All Right Shogo Suzuki Reserved

第六章: ナマステ、神々の地

空港の出口、ガラスのドア越しに、既に暗くなったカトマンズが見えた。星が出ていたか、満月だったか。その事に記憶はない。夜空を見なかった。いや、夜空など見えなかった。見えたのはただ、張り付くようにガラスにへばりつき、こちらに向けてホテル名の看板を掲げ、そうして、なんとしてでも客を取ろうとする、タクシードライバーとホテルの客引きたちのひしめき合いのみ。五メートル程僕の先を行く人がドアをあけた。一気に外の空気と同時に客引き達の声が空港中をかき回した。ガヤガヤと聞こえるが、注意して聞くと日本語も聞こえる、いつもの、客引きにありがちな、「ヤスイヨ、ヤスイ」と。ホテル名を書いたプラカードのような看板にも日本語のカナ文字が見える。ホテル何々。近づく人混みに足を止めると、一瞬で囲まれる。よく考えてみると、アジアの、この客引きの渦の中に身を放り込むのは、ずいぶんと久しぶりに感じ、どことなく懐かしかった。懐かしんでる余裕が出来るほど、僕も旅慣れてきたのかも知れない。少し早歩きでその渦の中から抜け出す。二、三人は着いてくるが、だいたいの客引きは次へとターゲットを移す。話のできる人数まで減ってからじっくり値段を聞き、そして比べ、相手の目を見て、信頼できる客引きならついていく。クマルという青年の目を信じ、彼の車に乗った。宿は一泊三ドル。シャワーもトイレもついており、そしてシングルルーム。彼は若干十九歳で、田舎に住んでいる両親と離れ、ホテルに住み込みで働いているという。
彼は、空港に来て僕を捕まえた事で、仕事は成功したと言えるのだろうか。終始満足げな顔で、話し続けた。流暢な英語を話す。今、日本語を学んでいるともいう。そう言った後で彼は、知っている日本語を並べた。やはりというか・・・、出てきた言葉は、「こんにちは」「さよなら」「ありがとう」、そして「ヤスイヨ」だった。ヤスイヨ、この言葉は日本人に対して挨拶代わりに使うと効果的だと、アジア各国で流布されているのか、「高い」という言葉は知らなくても「安い」は絶対知っている。「ヘイト」と言う言葉なんて知らずに「ラブ」を多用している僕たちと似ているのかも知れない。とにかく、効果的な単語であることは間違いないのであろう、僕たち日本人に向けられる日本語として。それまで英語で話していた彼が、途切れ途切れの日本語と、英語の補足を交えて話してくれた彼という人間は、十九歳にしては濃く、太い人生の様に思えた。まず、国内でも何十人しか取得できない観光用ではない、本格的なトレッキングのライセンスをもっている。ヒマラヤを目指す登山家の手伝いをするという。仕事としては、観光客相手が多いそうだが、山の麓で三年間、ガイドとして働いていたそうだ。そして、カトマンズに出てきて、英語と日本語の勉強の為にホテルで働いているという。既に二年目。と言うことは、何歳からガイドの仕事をしているのだろうか。同時に、何歳から両親と離ればなれの生活をしているのだろうか。日本語の全てはホテルの客と話すことで覚えたという。

空港から、カトマンズ市内までの道は暗かった。街灯がなく、道の舗装がされておらず、同時に、それは恐ろしいのだが、まるで時速制限もないかのようであった。クマル、十九歳、飛ばしに飛ばしまくる。後ろの席で僕は、何度も冷や冷やする。幸か不幸か、外は真っ暗。全く知らない道で、よく見渡すことの出来ない暗さ。だからこそ恐怖心も増すと同時に、明らかな形で目の前に現れない暢気さが、そのトップスピードで飛ばしている車内では感じられた。エンジンの音がうなる。エフワン・カーの如くうなり、精一杯のスピードで走る。クマル君のホテルはカトマンズ市内の、外国人街であるタメル地区の北にあった。車から降り、部屋に通される。思っていたよりも綺麗な部屋であったが、ここに三ドル以上のお金は払いたくないのが正直なところだ。確かにシャワーも、トイレもある。それらが同じ空間の、それも二つが入るには少々小さすぎる空間に収まっている。トイレの便座のすぐ横に洗面台があり、その上にシャワーのネックだけがぶら下がっている。ベッドがあり、感覚をそう置かずにすぐそのトイレがある。トイレと部屋を隔てるドアの下、十センチほどが開いており、シャワーを浴びると、そこから水が漏れる。一々気になっていたのは、初日くらいで、三日も泊まると、伸びてきた無精髭とボサボサになった髪型に比例するように、無頓着になってくる。そうして、同時に、カトマンズの一日が、心底疲れるモノではなく、逆に楽しくなってくるのだ。初日、空港から宿に来て、シャワーを浴びる。それだけの行動でヘトヘトになり、ベットに倒れ込むようにして眠った。二月、カトマンズの夜は冷える。

朝は決まってフロントの前にあるストーブがたまり場となる。そこでチャイを飲み、タバコを吸い、従業員に僕の時計を自慢したりする。豊かであるとか、貧しいとか、本当にそれらは何を基準に決めるのだろうか。モノの量か、もっと端的にお金の量か。僕は豊かなのだろうか?貧しいのだろうか?この国のこの街の、この宿の、このストーブの前で、僕はあたかも豊かな人生を見せびらかしているような錯覚に陥ったが、すぐに、僕の何が豊なのだろうか、と自問した。空を飛ぶことの出来るヒーローがフィクションだと言うことに、まだ幼かった僕は気付いていたし、同時に、明日食う米にも困っているどん底の貧しさもまた、それはそれでフィクションなのだろうと思っていた。現実味が全くなかった。全くなかった時代に生まれ育った。明日食う米に困ることが無かったのと同時に、深く心をえぐる感情や欲望が無かったような気もする。「空港へ行って、客を拾い、このホテルに泊める。」それがクマルの毎日の仕事で、そうする中で日本語や英語を覚え、最終的な目的は「お金を貯めて、両親を楽にする」事だ。彼の持っている「先の出来事」と「今している事」がわかりやすい形でリンクしており、真っ黒い目を見開いて話す、彼の母親の優しさや、兄の強さ、父親の美しさなど、そうゆう事を他人に自慢できる彼が羨ましくてたまらなかった。高校に通って世界史の試験で百点をとっても、当時の僕には「先の出来事」とリンクしていたようには思えない。なにも、だから悪いとは思わない。同時に、だから良いとも思わないが。先の事と、今すべき事を分離して考えていた。今のうちにやっておかないと、と思いずいぶん遊んだし、ずいぶんさぼった。いずれはちゃんとカタチにはまる。だから今のうちにはみ出しておこうと。結局は、敷かれたレールの上を歩いており、自由、自由と言ってもそこを進んでいくスピードの上げ下げだけが手中にあり、途中下車したり、他の路線に変えたり、そんな行動はとれなかった。僕はこれまで、決まった時期が来ると受験をしたし、就職活動もした。そして今に至っている。そんな僕が耳にするクマルの言葉は、羨ましくてたまらなかった。
カトマンズから東に何百キロも行った田舎町に、いつか家を建てるんだ。そこで両親と幸せに暮らしたい。今はここでお金を貯めている。「お金」。彼自身の口から何度も発せられた言葉だ。それが彼にとって「先の出来事」を左右する大きな鍵であるかのようにも聞こえた。幸せな暮らしは、お金のある暮らし。明確でなんとも良い。お金があったって必ずしも幸せにはなれないよ、と言った僕の言葉は、それを伝えようとする僕の英語がおかしかったからなのか、それとも「お金を持ってしても手に入れることの出来ない幸せ」などあり得ない、と強く信じているためか、彼には、僕の言葉が通じなかった。二、三度礼儀的に頷きはしたが、顔中にはてなマークが並んでいた。

カトマンズは都会だった。高層ビルも、エレベーターも、新幹線も地下鉄も、すべて無かったが都会だった。人と物流が盛んで、熱気があった。都会の持つ熱気。それらは全て人の温度で上昇しているように感じる。ビル内を冷やすエアコンが、外に吐き出す生ぬるい風で、気温が上昇してしまった人工的な暑さではなく、生きている時に発するパワーが熱となり、街を暑くさせているように感じた。狭い路地が入り組み、そして崩れかけの建物が建ち並ぶ。その路地に人々が集中する。路地での優先順位は明らかに大きいもの順。車が最優先で進み、オートリクシャー、次いでリクシャー。何が通り過ぎるにしても、道を譲るのは歩行者だった。のんびりあるく、黄土色の毛を持つ牛は、神の化身として、街中をのんびり歩き、大きな顔をして、クラクションで歩行者を散らしながら進む車でさえ、のんびり横断する牛には、待たされていた。タメル地区から中心部のダルバール広場までは、そんな入り組んだ細い道を右往左往しながら進むことも出来るし、大きく東に迂回して大きな幹線道路沿いを歩くことも出来た。カンティ・パトというその幹線道路には大きめの歩道があり、観光客も地元の人も、文字通り急ぐ人も、のんびり歩く人も混在してあるいた。日陰を占めて品物をうる露天商、手足のない人が、転がるように居て、目と顔の表情で物乞いをしている。飽和状態の歩道では、そんな転がった人達を跨ぐ。日常的な光景として慣れるまでは、そんな人達の行動、つまり、物乞いを不自由な体で、陽にさらされながらしている人を跨ぐなんてとんでもなくひどいと思っていたが、後々になって、あるネパール人から、「あの人達は、あそこに一日中居るわけではない。夜になるとどこかで眠っている。あの不自由な体で。どうやって移動すると思う?誰かがあそこに連れてきて、そうして、物乞いをしているのだ。」と聞いた。不思議と、嘘か本当か知らないが、自分の子供を傷つけ、同情を集めて物乞いをする人がいる、という話を思い出した。日本にいる時は、募金をしていると、何となく募金箱にお金を入れる僕であっても、海外の見知らぬ街の、それも貧乏旅の真っ最中に募金することはしない。こんな話を聞くと、どこか、今後も絶対しないだろうと言う、心の扉が閉まって、鍵がかかる思いになる。思い出したのは、僕がカナダのモントリオールに行ったとき、ビッグマックが九十九セントキャンペーン中で、よくマクドナルドに通った。入り口に座って、帽子を逆さにして人からの恵みを乞う人が居て、彼を素通りして、僕は店内でビッグマックを頬張っていた。すると、さっきまで外で恵んでもらっていた人が、カウンターにいって、帽子にたまった小銭を払い、ビッグマックを頼んでいた。何となく、白けた。もちろん、食べなければ死ぬ。何かを食べるために物乞いをしている。彼は恵んでもらったお金でビッグマックを食べ、喫煙席に座ってタバコを吸い出した。なんなんだろう、とっても白けた。彼の、その行動は、よく考えれば、そんなに非常識でも意外でもない。でも白けた。そして、その時の光景と、このネパール人の話が合わさって、恵んであげようとする気持ちが堅く、堅く閉じられた。一つだけ、間違えてもらっては困るのだが、裕福だから、恵む余裕があるから、恵むのだという訳ではない。そうゆう状況的条件ではなく、心が動くか、動かないか。それにつきる。しかし、その「余裕」というのが、心を動かす範囲も大きく広げる事も、また確かだと思われるが。

