あいかわらず、誰もいない露天風呂。我森(がもり)修平は、足を伸ばし、鼻の下まで湯につけて、浮かぶように、星空を眺めていた。キラキラ星、星のラブレター、スター。頭に浮かぶまま、知っている「星」の歌を口ずさむ。



裸の我森


 キンコン、カンコン。(空耳の)終了チャイムの後、「きりッつ」と声に出しながら、我森は立ち上がった。ザバッ、と湯のかたまりが下半身で弾ける。「ひんやりして、気持ちがいい」と思った。もう一度、夜空を見上げ、ゆっくりと、振り返った。
 露天風呂から脱衣場へ向かうドア。その前に、スーツ姿の男が、三人並んで立っていた。彼らがこちらを見ている。そんな彼らを見たとき、我森はどこかホッとした。そして、素っ裸のまま、彼らに向かって深く頭を下げた。両端の若い刑事たちが我森に近づき、「我森修平だね」と確認すると、「……、田所マミ、殺害……。」といくつか確認するように話しかけ、「署まで、同行願います」と耳元でささやくように言った。うまく聞き取れない部分が多く、ただ静かに頷きながら、我森は、ドアの前に立っている年配の刑事、秋山から目が離せなかった。彼の突き刺すような視線は、かつて我森が頼り、すがった者達が持ち合わせていた眼差しだった。この二十一年の人生で、この目で見られたことが何度かある。若い刑事に両腕をつかまれ、我森はゆっくりと歩いた。暗闇の中、フラッシュが何度か光った。その光の度に、我森は自分を俯瞰して見て、また現実感のないプレイの中へ、吸い込まれていくような気分になっていた。
「そうやって、また、見限るなよ」
 横を通り過ぎるとき、秋山はうつむく我森に言った。ドキッとした自分を必死で隠すように、にこりと笑った。そのまま、我森の身柄は、拘束された。

 テレビのワイドショー番組が、我森の逮捕劇を伝えたのは、身柄拘束から二日も経ってからだった。テレビや新聞が扱うニュースは鮮度が一番だ。膨大な数の中から、話題性のある数件だけを抜き出して迅速に伝えている。しかし、我森の場合は、彼の殺人未遂容疑に話題性があったのではなく、あくまでも身柄拘束時のインパクトだった。露天風呂をバックに、素っ裸の青年が、二人の刑事に腕を掴まれながら歩いている。下半身にはモザイク。濡れた上半身。うつむいているおかげで顔にモザイクはなく、前髪が垂れていた。両サイドの男達の険しい表情から、手錠はないものの、それが「逮捕」だと分かる印象があった。そんな写真が、LINEやTwitterというネットワークで急速に広がっていたのだ。その広がりを後追いで伝えたのが、テレビだった。それが二日後、ということになった。
 水沢陽人(あきと)は、そのニュースを不思議な気持ちで見ていた。我森が人を殺すだろうか。それは、彼が絶対に取らない選択肢のように思えた。日本中に、こんな姿で知らしめられた我森に対して、また怒りがぶり返すというよりもむしろ、殺人を犯そうとした違和感の方が強かった。そう思う一方で、利香(りか)も、我森のこの身体に抱かれたのだろうか。彼に抱かれているとき、利香は「つまんない」とは、思わなかったのだろうな、とも思った。



 陽人の我森プレイ


 陽人は、露天風呂の脱衣場の、あの何とも言えない水場の臭いを思い出していた。小学生になる前から水泳教室に通い、その頃からずっと、あの臭いが嫌いだった。泳ぐ事も嫌いだった。我森が同じ水泳教室に通うようになり、辞めるに辞められなくなったので、十年近く通ったが、結局、好きになれなかった。水泳教室の更衣室で、さっさと素っ裸になって水着に履き替える我森。彼は、バスタオルで必死になって隠している陽人をバカみたいだと笑っていた。頭もよく、運動もできて、喧嘩も強かった我森。だから、女子にとても人気があった。そんな我森が笑っていた更衣室。あの、臭い。
当時は、我森の考えていることが、陽人にはさっぱり分からなかった。分からないどころか、我森のやっていることは、ほとんど「間違えている」と思っていた。それなのに、担任や周りの大人達は、我森に好感を持ち、褒めていた。思ったことを何でも言っては、すぐにやってしまう。相手がどう思うかなど、お構いなしだった。とにかく思いのまま、生のまま。それが、小学生の陽人から見た我森だった。
 そんな我森も中学生になると、今度は、同年代の生徒たちから注目される存在になった。好きも、嫉妬も、僻みも、妬みも。我森に対して、誰もが何らかの感情を抱いていた。もちろん、陽人も例外ではなかった。我森のすること(陽人には理解できないこと)が、つまりは陽人には出来ない(・・・・)こと(・・)だと知ると、我森の横で、何ともいえない安堵と嫉妬が混じり合った気持ちになるのだった。
 
 昨日、陽人が家に帰ると、母親が玄関まで走ってきて「夕方、警察の人が来た」と涙目で言ってきた。そこには〈あんた、何したの〉という問い詰めがあった。「修ちゃんのことで?」と陽人が聞くと、ポカンとした顔になった。テレビや新聞は、まだ我森のニュースを扱っていなかった。だから、母親は我森の事件を知らなかった。陽人は、友達という友達、特に高校までの友達から、次々にLINEやリツイートがきて、嫌というほど「あの写真」を見ていた。ただ、事件のことは、全く知らない。最近は、我森と一切連絡を取っていないのだ。もし、今回の事件が本当なら、利香と我森が会っていたとき、同時に、その被害者とも会っていたことになる。もしかすると、我森に頼まれて、利香まで変な事件に巻き込まれていたかも知れない。それを考えると、陽人の怒りはぶり返すが、もう済んだことだ。
「修平くん、何かあったの?」
「いや、なんでもない」
「ちょっと、陽人、修平くん、警察の方に、お世話になるようなことしたの?」
「知らない。俺は、何も知らない。だから、また警察が来たら、そう言っといて」
「本当に? 本当なのね、あんたは何も知らないのね、ウソじゃないわよね。」
 警察が突然やって来たら、たいていの親は、我が子を信じる気持ちに自信が持てなくなる。突き放すように言った陽人が、自室のある二階へ上がろうと振り返ると、母親の顔には、そんな自信喪失の跡がくっきっりと見て取れた。
「どうせまた、いつもの噂だよ、噂」
 陽人は、こういう時、何も言わずに放っておくことが出来ない。母親の心配が、陽人だけではなく、我森にも向けられていることを知っているだけに、こう言うしかなかった。噂。そう、実際にまだ容疑者なのだ。
「また、何か良くない噂があるのね。あの子もいろいろ大変ね。それにしても、警察が来るってことは、これまでなかったわよね」
 陽人も母親と同じことが気になっていた。これまでも、我森については色んな噂があった。ほとんどの噂は、彼の生い立ちが大いに関係していた。しかし、今回ばかりは違う。刑事が動き、実際に身柄が拘束されているのだ。それも殺人未遂という容疑で。
「まぁ、たぶん、また今度も、大したことないよ」
「そうよね。あの子、根は良い子だもんね。警察に追われるような、そんな事、きっと何か事情があるのよね」

