深い霧に包まれた早朝、ビッグベンと国会議事堂がぼやけて写る。それをバックに真っ赤なダブルデッカーが橋を渡る。衛兵達はたいそうな儀式で毎日交代し、デパートも博物館さながらの建築物にどっかりと腰を据えている。腫れ物に触るように流し見ては、プライスのメジャーで計られた価値に酔い、自慢げに紳士、淑女を気取る。
僕の中にあったロンドンは、そんな漠然としたイメージだった。それらは全て切り取られた一瞬の姿であり、そこには息づく人達の顔も声もなかったのだが、その地に立つまで、濃く、重く、堅い街というイメージは変わらなかった。もしかしたら、僕自身、そんなイメージに一番酔いしれていたのかも知れない。小学校から野球を始め、勝つことを目標に育った僕にとって、「深紅」の優勝旗は誇り高く、重厚で強固だった。指をくわえて遠目に見ている優勝旗とロンドンという街は、僕の中で同一化し、勝手にどんどんと膨らんでいった。

カンブリアののどかな田舎暮らしから3ヶ月後、僕はそんなイメージを持ったまま、大阪からシンガポールに飛び、そこで一泊した後、大都市ロンドンの地に足を踏み入れた。空港から中心部に向かう車の窓からは、曇り空の下でどんより重い風景が広がり、その一つ一つに新しい生活への期待と不安が混じる。どこか奇跡を待つように「嬉しい事」を期待し、絶対あり得るだろう「困難な事」への不安に気を沈めた。滞在場所はアーチウェイという中心から少し北に上がった所で、市内中を網羅している地下鉄(チューブ)エリアで言えばゾーン2にあたる。そこで僕が通う学校と提携している家に、ひと夏ホームステイをする。一時間程車を走らせ、ロンドン市内に入ると、区画整理された住宅街が姿を現し、出発前に渡されていたホストファミリーの住所を頼りにそこを目指した。ロンドンの住所は比較的わかりやすい。アルファベットと数字で大まかな位置を示し、後は通りの名前と番地が続く。N19。そこに通るハーバートン・ロードまで辿り着いた僕は、ホストの名前を番地に合わせて探す。やっと見つかり、一息ついて周りを見渡した。ここに来てやっとその余裕が出来、同時にそこに流れる雰囲気と初夏のなま暖かい風を感じた。
黒い扉をノックする。二重扉の鍵を順に開け、一人の青年が出迎えてくれた。鍵をかけずに外出しても、平気だったカンブリアと、二重扉に厳重ロックのロンドンでは、空気の鋭さが違うように感じた。家の前のハーバートン・ロードには、車が縦列駐車を見事に並べている。と言っても、日本のように、前後の車に当てないよう注意深く停めるのではなく、バンパーは当てても大丈夫なようについているのだと言わんばかりにドンドンぶつけ、前の車を押し出し、スペースを確保して停める。また、出るときも同じ事を繰り返すのだから、バンパーまでピカピカに磨く愛車命のサンデー・ウォッシャー達には、信じられない光景だろう。家の回りには木々が多く、少し傾斜のついた坂道の片側の木から、もう一方の木へとリスが道を横断する。僕が到着した頃には太陽が西に傾き、帰宅する人達で幾分騒々しかったので、辺りには穏やかな雰囲気と、一日の終わりを感じされる安堵感が混じっていた。昼間の留守時と夜には、まったく違う顔を覗かせるこのエリアも、朝と夕方だけは人々の足音と雑談で空気が緩む。

出向かれてくれた青年はフランス人のベン。彼は二週間前からこの家に滞在している。シャワールーム、ダイニング、そして僕の部屋と、一通りのこの家の説明をして、終えるとそのまま自分の部屋にさっさと戻っていった。時間にして十分足らずの説明だ。分かったことは、僕の部屋の隣がバスルームで、階段を下りて右に行けばダイニングだということくらい。この時の僕は、ロングフライトで疲れていたせいか、そんな説明のあっけなさにも特に感情は振れず、自分の部屋で荷物を解き、気づけばベットの上で眠っていた。
二時間程で目が覚め、明日から早速学校が始まるので、最寄り駅までの道順だけでも把握しておこうと、ベンの部屋をノックした。テレビを寝ながら見ていた彼は、またあっけなく「OK」とだけ言い、自分の部屋に鍵をかけて先々歩き出した。それを見て、僕も自分の部屋に鍵をかけ、後を追った。駅までの道中で、彼は矢継ぎ早に色んな事を話してきた。話好きだが、全体的な印象は物静かに写る。それは恐らく、どっしりとした土台があるが故の魔力なのだろう。低い声、フランス人なまりの柔らかい英語。短く、そして深く笑い、風向きが変わるように、あっさりと話題を変える。すらりとしたスタイルも後押ししているに違いない。駅に着くと、「今はもう夜だから買えないが、明日の朝、定期券をあの窓口で買うといい。」と教えてくれた。はっとその時すでに夜の九時過ぎであることに気づいた。とはいえ、夕方くらいの明るさなのでピンと来ない。夏のロンドンは陽が長い。
駅までの往復で分かったことは、彼は本気で勉強しに来ているという事と、同じには見えないほど落ち着いているが、僕と同じ歳だと言うことだった。自分の将来の夢を明確に話し、それには英語がいかに必要なのかも熱く語った。そんな彼の横を小さく歩きながら、申し訳ないとは思ったが、時差ボケと環境の変化に犯された僕の脳では、その明確な夢も、熱い志も、理解するには及ばなかった。初対面の時、一言言葉を交わすだけで、その人と自分が友達になれるかどうかが、なんとかく分かるような気がする。どうも彼とは合いそうになかった。話と話の間に、流れる沈黙の時間を自然に流がす事ができれば、その相手とは友達になれる。しかし、僕と彼の場合、その沈黙を恐れるかの様に、お互いがぎくしゃく音を立てながら会話をしていた。疲れで言葉少な目だった僕に対して、そうした一種の恐れから、ベンは話の上塗りで矢継ぎ早に話していたのかもしれない。毎週月曜日が、語学学校の入学式で、次々と新入生が入ってくる。それに伴い、この家にも一人が去れば、また新しい人が入ってくる。特に夏休みだったので、その入れ替わりは激しかった。ベンが去った後、イタリア人青年やスペイン人のおじさんが、新たな同居人となった。決して、国という大枠の中で個人を判断してはならないが、全体像として、フランス人、イタリア人、スペイン人を比べると、ラテン系の後者二人とは結果的に仲良くなれた。相手の調子に合わせながら、その場を大いに盛り上げようとする話し方に共感したからだと思う。自分を奥深く出し合って、お互いの価値観や、向かっている方向を理解し合い、包み隠さず丸出しに会話を進めて行くには初対面では少々辛かった。謙遜やお世辞が会話の潤滑油となっている文化圏で生まれ、それを常識として育った僕には、このときのベンへの反応は、言ってみれば当然だったのかもしれない。ただ一つ面食らったのが、イタリア語やスペイン語は、英語と似通っているので、話していると、突如「モンタイン」などと、あたかも「マウンテン」のように普通に使うことだった。似た言葉を使い分けるのも、それはそれで大変なのかも知れない。学校には、他にもドイツ人、スイス人、中国人、韓国人、ロシア人と様々な国籍の生徒がいた。休み時間になると、他のクラスであってもドリンク売場や喫煙エリアに大勢集まり話す。お互いが初歩的な挨拶や紹介を済ますと、気のあった者通しで自然に仲良くなる。毎日顔を合わせ、短時間であっても繰り返される会話の中から、それぞれの、特徴や生活が明らかになってくる。往々にして、この夏、ここロンドンに来て、自分の英語力を高めようと志す者が多く、国という大枠でとらえて言わせて頂くなら、長期間外国に暮らす為の単なる理由付けに語学学校の門を叩いているのは日本人だけであるような気がした。

僕のホストはロナン一家。ファーストネームは誰一人知らない。家族構成も曖昧だ。おじいさん、おばあさんと、息子家族。時々入れ替わる息子が、一体何人いるのかさえ分からない。この家ではステイしている者と、家族とが同じテーブルで食事をすることがないからだ。着いた初日から感じていたがカンブリアでのホームステイと、ここでのホームステイは別種の物だった。その明らかな違いは、ここはファミリーの中に入り込むというのではなく、ただベット(寝室)とブレックファースト(朝食)を提供してくれるB&Bに、プラス夕食がついてくる程度。つまり、お金を払って泊まるホテルにどちらかといえば近い。現に、ホストの僕に対する対応の隅々に、お客様を預かっているという意識が強く感じられた。ある日、ファミリー全員が出かけるから夕食が作れず、自分で食べて欲しいと言って、朝食時テーブルに3ポンドが置いてあった。恐らく、このプログラムの参加費用のうち、夕食一回分が3ポンドに相当するのだろう。受け取ったお金分のサービスを提供するという、ホストの対応があからさまに出た出来事だった。僕とホストの関係は、言わば資本主義社会という天秤の両端にぶら下がっており、お互い一定の間隔を置いて、それ以上近づかず、遠のかず、いつまでも平衡に釣り合っていた。そんなお互いの距離をかえって心地良いと感じ出したのは、滞在が一週間を過ぎた頃からで、それまでは、前回のホームステイとの違いに戸惑ったままだった。大都市圏でのホームステイは、お金をもらって、その分のサービスをするというスタンスで、一方、田舎にいけば行くほど、裕福な家庭がボランティア感覚でホストを勤めるというのが一般的になっているそうだ。それにしても、到着時に出迎えもされず(僕はベンが出迎えてくれた)、朝・夕食は別々の部屋。これはロンドンと言えどもホームステイと名の付く形態には珍しいのではないだろうか。ミセス・ロナン曰く、「その方がお互い気が楽でしょ」ということだ。確かに、夕食の時間が決められ、誰かが遅れたらみんな待っているという家族も面倒だが、こう割り切られては閉口してしまう。最後まで、滞在者とホストとの心の距離は変わらなかったが、気持ちが徐々に解けて、気楽になるに連れ、そういう関係も決して悪くはないし、むしろかえって心地良かったと、今になれば思うのだが。

