“This is Shogo.”ロビンがそう紹介してくれるのを待って、すかさず右手を差し出し、“Nice to meet you.”と言って握手をする。カリフォルニア州の小さな町の高校で、次々と紹介される人達と挨拶を繰り返えしていた。グランドではロバートの野球チームが、地元の強豪チームと対戦している。コールドに近い点差はあるものの熱心に応援をしているその親達が、僕の握手相手だ。サングラスとポータブルチェアー、向日葵の種を携えて、穏やかな昼下がり、オーバーアクションで観戦している。その光景は、まさにアメリカだった。笑い声もののしる言葉も映画のワンシーンのようで、アメリカに来て半日もしないうちに、緊張から解き放たれ、一ヶ月間のアメリカ生活が始まった。
 二十歳の春、僕は異国の地で、初めて違う家族と一緒に暮らすこととなった。よくある短期ホームステイプログラムに参加したのだ。日本から同じプログラムの参加者十三人と共に、ロサンゼルス空港に降り立ち、ここカンブリアという小さな町まで五時間かけてバスでやってきた。それぞれが、ホストファミリーのピックアップで散らばっていく。僕のホストはコービー一家。パパのロビンとママのシャニーはこの町でレストランを経営している。名前は「Robin's」。この田舎町のメイン・ストリートであるバンビューリー・ロード沿いのクラシックな建物だ。二人の間にはジャイという十八歳の息子と、ブラジルの孤児院から養子縁組したロバート、十六歳がいる。その四人家族の中に二十歳の僕が加わる。メキシコ系アメリカ人ロビンと、中国系のシャニー、そのハーフであるジャイ、黒人のロバートに日本人の僕。メルティング・ポットなんて言い現されるアメリカ的コンプレックス・ファミリーを象徴しているように思えた。一般的に描くホームステイのイメージは、小さな子供がいて、ホストファミリーと一緒に週末はどこかへ出かけたり、夕食の準備を一緒にしたりという「アット・ホーム」なものだが、コービー家は違う。子供がもう大きいと言うこともあるが、なによりレストランの経営は、ロビンが調理場の責任者でシャニーが経理を握っている。お互いがしっかりとした役割のもとで家族と過ごすための時間は強いて作らない。だから僕の夕食は反抗期のロバートと、シャイで無口なジャイと一緒にとる。とはいえ、彼らも青春真っ盛り、ほとんど家にはいない。仕事の合間を縫ってロビンが家に戻り、僕と二人で夕食をとることが多かった。日本人並に気を使い、相手の顔色を伺い、そして、アメリカ人なのに、あえて「なのに」と言わせて頂くが、なんと愛想笑いもするのだ。結果的に最後までロビンのその反アメリカ人的とでも言おう性格に、僕は、というより、このとき同じエリアでステイしていた日本人はみな気づいていなかった。それはあまりにも日本人に近すぎて、つまり日本人の僕からすればそれは普通の対応だったからだ。しかし、普通一般的に、アメリカの家族と一緒に暮らすようになって気づくのは、というより強烈に感じるのは、日本人とは多くの場合逆の価値観や価値基準で言動を繰り返すアメリカ人である。全ての感情を言葉として発する。自己主張は協調性の輪を乱すのではなく、むしろその輪をより強固にするものだと言わんばかりに発揮される。カップヌードルは音を立てないようにすする。そんな生活や人間関係に順応するの事が、一般的に「かぶれる」という現象なのだろうが、僕の場合、なによりここカンブリアという小さなカリフォルニア・ワインの産地でコービー家と共に暮らした日々は心地よかった。

このプログラムに参加する前、自己紹介のフォーマットに「趣味」としてテニスと野球が好きで、カラオケはもっと好きだと記していた。その事をおそらくはロビンから聞いていたのだろう、ジャイが彼の通う高校、Coast Union High Schoolのグランドで野球をするから一緒にどうかと誘ってくれた。まだ出会って2日目の日曜日。お互いぎこちないが、小学生から続けている野球には僕なりに少々自信があったし、久しぶりにおもいっきりバットを振ってもみたかった。ジャイの車に乗り込んで、彼の友達4〜5人をピックアップしながらグランドに向かう。彼の車は中古のホンダ、シビック。Robin'sレストランで週末だけアルバイトをして、それで買ったという。一体彼はいくら時給をもらっているのだろう?日本で考えると、高校生が週末だけアルバイトをして、中古車といえども車なんて到底買えない。家族経営の利が大いに働いているような気がした。
車内では彼の大好きなヒップ・ホップ・ミュージックを大音量でかけ、それに呼応されるように、若々しく、荒く、激しいドライビングで2軒、3軒と友達をピックアップする。家の前に車を止め、3度程クラクションをならすと、今起きたばかりです、と顔全体から主張しているかのような友達が車に乗り込み、助手席に座っている僕に向かって、挨拶と同時に「あ〜噂の日本人ね」とジャイに確認を取っていく。さすがにアメリカだなと思ったのは、結局後ろの座席に平気で4人座ったこと。シビックの後ろ座席に背の高いアメリカ人高校生4人は、つらそうだ。最後の一人は強引に自分を滑り込ませ扉を勢いよく締めて、自分で「うっ!」なんて痛がってる始末。一番小さい僕が一番広々した助手席にどっかり座っていられるのも、完全ゲスト扱いの証拠だろう。田舎の一本道なので対向車は流れ星くらいにない。に、しても激しい音楽のリズムと猛スピード、目にもとまらぬ早口で繰り広げられる高校生同士の会話。僕に対して話される英語とは全く異なる「生」のものだ。ふと、映画「アウトサイダー」を思い出す。決して、このジャイ、まじめなタイプの学生ではないだろう。もちろん、僕は助手席で無口になる。グランドに着くと、ジャイの車で来た以外に何人かいたが、最終的に12人しか集まらず、試合はできない。シートノックとフリーバッティングを3時間強やり、死ぬほど久しぶりに、ボールを思いっきり投げた僕は、肩からひじからそこら中がすごく痛い。でも楽しかった。楽しんでやる野球を久しぶりに体験したような気がする。アメリカの一般高校生はシーズンに分けて2〜3種類のスポーツをする。バスケットボールのシーズンが終わると、野球をして、冬にはアメリカンフットボールをする。つまり、日本のように高校生の間、野球ばかりやって、まだ18歳やそこらの年齢でそのスポーツだけに特化した体造りをしてしまうのとは真逆である。柔軟な筋肉も、バランスのとれたスピード感覚も、偏らない身体能力も、そのように暮らした高校生活からできてくる。マイケル・ジョーダンがメジャー・リーグを目指したのも、アメリカンフットボールの選手から大相撲に入った曙も、そのような基盤から出ているのだろう。
もう一つ大きな特徴として、アメリカ人はいかなるスポーツにおいても決して形にとらわれない。バッティング・フォームもピッチングスタイルも。日本なら間違いなく、綺麗にバットが振れるように、スムーズにボールが投げられるように、「フォーム」を教わることから始める。それが遠回りなのか、決して間違えているとは思わないが、野茂選手を見ていても、「フォーム」にこだわることは、あるサイドから見れば完全に不必要なのかもしれないとも思わざるを得ない。例に漏れずジャイのバッティングフォームは恐ろしい。力だけでボールを遠くへ飛ばす。「腕を出す前に腰を回転させて、それに連れバットを送り込む」なんて教わってきた僕には、信じられないほど素人なバッティングスタイルだ。しかし、結果的に僕より遠くに飛ばしている。結果が全てなら、それで良いのだろう。なにより、ジャイが言ったのは「自分にはこれがスータブル」なのだそうだ。自分にあったやり方でやる。この点においては、スポーツだけでは無く、僕が大賛成するポイントだ。
