった。ぼくの言葉に、小松は予想通りの反応を見せた。
「アメリカって、うちの姉妹校か?」
「あぁ」
「なんだよ、お前。アメリカなんか嫌いだって言ってたじゃねぇか」
「好き嫌いで行きたいんじゃないんだ」
「っじゃ、なんだよ」
ぼくと小松の声が重なった。
「んっ? たださぁ」
「ただ?」
今度は、ぼくの声だけが教室に響いた。
「ほら、金髪のオンナとか、いいじゃん。人生観かわるとおもいませんか、何事も経験でしょ」
はぁ〜、とぼくも小松もため息をついた。
「そんなことかよ」と、小松が言った。
「っじゃ、先生、俺、これ出したから。よろしくお願いします」
 町田は小松の肩を叩いて、小走りで教室を後にした。よろしく? ぼくは、またしばらく考えた。
 日々の雑務は、相変わらず山のようにあり、それに加えて、顧問を任されていた吹奏楽部の部員とトラブルが生じ、ぼくは、その対応に追われるうちに、町田の件を頭の隅の方に追いやっていた。
 吹奏楽部は、毎年三年生の引退コンサートを派手にやることで有名だった。「いよいよ、始まりますね」と、数学教諭の畑中先生に言われるまで、ぼくはそのことを知らなかった。夏に行われた全国吹奏楽部コンクールの時も、ぼくはひどい熱と下痢で、大会の日に欠席してしまい、中学の部で都内入賞を果たしたことを部員からの報告ではなく、学校新聞で知った。部員からも、「顧問」として認められてはいなかったのだ。ぼくにとっても、彼らにとっても、ぼくが顧問であるという事実は、ついつい忘れてしまう程度のものだった。何しろ、ぼくは楽器と名の付くモノで演奏したのは、アルトリコーダーぐらいのものなのだから。もちろん、この引退コンサートは、部員主導で準備が進められていたが、学内施設を使ったイベントである以上、色々と承認事項が必要だった。それも驚くほど細々したものまで含めて大量にあった。音を出すので、周辺住民への協力要請から始まり、中庭の芝生の中に楽器を持ち運ぶため、芝生を痛めないような特設ステージの設置と、その予算。言い出したらきりがない。部長が中心となって、去年を参考に様々な要望と依頼書をぼくに渡し、それを副校長に申請する。オッケーであっても、NGであっても、副校長からは、ぼくに返事が来る。それを、今度は部員に伝える。「これはよかった、ダメだった」と。ぼくを仲介にしてやりとりされる事柄が、ぼくにとっては「どうでもよく」、その出された結果に、一喜一憂することもない。アツくはなれず、淡々と報告するだけだった。
 それをうんざりするほど繰り返している時、「あの先生、ガキの使いだから」というある部員の言葉が耳に入った。ショックだったし、怒りも沸いた。確かにぼくは、心の中で「直接副校長に言った方が、話が早いだろう」と思ってはいたが、それでも提案が通った時などは、どこかしら誇らしくもあったのだ。トラブルの直接の原因は、吹奏楽部から要請した「花火の使用」についてだ。ぼくはいつものように申請して、その回答がNGだったことを部長に伝えた。淡々と。いつもは「あそうですか」と受け取る部長が、この時ばかりは、詰め寄るようにして、「前から言おうと思ってたんですが、私たちの希望を少しでも通そうと、掛け合ったりしてくれてるんですか?」と、ぼくに言った。
「ダメって言われれば、はい、そうですかって、私たちに報告しているだけでしょ。そうとしか思えないんですけど」
 ガキの使いじゃないんですから。そんな言葉が続きそうな言い方だった。
「演奏の最後に、小さな噴出花火を十個ほど並べて使うだけですよ。なんで消防法がどうとか、そういう話になるんですか。消火用の水もちゃんと用意するって言ってるじゃないですか。どうしてダメなんですか」
「いや、学校側としては、万が一っていうことを考えて、」
「万が一なんですか? 花火の火で学校が燃えるんですか? それとも、大事な大事な観葉植物みたいな緑の芝生が、傷ついちゃうからですか?」
「火を使うことは、学園祭でも禁止だし。それをいちクラブの、それも引退コンサートで認めるのは、ちょっと難しいだろう」
「やっぱり……」
「やっぱり、何だ?」
「オカノ先生は、このコンサートをそれぐらい、としか考えてなんですよ。だから、」
「そんなことはないよ。君たち三年生にとって、どれだけ重要かは、理解しているつもりなんだけど」
「理解? つもり? はぁ〜。もういいです。OBに相談して、学外でやりますから。原田先生がいなくなって、今回の顧問はどうだ? って心配してくれるOBも多いんですよ。相談したら、きっと協力してくれますから。副校長先生にそう伝えておいてください」
「そんな、ステージの設置はもう業者に頼んでるんだろ、どうするんだ?」
「場所が変わるだけで、そのままお願いしますから、大丈夫ですよ。今までありがとうございました」
 後味は悪かった。が、ホッとした、と言えなくもない。これで、あの雑多な申請書を出すこともない。
 次の日、ぼくはさっそく報告した。一瞬、顔色を変えた副校長は、「学外でやるのは困ります」と言い出し、この件が、もうOBの耳に入っているのかどうかをしきりに心配していた。はっきり言うことはないが、OBの中に相当のチカラを持った人がいる。何度か会ったあの顔が、ぼくの頭に浮かんだ。その日の午後、今回の学校側の対応に、相当不満を持っているというOBが学校を訪ねてきた。あの顔で。副校長と吹奏楽部部長、そのOBとぼくが会議室で協議した。それまで駄目だったことの多くが、嘘みたいに簡単な理由で「OK」に覆り、結果、学内開催で話しはまとまった。二月二十六日、予定通り吹奏楽部の引退コンサートが行われることになった。学校側と部という不思議な対立構造の中で、OBの力は強く、ぼくは隅の方で、存在価値を失っていた。使い、にもならずに。
 一月の終わりに提出した町田の希望書には、「アメリカ留学」の横に(保留)と記していた。いずれ、本人に真意を確かめなければと思いつつ、吹奏楽部のコンサートまで何も出来なかった。
 毎月一日に、全教職員ミーティングが放課後に行われる。三月のミーティングで、副校長が、吹奏楽部のコンサートの賞賛と、三年生の進路状況、そして、来年度の入学試験の概要を手短に話し、野球部とサッカー部から出されている、来年度の部費の増額要望が認められたことを伝えた。会議室の中に飛び交う意見。ぼくは、窓の外の、伝線に止まった親子連れの黄色い鳥を眺めていた。あの鳥は、何て言う名前なのだろう、籠抜けしたのだろうか、自由なのだろうか、などと、尾崎豊のリズムに合わせて考えていた。ぼくは、ちゃんと守られた、不自由を選んだなと苦笑した。ミーティングが、もうすぐ終わる。そんな空気が、会議室を包みだした時、副校長から、「来年九月からの交換留学生枠が、まだ四名分空いています。希望者がいた場合は、速やかに報告してください。六月には、学内選抜の試験を実施します」と、報告があった。「あっ」と、それまで黙っていたぼくが声をあげたものだから、先生方の視線が、一気にぼくの方へ集中した。
 この数ヶ月、町田の様子に変化は見られなかった。明るく爽やかに、元気だった。そして、ぼくには、相変わらずピエロのように見えた。三月の中旬、ぼくは、クラス全員に「最後の」と断りを入れてから、進路調査書の提出を課した。これは、ぼくが勝手に実施したモノで、学校側からの強制ではない。そのことも生徒には伝えた。「学校側に提出するものではないので、正直な気持ちを書いて欲しい」と。返ってきた結果は、前回一月に実施したのと全く変わらなかった。このまま附属の高校へ進む者二十八名、他の高校を受験する者一名、そして、アメリカ留学を希望する町田。彼の気持ちも変わっていなかった。溶けて無くなるのを、心のどこかで待っていたのだが、町田の希望は、そのまま固く残っていた。
 四月から三年になる町田の、次の担任教師に向け、彼の希望と、早々にある選抜試験のことについて書き添え、後は、彼の次の担任に委ねようと考えた。交換留学のための校内選抜試験は、六月の終わりに審議会が開かれ、これまでの成績と素行から判断される。その時点で募集人数を超えていなければ面接試験をしただけで決定するのだが、人数が多かった場合、記述、小論文、面接と、三度に分けた試験が七月に行われる。そのことを町田に知らせたのが、終業式の前の日だった。「わかりました」と、一言だけつぶやいた彼の顔からは、本気が見て取れた。