 我森はホストをしているらしい。そんな噂が流れたことがあった。中身を知らず、長身で二枚目という我森の外見だけで判断するなら、そういう噂が広がるのも分かる。高校を卒業後、ほとんど会うことがなくなっていた陽人も、なくはない噂だと思っていた。しかし、陽人の母親は「それは、絶対にない」と言い張っていた。身体ばかり大きくなり、一見チャラチャラして見えても、生まれ持った性分までは変わらない。女の子と話す時、顔を真っ赤にして上手く話せない子が、ホストなんて出来るはずがない。それにあの子は、そう(・・)いう(・・)ことで、お金を稼いだりは出来ない。そう信じていたのだ。
 大人は、子供の成長を自分の頭の中で処理できる範囲程度に留めてしまう。その尺度をはるかに上回るスピードで、いろんなものに触れ、砕け、その中から様々なものを得ていくのに、そこに現実味がないのだ。ホストをしていることが、どうも本当らしいと聞いた時、だから、陽人の母親は、裏切られたような気分だった。別にホストという職業がどうこうというのではない。我森とホストという繋がりが、嫌だったのだ。
 陽人の母親の父、つまり陽人の祖父は、水商売の女性におぼれて家族を崩壊させた。中学生になった陽人が、何度も聞かされた話だ。陽人の母親にとって、水商売、夜の仕事というのは、そう(・・)いう(・・)ものなのだ。そこでお金を稼ぐ人というのは、自分たちのような家族をいくつも生む可能性を知った上で、生業にできる者達なのだ。そこに、我森がいるという嫌悪だった。
 陽人がちょうど小学生になる年、近所に同じ歳の子が引っ越してきた。それが我森だった。母親としては、素直に嬉しかった。近所に、歳の近い子がいないせいか、陽人は誰かと一緒に遊ぶことをほとんどしない子だった。幼稚園でも、友達の作り方が分からず、彼の世界を広げるためにと思って通わせてた水泳教室でも、一人でいることが多かった。それだけに、同じ歳の子が来てくれることで、何か変わってくれるかも知れない。
 両親の居ない子であること、引き取られる年配のご夫婦とは、血の繋がりがないこと。我森には、引っ越して来る前から色んな噂があった。陽人の母親も、それらを耳にしてはいたが、実際に我森本人に会い、彼がニコッと笑った顔を見た瞬間、心底、良かったなと思った。
 我森が中学生の頃までは、学校帰りや部活帰りに、よく陽人の家へ夕飯を食べに来ていた。おじいさんが亡くなり、おばあさんの腰の調子も良くなかった。そんな事情もあって、陽人の母親は、我森のために出来ることは何でもやってあげようと思うようになった。高校生になると、これまでのように慕ってくることはなくなったが、道で出会うと、元気に挨拶をするし、そのにっこり笑う顔は、幼い時のままだった。
 我森が唯一頼りにできたおばあさんも、彼が高校二年生の時に亡くなった。これからは一人で暮らしていく我森に、陽人の母親は、何をしてやればいいのか分からずにいた。ただただ、不憫だった。あのとき、我森が言った言葉が頭から離れない。高校二年生、家のリビングでは、ずっと携帯電話をいじっている自分の息子と同じ、十七歳の少年だ。そんな我森が、精一杯作った笑顔と、精一杯作った言葉。
「大丈夫です。やれるところまでやってみます。
あ、でも、もし本当にダメなときは、助けてもらっていいですか?」
 ホストをしているとわかり、陽人の母親がまず思い出したのがこの言葉だった。一人で、やれるところまでやる、といった彼の答えのような気もした。我森の抱える事情。その深さと大きさを前に、陽人の母親は、もう、自分に出来ることは、少ないのかも知れないと思った。お腹が減った時、何か作ってあげる。そんな感覚で、「もちろんよ(助けてあげるわよ)」と応えてしまった自分の暢気さのようなものも痛感した。

 陽人は、自分の部屋に入ってからも、何となくそわそわして眠れなかった。
あの雪の夜から完璧に封印していた我森との事が、一気に頭の中を駆け巡ったのだ。大学に入り、陽人には新しい友人関係がやっとできた。彼の世界は広がり始め、その分、我森とは疎遠になっていった。それは、「我森のくっつき虫」とまで言われていた陽人にとって、大きな変化だった。大学生の陽人と、いくつもアルバイトを掛け持ちしているという噂の我森。二人は、全く違う時間軸で生活し、ほとんど接点がなかった。

