ジョン・F・ケネディ空港の上空を飛行機は何度か旋回して、順番を待ってからと徐々に高度を下げていった。窓側に座っていた僕は、少し離れたマンハッタンを眺める。「眠らない街だな」と呟きながら。ソウルを経由してからニューヨークに入ったので、大半が韓国籍。ビザを必要とする彼らは入国に時間がかかる。そうした中で必然的にパスポート・コントロールには列ができ、うかうかしてると長くなる。うかうかしていた僕はその行列に巻き込まれてしまった。夜着の便であった上に、入国に手間どい、夜十時過ぎにやっと通過した。クイーンズ地区の外れにあるこの国際空港からマンハッタンまでは地下鉄で一時間弱。初めてのニューヨークは、夜だった。-夜-、その時間帯が持つ恐怖のイメージを背負ったまま、とにかく中心部に出てからホテルを探そうと地下鉄に乗り込んだ。無機質な車内。鉄の棒が何本か等間隔に並び、その棒と棒の間隔が、初めてのニューヨーク、そして初めての地下鉄という緊張感からか、だんだん狭まるように感じた。そして、まるで檻の中に居るような錯覚に陥り、窮屈になる。ホテルを探すためにガイドブックを見ることも、ましてや、居眠りすることなんて出来ない地下鉄での一時間。とても緊張していた。ニューーヨークに行こうと決めた時、僕の中には「明」と「暗」のイメージがあった。何かがありそう、いや何でもありそう、世界中の最高峰が、その街中に溢れているのではないかと、興奮した「明」のイメージ。そして、その裏側にあったのは、単純に映画や、リアルなニュースで見聞きした殺人が伴う恐怖という「暗」のイメージ。着いたばかりの僕にとって、夜十時を回った人気の少ない地下鉄は、まさに「暗」のイメージを具現化させたような空気だった。マンハッタンまで出ようとする人が少ないのか、車内には人気が少なかった。僕から五メートル程距離を置いたところに、女性が一人、ウォークマンを聴きながら頭でリズムをとっている。いくつも駅に止まるが乗り降りする人はいない。少なくとも僕の乗っていた車両には完全に居なかった。長く感じた。目的地まであとどのくらいで着くかの目測がないと、単調に進む地下鉄は余計に長く感じる。ユースホステルのある付近まで行き、その近くの安宿に一泊して、翌日ユースに移ろうと考えていた。マンハッタンを北上して103丁目の駅まで行く。無機質な車内に金属の擦れ合う音が響き、間違いなくニューヨークの真ん中目がけて走っている地下鉄に乗っているのだと考えると、少しだけ「明」のイメージが顔を出してきた。

三十分は優に過ぎた頃、プラスティックのカップにコインをジャラジャラ入れて、太股でそれをリズム良く叩き、車両から車両へと移動する男性が僕に近づいてくる。イメージにあった黒人。それはペイントしたラジカセを肩にかけ、ヒップホップのリズムで「ハイ・ホー」なんて陽気な様。ちょっと違うがその時の男性はそれに合致する共通項をいくつも持っていた。その男性は、よりによって僕の目の前にある鉄の棒に左手をかけ、右手でコインカップをジャラジャラ叩いては高らかに歌い始めた。「目は合わすな」、自分に言い聞かせた。変な汗が出る。いや沸くといった方が適切かも知れない。バックパックを挟んでいる僕の両足は、力を入れないとブルブル震えそうだ。怖い顔をしたドーベルマンは、いくら向こうが愛撫を望んで近寄ってきても、やっぱり腰が引けて逃げてしまうのと同じで、このときの僕は目を合わさず、ただじっとしていた、逃げ出してしまいと思いながら。一曲がどうやら終わったらしい。今アメリカに着いたばかりの僕に小銭はない。ジャラジャラ鳴ってるカップにいくらかでもコイン放り込んだら、次の車両へ行ってくれるのだろうか。試行錯誤が頭中高速回転を続ける。と、二曲目が始まった。もう“まな板の上の鯉”であり、“蛇に睨まれた蛙”だった。何分経っただろう、二曲目が終わるか終わらないという頃、そもそもその曲を知らないので、どこで終わるかは不明だが、103丁目の駅に着いた。慌てて席を立つ。慌てていたが、律儀にチップを渡した。しかも一ドル紙幣。ジャラジャラいうコインの間で僕のワシントンが尖った音を和らげるのかも知れない。よく考えれば、歌はまずくなかった。
また金属が擦れ合う轟音をたてて、電車は行った。「さぁ」。一言呟いてから地上にでる。出てみると平日の深夜であったことも手伝って閑散としている。いや真っ暗という表現が合うかも知れない程に街が眠っている。上空から見たあの灯りは何だったのか疑う程だった。なぜか少年がグループになってスケートボードを走らせている。時計を見ると、もう午前0時過ぎ。何件かホテルを当たる。まずフロントがこの時間開いていることが最低条件で、次にオートロックで厳重警備であれば、ほぼ僕の条件はクリア。どうせ一泊だけだからと、あまり料金は気にしていなかった。が、三十ドルが限界。あーだ、こーだと部屋にケチをつけている余裕はないので、ブロードウェイ沿いの103丁目にあるホテルに決める。チェックインを済ませると、空腹であることに気づく。こんな時間だが、まだ開いているピザ屋へ入った。初めての食事は、生地の分厚く、チーズだらけの重いピザ・マルゲリータだった。ピッツァではなく、ピザだ。その二つに僕は勝手ながら大きな違いを置いている。薄い生地にトマトソースが控えめに塗られ、香ばしさを残しながらチーズが乗っているのは、ピッツァ。ボリューム満点でハンバーガーの延長線上にあるのがピザ。日付も変わった午前1時半、僕はそんな「ピザ」を食べた。飛行機で熟睡して、日本との時差を考えると体のバイオリズムは遅めの昼食か、早めの三時のおやつといった感覚だろう。
部屋に戻って、これから始まる1ヶ月を頭の中でシミュレーションしていると、時差ボケで眠れない。時計だけが進み、カチカチと耳障りになる。街には絶えることのないパトカーのサイレンが響き、眠りに入ろうと深いところに居た僕の、すぐ隣の部屋で目覚ましがなる。一体何時かとまだ時間を合わせていない時計を見て、日本時間から差し引いて現在の時刻を知る。朝、五時。この時間に起きて一体何をするのだろう。目覚ましのベルの後、隣の部屋から一切物音がしなかったので、そのまま眠り続けたのだろうと想像する。呆然と靄に包まれたその夜の記憶は、次の日の朝でさえはっきりしていなかった。