 そして、四月。新年度の配属が決定し、ぼくは、新三年生の担任になった。
 クラス名簿を見て、その中に町田友介の名前をいち早く見つけた。なんだか、そうなるような気がしていたのだ。早々に、留学について相談しなければならないことが多い。ぼくの頭には、去年の、あの家庭訪問の光景がよみがえっていた。町田と留学の件について話し始めたのは、始業式の日だった。
 町田が、職員室までぼくを訪ねて来て、「あの事、よろしくお願いします」と念を押す。よろしく……? ぼくに何を望んでいるのだろう、この『ぼく』に、何を頼っているんだろう。「出来ることは、精一杯協力するから、がんばろうな」と、彼の肩を叩いた。吉野先生がそれを見て、うちのエースとコソコソ内緒話して、何を企んでるんや、と探りを入れた。
 生徒が希望することを叶えるために尽力する。これぞ、教師の仕事だ。「よろしく」、この言葉の持つ力は大きい。春の気候も手伝って、ぼくは少々アツくもなっていた。何人かの生徒から頼られたことはあったが、決まって、二度も頼む者はいなかった。『ぼく』が、彼らの期待するだけの成果を上げられないからだ。藁をもすがるように「ぼく」に相談し、藁につかまったって溺れてしまうことを知ると、藁より頼りになる浮き輪を探すか、溺れることに身を任せるか、そもそも、死活問題ではない些細な事だったか、そうやってぼくの知らないところへ行ってしまう。
 町田の成績なら、交換留学にNGが出ることはまずない。ぼくには、そんな安心感もあったし、彼自身もそう考えていたに違いない。案の定、新年度に入ってすぐに副校長に報告すると、「彼なら問題はないでしょう」とほぼ確定の言葉ももらっていた。「よろしく」の言葉通りの結果が出るだろうことに、ぼくはホッとしていた。
 ただ気になることもある。そもそも、町田は物事をしっかり理解でき、周りの空気を読むことに関して天性の鋭さのようなものがある。学校として、彼の留学にNGをつけないこと、仮に、そのボーダーラインに彼がいたとしても、ぼくが学校側と折り合って勝利するほどの人物ではないことは分かっていたはずだ。なのに、なぜ、「よろしくお願いします」と頼んだのか。
 それは、すぐに判明した。春の家庭訪問の時期を迎え、ぼくは彼の家に向かった。二年連続で担任を受け持つことは珍しいことではない。母親には、去年にはなかった「リラックス」が見て取れ、それは、ぼくにしても同じだった。居間に座って、町田と母親と三人で、少し長めの世間話をした。二年の終わり頃から、ある女子生徒が町田の家に何度も尋ねてくること、電話も頻繁にあること、なのに、「いない、って言ってくれ」と、彼がとてもシャイなこと。いまどき、中学生にもなって女性と上手く話せないことが心配だ、と母親は自慢気に笑った。去年から十数センチも背が伸び、制服をまた買い直したとも言っていた。ひとつだけ、奇妙な苦情も言っていた。いつも玄関先に干しているサッカーの練習用のパンツが、この二年間で何度か盗まれているのだという。「女の子のブルマが盗まれるのは聞いたことありますけど、男の子の、それも練習用の短パンを盗むなんて、この子、ストーカーにでもあってるんじゃないかしら」と、ぼくの顔をじっと見据えて主張した。まるで、今回の家庭訪問で一番言いたかったのはこれだ、と言わんばかりだった。町田は、相変わらずうつむいて、前髪で表情が伺えない。
 ぼくは、話しが一通り済んでから、かばん一杯に詰め込んだサンノゼの姉妹校に関する日本語版の資料をテーブルの上に広げた。そして、ぼくが持っている情報の全てを報告しようとした。すると、母親は、ポカンとした顔で、
「なんですか? これ」と、首をかしげた。
「えっ?」と聞き返したぼくは、町田の顔を見た。
 彼は、うつむいたままだった。あっ、とぼくは心の中で叫び、お願いされたのが、このことだったのかと気付いた。
 町田は、母親にアメリカ留学について何一つ話しておらず、母親からすれば寝耳に水だったのだ。ぼくは順を追って、今年の一月、まだ二年生の頃に進路調査書を配ったこと、そこで「アメリカ留学」という希望を町田本人が書いたこと。三月にも実施して、そこでも気持ちが変わっていなかったこと。だけど、今の成績なら何も心配はいらないことなどを説明した。母親は、それを聞きながら、ペラペラと学校案内の資料を眺めていた。ぼくの話が終わると、たった一言、「反対です」と言った。さらにぼくが説明を付け加えようとすると、
「生きた語学力と、異文化交流の場として、この学校が優れていることは分かります。それが、この子の将来に役に立つのも分かります。だけど、私は、なにもわざわざ、高校生のうちから日本を離れることはないと思いますし、それにここに書いてある費用も、とてもじゃないですけど、急には用意できません。今年の九月って言ったら、もう半年後ですよ。反対です」
「いや、でもお母さん……、」
「この子、先生には、なんでアメリカに行きたいって言ってるんですか?」
「えっ、それは、あのぉ」
 ぼくは、答える事が出来なかった。町田の口から聞いたのは、「金髪のオンナとか、いいじゃん」ということだけで、とてもじゃないがそれが理由だとも思えない。結局、彼の留学に対する気持ちが本物だと言うことは確認していたが、それがなぜ、という理由については知り得なかった。
「ユウ、ちゃんとお母さんに説明してちょうだい。なんでもっと早く言ってくれないの」
「アメリカに行きたいんだ、俺」
「だから、なんで」
「……」
「ちゃんと答えなさい、なんで、わざわざ三年間もアメリカに行きたいの」
「三年じゃない。そのまま、あっちで暮らしたいんだ」
「そのままって……」
 ぼくは、この会話に入り込むことが出来ず、ずっと黙っていた。なぜだかこの時ばかりは、そんな自分に、無性に腹が立っていた。なんで、ここで何もいえないのだろうかと掻きむしりたかった。町田に対しては、「力になれなくて申し訳ない」という気持ちであったし、母親に対しても、せっかく気さくに話してくれたのに、裏切ったみたいで申し訳ないという気持ちだった。「まだ、時間は少しありますから、じっくり話し合って下さい」と言った自分の、最後の言葉が、決定的に問題を丸投げしているようで、町田の家を出てから、ぼくは、ひどく落ち込んだ。
 次の日、昼休みに町田の母親が学校に訪ねてきた。町田本人には内緒にしておいて欲しいと繰り返しながら、昨日、ぼくが帰ったあと、親子喧嘩になったことを話した。一方的に母親が話し、町田はずっと黙っていたという。「あの子が何も話さないから、本当に、どうしたいのかが、私にもわからない」、母親はそう言ってぼくを訪ねたのだ。母親に分からない息子の気持ちを教師に頼る親と、親以上に子供の気持ちなど理解できる訳がないと思っている教師。ぼくらの間は、接点の見出せない平行線だった。どちらにも、このまま話していても、問題の解決は見出せないということだけが分かっていた。