この旅には、一つの目的があった。「聖なる河を見ること」。ヴァラーナスィーのガンジス川、そしてカトマンズのバグマティ川。この二つの川岸で行われる人々の行い。その川に寄せる信仰心。そして、その川で繰り広げられる「生」と「死」。とにかく生で感じたかった。ヒンドゥー教が何なのか、その教義とは一体どんな事なのか。そんな事を感じたかった訳ではなく、同じ人間として、必ず持っている「生」と「死」。それらが一体となった光景。ガンジス河岸の景色を何度映像を見ても、関係書物を何冊読んでも、僕の心を強く打つ事はなかった。それは、ただの映像として、そして考え方として、平べったく認識出来るだけで、その続きを知りたいと心と体が動くことはない。だが不思議なことに、いつも引っかかってた。何か、もっと特別に、大きな何かがあるのではないかと、心のどっかにいつも引っかかっていた。その引っかかりは、「一度実際に見てみたい」と思う僕の願望に現れてた。まずはカトマンズに入り、そこから飛行機でインドに移動して、ヴァナーラスィーから再びカトマンズに戻り帰国しようと考えていた。
カトマンズに着いた翌日、早速インドまでの飛行機を手配するため、クマルの友達だという旅行社の人の所へ行ってみた。ショックだった。ちょうど、僕がネパールに来る二ヶ月ほど前に、インドからカトマンズに向かうインディアン航空機がハイジャックされ、日本人の被害者も出たと、大きく報じられたのは知っていた。しかし、僕の中ではその事件は、もう薄れつつあった。薄れたのは、やはり日本で暮らし、どんどん新しい情報が追加されたからであり、ハイジャックという大きな事件が起こった当の国では、その事件は薄れも、消えもしていなかった。簡単に言うとヴァナーラスィーとカトマンズを結ぶ当時では唯一の路線だったインディアン航空が欠航していた。それも向こう何ヶ月間も。インドまで飛行機で飛ぶなら、カトマンズからデリー、またはカルカッタに飛ぶしかなく、広大なインドをそこからバスで移動しなければいけない。予算と残された日数から、そんなに悠長に旅を続けることは不可能だった。ガンジス川、それはまた次の機会へとお預けになった。自分が実質的な、それがたとえ実被害ではなく間接的であっても、被害を被ると、心臓が震えるほどの怒りを感じる。ハイジャック、救出された日本人が当時記者会見で話しているニュースを見ても、それはあくまでニュースでしか無かったが、実際そのハイジャックのせいで、飛行機移動がたたれた僕は、何ヶ月か前の、そのハイジャックを強く恨み、そして怒った。全く持って、我ながら自分勝手だとは思う。

ガンジス川を見れなくなったので、バグマティ川に行く。僕はネパール滞在中何度か足を運んだ。ガンジスの支流だと言われるこの川は、カトマンズに住む、いやネパール中に住むヒンドゥー教徒にとっては聖なる河で、命つきた後、川岸で燃やされ、川へと流される。それは、「戻される」と考えているらしい。並んだ火葬場(ガート)からは、絶えず煙が昇る。人を焼く。遺体を焼く。その煙が絶えず立ちこめている。観光客がそれをカメラ片手に見つめている。白い布に包まれた遺体がガートまで運ばれ、その台の回りを何周かする。そして台の上に載せられた遺体の上に、何やら草のようなモノを乗せ、泣き叫んでいる遺族と最後の別れを済ませると、静かに火がつけられる。そして煙が昇る。ゆっくり、ゆっくりと。燃え尽きた灰が、そのガートから一気に川に流され、次の遺体を待つ。何メートルか間隔を置いて、別の台では、別の煙が立ち昇る。奇妙だった。「死」と言う感覚も奇妙だし、生きている、それも幸せに生きている観光客がその光景にカメラを向けることも奇妙だった。僕はガートの並んでいる対岸に座り、遠目にそれを眺めていたが、大袈裟に首を傾げたくなるほど、その光景は奇妙だった。遺灰の流される川からは、ポンプで水が引かれ、川岸にはその引かれた水を出す水くみ場がある。そこで洗濯をしている少女が居た。何枚かの衣服を足で踏み、そして手で揉み、洗濯をしていた。僕はガートから立ち昇る煙をカメラに収めるのではなく、必死で洗濯しているその少女の後ろ姿をカメラに収めた。生きている姿を収めたかった。確かに何でもない写真だ。一人の少女の後ろ姿。川岸で洗濯をしている。しかし、その川には、「死」を迎え、焼かれ、流された灰がある。その水で洗濯をしている。洗濯させた衣服を明日か、またはずっと先か、着込んで街を歩く。「生」と「死」の混在した聖なる河。それがここで繰り広げられる一日の光景だ。

その川を中心に、周りにはヒンドゥー教の寺院が立ち並ぶ。宗教を越えて、アシュラムや、死を待つ人のホスピスなどもある。ヴィシュヌ寺院の前で会った男性は色々教えてくれた。僕は無意識的に話しかけられ、色々説明を受けるとお金を払わないといけないと思っていたので、振り切ろうとしたが、彼は「私はガイドではない、お金は必要ない」とわざわざ言ってくる。余計に、怪しい。わざわざ「お金は必要ない」と強調するなんて。でも彼の英語は聞き取り安く、僕の頭は、今目の前で行われている、そして囲んでいる周りの光景全てに困惑しており、整理した説明をとても望んでいた。一応、聞いてみた。十分ほどすると、彼に質問をしている自分がいた。彼の名前は聞いたが、何度聞いても発音できない難しい名前で、純なヒンドゥー教徒。今はホスピスで働いているという。英語の練習のために、休憩時間や休みの日には観光客にガイドをしていると言う。大学時代、京都に住んでいた僕は、御所をブラブラ歩くのが好きだった。あの広い砂利道と、溢れる緑。朝の靄が立ちこめる初秋の涼しさは、寒い日に温泉にどっぷり浸かるほどに、気持ちが良い。そんな気持ちの良い朝、何度か外国人観光客に清水寺行きのバスを教えたり、是非とも銀閣寺に行くといい、とアドバイスしたりしていた。僕の中にも、英語を使いたいという願望は確かにあり、そこから来る百パーセント親切心から話しかけた事を思い出した。彼もそうなのかも知れない。が、後日同じ宿に泊まっていた客が、同じ手口でしつこく寄付を頼まれ、何千円か払わされたと聞いた。幸いにも、この男性は、僕に寄付をせがんだり、お金を取ろうとしたりしなかった。こいつに言っても無駄と思われるほどに、僕は金持ちとは反対側の格好をしていたのだ。汚いジーパン、擦れたシャツ。ボサボサの髪。この時、彼は僕に色々教えてくれた。興味深い事実のオンパレード。川から坂を登っていくと、木々に囲まれた森のような所にでる。その坂道沿いには、ヒンドゥー教徒のサドゥー達が座っている。顔には色を塗り、その色でその人がベジタリアンか、そうでは無いかが分かるという。それを分からせることにどんな意味があるのかは知らない。額に赤く塗っているティカは、シールで張る場合もある。辺りをウロウロする猿は、幸運の象徴らしい。アシュラムと呼ばれる施設には、寄付で立てられたという平屋建ての校舎に子供達が大勢集まって、絵を描いたり字を学んだりしていた。彼はぼそりと、鉛筆やノートが完全に不足していると、僕に言った。喉まででかかった言葉だったのかどうかは知らないが、「だからいくらか、寄付してくれ」とは言わなかった。子供達が僕に笑いかける。僕も微笑んで手を振ると、顔を覆って後ろ向きに走っていく少女や、何人か連れ添って僕の方に向かい「コンニチワ」と片言の日本語を連呼する少年達がいる。子供達の描いた絵が壁に並べられており、一応にどれもカラフルな色使いだった。そのアシュラムから更に坂道を登る。その坂道に沿って笛や太鼓を奏でる人達。サドゥーの様なメイクを顔にしている。が、彼曰く、その人達はビジネスでやっているだけ。観光客からチップをもらうために笛を吹いてコブラをカゴから出し入れしているのだと、真顔で言う。何となく分かる。ヒンドゥー教徒では無いので、敷地には入れないのだ。「ネパールにコブラはいないからね」とそのビジネス・パフォーマーを見ながら笑った。そう、寺院にはヒンドゥー教徒以外入れない箇所がたくさんあった。入れない、と言われれば入りたいが、だからといって、ヒンドゥー教徒にはなれない。
一通りグルリと説明をしてくれた彼と一緒にパシュパティナート寺院の対岸から座って眺めていた。北側には余命少ない人達が、ただただ死を待つホスピスがあり、身体を作る五つの要素が尽きたとき、魂を次の世に送るらしい。輪廻転生の世界。魂を無事次の世に送ると、残るのは尽きた物質だけ(つまり遺体)。それを燃やし、聖なるバグマティの川に流すのだという。墓を持たないヒンドゥー教徒の独特な「生」と「死」の感覚だ。理解は出来ないが、分かる気はした。その対岸からは左手奥には、三年前にできたというマザー・テレサのカトリック教のホスピスが黄昏に染まって見えた。アシュラムに居る子供達も、全員が全員ヒンドゥー教徒ではないし、カソリックのホスピスもある。この聖なる川が集める神々は我々人間に幸福をもたらす為に集まり、混在しているのだろうか。金は要らない、彼はそう言っていたので、もちろん一切払ってないが、あのアシュラムの屈託のない笑顔で話しかけてきた子供達の為なら、いくらかの寄付をしても良かった。あの子達がいずれ、自分たちの貧しさに気付き、その事で不自由を感じるまでに、微力ながら何か手助けのようなものをしてあげたい気になった。もちろん、そのツーリスト的な一時の感情移入が、一番良くないことは知っている。が、必ず誰でも一瞬なりは、僕と同じように感じるのではないだろうか。そう感じたときに、感じたままの気持ちで、少しづつの優しさをお金に代えて寄付することは、そう悪いことでもなさそうだ。コンビニのレジの横に置かれた透明の箱に集まる一円玉が、その先どこに行くか僕は知らない。知らないが入れてしまう優しい夜もある。そんな優しさが見えない誰かの手助けになっているなら、この時、ここで、目の前の事も達にノートや鉛筆代として少しばかりのお金を寄付しても良かった。「お金」では無い、もっと違ったカタチの寄付をしたいと強がり、結局実際には何も出来ないでいる自分が少し歯がゆかった。最後まで、この僕にはヒンドゥー教的な精神と肉体の別離を理解することは出来なかった。精神が宿る体は物質であって、その体が尽きたときまた別の体に宿る。まったくヒンドゥー教の教義を誤解した理解かもしれないが、僕には、体と精神を全く別に考えることなど出来ない。僕にとって身体と精神は同一で、身体的コンプレックスや逆に優越感などが、精神的な部分にも大いに関係しており、身体を無くすと同時に精神も無くなるように思う。それは記憶というモノと同時に。黄昏のガートでは、その日最後となる遺灰の煙が立ち昇っていた。