 中学生になっても、二人は水泳部に入った。小学生から続けている水泳。我森と陽人は、お互いにタイムを競い合うようになっていた。大会に出れば、優勝争いをするような良きライバル。傍目からは、そう見えていた。しかし、陽人には、我森にかなわないということが分かっていたし、我森にも、陽人が自分を脅かす存在ではないことが分かっていた。そんなはっきりした勝負さえ、有耶無耶にするほど、二人は、いつも一つずつを分け合いながら生きていた。どちらかが、あからさまに「出る」ことに遠慮があったのだ。これには、陽人の母親の存在が大きく関与している。小学生の頃から、陽人にも我森にも同じぐらいの愛情を注ぐうちに、同じぐらいの結果を求めるようなった。それを肌で感じた我森が、自分の力をコントロールして、うまくやり過ごしていたのだ。陽人にも結果が分け与えられるようになると、いつしか、同級生の女子たちの間で「我森派」と「陽人派」が出来ていた。バレンタインデーになると、どちらにチョコを渡すかで賑わっていた。目立つリーダー格の女子から人気のある陽人とは違い、我森は、全体的に幅広い女子からチョコをもらっていた。数から言えば、圧倒的に我森の方が多かったが、陽人の方が目立っていた。格好いい、といわれる我森に比べて、陽人は可愛いと言われることが多かった。そう言われる度に腹が立ったが、陽人はただ、ニコニコ笑うのだった。
「ちょっとは、ガツンと言ってやった方がいいぞ」
 学校の帰り道、我森が陽人にそう言ったのは、学園祭の出し物を決めるホームルームの後だった。女子の輪の中に、陽人だけを強引に組み込んだ班決め。まるで人形のように陽人を扱う女子たち。それを外野から見ていた我森は耐えきれなかった。その輪の中でニコニコ笑っている陽人が、とにかく歯痒くてしょうがなかった。
 我森には当時、付き合っている彼女がいた。その子は、学校一と言われる美女で、二人が校内を並んで歩くと、みんながほれぼれするほどの美男美女カップルだった。学校案内の冊子の表紙にも、二人が起用された。学校公認の不純異性交遊。不純じゃないから、公認なんだと我森は言うが、彼が嬉しそうに陽人に話す二人の関係は、羨ましくて興奮するほど「大人」の関係だった。普段の帰り道は、そんな我森たちカップルの話題なのに、このときばかりは我森が興奮して陽人を責め立てていた。
 ボディペインティングという出し物を提案し、そのモデルに陽人を起用したクラスのリーダー格女子生徒Y。Yは、我森の彼女がキャプテンを務めるバレーボール部に所属していた。普段から、Yがいかにチームワークを乱し、足を引っ張っているか。彼女から嫌と言うほど聞かされている我森は、Yのやることなすことが気に入らなかった。そのYが、今度は陽人をターゲットにしたのだ。
クラスを大きく三つに分けて、それぞれ分担して行う学園祭。出店班と舞台班、装飾係に別れるのが常だが、出店を「見世物」にしようと言い出したのだ。しかも、Yの言い分は、水泳部の陽人なら、裸になることに抵抗がないからモデルに適していると。ニヤニヤ笑って話すYの顔が、陽人も大嫌いだった。しかし、周りを取り囲む数人の女子が、同じようにニヤニヤ笑うと、嫌いを通り越して、怖く見えてくる。嫌だ、と言えない恐怖。担任の女教師は、「面白そうね」とボディペインティングに賛成で、「先生も水沢君のハダカ、見てみたい」と、女子たちと一緒になって騒いでいた。
「だいたいさ、なんでおまえは、いつもそうなわけ?」
 我森の怒りは、収まらない。
「何が?」
「だから、身体に絵の具べちょべちょ塗られて、学園祭の期間中、ずっと、教卓の上に立ってるんだぜ。分かってんの? くそ恥ずかしいし、はっきり言って、バカだよ」
「じゃ、そう言ってよ」
「俺が言ってもしょうがないだろ。やるの、おまえなんだからさ」
「言えないよ。あいつら、面倒臭いもん」
「アホか。おまえ、おちょくられてんだよ。なんで、それが分かんないかなあ」
「分かってるよ、それぐらい。修ちゃんとは違うんだよ。自分が思ってること、何でも言って、それで周りが納得してくれるなんて、修ちゃんぐらいなもんなんだよ」
「なんだそれ」
「思い通りになんて、ほとんどのヤツがいかないんだよ」
「それは、そうしようと、しないからだろ」
「違うよ。そうならないって知ってるからだよ」
「なんで分かるんだよ。しようともしないうちから」
「そういうもんなんだよ」
 陽人の言葉を聞きながら、我森は死んだじいちゃんの言葉を思い出していた。何が欲しい? 何したい? そう聞いても、いつもはっきり応えない我森に、
「欲しいものや、したいことは、はっきり言わないと分からないんだぞ。
 誰も、気を遣って欲しいモノや、したいことを想像してくれやしないんだから」
 あのときのじいちゃんは、珍しく怒鳴るような口調だった。我森には、わがままを言ったり、ごねたり、物わかりの悪いことをすると、放り出されるという恐怖感があった。そうならないために、歳をとった祖父母と孫のような関係が織りなす、独特の空気を敏感に察知してきたのだ。怒鳴られた日から、少しずつ我森は変わっていった。水泳教室に行きたいと言い出したのも、その一つだった。
「そういうもんじゃ、ないだろ」
 それまでの口論の口調ではなく、我森は、少し冷めた声で陽人に言った。
「やっぱ、したくないことも、したいことも、ちゃんと言った方がいいだろ」
 陽人は、我森の表情が変わったので、上手く言い返せなかった。時々ある、この悲しそうで、重い雰囲気。〈修ちゃんには、優しくしないと駄目よ〉と、母親に言われていた陽人。詳しいことは分からないが、家庭の事情が複雑なことは陽人も知っている。だから、こういう雰囲気を出すのだということも感づいている。そんなときは、陽人は何も言えない。一方で、何も言わず、ただ黙る陽人を見て、我森もハッと我に返る。また、やってしまったと反省する。幼い時からずっと一緒なのだ。自分がついつい見せてしまう「雰囲気」を感じ取って黙る陽人。それが、申し訳なく思う我森。
「それにさぁ」
 慌てて我森は、言葉を繋いだ。
「うちのバカ担任もサイアクだよな。私も見てみた〜い、だってさ。独身で寂しいのは分かるけどさ、中学生のガキの裸で、喜んでんじゃないっつーの。なぁ?」
 我森が笑ったので、陽人も笑った。
 結局、あの年、陽人は学園祭で水着一枚にされ、身体中を真っ白に塗られた。その上に花やらリボンを好き放題に描かれ、可笑しなサングラスをかけられて、スナフキンような帽子をかぶせられた。そして、教卓の上に立たされた。上級生にも噂が広がり、教室にきた人の多くは、携帯電話のカメラで陽人を写し、それをブログにアップしている者すらいた。最悪の学園祭だったが、分からないものである。翌年、水泳部には、それまでの倍以上の新入部員が入ってきた。