 母親は、考えられるとすればこれだけだ、と言いながら、町田が三歳から六歳までサンノゼで生活していた事を話した。町田の父親は、IT関連の会社に勤めており、今から十数年前に転勤でサンノゼに行ったらしい。家族も付き添っていたのだが、町田の小学校入学に合わせて母子だけで先に帰国し、父親は、二年後に帰国したという。現在、父親の弟が、町田から見れば叔父が、サンノゼに住んでおり、そういう事から、そこに行きたいと言っているとしか考えられないと言う。確かにそれは考えられるな、とぼくも思った。だけれど、父親と町田は、最近会っていることはなく、叔父と町田には、あまり面識がない。なのに、わざわざそこを頼ることもないだろうとも母親は言う。念のために、昨日の夜、別れた夫に電話で確認したらしい、「ユウがアメリカ留学について相談してきたかどうか」。夫は「知らない」と答えたという。
 昼からの授業を理由に「ぼくの方からも、ちゃんと聞いてみます」と言って、母親には帰ってもらった。その日の放課後、さすがに何もなしに町田を帰すわけにはいかず、ぼくは、町田を呼び出した。ぼくと町田。始めて一つの空間に、二人だけで顔をつきあわせたことになる。二年間も担任をしているのに、だ。それが、ぼくと生徒の距離だ。町田には、言い訳するように「お母さんが、昼休みに学校に来られたので」ということを初めに言った。内緒だったんだけど、ともちゃんと告げた。彼は、サッカー部の練習用のジャージに着替えており、ぼくと二人で長く話す気はないことを暗に示していた。そんな彼を見ていると、なぜかぼくは急いで話しを進めようとした。正直に言うと、アメリカに行っても行かなくても、とにかくすっきりとした結論が出れば、ぼくにはそれで良かったのだ。
「なぁ、君の本音を聞かせてくれないか。留学したいっていう、本当の理由。先生は良いことだと思うよ、ただ、このまま、お母さんの反対を押し切って行くのは、絶対いけないと思うんだ」
「当ててみて」
「えっ?」
「だから、当ててみてよ、理由。何でもいいから、言ってみてよ」
「サンノゼに住んでたんだってな、小さい頃。今日お母さんから聞いたよ。そこに、まだ叔父さんも住んでるんだって? だから、全然知らない外国の都市でもないから、そこで、語学力を伸ばしたいと思って、希望しているのか?」
「叔父さんって父さんの弟? まだいるんだ。知らなかったよ。まぁ、でも、今の答えだと、だいたいの人は納得するかな。それでいいよ。ぼくの理由、そうする」
「あのなぁ〜」
「いいの、いいの。どうせ先生は、どっちでもいいんでしょ? ぼくが、アメリカ行っても、行かなくても。とにかく、ゴタゴタすんのが嫌なんですよね。大丈夫、母さんには、ちゃんと話しますから」
「町田!」
「大丈夫だって。先生に悪いようにはしませんから」
「ちょっと待ちなさい。単純に先生は、本当の理由が知りたいんだ。そしたら、君のお母さんにもちゃんと説明できる。君の味方にもなれる。ただ、何も知らないままじゃ、こないだの家庭訪問の時みたいになってしまうじゃないか。君の理由が正当かどうかが問題じゃなくて、本当の君の気持ちなら、先生は、絶対的に応援するつもりでいるよ。君が、そうしたいっていう強い気持ちに、良いも悪いもないんだからな。ただ、それを逃げるようにやっちゃダメだ」
「そんなこと言うけど、先生も母さんと一緒だよ、きっと」
「歳だって君に近いんだ。きっと分かるさ」
「近いっていっても十歳ぐらい違うでしょ? もう一昔前だよ、ぼくから見れば」
「言ってみないと分からないだろ。家にいるのが嫌になったか?」
ぼくのこのジャブは、彼の心にヒットした。
「もし、そうなら、君ぐらい歳の頃は、みんなそう思ってるんだ。だから、そんな思い切った行動に出なくてもいいと思うぞ。それだけが理由ならな」と続けた。
「違うよ。あっ、違うって言うか、家じゃなくて、日本にいるのが嫌なんだ」
「日本?」
「そう、この国にいる限り、ぼくは、ぼくじゃないんだ。このまま、ぼくじゃないまま暮らしていく自信がないんだ」
「どういう意味だ?」
「言ったままの意味だよ。この国にいると……」
「アメリカなら、そこに行けば、君らしくなれるのか?」
「それは、分からないよ」
「っじゃ、日本にいたって同じ事じゃないか。分からないさ、未来なんて」
「いや、この国では、絶対無理だと思う」
「なんでそう言える?」
「日本は、ひとつだから。これは、ダメ、それは、良い、って、一つしかないでしょ」
「そんなこともないだろう。アメリカは、確かに色んな価値観があるように見えるけど、実は、日本よりも、もっと一色な側面があるんだぞ。そうしないと、あれだけの雑多な民族と文化が、ひとつの国としてまとまらないだろ」
「誰かのことを『好き』だっていう自由は、あるでしょ? あそこなら」
「日本にも、あるじゃないか」
「ないよ」
 ぼくは、町田が結局のところ何を言おうとしているのか分からなかった。不倫でもしようとしてるのか? と考えたが、十四歳の少年が、まさかそんな、と打ち消した。打ち消した後、十四歳はなんだって出来うるし、やりえるんだという、過去の事件を思い出して思い直した。
「はっきり言ってくれないか。日本の何が嫌なんだ。アメリカに、どうしても行きたい理由は、何なんだ?」
「だから、さっき言ったじゃないですか。ぼくは、自由に『好き』だって言える所に行きたいんです」
「その理由じゃ、学校側も認めないかもしれないぞ」
「じゃあ、理由は、さっき先生がいった通りでいいですよ。もう、行っていいですか? 練習あるんで」
「あ、あぁ」
「っじゃ、失礼します」
「ちょっと、待て。やっぱりダメだ。今日は、練習休んでもいいから、ちゃんと、分かるように説明しなさい」
「え? 先生に、そんな権限ないでしょ。吉野先生に怒られますよ」
「大丈夫だ。今から、先生がグランドに行って、吉野先生にちゃんといってくるから。その間に君は、制服に着替えておきなさい。その格好じゃ、落ち着いて話しができない。いいね」
こんなに強引に事を運んだのは、始めてか、そうでないにしても、ずいぶん久しぶりのような気がする。町田は、納得していない表情だったが、渋々従った。町田よりも、吉野先生を説得する方が大変だった。「理由は何なんだ?」と聞かれ、ぼくは町田のそれのように、「いや、ですから、あの〜」と口ごもった。「部活よりも大事なことなのか」と凄まれ、「そうです」。ぼくは、キッパリ答えた。それでようやく納得してくれた。