(二)

ネパールはゴータマ・シッダールタ。ブッダ。つまり釈迦が生まれた所とされている。ルンビニという田舎町で生まれ、インドのブッダガヤという所にある菩提樹の下で悟りを切り開く。詳しくは知らない。が、そんなブッダの生まれた国の仏教。インドからチベット、中国を経て日本にやって来た。仏像は日本のそれとはずいぶん違い色使いが派手だ。カトマンズには仏教寺院としていくつかあるが、丘の上に建ち、そしてカトマンズ市内を見守るように四方に「ブッダの目」を持っているスワヤンブナートがネパール最古の寺院と言われている。カトマンズ市内からは歩いてでも行けるが、テンプーと呼ばれるオートシクシャーでその丘に向かった。バンコクに何度も行っているせいか、アジアの国々で名称は色々変えるても、結局は三輪バイクを現すのは総称して「トゥクトゥク」と呼んでいる。リクシャーよりも遠距離に行き、タクシーまで使う必要の無いとき、僕はいつもトゥクトゥクを使う。町の中で停め、行き先を告げ、料金を交渉する。タメル地区から歩いていると、一台停まっていた。周りに青年二人と少年が一人。「スワヤンブナートまで、いくら?」と聞くと、提示してきた値段。そこから二割ほど値切って乗ることにした。青年二人が少年の肩をたたいて「がんばれよ」と言っているようだ。「スワヤンブナートだ、わかるだろ?」と確認するように少年の顔をのぞき込む青年。一人は英語が話せたので僕は、「この子はお客さんを乗せるの、初めてなの?」と聞くと、「そうだ、でも安心していい、道はちゃんとわかっているから」と全然安心できない事を言われた。道を知っているのは基礎中の基礎で、試験に行く前に「今日は大丈夫なの?」と母親に聞かれて、「大丈夫、鉛筆持ってるから」と答えるようなものだ。そこから先を心配しているのである。

少年の顔にはあからさまな緊張が見える。「よろしくね」と微笑みながら、僕は日本語でその少年に言った。そんな僕の顔にも若干の緊張感があったのかも知れない。彼は進む。両手でしっかりハンドルを握りしめて。どんどん抜かされ、横はいりをされながら、車と車に挟まれるように止まると、歩行者に「邪魔だぁ」とわめかれる。気弱にビービーと小さなクラクションを鳴らしながら、それでも自転車に追い抜かれる。進んでは止まり、一度止まると次の発車までのタイミングがなかなかつかめず立ち往生。後ろから、僕は彼の必死な顔は想像できた。
「がんばれ」。いつの間にか応援してしまう。これから彼はいっぱい「初めて」を経験するだろう。初めての欧米人、初めての道、初めての事故、初めてのトラブル。そんな初めての連続で、いつか気持ちの中がどっしりと黒くなり、五月蠅いくらいのクラクションをならしながら、スイスイと追い越しながら進んで行けるのだろう。その始まりの、本当の第一歩なのだ。少年運転手はバイクが揺れることを異常に気にかけてくれる。大きな穴や、凸凹道は歩くより遅いスピードで行く。何分かかっただろう、僕の方も緊張していたので、ずいぶん長く感じたし、同時に短くもあった。降りるときに彼に約束した通りのお金を払い、値切った二割分のお金をチップとして彼に渡した。「ナマステ」。彼に投げかけたその言葉に、僕は「がんばれよ、ありがとう」という意味を乗せた。


スワヤンブナートは丘の上に建つ。そこまでは長く急な階段をひたすら登る。別名「モンキーテンプル」。ガイドブックにはそう書いてあった。仮にそんな風に記されていなくても、間違いなく僕はそう呼んだであろう程に、猿が多い。階段の周りにはたくさんの露店が並び、子供達がそのほとんどの店で店番をしていた。いつもの、「コンニチワ、ヤスイヨ」を聞きながら僕は目の前の一段一段を登った。真っ黄色の肌の色に、青い髪、はっきりした目鼻立ちの仏像が二体、この先も長いぞ、心して登れ、と言ってるかのように鎮座する。水色に見えるが、本当は白いのであろう眉間の間のびゃくごうが、人間と仏の違いを露見するかのように堂々と鎮座していた。
下から見上げても上の寺院を見ることは出来ない。登る、登る。すれ違いながら、追い押されながら、持っていたミネラルウォーターを三回飲んだ。暑くはないが、上に羽織っていたジャンパーは腰に巻いた。やっと寺院が見えてきて、最後の一踏ん張りの所で、猿が二匹、僕をじっと見つめ、通せん坊をする。立ち止まって猿を見つめる。猿も僕を見つめる。後ろから上がって来たおばさんが、可愛いと言って金髪を振り乱してその猿をカメラに収めていた。猿の気が変わって階段の両サイドに鬱そうと生える森の中に姿を消すと、最後の一踏ん張りで登りきった。
丘の上にはいくつかの建物があり、一番真ん中に、「ブッダの目」を持った寺院が建っている。ブッダの目は多くの土産物にもデザインされており、僕はこの目が非常に好きだった。日本で僕は、毎朝通う大阪駅までの電車の窓から、淀川沿いに建つこの目が描かれた寺院を見る度に、「いいな」、と思っていた。本物のような気がする。力強いその眼差しに凝視されたとき僕は、全ての行いを改めてしまうのでは無いかと、日頃の自分を反省する。その中心の建物には、チベット仏教で言うマニ車のような物が壁につけられていて、それをグルグルと回転させ手ながら、建物の周りを回る。ブツブツと何かお経のような物を挙げている信者のすぐ後を、僕も真似して回しながら歩いてた。仏像もある、しまっている建物のある。土産物屋もある。丘の下を眺める為のベンチもある。そして、どこにでも、たくさんの猿がいる。人で溢れかえるのは夕方で、昼間の日の高いうちは空いており、あちこち歩き回るには丁度いい。ものすごく暑いのを別にすれば。登ってきた階段を降りる。もう一度振り返ってブッダの目を見た。「うん、やっぱりいい」。

カトマンズは、中心部から北に現在の国王が住む王宮があり、その前に僕が唯一見た信号機があった。カンティ・パトという大きな幹線道はその王宮へと続いている。王宮から西南に広がるタメル地区。ここは外国人用の店や宿が並び、現地の人は買い物が出来ないほど物価が高いという。それでも、外国人には安い。だから、不自由なく揃っているこのタメル地区に外国人があるまる。スーパーにはレジがあるし、韓国料理店、カラオケ、天丼屋まで揃っている。国内線の空港にさえなかったコンピューターがこのエリアのスーパーにあったのは少々驚きだ。コカ・コーラもプリングスもそろう。ビールもワインもつまみも。そして、イラム茶も。なんでも揃う。夜になるとこのタメルにはハシシや女性などを売る人で溢れるのも確かだ。男で、しかも一人で歩いていると、あたかもそれらを探して歩いているようにでも思われているのか、本当にそういった誘いが多かった。細い路地に入っていくとどことなく怖い雰囲気もある。ふと、長渕剛を日本語で歌うストリートミュージシャンもいる。それで明日の金を稼ぎ、そして旅を続けているという。どうもこのカトマンズと長渕剛がとってもマッチしていた。そんなタメル地区から、旧王宮のあったダルバール広場までの間は、ゴチャゴチャとした土産物街となっている。庶民の為の食堂や、小さな民家がある。貧しさに疲れた大人と、はしゃぎ回る子供達の姿。響く笑い声。真っ赤なサリーの生地がつるされている。セーターもTシャツも一緒に売られている。トレッキング用のバックが壁と天井の全てからぶら下がっている。間口の狭い一軒一軒の店が、お互いに重なり合うようにそれぞれの品を並べている。道はどれも狭く砂地で、二、三日前の雨がなかなかはけない。乾いた箇所からは砂が巻き上がる。人々でひしめき合い、その間を縫うようにリクシャーが走り、蹴散らしながらトゥクトゥクが駆け抜け、車がひっきりなしにクラクションを鳴らしながら通る。そういう万物の行動を止めてしまう「牛」が神の化身として鎮座している。様々な物が混ざり合う光景。鼻を突く匂いの正体は分からない。それは一種の物ではなく、それもまた混ざり合った混合物の匂いだ。おそらく、何かと何かが混ざり合っている内に、まったく別の種になった「化合物」のような臭いもあるのではないだろうか。道にはゴミが散乱している。ゴミ箱と言う物がそもそもないのではないだろうか。ほとんどが四階か五階建ての建物で、林立しているので、空間が狭い。道幅も狭い。吹き抜ける風は渦を巻いて、散らばったゴミや砂を巻き上げる。口を閉じないと、息苦しいほどだ。そんな渦巻く風の中で、「商品」はブラブラと揺れている。この空間は透明のカプセルで囲まれた「分子」のようで、その中の全ての要素が一つ一つの原子で、それぞれが激しく動き回り、休むことなくぶつかり合い、温度を持ち、声と声が重なり、気持ちが高ぶる。早朝の市場というほど活気があるわけはないが、それに非常に近い生きるパワーの漲ったエリアだった。いくつか寺院も建っており、それを囲んで小さなスクエアがあった。往々にして、そうゆう余裕のある空間には牛が寝そべっていた。

(三)