 高校生になった年、陽人は、我森と別れた例の美女と付き合うことになった。陽人よりも一つ年上の美女は、高校へ進学してからも我森と付き合っていた。週三ペースでセックスをし、コンドーム代で小遣いが消えるという羨ましい悩みも聞かされていた。一歩も二歩も先を行く我森の話は、違う惑星の話のようでもあった。とにかく高校へ入るまで。陽人は、受験勉強に没頭しつつ、出来る限り我森たちの話を遠ざけていた。ようやく高校へ合格し、真新しい制服に身を包んで通い始めたある日、突然、その美女から陽人に連絡が来たのだ。会いたいという内容だった。おそらくは、我森について何かを訊ねられるか、もしくは、喧嘩の仲裁でも頼まれるのだろうと思っていた。
 陽人とその美女は、近くの公園で会い、急にキスをした。陽人にとってのファーストキス。された、という方が正確だった。そのまま、人気の無い陰で、童貞も卒業した。高校生になったら、誰かと付き合ったりするのかな、童貞も卒業したいな。そんな我森的惑星への期待を胸に抱いていた遠い未来が、とんとん拍子にあっけなく終わった。ファーストキス&初体験。「ごめんなさい」「すいません。」。急に始まり、終わった後の二人の会話は、それだけだった。
 この日の彼女の行動が、我森への当てつけであることはすぐにわかった。しかし、その美女は、陽人にとってやはり美女だったのだ。棚ぼたでも、掴んだこのチャンス。そう簡単に失う訳にはいかないと思った。高校生ともなると、陽人は、我森の影でおこぼれを頂戴する自分の生き方をしっかりと受け入れていた。そこに、自分なりの居場所も見いだしていた。太陽と月。輝く者の光を反射して、光っているように見せて生きる人生もある。陽人は、太陽の「陽」を名前に持ちながら、月のような人生を確立させていったのだった。
 一方、太陽の我森は、高校生になると、それまでに輪をかけてもてはやされるようになった。他校からも我森好きの波が押し寄せ、地元ではちょっとしたアイドルと化していた。関東地方の公立高校ネットワークで、毎年開催されるボーイズフォトコンテスト。そこに、隠し撮りされた下校時の我森の写真が投稿され、大きな噂となった。それは加工されながら広がり続け、その年のコンテストに優勝した。そうなると、本人に会ってみたいという他校生が何人もやって来て、校門の前で待っていることもしばしばだった。
そんな状況を自慢するでもなく、斜に構えて遠ざけるでもなく、事実は事実として淡々と受け入れる我森のスタンス。陽人は、嫌いではなかった。我森に対して、妬みとか僻みという感覚が、麻痺していたのだろうと思う。しかし、他の男子生徒たちはおもしろくないようだった。自然と男子の中で、我森は総スカンをくらうようになった。いつもくっついていた陽人も、同じくはじかれるようになり、我森と陽人は、男子の中で孤立していった。我森は、もちろんそんな孤立を気にする素振りはなかった。陽人は、なんとか男子の輪に入ろうと、機嫌を伺いつつ話しかけてみたが、決まって我森の悪口を聞かされた。そのジメジメとした影の僻み、あまりにも情けない愚痴の多さに、これならカラッとした我森の側に居る方がいいと思った。
 我森のくっつき虫。いつも側にいると、得することも多かった。高校一年の初めに「美女」と付き合い、三ヶ月ほどで別れた陽人は、その後も、「我森君かっこいい〜」と色めき立った女子の中から、いつも隣いる「彼」という存在で注目され、三回ほど「おこぼれ」を頂戴した。どれもそんなに長続きはしなかったが、彼女がいる、という時期が多い高校生活を送っていた。
 そんな彼女たちと、利香は、確実に違った。
 高校三年になり、大学へ進学しないと決めた我森と、とりあえず右へ倣えで受験勉強を始めた陽人は、「別々の時間」を過ごすことが多くなった。夏休み期間中だけ、隣街の予備校に通い始めた陽人は、そこで利香に出会った。出会ってすぐ、恋をした。今までとは全く違う次元で、好きだと感じた。予備校の教室、斜め前に座る利香の背中。そこから漂う雰囲気で、一目惚れした陽人。何とか話がしたい。チャンスをうかがいながら、四度目の講義で、利香が陽人の隣に座った。ドキドキする陽人は、ギャグを交えながら英語の構文を教える講師の話などまったく頭に入らず、例えば、シャーペンの芯がなくなったら、すぐに差しだそう。消しゴムがこちらに転がってきたら、なんて言いながら渡そうか。色々悶々と考えているうちに、講義が終わった。陽人は、その日もふてくされてテキストを鞄にしまい、また明日か、と思いながら立ち上がると、利香の方から声をかけてきた。
「この後って、まだ講義とってますか?」
 一瞬、自分に話しかけられたとは思わず、危うくシカトをしてしまいそうになった。陽人は、慌てて「いや、これで終わりです」と応えた。
「よかったぁ」と言って笑った利香の顔も、たぁ、と少し伸ばした声も、とても好きだった。
「俺も、よかったです。次の講義なんて、とってなくて」
 陽人が応えると、利香は、ますます可愛い顔でにっこり笑った。
 それから二人で「ブルックリン」に行って、アイスコーヒーを飲んだ。
「クリームとか、乗ったやつじゃなくていいの?」
 陽人の質問の仕方が可笑しかったのか
「今日は、クリームとか乗ってないのに、しようと思って」
 と、利香が応えた。
「いつもはクリームとか、乗ったやつを頼むんでしょ?」
「いつもは、あんまりこういう所、こないから」
「そうなの! 御免、じゃ、店かえる?」
「いいよ。別に。いつもとは、ちょっと違う感じがいいから」
「そう?」
「うん」
「じゃ、いつもは、どういうところに行ってるの?」
「ミスドとか、サブウェイかな」
「へぇ〜。俺、どっちも行ったことないな」
「うそ。ほんとに? ドーナツとか超おいしいのに。じゃ、今度はミスドにする?」
「そうだね」
 今度。また今度もあるのかと、陽人は嬉しくなった。それから、予備校の帰りには、利香とドーナツを食べた。夏休みが終わっても、メールで励まし合ったり、頻繁過ぎるほど、陽人は利香に会いに行った。
 大学に何とか合格した陽人と、短大に進んだ利香。お互いが学生時代だった時期は、あっという間に過ぎた。あれほど好きだった気持ちにも、慣れが出来て、新入生の一年間は、お互いの学校のイベントや飲み会でそれぞれ忙しく過ごした。二年目になると、利香はもう就職活動を始めた。陽人は、あいかわらずだらだらと過ごし、傍から大人になっていく利香を眺めていた。当時、二人の会話はほとんどがLINEになっていた。たまに会っていても、目の前の相手よりも、他の誰かとLINEで繋がるような関係。彼氏、彼女という存在が、居るというより「有る」というのに近かった。
 利香は、就職を決め、職場に通いやすいよう杉並区にマンションを借りた。そこに、陽人が入り浸るようになってから、お互いが居る存在として、付き合い始めたのかも知れない。陽人は、この頃から本当の意味で利香を離したくないと思うようになった。良い意味でも悪い意味でも、社会人を経験して帰ってくる利香の言葉は、いつも刺激的だった。利香にとっても、社会人としての不安を陽人に頼り、陽人の頼りなさから社会人としての自覚を再認識する日々だった。社会人と大学生。その間にある時間感覚や金銭感覚で、多少の摩擦や不一致は生じるものの、二人は、順調に交際を続けていた。一緒に重ねた時間に比例して、居なくなったことを考えると、喪失感の方が勝っていく。どんなに喧嘩をしても、別れることはなかった。