「好きだって言えないのは、それが、好きになってはいけない相手だからか?」
制服に着替え、教室の一番端の、自分の席に座った町田に、ぼくは単刀直入に聞いてみた。
「ぼくは、そう思わないけど、世間では、そういうことになってますね」
「相手に旦那さんがいるとか? この学校の先生とか?」
「あぁ〜、確かにそうですね。そういう場合も、好きって言えませんよね。でも、それは、アメリカに行ったって、同じじゃないですか」
 どっちが生徒で先生か、これじゃ分からない、とぼくは思った。
「同性か?」
何気なく出た一言だった。この後に、彼の失笑が漏れてもおかしくない雰囲気だったが、町田の顔は、一気に変わった。
「そうなのか? 君は、男の人を、好きになってしまったということなのか?」
「……」
「……」

「ひいた?」
 町田は、ものすごく、何というのだろう、安心したような、穏やかな笑顔になって、ぼくを見ている。
「いや、そんなことはない。ただ、正直、驚いたよ」
「なんで?」
「いや、君は、女子にも人気があって、その、普通かと……」
「普通ねぇ〜」
 町田の表情が語っていた、「先生も、母さんと同じだな」と。
「いや、良いとか悪いとかいってるんじゃないんだ。その、男と女は、普通、男性が女性を好きで、その逆もまた普通で、でも、そうじゃないからといって、それは、何も悪いことではないんだけど、やっぱり、初めて聞くと、なんていうか、その、」
「いいですよ、先生。急に、いっぱいしゃべんなくても」
「いや、ええっと」
「ぼく、帰ります。理由は分かったでしょ。母さんに言っても良いですよ。どうせ、半年後には、あっちでカミングアウトするつもりでしたから」
 町田は、かばんを下げて教室を出ようとした。
「協力するよ。先生は、君の力になる。そう約束しただろ」
ぼくのその言葉は、彼の足を止め、振り返らせ、そして、再び椅子に座らせた。
「意外でしたよ。先生は、もう放りなげると思ってました、こんなややっこしいの。だったらさぁ、協力してくれるんだったら、母さんには、ぼくの留学の理由を『語学習得のため』って事にしておいてくれませんか。母さんがこのことを知ってしまうと、もう家にはいれないと思うんです。きっと、母さんは、すごく悲しむと思うし」
「半年後に知っても同じじゃないか」
「違うよ。だって、もうぼくはいないんだから」
「同じだよ。嘘をついて留学するなら、ずっと嘘を付き続けないと、余計に悲しむと思うぞ。悲しむだけじゃなくて、裏切られたと思うかもしれない。そうだろ?」
「ダメ、ダメ、ダメ。ぼくは、普通じゃないきゃ、ダメなんだから」
「普通だよ、君は。男の人が好きだって、普通だよ」
「本当にそう思う?」
「何年かしたら、女の人が好きになるかもしれないじゃないか」
「……、そういうことか。いいよ、先生にはわからないよね。ぼく、帰ります。すいませんでした、ぼくのためにこんなに遅くまで」

 町田のことを考えていた。誰かに相談しようとしたが、浮かんでくる名前は、吉野先生と父親ぐらいで、間違っても吉野先生には言えない。なんだかそんな気がした。父親。こちらもない。ぼくは、今になって改めて思うのだが、自分の事を誰かに相談して、決めたという覚えがない。誰かから与えられて、それをこなすか、自分で思ったことを誰にも相談せずにやってきた。相談下手なのだ。それは、生徒のことにしても同じだった。職員室をいつもよりも早く出て、ぼくは、夕方のラッシュアワーで部屋に戻った。戻ってから、何も食べず、ベッドに倒れたまま、ずっと考えてた。
「どうしようか」
 朝まで考えたが、結論は出なかった。どうにかできるという自信も、なかった。このまま町田の側に立って、母親に嘘をつかせたまま見送ることは出来ない。かといって、ありのままを報告するには急すぎる。ぼくは、町田よりも十年近く先に生きているが、彼の立場になって考えることができない問題だった。非常に無力を感じた。
 町田が好きな人に、好きと言うこと。それは、彼の人格すべてにつきまとうのだろうか。例えば、勉強は出来るけどゲイだ、とか、顔はいいけど……、やさしいけど……、おもしろいけど……。ふと、「町田は、なぜ、ぼくにカミングアウトしたのだろう」と疑問が湧いた。「語学留学」を理由に、そのままアメリカに行くことが不可能だった訳ではない。なのに、なぜ、本当のことを言ってくれたのか。ぼくが、たまたま言い当てたからか? いや、あそこで「そんな訳ないじゃん」と否定することぐらい、簡単にできたはずだ。中学時代の自分を思い出してみる。先生に相談しようとした記憶は、ひとつもなかった。話して解決出来るとは、とても思わなかったからだ。町田と同じように、ぼくの中にも、数多くの他人と違ったところがあった。それを、ぼく自身が過剰なほどに意識していたこともあった。いつからか、ぼくは、あえてそこに逃げこみ、他人と「差」をつけてきた。その「差」を武器に、学生時代を過ごしてきた。そうだ、そうだ。ぼくは決して、自分の中だけに全てを閉じこめて、それを抱えながら乗り越えてきた訳ではなかった。ぼくには、母がいたのだ。
 死んでしまってからの、あの、何でも相談できた母が、側にいてくれた。思い通りの回答をくれる相談者が、空想上だったとはいえ、ぼくには存在していた。それがあったからこそ、ぼくは平衡に歩めたのかもしれない。とすれば、町田はぼくに、そんな存在を期待していたのだろうか。抱え込んで飽和して、大爆発する前に、小さな穴を開け、そこから少しずつ発散していく。町田は、誰でもいいから、誰かに知って欲しかったのだろう。彼にとって、近すぎず、遠すぎない、担任のぼくに。
 ピエロを演じきる環境があり、そこで自分を偽ってストレスをためる。家の中でも発散出来ずに、「普通」を演じようとする。そうして、異国の地に、馴染みのある別環境で、自分を告白しようとしている。「よろしくお願いします」。町田が、ぼくにいったこの言葉は、ぼくに何かを期待したり、どうかして欲しいと望んだのではなく、それまで通り、あまり入り込まず、熱く成らず、ただ、彼自身が望む通りに、返事をして欲しかったのだ。そういう対象として、ぼくを見ており、彼は、ぼくに、その役割を任せたのだ。
 だからと言って、ぼくは、このまま彼の本心を誰にも伝えることなく、彼にとっては、一生の問題にもなりうる大事な決断を見過ごしていいのだろうか。教師として、彼が望んでいるか否かではなく、教えなければいけないこと、果たすべく義務があるようにも思えた。
 LGBTという言葉が、新聞やテレビで頻繁に出始めたのは、ここ一、二年のことだ。レズやゲイ。バイセクシャル、トランスジェンダー。その言葉を包括的に理解し、社会の中で平等に扱おうという動きは、役所や企業の中で目立ってきた。それは、ちゃんと理解して、差別を無くそうというより、いささかイメージ戦略の趣が濃かったが、それでも、同姓同士の結婚に関する証明書や手当、社会保障、雇用などが少しずつ充実しており、理解度は、十年前に比べて格段に上がった。ただ、生徒たちがよく見るというサイトで検索をかけると、LGBTという言葉は、極端に視野の狭い、ただ単なる触れてはいけない「状態」のことをいうようだった。
 世の中には、様々な価値観があり、一人ひとり別々の美意識もある。マイノリティだからといって、肩身の狭い思いをするのはおかしい。と、頭の中では理解しているが、いざ、目の前にすると、ピンと来ない。公式を当てはめて解いてきた数々の問題と同じように、「同性を愛するということ」を、新しい公式のように「覚え」、そこに当てはめて考えるしか、方法がないようにも思えた。
 町田と再び話し合いの場を持ったのは、それからすぐだった。
 生徒と教師が、一つの机を挟んで話し合う。それには不似合いな量の資料をぼくは用意していた。板書こそしなかったが、資料を次々に広げながら、アメリカでの同性愛者を取り巻く現状、同じくヨーロッパでの現状、ニュースになった記事、そして、日本での同性愛者取り巻く環境など、集めるだけ集めて示した。しかし、いくら話しても、町田には響かなかった。それは、彼の目が如実に物語っており、ぼくが普段、教室で授業をしながら、よく見る生徒たちの目と同じだった。彼は唐突に、
「ぼく、病気じゃないよ」と、口を開いた。
「んっ?」と、ぼくは聞き返す。
「なんかさぁ、さっきから、先生は、ここには立派な設備があるから、ここに入院したらどうだ? って言ってるみたいな気がする」
「そんなことは思ってないけど、ただ、君には現状を教えておこうと思って」
「なんで?」
「なんでって、それは、今後、君が生きていく上で、」
「結婚とか?」
「まぁ、そういうことも、関連してくるだろう」
「違うよ、ぜんぜん。ぼくは、何かを主張したり、要求したりして、それで、差別されてると思ってる訳じゃない。ただ、想ったことを言って、それで、悲しむ人がいないところへ行きたいだけなんです。サンノゼに行っても、差別とか偏見があることぐらい、ぼくは知ってますよ。でも、日本人のぼくにとっては、母さんと遠く離れたところにいれば、被害っていうか、そういうのも少ないと思ってるだけです。ぼくが、オランダに生まれてたら、日本みたいな遠いところに行きたいと思ったかもしれないし」
 ぼくは、何も言えなかった。町田は、多くのことをしっかり受け止め、だからこそ、大事なものを放棄しているようにも思えた。現実、彼の言葉を否定するような「理想」を、この場で話すことは、ぼくにはできなかった。
 町田の母親から、何度か電話をもらい、留学の件はどうなっているのかと催促されていた。「ぼくから聞いてみます」という言葉の続きを知りたいのだろう。延ばすだけ延ばして、先送りしていたのだが、それも限界に来た五月のある日、ぼくは、町田の家を訪れた。
 母親だけがいると思っていたが、たまたま雨で、部活が休みだった町田本人も家にいた。ぼくは、自分の中でまだ、固まりきっていない言葉を繰り返した。ますます、語学力が必要になること。確かに、日本にいても英語が習得出来ない訳ではないが、異国で多感な時期を暮らすことは、語学力以上のプラス要素があること。そのチャンスがあるのであれば、活かすべきだということ。ぼくの口は、勝手に動いていた。うつむいた町田の方を見ることは、一度も出来なかった。母親が知りたいことは、ただ一つ。息子は、どうしても留学を希望しているのかどうか、ということだった。「そうです」と、ぼくははっきりと答えた。その理由については、何も言わなかった。母親はもう、反対しなかった。「どうしても、やりたいなら、やりなさい」と、最後には渋々認めた。ぼくは、ホッとした。どこか清々しい気持ちにもなって、町田の家を後にした。