次の日、といっても眠っていないので「その日」という感覚だが、朝九時になったので、とにかく近くのユースホステルに行き部屋が空いているか尋ねる。九月初旬。ニューヨークは客で溢れ、部屋は全くなかった。欧米の学生は九月から新学年なので、早々に休学してユースホステルに入り浸っている事も考えにくい。そうなると、フロント前のソファーに陣取った日本人が、ここに溢れ返っている客の大半だと容易に想像がつく。僕は何の準備も予定もなく、ましてや語学学校へ通うのでもない。といってアメリカ中をアムトラックなんかで回る訳でもない。ただ一ヶ月、ニューヨークという街で暮らそうとやって来た。それだけに、ユースホステル以外のいわいる「ホテル」に滞在するだけの費用的余裕はない。フロントで他に安いドミトリーはないかと聞くと、ウィークリーで貸し出しをしている部屋があるから行ってみるといい、という。歩いて回れる程小規模ではない大都会ニューヨークは、地下鉄が足となる。ロンドンの時と同じように定期券を購入して、言われた通りの場所へ行く。フロントというより、警備員と言った感じの強面の男性に「一ヶ月程泊まりたいのですが」と尋ねるが、そこもいっぱい。こちらはホテル感覚で毎日ドシドシと新参者がやってくるのではなく、どっかりと腰を据えて滞在している人達で溢れ返っているようだった。フロントでは、泊まりたいと言い出した僕に対して、コンピューターを(一応)弾き、「いつからですか?」と聞いてくる。「今日から」と答えた僕に、呆れた時に見せる表情のお手本とでも言うべき顔をして、来月までは空きがないことを諭すように言ってくれた。粘る。また、安くで一ヶ月間滞在出来るところはないかと、その男性に聞くと、「ユースホステルに行きな」と言われてしまった・・・。一人旅をして、一番困るのがホテルだ。二人なら部屋代は半分ですむ。行き止まりに来てしまったような絶望感はまだこの時感じていた訳ではない。探す方法は他にもあった。ユースホステルに戻って、そこにいるバックパッカーにどこか安宿を知らないか聞いても良いし、そのウィークリーマンションのフロントに立ててあったパンフレットから、リスト順に電話を駆け回っても良い。しかし、僕には大きな問題が二つがあった。今泊まっているホテルのチェックアウト時間が迫っていると言うこと。今朝まだ七時を少し過ぎたところでホテルを出たが、もうチェックイン待ちの人が居た。これは延泊するなら早めに言わなければいけないという焦りを呼ぶ。かと言って、今日もまたあのホテルに泊まることは料金的に気が引ける。まだ始まって二日なのに、ホテル代でドンドン消費している場合ではない。もう一つの問題は、いやこれが一番大きな問題だが、とにかく眠かった。夜、目が冴えて、昼間に眠い。これは“時差ボケ”という言葉の説明で欠いてはならない現象の一つだろう。「あそこでもう一泊するか」、そう決めて103丁目に戻り、ホテルのフロントでもう一泊する事を伝える。僕が昨日の深夜チェックインしたときと同じ男性だった。何時間労働をしているのだろう。単純にそんな疑問が沸く。彼は笑顔を絶やさない。スマイルではなく、笑顔。つまり絵に描いたような形だけのものではなく、その下に温もりを伴った感情がある。そんな笑顔の彼に、僕はもう少し安い部屋がないか尋ねてみた。そもそも、ここにはバックパッカーらしき人が出入りしているのに、僕が昨日払った部屋代は普通に高い。彼は言う、「改装を済ませた部屋は、君が泊まった部屋で、まだ改装していない部屋だと半額以下だよ。長期ならディスカウントもできるけど?」と。目が覚めた。「デ・ィ・ス・カ・ウ・ン・ト」。一語一語ぶつ切りで、光りを放って僕の耳に届く。そうして、部屋を見せてもらう。確かに、改装前と改装後ではこうも違うのかと愕然としたが、とにかく半額だ。これは一週間くらい滞在できるかも知れない。トイレもシャワーも共同で充分、付いてればそれでいい。部屋も心持ち傾いているが、ゴロゴロ転んでしまう事もないし、それで充分。シングルというおまけ付きだし、冷蔵庫もある。クーラーのような送風器もひっそりと存在している。完璧に近い。即決して部屋を移動する。バッグから荷物出して、部屋中に並べると、ここでしばらく滞在するのかという安堵感で満たされ、気づくとベットで眠っていた、夕方まで。

目を覚ましてから、食事へ出かける。テイクアウトで中華料理を買い込み、部屋に戻って食べる。フライド・ライスとローメン(焼きそば)、それにビールを付ける。満腹後の一声をあげてからシャワーを浴び、同じフロアーに響いている正体不明の奇声を探ったり、一メートルも隔てることのない隣のビルの壁を窓から眺めたり、フロントに行って、2つしかない椅子の一つに座って、なるべく写真の多い雑誌をペラペラめくったりした。隣の“99¢ショップ”で買ったノートに日記を付け、眠る。いや、眠ろうとしたが、午後の全てを寝て過ごした僕の脳は冴え、今まで考えたこともなかった「これからの人生」なんて大袈裟なものまで思考が進み、真っ暗な部屋で一人、時計のカチカチという音を聞きながら、ただ目を閉じていた。

結局、その晩も眠ることなく朝を迎えた。普段寝て過ごす夜は、実は相当に長い。ただ横になって真っ暗な中、一時間を六十分、一分を六十秒、間違いなくその長さを実感する。そんな長い夜が白々と明け出すと、気持ちも明るくなる。僕はニューヨークの、少し傾いた安宿のベットで、一晩を眠ることなく過ごした。
ロンドンで知り合ってから手紙のやりとりを通じて、関係を持続させていた洋子さんが、今マンハッタンに住んでいるので、彼女を訪ねる。昼間は強烈に睡魔が襲うが、ここで眠ると、また、あの真っ暗で長い夜を眠らずに過ごすことになる。どんなに眠くても寝ない、そう決めた。近くにあるリバー・サイドパークで、パンとコーヒーのブランチを済ませ、残暑と言うよりは、真っ盛りに近い陽の光りを体全体に浴びながら、中心地へと南下する。洋子さんの住む所までは、ブロードウェイ沿いを地下鉄で五十丁目まで行き、そこから東へパーク・アベニューまで歩く。空飛ぶ車が存在していない以外、かつて想像されていた近代都市を現実化したようなセントラルマンハッタン。ロックフェラーセンターを越えた辺りに、興味深い光景があった。近代的で全面ミラーの高層ビルと、その前の全米最大というセント・パトリック教会。二つの建物が奏でるアンバランスなハーモニーは、意外な程調和しているように思えた。重みのあるゴシック様式で尖塔の高さは百メートル近いというかつての高層建築物も、その後ろに建つ近代ビルよりは遙かに低い。全面ミラーの為、ビルには教会が写る。教会と、ビルに写った教会と、全面ミラーの四角いビル。僕の目線は、交差点を行き来する大量の人々から、ぶら下がっている黄色い信号、そして、その二つの建物が創り出す三つの建造物へと徐々に上がる。立ち止まる事が困難なほど道幅の狭い歩道からは、見上げても空い青がない。ただ、道を挟んで建つビルの星条旗とユニオンジャックの列が強烈な赤を印象づけ、そればかりが飛び込んでくる。視界全体に「赤」が広がる。改めて眺めると、セント・パトリック教会はまるで腰の曲がった老人のようで、その後ろにスマートな若き青年が突っ立っているような光景だった。にじみ出てくる老人の美と、安定感と深みが強調され、上手く近代的大都会の中にとけ込んでいるというよりは、むしろその教会を中心に整列したビル群という感覚が濃厚に感じられた。その姿を近代ビルの鏡に写しながら、次なる時代へと。