朝起きて、タメルからダルバールまで、ある時は幹線道路のカンティ・パトを通り、またある時はその雑多なエリアを通ってダルバール広場へと足を運んだ。大きな骨董品の市場が出ており、そこで買いもしないが眺めて歩くことに僕の興味は奪われていた。仏像は大小そろい、アクセサリーやお面などある。楽しかった。女神クマリの化身として神聖視されている少女が住む館の横には、こうした市場が広がっている。クマリに選ばれた少女はこのダルバール広場に面した館で暮らす。滅多に顔を見せないその少女を外から呼んでいる人達がいる。その後ろでカメラを構えている。女神。その化身なら、是非見たいと思ったが、僕はその顔を見ることは出来なかった。牛ならたくさん見たが。このクマリとして少女期を過ごした女性は、ある年齢に達すると、普通の女の子に戻る。普通。いきなり戻れるモノなのだろうか?疑問に思う。日が高くなるとむき出しの市場でのんびり眺めるだけの体力はなくなる。僕はシヴァ寺院の一番上に腰掛け、広場を見下ろす。一段一段が高く、両手をついて身体を持ち上げ、それを繰り返して一番上まで行く。結構な高さなので、眺めはいい。そして風も気持ちいい。日陰になるので、余計にそう感じる。下で買ったジュースを一気に飲み干し、ぼんやり街を眺めていた。こんな暮らしが僕の中に心地良いものとして溶け込み、三、四日は続けていた。ある日、同じようにシヴァ寺院の上からぼんやり眺めていると、少し離れた建て物の三階からこちらに手を振る少女が見えた。なんとなく眺めているだけだったが、しばらくすると、彼女は、その小さな体に似合わず、いとも簡単に高さのある段を登り寺院のてっぺんまでやって来た。そして僕の横に座ると、僕に向かって何やら話しかけている。全く理解出来ない。通じてないことが分かったのか、この時も飲んでいた僕のジュースの瓶を指さす。そしてまた何か話す。その空き瓶が欲しいのかと気付いた時には、もうその少女の手の中に瓶はあった。これを店に返しに行くと、何ルピーかもらえる。その瓶目指して、少女はここまでやって来たのだ。小さな手を顔の前で合わせて、二回頭を下げた。ありがとう。間違いなくそう言っていたのだろう。この国にカーストなんていう制度がまだ残っているのか、どうかは知らない。が、噂では鼻にピアスをしている人は最下層のカーストだと聞いた。鼻のピアスがきらりと、太陽に反射したその少女の顔は、屈託のない笑顔へと変わり、瓶を抱きかかえ、また段差の高い寺院を降りていった。年齢はどのくらいだっただろうか。四歳か、いやもう少し上かもしれない。でもその少女が、笑っていたことに、僕はなんだか嬉しくなった。これからもいっぱい笑って欲しいと思った。

安宿で宿泊を重ねる。リズムがカトマンズ仕様となる。毎朝飲んでいたチャイは体に染み込み、街の喧騒は目覚ましになる。野良犬はたくましく吠え、牛は神に見えたりもする。チャイは、ミルクティーにショウガを少しいれた物で、小さめのコップに並々と注がれる。僕の毎朝に欠かせなくなっていた。インドのダージリン地方で取れる高級茶葉は、国境を挟んでネパール側ではイラム地方となる。そのイラム・ティーは香りも色も濃厚で、お土産にするには丁度良かった。ダージリン・ティーと同じだ。おそらく、普通屋台で出されるチャイは、そんな土産物用の高級茶葉ではないだろう。それでも美味しかった。その街の空気、匂い、人々の息吹、そんな中で飲むチャイは、美味しかった。お祭りの時、屋台の焼きそばがあんなに美味しいのは、その雰囲気と焼きたてという温度、そして祭りという気持ちの高ぶりから来るものだという持論がある。称して「焼きそばの法則」。このチャイもいってみればその法則に乗っ取って、非常に美味しかった。
泊まっていた宿には、フロントの前にストーブと簡易椅子の置かれた溜まり場があり、宿の前に決まって同じ屋台が出ていた。小さな人形に、真っ赤なイチゴに、ポストカードに、そしてチャイに。何でも屋さんだ。そのおじさんから毎朝チャイを買い、従業員と何ヶ月も泊まり込んでいるバックパッカー達で賑わう溜まり場に僕も顔を出していた。夜、宿に戻っても、その溜まり場には常に何人かの人が居て、時には、その人達と夕食後の一杯をしに行くこともあった。チベット地方で飲まれてる、ストローで啜るアルコール度数の恐ろしく高い酒を覚えたのも、ここに定住するかのように宿泊を重ねている女性と夕食を食べた時だった。ネパールの物価は確かに安い。安いが、料理はうまい。なんといってもトゥクパとモモだろう。両方とも、ネパール料理というよりは、チベット料理に近いといわれるが、ピリッとしたスープの中に麺を入れたトゥクパと、小龍包のように肉を詰め、カレー風味のタレにつけて食べるモモは、日本に帰ってから、バカ高い料金を払ってまでもネパール料理店に足を運んで食べたくなる程の絶品だった。モモは、屋台で買ったスープ入りのが一番美味しかった。僕はダルバール広場の裏側でたまたま見つけたが、次の日に行くと居なかった。どこに現れるのだろう、決まった場所にいうわけではない。頑丈な葉っぱを袋状にして、その中にスープを入れ、モモを入れる。その味は、「乙」だ、とまで感じた。

その宿泊を重ねる客の一人に日本人女性がいた。年齢は失礼なので聞いていないが、僕よりも三つは上だろう。彼女は、日本に住んでいるのではなく、普段はスイスのインターラーケンという街に住んでいるという。そこで土産物屋のバイトをしている。夏のハイキング・シーズンにはユングフラウヨッホを見にやってくる日本人客を相手に、商売をしているが、冬になってスキー客がその大半を占めると、日本人客が減り、日本語が話せるから重宝されている彼女は、冬の時期半年の休業となるらしい。一昨年から三年連続でここカトマンズに来ているという。波長が合う。彼女はこの街のリズムが好きだという。夏の間に働き詰めで貯金したお金を冬期の半年、ここカトマンズで使い果たす。夏が来るとまたインターラーケンに戻って仕事をするという。日本へは帰らないのかという僕の質問に、「そのうちね」と笑った。その生活のリズムに強く引かれ、僕も夏の間だけで一年分の生活費が稼げるプロ野球選手のような仕事は無いかと、考えてみて、いくつか浮かんだが、可能かどうかの判断で、全てあきらめた。ここカトマンズでの暮らしは決して楽ではないという。この宿も去年から、何連泊するからといって料金交渉をし、一泊あたりの料金は僕よりも安い。近くのスーパーでビールとつまみを買い込んで、宿の屋上でささやかな宴会をした。翌日から彼女のお姉さんがポカラに来るらしく、一緒に一週間ほど行くらしい。そんな僕にとってはお別れの意味も込めた宴会だったような気がする。彼女とは朝に会ったことはなく、決まって僕が一日の観光を終えて戻ってきた夜に、ストーブの前で会う。朝何時に起きるの?と聞かれて答えた僕の時刻は、彼女にとって、それは寝る時間だったらしい。宿の屋上は、この街の密集した建物を上から確認するだけのように屋根が並び、間隔をそう置かずにとなり通しのベランダがくっついている。それでも屋上の簡易テーブルにおいたビールで乾杯し話が進むと、心地よく酔いだし、宴会、と呼べるまでに気持ちが高ぶってきた。昨日の晩、シャワーが出ずに、水を浴びた後、寒くて寒くて薄い毛布を一枚被って眠ったけど風邪を引いたと、彼女にいうと、「ここの掟の一つに、曇りの日はシャワーは出ない」というのがあるらしいことを聞かされた。それに毛布は宿の人に言ってももらえるが、一枚くらいなら余ってるから貸して挙げると言って、部屋から持ってきてくれた。彼女の部屋は、もう生活空間になっており、彼女の荷物が、彼女のディスプレイで並べられていた。そこで生活しているのだと分かった。