登校初日、朝はいつもより早めに目が覚め、昨日聞いた通りダイニングに向かう。ホストファミリーとはこの時初めて顔を合わせ、ミセス・ロナンがシリアルとコーヒー、そしてパンとバターの在処を説明し、明日からは毎朝自分で焼いて、食べて学校へ行って頂戴と言い残し、最後になって思い出したように「ロンドンを楽しんで」と付け加えた。日本からお土産に「扇子」を持ってきていたので、それを渡すと、封も開けず「サンキュー」と言葉を宙に浮かべた。決して僕の事も聞かず、自分の事も話さなかった。むろん、ファーストネームを名乗ることも無い。ホームステイをしにやって来たという意識がなくなった瞬間であった。ミスター・ロナンは幾分、うち解けており、小さな裏庭の手入れを済まし、勝手口からダイニングにやって来て、こもった重い声で「今日からかい?日本から来たんだってね。この家に日本人が滞在するのは初めてだよ」など話しかけてくれた。「スズキ」。彼は僕をこう呼んでくれたので、僕はパパと呼ぶ。変な話だ。ファミリーネームで呼ばれているので、こちらもミスター・ロナンと呼ぶのがしっくりくるような気がするが、パパの話す態度や接してくれる温度から、僕は自然に「パパ」と呼びたい気がした。翌朝からの朝食は一人でとることが多くなる。常時三人がこの家には滞在していたが、その期間が長くなるに連れて、朝の目覚めは電車ギリギリになり、そのうち、電車の時間など関係なく起き出し、終いには朝食は何時まで食べることが可能なのかが心配になる程遅くなったりする。夕食も各自バラバラ。帰ってくる時間を家族に知らせることもないので、渡されている鍵で扉を開け、自分の部屋に上がっていくと、その音を聞いてミセス・ロナンは夕食を温め直す。しばらくすると「ディナー」とだけ告げに部屋に来て、それを聞いてからダイニングに降りる。スープとメイン、そしてサラダが一人分だけセットされており、ミセス・ロナンも別の部屋に行ってしまい、一人でそれを食べる。ラム、ポーク、芋、芋、芋。グリーンピースのバター炒めが皿の半分を占め、ふかした芋がライス代わりに毎日出る。メインはビーフ、ポーク、ラム、チキンと日替わりだが、毎日胃に蓄積される。たまにはうどんだけでいいよと、僕の胃が嘆いているかのようだった。味は美味しい。しかし、静かな部屋で一人きり、黙々と夕食をとるのは、食欲がしぼんで行く作用に拍車をかけているように思う。わいわい誰かと話しながら食べる食事は、時間の経過を忘れるのと同様、胃の許容範囲を遙かに超えても箸は止まらない。その二者には、何かリンクするものがあるように思う。この家に日本人が滞在したのは初めてだとパパが言っていたことに関係があるのか、食事の量は多い。とにかく僕にとっては二人分だ。僕は半分以上残してしまい、そのまま自分の部屋に上がった。その階段の音を聞いて、ミセス・ロナンは後片づけをしにダイニングに向かう。そうするのが常であった。十五分ほどして、部屋を荒々しくノックされた。開けると、ミセス・ロナンが「なぜ残したの?」と厳しい口調で言う。僕はその場しのぎに「あれは一人分だったの?そうとは思わず、他の人の分も合わせて出てきたと思ってた。」などと遠回しに量の多さを理由にしたが、「ふん」とそっぽ向いて立ち去る漫画のように、それ以後何も言わず階段を駆け下りていった。それまで僕の中に、何となく黄色く点灯していた彼女への拒否反応が、これで真っ赤に変わり、ブザーが鳴るほど強力なものになった。
ロンドンに来て数日、僕の中で色んなモノが拒否反応を示し、混じり合わない色と色とがぶつかり、外にはみ出していたようななんとなく憂鬱な中にいた。周りの環境に完全に馴染み切れない。大きな要因の一つは、それが、僕にとって初めてのホームステイではなかったと言うことだ。つまり、比較対照が存在したが故、さらに、その比較となるのは、楽しかった思い出の、それも過度に美化されたカンブリアでの日々だったのだ。前回もまだ初めのうちは、周りが見えず、自分のペースもつかめない状態であったはずなのに、そんな事はすっかり忘れて、ただただあの頃への回想ばかりを羨むように繰り返していた。初日の学校。紹介された僕のクラスメイトには、イタリア人が5人、日本人が4人、韓国人、ドイツ人の計11人だった。イタリア人はグループを作り、韓国人は物静か。ドイツ人は秘書をしているというキャリアウーマンで、一人でいても辛くともなんともないというタイプ。頼りの日本人は、もちろん話すが、話題があわない。全員女性であったことと、すでに3週間目の滞在であることが重なって、ランチを一緒にしていても、授業を終え、午後どこかに出かけても、両手放しにしっくりかみ合う人達ではなかった。さらに、追い打ちをかけてロンドンの物価の高さ。滞在日数が長い上、十分とは言えないお金しか僕は用意していなかった。毎日タバコを1箱買い、ランチを食べてしまえば終わりという資金力。帰国までの事を考えると、財布の紐は粘着テープで止めざるを得ない。泣きっ面に蜂。洗濯も近くのコインランドリーでするよう、ミセス・ロナンから言われる。洗濯代・・・。気持ち的には、ブライトンへも行きたいし、パリにも行きたい。次々に欲求は生まれるが、お金がない。今から考えれば、鼻で笑い、どこか深刻すぎただろうと省みる事ができるが、その時の僕は、マイナスへ、マイナスへと悲観の考えの中へ猛ダッシュで落ちていく心境だった。しっくり来る友達を見つけることが出来ず、物価高のロンドンで追い討ちを駆けられた僕が、その日の晩、ミセス・ロナンへの拒否反応も確実になったのだ。お金が足りない、気の合う友達が居ない、安らげるホームステイではない。漠然と大きな壁が目の前に立ちはだかり、それをマクロなイメージとしてとらえ、後込みしては部屋に閉じこもろうとばかり考えていた。閉じこもって、マイナスのイメージで満たされた日々をただただこなして行くしかないのかと、考えていた。次の日もそんな気持ちを引きずったまま、一人で朝食を食べ、誰と挨拶をすることなく家を出て、学校で挨拶程度の会話を多少繰り返し、家に戻った。洗濯はホストがやってくれると思いこんで、下着類などは三日分しかない。仕方なく、近くのコインランドリーに洗濯に行く。家からは、なだらかな坂道を上って五分ほどの場所にある。住宅街の中にポツンとあるランドリー。洗濯機を目の前にして、とにかく洗濯物を中に入れ、コインの投入口を見る。・・・と、ペンスコインしか使えない。僕はポンドしかなかったので、両替機を探す。が、どこにもない。このまま引き返そうかとキョロキョロ見渡すと、先客が奥の椅子に座って本を読んでいた。この人こそ僕の奇跡の女神だった。女神?言い過ぎだ。奇跡の「アネゴ」だった。彼女も同じく洗濯待ちで、どうやらこの夏の終わりから引っ越すニューヨークに関する本を読んでいたらしい。名前は洋子さん。彼女は少し離れたパン屋で両替してもらえる事を教えてくれ、機械の使い方、洗剤の買い方まで一通り説明してくれた。洗濯待ちをしている間、二人で色々話した。洋子さんは昔、インドやアジア、そしてヨーロッパをバックパックを背負って旅し、その時立ち寄ったロンドンの印象が良かったので、今ロンドンに住んでいる。今年で三年目。アーチウェイのフラット(アパート)で一人暮らしの彼女は、ベビーシッターが仕事。日系人の子供に日本語を教えることも兼ねた子守である。その仕事ももう長い。その仕事先の家族がこの夏からニューヨークへ移り住むことになり、洋子さんも一緒に来てくれと言われたそうだ。そんな話を聞いて、今度は僕が話す番になった。ゆったりした昼下がりのコインランドリーで、僕は僕の中からわき出る生の言葉を、次から次へと話し、気づけば今の現状を全て吐き出していた。学校、ホスト、物価。大きな心と体とオーラで、ドンと受け取ってくれる洋子さんは、そんな僕の悩みを僕と同じくらい大きなモノとしてとらえ、深刻に相談に乗ってくれる。彼女の今までの経験を聞き、判断するに、僕より10歳近くは年上だろう。そんな事ももしかすると関係があるのか、とにかくそれまで閉じこもっていた僕が鍵を開いた瞬間であることに間違いはない。彼女はホストを変えてもらうべきだと言う。学校に言えばそれも可能らしい。色んなホストがいて、ロンドンにだって、そんなよそよそしいホストばかりではないという。悩みというのは、口にすれば楽になる、聞いてもらえただけで気持ちが落ち着く。それは悩みの大小ではない。現にこのときの僕の悩みは重く、大きかったが、洋子さんに話したら、楽になった。それからは、洋子さんの都合があえば一緒に遊んだ。色んなお店を教えてもらい、洋子さんの友達も何人か紹介してもらった。むき出しの僕でいられる仲間。何か一つ歯車が合えば、連鎖反応的にどんどん動き出した。洋子さんとの出会いで、気分が軽くなり、いつでも遊びに行けると考えると、内へ内へと閉じこもっていた気持ちが外に向かい出した。それまで抱え込んでいた「悩み」も、考え方一つで、そんなに強大ではないのかもしれないと判断できるようになった。その日、洋子さんと別れ、家に帰る途中、公衆電話からツヨシに電話をする。日本から同じ飛行機だった彼とは、機内で友達になった。学校は違うが、もし何かの機会があれば会おうと約束して、電話番号の交換だけはしていた。二日後、学校が終わってから一緒に遊ぶ約束をして電話を切る。自分の部屋に戻って、ベットに座ると、急に飛び跳ねたゴムボールの様に気持ちが軽くなった。洋子さんとツヨシ。ここロンドンには仲間がいる。気持ちが安定して楽しいと共感できる友達がいるんだ。