ニューヨークには、自分の資本を形で示そうと、より高く、より美しく、競い合って建てたビルが密集している。クライスラービルが世界一の高さを誇り、エンパイアステート・ビルがそれを追い抜く。長い間世界一の高さを誇ったそのビルも、ワールドトレードセンターのツインビルに世界一を奪われる。高さ競争が一段落すると、頂上を斜めに切り取ったデザインのシティ・コープセンターや、スピルバーグ監督が成功の証に住まいを構える超高級マンションのトランプタワーなどマンハッタンのど真ん中にそれぞれの「証」が刻まれている。日本経済が大躍進を遂げていた時代、ロックフェラーセンターを自分のモノにして、世界へその資本を見せつけた企業もある。良い意味においても、悪い意味でも、ここには「世界」という言葉が付き回り、成功を手にしたウイナー達が諸手を挙げて鎮座する価値を有しているようだ。スペースとマネーがあれば、なんでも出来るのではないかと思わせるほど、世界の成功者は、ここマンハッタンに「その印」を刻んでいく、“より高く、より美しく”と。

洋子さんに会う。一年ぶりの彼女は変わりなく、ブランクは、「久しぶり」とお互いが挨拶した瞬間に消えてなくなった。ただ、彼女が完全なベジタリアンになっていたのが唯一の変化。ロンドンで会ったときも確か、まったく肉を食べないということはないが、出来るだけ食べないという程度のベジタリアンだった。この一年で、それが完全になっていた。夕食は、そんな彼女と、野菜は進んで食べないという僕が、一緒に行って満足できる店に限定された。チャイナタウンに移動する。移民の多いアメリカで、その中でも大都会のニューヨークには外国からの移住者が後を絶たない。かつて、ピルグリム・ファーザーズの一団が、イギリスからオランダに逃れ、そしてここニューイングランドで定住を始めてから、つまりこの国の始まりから、移民で形成される国家なのだろうかと思えてしまう。全世界の大都市には、必ずと言っていいほどチャイナタウンがあるが、マンハッタンのチャイナタウンは膨張を続け、隣のリトル・イタリーと呼ばれるエリアにも、どんどん中華料理店などが出来ているという。全世界人工からの比率で考えても、「大量」という表現が過言ではない国、中国。十億を越す人工が世界中に散らばっているのも、納得できる。どの街に行ってもチャイナタウンがあるのは僕にとって好都合だ。あの脂っこい味も、匂いも全て大好きなので、困ったときには愛想の悪い(愛想の良すぎる日本から来ているのでそう感じるだけだが)中華料理店の門をくぐる。最近は、世界のどこへ行っても母国の味があると、マクドナルドが宣伝しているが、紛れもなく僕は、マクドナルドより、中華料理店がありがたいのだ。肝心な母国の味である日本料理店は、どんな基準で根付けしているのか、いっつも、どこでも、高い。考えてみれば、日本にいて食べても高いのだが。ベジタリアンの洋子さんと、中華大好きな僕が選んだのは、点心屋さん。ただの点心ではなく、全ての原材料が野菜で、限りなく「えび」や肉の味を真似ている。何も聞かされずに出されると気づきもしないほど似ていた。えびはえびだった。夜十時を回っていたのでホテルに戻る。地下鉄は、確かに安全になったと、ニューヨークに来て、一年の洋子さんも太鼓判を押す。市長が代わり、落書きだらけの車両は、全て綺麗に洗い流された。しかし、ペンキの落書きは消せても、コインで傷つけられた落書きまではまだ消えていない。一目で分かる派手な落書きは消えたが、根深く刻み込まれた落書きは消えていない。一見安全に見える地下鉄も油断は絶対にできない、まだ残っているコインで刻み込まれた落書きのように。夜九時以降は地下鉄を利用しないと言う洋子さんの安全対策を真似して、僕も市バスでホテルに戻ることにした。バスの運転手のすぐ後ろに座るのが基本らしい。市バスは安全で綺麗だった。そして早くて、路線も充実している。それからの僕も、夜の移動はもっぱらバスが多かった。103丁目のホテルに戻り、廊下の隅っこにある共同シャワーを浴びて、ベットに横になる。よく歩いたので、体は確かに疲れている。太陽を浴びると、体内時計がその地に合わされ、夜に眠れるようになるという。時差ボケを解消するには日光を浴びるのが一番だと、どこかで聞いた事がある。それが本当なら、今日一日浴びすぎる程浴びた。足も「棒になる」という比喩が明確に感じられる程だった。

しかし、眠れない。昼間も寝ていないので、これは完全に不眠症かも知れない。

眠れない長い夜が白々と明け、顔を洗って表に出る。クッション性ゼロのベットで背中が痛む。階段を降りてフロントを通ると、日本人二人が困惑顔でチェックインしている。鍵を預けるついでに挨拶をして、事情を聞いた。彼らは東京から来た大学四年生。卒業旅行でアメリカを周遊するという。大きなスーツケースをゴロゴロひいての周遊旅行?とにかく、彼らの事情はこうだ。ニューヨークからシカゴ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、果てはメキシコまで行くそうだが、期間は二週間。アムトラック(新幹線)で回るという。ニューヨークのホテルは高いと聞いていたので、ここだけはユースホステルに泊まろうとしたがいっぱいで、このホテルに来たらしい。何を困っていたのかと聞くと、昨日の深夜に飛行機で到着したので、空港で一泊して早朝マンハッタンに来たらしい。そのため、単純に疲れ果てていたそうだ。彼らとその日一日行動を共にする事にした。彼らの滞在期間は三日、僕はというと、1ヶ月ある。一日くらい、観光三昧を味わっても良いだろうと、どこに行く予定か聞いた。気持ちのいいほどスタンダード、「自由の女神」を見るそうだ。僕もそう言えばまだ見ていなかったので、地下鉄で一緒にロウアー・マンハッタンに移動する。セントラルともホテルのあるアッパーとも趣を異にするこのエリアは、観光地と呼んでも良いほど太陽の陽射しがまぶしかった。地下鉄を降りてすぐのバッテリー・パークには風船を持った子供達や、様々な国の、様々な年代の人達が、観光客という共通項を持って、リバティ島にある自由の女神を眺めていた。さすがに「おおぉ」と声がでる。「ニューヨークに行きたいかぁ〜?」というフレーズにのって、遙か大都会を夢見ていた世代ではないが、写真やテレビで何百回と見てきたその女神との初対面には、一種の感動があった。それだけが確かだ。フランスを向いて、掲げられたたいまつを眺めながら、自由というと言葉を堂々と言える雰囲気が、仮想空間であっても、僕は心地よかった。自由の島にある自由の女神は、自由の国の象徴に成っているのだと、そう、信じたい。
バッテリーパークからフェリーでリバティ島へ向かう。乗り込んだ観光客は、みんなカメラを構えて、女神を撮り、次いで、離れていくマンハッタンを収める。ツインタワーが一際目立ち、小さい頃ブロックで造り上げたモザイク都市が具現化したかのような街。一人一人の人間をちっぽけに映し出す大都会が、段々遠ざかり、自由の女神を見上げる距離になる。「大きい」。本当に大きなその女神の王冠部分まで、エレベーターで上がり、そこから眺める。目線で言えば、自由の女神より少し高い位置から大西洋と、そしてその向こうにある遙か大陸を眺める。空と海だけの景色から、かつての入植者達は、濃厚に母国を映し出していたのだろうかと、考えながら・・・。