「それじゃ、何の解決にもなってないじゃない」
 菜月かほるにそう言われたのは、目黒の坂道にある喫茶店の中だった。

 町田の家を訪問してから三日が経ち、ぼくは、目黒にある大きなビルの一室で、新任教員研修会を受けていた。そこで、ぼくは菜月かほると再会したのだ。話しかけてきたのは彼女だった。最初は、誰だか分からなかったが、「ポーよ、ほら、黒猫とか一緒に読んだじゃない」と笑いかける彼女を見て思い出し、ようやく彼女の変化に驚いた。大学に入学して間もない頃、エドガー・アラン・ポーの作品について語り合い、アルフレッド・ヒッチコックの映画を一緒に見に行ったこともある菜月。目立つ存在ではなく、可愛いとは思わなかった彼女が、今は可愛い姿で、自分の目の前にいる。「変わったね、可愛くなった」とも言えず、おしゃべりになった彼女の話をしばらく聞いていた。彼女が大学を辞めてからは一度も会っていない。小説家や駆け落ちは、やはり単なる噂で、彼女もぼくと同じ教師の道を進んだようだった。菜月は、大学を辞めてアメリカに渡ったという。知り合いの家でしばらく過ごした後、最後の飛行となったコンコルドに乗ってロンドンに行ったそうだ。それから、観光ビザが切れるまでロンドンで過ごし、そこからはバスで、オランダ、フランス、ドイツ、スイス、イタリアと周り、ローマからバンコクまでは飛行機で移動。そして、バンコクを基点に東南アジアをぐるりと旅したという。彼女が持ち歩いていたノートパソコンには、大量の写真とビデオが入っており、それを見ながら、彼女の話を聞いていると、何かのテレビ番組のようだった。一年半ほどの旅。帰国後、彼女は東京の大学に入学し、教職免許を取得したらしい。
「また、飛び級だったの?」
 彼女の旅の話が一通り済んだところで、ぼくらは近くの喫茶店に移動した。
「あいかわらず、ガツガツやったから」
ブラックコーヒーを飲む彼女が、ぼくよりもずいぶん大人に見えた。
「でも、こっちに来てからの勉強と、大阪にいる頃の勉強は違ってたような気がするわね。うまく言えないけど、しばらく海外を旅して、私はすっごく貴重なモノを手にした感じがするの。それって何? って丘野君なら聞いてくると思うんだけど、ごめん、答えられない。明確には言えないけど、すごく貴重なもの。全部が全部、コトバになんてできないんだよね」
髪の毛が明るいブラウンになっている、とぼくは彼女を見ながら思った。 
「実は私ね、あの時、アメリカに逃げようと思ってたの。別に、アメリカじゃなくてもどこでもよかったんだけど、とにかく、あの環境から抜け出したかったの。だって、私ってガリベンだったじゃない、暗い子だったのよ。わざわざ言わなくても分かるわよね。なにしろ、ポーだからね。周りが、そういう目で見れば見るほど、そこにいなきゃって、窮屈になってた。図書館に行って、妄想して、仮の自分を演じてるだけで安心してたのね、きっと」
 言葉が標準語に変わり、表情は活き活きしていた。あの暗いオールナイトの映画館で一緒にいた時とは、別人のようだった。
「私がアメリカに発つ前ね、それまでは、大学を辞めて、一人で外国に行くことに大反対だった両親が、一度だけ私の話を聞いてくれたことがあったの。夜中までテーブルを囲んで、三人で色々話したわ。今から思うと、あれがなかったら、私は今でも、何かから、逃げ続けていたかも知れないって思う」
「逃げるって何から?」
「だから、あの頃の環境よ」
「環境?」
「そう。言ってみれば、全てね」
「それにしても、ご両親は、よく許してくれたね」
「あの夜は、私、嘘をつかなかったの。ポーの研究をアメリカで本格的にやりたいなんて言ってた時は、ずっと反対されてたんだけど、理由も何もない、けど行きたい、って本音で言ったら信じてくれた。それで、許してくれたのよ。信じられる? 私はあの時、親ってそういうものかなって思ったわ。同時に、とってもありがたいな、ってね。アメリカに行って、何をするわけでもない、いつ帰ってくるかもはっきりしない、だけど、飛び出したい。違う環境で自分を変えたい。そういう私の何年も抱いていた気持ちを、分かってくれたのよ。それは、今でも感謝してるの」
「ぼくの生徒も、同じだって言いたいの?」
「丘野君には、きっとわかんないよ。だって、先に頭で考えちゃうでしょ」
 その後も、菜月は色々と話し続けていたが、ぼくは、町田のことをずっと考えていた。「恋人はいるの?」と不意に聞かれ、いる、とぼくは嘘をついてしまった。
 菜月と別れ、目黒の坂道を上りながら、恋人がいると嘘をついて、自分をさらけ出さない所が、ぼくの悪い所だな、と自嘲した。まだまだ、自分の殻に閉じこもっているんだな、と思い知った。
 交換留学申請書の提出期限が迫り、ぼくは町田の書類をそろえ始めた。書類でどうにか通るために、彼の良いところを引き出そうとする。上の引き出し、下の引き出し、右、左、全部の引き出しを開いて、彼を推薦する。ちょうど、ぼくが言葉に詰まっているとき、吉野先生が、週末に温泉でも行かないかと誘ってきた。奥さんの実家のすぐ近くに、良い旅館があって、季節もいいらしいのだ。「部活、練習ないんですか?」と尋ねると、吉野先生は、嬉しそうに「ちょっと休養するんや。休むことも大切やからな」と笑った。ぼくは、いいチャンスだと思った。そして、一緒になって笑った。「そうか、行くか」と、再び誘われたので、「いえ、行きません」と、断った。
 ぼくはその夜、前に登録した町田友介の携帯に電話をかけた。彼も携帯に登録していたのだろう、呼び出し音のあとすぐに、「先生? 何、どうしたの?」と応えた。今週の土曜日、部活が休みだって聞いたから、昼からどっかで会わないか、と誘った。
 人を誘うのは、何年ぶりだろう。学校の教室ではなく、休日のカフェかどこかで、町田の話を聞こうと思ったのだ。町田は「何か話があるの? 留学、ダメだったの?」と心配ばかりをしていたが、「いや、もうすぐ会えなくなるから、ゆっくり君と話しがしたいと思って」と、説明した。訝しむ町田は、行けたら行く、という返事をした。
 土曜日の昼下がり、ぼくは町田と一緒にオープンテラスのカフェにいた。駅前で待ち合わせて、「どこに行く?」と相談し、「ここにしよう」と二人で決めた。ぼくの常識から言うと、もしこれが男女なら、デートだ。
「ぼくらってさぁ、兄弟に見えんのかな? それか、父子かな」
「恋人ではないだろうな」
 こういう所が、ぼくは恐ろしいほど、無神経なのだ。「だろうね」と、町田はコーラを一口飲んだ。
「あれだろ、ちょっと年の離れた兄弟、ってとこだろ」とフォローしたぼくに、「顔は全然似てないけどね」と、町田が言った。「腹違いだよ」と、ぼくも訳の分からない返答をした。
「部活が休みなんて、珍しいんだろ?」
「たまにあるよ。でも困るんだよね〜、部活以外に、休みの日にすることなんて特にないし」
「そうだよな。変わった、変わったと言っても、中学生なんて、そう変わらないよな、先生たちの時代と」
「先生が中学の時は、何が流行ってたの?」
「さぁ? オレは、そういう流行とか、ちょ〜ウトイから」
「気持ち悪いよ、先生がそんな話し方したら」
「だよな」
「先生って大阪でしょ?」
「そうだよ」
「関西弁じゃないね、ぜんぜん」
「そんなことあらへんでぇ」
「いや、無理あるし」
「そうかな」
「でも、先生も、そういう冗談とか言うんだね」
「冗談か、これ?」
「うん。全然、おもしろくないけどね」