学校では、喫煙仲間のキアラというイタリア人女性と頻繁に話すようになった。クラスも一緒なので、話題に困らない。話題に上るのは、個性的な僕らのティーチャーがほとんどだった。休憩時間になると、「ヘビー・スモーカーズ」などと自分たちを称し、連れだって喫煙エリアに行く。彼女にもホストの事を相談した。洋子さんと同じく、学校に言って、変えてもらった方がいいという。家族は食事の時に話して、そうすることでまた、語学力もアップするのでは無いかと、真面目な事も言う。そんなことを言うとは思えないほどチャラチャラ・キアラなのに。やっぱりそうか・・・。ギュウギュウ詰めのラッシュアワーに地下鉄で帰宅する。電車でも、駅から家までの地下道でも、ずっと考えていた。ホストを変えてもらおうかどうか。変えてもらう事にどれだけの面倒があるのかは分からないし、新しいホストになってどれだけ良くなるのかも分からない。もっと言えば、今のホストの一体何が良くないのかも実は定かでは無い。うつむきながら歩き、悩みを巡らせた。

正にそんな時だった。僕が扉を開けて家に入ると、ちょうどミセス・ロナンがいて、「やぁ、雨には濡れなかったか」と聞いてきた。何でもない挨拶。こんなものタクシー待ちで、隣にいる他人にでもするかも知れない。しかし、その投げかけられた言葉のタイミングと語調から、はっと気づいた。僕は嫌だ、嫌だ、最悪だと、いつも思っていた。自分の意見も言わず、言われたことを聞いて、この人は嫌だと判断し、閉じこもっていた。もしかしたら、それだけかも知れない。僕は簡単に「そんなにきつい雨じゃないから平気だった。」と挨拶を返し、自分の部屋へと階段を駆け上がった。“ただ、閉じこもっていただけかも知れない”と、もう一度部屋で考えてみた。
その晩、相変わらず大量の夕食を四分の一程残した。今度は、黙って部屋に駆け上がるのでは無く、ミセス・ロナンに直接言いに行った。「量が多すぎて食べきれないから残してしまった」と。すると、彼女はあっさり「分かったわ、明日からは減らしておくから」とニッコリ笑って答えた。ドーンと胸を突かれた気分だった。“そうなんだ。言うべきだったんだ。最初、ミセス・ロナンが僕の部屋に来たとき、なぜ残したのかと聞いたとき、同じように、僕の言葉で、僕の気持ちを、その理由を伝えるべきだったんだ”。言葉にして伝える、知らせるという基本的な行為が、関係を円滑にしていく。そんな事に改めて気がづいた。それまでの僕は、「嫌な出来事」をマクロなイメージで捉え、決して乗り越えられない障壁だと諦めていた。全てにおいてそのイメージが圧倒し、何の手も施さないままその渦の中に沈んでいた。そんなんじゃいけない。目の前に立ちはだかる大きな壁に、ちょっとの勇気を振り絞って、小さな穴を開けてゆけば、次第に視界は広がり出す。気分を変えて三六〇度見回せば、毎日の中にはミクロに散らばった「笑い」や「希望」が必ずある。それら一つづつを取り上げ、近づいてみて、触れてみようと思い始めた。閉じこもらず、飛び出して、それらをかき集めてみよう、と。そんな風に思い始めてからの僕は、街を良く歩くようになった。そして人に話しかけ、人の話を聞くようになった。噛み合いだした歯車が、僕を動かす動力となり、ここでの生活にリズムが出来始めたのも加わって、全体の生活が楽しいモノへと移行し始めた。

滞在していたロナン家から最寄り駅の「アーチウェイ」までは歩いて五分。緩やかな坂道を下り、横断歩道を2つ続けて渡ると地下道になっており、そこから駅構内へと繋がっている。朝夕のラッシュ時には、その人出に会わせてストリートミュージシャンが地下という音響を最大限に生かして演奏している。ヴァイオリン、ギター、サックス。その楽器も様々で、バックに書かれているピンク色の落書きも、まるでセッティングされたステージのような気がする。ヴァイオリンを演奏していたのは盲目のおじさんで、毎朝必ず伸びきったメロディを奏でていた。電車の時間に追われ、固まりになって早足で通り過ぎる僕たちに、大河が流るる如くゆったりとした調べを、何度も何度も繰り返しているようだった。今になってみれば非常に印象残っている。初日の朝は、ベンから言われた通り、駅の窓口で定期券を買った。固まりになった人々の流れは、直接改札に向かい、一歩離れた窓口は別世界のように誰も居ない。日本では電車通学と縁が無かった僕は、もちろん定期券を買うことも初めて。一切合切のシステムが不明のまま、とりあえず窓口の係員にゾーン2にあたるアーチウェイからゾーン1の中心部まで1ヶ月分の定期券を申し込む。「写真は?」と流れ作業の中で簡単に言う係員に「えっ?」と聞き直す僕。写真がいるなど想像外だった。持ってないことを伝えると、左手の人差し指で隣のインスタント写真の機械指さす。初日から遅刻かもしれない程時間に窮してる僕は小走りで、グチャグチャの髪の毛のまま写真を撮り、定期券を買う。「ここと、ここと、ここにサインして」と書類をポイッと投げられ、それにコツコツ音を立ててペンを走らせる。写真を貼った証明書と自動改札に通す定期券を別々にして、黒い定期券入れに治めて渡される。それを受け取り振り返ると僕の後ろには列が出来ていた。買うためにかなり手間取っていたのだと再認識する。

学校へは、アーチウェイからノーザンラインでトテナム・コート・ロード駅まで行き、セントラルラインに乗り換えてホルボーン駅で降りる。そこからまた少し歩けば着く。夏の間は生徒が増すので、ホルボーン駅の近くで仮校舎を借りているらしく、僕の校舎はその仮校舎。滞在中、毎日そんな登下校を繰り返していた。涼しいはずのロンドンでは、夏でさえ地下鉄にはクーラーがなく、窓を開けて走る。近頃の異常気象が関係しているのか、ロンドンの夏は気温が上昇し、クーラーがないとムンムンと蒸した暑さが乗客を苦しめている。加えて、香水に頼った欧米人特有の汗の臭いは、鼻を突き、ダウン寸前。外の空気を吸ったときの開放感を助長させるものとなった。通勤・通学のスタイルは日本とさほど変わっていないような気がする。駅前にある売店で買った新聞を読むビジネスマン、しおりのページから文庫本を読む女性、騒ぎ立てる高校生。お年寄りには席を譲る。あえてここ特有かも知れないのは、男性がレディーファーストの延長で、進んで窓際の窮屈な所に立っているということだ。窓を開けているせいか、鉄輪が線路にすれる音が轟々と鳴り響き、ブレーキをかけた時にピークに達する。その音は決して心地良いものではないが、車内のギュウギュウから解放されるべき停車は歓迎すべきモノだった。
駅には、どこも長いエスカレーターがあり、地下深くに作られた構内へと降りていく。日本よりもずっと深い。上りと下りのエスカレーターが2本づつあり、その間には階段が作られている。果てしなく長い階段。昔、僧侶が修行を兼ねて昇ったのか、山の境内には長い階段がよくあるが、それを連想させるほどに長い。しかしこの地下鉄の階段には、踊り場的なものがないぶん、一度踏み出したら最後まで登り切らないとダメで、そこに挑戦する人はほとんどいない。エスカレーターの片側は急ぐ人の為に開けておくのが常識で、これも日本と同じ。ただ、急ぐから階段で行くという元気な人は誰一人いないし、そうした判断は、ここでは間違っている。半円をくり抜いたようなトンネルをどんどん下ってホームに向かう間、両サイドに製品広告や企業のポスターが等間隔に並べられている。どれもこれもポップアートで目をひく。パンク、そう呼ばれるであろうパンチの効いたモノから、無駄を全部剥ぎ取ったシンプル&クールなものまで。日本ではよくアイドル写真のポスターが盗まれると聞くが、僕もあんなにアーティスティックなポスターなら、長いエスカレーターを降りている間に、一枚拝借したい気にも少しなった。銀色のエスカレーターは歴史の重みと地下鉄元祖という誇りを携えて決してスピーディには動かず、ゆっくりと人々を上下に移動させながら、現代ポップアートがコマーシャルをしている。僕はロンドンの深みを知った。
市内中の地下には、何層にもなって十二の路線が蜘蛛の巣状に広がっている。一本の路線のさらに地下に、別の路線が走っているのだ。地上は地上で、バスが渋滞を作る。タクシーも尋常ではないほど走り、一般の車と混在すれば、とうに飽和状態に達している。需要量と供給量のバランスを正確に把握したわけではないが、一見してそれは、需要を遙かに越えた、公共交通機関の供給がなされているように思えた。同じ系統のバスが数珠繋ぎに渋滞をつくることさえ希ではない。京都などの観光都市にはありがちな現象だが、ロンドンの場合はバスが真っ赤である分、その印象を濃くしているのだろう。地下でも、地上でもパンパンに膨れ上がった交通量は、でっかい空にまで及んでいる。ロンドンには3つの空港があり、一番大きなヒースロー空港は世界でも最大量級の便が毎分離発着を繰り返している。空の交通量も飽和にあると言えるかもしれない。