ロウアー・マンハッタン(マンハッタン南部)にはまた、経済の中心地もある。世界経済の中心地と言えるかも知れない。東京から来たその学生の一人は、大手都市銀行に内定を決めており、証券取引所へ行くことが、大きなお目当てになっていたようで、こんな機会でもないと一生見ることはないかも知れないと思い、僕も「見学コース」の列に並んだ。なぜか行列だった。何時間かに一回、制限された人数だけ中に入ることができる。入るには計三回のセキュリティーチェックを受ける。僕は必ずピーピー鳴る。空港でも同じだ。もうここまでなると、セキュリティーチェックは「鳴るもの」と思いこんでいる。カバンの中身とベルト回りを厳重にチェックされ、中に入る。といっても、ガラス張りになった取引所を二回からグルリと回りながら眺めるだけ。中の様子は、想像していたよりものんびりしていた。時間帯なのだろう。値動きの激しいときとは違い、一休み中だったのか、一人一人にブースがあり、その中に座って、画面を眺めては、あちこち動き回っている人と簡単な会話をする。そして、また、画面を見る。何をやってんだか、さっぱり分からない。でも都市銀行内定者の彼は「さすがだなぁ」と感嘆していた。どこに?何に?どうしたの?とはてなマークを頭上に浮かべる僕をよそ目に、まるでショーウィンドウに欲しいバイオリンでも飾ってあるバイオリン弾きの如く、眺めてみた。そこで繰り広げられる「売り手」と「買い手」のゲーム。言ってもしまえばゲーム感覚で世界経済を動かし、世間とは同等の価値を有しない金額が、あっちへ、こっちへと毎分単位で揺り動かされる。そんな光景を見て、僕は「とても遠い世界」のように感じた。なぜか分からないが、そう感じた自分に、しっくりとさえきていた。
証券取引所から少し北上すると、ワールド・トレードセンターのツインビルがある。見上げると、その高さ故に視界がドンドン狭まり、間に覗く空が窮屈そうに写る。中世ヨーロッパの大聖堂や、戦国武将の城を見て、「よくこんなの作れたな」と感動するが、この二つのビルの間から見上げていると人間業もここまで来たか、と妙に「続き」が知りたくまってしまう。その圧倒的存在感には、同時に、この先揺るぎようもない「安定」を感じていた。ビルとビルの間には、ポストカードを売る店や、ダンスパフォーマンスをする少女達が平日の昼間から居て、その横をスーツ姿の金融マン達がエレベーター待ちをしている。この雰囲気を作りだしている全ての要素が、平和に富み、余裕のある空気を造りだしていた。しかし、地震よりも、雷よりも、そういった自然の猛威よりも恐ろしい、同じ人間のチカラによってツインビルは破戒された。そのニュースを見て、僕は心の底から「人間はなんでもできる、なんでもやってしまう」と感じた。あれだけのビルを造ることも、そうして、壊すことも。そんな事が起こるなどとは、あの時、見上げたツインタワーからは微塵も想像に及ばないほど、晴れ渡たり、透き通り、成功者達を称える軽やかなマーチが鳴り響いているかのようだった。

彼らとは夕食を食べた後別れた。日本でミュージカルのチケットを買ってきているらしく、今晩見に行くそうだ。僕の分は・・・、もちろんないし、羨ましく見送った。部屋に戻って、シャワーを飛ばし、疲れ果てた体をベットに投げた。瞼が重い。電気は付いているが、消すために体を起こすのも面倒なほど、眠い。目を閉じたまま、深い眠りへと・・・、と、思ったら、やっぱりまぶしかったので電気を消した。掛け布団を被り、上を向いて眠る。急に真っ暗な夜に、頭が冴えてきた。今まで経験したことのない感覚。疲れている体を真っ暗な空間に置けば、後は眠るだけだったのに、このときばかりは頭が冴える。いい加減眠らなければ、体が持たない。眠れない、寝なければ、寝なければ。思えば思うほど、よけい眠れない。追えば追うほど手に入らないのと同じか?恋愛の法則か?

こうして、僕は完全に不眠症になった。

ホテルの外から絶え間なく聞こえるパトカーサイレン。日本よりも忙しなく、サイレンとサイレンの感覚が短い。ホテルと隣のビルの間には細い隙間があり、そこに入り込んだ若者が数人叫び声や奇声を発している。何をしているのか、窓から頭を出して覗いてみる勇気はない。僕の部屋は4階なので、安心してもいいだろう。真っ暗な部屋に届く街の音のどれもかもが、僕の中にあったニューヨークと合致する。この街の中で一人、街の人々と触れることを一切拒否したならば、一人で部屋に閉じこもっていたら、押しつぶされてノイローゼになっていたかもしれない。大量の人が、店が、車が、モノが、確かにここには存在するが、それら全てを受け付けず遠ざけてしまう事は簡単に出来てしまう。つまり、この街では、人は、一人一人自分だけの空間を持っており、そのスクエアの中で生活をしている。それぞれのスクエアを行き来するときには、笑顔や、挨拶などが鍵となり、お互いに話し、笑い、会話の中から混じり合いを持つ。が、それもこちらから何のアクションもとらず、ただじっと自分だけのスクエアで生活しようと思えば、何日だって、何年だって可能だ。お腹が減ればスーパーへ行って、無言で買い足せばいい。時々、それぞれのスクエアがぶつかり、擦れあって、傷つけ会うこともある。それを恐れて、自分だけの空間で、ガードしているフェンスを飛び越えぬまま、ひとりぼっちになっていては、孤独という、言葉以上に大きな圧力に押しつぶされてしまう。何でもありそうなこの大都会に来て、自分だけの空間に生きて、そして容易に守ることのできる「スクエア」を解放しないまま、孤独に押しつぶされてしまう、こういった例は大都会特有のモノであるかもしれない。幸い、僕は道路清掃員のオレンジ色のつなぎを着たおじさんにも笑顔で挨拶をしていた。彼らは決まって歩きタバコの僕に向かって「タバコを一本くれよ」と挨拶代わりに言う。テイクアウトでサラダからサンドイッチまで買える「デリ」に入っても、店員にお薦めを聞いて買う。そんな些細な会話から、この街を形成する要素を僕の中に取り込んで、自分のスクエアをこの街色に変えていける。そう、頭の中だけで、想像して分かり切ったように思っている一つ一つを触れて感じてみる。単純に「ホッとドック」といっても、路上のベンダーで買う一ドルのホッとドックはウィンナーがパリパリだったり、オニオンのみじん切りと赤いソースが絡み合って独特の味がする。つまり想像していた味とは違う。勝手に囲ってしまったフェンスの中で、あれこれと結果付けるよりも“オーバー・フェンスの未知の世界”には、触れてみて初めて気づくモノが多い。僕にとってニューヨークの始まりは、毎日がカラフルで、全部がごちゃまぜになってからにじみ出てくる「うま煮」のようだった。・・・ただ、眠れない夜以外は。