野球で一汗かいてから、この町にあるハンバーガー屋にみんなで行く。フレンチフライにチリ味の混じったくせになる味でただでさえ大きめなのに「ビッグ」を頼んだ。スポーツの後に、ポテトとハンバーガー、それにコークを飲んでる自分の周りにアメリカ人が話してる。んっ?しかもそのアメリカ人達は時より僕に話しかけてくる。「日本ではどうだ?」「日本ではいくらだ?」「日本語ではなんて言うんだ?」「君はどう思う?」などなど。アメリカに来て、まだ2日目の昼下がり、日本人の僕が日本について聞かれた質問に対して、コトバが分からないというよりむしろ、どう答えて良いか分からない、ラック・オブ・カルチャー(自国文化に対する欠落)を強く感じていた。

その夜、コービー家でホームパーティーをした。名目は僕を歓迎する会。ロビンやシャニーの知り合い四家族が子供連れでやってきた。メキシコ系の血を引くロビンが作るブリトーやタコスは両手放しで美味しいと言える代物。コロナビールを片手にもち、並べられた大皿からバランスよく全ての料理を自分の皿にピックアップして、広めのリビングにあるソファーに掛けて、野球好きのおじさんと話す。ロサンゼルス・ドジャーズを愛して止まない彼は、日本から単身やってきたNOMOを絶賛し、同じ日本人であるというだけの僕に対して、同じくらいの敬意を払って話してくれる。当時はNOMOMANIAと言われる人まで出現してかなりのフィーバーぶりだった。ただでさえ辿々しい英語を用いて、何とか意志の疎通をはかっていた僕にアルコールが入るとお手上げ。テンションだけ最高潮だが、お互い言ってることの半分の理解しないで、それでも大方は二人で笑い合ったり、型破りな野茂のトルネード投法についてその利点と不利点を言い合った。
他にも貴婦人を思わせる2人の女性が、今日ばかりは大目に見ているのか、子供達を騒がせ放題にさせ、部屋の隅っこで、互いの距離を不自然な程寄せ合って真剣に何か話していた。僕と二、三度目が合うと、軽く微笑むだけでまた真剣な話へと突進していく。ジェネレーション的に子持ちのお母様方年代の話には寄れないし、ロビン達のおじさまにもついていけない。かといってジャイやロバート、大きめの男の子達は、駐車場にあるバスケットゴールでスリー・オン・スリーをしている。これにも寄れない僕はぽっかり空洞になっている年代で、本気で話せるのは、やっぱりドジャーズ命の例のおじさんだけだった。小さい子供を心から愛するタイプの人間に僕が生まれていれば、この場は最高だったのではないかと思ほどに騒がしく、元気で、ある種暴走してしまっている子供が5人、頻繁に激しい破壊音を響かせ遊んでいる。夜ともなれば街頭はおろか、隣の家まで相当の間隔を置いて建てられている裕福なこのエリアは、全員眠ってしまったのではないかと思わせるほど静かになる。暗くて、静か。当たり前のように10時を目前にしてパーティーは終わっていった。シャニーは機械にできるモノは全て機械にさせる主義らしく、食器洗いも乾燥も、そのうちテーブルをふくのも機械にさせるのではないかと思うほどに、全自動化だ。使った皿をジャイと二人で食器洗い機に並べ、スイッチオンで部屋に上がってゆく。ロバートは勝手にはしゃいで疲れた、疲れたと連発し、先に眠ると言って、さっさと上の部屋へ。ジャイのシャイさにとまどったのは昨日までで、大半が適当だが、僕は浮かんだ全ての事柄を英語化してジャイにぶつけた。律儀に一つ一つ答えてくれるジャイは、本当に優しい。急に僕のような日本人が家庭の中に入ってきて、彼の中で、どう接すればよいのかというとまどいが渦巻いているのだろう。その辺りは高校生、いくら国境を越えても、背格好が大人びていても、日本となんらかわらない。
一方のロバートは、元々この家族ではなく、ブラジルから養子としてやってきているので、他人の心の中に浸透する術を心得ている。ただただ、残念なのが、彼は現在思春期真っ最中の16歳。その前に出会いたかった。うち解け合うにはまだまだ時間が必要だ。その点で小さい子供を持つ家庭にステイしている人は楽だろう。本能のままに、興味のベクトルが示すままに、突如家族の一員となったモノに話しかけ、接してくるのだから。

翌日からスクールが始まった。この町にある小さな教会が僕らの教室で、毎週日曜日のミサ以外は公民館のように使われている。いわゆる多目的スペース。両親が働いている子供達が、グラマースクールが終わった後、ここへやってきて夕方まで過ごす。僕たちは彼らがやってくるまでの時間、ウィークデーの午前中にそこで簡単なレッスンをする。教えてくれるのは、隣町のハーモニーという所にアトリエを持つテレサという陶芸家。彼女自身もホストファミリーの一人だ。僕らはびっちりと英語を学ぶなんて目的で参加していないし、そんな日本人を受け入れる体制もこのプログラムにはない。アーティストであるテレサは時間的に他のホストファミリーより余裕があったのだろう、チップ程度の儲けで毎日レッスンをしてくれる。ボランティアと言っても過言ではない。英語はむしろホストファミリーとの必要な会話や、時には砕けた会話を繰り返すことによって吸収していくもので、例文に赤線を引いては頭にたたき込むものではないと信じている僕にはちょうど良い「時間つぶし」程度のレッスンだった。午前中その教会で日替わりの課題をこなしていく。そしてバスケットゴールのぶら下がったパーキングで、シャニーが作ってくれたサックランチを頬張る。サンドイッチとも違い、お弁当とも違う、アメリカ料理なんて存在しないこの国で、唯一オリジナリティのあるバーガー。とにかくパンを半分に切って、間に好き放題、野菜や肉や卵を挟む。それをゲータレードと共に食べる。うん、アメリカだ。それにしても、今思い出しても懐かしく笑えるのが、その簡易レッスンのある日の課題で、発音練習の日があり、「L」と「R」の違いを躍起になって練習していた。テレサの一人娘である、レイチェルに「Play」と「Pray」をランダムに会話に混ぜて、合格、不合格を判断してもらう。レイチェルは10歳。グリーンの物を身につけるという「セント・パトリック・デー」で学校が休みだった彼女は、シングル・マザーのテレサの“ボランティア”に付き添ってきたのだ。小学生の女の子には、「ほどほどにする」という、なんとも感覚と感情のバランスのとれた判断ができない。「ダメなモノはダメ!」の一本槍だ。挙げ句には熱願令諦の気持ちになる。また、サンタバーバラのミッションに行った翌日、レッスンではかつて入植してきた欧米人が、このアメリカという新たな国家を洗練させるため、ネイティブ・アメリカン達をキリスト教化しようと一所に集め欧米の生活、キリスト教的悦びや常識を教えようとした。そのことの是非をいつもより時間を費やし、楽しいサックランチの事も忘れ、グラマースクールを終えた子供達が窓から覗き込む時間までディスカッションしていた。僕の意見は一貫している。そんなものは是でも非でもない。一つの常識をそれとは異とする人に強制することは論外なのだ。世界中の誰ものが真っ赤なリンゴを「おいしそう」とは感じないのだ。ただリンゴは世界中どこでもいつかは木から落ちる。そのような普遍的なものではない、個人の考え方、感じ方を方向転換させるなど、言及するまでもなかったが、クラスの一人が強情にも、「今から考えると、ネイティブ・アメリカンがプリマティブから脱却する為には一時の強制は仕方がなかった」などと言い張るので、その客観的すぎ、そしてまるで正解を分かり切っているかのような意見に根本的に「反対」を呈していた。ライターで楽に火をつけることが正解で、火種を作るまでに何分も費やす事が不正解ではない。つまりは楽で早くて生産的な事象全てが大正解で、そこに早く近づけようなどという思い上がりの発想そのものに、言ってみれば僕は「不正解」をつけたい。入植者とネイティブ・アメリカンの関係には様々ある。「Go West」をスローガンに西へ西へ向かったかつての入植者達の途中には迫害や奪取があからさまに見える。今僕らが「歴史」として読み聞くその大まかな時間の流れの中には、想像を絶するほどの悲劇や残酷があったのだろう。その一片の中で生死をかけて懸命に生きた人達の事を大陸最西端のゴール地点、カリフォルニアで考えていた。