学校帰りには、よくカムデン・タウンで途中下車し、「セインズベリー」というスーパーマーケットで買い物をした。ジャンクフード、シャンプー・リンス、タバコ、ドリンク。タバコ一箱が当時の為替で640円もしたロンドンで暮らすには、このスーパーマーケットが強い味方となる。ここで買えば60円は得する。それらをまとめて買いをして、ちょっとづつ食べたり、飲んだり、いつからかそれが習慣になった。日曜になると、大規模なマーケットが開かれることで有名なカムデン・タウンも、平日は道路沿いに構える店が、開店時間中、義務的に開けているというまったりした空気が流れている。そんな印象のまま日曜日のマーケットに出かけた時は驚きだった。「カムデン・ロック・マーケット」と銘打たれた一帯が、お祭り騒ぎのように、人、人、人でごった返す。若いアーティストはテントを道路の真ん中に張り、自分のデザインしたTシャツや靴を売る。割れた音をがなり立てるラジカセを椅子の下に偲ばせ、店員達は止むことなく、押し寄せる客を逃さず掬おうとする。こんな人混みで、ソフトクリームを食べる人と、タバコを吸う人には、何かしらの罰則を与えてもらいたいものだ。僕はジーンズが壁一面に張り付けられた店で、色と、細さを吟味し、試着もした。Tシャツもあれこれ広げては、難しい顔で次々あさった。結論的に全て大きい。いや、僕が小さい?どちらにせよ、縁のないものとなったが、店の人と話ながら買う事は楽しい。それが会話にならず、一方的な理解であっても、一つの商品を見て、お互いがあれこれとものを言い合う、そんな時間が大好きだ。ストリートマーケットなので、人が流れるスペースにも、簡易台やカフェの椅子がはみ出ている。北上するに連れ、エスニックな緑、黄色、赤をベースにした小物や服、帽子が多くなる。小さな運河を渡れば、フリーマーケットさながら、値段を交渉如何で決定し、売り買いをする。よりストリートマーケットの雰囲気が醸し出されていた。そこには、少し距離をおいてカメラを構え、その先にポーズをとっている人が見あたらないだけでも、僕には心地良かった。観光スポット。そう呼ばれる建物の周辺では決まってカメラとポーズのセットがある。撮って下さいとカメラを渡されることもある。もちろん気持ちよく撮るが、それが続いてくると嫌になる。そして、滞在も日を増す事に、次第にそんな観光客と距離をおくようになる。不思議なものだ。僕だって観光客と相違はない。でも、一応はこの街で生活しているという落ち着きと、忙しなく観光スポットのはしごをしなくても良いという心の余裕が僕をそんな気持ちにさせたのだろうか。
ロンドンにはマーケットがたくさんある。日曜日はもちろん、水曜日など週に一、二回は各スポットで露店が並び、人々がそれに会わせてどっとやってくる。そんな人混みで活発化するスリも同時に発生する。警察は、馬に乗って巡回する。馬は道路に糞を落とす。人混みの中で、スリと糞に目を光らせながら商品を見る。
ポートベローやコヴェント・ガーデン。ガイドブックにも登場するほどの大規模なマーケットには、それが故の品揃えがある。日曜日になる度に、僕は足繁くマーケットに出かけた。場所が変われば、置いてある商品の趣も値段も多少は違ったが、往々にして腕時計はどこでも多かった。なぜあんなに時計が並ぶのだろう。そして、なぜあんなにバーゲンセールのカゴのような所に入れられているのだろう。ついでに中国系の商人はなぜあんなに腕時計が好きなんだろう。ふとそんなことを思ったりもした。僕はアンティークを中心に物色しており、ポートベローはもってこいのマーケットだった。洋子さんと友達のセルヴィンの三人で一緒に出かけた。価値の有る無しを問わず、インスピレーションでアンティークは購入すべきだと持論を呈している僕が、「これ、いい」と思って手を出す品は、往々にして安かった。これをラッキーととるか、自分の美術的センスの無さととるか、非常に微妙である。一本の木をくり抜き、周りを様々な模様に彫り込んだ腕輪の前で、何度も手にして吟味していた風景を今でも覚えている。太陽が豊富に降り注ぎ、視界は明るすぎて白くぼやけ、品物を手にした僕に向かって店員があれこれと説明をつける。後ろでは人々の流れが僕にぶつかりながら右から左へと流れていた。


穏やかな昼下がりには、よくサンドイッチとコーク、ビネガー味のチップスを携えて公園まで行き、薄手のジャンパーを下に敷いて寝ころんでいた。簡単にランチを済ました後は、ただただ、頬打つ風に誘われて眠りについたりした。葉っぱが揺れ、微かに音を立てる。少し離れた所では少年達がフットボールをする。歓声とも怒声とも判断の付かない声が、遠くで木霊する。陽射しは、木々の間から丁度適量、僕の顔を照らし、寒くも無く、暑くもない、快適空間の中に包まれる。広大な公園をただ散歩がてら歩く老人も、犬の散歩も、市民は公園で憩っている。憩いの場として公園がちゃんと存在している。ロープを張って芝生への立ち入りを禁止し、犬の散歩もお断り、そんな日本の公園とは、全く違う「公園」がここには数多くある。あえてブランコや滑り台を造らなくても、木々と太陽と芝生とボールさえ有れば、少年達は飽くまで走り回っている。本をよんだり、そんな少年達を見たり、天気の良い日はよくこうして午後を過ごした。なかでもリージェンツ・パークは僕のお気に入りで、動物園もシアターも、池も庭もテニスコートもある広大な公園だ。ぐるりと一周するだけで疲れてしまいそうだったが、僕はいつも入り口近くにある細い木の横で、寝ころんでは昼寝をするのが常だった。そういえば、最後まで動物園にも行ってないし、近くにあったマダム・タッソー蝋人形館にも行かず仕舞いだった。見る度にその蝋人形館が作る人々の列は長くなっているように思えて、高い入場料を払ってまで、わざわざそっくりな有名人に会う気は無かった。夕方の肌寒い風が公園に吹き始めると、薄手のジャンパーを着込んで地下鉄で家路につく。そんな毎日がすごく単調で無駄なように思えたが、そこに浸っている自分がとても有意義にも思えて仕方がなかった。人生は長いようで短いのに、常にエンディングに向かって貯蓄する。長いように見えて短いからこそ、我慢を重ねて行く末の為に貯蓄をする。ガツガツという音さえ聞こえるかのような働き者。僕もそんな国民性を有した一個人であるが、長いように見えて短いから、あえて僕はその時一番したいことを心ゆくまでやってみようと決心した。広大な公園で、自然をいっぱい吸い込むと、これから僕がどうなっても、後悔はないような気がした。鉄は熱いうちに打てばいい。でも決して、冷めた鉄をただオブジェとして飾って置いては意味が無いと思う。つまり、鉄は、熱くても冷めても鉄であり、同じように僕は僕であるのだから。打つべき時がやってくるまでは、のんびり午後の公園で風に吹かれていれば良いような気がした。