目を閉じて、遠くなった瞼の裏で、それでも冴えきった頭で、思った。“equal opportunities”。この精神はしっかり根付いているのだろう。とてもアメリカ的な考え方だ。機会を平等にあたようという。よく言われる話だが、その機会平等という考え方が日本とは根本的に違う。日本では、機会を平等に与える事をまるで、結果まで平等でないといけない風潮がある。言わば、結果的平等。手を繋いだまま並んでゴールさせたという運動会の徒競走に、この考え方は顕著に現れている。一等、二等という順番は平等ではないという。僕は思う、そこに優劣はあるのだろうか。あるとすれば個性の違いであり、かけっこが速い、遅いという特徴なのだ。スタートラインに全員立たせた以上、もう平等は成立しており、そこから全力で走って、結果を得ることは、誰にも関与できない、言い切ってしまうとそれが「競争」なのだ。なにも小学校から競争しなくてもいいと、一見優しそうな意見を持つかも知れない。小学校は六年間で、人生はその後も何十年と続くのだ。そして、そんな「競争」は、否応なく強いられるのだ。アメリカ人的「機会の平等」は全員をスタートラインに立たせた時点で成立する。歴史的背景に、そんな機会でさえ、平等に与えられなかった差別があったが故、自由と言う言葉と、機会の平等はリンクして使われているのだろう。
ただ、僕が見たニューヨークは、風をきって歩くウォール街のスーツ姿の人よりも、裏道で「タバコをくれよ」と挨拶代わりに言い寄ってくる人達の方が、イメージにぴったりくる。それは、平等に与えられた機会を成功に結びつけられた人がほんの一握りしかいないという証のような気がした。成功、僕はここで、この言葉を経済的な面でのみ使用しているに過ぎないが。

窓から少ない隙間を縫って太陽が射し、部屋が明るくなって目覚めた。知らないうちに深い眠りに入り、「不眠症だな」と確信した夜に僕は、不眠症を克服した。つまり、不眠症ではなかったと言うことだろうか。今日は天気が良い。天気が出る。水しかでない洗面の水も気持ちが良い。こんな日は、"How are you?"と聞かれても、思いっきり「グッド」と言える。
ホテルの近くのスターバックスコーヒーでトールのカフェ・モカを買い、颯爽とカップ片手に歩き出した。スーツ姿のキャリアウーマンが、片手にスターバックスのカップを持ち、スタンドで新聞を買っているのを見た朝以来、これが格好良く感じられて、真似をするようになった。セントラル・パークまでは歩いて十五分程かかる。はき慣れたスニーカーのエアー底が、僕を一歩一歩、前へ前へと運ぶ。朝と言うよりは昼前の時間になっていたので、公園の入り口にあるベンダーでホッとドックを買って、公園内のベンチに座って食べる。ウォークマンを聴きながらジョギングする女性、男性、青年、壮年、熟女。みんな走っている。歩いてる?と思わせるほどの熟女も、確かに走っているのだろう。それにしても、ネクタイをはずしたYシャツにべっとりと汗をかいて、ふっ、ふっ、はぁーと呼吸にリズムをつけて走っている男性は、今、昼休みなのだろうか?オフィスに帰ればシャワーがあって、着替えも持ってきているのだろか?着替えを持って来るくらいなら、ジャージくらい持ってくるだろうから、もしかして、何かの罰ゲームなのだろうか?僕の座ってる前が百メートル程の直線だったので、その男性が姿を現してから、消えるまで、ずっと、そんな事を考えていた。とにかく、セントラルパークは広い。野球場がいくつもある所がアメリカだ。野球場の向こうに芝生が広がり、空と地面の間にスカイスクレーパーが伸びるように建っている。何もしたくない、どこにも行きたくない。芝生に寝ころんで昼過ぎまで過ごす。あえて言えば、こうして寝ころびたい為にセントラル・パークに通っていたと言っても過言ではない。公園内を縦断すれば、マンハッタンのアッパーエリアからセントラルまで移動できるし、横断すれば五番街からパークウェスト・アヴェニューまで移動できる。ど真ん中に広大な緑がある。そして、憩いを求めてやってくる人達の要求をほぼ完全に満たしてくれる「憩い」がその公園にはあった。それ以降、僕は美術館に行くにもその公園を横切って行った。

街中にあるポストからフリーペーパーを取り、ミュージアム・リストを眺めていると、マンモス校の住所録のようにA to Zで並んでいる。建物自体が芸術品であるかのようなグッゲンハイム美術館。金曜の夕方は無料(寄付制度)になるので、それに合わせて行く。グルグルと回るスロープを昇りながら展示品を見る。ちょうど、バイクの特別展をやっており、初期ハーレーダビットソンなど、興味のある人にはたまらない特別展のようだった。上下皮の真っ黒いライダー達が、順番を待っていても目立った。そんな無料の時期に合わせて訪れなくても、この国は学生に優しい。国際学生証の提示で、半額、いや入場料一ドルなんて事も珍しくない。ニューヨークの北、ハーレムの南辺りにあるコロンビア大学のキャンパスをウロウロ歩いている時思ったのだが、この国立公園並の広場と宮殿のような校舎、そして街に出れば学割、一ドルの商品達。あ〜、これなら僕ももっと勉強できる、なんて、典型的ニッポンの大学生である僕は拗ねていた。隣の芝生は蒼く見えるものだと決めつけるには、程度が違うような気もする。美術館巡りは、そういった金銭的圧迫がない分、十分すぎる時間的余裕も手伝って、かなりたくさん回れた。アンディー・ウォーホールの原色がまぶしい近代美術館、恐竜が巨大な事を改めて感じた自然史美術館、そして世界三大ミュージアムと言われる、歩くだけでも一苦労な面積を持つメトロポリタン美術館と。青の時代と言われる写実的なピカソの絵や、フワフワ浮かんでいるような色彩のルノワール、デムズの「5」という金色の数字。立ち止まり、凝視する毎に、色と構図の深さが味わえる。・・・ような気がする。
そういった大きな美術館巡りが終わると、ソーホー・エリアのギャラリーへ行く。基本は売り物だが、ギャラリーとして、こじんまりと展示している店もある。その中で、僕がこの先アフリカという地に異常な程の執着とあこがれを持つようになるきっかけを作った、ピーター・ビアードというアーティストのギャラリーがあった。ワニ、ライオン、植物、そして部族。その大地にある全てモノをありのままに撮り、その状況を抽象的に表すペイントを施している。ライオンがこちらに向かってくる連写写真。巨大なワニの後ろに整列した現地人。直筆のノートも展示されており、植物の葉を貼り、横にメモを足す。彼は、アフリカという地をそのまま写しだそうとしたのではなく、そこにある「何か」と抽象的にデフォルメして表しているのだろう。その「何か」を僕は自分の目で見たくなった。いつか必ずアフリカの地に立ちたい、と。そのギャラリーは五ドルと少し値が張ったが、何度か足を運んだ。

