僕は思う。「違い」というのは永遠だ。いつまでも交わらない平行線。その二つの線の間隔が、例えば「手をつなげる」距離にある場合、すなわちそれは「叩ける」距離でもあるということで、叩いたり叩き返したりしながらボコボコ進むよりも、まぁまぁと手を繋いでいる方が双方にとってハッピーだ。

民族と宗教。これは国家という枠よりも複雑で広範囲に及ぶ。そこに「主義」なんてものが加われば、ひとつの枠の中にすっぽりはまる方が難しい。個々それぞれ、もう何かしらの違いがある。それを一方がもう一方に強制した場合、塗りつぶそうとした場合、完全に無理があるのは単純明快。
僕たちは、この違いというものを認め合って共存するしかない。

自国の軍人2名が拉致されたことに端を発し、これ絶好のチャンスとばかりに空爆やら地上軍侵攻やらを進めるイスラエルに、怒りを感じる。これまでに、イスラエルの空爆で死んだレバノンの民間人は500人を超えるのだ。レバノン人だけではない、イスラエルは誤爆と主張しているが、国連施設への攻撃も行っている。「イスラエル人の涙の一滴は、レバノン人の血の一滴よりも価値があるのか」というレバノン・シニョーラ首相の問いかけに、きっぱりと言いたい、「ノー」。
すぐにこの空爆を止めるべきだ。
話はそれからだろう。

ヒズボラという組織は、レバノンの政党に加わっているとはいえ、基本的にはゲリラ組織だ。そんな泥沼は、イラクやアフガニスタンで経験済み。ベトナム戦争の経験を生かし切れずに、イラク戦争に突っ走ったアメリカは、特に、この対ゲリラとの闘いに「空爆」や「地上軍侵攻」に意味がないことを主張すべきなのに、そこが歯がゆくてしょうがない。

中東問題は根が深い。どこまで根気強くやれるかだ。もっと言い切ってもいい、これは永遠に近いだろう。解決という定義にも、ロードマップの行き着く先にも、そもそもの無理があるのかも知れない。それであれば、どこかで譲歩するしかなく、その為には同じテーブルに座って、お茶でも飲みながらゆっくりと話し合わないといけない。この地域において、イスラエルだけが圧倒的な軍事力をもっているという歪んだパワーバランスをなんとかしないと、なかなかゆっくりお茶も飲めない。

まず、違いを認めよう。同じになることは、ありえないと理解しよう。
その上で、手を繋ぐように「線」を引こう。壁を築いたのでは、向こう側が見えなくて、だからこそ不安になる。国際社会(国連)は、いつまでもひとつになりきれずにあーだ、こーだ言うのではなく、誰の目にも明確な殺人行為、今の場合イスラエルの空爆をとにかく止めさせることに全力を尽くし、その後のことには干渉しない。これが理想ではないが、ベストだ。

そもそも、相手が違うということを認めるからこそ、自分をも認められる。違うからこそ学べるし、愛せるし、友達になれる。

そう、やっぱり思う、「違い」というのは永遠、なのだ。攻撃を繰り返しても、いつまでも……。



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ディファレンス
2006年7月30日