 陽人が大学四年生になった今年は、就職難だった。
 不景気、不景気という触れ込みが、ただの流行語ではないかと思うほど、社会に無頓着な大学生から、一気にその言葉の厳しさを突きつけられる就活生へ変わる。この変化に、陽人はなかなか順応できなかった。面接に行けば行くほど、自信をなくしていく。周りの同年代の就活生が、みんな自分より遙かに良く見える。欲も見える。好くうつるのは、きっと欲も大事なのだと痛感した。陽人は、何社も受けて、何社も落ちた。まず、資料すら請求できない大不景気の中、採用を予定する企業から、自分の行きたいところを見つけるしかなかった。その逆は難しい。つまり、自分の行きたい企業を探し、そこを目指すというのは、採用がこれだけないと遠回りになる。時給とシフトと立地とネーミング。それを考慮して妥協点を見いだし、応募したアルバイトの延長に、就職があるようにすら思えた。
 ずっと働けるわけではない。働けるうちはしがみつくが、それが定年まで続くとは、陽人も、陽人の周りの学生も考えていなかった。それを不安定と恐れる者は、こぞって公務員を目指した。年功序列の終身雇用。そんなエスカレーター式序列の中で、ゆったりと生涯を終えたい。サプライズ的な大儲けより、そこにあるリスクを恐れる。そうやって先を選んでいる者も、上手くいかない日が続くと、とにかく何処でも良いから内定という形が欲しくなるのだった。
 就職活動中、陽人の精神は、とても不安定だった。打っても打っても跳ね返され、おまえは駄目だと「×」を付けられる日々。周りはどんどん内定をとり、焦りばかりが先行する胸の内を利香にすら話せなかった。二年前、利香も同じ事をしていたはずなのに、こんなに苦労はしていなかったように思う。大人のメイクをして、スーツ姿で面接に行ったのも、二度か三度だったはずだ。二年前と今と、就活の厳しさはそんなに変わってないと聞く。それなのに、利香はしっかりした会社に就職した。陽人が話せないのは、そんな利香と自分との違いに対する情けなさと、やはりプライド。いや意地と言ってもよかった。彼はただ、「決まった」という報告だけがしたかった。
 利香と暮らす中で、陽人はいつしか、自分が駄目であることを簡単に認められない男になっていた。これまで、側にあった太陽と比較して、いつも駄目であることを前提にしていたが、その存在がなくなると、一人でしっかりしなくてはいけなくなる。就活なんて意外と簡単だったよ、と言い、さすがね、と言われたかった。いや、そう言われないと、いけないと思い込んでいた。陽人と利香は、この二年で、そういう立ち位置になっていたのだ。
 就活が始まる頃から、陽人は実家に戻り、利香と会わない日が続いていた。利香からの励ましのメールにも上手く応えられず、自然と連絡を絶つようにもなった。結局、陽人の内定が決まったのは、九月も終わりになってからだった。汗だくでスーツを着て、それでもぜんぜん駄目で、会社の名前なんてもはやどうでもよくて、とにかく、どこでもいいから働きたいとすら思うようになっていた。そんなつもりで受けた会社にすら、信じられないほど応募があり、倍率は高かった。陽人は、ほとほと疲れ切っていた。そんなある日、あるスポーツ用品メーカーの求人を見つけた。陽人が就職用ウェブサイトを見ていると、懐かしい名前があった。大学に入ってからは全くといっていいほど泳がなくなったが、高校まで十年以上続けていた水泳。その水着メーカーのロゴを見ていると、まるで「こちらへ」と示す矢印のように思えた。クリックすると、まだエントリーシートを受け付けていた。多くの企業が新規申し込みを終了している中で、陽人にとってはラストチャンスと言ってもよっかった。募集の条件はただ一つ〈やる気があって、当社に見合う人〉、それだけだった。学歴、性別、経験など一切不問。年齢も不問で、新卒者に絞った募集でもなかった。新卒という縛りの中でも落ち続けた陽人には、なんだか不安にさせる条件だったが、とにかくクリックしてエントリーした。履歴書を持って、指定された日に面接に来てください。その頃には、空で書けるようになっていた「志望動機」も「自己PR」も書くことなく、連絡先を書いた履歴書だけを持って会いに来てくださいという。陽人は、自信が持てなかった。ただ会っただけで選ばれる要素など、一つも持ち合わせてない。就活が上手くいかないうちに、嫌と言うほど、自分が輝けた「太陽」の存在を思い出してしまう。それを考える自分が、腹立たしくなった。
 面接当日。十人が一つの部屋に集められ、面接官は二人だった。自己紹介をしてください。最近、最も充実したご自身の経験を話してください。この会社に入って一番やりたいことを教えてください。質問はこの三つだった。そつなく応える者の中には、三十歳を過ぎたような人もおり、○○へアプローチをかけると面白いと思います、といった具体的なことを述べる中、陽人は、まったくもってうまく応えられなかった。六歳から十二年間水泳を続けていたこと。このメーカーの水着を初めて履かせてもらったのは小学生の高学年で、そのときめちゃくちゃ嬉しかったこと。今回、募集を見たとき、とても懐かしく思ったのと同時に、最近、何かを本気ですることがなくなったと思ったこと。そして、最後に「久しぶりに、泳いでみたいです」と言った。「とにかく、何事においても一生懸命やります」いう決まり文句すら、言うのを忘れてしまった。二次面接、三次面接と日時が教えられ、合格者には、三日以内に連絡をすると言われ面接は終了した。
 全く自信はなかった。その面接の帰り道、本当に泳いでみようと思った。面接から帰宅して、近所の市民プールに行った。水の中の音が、心底懐かしかった。水中で進む自分の身体が、なんだか不思議だった。泳ぎ終わった後の疲れる感じも久しぶりだった。その晩は、ぐっすりと眠った。その翌日、不思議なことに二次面接に呼ばれた。そして、二次面接のその場で、早々と内定をもらった。きょとんとする陽人に、面接官の一人が「一緒にがんばろうな」と言った。「はい」と、反射的に大声で応えた陽人を見て、面接官は笑った。「そうそう、そういうとこだよ」と言った。陽人は、何かの冗談だとも思った。もしかすると、詐欺かもしれない。しかし、内定しました、というだけで、何一つ騙し取られたわけではない。聞くところによると、そのメーカーは、今年十五名しか内定を出していないのだという。その中に自分が選ばれた理由が、未だに分からない。だけど、とにかくホッとした。あんなに欲しがって、内定が取れればしたいことが山ほどあったのに、いざ内定をもらうと、こんなもんかとあっさりした気分だった。
 陽人は、利香に連絡をして、久しぶりに会った。利香は、また大人になっていた。アパレル系メーカーの広報として働く利香は、スポーツ用品メーカーに内定した陽人に近いものを感じていた。歳は同じだが、社会人経験は二年先輩だ。働くと言うことは云々、先輩風をふかした物言いが、陽人を少し苛つかせたが、とにかく内定が決まった安堵から素直に聞いている振りはできた。四月の入社まで、最後の大学生活を謳歌しよう。働き始めると、なかなか休みが取れない。今は金がないが、働き出すと時間が無くなる。であれば、余るほどある時間を今のうちに贅沢に使った方がいい。そんなことを言われても、いざその立場に立つと、時間なんてどうやって有効に使えばいいか分からなかった。時間がなくなった利香だから、初めて分かるもんじゃないかとも思った。
 十一月に入っても、陽人は、週末は利香と会い、平日はバイトに行くか、家でゴロゴロするという毎日を続けていた。冬になって、年が明けて、春休みが始まった。後期試験を終えると、卒業論文もない陽人は、卒業を待つのみだった。大学の友達とソウルへ二泊三日の卒業旅行に行くこと以外、これといって予定もなかった。利香と、実家と、ベッドと、母親の小言。そんな毎日をダラダラ消費していた。
変化に気づき始めたのは、一月の終わり頃だった。
利香が、突然
「陽人ってさ、我森君って知ってるでしょ?」
と、聞いてきたのだ。
「知ってるけど、なんで?」
「会社の先輩が、その我森君って人に、遊ばれて、捨てられたのよ」
「へぇ〜、そうなんだ」
 じゃがポックルをつまみながら、陽人が間延びした声で応える。
「最低ね、その我森ってヤツ」
「なんで?」
「だってさぁ、その先輩、中崎さんっていうんだけど、婚約者もいたのに、それも駄目になっちゃったんだよ」
「へぇ〜」
「へぇ〜ってね。話、聞いてる?」
「聞いてるよ。だけどちょっと待ってよ。これ、井伊直弼だよ。ぜったいCだって」
 テレビのクイズ番組で、回答者のお笑いタレントが、Bを選んでいる。
「ほら〜、な? Cだろ」
「はいはい、陽人は日本史が得意です。わかりました。だから、聞いて、その中崎さんがね」
「誰? それ?」
「だから、婚約者と別れて、その我森ってヤツに、いっちゃった先輩よ」
「あ〜」
「結婚しよう、みたいなことも言ってたらしいのよ、我森ってヤツ。だからすっかりその気になってたのに、いざ両親に会わせるって段階になって、急に態度を変えたんだって」
「まぁ、修ちゃんなら、なくはない話だな」
「修ちゃんだか、しょうちゃんだか、知らないけど、ガモリよ、ガモリ。最低よね。びびってるだけじゃない。遊ぶだけ遊んで。中崎さん、キレイだもん。もう、なんかそういう話聞くと、ほんとむかつくのよね」
「っていうかさ、その中崎さんって人、浮気してたんでしょ?」
「そりゃ、まぁ、そうだけど」
「俺は、婚約までして、他の男にいっちゃう女の方が、どうかと思うけどな。俺、浮気は絶対駄目だから」
「分かってるわよ。私は浮気なんてしないし、そんな軽い女じゃないけど。だけど、そこまでして選んだ男に、裏切られる女の気持ちも考えてみてよ」
「じゃ、その中崎さんの婚約者って人の気持ちはどうなるんだよ」
「そうだけど、そういうことじゃなくて」
「だいたいさ、なんで修ちゃんと、俺が知り合いだって分かったんだよ?」
「なんか、言ってたらしいわよ、そのガモリが」
「なんて?」
「私の彼氏と、自分は親友だって」
「は? なんで?」
「知らないわよ。陽人がガモリに何か話したんじゃないの?」
「言ってないよ。修ちゃんとは高校を卒業してからほとんど話してないし、利香のことも話してない」
「じゃ、なんでだろう?」
「さぁ〜、なんでだろうな。まぁ、そんなことより、じゃがポックル、全部食っちゃっていい?」
「ダメよ〜」
 そんな会話をしてから二週間後。バレンタインデーが済んですぐの土曜日に、利香は、我森と会っていた。
 陽人の母親が、八王子の駅前で我森と利香が一緒に歩いているのを見たらしいのだ。利香が、そんな所にいるはずはない。見間違えたのだろうと、初めのうちはあまり気にしなかったが、母親からその話を聞いた後、次に利香に会ったとき、彼女は八王子で見つけた美味しいカフェの話などを嬉しそうに話したのだ。八王子なんて行くんだ、と陽人はそれとなく訊ね、会社の同僚が住んでるから、と利香が応えた。それは、いつになく自然で、とてもスムーズで、つまり嘘で、
「もしかして、修ちゃんと一緒だった?」
 陽人が尋ねると、利香は逆上したように怒って、
「なんで、私がガモリと一緒にいなきゃなんないのよ」と言い返してきた。陽人は、不安になって
「もう一回言っておくけど、俺、ほんと、浮気とか駄目だから。浮気することもないし、されることも、絶対に許さないから」と、念を押した。
 しかし、利香と我森は、陽人が想像するよりも早く、そして濃密に近づいていた。利香と二人で会っていても、我森の話題がそれとなく増えた。昔はどんな人だったのか。今は何をしているのか。好きな色は何か、どんな彼女とこれまで付き合ってきたのか。中崎という先輩の話にかこつけて、利香は我森の情報を欲しがった。我森と利香は、本当に八王子で会っているのか? 利香が唐突に言い出したフォーピーエムというカフェだろうか。陽人の家から八王子までは、一時間以上かかるが、行けない距離ではない。
時間だけは豊富にある陽人にとって、それが有効な使い方かどうかは分からないが、利香の会社が終わって、八王子にたどり着けるだろう時間帯。夜の七時から八時の間を狙って、何度かそのカフェへ足を運んだ。しかし、一度も利香にも、我森にも会わなかった。利香が、まさか、そんなことは絶対ない。絶対ないと思えば思うほど、絶対とは言い切れなくなり、気付けば、また八王子に向かってしまう陽人。
 二月の終わり。ここ最近、立て続けに都内でも積雪があった。陽人は、いつものように、気付けば中央線に乗っていた。八王子の駅前から、ちょっと歩けば細い路地裏がある。そこに小さな居酒屋が二軒ほど並んだその奥に、フォーピーエムというカフェはある。いつものように店に入って、ブレンドコーヒーを注文し、今日もいなかったな、と安心して店を出た。駅までの道は、雪がシャバシャバと音を立てた。陽人の履いていたスニーカーが濡れる。マンホールの上は、ツルツルしていた。早く帰らないと、電車が止まるかも知れない。雪は、まだ降っていた。
 陽人が、駅へ向かって急いで歩き出したとき、小さな居酒屋の扉が開き、我森が出てきた。陽人は一瞬、それが我森だとは気付かなかった。真っ赤な顔をして、足下がふらついている我森。かなり酔っぱらっていた。思わず立ち止まった陽人に気付いた我森が、「お〜」と言いながら、ふらふら右手を大きく挙げた。ふらふらで真っ赤で、ぐでぐででも、我森はどこかスマートだった。陽人の目から見ても、悔しいがそう思う。
「修ちゃん、こんなとこで何してんの?」
「ん? いや、トイレをさ、トイレを探してんだけど、どこだっけかな」
 陽人が近づこうとしたとき、店の中から、利香が出てきた。
「ちょっと〜、違う、違う、外じゃない。トイレはこっち」
 後ろから、我森の腰を支えるように抱きつく利香。
「あ、バカ、おまえ、何で出てくんだよ」
 我森が少し慌てて利香に言う。それを聞いた利香と、陽人は目があった。陽人は何も言えなかった。何日も電車に乗って、一時間以上かけて八王子まで来て、だけど、実際に二人が一緒の現場を見ると、陽人の身体は、うまく動かなかった。
「違うの。陽人、これは、ほんと違うの。私ね、ほら、中崎さんが、どうしてもかわいそうで、この人に、一言文句言ってやろうと思って、それでね、それで中崎さんから連絡先聞いて、この人に会って」
「いいよ、別に。言い訳なんて、聞きたくないから」
 陽人は、駅とは反対の、より暗いほうへと振り返って歩き出した。
「ちょっと、待ってよ」
 利香が叫んでいる。その声が、何だか無性に腹立たしかった。
 陽人は振り返り、
「もう、終わりだよ。言っただろ、俺、駄目だから。もうこれは結果として、決まったことだから。無理だよ」
 陽人の言葉を聞いて、利香はしゃがみ込んだ。しゃがみ込んだ利香を我森が抱え上げようとすると、利香はその腕を振り払って駅の方へ走っていった。人は通っていない。店の中から奇声に似た笑い声が聞こえるが、それもとても小さなものだった。
陽人は、そのまま、駅とは反対方向に歩いた。何分か分からない。住宅街も終わり、空き地のような所まで来た。雪は、みぞれになっていた。後ろから、誰かがついてきていることは分かっていたし、それが我森であることも知っていた。しかし、陽人は振り返らなかった。
「なぁ」
 夜の静けさの中で、我森の声は響いた。
「なぁ、陽人。ほんとにいいのか。おまえと利香ちゃん、終わっちゃうぞ」
 陽人は無視した。小走りで陽人に追いついた我森が、前に回り込んだ。
「おまえが思ってるようなこと、俺、ぜんぜんしてないから。まだ大丈夫だよ」
「大丈夫って何がだよ」
「だから、その、俺は、陽人の彼女だっていうから、そのちょっと、どんな娘かな? と思っただけでさ」
「もう、いいんだよ。別に、おまえと利香がどうなろうと、俺には関係ないから」
「冷たいねぇ〜」
「おまえさ、どっか行ってくんないかな」
 黙った陽人の横で、我森も黙った。みぞれになった雪が、まだ降っていた。