話は彼女のインターラーケンでの仕事の事や、僕の日本の生活、そしてこれまで旅してきた様々な国での事を一から話していったので、時間が経つのがやけに早く感じた。気がつくと少し肌寒い風が吹いており、街全体が夕焼け色に変わってきた。旅先であった人との会話は、それまでの自分や、相手の経験、生活の一からを聞くので話が尽きない。一から話しても興味深い話が次々出てくるのも、一人旅同士の会話において醍醐味と言えるモノかも知れない。僕は海外で初めて、日本大使館に行ったつい先日の話をした。考えてみれば幸運にも大使館にお世話になるような事件に巻き込まれたことは無かったのだ。先日カトマンズで出会ったMさんという日本の女の子が事件に巻き込まれた。僕が毎朝の日課のようにダルバール広場に座っていると、「一人ですか?」と声をかけられ、話の流れでそのまま昼食を一緒に食べた。彼女も一人旅だったので、それから一緒にカトマンズ市内を歩いた。買い物が趣味と豪語する彼女のショッピングは、気合いの入り方が僕などとは全然違い、良いモノを安く!というスローガンの元、いいな、と直感したモノをその場では買わず、しばらく経ってから、それでもまだいいと思ったモノを、その店まで戻って買う。値段にしてみれば何千円になるが、ネパールの物価から言えば、結構な量を買い込んでいる。タンカが好きな彼女は、その点僕と合致したので、一緒に見せ周りをしていても退屈はしなかった。タンカ、その非常に繊細で、神と人間を取り巻く世界観を描いた一枚一枚には、目の中から心の中枢までダイレクトに繋がり、訴えてくる強い力があるように思える。元々チベット仏教圏で多く書かれていたタンカだが、そういった仏教的な「曼陀羅」だけではなく、ここカトマンズではヒンドゥー教の影響も強く受け「シヴァ神」なども描かれている。土産物用に描くタンカではあるが、その精密な一筆一筆には、思わず欲しいと願ってしまう。幼い頃から、僕は絵の中で育った。家では父親が友禅染の型を彫り、色付けされた図案が部屋に広がっていた。平安絵巻、鶴、松。そんな「仕事場」は、僕の遊び場だった。言葉ではない視覚描写。「絵」が持つのは写真が持つ写実性を時には遙かに越える。その最もなのが、概念を描き出したタンカという一枚一枚ではないだろうか。たくさんみた。買うとなると三千円から五千円の値段がついているので、少々躊躇われるが、日本で買うとその三倍は軽くする。何枚か、強く僕に訴えるタンカはあったが、横で二、三枚簡単に購入していくMさんを見ていると、躊躇いながら、思い切って買うぞ、と思っている僕がバカらしく見えて、結局買わなかった。これは僕の推測だが、買い物中の彼女の僕の姿は映っておらず、仮に写っていたとしても、気にとまる事はなかったのだろう。それを特別に苦にしたのであれば、僕は躊躇うことなく別行動をとったはずだが、僕は僕で、Mさんを気にとめていなかった。買い物に熱中する彼女は、お金を超しに巻いたポーチに入れている。シャツをめくって購入の度にそのポーチから出し入れしており、それでは隠している意味がないのでは?と横に居ながら、僕は思っていた。一通り買い物もすんで、以前僕が行った美味しいモモの店に行き、軽い食事をした。トイレから僕が戻ってまだ来ていない注文の品を催促してから席につくと、真っ青な顔の彼女が、「やられました。」と主語も述語も目的語も、つまり順番も必要語も何もなく、強烈な一言だけを僕に言う。「何が?」と聞くと、腰に巻いたポーチを取り出し、中のお金がすっぽり無くなっていると言う。彼女曰く、人混みを避けて歩いていた僕達の後ろをやけに距離を詰めて歩いていた年輩の女性がいたという。確かに僕も記憶はある。「きっと、あのおばさんだ」。決めつけたように盗られた、盗られたといい、「油断してた」と反省している。彼女自身、今回で何十回目かの一人旅で、中東諸国やアジアを中心に旅しているという。今回のネパール行きは、急に取れた休みを利用した短いもので、気持ち的にかなり油断していたという。「鈴木君も気をつけた方がいいよ」と挙げ句の果てに説教された。「カードでおろすしかないですね」と言う僕に、「無駄使いするから、カードは持たないようにしているの」と分かるような理由を言う。確かにあれでカードがあれば、買い物魂には真っ赤な炎が灯りっぱなしだろう。かといって、僕のカードから彼女の為に貸してあげるのは、初めてあって、日本での住居も遠い事から気が進まないし、そもそも彼女もそれは断るだろう。日本大使館でお金を貸してもらえないだろうか。もし二、三日分の資金が借りれれば、飛行機のチケットを早めて、日本に帰国するという。カトマンズから日本に出ている直行便は週一回で、バンコクを経由しても、明日、明後日にその便があるかどうか分からない。それに、オーバーブッキングが非常に多く、今の時期に置いてもリコンファームを絶対しなければいけないという国だ。なかなかフィックス・チケットからのエンドースメントは難しいように思う。もし予定通りの飛行機で代えるにしても、宿をもっと安いところに代えて、じっとしていれば暮らせる。いくらかのお金でも借りれたらいいのに、と。お金を盗られてそんな風に考えている彼女に、今度は僕が言った、「今はショックでそう考えてるかもしれんけど、ここですぐ日本に帰ったり、飛行機が取れなくて残りの日をただただ過ごしてくだけやったら、後で後悔するように思う。せっかく来て、決められた日数しかないのであれば、気持ちを入れ替えて、存分に楽しんで帰るべきだ」と。そうしないと、今回のネパールの旅は、ただただつまらない、盗難にあった記憶しか残らないよ、と。そう言いながら、僕はカードから何万円か貸してあげようと思っていた。Mさんはカトマンズからポカラという町に行くと言っており、それをあきらめるのは、本当にもったいないような気がした。とにかく日本大使館に行って、お金を貸せないと言われてからでも遅くはない。僕は、大使館がお金の貸し出しを一切しないことを知っていた。何度も聞いた話で、考えてみれば当然だ。外国で困ったことがあれば手助けをする。それが名目で国のお金で建てた大使館も、その動くは鈍く、融通が利かない。申し訳ないが、僕の持っていた大使館へのイメージだ。タクシーで日本大使館に向かう。僕が何度大使館はお金を貸してくれないよ、と言ってもMさんの耳には届かない。そのまま放って置くことも出来ず、彼女に付き添って僕も大使館へ行く。もちろん、タクシー代も出せない彼女を一人で行かせるのは無理な話だ。よく考えて見れば、僕もMさんもまず警察に届けなければ、とは考えなかった。盗まれたのが現金であるが故、戻ってくる可能性は皆無に近い。その点で、僕も彼女も旅慣れをしていたのかも知れない。悲しいが。

日本大使館では門の外からインターフォンで用件を伝え、そして外と中で一度づつボディーチェックを受ける。日本大使館に来るのは初めてだ。インとアウトの時間を記入して、ボディーチェックを受ける。受付の女性は現地人で、英語を話せた事が幸いし、Mさんの現状を訴える。ビザを申請に来ている人達も多く、閉館間際の大使館では落ち着いて話せる状況が揃っていなかった。とにかく誰か日本人はいますか?と声を張り上げる。閉じられたドアの向こうに、誰かいないかと期待していた。無機質で、飾り気のない大使館内は、それだけで公的な施設だと分かる。本当に事務的で、融通が利かない印象が濃い。たまたま日本人の男性が一人いたので、少し待ってくださいと言われ、彼を待つ。カトマンズ在住の日本大使館員Kさん。彼は僕のイメージにある大使館員とは全く異なる、いわいる話の分かる人だった。温度があった。もしかしたら、ほとんどの大使館員がそうなのかも知れないが。KさんにMさんの現状とこちらの要望を伝えた。「飛行機を振り替えて、明日帰国したい。それまでの費用を貸して頂けるとありがたい」というような事をもっと遠回しに、ソフトに伝えた。Kさんは、そんなどん底の旅行者に最高に親切な対応をして下さった。まず、帰国を早めるのは、絶対無理だと言うこと。飛行機のチケットを換えるのは、簡単な事ではないという。そしてさらに、大使館ではお金を一切貸せないという事。Mさんの持っていた淡い希望の道は、わずか最初の何秒かで完全否定された。そうはっきり言った後で、最近ここカトマンズではそうゆう被害が多いと言う。先日も似たような盗難に会い、助けを求められたと言う。説教らしいことは一切言われないが、どうすることも出来ない大使館の現状を申し訳なさそうに言う。僕は僕で、カードで下ろして彼女にいくらか貸してあげようと決心していた。Kさんは落胆し、真っ青な顔になっているMさんに「帰国までの生活費はどのくらい必要ですか?二百ドルあればたりますか」と尋ね、「それだけあれば充分です」と目を輝かした彼女に、なんと彼は彼のポケットマネーから二百ドルを貸そうと言う。今は現金がないので、明日銀行が開いてから下ろしてきます。また明日の午後三時に取りに来なさい、と告げた。Kさんの親切に甘えることにして、大使館を後にする。
ホッとしたのか、トイレに行った彼女を大使館内の廊下のベンチで僕はタバコを吸いながら待っていた。明日からの彼女は、帰国まで二百ドルで暮らさなければならない。今日の宿代と夕食代くらいは、おごってあげようか。そんな風に考えていると、彼女は急にトイレから、僕の方に向かって満面の笑みで走ってくる。「そんなにKさんの親切が嬉しいのか」と子供様な彼女を見ていた。しかし、どうも違う、それにしては笑いすぎだ。「はぁ?何があった?」僕はきょとんとした目で尋ねる。近づいてきた彼女は僕に「あった。あった」と繰り返す。何となく分かったが、「何が?」と聞くと「全額あった」という。はてなマークが僕のおでこから頭上にプカプカ浮かぶ。「どこに?」と言うと、腰巻きタイプの貴重品入れから、そっくり全額が下着の更にしたまで落ちており、トイレに行く時ボサッとそれが落ちたらしい。さすがに笑えた。「なんじゃそら」。地獄まで堕ちるのは一瞬だと良く聞く。地獄から天国に昇るのも、同じくらい一瞬だ。それまでの曇り空が一気に晴れて、「よかったね」と口では言ったが、やっぱり最後まで「なんじゃそら」と僕は思い続けた。早速、Kさんをもう一度呼んで、事情を説明。彼の最大の親切に、もう一度感謝を告げた。

(四)

カトマンズ近郊には、その昔カトマンズを含めた三王国時代があった。パタンとバクタプル。現在ネパールの首都として雑多で騒々しいカトマンズを離れると、静かな古都がひっそりとある。パタンにもバクタプルにも行ったが、僕は断然バクタプルという町の虜となった。カトマンズでは感じることの出来ない良さが、バクタプルには濃厚にあり、景色の美しさから言ってもハリウッド映画の舞台になったことが頷ける。

バクタプルに比べパタンという町は、ダルバール広場(旧王宮広場)にも、町のあちこちにも人が溢れ、車も溢れていた。ゆっくりと腰を下ろしてのんびり眺める場所がなかった。訪れた日がちょうど祭日であったので、町の南端にある五重塔では真っ赤なサリーに身を包み、宗教行事を行っている光景は印象深かったが、広場のベンチに座っていても、次々に、断っても断っても物売りや、日本語を勉強しているというガイドや、馬車やほんとにうんざりするほど声をかけられる。何かを買って食べていると子供達がそれこそ代わる代わるやって来て「くれ」と言うし。落ち着けなかった。裏道に入っても町は汚れ腰を落ち着ける場所など無い。本当に、疲れる。まだカトマンズの方が、何かとゆっくり出来る場所があるように思えた。大きなラッパを奏で、派手に飾り付けのされた車が通り過ぎる。結婚式らしい。この時期、ネパールでは結婚ブームなんだと、これまた頼んでもいないのについてきた「日本語使い」から説明を受けた。

それに対してバクタプル。
静かで落ち着き、人がそう多くなく、建物の全てが整然とゆっくりした時間の中に佇んでいた。カトマンズのカンティ・パト沿いにある大きなバスターミナルから、乗り合いバスに乗り継ぎ、一時間少しでバクタプルにつく。行き先を告げると次々に後ろの扉が開き、完全にキャパシティを越えてまでも客を拾う車掌。料金はタクシーに比べ破格に安いし、バスの乗客とも会話できるので、行きも帰りもこの乗り合いバスを利用した。学校帰りの大学生も買い物帰りの主婦も。歳も性別も越えてみんなが空間を譲り合いながら同乗する。ニッコリ笑うと、笑い返してくれる。ナマステ、それ以上の言葉は知らないが、それだけで意志が通じる。確かに詰めすぎで、揺れすぎで苦しかったが、なんだか苦痛は不思議と感じなかった。隣の女性が赤ん坊を連れており、膝の上に赤ん坊を乗せ、その上に大きなバックを乗せていたので、「バックを持ちましょうか?」と英語で言った後、僕の膝の上にそのバックを乗せた。始めの一瞬は「何するの」と驚いた女性も、僕の優しさを素直に受け入れ、小さく微笑んだ。何が入っていたのが、そのバックは石のようにゴツゴツしていて、とても重かった。こんなのを赤ん坊の上に置くなんて・・・。