公園も多いが広場も多い。ただ、交通と人混みから完全に遮断された公園のように閑静では無いが、歩き疲れた足を一休めするには広場がとても重宝した。ナショナル・ギャラリーの前にあるトラファルガー・スクエアには、そんな一休みを満喫する観光客や、買い物袋を下げたおばさま達、真ん中の噴水で水浴びをする子供と、その母親で溢れている。もちろん、そういう人達目当てのアイスクリーム売りや絵はがき、似顔絵書きも席を陣取っている。そんな雑多な空間で、もっとも横柄に、そして主役として存在しているのが「鳩」である。もう普通では考えられない数の鳩が、ばらまかれたパンくずだけでは収まらず、子供がこぼしたポップコーンや、果てはアイスクリームにまでくちばしをのばす。低空飛行で動き回る鳩にぶつかる人間もここでは平然と存在するのでは無いだろうか。「竹に虎」、「紅葉に鹿」と昔の人は現したが、「広場に鳩」なんていう花札が有っても全然可笑しくない。ベンチが外輪をグルリと一周しており、開いてる席に座って、鳩と観光客と子供達を眺める。クラクションが激しく、人々の動きも活発なので、決して落ち着ける広場ではないが、居心地の悪い場所でもなかった。この広場に腰を下ろすときの僕は、いつも博物館を歩き回った後や、ソーホーの店を物色した後だったので、座れるだけで嬉しかった。夕方になるとスケボーやローラーブレードを我が物顔で乗り回す若者が現れるが、その頃になると、嘘のように人々の数は減り、同時にどこへ行ったのか鳩も減る。時間が深くなれば、一つのベンチに一カップルづつ席を占めるようにもなる。帰りが遅くなった夜は、できるだけバスを利用し、ダブルデッカーの二回から、夜の町並みを流し見ていた。見るほどにここロンドンが自由であることに気づく。ファッションも愛のカタチも既製品はなく、自分流が浸透している。みんな揃ってルーズに履いたり、短くしたりする事に、その奇妙さに日本人も早く気づかなければ、タイム・ラブがなくなったと大声で言える日は遠いような気がする。ピカデリーにある、羽を生やした天使の像は、そんな自由な大都市をずっと見守っている。何を射抜こうとしているのか、弓矢を最大限に引いたまま。その足下では同姓で愛を確かめたり、喧嘩したり・・・。自由人で溢れていた。

国立や公の博物館、美術館はただであることが嬉しい。と、同時にただでいつでも本物の芸術に触れることの出来るロンドンっ子が羨ましい。大英博物館は世界でも三大博物館といわれている。特に大英帝国時代、その覇権に物を言わせて揃えた古代エジプト、ギリシャ、そして東の国々の遺産を陳列している。それぞれにコーナー分けをしているが、入っていきなり「ロゼッタストーン」がぽつんと置かれ、周りにガイド付きの観光客がひしめいている。そこに刻まれた聖なる文字が、色あせ陳腐に人々の前に露呈している。古代ギリシャの神殿から彫刻だけが持ち運ばれ、ミイラは棺と共にガラスケースに入れられている。強く思った。ミイラも彫刻も門柱も、造られた場所で、元の姿で見たかった。美味しいところだけを切り取って、クーラーの効いた博物館内のガラスケースの中で見るべき物ではないと。エジプトで、ギリシャで、中国で。その同じ空気の中で太古の歴史に触れてみたかった。本物は大英博物館に飾ってあって、本来の遺跡には、そのレプリカが有ると言うことも珍しくない。とてもギクシャクして、価値を持たないような気になった僕は、半日ほど見て回ってからその博物館には行かなかった。その点、絵画は違う。本物の芸術が、元の場所としてそこに飾られ、完全管理の元、末永く良い状態で保つよう保管されている。ナショナル・ギャラリーもまた、ただだった。滞在中僕は、何度か足を運んだ。中世の宗教画や、近世の写実主義的絵画、近代の心の動きまでも抽象的に描き出した作品。足を進め、飛び込んでくる作品の一つ一つに圧倒され、ため息が出るほどに感嘆する。髪の毛一本の描き方に納得がいかず書き直した絵というのが、過去膨大に存在すると聞いたが、そんな繊細な表現者達が、方法は違えど、辿り着いた完成品が所狭しと展示されているのだから、次々貪るように見入ってしまうのも当然だろう。到底僕には書き表す事の出来ない風景や、場面、一瞬の時間を生き生きと描き、脈々と受け継いでいることにとても価値があるように思えた。深紅の壁に掛かる大判の絵画は、時に殺戮の一瞬をとられたものであり、また、生命の誕生を描いたものもあった。その両者にある矛盾など、仮にそれらが隣同士で飾られていたとしても、一枚の絵からもう一枚へと動く間に、完全に切り離された時間と空間を提供してくれるようで、全く感じることはなかった。テムズ川沿いにある、建物自体に価値のあるようなテート・ギャラリーもまた僕に芸術の計り知れない表現力と強さを教えてくれる作品が多かった。


ロンドンから南へバスで1時間半、大西洋を臨む街ブライトンへ出かけた。僕は大西洋を見たことがなかったのでこの時が初対面。早朝六時に起きて、バスでの日帰り旅行だ。やっと朝日が本格的に降り注ぎ始めた八時前には、もうブライトンに着いていた。ロンドンから南下するバスの窓から見えた風景は、長閑で、田園で、ゆったりした時間が流れる村々だった。朝露が弱い陽に照らされて、辺り一面がキラキラと光り、寝ぼけ眼の自然が徐々に起きあがろうとしている。窓には露が一直線に流れ落ち、早起きの村人は思いっきり爽快な空気を吸っていた。そんな「始まり」の時間、僕はというと、心地よく揺れるバスの中で、深く短い眠りの中へと入っていた。
ブライトンに着くと、もうすでにカラフルなパラソルがあちこちで開き、体を焼く大人や、水しぶきをあげ海へと駆け込む子供で溢れていた。太陽が照り、波が寄せ返し、半袖と半ズボン、サングラスをかけた老若男女が、ただただプロムナードを歩く。大きな桟橋では大音量の音楽が弾け、噂に聞いていたトップレスの女性はいなかったが、夏の開放感と温度の増した笑顔を振りまく人達で景色が埋め尽くされる。そんな、夏の街の、夏の香りがムンムンと漂っていた。水を得た魚が逆上がりするかの如く、ブライトンの街には活気がみなぎり、それが午前八時の模様だとは到底思えない程だった。
この街の魅力は、そうしたビーチはもちろんの事、それだけではない。石畳の細い道が続き、両側を洒落た店が軒を連ねる。歴史ある建物が続く町並みに、イタリアンやフレンチといったカラフルな店、またはカフェが、夏を満喫する人達を魅了する。日陰になった細道を当てなく登っていくと、一見殺風景な店があり、店員は急ぐ風もなく、椅子を並べテーブルを拭き、花を飾って可愛らしい店へと準備を整えていく。夏休みの子供は、時計台のある広場でスケートボードの練習をし、絵はがきを並べた雑貨屋には、正体不明の置物が飾られている。大声で隣り合う店の店主が挨拶をして、決まって良く晴れた空を見上げる。ペットボトルの水が温くなるほど歩き回っても、次々に目新しい店や、人や風景が飛び込んでくる。ホテルや別荘が連なる海沿いから一歩中に入れば、こんなに雑多な旧市街が広がっているのだ。
また、この街には教会や公園が非常に多い。ビーチは人混みなので、あえて公園で日焼けをするという人達が家族や仲間で円を作り、決まってみんなで寝ころんでいる。教会も墓地も太陽に照らされ、気持ちよさそうに呼吸しているかのようだった。旧市街を抜けて、そんな公園や教会が点在する一角に、ロイヤル・パビリオンという宮殿がある。その宮殿の持つ丸屋根に導かれやって来た僕は、一種場違いな様にも思える真っ白なドームと尖塔を見上げた。中に入ると極東色の強い色彩と、中国建築の内装に、また場違いなような感想を持つ。昔、国王ジョージ四世は、ブライトンを愛しこの地に宮殿を建てた。当時東洋へ向いていた興味のベクトルをそのまま反映させて造り上げたこの中国式宮殿は、以後外観をイスラム様式のようなドーム型と尖塔に変えたという。現在は外観と内装が異なる様式で、豪華で圧倒する美しさは存在するものの、統一した絶対的な「美」ではなく、良いとこどりをしたベストアルバムのように、上滑りしては単に「ああ、綺麗だった」という感想しか持てない。そんな風に感じるのは僕だけだと思うが・・・。
旧市街に戻ってイタリアンのランチを済ませ、昼からはビーチに向かう。とはいえ、本当に人が多い。水着に履き替えて海に飛び込みたかったが、腰を落ち着ける場所さえ見あたらない。ウィークエンドで晴天のブライトンではこんなものかと諦めた。それにしても「暑い、暑い」とつい、口に出してしまうほどに気温は上昇し、Tシャツがぐっしょりになる。そこに太陽が当たり、渇き、潮風が吹く。プロムナードを一往復してパレス・ピアという巨大な桟橋に入る。海に出っ張っているので、最先端に行くと、ブライトンのビーチやそれに準じて連なるホテルが見渡せる。海を向くと、遙か広く、青く、透き通る程に綺麗な海では決してないが、海の持つ開放感を存分に感じられる。さながら遊園地化しているようなその桟橋で、ソフトクリームを買って食べる。ベンチから何気なく見ていると。砂のビーチが広がる反対側(桟橋の西側)は、大きな石がゴツゴツ転がり、人がまばらで混み合っていないことに気づいた。僕はその石がゴロゴロした方で、Tシャツを横に広げて乾かす間、上半身裸になって寝ころんだ。背中が痛さに耐えきれなくなるまで、目を閉じてもその明るさが鮮明に分かるほどの陽射しを浴びて。本当に気持ちよかった。
バスの時間になる。気づけばもう太陽は西に傾き、幾分かその温度も穏やかになっていた。もう一度西日に柔らかく照らされ街をぐるりと見渡し、後にした。帰りのバスではさすがに熟睡だった。歩き回ると疲れる。不思議なもので知らない街を歩くと、余計に疲れる。もちろんそれは距離感が上手くつかめていないのと、次々に目新しい物事が目の前に現れ、好奇心が示すままに歩を進めてしまうからであろう。暗くなったロンドンに着き、地下鉄を乗り継いで家に帰る。夕食は今夜食べないことを伝えていたので、自分の部屋に入ってそのままシャワーを浴びに行く。Tシャツを脱いだ時、潮風に吹かれ、太陽に乾かされた、あの街の匂いがしみ込んでいることに気づき、またあの開放感を思い出した。