ある日、学校から帰ってきた僕にロバートが話しかけてきた。それまで、ジャイとはとぎれとぎれの会話はしていたが、ロバートはこれといって話したことがない。客観的に見て、ロバートがこの家の養子であることは、肌の色が違うことで分かるが、もっと明白に、この家族にはない明るい性格の持ち主だった。よく言えばノリがいい。まぁ一般的には調子乗りという所に落ち着くだろう。彼は彼女と、何人かの友達を引き連れ、今からジュニア・カレッジのバスケットボールを見に行くという。なぜか、僕はこの家庭に入り込んで以来、どうしようもないほどにスポーツ好きというキャラクターになっていた。趣味は?と聞かれて、I like to do anything sports.なんて、一番手っ取り早いのでそう答えたのが始まりらしい。かといって、スポーツは見るのも、するのもまんざらではない。もちろん僕もその試合を見に行くことにした。
近くの大きな町、サンルイス・オビスポに向かう国道を進み、途中にあるクエスタでその試合は行われる。メンバーはティムと、とてもおもしろいジュー、そしてロバートの彼女ともう一人別の女の子。途中でマクドナルドにより食事をとる。僕が何を注文するかジーッと注目する高校生達。このときにふと、僕以外が高校生なのだと気づいた。ふけるのも早いが、成長は日本人に比べて何倍もスピーディーで、女の子なんて自分より年上に見えてしょうがない。僕がマック・チキンとフライドポテト、コークを頼むと、よく分からない盛り上がりに沸いた。未だになぜみんなが笑い、僕にハイタッチまで求めてきたのか、不明である。
バスケットボールを実際見た経験はなく、ジュニア・カレッジの試合なんてどうせ大したことないだろうと思いこんでいた。だから入場料に三ドルとられた時は、無駄使いしたときに感じる特有の自責の念にとらわれた位だった。ところが、中にはいると、コートを囲むスタンド、四つ角にセッティングされたテレビカメラ、どうやら地元大学を応援する観客7割と、アウェイのチームの応援団3割と言った割合で、ほとんどいっぱいだった。アップの為にホームチームからコートに出てきて、軽くならしている間中、テンションが上がりっぱなしの観客は、スタンディングオベーションの如く最高レベルの声援を送る。一方、ビジターのチームに対しては、とても冷たく、正しく甲子園球場における阪神ファンの法則だ。試合が始まる。野球とは違い、サッカーよりもスピード感のある種目なので、攻撃と守備が間髪おかず入れ替わる。見ている者に息をつかせない、完全な好ゲームだった。ダンク・シュート、3ポイントシュート。僕はバスケットボールど素人なので細かいドリブルの技や、守備のフォーメーション、玄人泣かせの妙技には気づかないが、盛り上がる観客と、シューズのこすれる音、ボールがゴールネットに吸い込まれる音などに包まれた空間の中に、実際いることに身震いがした。目の前で行われている真剣勝負に負けないくらいに真剣に声援を送る観客は、アメリカスポーツ文化を支えるプロの観客と言っても言い過ぎではない。同じ時間と空間をシェアしている僕は、完全にゲームの虜となり、わめいたり、拍手したり、我を忘れて飛び跳ねたりしていた。ロバートの彼女は僕の横に座り、顔を最大限に伸ばして、「おー」と感嘆した後、早口で僕に「信じられない、あれは・・・。」と理解不明な会話をしてくれる。本当に英語を話しているのかと疑う程である。僕のテンションも同じ気持ちなので、「イェ〜ッス」と手と手を取り合い、ホームチームの声援を楽しんだ。アメリカ人の彼女がこんなに興奮していると言うことは、そうとうに好ゲームなのだろう。楽しむことと楽しませることに置いて、ここアメリカの文化の成長率は凄まじい。平均年齢19歳の選手がその能力を最大限に出し合い、狭いコート、いや高身長のために余計狭く感じるコートを行ったり来たりしている。楽しかった。ほんとうに楽しかった。午後9時半に試合が終わり、また、ロバートが運転する車で帰宅する。彼は、彼女の家の前で抱き合ってさよならしてた。ティムとジューは「kissしろよ」と冷やかす。ジューはロビン家までの途中で、「正吾見てろよ。」と言って、車から降り簡易の公衆トイレを押し倒し、大急ぎで逃げて帰ってきた。悪ガキ高校生には、たまらないほどに楽しいいたずらなのだろう。その場にいた僕も楽しかったのだが。
帰宅した後、ロバートにお休みを言ってからいつもの様に部屋に直結したベランダでタバコを吸っていると、ここでの生活がとても心地よいものになりつつあることに気づき、なんとも言えない気持ちの高揚と笑顔が漏れた。

毎日のスクールが始まる前とピックアップの時に、小型の車からいつも苦しそうに大きな体を押し出し降りてきては、小さな僕を抱きしめ、まるで何かを絞り出すかのように少し左右に揺らしてから、「おはよう」なり「また、明日」と挨拶をする女性がいた。名前はラケル。日本から一緒に来たけい子のホストマザーだ。夫のオーギーはテレサのアトリエもあるハーモニーで小さなワイナリーを経営している。ラケルの大きさとぴったり来る男性を捜せばオーギーに当たった、と強く印象付けさせる程にどちらにも圧倒的な存在感がある。そんな二人の愛車が小型の日本車だから“乗り降りに不便な車”という感を抱かせてならない。ラケルは、僕たちのいるカンブリアから少し離れたサン・シミオンという町に住んでいる。プライベートビーチではないが、海に面して全面の窓があり、ムーン・ストーンビーチからなだらかに続く海岸線に、でっかい夕日が沈む光景は、正しく絶景と言える。一度ラケルの家に招待してもらった。ベランダからビーチまで歩いて1分もかからない。人気のない夕暮れの砂浜で、遙か太平洋を望み、タバコの一本でも吸えばさまになるのは、果てしない自然の美を感じる。風は乾燥していて、涼しいくらいの季節。春はまだかと顔を出す植物も、注意してみれば数え切れないほどあったに違いない。ラケルとオーギーに子供はなく、けい子が言わば初めて持つ子供と言うことになる。それだけに双方ともに「一緒に住む中で生じるきしみ」が日に日に強くなり、滞在も三週間を越えた辺りから、けい子の“ギブアップ宣言”が飛び出すこともあった。僕には全然感じない。ラケルはいい人という印象しかない。しかし、いい人と思われているロビンも、日によっては疑いたくなるほど無愛想だったり、知らず知らずのうちに、どちらかがもう一方の越してはならない一線を踏み越して、ギスギスしたりというのは、同じ屋根の下で違う国の者同士が1ヶ月暮らしてみると必然的に出て来るものだ。それをどう受け止め消化するかが一種の順応性だと思うが、気を使って前に進めないけい子には少々やっかいな問題だったのかもしれない。僕がラケルの家を訪問したのは、その「きしみ」が出始めていた頃なのかもしれないが、二人とも全くそんな素振りは見せなかった。ただただ、ゲストとして僕を完全歓迎してくれていた。