バクタプルも古代王国の一つなのでダルバール広場(旧王宮広場)がある。それはそれはゴミのない掃除の行き届いた、そして建物の間隔、広場の広さ。朝物やにぼんやり浮かぶその光景はとても美しかった。早起きして本当に良かったと思った。外国人は、この町の文化遺産保護の為、ダルバール広場に入るには入場料がいる。もちろん博物館に入るわけではないので、どこからどこまでという境界線はなく、つまりはこの町を綺麗に掃除したり、建物の修復をしたりするためのお金を集めているのだ。そうするだけの価値がこの町にはある。このまま綺麗に保存して置いて欲しいと願うに十分なほどの「美」がそこにはあった。リアカーのような物を引いて、野菜を運ぶ人達の姿までが、絵画の一ページのように感じられる。
このバクタプル王国の王には、五十五人の王妃がいたという。広場に面した五十五窓の宮殿は、その王妃達の数分の飾り窓が凝った彫刻で装飾されている。その昔、浴場であった所ややヒンドゥー教徒しか入れない寺院、ダルバール広場の周りだけでも多くの建物がある。屋根、壁、通り、人々。それらが計算されて様に美しく配色され、空の色までもが調和しているようだった。入り口の門から広場を見渡した光景が絶景で、僕はそこにしばらく呆然と立ちつくし、ぼんやり眺めていた。写真も何枚もとった。ちょうど東向きに立っており、太陽が額の上から射してくる。写真は逆光なので、うまく取れていないだろうが、僕の頭にはうまく記憶された。午前中であったからか、人は少なく、そして涼しい日だった。ガイドをしようかと何人かに声をかけられたが、それどころではないほどに見入っていたので、みんな自然に去っていった。美しい広場だった。日本の原風景のようでもあり、ここにしかない風景のようであり。日本の温泉街や、京都の西陣の町を歩く時、感じるあの独特の落ち着きと、ため息の出るほど長閑な風景が、ここにもあった。それらがネパール風の物として。

ダルバール広場からタチュパル広場に移動し、そこのダッタトラヤ寺院の奥に細い道が続く。その道沿いに孔雀の窓という彫刻があり、これは有名なネワール彫刻最高傑作という代物らしい。確かに細かく、繊細だが、それよりもダッタトラヤ寺院の屋根裏の派手な彫刻と色使いの方が、心奪われる様な気がする。この町には広場が多い。次にトウマディー広場。ここにはニャタポラ寺院がある。この寺院は五重の塔を持つ。ニャタが五の意味で、ポラが屋根と言う意味であるらしいので、名前からして五重の屋根寺院だ。この三つの広場の間に、縦横無尽に入り組んだ細道があり、バザールが点在している。密集していると言った方が適切かも知れない。なぜか、洋服系の店はそればかりが一つのエリアに密集しており、仏具や仏像の店、水瓶や植木鉢を並べる店、それぞれ同系の店が固まりとなって密集してした。裏道の小さな日陰で、日本で言う「ゴム飛び」のような遊びをしている少女達を見つけた。平日の午前中に、学校は無いのだろうかと、眺めていると、僕に気付いた処女達は突然逃げてしまった。なぜだろう?外国人慣れしていないのかも知れない。この町はカトマンズに比べると、かなり田舎なのだ。その密集したそれぞれのバザールの中で、最も時間を割いたのがタンカの工房と、併設された店だった。店先でタンカを描き、商品をその工房の壁に貼って売っている。近くに香港などでよくみるあげパンを作って売る店があり、そのいい香りが充満していた。タンカには「曼陀羅」、「仏陀の一生」、そして「カレンダー」。この三種類の図柄が多いが、その中でなら曼陀羅が一番お気に入りだ。ずいぶんいたが、自分の出せるだけの金額で買えるタンカは、僕が欲しいと思うだけの大きさではなく、部屋に飾れるほどの代物は、やはり少々値段が高かった。同じ曼陀羅のタンカでも、手書きなので、微妙に色が違い、目を近づけてじっくりその仕事の善し悪しを見ては、「いいな」と思う物はやはり、高かった。マスターピース。そう呼ばれる作品は、土産物ように描かれたものであっても、別格の細かさと色使いの美しさがあった。・・・ように思われた。買おうか、買うまいか。昼食でも食べて考えようとレストランに入る。若い青年が「ナマステ」と両手を会わせて店の中に招き入れる。テーブルを拭いたり、料理を運んだりする子供達の兄なのか、その小さなレストランでは彼が全てを取り仕切っている。チャイと焼きめし、モモを注文すると、彼は中に入って作り始めた。見たところ、テーブルは三つの小さな店だが、まだ新しく、綺麗な店だった。勝手な想像だが、両親を亡くし、幼い弟、妹たちの為にここで稼ぎ、食べさせているのかも知れない。まだ二十歳を越えたばかりであろう彼の姿に、応援さえしたくなった。事実とは全然違うかも知れないが、そういう一種の哀愁のようなモノが彼からは感じられた。焼きめしもモモも美味しかった。客は僕だけで、僕が食べている姿を小さな女の子がじっと見ていた。僕が手招きをして、そっと彼女にモモを一つあげた。笑って彼女は頬張った。カウンターに座っていた青年が大きな声でその少女を叱った。なんだか、僕が叱られているようだったし、やっぱり、こうゆうことはしてはいけないのだろうかと、反省もした。これからその少女は何人も相手に料理を運び、テーブルを拭いていくのだ。その度に、客から何かもらっても平気だと思っていては、客商売が成り立たない。そこまで考えると、僕のこの行為は浅はかで、本当に反省すべきだ。この青年は実直で真面目なのだろう。最後料金を払う時、その青年が持ってきたビルには、焼きめしとチャイ代だけしか入っていなかった。またカウンターに座った青年の方を向いて、「何か安いなぁ」と思って首を傾げた。僕のテーブル横にメニューがあり、見てみると、そっくりモモ代を省いた料金が書かれている。間違ってモモ代を書き忘れた訳ではないだろう。僕が少女にあげたモモ代は結構です、と暗にそう言っているようだった。僕はビルの上に、モモ代も上乗せした金額を置き、「ナマステ」と言って店を出た。

昼食後もあちこち動き回った。この町はたのしい。なんと言っても美しい。細い道を右往左往しているうりに道に迷い、ダルバール広場への方角さえ見失ってしまった。でも焦りはほとんどなかった。なるようになるし、出た所で興味が沸けば、どうせまたその興味の赴くままに進むのだ。現在地なんてしっかり分かる必要はない。このままこの町の迷路の中から抜けられず、疲れ果てて倒れる、・・・そんな訳ないのだ。民家の密集しているところに出た。ダルバール広場や、バザールが密集しているところは、民家と比べるとかなり綺麗で整然としているのだと気付く。崩れかけの壁、もう完全に壊れたような屋根。狭い間口。暗い部屋。そんな家で生活をしているのだ。民家の集まる所は、カトマンズでも、パタンでも、一様に湿っぽく、細い路地沿いにある。そうゆう道を歩いていると、上からいろんなものが降ってくる。二階から放たれた何かの水であったり、ゴマのようで、それより大きな何かの穀物であったり、その殻であったり。一番多いのは鳥の糞だけれど。
民家密集地を僕が歩いていると、特に子供達の視線が痛く刺さる。不思議に眺める人、あからさまにジロジロ見回す人。もちろん「ヤスイヨ」なんてモノを売ろうとする人の声はかからず、ただただ、「なんでこんなとこ外国人が歩いてるの?」という視線が手に取るように感じる。いつだって、迷っても、迷っても、最後にはちゃんとなる。それが常だったが、この時ばかりは、その迷いがひどく、一向に見た景色が現れない。終いには民家もなくなり、草むらを渡ったり、飛び石を踏んで川を渡ったりと、結構大変な思いをした。ようやく一軒、駄菓子屋を見つけ、そこのおばさんに「ダルバール?ダルバール」と連呼し、何とか広場まで戻ってきた。夕刻に近づく時間、広場には団体客が溢れていた。中国からだろう、団体客の先頭で旗をもった添乗員が全員を誘導している。四十人はいたのではないだろうか。午前中のあの、人気の少なかった広場とは様相が一変しており、入り口ゲートでもう一度広場を振り返り、「それでは」と少し大きめに声に出して、一礼をしてバクタプルを後にした。


(五)

ネパールの随一のリゾート地、ポカラ。この町には静かな湖と、呆れるくらい壮大なヒマラヤ山脈のアンナプルナがある。国王の別荘もあり、カトマンズで疲れると、ポカラに行ってのんびりする生活が、この国の人達の憧れになっていると聞いた。そんなリゾート地ポカラは、確かに良かった。ちょうど僕が訪れたのはシーズン中で、世界一の山脈も透き通った青空の下、白く険しいその姿を雄大に見せてくれた。あそこに登ろうとする登山家には、それだけで脱帽する。観光用トレッキングがその町からたくさん出ており、それに参加する旅行者も多いようだ。僕は行かなかったが、トレッキングと言っても、なかなかハードらしい。カトマンズからポカラまで、飛行機で飛べば三十分程度でいけるが、バスだと山を幾つも超え、七時間かかる。ネパールはカトマンズだけではない。小さな村が無数にあり、山の中で、そして貧しい暮らしをしているという。それがこの国の姿だ。見てみたかった。その村々を素通りするだけでもいいから、この目で実際見たかった。僕の知り合いにネパールの村に学校を作ると言って、ボランティアで何年間か生活していた人がいた。まだ幼かった僕には、ネパールがどこにあるのか、そして学校を作るといってもどうゆうことをしているのか、まったく分からなかったが、当時の僕は、宝石のようなその国の名前に印象が濃く、「将来僕も行きたい」と幼心に思っていた記憶がある。

僕はバスでポカラを目指す。早朝七時、カトマンズ市内の外れからポカラ行きのバスは出る。早朝のカトマンズのゴミの量は一層激しく、おそらく夕べ飲みつぶれた人達が捨てたものだろう。道にはゴミが散乱していた。空手着に身を包んだ元気な子供達が、朝靄の中、声を揃え列を組んでランニングしていた。