海峡トンネルによって陸続きとなった島国イギリスからヨーロッパ大陸へは気軽にいける。ドーバー海峡をフォークストン(英国)とカレー(フランス)を両端に繋いでいる。列車はロンドンから出て、パリまで続き、正に陸続きであることを再認識させたれる。長いトンネルを越えると一山越えていた東海道新幹線での感覚と同様、海の底のトンネルを抜ければフランスなのだ。深く考えるととても不思議な現実だ。ユーロスターと呼ばれるその列車でロンドンからパリまで行くと二時間弱で行ける。東京から大阪に行くように。ただこの場合、文化も民族も違う大国の首都間を移動するのだからやはり不思議に思う。かつては百年戦争でにらみ合っていた両国が隣り合わせの国であるといこと、そしてヨーロッパ大陸が非常に近いと言うことを改めて露呈している。距離をそのまま実感として感じられるのは平和である証拠のように思う。同じ民族同士違う国であり、行き来がとれない朝鮮半島も、その昔同じ都市のなかで高く厚い壁に遮られたベルリンも、距離をそのまま実感できないでいた。平和であることが、距離感を自然に感じされる。それはもっと言えば、平和であることが自然であると言うことではないだろうか。自然の赴くままに、大勢の人間が生きれば、戦争が起こるのだと主張する人もいるかも知れない。だからルールだ、規則だ、分配だ、平等だと、口を尖らせているのだろう。そんな人を遠巻きにあざけ笑うことができるようになりたい。
僕はある日の晩、国名と首都だけが乗っている簡単な地図をベットに広げ、大陸に行こうかと思った。昔の日本人が大陸と読んだ中国では無く、ヨーロッパ大陸へ。まず思い浮かんだのはパリだった。その次にフランクフルト、アムステルダム、マドリッド、コペンハーゲンなどなど。ふとブリュッセルという文字が目に入る。何となくその名が気にかかったまま地図を閉じた。
週末はロンドンを離れ遠くへ旅することが多かった僕の滞在で、対照的だったのがパリへの旅と、気にかかったまま、ある時突然に行くことを決めたブリュッセルだった。パリへは先述の通り列車で二時間。気軽に行ける。気軽?それは当然時間的に手軽なのであって、非常に高い。その時の僕にとっては、選択肢にあげることさえ出来なかった。
僕はコーチバスでパリに向かう。ロンドンからドーバーまで行き、ドーバー海峡はバスごと列車に乗せ、フランス側のカレーに着く。普通にトンネルだった。耳が圧迫されたり、何かしらの海底を認識させる体の変化は一切ない。そこからはひたすら田園を突き走る。フランスが農業大国である事がよく分かる車窓の風景だった。リールという町を経由してパリに着く。ロンドンを出てから七時間。バスで七時間旅して到着すると、さすがにそこが遠くの土地で、違う国であることが実感できる。列車で二時間、快適に揺られてパリの市内駅についた人は、そこがパリであることを上手く認識できるのだろうか。余計なお世話を承知で、尋ねたい。七時間もかけてバスでやって来た僕たちが下ろされたのは市中心から東にかなり外れた場所だった。このときパリに関するガイドブック、地図などを一切持っておらず、そこがどこなのか判明したのは、地下鉄に乗ろうとしてマップをもらったときが初めて。とにかく中心部へ向かう。もちろんどこを中心と呼ぶのかなど分からなかったが、ルーブル美術館の近くへ行きたいと駅員に言ってキップを買う。東端から乗り込んだ地下鉄は優しかった。パリという僕の中にあったイメージがそのまま現れているかのように優しかった。ゴムタイヤをつけた車体は金属同士が擦れるあの殺人的な高音を発することがないし、走りも穏やかだった。駅に止まれば、自分で扉を開く。自動で閉まるが、手動で開ける。スタイリッシュな男女が腰掛け、本を読んでいる。聞こえてくるフランス語はフワフワと中に舞う蝶のように棘がない。そんな雰囲気にどっぷり浸かって三十分。別のラインに乗り換える。そしてOdeonという駅で降りる。地下鉄から階段を上り、外に出るとパリだった。見るもの全てにパリをこじつけ、そしてそう認識した。とにかく宿から探す。安い宿がどうしてもパリと結びつかないのだが、財布を見ると、それもまた仕方がない。大都市での知恵として僕は、大きな高級ホテルのフロントに行く。往々にしてそう言うところでは英語が通じるので、交渉も早い。泊まる気は一切ないが、一応一泊いくらかを聞く。流れのまま断って、もっと安めのホテルを紹介してもらう。そこから紹介される次のホテルではまだ手が届かないので、三、四回それを続けると、綺麗なホテルで安めの部屋が見つかる。無鉄砲に行っても埒が開かない。結局Odeonから歩いて十分ほどのホテルにチェックインする。キャンドルライトの階段を上がると、街が一望できる部屋で、トイレもシャワーも着いている。ホテルの前が花屋さんだったので、二泊したそのホテルの朝はいつも、窓を開け、花屋をぼんやり眺めてから顔を洗って外に出るというリズムだった。チェックインして間髪おかず、エッフェル塔に向かう。地下鉄で行けば早いが、僕は乗らない。歩ける範囲は歩く。それも出来るだけ裏道を歩く。喫茶店がある、駄菓子屋がある。売っているコーラが冷たいことにやけに感動してしまった。というのも有名な話だがロンドンではよく冷えたドリンクを売ることは希だ。水はまだしも、コーラやスプライトが温いので慣れるまでは大変だった。そんな事も慣れてしまうのもだが。慣れきった僕に冷たく冷えたコーラは感動に値した。方向だけを頼りに、あちこちよそ見しながらエッフェル塔を目指す。途中でアンバリードを通り、ここにナポレオンの遺骨があるのかと、考え深げに通り抜け、すぐ向かいの大きな信号を渡ると目の前にエッフェル塔が見えた。思わず声が出た。これがエッフェル塔か、と。すでに暗くなっていたので、ライトアップされている。前には芝生の公園が広がっており、そこに寝ころび、エッフェル塔を見上げる。ただそこに伸びているこの塔は、すでに百年以上あるわけで、景観の一つとして定着しており、無くてはならないものとなっているのだろう。僕はいつまでも見上げていた。視線を下げれば、塔に登るエレベーター待ちの集団が列を作り、そこにカメラとフラッシュが忙しなくうごめいている。ため息がでる。だから僕は、ただエッフェル塔に切り取られた夜空と、ライトアップされたエッフェル塔を見上げた。ずっと見ていると、背中が夜露に濡れ、僕の周りに人が増えてきたことに気づき、黙って腰をあげ、振り返ることなくホテルに戻った。僕は夜空バックのエッフェル塔を強烈に焼き付け、そのアングルを反芻しながら、帰りは地下鉄で戻った。
翌日は、ルーブル美術館に向かう。朝八時に着くと、入り口のガラスのピラミッドが遙か遠くに見えるほど人の列は伸びており、こんな陽に限って朝から暑い。館内への入場は人数制限されているので、出れば入れる。レストラン待ちのようだった。早く出てくれと、館内にいる見知らぬ他人に向け無差別に祈った。一時間半は待っただろう。ようやく入れた。エレベーターで降りるとエントランスがあり、インフォメーションセンターがある。日本語の案内地図まであるので、それを手にして、順番にまわる。いくつかのゾーンに別れて、広大な敷地に最高峰の美術作品が並ぶ。無造作に見えて計算されたレイアウトに、一つ一つの作品を群として眺めては、そのバランスと質の高さにため息がでる。僕の父親は京友禅を仕事にしているので、美術心は多少あるだろうが、そんなDNAをまったくと言っていいほど受け継いでいない僕には奥深さや繊細なディテールは分からない。ただ、作品が個々に持つ圧倒的な「美」は、非常に浅い所で広く感じられる。グルグル回っては、彫刻、絵画を見て周る。ギリシャ彫刻が両側で一列に展示されている長い廊下の先に、広々した階段があり、その踊り場に首のない、羽の生えた天使「サモトラケのニケ」があった。こちらに向かって飛んできそうなその彫刻は、僕を釘づけにした。勝利の女神という意味を持つその天使に顔がないので、僕の中で勝手に想像が膨らみ、都合良く僕にだけ微笑みかけているイメージを作りだしていた。その階段を上ると、「モナリザ」があり、そこら中に案内板が出ている矢印にそって進めば「ミロのビーナス」に辿り着く。多くの作品がそのまま展示されているのに、「モナリザ」だけはガラスケースに入っており、きまって大量の人が絵の前に群を作っている。ミロのビーナスも同じで人混みの中で近づき、眺めては、その勢いのまま外に放り出される。また、ため息がでる。
面白いと思ったのが、美術心のない僕にとって、いい作品が何であるかは分からない。それは単に以前に見たことの有る無しが大きく左右するように思う。モナリザやミロのビーナスは一応見たという記憶を残すために人混みの中をがんばったが、ずらりと並んだ絵画の中で一番印象深かったのがバルトロメ・エステバン・ムリーリョの描いた「乞食の少年」だった。その絵が他とどう違うかは、単に中学生の頃、美術の教科書でその絵を見て、哀しげな表情に胸を打たれた経験があったと言うことくらいだ。つまり、見たことのある絵で、それがルーブル美術館にあるとは思いも寄らなかったので、一瞬ハッとした。モナリザを見ようと思って、そこにあったモナリザよりも、思いがけず見たことのある、それも十年前の自分が多感に印象を受けた絵に会えたのは特別だった。このムリーリョは、十七世紀、他の画家と同じく宗教画を数多く描き、写実的に社会を表した。その一片がこの少年で当時の貧しい少年が、体についたシラミをうつむきながら、殺伐とした部屋の中で壁にもたれながらとっている。そんな少年の表情がなんとも言えず哀しげで、だからといって泣けない。その表情には淡々と生活をする少年の日課になってるシラミ取りをしているというように感じさせる。そこが、また哀しい、だけど泣けない。泣いていられない少年の強さに触れ、いろんな感情がわく。そんな絵だ。
ルーブル美術館を出て、セーヌ川沿いに歩き、ノードルダム寺院へ。ミサ中だったが、順番に入れたので、その厳かな雰囲気の中、ステンドグラスを通して入ってくる太陽と、静かに灯るキャンドルにそっと目を閉じたくなった。目を閉じて、静かに、静かに心を休めたくなった。外が暑い分、ひんやりとしていて、大量にいる観光客もさすがにミサ中は静かなので、そこに流れる時間がゆったり、まったり感じられて、しばらく眺めていた。外に出て、前にある小さな広場のベンチに腰掛け、外観を眺める。大鐘を治めている二つの塔がそびえ、そのベンチからは先端部分がかろうじて見える。観光地となっている寺院に信者がやってくるという現実に、可笑しさが沸き、同時にどこか興ざめしてしまったので席を立った。
そこから凱旋門に向かう。ルーブル美術館を再び越え、公園を突き抜け、コンコルド広場にでる。かつてはエジプトにあったオベリスクをそのままパリに運び、この広場で高くそびえ立っている。シャンゼリゼ通りが一直線に続き、その先にぼんやりと凱旋門が見える。歩道が広い。シャンゼリゼ通りに対してもった僕の感想はそれだった。あれだけの歩道があれば、カフェも歩道までテーブルを出し、そこでゆっくり午後のコーヒーも楽しめる。すぐ脇を車が通る日本で、このようなオープンテラスは無理矢理感が濃厚に出て仕方がない。僕は外が好きだ。タバコが吸えるからという理由も手伝って、寒くなければ外が良い。パリとシャンゼリゼが結びついたイメージの後にはオープンテラス。僕は歩道に出っ張ったテーブルでカプチーノを飲んだ。色とりどりの花が咲く花壇で一角が仕切られており、ダークグリーンのテーブルクロスが赤い椅子とマッチしている。ポカポカ陽気で通りを歩く人達の笑顔もピカピカ光る。パリの午後、僕はシャンゼリゼのオープンテラスでカプチーノを飲んでいた。この状況を活字にするとなんとも豪華で華やかなんだろう、と自負する。ゆっくりゆっくるシャンゼリゼを凱旋門に向かう。カプチーノの後はアイスクリーム。僕は片手に持って歩いていた。と、前から歩いてきた子供が突然右手を伸ばし、僕のアイスクリームをとろうとする。何度も挑戦してくる。初めは大らかに防いでいたが、その子供の手がアイスを突き、その勢いで漫画のように僕の鼻の頭にペチャとついた。パリの午後、僕はシャンゼリゼの真ん中で、アイスクリームを顔面に浴びてしまった。もう、こうなっては、優雅さも華麗さも台無しだ。とにかくその強引な子供を軽い肘うちで退散させ、ティッシュで花の頭を吹いた。ポカポカ陽気でべとついたアイスクリームが不快だった。欲しいモノは自分の手で奪えと教え込まれている部族の生き様を見たような気がした。凱旋門は思った以上に大きかった。ナポレオンのように、英雄気取りで凱旋門をくぐる。円形にグルリ道路が走っており、車の量が多い。凱旋門の下で腰を降ろし、行き交う車の先からシャンゼリゼを来た方向に向け眺めた。綺麗な通りだなぁとため息を突きながら。
二日目のホテルでは停電騒ぎがあった。夕方から夜中にかけて一切の電気が止まり、シャワーは真っ暗な中で浴びた。ホテルの一角だけが停電だったようで、シテ島まで歩いていくと、華やかなイルミネーションでパリは光っていた。
パリを後にする日、僕はトゥイルリー公園で時間を過ごした。ホテルを出て、オペラ座界隈を歩こうと決めてホテルを出たのだが、公園にはまだ人が少なく、天候も涼しかったので、そこにあるベンチに寝ころんだ。そうすると、動くのが嫌になって、バカらしくさえ思えた。二泊三日の強行スケジュールでパリを歩き回り、観光スポットだけをはしごした。そして、これからオペラ座に行って、有名なデパートを覗いて、ランチレストランでも探しながら、また歩き回るのかと思うと、完全に腰をあげる気はなくなった。公園のベンチに寝転がり空を見上げてながら、ふと、「パリはそんなに面白くなかったな」と思った。もちろん、僕が今回旅したパリからは何一つ見えてこないので、パリそのものの良さも分かっていない。ただ、僕はこの三日、ただエッフェル塔を、凱旋門を、ノートルダム寺院を、ルーブル美術館のモナリザをと、そこに確かに存在することを確認して、それで終わりという感想しか持てずにいた。そこがパリであることを単に認識するために、パリを歩いていただけのような気がする。既知の知識が豊富であったために、未知の驚きや感触を経験できないままだったのだ。そういう意味から言って、ブリュッセルへの旅はパリのそれとは大きく違っていた。ブリュッセルの地に立つまで、僕の中にはほとんど情報がなかったのである。余計に再認識したり、初見したりと驚きがあった。