「俺さ〜」
 すっかり酔いの覚めた我森が、夜空を見上げながら言う。
「陽人のこと、昔っから、大嫌いだったんだよな」
 陽人はもう、何も応える気になれなかった。
「俺の持ってないもん、はじめっから持っててさぁ、それが当たり前みたいな顔で、のほほ〜んと生きててさ。俺、そういうヤツ、ほんとにムカつくんだよな」
「もう、おまえとは友達でもなんでもないさ。別に嫌いになってくれてもいいよ」
「だから、昔から嫌いなんだって、おまえのこと」
 我森が顔を陽人に近づけ、「なっさけねー」と、捨て台詞まで吐いた。
「言ってたよ、利香ちゃん。陽人は、つまんないんだってさ。ノーマルすぎて、魅力薄なんだと。残念だったな。俺の方が、いいみたいだぜ」
 不採用の続いた就職活動の、真夏で汗だくだったスーツのパンツが太ももにへばりついて、必死で走り回って、それでも不採用で。高校のとき、一人で廊下を歩いてると、決まって我森君は? と聞かれたときのむなしさや、ボディペインティングされて突っ立っては知らない女子に写メで撮られたことが、走馬燈のように陽人の頭を駆けめぐり、
 気付けば、我森を殴っていた。
何度も殴っていた。身長は我森の方が陽人よりも高い。しかし、線の細い我森よりも、がたいのいい陽人の方が力は強い。投げ飛ばし、倒れ込んだ我森にまた殴りかかった。我森が憎かった。利香が腹立たしかった。そして、誰よりも何よりも、陽人は、自分自身が空しかった。我森が動かなくなり、動かなくなった我森をぼんやりと眺めた。次の瞬間、陽人は、反射的に走り出していた。夜はとても暗かった。陽人の目には涙が溢れた。これからの、残された自分の人生に対する、喪失感のような涙だった。