さて、その日の夕食。ラケルの中にある標準サイズのメニューは、ちゃんこ鍋さながら、“食うことも仕事”を合い言葉にどんどん流し込んでいる幕下力士御用達と言ったところだった。味は美味しい。美味しくなければ、人間の必要カロリーを越えてまで食べ続け、どんどん太りはしないだろう。それには、そうなるだけの「アジ」があるのだ。チーズで巻いたチキンを、ピザソース仕立てにしてオーブンで焼いた物や、サラダバーを思わせるほどの大量サラダボール、太めのパスタも当然の如く濃いめの味付けで出された。笑い声の大きなラケルは、食べてるときが至福の時なのだろう、輪をかけて笑い、音量も増す。最後に、「デザートは最高よ」とウィンクする勢いで僕を見つめ、出てきたのはハーゲンダッツのバニラアイス。二人分を一人分としてグラスにとり、その上に適量の赤ワインをかける。これは絶品だった。甘いバニラと渋みのある赤ワインが奥の方で絡み合ったかと思うと、喉を通って冷たくなる。少し酔いが回り、火照った体には心地よく、そのままベランダに出て絵に描いたような満天星を眺めた。ロマンチックだった。ラケルの大好きなバニラアイスとオーギーの愛する赤ワインの組み合わせは、二人の仲を象徴する爽快な組み合わせのように思う。星を眺めてけい子が星座の名前を次々に指さしては教えてくれた。英語だから余計に、日本語ですら星座名など数えるほどしか知らな僕にはちんぷんかんぷんで、「まぁ、とにかく綺麗だからいいや」と聞いてる振りをしながら空を見上げていた。
ロビンにピックアップをしてもらい、家に戻る。いくつもある丘の一つの頂に、ハースト・キャッスルが星空の下、そびえ立っていた。その昔、カリフォルニア中を席巻していた新聞王ハーストは、そのつかみ取った財力の全てをかけて大邸宅を造った。「キャッスル」とまで称されるその邸宅に、中世の王かと、苦笑いも混じる。そうは言うものの、観光資源の乏しいカンブリア生活の中で、当然の如く、このハースト・キャッスルには行った。ある日のスクールが終わり、何人かのファミリーと一緒に(A)(B)、(C)と三コース用意された観光コースの中から、初心者用の(A)コース選び、それに沿って、邸宅の隅々まで見学しては、「はぁ」「へぇ」と感嘆していたのだった。アメリカン・ドリームは、その機会が平等であり、かつその成功者の半端ではない結果を目の当たりにすることができるから気持ちがよい。帰りの車で意気揚々とロビンに、「バニラアイスにワインをかけると美味しいよ」と話している僕に、「はぁ」「へぇ」と答えてくれるロビンが僕は大好きだった。

この滞在期間を通して、ロビンと一番長く一緒にいたのは、彼のお姉さんの住むモントレーという街までドライブしたときだと思う。逆に言えば、それほどに家の中で顔を合わせる機会は少なかった。強いて時間を作らなければ、なかなかゆっくり話す機会がない。それは「帯に短し」でもなければ「たすきに長し」でもなく、中途半端な長さというよりはむしろ、丁度良い「長さ」だったと今になれば思う。モントレーという街は漁村で、有名なものと言えば水族館くらいだが、カンブリアに比べれば断然都会だ。カンブリアからルート1を太平洋沿いに北上する。地図を広げてだいたいの距離を測ると直線距離で120q。カンブリアとサンフランシスコを直線で結び、その中心点に当たる場所がモントレーだ。近くにはクリント・イーストウッドの家もあるカーメルという高級住宅街が広がる。片道三時間のそのドライブは飽くことを許さない絶景が広がる。海沿いを走るという経験がなかったわけではないが、そこはアメリカという広大な大陸の海岸線。どこまでも海に面して緩やかに、右へ左へと車を揺らせながら、窓から出した腕と顔に太陽を浴びる。時には感情を意味不明な言葉に変えて叫んだりもした。崖に面した細い道が多いせいで、運転手のロビンが僕ほど暢気にその絶景を楽しんでいるはずはなかったので、悪い気はしたが、そんな気持ちをいとも簡単に払いのけるパワーがある。太陽の光が大量にそそぎ込まれ、全てを包み込むようにキラキラと照り返す母なる太平洋。光が色を持ち、どこか透明感のある音さえも感じさせる。
このルート1は国内有数のドライブコース。僕たちを追い越していく若者の車からも、奇声が聞こえる。18歳の息子をもつロビンに三時間ぶっ通しのドライブは不可能なので、途中でランチタイムをとる。断崖絶壁に「わざわざ」作ったというレストランで、メニューは普通だが最前列のテーブルは宙に浮いている。板の隙間から吹き上げる風を感じながら、大パノラマの景色をいっぱい吸い込んで軽めの食事をとった。「ここからは立入禁止、危険!」なんて看板があってもおかしくない設計だが、こぞって最前列のテーブルを狙う。店内に空席があっても最前列席を待つ人達が列を作っていた。食後のコーヒーをのんびり飲んでいる婦人達に、席を譲る気配はない。
レストランからの道は海沿いを離れ、内に入る。4つも5つも斜線を持つハイウェイだ。よせばいいのにロビンは最速斜線を突っ走る。ほとほと運転に疲れて、いち早くたどり着きたいのか、スピード狂のどちらかだ。幸い安定感のある車で、シートベルトだけに自分の命を預ける等という冷や冷やはなかった。
お姉さんとの約束の時間まで、4、5時間ある昼過ぎにモントレーについた。水族館に行ったり、マーケットにいったり。ローラーブレードを履いて、ホットドックを右手に持ち、信号待ちをしている大学生らしき女性を見た。アメリカ人のイメージにぴったり過ぎて、なんだか笑える。たいがいの店先にはラジカセが置かれ、隣の店と相容れない類の音楽でもお構いなしにかけている。赤い風船の紐を握りしめる子供や、短パンで歩く人々、ピンクや黄緑色でレイアウトされた店などが創り出す光景を見ていると、ふと「ソフトクリームの似合う街だな」と思った。初夏、晴天、人混み、それに汗が混じってできる空間にはソフトクリームが付き物のような気がしてならない。中古レコード屋でマイケル・ジャクソンの「ベンのテーマ」という懐メロを買った。
夕方6時。約束通りお姉さん宅を訪ねる。息子のカリックは高校生。なんと日本語を専攻している。家には衛星放送からNHKが流れ、日本びいきというか、今どき?と思わせる古き良きセンスや掛け軸が、「わび・さび」抜きに飾られていた。あるヨーロッパ人芸術家が日本庭園に憧れ、立派な「わび・さび」の世界を作りだしたかと思うと、仕上げの段階で庭のど真ん中に「噴水」をつけてしまったというのをどこかで聞いたが、この家のレイアウトにはそれを思い出させるものがあった。教育ママが全面からオーラのようにあふれ出たロビンのお姉さんは、カリックのしつけも厳しい。部屋から連れ出し、わざわざ僕に挨拶をさせ、ディナーの準備の手伝いをさせる。僕は一応英語でロビンともお姉さんとも、そのご主人とも、もちろんカリックとも話しているのだが、カリックはなぜか日本語で僕に挑戦している。参る。「たくさんですか?」と唐突に聞かれると、パーフェクトに日本語を使いこなす僕でも「パードゥン?」と聞き直さずにはいられない。どこからどうなったのか、「日本ではたくさん車が走っているか?」という事らしい。僕は、デザートとして出されたチョコレート・フォンドゥに夢中で、どうしてもうまくつかめない切りバナナと格闘していたので、それまで行われていた会話を全く聞いていなかったのだ。聞き直されたことに相当のショックを受けたのか、それ以後、カリックの日本語は聞いていない。このチョコレート・フォンドゥもまた、絶品だった。バナナはオーソドックスだが、イチゴ、キウイ、ブドウ、オレンジと何でもありだ。でもやっぱりバナナが一番。細長い棒をさして、鍋の中に溶けているチョコレートをドロッとつけ、2,3回グルグル回転させて、たれているチョコレートを巻いてから、一気に口に運ぶ。デザート前に出された大量の食事に、満腹だったが、なぜかどんどん口に運べた。「デザートは入るところが別」という論理、実感した瞬間だった。