ポカラ行きのバスは混んでいる。チケットを見せると、あっちのバスだと、何台も連なって停車している先の方を指さした。どうも、ここに並んでいるバスのほとんどがポカラ行きらしい。カトマンズとポカラ間は、日本でいうと東京、大阪間ほどの路線なのかも知れない。荷物を屋根に乗せる。チップがいることなど知らず、そのまま預けたが、男性が早く払えと、席についていた僕に催促してきた。素直に払った。僕の席は運転手のすぐ後ろで、三十秒に一回は窓から唾をはく彼は、運転が非常に荒い。いや、この国では普通の部類に入るのかも知れないが。クラクションは、改造しているのだろう、今時日本の暴走族でさえ使わないようなパララパラッパーという爆音仕様で、出会いの挨拶から、追い越す時、道を譲ってくれてありがとうというサイン、逆にどういたしましての合図までの全てをその爆音クラクションで処理する。騒がしいったらありゃしない。またエンジン音だけが盛んでも、坂道ではそう進まない。乗せている人数と荷物が、この車のエンジンの馬力を越えているのだろう。そんな車内の詰め詰めの状況下で、運転手はどんどん地元の人達をピックアップしていく。知り合いに会って、どこどこまで行く、と言われると、「っじゃ、乗りな」という感覚で乗せては降ろし、また乗せる。
なかなか進まない。
バスを止めて「お〜、久しぶり」なんて、民家の軒先に出ている男性に声をかけ、その男性が手招きをすると、客を乗せている、しかもその運転手が、民家まで降りていって、五分程話して、またバスに戻ってくる。何食わぬ顔をして、またバスを発車させる。「こんなもんかな」と自分に納得してしまうと、こんどは「すっごいよなぁ」と変に感心してしまう。市バスの運転手や、どこかの観光バス会社の運転手が、あり得ないが、こんな事をすると、日本ではどうなるんだろう。あり得ないから、そうなったときの事すら想像できない。

昔に比べると、道はだいぶ良くなったというが、やはりボコボコ部分は多く、砂地が目立った。ぬかるみも多い。ただ、予想していたよりも、乗り心地はずいぶんと良い。この運転手は次から次へと僕の常識というラインを踏み越えてくれるが、その中でも驚きとそして感動さえ感じた一番の出来事は、民家に例によって入って行ったと思うと、しばらくして山羊を一匹連れてきた。そして、それを後部座席に乗せた。人間と荷物と山羊。ポンコツ車に揺られ山を越える。

山道に入ると、村も点在するだけで、道沿いにはあまりない。遠目に村人達の姿を見る。丸裸の子供が走り回る。洗濯を終えた母親が子供を抱いたままどこかに向かい歩いている。車窓からは、ヒマラヤの山脈が雲の遙か上に見えており、それが百八十度一面に広がる。白く、険しい。眠ることなど忘れる程に、山と山脈と村と。流れていく景色は、ネパールだった。あれをネパールと言うのだろう。僕はそんな気がした。

ポカラまであと二時間という所で、バスがずらりと三十台くらい並んで停車していた。どうやらこの先で人身事故があったらしく、一人死んだらしい。今、警察が来て現場検証をしているので、その間は進めないという。そこで二時間、足止めを食らった。バスにずっと座ってられないので、周りをブラブラ歩くことにした。幸いにも少し行けばバザールがあったので、ぐるりと一周する。赤や緑のティカを見ながら、インド系のホリの深い女性には、眉間に貼るティカが本当に似合うよなぁ、と自分の顔に貼ったときの姿を想像しながら、なお強く思った。二時間と聞いたが、案外早くバスは動きだし、結構遠くまで歩いていた僕は、バスがどんどん発車していくのを見て、走ってバスまで戻った。あの、運転手が、いちいち乗客の人数をチェックしてからバスを発車させる事などあり得ないと思い、絶対において行かれると、本当に全速力だった。寝そべっていた牛も驚いて、「も〜」と一声をあげた。「起こさないでくれよ」とでも言っていたのだろうか。結局三十分程で足止めは終わった。そこからも同じ様な絶景の中、同じ様に荒運転でバスはポカラに向かった。二台のバスが同時に乗ると、崩れる可能性があるから一台のバスが通り過ぎるまで待ってから渡る、そんな不安全な吊り橋を越えたり、どんな大事があるのかと不思議に思うほどの人だかりが出来ていたり。この国では、ちょっとしたことで野次馬が集まり、人だかりがすぐに出来るのだ。それにしても、小学校、中学校共に、青色の制服が異常に多かったような気がする。制服と言えば黒いガクランだった昔の日本と同じだろうか。ただ制服を着て学校に通える子供達は、恐らくは裕福なのだろうと、そんな普通の光景に感傷的になってしまう。

予定通りの時刻にポカラについた。ターミナルには宿の客引きで溢れ、値段と条件を交渉して、その人にホテルまで連れていってもらう。考えてみれば、非常に便利なシステムだ。ポカラは長閑でカラフルな町だった。牛が所々で寝そべっていても、人の密度がカトマンズよりもないので、その寝そべった牛が交通を麻痺させることもなく、ここにこそ、神聖なる牛と人間の共存が、お互い我慢することなく存在しているような気がした。ポカラの宿は、そんな長閑な町の更にのんびりしたところだった。町はペワ湖という湖沿いに店が建ち並び、丘に登るに連れて宿や住居が密集するようになる。僕の泊まった宿のとなりが牧場で、一階の部屋のベランダは牧場に面していた。安かったが、広く、ベランダ付きで、そのベランダに出ると牧場で飼われた牛がいる。んっ?牛?これは神聖なるシンボルではないのか?ということは牧場ではなく、ただの草むらに、牛が自由にいると言うことになるのであろうか。それとも乳牛は神の象徴ではないのであろうか。聞いたことがあるのだが、水牛は神の象徴ではなく、悪の象徴で、食べても良いらしい。そうゆう細かい違いが同じ牛でもあるのかもしれない。それにしてものどかだった。もう同じ言葉しか出てこないほどに、何もなく、そうであることが極上の贅沢のような気がした。

ポカラで向かえた初めての朝、宿を一歩出て振り返ると、透き通る青い空に、高く、白く、険しく、そして何より美しくアンナプルナが太陽の光を浴びて輝いていた。今でも濃厚にあの感覚は覚えている。宿を出て進んでいると、前にいた二、三人が僕の方向を見上げている。後ろに何かあるのかと思い、ふと振り返ると絶景が悠然と横たわっていたのだ。

宿の人に聞いても、この日の山は非常に美しく見えた日で、滅多にこんなにきれいに見える日はないという。「大」が付くほどラッキーだ。アンナプルナ山。最高峰の頂を四つ持ち、世界最高のヒマラヤ山脈の一部分を成している。アンナプルナ山群の中にあって、一際形の美しいマチャプチャレは正三角形の頂を大空に突き刺していた。魚の尻尾という意味の名を持つその山の両サイドが、いくぶん平坦な山脈となっているので、マチャプチャレだけが突き抜けて際だつ。本当に美しかった。この山脈は雲なのではないかと思うほどに高い。建物の三階部分にある宿の看板が、山脈を撮ろうと思って構えたファインダーに入らない。入ったとしても一番下の方にちょこっと現れるくらいだ。つまり、カメラはほぼ真上を向いてその山脈をとらえる。七千メートルから八千メートルの山々。富士山の上にもう一つ上富士山を重ねた高さ。想像できない。そんな所に登ろうとする登山家がいるのだから……。

朝の光はポカラの町を一層カラフルにした。透明の輝きを感じる。空気が澄んでいる事が分かる。昨日、昼過ぎに着いてから、歩いていたときには、巻き上がる砂埃と、真上から射す太陽が、どことなくこの町を海沿いの町のような姿に映していたが、朝の七時半、この町は光りに輝き、山奥の町のような透明感があった。朝と、昼と、夜。どれも違った顔を見せる。夜は夜で、外国人観光客が多いため、バーなど外国人用の店が繁盛し、飲めや歌えの大騒ぎとなっていた。

昨日、カトマンズからのバスで一緒だった日本人女性、Sさんと今日は一緒に行動することにしていた。町の中央にある「ナマステ像」の下で待ち合わせている。早起きして、一回りブラブラと歩いて、八時半にSさんと一緒に朝食のためレストランへ。湖畔でコーヒーでも飲みたい。そう思って探していると、結構湖側のレストランでは、湖畔のテラスが多く、さすがに八時半ではまだ店もしまっているところが多かったが、一軒だけ開いていた。客はゼロ。僕たちが行くと、エプロンをつけながら、ウェイターが席まで案内してくれた。

顎で挟んでいたメニューを手渡される。両手を後ろに回して、エプロンの装着が済むと、「何にしますか?」と英語で聞いてきた。さすが観光の町、英語で不自由することはない。スクランブルエッグとパン、コーヒーのついた「アメリカン・ブレックファースト」というセットメニューを頼んだ。まるでホテルの朝食気分になる。ため息が出るほどいい景色だった。目の前に広がる湖、そして透き通るような空、雄大な山脈。風が吹き、鳥がなく。手漕ぎボートが岸に上げられ、それら全ての要素が解け合う一枚のパノラマ映像のようだった。

「ラブリー」だった。

愛すべき光景であり、可愛らしい風景であり、美しい眺めであった。コーヒーもパンも卵も、普通のモノなのだろうが、特別の味わいがしたのは、例の「焼きそばの法則」に相違ない。随分座っていた。おそらく店員に嫌がられるほどに座っていた。気が付くと十時半。あっという間に二時間もそこに座っていたことになる。鳥がテラスに飛んできて、パン葛を投げる。そんな優しい気持ちで鳥達と戯れる光景が、本当によく似合った。

そのまま湖畔を岸まで歩き、貸しボートに乗った。男である以上、漕ぐ。こっぱづかしくて、日本で湖のボートに乗ることなど出来なかった僕も、不思議とここでは自然に出来る。なかなか思ったように進まなかったボートも、十分もすればコツを掴み、あちこちに漕ぎ回る。まだ涼しさの残るポカラは心地よい風が吹いていた。