 また、我森の画像が転送されてきた。
今度は、顔だけをアップにトリミングして、解像度を上げた写真だった。何枚も、こうして加工されて日本中にばらまかれている。逮捕された我森、人を殺した我森。陽人は、何度考えても、殺人という選択肢を選ぶ事に違和感があった。あの雪の夜、殴られる修ちゃんは、抵抗しなかった。殴られるまま、殴られていた。最後は、呼吸もしてないんじゃないかと思うほど、ぴくりとも動かなかった。修ちゃんの取るだろう選択肢はおそらく、相手が一番して欲しいことだ。あの夜、陽人が一番、聞きたくない一方で、言って欲しかったこと。それを言ったのだ。ちゃんと修ちゃんのせいにできるために。
 翌日、また刑事が陽人の所へ来た。その刑事は、どこかで見たような顔だった。一見、陽人と同じ歳か、一つか二つしか違わないような若い刑事だった。彼は一人だった。我森について、何でもかまわないから、教えて欲しいと言った。その口調、醸し出す雰囲気が、まるで陽人の大学の仲間と話しているような、そんな錯覚を起こした。見せられた手帳には、山城大介と書かれていた。「何も知りません。ただ、ぼくの知る限り、殺すことは、しないと思います」とだけ応えた。陽人が知っていることは、ほとんどない。被害者の女性が、利香の言っていた中崎という女性と、何か関係があるのかも知れない。しかし、それは想像でしかない。それでも大介の質問は続いた。小学校から高校まで、一番仲の良かった友達として、つきまとった彼の数々の噂について。陽人は、それらの質問にも、よく分からない、特に変わったことはないと応えた。

 柏木宏美(ひろみ)は、この温泉宿に来て、ようやく、こんな気持ちで食事ができるようになった。若いカップルの女の方が、ザッピングしながら、少し前から止めている画面。「すごいよね〜、いいのかな、こんなの映して」と笑いながら凝視するその画面には、素っ裸で逮捕された我森が映っている。毎朝、この食堂で食事をしていても、部屋に居ても、お風呂に浸かっていても、ふと、宏美の身体は、我森を求めて震えだしてしまう。夫と我森。捨てる方ははっきりしているのに、なかなか捨てられず、ぶらりぶらりと宙ぶらりだった。だけど、我森は逮捕された。彼は、宏美の知らない所で罪を犯していた。これでキッパリと、終わることができる。