お姉さんの強烈なキャラクターが炸裂し、一種自己満足に近い程、しゃべりまくると、あっけにとられるほど唐突にディナーは終わった。どこか物静かで優しいロビンの性格は、このお姉さんの下で育ってきたからゆえに形成されたのだろうと勝手に思いこんで、楽しかったディナーに礼を言って別れた。
帰りも同じく三時間の道のり。時間は9時を回り10時に近づいていた。このまま帰ると日をまたぐことは必至だった。申し訳ないとは承知の上、助手席で熟睡してしまった。

日本帰国を控えた最後の土曜日、シャニーがガーデニング用の肥料と土をサンタ・マリアまで買いに行くといって、僕を誘ってくれた。そこには大きなフォール・セールの雑貨店がある。少し足を延ばせばアウトレット・モールもあるので、前々からジーンズが欲しいと言っていた僕を、丁度良い機会だと思って声をかけてくれたのだろう。
シャニーの趣味はガーデニング。彼女が造る庭は、タバコを吸いながら毎日、朝、晩と2回は必ず眺めていた。タバコを吸いながら眺める景色は、頭の中に浮かぶやっかいな悩みや、不安や、ホームシックと言うよりはむしろネイション・シックとでも呼ぶべき寂しい気持ちなど、諸々を何事もなかったかのように空白にしてくれる。そんな景色が滞在中の僕にとってはシャニーの庭だった。間借りしていたジャイの部屋に直結したベランダで、朝、晩はまだ冷える季節、片手をポケットに入れ、両肩を狭め、時にはまだ夢うつつな朝だったり、いろんな事がいっぺんに起こって、整理がつかなくなった夜だったり、僕はタバコを吸いながらじっと眺めていた。その庭には、木を拾い集めてきて造ったというベンチがある。横には、カリフォルニア特産のオレンジ色の花が咲く。見たこともないような虫が、大きな羽音を響かせ飛び回る。乾いた朝に強い日差しが射し、真っ暗な夜には満天の星がほのかに照らし出す。
そんな整然とした庭に、ある種異様にロビンご愛用のホット・バスが、隅に追いやられるかの様に置かれている。家庭用プールの倍ほどはあり、水を常時ためておいて、入る前に電気で暖める仕組みだ。よく夜中に、仕事帰りのロビンが一人で入っているのを見た。ホームステイ初日、彼は日本人の僕にはもってこいだと思い、自分の名前を紹介するより先に、このホットバスの事を紹介してくれたほどに気に入っている。しかし当の僕にとっては、水着をはいて、泳ぐでもなくただお湯につかり、何分かしたら出てくるという作業は、「わざわざする」というものにほかならない。そもそも何もせず、ただつかるだけの温泉があまり好きではないのだ。温泉どころか家で湯船につかることさえ希である。星空の下、両足をいっぱいに伸ばして浅めの温水につかると気持ちいいかもしれないと言う、良いイメージはあったものの、やはり「わざわざ」入ることは最後までなかった。ちなみにシャニーはそのホットバスのことを「it」とか「that」としか呼ばなかった。
毎朝シャニーは庭の水やりをする。ホースの長さが充分でないため、隅々まで水をまくには、蛇口を絞りきって勢いのある放水が必要になる。ホースからはスプリンクラーのような大きな音がでるので、毎朝僕はその音で目を覚ましていたくらいだ。この日も、そんなシャニーが朝の水やりを終え、唐突にサンタ・マリアへの買い出しを決めたのだろう。寝ぼけ眼のままベランダにいた僕を誘った。リビングではちょうどジャイが、学園祭で演じることが決まったという「ラ・ミゼラブル」のビデオを予習を兼ねて見ている。彼も誘おうと思って近づいたが寝ていた。アクション映画が大好きな彼には、文芸の薫り高き名作も、ただ気だるく、熟睡を促す以外のパワーはないのだろうか。うっすら起きて、ガラガラ声のまま僕の誘いに、「気をつけて行ってらっしゃい」と言ったっきり、また眠りに就いた。そこへ袋を3つ抱えたロビンが帰宅。毎週土曜日には朝市がどこかで開かれているらしく、早起きして買い出しに行っていたんだろう。朝が苦手な僕に、朝市のお誘いは一度もなかった。リビングでジャイを誘っている間に、駐車場でシャニーと話はすんでいたのか、「行くぞ、正吾」と言ってロビンも一緒に車に乗り込んだ。
サンタ・マリアのフォールセールは、日本で言うホームセンターのような所で、規模は、敷地面積も品揃えも日本の三倍位だった。ここぞとばかりにシャニーは買う。何に使うのか、そもそも一体それがなんなのかも分からないものをどんどん購入していく。大きな店内をグルグルと買い物カーを押し、軽く悩んで一気に買い続けた。そんな彼女を止めたのは、「もう、車に乗らないよ」と頼りなく言ったロビンの一言だった。もし彼女がダンプカーか何かでこの店に乗り込んでいたら、おそらく閉店まで買い続けただろう。僕は「フィールド・オブ・ドリームス」のビデオを買った。何度も繰り返し見たこの映画なら、字幕がなくても大丈夫という目測からだ。シャニーを見ているとつられて買ってしまったというのが本音である。うつるのは風邪とあくびだけではない。レジの前で、シャニーが僕のビデオをスッととり、一杯になったカゴに放り込んだ。財布を片手に、「サンキュー」と礼を言う。考えてみたらこの滞在で僕が使ったお金などほとんどない。お世話になりっぱなしだ。
そこからさらに南下してアウトレットモールに行く。リーバイスをはじめ、ナイキ、ロンドン・フォッグ、アメリカン・ツーリスター等が店舗を構える。総称ピズモ・アウトレットセンター。日本ではまだ、アウトレットが一般化する前だったので、アウトレットは欠落品という印象が濃かった。ジーンズを選ぶ僕は、それが欠落品たる所以を必至で探し、その損傷が受け入れられ得る程度の物だけをカゴに入れた。シャニーは下着を見ると行って犬のロゴが目印のブランドへ行ったっきり、なかなか戻ってこない。僕の買い物が一通りすんだので、シャニーを待ちながらロビンと二人、色気なくアイスクリームを食べていた。買い物に大満足したのか、笑顔の耐えないシャニーは、帰りの車の中でポップソングを口ずさんでいた。正直、シャニーは厳しい人である。もちろん、このポップソングを口ずさんでいる彼女ではなく、子育てをしている「普段」の彼女である。アジアの血がアメリカにブレンドされても根本は変わっておらず、孔子曰くの如く、ジャイやロバートにはキリッとしたにらみで、人生の方向修正をしている。具体的に「どこが」というわけはないが、しかしはっきりとアジア的教育方針を感じさせるのである。動物のカンと言うべき奥深い所にある「本能」で、僕は滞在中シャニーの厳しさを感じ、彼女から言われた約束事は完璧に守った。タバコの吸う場所、毎朝のベットメイキング、バスルームの掃除と。ジャイもロバートもそんな「本能」を活かしていた。そんなシャニーだからこそ、帰りの車でウキウキだったのが印象深い。