「話、あるんでしょ?」
「いや、特別にはないんだ。ただ、一度、生徒とこういうことをしたくてな。ほら、女子だと色々問題だろ?」
「そっか、男子だしね、ぼくは」
「あ、あぁ」

「先生って、恋人いんの?」
「オレか? 女も男もいない」
「付き合ったこととか、あるの?」
「ない」。ここでは素直に言えた。
「うそ、まじ? 先生っていくつだっけ?」
「二十三、今年で四になる」
「なかなか化石だね、その年まで彼女つくらないのも」
「できない、っていう方が、あってるな」
「まぁまぁ、飲んでよ、コーラだけど」
「あっ、あぁ」
「君は?」
「何が?」
「だから、好きな人、いるんだろ?」。驚くほど、自然に言えた。
「いるよ」
「どんな人か聞いていいか?」
「サッカー部の先輩」
「卒業生か?」
「そう。去年のキャプテンだった後藤先輩」
「後藤……、あぁ、あの背の高い、」
「知ってんの?」
「ああ。先生は、吉野先生と仲がいいから、よくその子の名前は話に出てきてたんだ。廊下とかで見かけたら、この子が後藤君かぁ、って見てたよ」
「そっか。ゴリラみたいでしょ?」
「そうだな、先生のタイプではないな」
「タイプね。そう言われると、普通に感じるよ」
「で、そのぉ、後藤君とは……」
「付き合ってるよ。付き合ってるっていうか、お互いに、なんとなくね」
「今も?」
「いや、先輩は、高校行って変わったんだ。別に、それが憎いわけじゃないけど。ただ、先輩は苦しんでたんだよ、高校行ってから」
町田は、もう一口、コーラを飲んでから、
「初めて声をかけられたのは、ぼくがまだ一年で、先輩が二年の時だった。うちは、上下関係が厳しいから、一緒に帰るぞって言われたら『はい』って言うしかなかったんだよね。家も近かったし。先輩が、ゲイなんだって分かったのは、夏ぐらいだったと思う。練習の短パンを忘れたから貸してくれって言われて、返す時に『くれないか』って言われて。最初は、意味わかんなくて、いいですよ、ってぼくも言って。それ以来、何度か先輩には短パンあげてる。母さんには、洗濯して干してたら、風で飛んでいったって嘘をついて新しいのを買ってもらってたんだけど。さすがに三回目ぐらいから疑いだして、ほら、この間の家庭訪問でも言ってたでしょ、盗まれてるんじゃないかって、ストーカーじゃないかって。ぼくって、父さんにすごく似てるらしいんだ。だから、変な娘にだけはひっかかるな、って冗談なのかどうなのか知らないけど、よく言われるんだよね。あ、すいません。嫌ですよね、こんな話。聞きたくないよね」
「なんでだ? 聞いてるじゃないか。先生はさぁ、中学の時も高校の時も、友達って呼べるヤツがいなかったんだ。だから、誰かのそういう話を聞いた事がないから、なかなか楽しいよ」
「珍しがってるだけ、でしょ」
「いや、初めてだから、珍しいかどうかも分からないよ」
「先生って、面白いですね。普通、引くよ、こんな話」
「普通じゃないから、オレは」
「ハハハ。分かる気がします」
「あのな。で?」
「でね、さすがに二度目に短パンくれって言われた時、なんでですか? って聞いたんです。その時、先輩が何て言ったかは忘れましたけど、ぼくの体を触ってきて。初めは、びっくりして抵抗したんですけど、ぼくもそのうち、ね」
「そっか。ごめん、先生にはよく分からないわ。オレなら、走って逃げてるだろうな」
「まぁ、そうでしょうね。っで、それから毎日二人で一緒に帰って。ぼくが二年になった時、変な噂がたっちゃって。みんな冗談半分で言ってたんだけど、ぼくがゲイじゃないかって。その時、先輩が机の中に女の下着を入れておいたら、誤魔化せるんじゃないかって言い出して、母さんの持ってる中で一番若そうなの選んで机に入れたんです。みんなにバレて、ぼくがそれを必死に否定して。覚えてる? 先生?」
「覚えてるよ。あの時、オレが疑われたんだからな」
「そうでしたよね。すいませんでした。っで、おかしいのが、母さんは、自分の下着が無くなっても気付かないの。ぼくの短パンであんなに大騒ぎしてたのに」
 ぼくらは笑って、フライドポテトをつまんだ。
「ぼく、覚えてるんです。二年の時、家庭訪問で先生が言ってくれた言葉」
「何て言ったんだっけ?」
「普通なんて曖昧なものに邪魔されて、本当の自分を誤魔化すような生き方には反対です、って」
「そうだったかな」
「母さんは、普通をはみ出すことに恐れを抱いてるから。片親になったっていうことで、普通じゃないと思いこんでるんです。可哀想なんですけどね」
「……」
「で、先生なら、ぼくの留学のこと、なんとかしてくれるんじゃないかなと思ったんです。後藤先輩も卒業するし、あのとき、ぼく、すごく寂しくて」
「期待、してくれたんだ」
「そういうことを言ってくれる先生だから、ぼくは、全部告白したんですよ」
「そっか」
「今日も、先生は、ぼくに正直なことを話してくれたでしょ。だから、ぼくも言えました」
「日本を離れると、お母さんは、寂しがるだろうな」
「きっと、そうでしょうね」
「なぁ、日本でも、先生に言ったみたいに、堂々と、自分を告白することはできないのか?」
「無理ですよ。みんな普通を飛び越えようとしないから。ぼくが逆の立場でも、きっとそうだし。ひとりをターゲットにして、変わってるとか、気持ち悪いって言うことで、自分が、普通に感じられるでしょ、みんな」
 それもそうかな、とぼくは十四歳の世界を思い返してみた。
「でもな町田。先生は、君に何も教えてやれないし、いいアドバイスも出来ないけど、これだけは思うんだ。無理して、アメリカに行くことだけはするなよ。なんて言えばいいのかな、逃げんなよ」
 ズルズルと飲み干す音と同時に、「ありがとうございました、先生」と町田が言った。
「言えて、よかったです。なんか、誰かに言ったら、軽くなりますね。もしかして、俺って、普通? って思えてきたし」
「普通だよ、君の中では」