セントラル・マンハッタンより南部に出かけたときは、遠回りしてでもチャイナタウンに寄ってからホテルに戻ることにしていた。そこで夕食をとる。丸焼きの豚が並べられた店でスープヌードルを食べたり、屋台で焼きめしを食べたり。洋子さんの友達の直子さんが通っている語学学校に新入生として中国人が入ってきたそうだ。その女性はニューヨークで暮らし初めて十年以上経つが英語が全く話せないと言う。つまり、この膨張を続けるチャイナタウンに生活の一切合切をまかなえるだけの店や人や施設があり、その中で日常的に使われている中国語だけで生活できてしまうのだろう。日系企業の派遣社員が、帰国間際に急いで英語を学び始めるという話も聞く。つまり、アメリカにあってもオフィス内では日本語が飛び交い、食事も日本人と摂る。帰国してから英語の必要とするポストに配属されるから、帰国間際に駆け込むようにレッスンを始めるのだという。チャイナタウンを歩いていると、しかも滞在が二週間も過ぎると、カメラなど持ってもいないし、綺麗な服を着ているわけでもない。普段着で歩いてる僕に「ニーハオ」と挨拶をしてくる人がいる。今までは意地になって「コンニチハ」と日本語で返していたが、この頃になると「ニーハオ」と笑って返していた。ここで日本語にこだわる事に大きな意味はないような気がした。単純に挨拶なのだ。「ツー」と言われれば「カー」と返せばいい。

ブルックリンに行く。危険であると聞いていたエリアへの訪問は、どこなく慎重になる。地下鉄でプロスペクト・パークへ向かう。こちらもだだっ広い公園で、地元の高校生がダンス・パフォーマンスの練習をしていた。僕たちが腰をおろしてその様子を見ていると、二、三人がこちらに向かって宙返りや組体操のようなものを見せつけてくる。全体練習は休憩中で、方々へ散らばって飲んだり、食べたり、少人数で会話したりしているが、どうもその二、三人だけが僕にアピールする。僕も立ち上がり、尻に付いた芝生を払いバック転をした。しかも、二回連続で。小学校の時、どうしてもバック転がしたくて、寝る前に布団の上で来る日も来る日も練習した。初めはドンドンとうるさいので止めるよう注意していた両親も、あまりにも練習している僕に同情したのか、そのうち応援するようになった。そして、いつの間にかできるようになっており、二十歳を過ぎても感覚だけは残っていた。一か八か、僕はこのときやってみた。見事に成功。周りから拍手をもらってしまった。照れくさい。そのまま立ち去るわけにも行かず、その場にまたしゃがんで、タバコを吸った。高校生達の練習が始まったので、それを少し見てから立ち去った。一周十分以上はかかるだろう広大なこの公園は、マンハッタンより住人の多い、ここブルックリン市民の憩いの場だ。犬の散歩に草野球、バーベキューと、真昼の光景にぴったり来る行事が行われていた。やたらとバレーボールをしている若者が多い。公園を一周してからバス停を探す。このプロスペクトパークはセントラルパークとは違い、造られたという印象があまりない。帰りは市バスに乗って、ブルックリンの町並みを眺めながらブルックリン・ブリッジを目指すことにした。マンハッタンでは詳細な地図を駅でもらっていたので、あまり道に迷うということはなかったが、ブルックリンエリアのマップは省略しすぎて見にくい。何度も通りの名前を照合させて、北と南の方角を合わせ現在地を確認するが、つかめない。仕方がないので、ベビーカーを弾いてる女性にブルックリンブリッジに行くバス停はどこかを尋ねる。親切に教えてくれる。が、僕の持ってる地図を同じようにのぞき込んで、ここよ、と地図上に指さした。・・・。真っ直ぐ行けばいいのかと聞くと、そうだとうなずく。よく分からないが、真っ直ぐ歩いているとバス停があった。家が建ち並ぶ。住宅街だ。向こうからやって来た、タンクトップと短パンのランナーに同じ質問をする。ここで待っていればブルックリン・ブリッジに行けるかと。するとおじさんは立ち止まり、「行けるよ」と答え、そのまま僕の横でバス待ちを始めた。えっ?やがてバスが来るまで無言。どういう意味かと考えた。ランニング中のおじさんが、僕に正しいバスを教えるために、わざわざ一緒に待ってくれたのだろうか。すると、止まったバスへ先に乗り込んだ。もう完全不明だ。ランニングはもういいのかと聞くと、彼はいつも行きはランニング、帰りはバスというトレーニングをしているらしい。色々あるものだ。そのうちに彼は僕に向かって、あの店は全部安いよとか、あの工場では車を作ってるとか、挙げ句の果てには、あの教会で結婚式をあげたんだ、とても素晴らしかったよ、とガイドのようで、世間話のような会話を続けた。彼は鉢植えの真っ赤な花が何本も咲く、綺麗な玄関を持った家に帰っていった。このバスの終点がブルックリンブリッジであることを教えた後に。バスに乗客は誰もいない。運転手だけだ。信号のない住宅街をスイスイと走る。追いかけっこで笑いながら走る少年、少女。玄関先に置いた椅子に腰掛けて新聞を読む老人。空き地の中にぽつんと立っている工場からは金属質の大きな音が鳴り響いていた。バスの窓から見たブルックリンは、太陽の光が照らしている間は、安全を完全保証されたかのような、のどかな住宅地だった。
バスが終点に着き、簡単にブルックリン・ブリッジまでの行き方を運転手に聞いて、教えられた通り進む。この橋が唯一マンハッタンとブルックリンを繋いでいた時代、今のようにブルックリンは平和でのどかだったのだろうかと考えた。橋を通らなくても地下鉄で行き来が出来るようになって、ブルックリンが特化して危険地域と呼ばれることも少なくなったと思う。その分、この橋の持つ意味が薄れたようにも思うが、何本ものワイヤーでつられたこの橋は、もう百年以上マンハッタンとブルックリンを繋いでいる。そして、何本もの映画に登場している。この橋からみるロウアーマンハッタンのビル群は、夕日がなくても、綺麗なライトアップがなくても、魅力的に感じた。その橋から川沿いにプロムナードが続いており、ベンチに座って、川岸の涼しい風に打たれながら、のんびりスカイスクレーパー・ビューを楽しむのもいいものだった。このプロムナード沿いには高級住宅地が並び、家の前でペットの犬を洗っていたおばさんに話しかけると、「日本人かい」と聞かれ、そうだと答えると、今息子が仙台にいる。息子から来た絵はがきを見せようか、とポケットから見せてくれた。なぜかお寺をバックに舞妓さんが二人立っている写真だった。日本の気候や、食べ物や、仙台が東京からどのくらい離れていて、東京まで何時間で行けるかなど、聞かれるままに答えた。京都で生まれて、京都で住んでいる僕に、正確な東京、仙台間の距離や時間は分からない。全ての数字の前に「about」をつけて答えておいた。もしかしたらとんでもないことを言ってしまっているかもしれないが。坂道のスロープを昇り、すこし小高くなった場所からマンハッタンを見ると、ちょうどサンセットになっており、空がピンク色に染まっていた。
 