金曜日の午前中に、いつも通り授業を受けて、クラスメイトとランチをとっていた。明日からの週末、どこかに行きたいな、と思い立ち、その足でコーチステーションまで行き、そこで、以前から気にかかっていたブリュッセルまでのチケットを買った。何がこんなに気になったのか、その時の僕にはブリュッセルという街が魅力的で仕方がなかった。パリと同じように、バスでドーバーまで行き、今度はフェリーにバスごと乗せる。海峡を渡る間はフェリー内で食事をしたり、甲板に出てヨーロッパ大陸を眺めたりする。高速に進むそのフェリーでもやはり、海底トンネルを走り抜ける程の早さでは無かった。陸続きになった事を強烈に印象付けたパリの時とは違い、海峡をフェリーで渡った分、イギリスが島国であることが感じられる。それと同時に帰ってくるとき、ドーバーでの厳しい入国審査があることに気を病んだりもした。フランス側のカレーからゲントという街を経由してブリュッセルに入る。このゲントというところでなぜか一時間くらいの休憩があったので、少し街を歩いた。あんとも言えない空気感があった。重厚な石造りの建物が並び、のんびり散歩する人達が気軽に微笑みかけてくる。時間が時計通り進んでいないような、自由さがある。そんな風に思ったのは、僕が時間を忘れ、出発時間を十五分も遅れてバスに戻り、そのために出発時間が遅れたからだが。あの時、本当に時計を見なかった。放置自転車を見て、アイスクリーム屋の前にいる子供を見て、噴水の間を跳ね返る陽射しを見て。特に何に見入ったわけでもなく、ただ何となく、そこにある生活空間に見入ったのだ。時々、こうゆう街に出会える事がある。自分と同じリズムで呼吸する街と言うのだろうか。しっくりきた。たった一時間ちょっとしかいなかったが、ゲントは僕の好きな街になった。ブリュッセルに着いたのは夜中だった。相変わらず何一つガイドブックらしきものは持っていない。ただ大きな駅の近くで降ろされたので、その駅のインフォメーションへ行き、ホテルを尋ねる。かろうじて一人そこにいたので、マップをもらい、そこが北駅であることが分かると、後は余り記憶にないほど、あちこち歩き回り植物園の近くの安宿にチェックインした。
小便小僧がここにあることも、レースが盛んな事も、チョコレートが美味しいことも、ブリュッセルに来て初めて知った。平均的な人が持つ知識よりもブリュッセルに関して僕は知らなかった。あまりにも知らないので、加えて、一泊だけの週末旅行なので、あちこち歩き回るのではなく、どこか一カ所に長く居たかった。ホテルで聞くと、まずグラン・プラスに行くといいと教えてくれたのでそこに向かう。ブリュッセルは石畳の似合うヨーロッパの街だ。春には大量の花で彩られると言うここグラン・プラスは、僕にとって魅力満点だった。細い道が蜘蛛の巣のように入り組み、両脇にはおみやげ物やがひしめき合い、石畳が故にアンバランスに歩を進めていくと、パッと視界が広がる。縦横百メートルはあるだろう平方の敷地には、花市があり、馬車が通り、少女達が歌う。そしてまた、その広さとは比例しないほどの閉塞感を感じさせるのは、四面を王の家や市庁舎、ギルド・ハウスなどで囲まれているからだ。様式の異なる建造物が、歴史の重みの中で調和している雑多な空間が広がる。ヴィクトル・ユーゴが「世界で最も美しい広場」と賞賛したグラン・プラスは、正に雑多で活発な広場だった。建物が重厚で、広場の花市が余計に際だつ。細い道がこの広場に向かって入り組んでいるので、なかなか目的地にたどり着けない。目的地?そう、僕は唯一、小便小僧が見たいと思ったのだ。土産物屋に必ずある小便小僧の絵はがきを見て、店主に「これはどこ?」と聞くと非常に複雑な道のりを簡単に指で指し示し、「あっちの方」と言うだけ。それも納得するほど入り組んでいる。やっと会えたと思うと、気抜けするほどに小さい。英雄伝説をもつこの小便小僧の名前はジュリアン。その昔フランス軍に向かって小便を放った少年だという。不思議に愛嬌があるその小さな像の前でしばらくじっと見ていた。見れば見るほど、こちらに小便を引っかけているように、どこか像の前にひしめき合ってカメラを構える観光客をあざけ笑うかのように思えた。ますますその皮肉さが気に入った。英雄は戦争に赴き何百人と殺さなくてもなれるのだ、そう、小便をしてたって。グラン・プラスから少し入ったところに、また人だかりのできた像がある。セルクラースの像。金色に光った英雄セルクラースに触れると幸福になれるとあって、人々の手が伸びる。そんな光景を見ながら、高そうなカバンを持って、はるばるベルギーまで旅に来て、暢気に人だかりの中、像を触って幸福を願っている時点で、もう充分君たちは幸福だよ、と小便小僧並に皮肉って見ていた。昼間からどの店でもビールを飲んだ人達が陽気に笑っている。僕もオープンカフェで簡単なチキン料理とビールを飲んだ。天候が良いからか、気持ちよく酔える。お代わりまでしてしまった。ランチを終えると、夜行でロンドンに帰るため、それまでの時間、ずっとグラン・プラスに腰を下ろし、広場で繰り広げられる様々な景色に目をやった。王の家の前に腰をおろしていたと言うこともあって、目の前を何度も何度も、本当に何度も観光馬車が通る。決まって手綱を引いたガイド兼運転手は建物を見上げ、どこかを指さし、何かを話している。その数秒後、馬車に乗っている客はカメラを構える。十中八九そのような行為が繰り返される。最後の方は僕もそのガイドの指さす方を見上げて見たが、何かしらの彫刻と、国旗が揺れているだけだった。あの彫刻に何か重要な意味でもあるのだろうか。そんな事より、飽かずグルグル観光馬車を走らせるガイドの方が、僕にはカメラを向けたい対象のように思えた。長時間座っていると、色んな人が話しかけてくる。日本人はもちろん、いきなり僕の前に七、八人が整列して、コーラスを始める少女がいたりする。歌い終わると寄付金箱を僕に差し出す。お金を出すまで歌い続けるのではないかという執念とオーラが出ている。僕はポケットからコインを箱に入れた。
花屋が店をしまいだした。同時に回りの店が外に出していた椅子とテーブルをしまいだした。どこからか鐘が響いた。午後六時。一気に広場が「終わり」に向かい出す。僕も北駅に向かい歩き始めた。いくらかポケットに残っていたお金でチョコレートを買って、それを頬張りながら歩く。
帰りのバスは夜行だったので、客全員が眠りに就いている。ロンドンには早朝五時に着く。ついたその日に学校へ行かないといけないが、休むことは初めから決めていたので、そう焦る事もなかった。ブリュッセルから帰った僕は、楽しかった記憶の全てを日記につけた。今回初めて分かったことや、感じた事があまりにも多く、グラン・プラスに座っていただけの半日が、僕の興味の細かいところまでを全て振るわせ、感情が方々に触れた。既知のモノを確認しただけのパリとは違い、未知の感触に触れることができたブリュッセルは、どんどん僕の記憶にファイルされ、そして、そこで感じた総評をヴィクトル・ユーゴのように「グラン・プラスは世界で最も美しい広場だった」と締めくくった。