 町田の推薦文は、生徒管理表に書くコメントの倍以上あったが、時間は半分以下だった。これで通るかな、という不安よりも、ぼくが書き込むコメントに、町田の気持ちが反映されているかが、一番の不安だった。管理するのではなく、町田という『人間』を伝えるために書くのだ。町田本人は、本当の理由を「自分の性癖がマイノリティで、それを告白できる環境下にいないので、環境を変えて自由に好きだと言えるところに行きたい」と思っている。だけど、ぼくは、そうは思わない。同性愛など、関係ないのだ。彼の抱えている問題が、何であるにせよ、鏡に映った自分自身をしっかり捉えることができている。十四歳にして、すでに、大きなものと対峙している。そこで、閉じこもることもせず、扉を開きたいという、そんな彼の気持ちを封じ込めるわけにはいかない。ぼくが十四歳の頃。クラスに友達ができない、母親が家におらず、父親も仕事で忙しい。だからといって、外に向かって自分を主張したり、「環境」を求めたりしなかった。いや、できなかった。いつも、周りからの視線を気にして、その眼差しで自分を光らせてきた。
 ぼくを仮に「月」だとするなら、
 町田の姿は、「太陽」のように思えた。

 アメリカという、人種、民族のるつぼで、様々な技術に触れ、仮想現実の中をさまよい、現実に戸惑い、そこで考え、悩み、ひとつの答えに行き着くことは、町田に多大な自信をもたらすだろう。日本とは異なる価値観に触れられることも、彼にとっては大きな魅力になるはずだ。
 ぼくは、推薦理由の欄からはみ出して、次ぎ足し書き記した。ぼくの言える精一杯を書いたつもりだ。副校長に生徒紹介、健康診断、推薦文を提出した。翌日には、町田の留学が、決定した。おそらく、数字と呼ばれる彼の成績が、決定理由であり、ぼくの推薦文のあるなしは、結果に左右しなかったのだろう。しかし、町田に留学決定を伝えると、「ありがとうございました」と言ってくれた。喜びを全面に出すというよりも、ついにきたかという、決意の表情をしたように思えた。少なくとも三年間、彼はサンノゼのハイスクールで、自分告白までの旅に出るのだ。
 母親には、自分からちゃんと伝えるというので、ぼくは彼に任せた。通常、このような結果は、家庭訪問をして伝えるのだが、彼の口から、本音を言えるチャンスになるかも知れないと思い、彼に任せた。菜月がアメリカに発つ前、両親に告白できたように。

 町田の母親から電話があり、できるだけ早く家に来て欲しいと言われたのは、翌日だった。
 ぼくは、空っぽのかばんを下げて、彼の家を訪問した。もう、かばんに資料を詰め込んで戦うことは止めにした。ぼくは、矛も盾も持たず、ただ双方の意見を聞くために行ったのだ。電話の声から、母親が幾分ヒステリックになっていると感じられたが、会ってみると、とても落ち着いていた。制服を着たままの町田が、あぐらをかいて、ぼくの顔を見た。うつむくことは、もうなかった。
「全部、聞きました。先生は、もうご存じなんですよね」
ぼくは、町田の顔を見た。彼はゆっくり頷いた。
「……はい」
「どうして、どうしてまた、そんな。私はね、ほんとに、驚いているんです。この子が留学したい、って言い出してから、使わずにとっておいた、養育費を充てて、その費用にしようと思ってたんです。だから、昨日、留学が決まったって聞いたときは、素直に喜べたのに。その後で話がある、って。この子、自分はホモだって」
町田は、ずっと母親の顔を見ていた。ゲイとホモには、ずいぶん言葉の響きに違った印象があるものだと、ぼくは、洗い物がたまった流し台を、眺めながら思った。
「昨日は、あまりにも突然だったので、何も言えなかったんですが、私なりに、ゆっくり考えてみたんです。原因は、なんだったんだろう、って」
「原因、ですか?」
「そういう風になるには、原因があるわけでしょ、きっと」
ぼくは、また町田の方を見た。彼は、うつむいていた。
「お母さん、わたしも、友介君に言われてしまったのですが、彼は、病気じゃないですよ」
「分かってます。頭では、分かってます。でも、自分の息子ですよ。はい、そうですかって訳にはいきませんよ」
「頭で理解するものじゃない、と思います」
「じゃ、どうしろっていうんですか。先生は、この子が、このまま男の人しか愛せなくても、いいとおっしゃるんですか。アメリカに行って、そういう人たちの中で育って、それで、そのまま男の人と暮らしていくんですか。そんな、一人息子なんですよ、この子。私は、孫の顔だって見たいですし、アメリカなんかに行ったら、悪化するだけでしょう」
母親は、大きな声を出した。

「分かったよ、母さんの気持ちは……。もう、いいよ」

「アメリカに行くの、諦めてくれるの?」
「ちょ、ちょっと、待って下さい、お母さん。そんな簡単に、大事なことを決めないで下さい。冷静に、冷静に」
「先生は他人事だから、そんなこと言えるんですよ。この子ひとりがどうなろうと、先生にとっては大勢いる生徒の中の一人ですからね。でも、私にとっては、たった一人の息子なんですよ。それとも、何ですか、先生は、この子みたいな、普通じゃない子がいなくなれば、せいせいするとでも、思っておられんですか」
母親は、泣いていた。ぼくも、悲しくなった。
「確かに、友介君は、普通じゃないです」
母親が一瞬、ぼくを睨んだ。
「でも、みんな普通ですか? 少なくとも、わたしは、普通ではありません。それで困ることもあります、でも、だから良いことも、きっとあるような気もします。誰だって、同じじゃないはずです。友介君は、とてもいい子です、魅力的です」
「だから、男の人にも、モテるって言いたいんですか」
今は、何を言っても、無駄だと思った。みんな油になってしまって、火の勢いが増すばかりだろう。
しばらく、沈黙が続いた。夕暮れの沈黙の中で、ぼくは、町田の母親が言った「孫の顔だって見たい」という言葉を反芻していた。