日曜日と水曜日、多くの教会ではミサが開かれ、その後に聖歌隊によるゴスペルが行われる。ゴスペル、この旅では出来るだけ多くのゴスペルを聴くのが目的の一つだった。いくつかの旅行会社ではゴスペル・ツアーなどを組んでいたが、無料のゴスペルを聴くのに三十ドル程のツアー代金は納得いかなった。ゴスペルはハーレムだ。なぜか、僕の中にはそのイメージが色濃かったし、おそらく本場と呼べるであろう。「天使にラブソングを・・・2」という映画でウーピーゴールドバーグやローリン・ヒルが見せたあのパフォーマンスに直に触れたい。日曜日になると地下鉄で125丁目まで行き、駅にあるエリアマップの教会マークを頭に叩き込むと、順番に教会巡りをする。このエリアの黒人率は確かに高い。どの街をあるいても、アジア人が多いとか、白人が多いとか、スペイン人が・・・、と後になって感じることはあるが、駅を出て、一歩ハーレムを歩くと、すぐにそう実感した。歩く一全てが黒人だ。僕のことを珍しいそうに眺めて来る人もいる。手を振って「ハーイ」と挨拶をすると、決まって真っ白い歯を見せて返してくれる。怖いというイメージはある。でも午前中や昼下がりは、メインストリートである125丁目を歩いている以上、危険性は感じない。マルコムX通り、マーチン・ルサー・キング通り、アポロシアターと目に飛び込んでくるのは、自由を求めた黒人解放指導者の名や、世界に誇るエンターテイナーの登竜門の名前ばかりだ。マイケル・ジャクソンもアポロシアターのステージに立っていた。夜になると、このステージで明日のスターを夢見たアーティストがマイクを握るのだろう。
教会は探すと言うより、道なりに次々と並ぶように建っていた。ハーレムの人達は信仰心があつい。教会に来ている人はみんな正装だ。Tシャツとジーパンの僕は、説教の途中での入場ということも重なって、大体後ろの席に座って、説教の合間に、周りの人に会わせて「エイメン」と十字を切っていた。初めの教会では、ゴスペルは高々と合唱隊が聖歌を歌って終わった。前の教会に移動すると、年を重ねた女性がマイクを使い、高音とビブラートを多用して歌っている真っ最中だった。座って、またすぐに席を立った。何件か続いて移動をしたが、僕の求めるゴスペルには出会えなかった。何もかもが違うスタイルなのだ。簡単に考えすぎていた自分を思い知らされた。ひょいっと教会を覗けば、そこには必ず活気と喜びに満ちた、開放感のあるゴスペルに出会えると思い込んでいた。その後も何軒か覗いたが納得のいくものには出会えず、最後に残った少し大きめの教会に入った。そこには、どうも足が遠のいていたのだ。中に入っていく信者の数が異様に多い。踏み絵の逆パターンのような、信者であるという証を示してからでないと入れないような、そんな気さえしていた。実際はシスターが優しく手招きをしてくれ、僕はそっと中に入り、空いてる席を探す。壇上では右手拳を掲げながら熱く説教している。そして、みんな真剣にそちらを向き、頷き混じりに納得している。シスターがずらりと円を描くようにサイドから後ろにかけて等間隔に並んでおり、二、三人が同時に手招きをする。よりによって、前から二列目のおじさんが、空席を知らせ、僕を誘導する。ちょこんと座り、席の前に置かれている聖書をペラペラとめくる。じっと聖書に目をやったままうつむいていると、ガサガサガサッと全員起立する。慌てて僕も立ち、声を合わせて「エイメン」と言って、ミサは終わった。んっ?終わってしまった。ゴスペルはないのかと隣のおじさんに聞く。ニッコリ笑って、黄色いコピー用紙を一枚手渡してくれた。そこには、今日の午後三時から、昨年マディソンスクエアで行われたゴスペル・フェスティバルで優勝したゴスペル・チームが、この教会に歌いに来ると書いてある。頭に浮かんだ「天使にラブソングを・・・2」のゴスペルシーン。午後三時までは後三時間ちょっとある。ランチを食べて、その辺をウロウロする。せっかくここまで来たのだからランチはソウル・フードにしよう。アメリカの奴隷時代、黒人達が残り物からアレンジを加えたメニューをソウルフードと言うらしいが、ハーレムにはそんな店が多い。旅行会社のツアーでは、ゴスペルを聴いて、ソウルフードを食べるというのが、セットらしく、丁度正午の時間帯、どのソウルフード店もいっぱいだった。マクドナルドに行く。アメリカ料理と名前の付くモノはないかも知れないが、世界中でアメリカン・フードの代名詞的役割を果たしているマクドナルドも、この国のソウルだろう、などと訳の分からない理屈を付けて、ツー・ダブル・チーズバーガーセットを頼んだ。ダブルチーズバーガーが二つとフレンチフライとドリンクのセット。日本ではまずないセットだ。食後にはウロウロと歩き回った。スリー・オン・スリーをする少年達は、ボールと手がくっついているかのようなドリブルをする。音楽、ファッションも、それらの一つ一つにアメリカだなぁ、などと感心しながら、編み目のフェンスに顔をくっつけながら見ていた。ハイタッチする仕草一つとっても格好良い。声変わりの済んでいない少年の高音が、喜びや、ののしりの声となり響いていた。時間はあっという間に過ぎた。二時半になったので、例の教会に戻る。入り口でみんながお金を払ってから入っている。しかも、十ドル。「お金がいるの?」と尋ねた私に、恰幅の良い受付のおばさんが、「今日はスペシャルだからね」と豪快に笑った。お金を払ってゴスペルを聴く。一つのショーになっていた。拍手をリズミカルに打ち、それに促されるように出演者全員がステージに昇る。観客席の間を縫って通り、握手を繰り返す。通路側に座っていた僕は二人と握手した。握手している相手をしっかり見つめるという、エンターテイナーの基本が備わっていた。全員で挨拶代わりの歌声を高らかに奏でた後は、女性が四人だけ残り、しっとりと、美しいハーモニーでバラードを歌う。高音に移っていくまでが心地よい歌声。ついつい目を閉じて聞き入ってしまう。大袈裟ではなく、自然とそうなる。歌が佳境に入ると、総勢三十人はいるだろう男女が舞台に登場し、身体全部を使って唄い踊りだす。観客は皆、総立ちになる。そして僕も知らぬうちに立ち上がり、手を打ち、リズムを刻んでいた。教会全体に創り出させた手の舞い、足の躍る雰囲気。時間を忘れ大声を出し、ステージと一体になる。終わる頃には、隣のおばさんとは仲良くなった。両手、腰、顔の表情、その全てを使い、深く激しく感情を表現する。ゴッド・スペル。神からの喜びを知らせるという意味を持つゴスペルに、僕は胸を躍らされ、完全に魅了された。