夕方は、ジャイとロバートが通う高校で、ハーフシーズンのクラブ活動を締める表彰式があった。高校の体育館には生徒と親が半々の割合で、ソフトドリンクを片手に校長先生の挨拶を聞いている。「ここは気に入ったか?」とおばさんに声をかけられた。「はい、大好きです、ここが」と答えたが、最初に「はじめまして」と言ってからだったので、「あら、一度会ったじゃない、グランドで。試合の時」と眉を細める。そういえば、初日、ロバートの試合を見に来ていたおばさんだった。ふと周りを見ると、僕に話しかけてくれた何人かはみんな会ったことのある人ばかりだった。高校生がいる家にホームステイしていた日本人は僕だけで、そもそもこの町に日本人はそういない。周りの人にとっては、僕一人を外国人として迎えているが、周り全てが外国人の僕には、映画の登場人物の名前を全て覚えるほどに難しい。名前はおろか、顔さえも全く頭に残っていなかった。みんなやけに優しい眼差しだと感動していたのに、種を明かされるとその必然性にがっかりさえする。
家に帰り、いつものようにシャワーを浴びてベランダでタバコを吸う、庭を眺めながら。残りも少なくなってきた滞在に、どこか寂しいと感じる。遠い町の静かな日々にどっぷり浸かっている自分に気づいた。

「Robin's」で結婚式をするというので、その手伝いに行った。日曜日なのに早起きして、「今日は結婚式だから、早く準備して」と出し抜けに言われ、ぽかんと“誰が?”と疑問を抱いている僕をせかすように、珍しく家族全員でレストランに向かう。「Robin's」は決して広くはないが、狭くもない。日本でいう定食屋以上ファミレス未満の規模。使い込んだ深い色の木製テーブルと椅子が店内に並び、古い邸宅を買い取って改造したというだけに、暖炉もあるし、巨大な本棚もそのまま残っている。本棚には極東アジアの古美術が得意げにディスプレイされている。無機質にボックス化されたスペースではなく、大小様々な部屋(スペース)に区切られ、それぞれに違う装飾がなされているので、どこか暖かさを感じる。京都の古い町屋を改造したカフェが、立ち並んでいる西陣を歩いていると、ふと「Robin's」を思い出す。両者にも重みと温もりがあるのだろう。
そこは一体何料理屋か、と聞かれればメキシカン・レストランということになるだろう。事実、メキシコ系アメリカ人のロビンは十八番のメキシコ料理のメニューをふんだんに取り入れている。が、何もそれだけに特化してはいない。英語でかかれたメニューを見るだけでは、それがどの国の料理か判明できるほど“グルメ”ではないのだが、ピザもあるし、サンドイッチもある。ただし味付けが全体的にスパイシーでエスニックを感じさせる。曰く、無国籍料理と呼ぶ類ではないだろうか。料理を作る事自体が楽しくてしょうがないのか、ロビンはよく夕食を半日がかりで作ってくれたりする。ちょうど日本の「鉄板焼き」に注目していたらしく、英語で書かれた鉄板焼きの料理本を見ては、何度か作ってくれた。その本を調理中のロビンを横目にペラペラと見たが、レシピらしき「数字」はなく、味や材料、簡単なそのメニューのコメントが添えられているだけで、ページの半分以上は写真だった。豚肉とモヤシを甘辛に焼いた料理を熟視してから調理に取りかかったロビンには、その「豚肉とモヤシ炒め」が甘辛という、日本人の僕にぴったりくる味覚ではなく、彼が今までに経験した中からはじき出された、似通った料理のイメージで凝り固まっている。できあがったメニューは、「豚肉とモヤシ炒め」を熟知している僕には首を傾げたくなる一品だった。第一、モヤシではなくキャベツを使っている。豚骨ラーメンでスープに豚骨が入っていない程の欠落。もちろん「ベリー・グー」と感想は述べた物の、その評価とはかけ離れていた。言ってみれば、パスタを初めて写真で見た日本人が、うどんを使って作った一品の様な感じだ。日本に来たことがなく、京都さえも知らない程非日本通のロビンが、なぜ「鉄板焼き」にひかれたのか分からないが、一度本物を口にしてみる必要がある。寿司をサラダロールに変身させて大成功したロサンゼルスの寿司職人のように、鉄板焼きをアメリカナイズした別物に仕上げ、大流行させるつもりなのかもしれない。そのサクセスストーリーの序盤で、試食したと考えれば、気持ちも楽になる。考えてみればそんな風に家族に何度も試食させ、評判の良い物をレストランのメニューに加えたということが少なからずあるのだろうと、このとき僕は察知した。一口その豚肉とモヤシ炒めを食べてから、ロビンに「っで、今日の夕食は?」と聞いたらムッとされた。

まず、シャニーに店内のテーブルを全て外に出すよう言われた。一つ、駐車場に運んで、また店内に戻って、次を運ぶ。繰り返すこと十数回。力仕事とまでは言えないが、蓄積疲労からすれば、そう呼んでも相違ないだろう。いくつかの大きなテーブルはそのままにして、店内には椅子だけになった。ふと気づくと作業はジャイと僕だけでやっている。一緒に頼まれたロバートは、何食わぬ顔で調理場に行き、アルバイト仲間と話している。ジャイもロバートも週末はこのレストランでウェイターのアルバイトをして、お小遣いに味を添えている。まったく、彼の逃げ足には感心だ。終わりかけで作業に加わわって、「疲れた」という表情をするところもニクイ。テーブルを出し終わると、椅子を並べる。どうやら、レストランを貸し切ってささやかな披露宴をするカップルが、この日レストランを貸し切ったらしく、列席者は二十数人にのぼるという。言ってみれば小規模な「ジミ婚」だが、大型ホテルではなく、完全手作りの披露宴だけに作業量は多い。ここにきて、ようやく事情がのめた。我ながら遅い。正装したシャニーが従業員に今日の進行をてきぱきと説明し、ロビンは調理場で何かをオーブンに入れている。日曜出勤した従業員、アルバイトは十人弱。雑用係として僕も数に入っており、今日の進行を聞く従業員に紛れて隅っこに立っていた。
ポツポツ列席者が来店し始めたので、カットレモンを入れたミネラルウォーターを出す。来る人、来る人みんな正装だ。ジーパンにTシャツ姿で「グッモーニング」と挨拶する外国人を彼らはどう見ているのだろうか。そこは多民族国家アメリカの田舎町、僕が受けた印象は、そう不思議でもないようだった。これが日本の田舎町だと違った反応になったのかもしれない。僕たちがテーブルを出してる間に店の雰囲気もかなり変わっていた。元々夜になればキャンドルの明かりだけで、ほのかに照らし出される雰囲気の店内だが、昼間にも関わらず、ほのかに薄暗い。カーテンを締め切ったのだろうか。新郎・新婦をまるで異空間にいるように、ライトアップで浮かび上がらせる演出をするつもりかもしれない。そろそろパーティーが始まるので、僕はバートン・ストリートにある古本屋で時間をつぶすことにした。一緒に列席するかといわれたが、予想を遙かに超えるほど、ジーパンとTシャツの僕は周りから浮いていたので、遠慮しておいた。
バートンストリートの丁度真ん中あたりにある古本屋に入った。そこには椅子があり、小さな棚の小さな一角から日本語の本をとって読んだ。異国で同郷人がページをめくっただろう本は、なんとも言えない程安心させられる。が、内容は全く覚えていない。本を読むより、その古本屋の店主を観察するほうに意識が向かう。なかなか忙しそうだった。本に値札のシールを貼ったり、レジをいじったり、常連客と何分も油を売ったり。店内に僕だけが残ると、店主のおじさんは話しかけてきた。どこから来たか?ここで何をしているのか?いくつか?ガールフレンドはいるのか?と。そういった「おきまりの問い」に対しては、何度も繰り返し答えてきたので、まるでネイティブの如く話せる。「英語がうまいね」と言われると、暗記したセリフの様になっているにも関わらず、やっぱり気持ちがいい。「こいつは話せるな」とにらんだ店主は上機嫌で質問をかぶせてくる。手に負えないほど質問が複雑になったので、僕は店を出た。