ペワ湖には、国王の別荘に面して専用敷地があり、そこにボートで入っていくことは出来ない。別荘に近づくと、向こうの岸から笛が吹かれ、「入るな」と注意を受ける。いきなり撃たれても困るので、無茶はしない。ユラユラと揺られるボートから、ヒマラヤ山脈を眺める。顔一杯に太陽を浴び、その温度がじんわり伝わると、一定の間隔を置いて、涼しい風が頬を撫でる。心地いいとはこのことだ。湖には中之島があり、そこに寺院が建っている。小さな寺院。島に停泊させたボートがどこかへ流れていかないか心配になるほど風が強く吹き始めたが、あまりにも心地よくて、しばらく岸に寝そべっていた。Sさんはあちこち動き回っていた。十五分くらいは本当に眠ってしまったような気がする。あのまま何時間だって眠れたが、そうもしてられない。一時間のレンタルボートだ。時間ぎりぎりに返す。時間オーバーだと、主張する店主にチップを払って置いた。彼はさらに、最初僕が漕ぎ型に手間取っていたとき、いくつかのアドバイスをくれた。その事を「グット・ティーチング・ユー」なんて何度も主張する。だからチップが欲しい、ということらしい。せっかくの絶景で気分がいいので、こんなところで言い争ってる場合ではない。素直にまたチップを渡した。

昼食はまた湖畔のテラスで摂り、昼から土産物を買うというSさんと別れて、僕はレンタサイクルをして町中をうろついた。まずは湖沿いにずっと進む。風が気持ちいいが、午後になると、どうも砂っぽくなってしょうがない。口を覆わないといけないほどに舞う。それには少々閉口したが、それでも絶景に見とれていた。完全に日本人だと思い、「こんにちは」と話しかけた青年は韓国人で、「日本のかたですか?」と英語で聞かれた。それから彼とはしばらく話していた。

彼のルーツはネパールにあるという。おじいさんがネパール人で、初めてこの国に来たと。ビザが必要な韓国国籍の人にとって外国に行くのは、まだまだ大変なような気がする。海外渡航自由化となってまだ三十年ほどか?日本に生まれて、そうゆう時代になってほんと、よかった。彼は日本の事を矢継ぎ早に聞いてくる。音楽、映画、ゲーム。そして経済。大学生の彼にとって日本という国はどう映っているのだろうか。以前、僕がロンドンに滞在していたとき、ある韓国人女性から、「私の中の日本は、歴史的背景からあまり好きではない」とはっきり言われた事がある。だからといって、これは非常に難しい問題だが、僕には何も感じない。過去、旧日本軍が犯した犯罪。それは許し難く、非人道的で、僕自身同じ強さとベクトルで非難している。それを償おうと現在の日本人である僕が小さくなり、頭を下げ、そして・・・。という事は違う気がする。日本国として政府が償うのは、もっともだが、同じ人間として、同じ空間で、相手の言葉と顔と温度を感じ会いながら、語り触れて行きたい。歴史を語り、今を語り、そして手を繋いで未来を夢見たい。そんな風に思っている。すり替えたり、ごまかしたり、逃げたり。歴史から目を背けているのではない。ではないが、僕は「これから」を見たい。今、目の前に韓国人青年の声を聞きたい。日本に来たいと思うかと聞くと、そうは思わないと彼は言っていた。逆に韓国に来たいかと問われたので、焼き肉が食べたいので、是非行きたい、そう答えた。この会話は韓国人だから、日本人だから。そんなモノはまったく除外して、個人として思った事をお互いが話せた気がする。とっても有意義であるように思う。彼は、そのまま道なき道へと変わっていく「先」を進むと言うので、僕は引き返し、丘の上に登っていくことにした。

夕方、彼がレンタルした店と僕は同じ店だったようで、返す時間がたまたま同じだった。あれからずっと先まで行けたのかを聞くと、「あの先に道はなかったから、近くのベンチで寝ていた」とはにかんで笑った。「気持ちよかっただろうね」と僕は答えた。

湖沿いではなく、丘の上には学校や民家が立ち並び、学校帰りの小学生や、主婦や大工が生活している場所へと変わった。大きめの家が連なり、おそらくは裕福な暮らしをしているのだろう。小学校のグランドに少しおじゃまをして、スクールバスで帰っていく子供達を眺めていた。何も変わらない、日本の小学校と同じ光景。明日を心配して憂鬱になることもなく、今の感情のまま腹を抱えて笑っている子供達の姿。これがこの国の全てではないことは知っているが、それでも、確かにこの学校に通ってる子供達は、僕の目の前で腹を抱えて笑っていた。それだけで幸せな気分になる。子供の姿をみて、可愛いらしく、どこか勇気づけられるようになったのはいつ頃だろうか。自分が大人になったと自覚したのがいつ頃か分からないのと同じで、それもまた分からなかった。このポカラという町は、のんびりできた。結局予定していたよりも、一泊多く滞在しカトマンズへと戻った。

帰国を翌日に控え、最後まで悩んだ末に遂に決心した事がある。
それはマウンテン・フライトの乗ること。元々、エベレストは、ナガルコットという町に行き、そこから眺めようと思っていたが、思わずポカラに長くいたので、帰国日の関係上ナガルコットまで行くのは不可能となった。このままエベレスト山を見ずに帰るのは、もったいない。かといって破格の料金を払ってまでマウンテンフライトするのも気がひけた。悩んだ。悩んだが、帰国してから、飲みに行くのを二回ばかり我慢すれば乗れると、一大決心で申し込んだ。

早朝、カトマンズの空港から霧が晴れていれば毎朝各航空会社がエベレスト目がけて飛び立つマウンテン・フライトを行っている。ネパール国内線の航空会社は結構あり、ネコン・エアー、コスミック・エアー、ブッダ・エアー、それぞれがマウンテンフライトを飛ばしている。料金は一律で席の空きもほとんど心配ない。早朝七時に飛ぶ飛行機に乗るため六時に起きて空港に向かう。しかしその日は霧が濃く、なかなか飛ばない。このままキャンセルするかもしれないとさえ思った。ゲートの窓から外を見ると、まったく視界がない。完全に霧に包まれていた。二時間遅れの午前九時、日が少し高くなると、ようやく飛行機へと搭乗する。

縦に十五席ほど並び、横は二列。真ん中に廊下がある。全席に一つづつ窓が取り付けられており、完全に観光用に作られた飛行機であることが分かる。僕の二つ前の席のおばさんは、ちょうどまどに大きな亀裂がはいり、それを何かで止めた跡がくっきり残り、カメラでとった写真には、間違いなくその跡が入るだろう。その事をアテンダントの女性に訴えていたが、あいにくその日、僕の乗ったコスミック・エアーは満席で、他の席にも移れず、あきらめるしかなかった。あれはかわいそうだ。バカ高い料金をとるのだから、せめて窓くらいいつも綺麗なのに代えればいいのに。どこかに向かって飛び立つのではなく、窓からの景色を楽しむために飛ぶ。もちろん、一番の目的はエベレストを見ることだが、世界の屋根と呼ばれる山脈を見下ろしながら飛んでいると、何か不思議な感じがした。飛び立ってから三十分ほどすると、完全に山脈上空を飛び、見下ろす光景全てが恐ろしく険しい、そして、険しいモノの持つ、独特の美しさがある。

飛行機はそのままエベレストへ向け直進する。前から一人づつコックピットに案内され、フロントガラスから、エベレストを真正面に見ることが出来る。さすがにみんなカメラを持って、順番にコックピットに入る。僕の順番が来たときには、ある程度大きくエベレストが見えており、あれがマウント・エベレストだと説明を受け、それをじっと眺めていると、後ろからおばさんにつつかれた。「早くしてよ」と。慌ててカメラを構え、そして一枚撮った。慌てて撮ったので、エベレストがフロントガラスの真ん中にある黒い仕切と重なってしまい、現像した写真にはがっかりだったが、鮮明にあの時じっと見ていたエベレストまで直進するフロントガラスからの光景は残っている。

最初から最後まで、ファイダーからしか見ない人もいたが、それはもったいない。写真に収めるより、先にこの目で見た方が、僕には重要なのだ。目に映った映像が頭で理解し、心で感じるまで、じっと凝視した絶景。おそらく一生忘れないだろう。とはいえ、エベレスト山は低くなだらかな所にいきなり八八四八メートルの山があるのではなく、八千メートル級の山脈の土台の上に、頂がぽっかりのっかているので、「高いな!」という感覚は、もしかしたら富士山を眺めたときの方が強いかも知れない。世界一の山、エベレストは、飛行機にわざわざ乗って、それも高い山脈を低空飛行しながら、さんざん見回った後に、じっくり眺めても感動さえ覚えるほどの圧倒的な存在感があったが。結果的に見て良かった。

ポカラでは、空気がガラス質の粒子の様に、太陽に反射して輝きながら、マチャプチャレは大空に突き刺さるほど高く、そして真上に伸びていた。カトマンズでは、ゴミと売り物と、食べ残しと、それを拾う人々が、車とリキシャーと人と牛が、ブッダとヒンドゥーとキリストが、宇宙と地球と海と空が、笑顔と泣き顔と落胆と企んだ含み笑いが、お金とカネとマネーが、いたずらに行き来する風と、望んでも降りてこない雨が、勇気と諦めと悟りと嘘が。

ここでは、まるでリンクしようにも、離れすぎて絡み合わない多くの事象が現実身を帯びて混在している。雑多な街の一片を切り取り、それを何倍も倍率を上げて拡大したような、荒く、それでいて、目を細めて見渡す景色は安定しているような。近づいて臭いを嗅いでから、鼻をつまんで、繰り返すうちに慣れてしまうような。カトマンズ。そこには、全人類が創り出した幸せと、それを叶えてくれる神の化身と、果ては神自身でさえも、混在する場所であるように感じた。
全身の自由を奪われ、這い蹲るようにして乞う人々。その寝ころんだ人の上を跨ぐように歩く大量の人の群。「明日は我が身」。まだ見えず、感じず、もしかしたらあり得ないとさえ思っているその人の姿に、足を止め、一センチでさえも外れようとはせず、ただ人波に揉まれて進んでいる。薄いガラスの膜を張ったような、割れそうな青空の、もっと上の宇宙に神がいるとするなら、席を譲り合うように鎮座し、この雑多な街の、雑多な事象の、そして、複雑な一人一人を見下ろしているのかも知れない。

混在し、整理されないまま、雑多に共存する街の風景は、カトマンズという都市を最も現しているように思う。

帰国便は、オーバーブッキングが三十人を越していると聞いた。次のフライトに振られた人が空港を後にする。運がいいのか?予定通りの飛行機で席が確保できたが、予定時刻より五時間遅れの真夜中三時半、カトマンズ空港を飛び立った。ほんのり灯りの灯ったカトマンズの街に、「ありがとう」、「さよなら」、「またくるよ」。どんな意味にも、簡単な挨拶として使えた「ナマステ」という言葉を全ての意味を込めて、そっと呟いた。


[了]

[ Colors of world top page ]