ロンドンは広い。どこからどこまでをロンドンと呼ぶのかは定かではないが、近郊の街ウィンブルドンやグリニッジへも出かけた。ダブルデッカーの二回、一番前の席に座り、グリニッジまでゆく。ロンドンのユーストン駅から近郊の街へゆくバスに乗る。一時間もすればグリニッジに到着。時間はここを標準にして時差が出来ている。かつての大英帝国の名残が克明に残っている事例だ。世界の中心が、大陸の隅の、島国の、首都の近郊にある。貿易帆船であるカティーサーク号が近くには鎮座している。そして旧展望台へと続く広大な公園。グリニッジの公園で食べたビネガー味のチップスがなぜか忘れられない。ウィンブルドンへはセルヴィンの車でドライブした。七月初旬はテニス大会で世界中の注目をあびるその街も、八月中旬にはひっそりとしたものだった。ただ、一年一回晴れ舞台をみるウィンブルドンのセンターコートは、そのためだけに世話係がコートの状況を三六五日見張っている。それは素敵なことだと思った。そして、英国的マインドだと思った。使ってないときは貸し出せばいいのに。テニスには世界四大大会があってその中でもウィンブルドンは歴史が古い。その中でもセンターコートはテニスプレイヤーのあこがれになっているという。そんな事を利用して隣接したテニス博物館というのがあり、そのガイディングツアーに参加すればセンターコートが見れるという。センターコートを見せる。そんな考え方に疑問が沸いた。コートでテニスをして、それを見るのは分かる。お弁当箱の中のおかずを食べるのは分かるが、お弁当箱に一々意味を持たせて見学するのはどうも分からない。恐らく僕だけだろうけど、そんな風に思うのは。

ロンドンを去る日、ちょうどノッティンヒル・カーニバルが行われた。夕方の飛行機だったので、午前中それを見に行く。仮装した人達が練り歩く。その前を大きなスピーカーをつけて、大音量で音楽をがなり立てる車が先導する。回りには人が群れ、お祭り騒ぎを文字通り表した景色。腰が動き、リズムにのる。あちこち移動しては、また、違うグループの行進が始まる。
そんなに長居は出来ず、ダブルデッカーの二階に座り、ロンドンの街を見下ろしながらアーチウェイに戻。まだお祭りのテンションのままだった。洋子さんとも今日が最後になる。本当にお世話になった。また、ニューヨークで会おうと約束をした。バスから見える風景にこの一ヶ月間の生活を重ねる。何度も足を運んだセルフリッジ・デパート。迷って迷った末にカードで買った「マルベリー」の手帳は、大事にバックに入れている。学校のチャイムはこれからとったのかと驚いたビックベン、ライトアップがお城のようなタワーブリッジ、どこか薄気味悪いロンドン塔。自分の足で歩き、声をかけて触れたロンドンは、ここに立つ前、何となく想像していた深紅の街ではなく、公園が多く、アートに溢れ、交通渋滞に喘ぎ、そして雑多で研ぎ澄まされた大都会であった。そこには本物の芸術が溢れ、現代美術も溢れていた。建物の重みも、地下鉄の歴史も濃厚にあった。ロンドンから世界に発信する大企業は確かにもう姿を消したのかも知れないが、誇りと伝統が色濃くあった。世界はそんな大都会に目を向けている。その証拠に様々な国から大量の人がやってくる。ジーパンでは入店拒否されたアフタヌーン・ティーの店も、アジア人を特別な視線で見下ろすイングランド人も、EU以外のパスポートだとチェックが厳しくなるドーバーの入国審査官も。イギリス料理に舌を巻いたことはないし、物価の高さにも苦しまされた。確かに僕にとって全てが快適ではなかったが、何が良くて、悪いのか、そして誰に対して良くて、悪いのか、それらは多面的である。雑多に混ざり合う大都会であればあるほど、多面的であるのはは仕様がない。そんな多面的な街で、確実にロンドンであると主張できるのは、それが故の伝統と歴史に裏付けられた土台があるからだろう。つまり種々様々な人種が集まり、ごちゃ混ぜの中で一つの「味」が出来上がったのではなく、ロンドンという器の中に、様々な材料が入れられているという街の姿に、僕は深さと大きさを感じた。そこには確実に僕がこれから目指そうとする「安定した土台」が存在し、優勝旗の如く深紅に染まっている街であることに間違いはないと感じた。





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第二章:深紅の街