レストランに帰ると、店内に残しておいた大きなテーブルに料理を並べ、立食形式の食事が行われていた。列席者の大半にアルコールが回り、リラックスした雰囲気だったが、余計そこから輪に入っていくことは困難に思えたので、調理場に回って、ロビンに「何か手伝おうか?」と聞くと、間髪入れず野菜切りを命じられた。忙しそうだった。赤いボールから一つずつとって、半分に切り、横の白いボールに入れていく。単純作業だ。包丁を持ったこともろくにない僕でも、一つの物を半分に切るくらいはできる。しかもかなり手際よく。日本人ゆえの器用さをアピールできたかも知れない。三十分くらいそれをしてから、地下にある事務所に行って、三人はゆうに座れる大きめのソファーに寝ころんだ。「ラ・ミゼラブル」を見るまでもなく、ソファーに寝ころぶと、うとうとと寝入ってしまった。シャニーが「テーブルを元に戻すから手伝って。」と起こしにきて、はっと、我に戻り、せっせと今朝出したテーブルを店内に運んだ。おそらくは一番盛り上がったクライマックスを見ることなく、最初と最後の雑用だけ経験した、外国の小さな町の小さな結婚式だった。

結婚式がすんだ後、片づけもそこそこにロビンはどこかに出かけ、ロバートが僕を家まで送ってくれた。この夜、ロビンが僕に内緒でカラオケパーティーを開こうとしてくれていたことに全く気づかずにいた。ロビンはいつも「彼は映画が好きだ。スポーツが好きだ。」と僕の紹介に付け加えていた。考えてみれば、それほど両方とも大好きでは無いのだが、このプログラムに参加する前、自己紹介フォーマットを埋める材料としてひらめきにまかせて“趣味:映画鑑賞、カラオケ、スポーツ”とペンを走らせたに過ぎない。それなのに、資料を重視するロビンは、週末ともなれば映画館を持たないカンブリアを離れ、サン・ルイス・オビスポという少し大きな街の映画館に連れていってくれたり、ジャイ達の高校にある無料解放されたテニスコートで、混み合わない早朝を狙ってテニスをしたりと、僕の退屈をおそれるかのように、次々に誘い出してくれた。毎週木曜日にサン・ルイス・オビスポで開かれるファーマーズ・マーケットに遊びに行った時、地理を大方把握していた僕は、「方向感覚に鋭い奴」という称号を得ることができた。屋台が両サイドに立ち並び、バーベキューやレコード、Tシャツなどを売る。道幅の広いストリートが歩行者天国となり、真ん中をリンゴ飴感覚でポークチョップ片手に人混みを進む。お祭り騒ぎのマーケットを毎週やってる街なのだ。それでこそ「アメリカ」だと、僕は勝手に感動していた。そんな資料重視のロビンから僕への最後のビックプレゼントがカラオケ・パーティーだった。カラオケは世界共通語となり得る程に普及していると、日本のテレビは騒ぎ立てている。そんなイメージからかなり差し引いても、確かに大都市には、インド人経営のカレー屋が日本の大都市にも存在するのと同じ割合であると言っていい。しかし、ここはカンブリア。田舎の小さな町だ。住民のほとんどがカラオケなどした経験を持たない。ロビンは「カリフォルニア・カラオケ」という出張カラオケサービスを依頼し、町の図書館に隣接する多目的スペースを借り切り、この夜クラス全員の家族と、そして、それぞれの友人を招待した。ジャイもロバートも友達を誘っていた。カラオケとはどういうものなのか、聞いたことはあるが見たこともやったこともないという人達、総勢30人は優に越える。みんな最初は行儀良く、並べられた椅子に腰掛け、MCのナンシーがド派手な衣装で「さぁ、行くよ」とテンション上昇作業に四苦八苦しながらパーティーは始まった。日本でもこのようなサービスがあるのか無いのかは定かではないが、カラオケ店が乱立している昨今、考えにくい。この「カリフォルニア・カラオケ」という会社は、主に高校や大学のダンスパーティに色を添えるモノとしてよく利用されているらしい。ナンシーから聞いた話では、「たいがいはみんなシャイで歌わないのよ」と漏らしていた。そこは、カラオケ全盛期を中学・高校生として生きた僕たち。数少ない日本語の歌を一巡目で歌い尽くし、「SUKIYAKI」ソングやビートルズなどかろうじて英語でも歌える曲を選び日本人とMCナンシーのテンションはあがる。同時にアルコールも入る。そんな盛り上がりに黙っちゃいられないアメリカ人DNAが爆発するのは、パーティー開始後1時間となかった。ビデオ撮影に全力を傾けるロビン始め数名のファミリー以外は、シンディーにスティービーにと、さながら懐メロ対決でもするかのように徐々に歌い出す。ロバートは「古い歌ばかりだ・・・」と漏らす。考えれば分かる、日本でも若者がカラオケに熱唱する前、演歌全集のハチトラなんて言うモノをスナックとか言う場所でおじさまが熱唱していた。まだアメリカではあの時代と同じなのだろう。でもロバートは必至に本をめくっては歌えそうなのを探す。自分だけ黙っているのは性に合わない。やっと選びマイクスタンドの前にたった。何を考えたのか、マライヤ・キャリーなどを選択してしまっている。案の定、テンションだけがマライヤの「エモーションズ」は大半が空の桶になり、音楽だけが流れていた。ジーニー、キャロルといった他のファミリーが70年代を思わせるダンスで狂騒し出す。そんな暖まった部屋の中で、僕たちも踊った。そう、踊ったという表現がぴったり来るほどに、昔懐かしいパーティーだ。毎週水曜日に「コーラス」を習いに行っているロビンは、僕の知らない美しい曲を半目を閉じながら熱唱する。踊り狂うリズミカルな曲と曲の間で、ロビンの聖なる歌声があくびを誘う。小さな子供達も歌っていた。ふと、日本のように、子供の歌、若者のポップス、おやじの演歌という枠組みがアメリカには存在しないことに改めて感心する。50代の女性が歌う歌も、7歳の子供が歌う歌も、16歳のロバートが歌う歌もみんなポップスなのだ。もちろん、当時のビルボードトップ10に並ぶような曲がないことは分かっているが、ジェネレーション別に退屈する事がほとんどないのは、どこか新鮮な驚きであった。結局4時間ほど狂騒は続いた。心の底から楽しかったと言える。テンションの収まりきらないジーニー始め何人かの奥様方は「またやりましょうよ」とはまりだしている様子だった。家に帰ってから状況の読めた僕はロビンに感謝を述べた。提案者と実際に諸々の準備や予約をしてくれたのはロビンで、今回の費用は全家族での折半らしい。その折半分は僕が払うといったけど、「プレゼントだよ」と言ってくれた。家族によっては、このような考え方はない。前に三家族合同で寿司屋に出かけたことがある。「いくら」を食わず嫌いする外国人を後目に、僕は一人でいくらばかり注文していた。その会計の時、合計金額を3で割って、その折半分をまた家族とそこにステイしている日本人で割って支払いをする。その家族にとってはそうするのが当然なのだ。ロビンは違う。いつも僕からお金は取らない。ボランティアでステイさせた僕の一切合切を引き受けている。ただ感謝するだけでいいのだろうか。