圧倒的に魅了されたのは、ゴスペルだけではない。ブロンクス・エリアに本拠地を持つ、メジャーリーグ屈指の強豪チーム、ニューヨーク・ヤンキースの試合も圧倒された。この年のヤンキースは強すぎた。シーズンを通しても数えるほどしか負けておらず、相手はトロント・ブルー・ジェイズ。強豪同士のぶつかり合いというような、緊張感はスタジアムにはなく、観客はそれぞれ、自作のプラカードを掲げ、ポップコーンを食べながら観戦していた。直角ではないかと思うほどの斜面に席が造られているので、前の人の頭が邪魔になって試合が見れないと言うことはなかったが、あまりにもグランドまで遠すぎる。もっと奮発して良い席を買えばよかった。試合は大きな動きがないまま進んでいく。よくメジャーリーグはスピードとパワーが違うと言われる。スピードは遠目からの観戦だったので、よく分からなかったし、日本のプロ野球のスピードもかなりのモノだ。でも、圧倒されるのはパワー。こればかりは世界一のベースボールリーグであることを証明しているように思う。木製バットと硬式のボールが当たると、鈍い音がスタジアム中に響く。ラッパなどの鳴り物を使っての応援は禁止しているので、打球音もスタジアム中に響くのだ。みんなが打球の行方を追いながら観戦している。見ている方もやっている方も真剣だ。僕が座っていた周りでは、若干そうではない騒ぎたがり屋が陣取ってもいたが・・・。こんな話を聞いたことがある。日本人は、年を重ねていき、体力が劣ると、“技”でかわすようになる。「燻し銀なプレー」と簡単さえされる。しかし、メジャーでは、衰えた体力はより一層の筋力強化(パワー・アップ)で補うという。チカラとチカラ。一対一の真っ向勝負だ。見ている者にとって、それは至極単純で明快な対決である。そこに、圧倒されるのだ。グランド整備の時間には「Y.M.C.A.」が流れ、トンボを弾いてる少年達も、サビにはY.M.C.A.とポーズをとる。もちろん、観客も全員でそのポーズをとる。さすがに、選手はしていない。試合はというと、ヤンキースが負けた。逆に珍しい良い経験をしたと思えるほどに、ヤンキースはこの年負けなかったのだ。

ニューヨークから飛行機でカナダのモントリオールへ出かけた。カナダ。アメリカと国境を接し、そして同時にアメリカと同一化されているモノも多い。メジャーリーグにカナダの都市のチームがあるのもその一例だ。しかし、モントリオールは違う。アメリカ合衆国が英国からの独立で成り立った国であれば、ここモントリオールはフランスからの独立を勝ち取ったと言っていい。街中にはフランス語が溢れている。まず思ったのが、カナダは、そこに住む人達は、本当に柔らかい。言葉使いも、サービスも、全てにおいて、ニューヨークから来た僕が心底感じる柔らかさを持っていた。女性で一人旅をしているという日本人に二人あったが、想像通り、この国は安全で、人々が優しいという。モントリオールから少し北上したローレンシャン地方は、紅葉の名所で、日本と同じ真っ赤に変わる紅葉が楽しめるというので、行ってみた。湖をクルーズして、湖畔の白い建物と、バックの紅葉を眺めたり、真っ赤な木々の間を流れる渓流を渡ったり。曇っていたのが、最もの理由であろうが、あまり、ここじゃないと絶対見れないと言う景色ではなかった。カナダ西部にあるバンフから少し行ったところにエメラルド・レイクというのがあるが、あれこそは、ここじゃないと絶対見れないと言う絶景だと、少し興奮気味に教えられた。ローレンシャンで、そんな言葉を聞くと、どうしたものかと戸惑ってしまう。首都オタワにはロンドンと同じようなビッグベンを持つ国会議事堂があり、国の中枢機関がまとまって立つパーラメント・ヒルというのがある。その名の通り、小高い丘の上にある。バックには青空しか見えない、そんな中で、一本真っ直ぐ伸びているビックベンは壮大だった。ピースタワーという名のその塔は真ん中にそびえ立っている。両側には、それぞれゴシック調の建物が連なる。天気の善し悪しが、景色の善し悪しに大いに影響を及ぼすことを考えれば、この日、オタワは晴天で雲一つなかったのが幸運だった。いつまでもそのピースタワーを見上げていた。
パーラメント・ヒルの裏手にはオタワ川が流れており、対岸の町、ハルからこの丘を眺めるのも良かった。カナダのシンボルは、何も銀杏の葉っぱだけではないのだ。
あくまでも、僕に限って言えば、カナダという国から受ける刺激は少なく、柔らかい羽毛布団の様に、心地よく暖かいが、どっしり来るモノがなかった。

帰国を目前にしたある日、僕は泊まっていたホテルのある103丁目からブロードウェイをタイムズ・スクエアに向け、七時間かけて歩いた。コロンバス・サークルのベンチで休んだり、ポストカード屋を覗いたり、リンカーンセンターの前で、アンケート調査に協力したり。行き交う人々をウォッチしながら、とにかく南下を続けた。急ぐ理由など一つもなく、目的地がはっきりあるわけでもない。ただ真っ直ぐ南へ下ろうと決めていただけだ。歩く人達を見ていると本当に興味深い。一目で、この人は何々をしている人だと、断定できる人が少ない。一体何をしているのだろう?とか、なぜ、そこにしゃがみ込んでいるのだろうとか、何を覗いているのだろうか?と、それぞれの人にそれぞれの疑問が湧く。ここニューヨークには、個々別々の、恐らくは固有の何かをして、そしてその何かを繰り返しながら生活しているのだ。そんな風にウォッチを続ける僕も、逆サイドから言えば、「あいつは何をしているのだろう?」と思われているのかも知れないが。タイムズ・スクエアに着いた頃には夕方になっていた。ここには、ニューヨーク中のあらゆる要素が詰まっているようで、ある意味もっともニューヨークらしい場所と言えるかも知れない。ミュージカルもある、観光客相手のホテルも連立しているし、企業戦士も、ファーストフードのチェーン店も、浮浪者も、観光客から“ぼったくり”を企てる店の主人も、高層ビルも、コマーシャルも。全てが狭いエリアにごちゃ混ぜになって存在している。僕は、自分で勝手に決めたゴール地点のタイムズ・スクエアで、コカ・コーラを飲みながら思った、「ここニューヨークは、エンターテイメントで溢れている」と。僕が最も触れたいと切望していたエンターテイメント(楽しませるモノ)が。ミュージカルや、コンサートなど本格的なモノはもちろん、十ドルを払って入った教会でのゴスペルも、ヤンキースの試合も、ソーホーのギャラリーも。もっと言えば街中に溢れている、個々別々に自分だけのスクエア(空間)を持ち、自分らしく生きている人々も。店の看板も、夜の雑踏も。全て、少なくとも、僕にとっては、最大級に“楽しませるモノ”であり、そんな雰囲気を造るエンターテイナー達の中で暮らした一ヶ月間は、僕を“楽しみ上手”にしたのかも知れない。







[ Colors of world top page ]



All Right Shogo Suzuki Reserved

第三章:ザッツ・エンターテイメント