「お母さんのお気持ちは、お察しします。ですが、今は、何より、友介君の気持ちが一番大事で、その気持ちと何かを天秤にかけて、考えていいのでしょうか」
「あなた(、、、)には、わかりませんよ」
 母親は、小さくつぶやいた。
「なぜ、なぜ私の子なんですか。私の子がそんな……、」
明日が来る夕焼けは、いつも綺麗なのだろう。明日を望んで眺める夕日は優しい。だけど、この長屋の、台所にある窓から、遮られるように差す夕日は、家の中を憂鬱にさせた。
「私は、反対です。この子、留学なんてさせません。高校に行って、それで色んな人と出会ったら、また、変わるかもしれませんから。先生、この子の留学、取り消して下さい」
「町田君は? お母さんは、こうおっしゃってるけど」
「親の承諾が必要なんでしょ、じゃ、仕方がないよ」
 ぼくは、ぼんやり『もし生きていれば、母親は、ぼくの何かに期待して、ぼくの何かに失望して、そして、ぼくの何かに泣きながら反対しただろうか』と、考えていた。考えているうちに、ガサガサした気持ちが、突き上げるように、「このまま、日本にいたら、友介君は、閉じこもってしまうんじゃないでしょうか」と口をついて出た。
 これ以上はもう、家庭の問題だということは頭では分かっていた。分かってはいたが、気持は暴走し、言葉が止まらなかった。
「わたしはずっと、自分は普通じゃない、普通の恋は出来ない、だから、あれも、これも普通じゃない。何もかもが、普通じゃない、と諦めて、中学でも高校でも、そして大学でも、教師になってからもそうです、ずっと、気持ちの中に閉じこもって来ました。他人と接することを拒んできました。わからないんです。何から話せばいいか、どう笑えばいいのか。長い間、わたしはひとりでしたから。一人の世界にいるのが、とても楽でした。ずっとそのままでいられるとも思ってました。でも、友介君は違います。飛び出そうとしています。わたしなんかと違って、外へ飛び出して、自分を放とうとしてるんです。正直に言うと、わたしにも、同性を愛する気持ちは分かりません。だけど問題は、そこじゃないと思うんです。このぐらいの歳の頃は、他人と自分の違いに気付きます。背が低い、体重が重い、勉強ができる、できない、モテる、モテない。鏡に映った自分の姿を見て、嘆くんです。多かれ少なかれ、それは誰にでもあることなんだと思います。その中で、大小はあっても、自分を告白しながら生きていくんです。今、友介君にとって、アメリカに行くことがいいか悪いか、それはわたしにも分かりません。日本の高校に、このまま通ってもいいじゃないか、とも思います。だけど、一番大事なのは、行きたいという、彼の気持ちだと思うんです。その気持ちだけが本物です。したいという事を、強制的に抑制することには反対です。わたしには、立派な事は言えません。仮に言えたとしても、友介君にもお母さんにも伝わらないと思います。そんな言葉は、わたしが単に覚えてきただけのことですから。だから、思ってるままを言います。彼の留学を認めてあげてください。アメリカに行って、日本にはない良いところも悪いところも見てきてもらいたい。その中で、自分を告白しながら生きてもらいたい。わたしは、友介君には、いつも笑っていて欲しいんです。心の底から、本当の笑いを。今のままじゃ、彼は、笑えません。周りに合わせて嘘をつき続けるか、それに嫌気がさして閉じこもるか。それが心配です。そうはなって欲しくないんです」
 町田には「太陽」であってほしい。「月」はきっと太陽に憧れるんだ。 

 ちょっと出てきます、という母親に、「わたしが出ますから、お母さんは、友介君ともう一度話して下さい」とぼくが、家を出た。もう日は沈み、街灯の明かりだけが、昨日のように照らしていた。町田も町田の母親も、そしてぼくも。明日からは、いや今からは、昨日のようには生きていかない。今から、変わっていくんだ、と近くのコンビニに向かった。しばらく時間をおいて、町田の家に戻ってみると、家の中から二人の笑い声が聞こえた。とても柔らかい光景だった。母と息子。1+1が2にならなくてもわかり合える深さ、正解と不正解を超えた理解。全部を包括した「笑い」。ぼくは、踵を返し、自分の部屋へと戻った。
 独身者に限るという条件付きの、ぼくのアパート。「今」はひとりだという現状から、この先を展望できない孤独。いや、違う。その意志。母と息子の、町田親子の「温かさ」に触れると、ぼくは少し思う。独りきりの限界を。
「結局、やっぱり寂しいんですよ、ウチらも」
笹岡さんという隣の部屋に住む人が、前にそんなことを言っていたのを思い出した。彼は、大手企業の部長という肩書きを持っている。
「これ以上、出世することもないな」
差し出された名刺を見て、すごいですね、とぼくが驚いた後で、彼は小さく笑った。生涯独身を貫き通した四十八年間。「家族はね、『持つ』ものなんですよ。特に、会社では、いや社会では、自分の下にぶら下がってないと、欠陥に見られますからね。それを突っぱねて生きてた時代が、わたしの最盛期だったんですかね」
突っぱねる。何と対峙し、誰と闘うのか。でもね、と笹岡さんは言う、
「このアパートに来て、同じ考えの人がいるんだなと思ったら、うれしいと同時に安心して、味方に甘えて弱くなってしまいましたよ。幸せですけどね」
 幸せ。この言葉が、まだ笹岡さんの強さに思え、対峙する社会の大きさを感じさせた。ぼくは今、町田の未来を想像している。嘘だ。自分の、この先を「心配」している。対峙する社会。教師として、生徒よりも自分の心配をする、生徒のような、教師。このアパートにいれば、きっとずっと、このままぼくはひとりでいられる。「外」でいくら惨めな思いをしても、ここに帰ってくれば、「そうだよな」と、肩を優しく撫でてくれるだろう。アメリカ。この国を飛びだしていく中学二年生の町田。この小さなアパートから、出ることすら出来ない、「ぼく」。いつものように、ぼくは全部を先送りして眠る。五年、十年すればきっと、なんか変わっているだろう、と。



 町田は、八月の終わりに、羽田空港から旅立った。
 ぼくと吉野先生、そして町田の母親が彼を見送った。体つきは立派な大人なのに、顔の表情に十五歳になったばかりだという、幼さを残している。パスポートがないと慌てる町田に、
「お前、切符をなくすのと訳がちゃうんねんぞ。ええか、海外にいったら、『お前』っていう証明が必要なんや。そういうとこに行くんやぞ。町田! ええか」
 町田の両肩をわしづかみにして、前後に大きく揺らす吉野先生。
「町田君。嫌にやったら帰ってくればいいんだからね。帰る場所が、君には、ちゃんとあるんだから」と、微笑みかけるぼく。
「丘野先生、ぼく、先生のこと、好きだよ」
 町田のこの言葉に、吉野先生以外の、二人が苦笑いした。
「いや、っじゃなくて、そういう意味じゃなくて」と、慌てて町田が否定したので、吉野先生は「何いうてるんや。時間は大丈夫なんか? がんばれよ」と、ホイッスルを鳴らすように言った。
右手を挙げて、「行け!」と。
 黙ったまま、町田のスーツケースを開け、忘れ物がないかをチェックしていた母親が、小さな手紙を忍ばせていたのに、ぼくは気づいた。町田は、出国ゲートに入っていく。後ろ姿を見送りながら、ぼくは、叫んだ、
「町田君! ぼくも好きだよ。そういう意味じゃなくて」

 町田を見送った後、ぼくは、新幹線で大阪へ向かった。
 夏休みも残り少なくなり、休みらしい休みも取っていなかったので、久しぶりに実家に帰ることにした。新幹線の中で、「これでよかったのだろうか」と考えてみる。だけど、その答えは、ずっと先にならないと分からない。ぼくのやっていることは、やるべきことは、バトンを受け取って、平坦なトラックを一瞬で走り抜ける事じゃない。上り坂も下り坂も、平坦な道も凸凹道も、襷を受け取って忍耐強く駆け抜けることなのだ。
 新大阪駅で乗り換え、大阪駅に向かった。ふと、ぼくはあることを思い出し、中央郵便局へと足を向けた。財布の中で、折れ曲がっている引換証。ぼくは、それと引き替えに、三つのタイムカプセルを受け取った。
『学校の先生になる 丘野翔』
 幼く下手くそな自分の字が、過去からきたことを実感させた。そして、見てはいけないと思いつつも、両親の紙も開いた。
『家族、生徒、共に幸せであるように。中でも一番、翔に幸福を 丘野洋平』
 それは、とても懐かしい父の字だ。そして、ゆっくり母のタイムカプセルを開いた。
『おばあちゃんになるまで、生きられますように 丘野美智』

 ぼくは、人通りの多い高架下の横断歩道で、母の字を眺めていた。ぼくに期待することと自分の夢。母は、孫の顔が見られる未来を信じ、それまで生きたいと願っていた。ぼくが結婚し、子供を授かり、そんな将来を疑わなかったのだろう。ぼくは、町田の母親の、あの悲しんだ顔を思い出した。思い出して、町田の気持ちが実感できた。
 信号が青に変わり、ぼくはやっと、歩き出せたような気がする。忙しい中でも、ぼくの幸福を一番に願ってくれていた父と、父の忙しさを支え続けた和恵さんのいる実家へ。今なら、ただいまと言える気もした。


[了]

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ぼくの何か

鈴木正吾著

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