今から考えると、最も問題なのは、そんな状況を当たり前だと受け取ってしまいそうになっているこの時の僕にあった。どこかで僕は払わなくても良いという気持ちが芽生えてしまっていた。自分一人で外国人の家族に入り込み、自立を目指した今回のステイは、この部分において成功したとは言えない。まるで、外国人家庭の雰囲気を味わいに、その家族の子供になりに行っただけのような気がする。ともあれ、今回のカラオケ代も結局払わず仕舞いだった。シャニーは、家に帰ってすぐ、今日のビデオを再生しだした。ロバートもジャイもソファーに座り、見る。んっ、家族5人が一つの部屋にいたことは、このときが最初で最後だったような気がする。みんな僕の「SUKIYAKI」ソングを誉めてくれた。1コーラスは英語で歌ったが、2番からは日本語で「上を向いて、歩こう、涙がこぼれないように、泣きながら、歩く、ひとりぼっちの夜」と熱唱している。シャニーは言う、「やっぱりジャパニーズで歌ってる時の方が上手ね」と。これは間違いなく英語の箇所がダメなことを裏付けているのだ。複雑な気持ちのまま「サンキュー」という。ビデオ上演会が1時間ほど続き、最後みんなで熱唱した「imagine」を聞くと、眠りに誘われて床に就いた。残すところ、後3日。この家族と別れる。
翌日のスクールからは、レッスンはなく、さよならパーティーの準備の相談にかかった。このパーティーは僕たち日本人が今までのお礼を込めて、企画から出資も全て自分たちでやる。テレサには悪いが教室から出てもらい、みんなで案を出し合った。異国で共通語を話すのはこの1ヶ月間、ここにいる僕たち生徒しかいなかった。信じられないスピードでお互い頼り合い、信頼し合うようになっていた。そうゆうものなのだ。日本食を立食形式で出し、それぞれが得意パフォーマンスを10分ずつやるということでプログラムは決まった。日本食を作るための材料を車で20分ほどの「ジャイアント・フード」というスーパーに買い出しに行く。女の子の何人かは日本から醤油等を持ってきていたが、それも滞在初期に自分たちの家族に作ってあげたのでもう残っていないという。僕は「書道セット」を持ち込んで、ロビン達と一緒にやったが、それはそれは、好奇心も興味も微塵も感じさせないほど、お寒いモノとなった苦い経験がある。この話を聞いて思い出した。今になれば笑い話だが、その時の僕は、本当につらかった。
スーパーまではテレサの車で送ってもらうことにした。13人の生徒を何グループかに分け、天ぷら、巻き寿司、お好み焼き・焼きそば等それぞれが作ることにした。僕はお好み焼き班。この時期イースター休みで「Robin's」は大忙しだったので、ロビンもシャニーもほとんど夜中まで店で働いている。僕の家のキッチンを借りて、お好み焼きを作った。僕以外女の子だったので、下ごしらえは順調。参加したい願望の強い僕は、普段料理などしたこともないのに、「焼き係」を申し出た。最初の2枚は自分たちで食べた。おたふくソースまでジャイアント・フードに売っていたので、ニッポンの味はかなり再現できた。久しぶりのお好み焼きは美味しかった。ビールを飲むとき、最高のつまみは“喉の渇き”だとコマーシャルが言うように、お好み焼きを味わう最大の隠し味は“1ヶ月食べないこと”にあるような気がする。
さよなら・パーティーには、今回のプログラムで関わったほとんどの人達が来てくれた。レイチェルのクラスに日本文化を教えるという名目上、小学校訪問をしたときの生徒や教師、カンブリア在住の日本人で、僕たちにいなり寿司の昼食を持ってきてくれたようこさん、リンズ農園見学の時お世話になったおじさん等、ほんとに1ヶ月でこれだけの人達に会っていたのかと、驚きにも似た感情を抱く反面、料理は足りるか?という不安も同時に感じさせた。日本食は好評だった。特に天ぷらに人気が集中。子供達はどうも「黒いもの」への拒否があるのか、巻き寿司の海苔やお好み焼きのソースを嫌っていた。それぞれピアノを弾いたり、南京たますだれ、書道などパフォーマンスをする。拍手と喝采を同程度みんなが受ける。最後に一人づつがマイクを持ち、家族とそしてテレサ、カンブリアの人達に感謝のスピーチをした。号泣、号泣の連続だ。順番が最後になった僕はマイクを持って第一声「I don't cry.」と言った。なぜか大爆笑だった。みんな泣いているのに、僕は涙が出なかった。なぜだろう?明日の朝には帰国のためロサンゼルスへ行く。最後だという焦燥感と喪失感が混じって、みんな涙しているのだろうか。僕にはそんな焦りも空白感も無く、また会える、これからも頻繁に来る、という確信に似た気持ちが濃厚にあったので、この場で声をあげ号泣しているみんなが不思議でもあった。少なからずそうゆう気持ちの人がその場にはいたのだろう。「僕は泣かない」。そう言った僕の第一声に「その通りだ。」と賛成する笑いが会場に溢れたのかもしれない。パーティーも終わり、シャニーはレストランへ戻った。僕は明日帰国の為のパッキングをする。最後の夜は、いつもより忙しく過ぎていった。全てを終え、ベランダでタバコを吸う。ありがとう、ジャイの部屋。ありがとう、コービー家。一度も入らずに終わったロビンご愛用のホットバスがどことなく寂しく写る。
出発の朝、ロサンゼルスに移動して、ディズニーランドで2日遊んで日本に帰る。そんなプログラムがあるから、朝は早い。最後の朝も僕は寝坊気味に起きた。昨日の晩、ジャイもロバートも、明日は起きるから、さよならは明日言うよ、と言っていたが、僕は7時半集合なので7時には家を出る。イースターで学校が休みの彼らが起きてくることはなかった。最後、シャニーは僕を抱きしめ、「いつでも戻っておいで、アメリカにも家族があることを忘れないで」と言ってくれた。涙は出ない。また夏に来るよ、といい残し、シャニーと別れた。ジャイとロバートにはベッドサイドまで行って、ありがとうと寝ぼけた二人に告げ別れた。集合場所の図書館までロビンに送ってもらう。大型バスはすでに到着しており、出発時間ぎりぎりまでそれぞれが家族と涙のお別れをしていた。
テレサが「さぁ、バスに乗って」と大声をあげた瞬間、僕の目にドッと涙が溢れた。胸が痛み、絶え間ないほどの涙が自然にこぼれ落ちた。ロビンが僕を抱きしめる。親が子を抱くように。止まらなかった。あんなに自然に号泣したのは、初めてではないが、かなり久しぶりだ。悲しくて泣いたのではない。寂しさとも違う、必ずまた会えると思っていたから。でも、最後の最後、ロビンの横に立ち、バスに乗るよう促されると、今までの感謝がどっと押し寄せ、「ありがとう」という気持ちでいっぱいなり、号泣した。ロビンも泣いた。この時、ロビンとは「バーイ」しか言葉を交わしてないが、心いっぱいの感謝で泣いた。

いくつも丘があり、牛や馬達がのんびりしてるから、僕も駆け上がってみた。車の中からだけ、見てた風景が全然違うから、そこが大好きになった。流れて行く風、止まってるの?時間。そんな風にさえ僕は思った。遠い町の、すばらしい毎日に慕ってた。いつかは帰らなければいけない、けど十二分に楽しんだ。そこの人々は、生き急ぐこともなく、のんびりしてるから話しかけてみた。同じ家の中で、少しの間暮らした。違う言葉の中、笑いあってた日々。毎日のように晴れ、もう帰りたくない。そんな風にさえ僕は思った。遠い町の、すばらしい毎日に慕ってた。いつかは帰らなければいけない、けど十二分に楽しんだ。



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第一章:リトルタウン