 宏美の我森プレイ


 今は、やってくる春のことが考えられる。もうすぐ桜が咲く。夫とは、毎年四月の最初の土曜日に、必ず飛鳥山公園へ花見に出かける。それだけは、結婚してからずっと続けている。お互いの誕生日も、クリスマスも、年始の帰省も、結婚生活が長くなればなるほど、おざなりになったが、お花見だけは毎年行っている。今年も、行こう。宏美は、そう思った。今頃、夫は私の捜索願を出しているかもしれない。それとも、「温泉にでも行ってきます、すぐ戻ります」というメモを信じて、帰りを待っているのだろうか。おそらく、メモすら見ていないだろう。それでもいい、と思った。このまま、同じように春を迎えよう。
 家を空けたことは、結婚生活十一年で初めてだった。結婚生活に満足はしていなかったが、妻が無断で家を一晩空けることは、どうしても出来なかった。食卓には、いつも有機野菜を並べ、ベランダに花々の咲く季節が一年で一番楽しみだった結婚当初。宏美の思い描いた通りの幸せな毎日だった。満足のいく、専業主婦ライフを送っていた。
 周りの同僚が立て続けに結婚していった二十八歳の時。宏美も、三十(歳)までには結婚したいと思うようになっていた。しかし実際は、事務の仕事に追われ、定時を待って会社を出ると、ヨガ教室に、フラメンコ、ワインにチーズと、いくつもの習い事で宏美の「時間割」は埋まっていた。一番大事で、一番欲していた、出会いのチャンスをどんどん潰していたのだ。「習い事もいいけどさ、たまには飲み会ぐらい参加した方がいいよ」。その頃の宏美が、よく言われていたことだ。
 大学時代に付き合っていた彼氏と別れ、働き始めてからの宏美は、ずっと独りだった。自分の生活の中に、どうしても彼氏が欲しいか、別に独りで十分楽しいではないか。それを繰り返しているばかりだった。楽しいときに、楽しいままの暮らしをしていると、それが楽しくなくなったときには、手遅れになる。長い歴史の中で、人は結婚して、子供をつくってきた。そんな歴史には、それが一番いいという裏付けがあるはずで「キリンもさ、昔は首が長くなかったんだって。高い所にしか餌がなくて、それを食べられたキリンだけが生き残ったらしいの。それはね、きっと食べようとしたものだけが、生き残ったんだと思うわけ。結婚は別にしなくてもいい、っていう生き方は、それに見合うだけの何かがないと、苦しいよ。餌がないんだもん。だからさ、ヒロミも食べようとしなさいよ、結婚相手」。友人の一人が、そんなことを熱く語ったりもした。
 夫とは、そんな時期に出会った。
 宏美の会社の出入り業者だった夫は、同僚の間でも噂のイケメンだった。「どこがよ〜」と批判がましく言う女に限って、彼を頻繁に飲み会へ誘っていた。夫は、話が面白い。着ているスーツのセンスが、うちの会社の男性陣とは違ってとてもある。笑顔が爽やかな童顔。年齢は、宏美よりも三つ上だったが、決してそうは見えないルックスだった。良い評判が飛び交う中で、宏美も、ちょっと気になっていた。
 宏美が初めて参加した飲み会の帰り道。夫は、まるで高校生のようなストレートな告白をしてきた。「はい」。気付いたら、宏美も恥ずかしくなるほどの即答で、OKしていた。なぜ夫が自分を選んだのか。確かに、その日の飲み会では楽しく話した。しかし、これといって特別なことを話した訳ではない。ずっと前から気になっていたから。夫はそう言った。宏美は、その言葉に舞い上がってもいた。
 付き合い始めた二人は、休日になるとデートを重ねた。二人の時間は、楽しかった。夫は、まじめな性格だということは分かっていたが、ちょうどいい案配のいい加減さで、カチカチじゃない所もたまらなくよかった。三十一歳の男性が経験するだろうことは、一通りこなしてきた感じもした。ギャンブルはしない。女性を買う店にも行かない。スイーツやフラワーショップにも、嫌々ではなく付き添ってくれる。そういう所も、宏美は好きだった。とはいえ、何でもかんでもこちらの提案を鵜呑みにするだけではない。デートの行き先をリードしてくれるときもあった。記念日も、忘れない。
そんな夫との日々に、宏美はどっぷりとはまっていた。会社を辞めたい。春先になるといつも、宏美は愚痴った。そんな彼女の言葉をまじめに受け取った夫と、交際を始めて半年ほどで結婚した。宏美は、結婚して退職した。
 なんだか順調すぎて怖くなるぐらい幸せな五月末付けの寿退職。何もかもがうまくいき過ぎて、滑っていくような感じが不安になる夜もあった。しかし、夫は次々に「やること」をこなしていくのだ。結婚の次は、すぐに家探しを始めた。そんな夫についていくうちに、新居も意外と早く決まった。夫の勤め先からは少し遠くなるが、手頃な値段で、最高の立地という条件が勝り、二人は蒲田で暮らし始めた。もうそれは、歯が浮くような甘い言葉と、白が基調の爽やかな暮らしだった。
 夫の帰りを待って、シチューを煮込む主婦。買い出し、掃除、洗濯。疲れて帰ってくる夫の顔が、パ〜っと明るくなる夕食の時間は、宏美の中で「やった」とガッツポーズを決めたくなるような瞬間でもあった。子供は、宏美が三十になるまでにつくればいいと思っていた。だから、結婚してからも二人は、それまでと同じような休日を過ごした。結婚式を挙げていないせいか、婚姻届を出して夫婦になったという記憶はあったが、実感が乏しかった。恋人同士の続きのような日常で、ふと変わった自分の名字を口に出したり、書いたりするとき、宏美は結婚したことを思い出すのだった。二人にとっては、そんな関係が心地よかった。
 結婚して二年、宏美が三十歳になる頃、ある仕事の話が舞い込んだ。宏美と同じ大学に通っていた友人が、子供ができたのを機に会社を辞めることになったという。その後釜として、宏美に来て欲しいというものだった。英語が使えること。それが第一条件だけに、なかなか他に頼めないようだった。当時、宏美の中にも「外で働きたい」という欲求が高まっていたのは確かだ。近所の奥さん連中と外出しても、子供の話ばかりで、宏美にはついていけない。そうは言っても、ゆくゆく助かる情報になるからと、必死で興味を持って聞くのだが、それにも限界があった。夫に愚痴ると、何か習い事でもすれば? というばかりだった。働いていない自分が、暢気に習い事をするということが、宏美には後ろめたかった。自分の使うお金ぐらいは、自分で稼ぎたい。子供のいない夫婦という「家族」で、妻が夫に頼り切るのは申し訳ない。それは、宏美の中にある、意地といってもよかった。かつては自分も、新卒採用で、男性と同じだけ稼いできた宏美。そんな過去が、彼女をますます頑なにしていたのかも知れない。
 宏美が、働きたいと言ったとき、夫が反対した大きな理由は子供だった。二人は、結婚当初から、宏美の三十という年齢をひとつの区切りにしていた。最近は、お互いがなかなか口に出せなくなっていたが、子供が欲しい気持ちは変わっていなかった。子供ができれば、外に働きに出るより、家にいたほうがいい。宏美もそう思っていた。しかし、夫と宏美の間で、肉体関係は一度もないセックスレス夫婦なのだ。もっというなら、夫と出会ってから、一度もセックスをしたことがなかった。そんな夫の、子供が欲しいという気持ちに、いまいち信憑性がなかったのも事実だ。
 宏美は、自分の年齢を考え、子供を二人生むことを計算すると、夫の言うとおり、ここで働きに出るのではなく、子作りをしないと間に合わないと思った。夫も、今回のことで、何かが変わるかも知れない。真剣に、子供のことを考え始めるだろう。働きたいと言い出してから数日間、考えに考え、悩んだ挙げ句、宏美は、「やっぱり、働きに出るより、今は、赤ちゃんを産んで、しっかり育てる方がいいわよね」と告げた。
「そりゃ、そうだよ。もう二年もただ飯食わせてきたんだから、今更、何言ってんだよ」

 宏美は、何も言い返すことが出来なかった。パチンと、スイッチが入ったような気がした。翌日には、その友人に連絡を入れ、働くことを決めた。夫には、事後報告の形となった。働き始めた会社は都心にあり、夫が出勤してすぐ、宏美も家を出るという暮らしが始まった。
 働くことを決めて、それに反対を続け、それでも宏美が仕事を正式に決めてくると、夫は分かったような振りをするようになった。この時期の二人の溝は、それから何年も続く結婚生活を決定づける大きなものになった。
 一年、二年と仕事を続けるうちに、歳を重ねる宏美。仕事は順調だった。会社の仲間もいい人たちばかりだし、宏美の英語力も重宝された。上司は、「柏本さんに子供でもできて、会社を休まれると、まわらなくなるな〜」とまで言うようになっていた。「大丈夫ですよ。一年だけ産休をいただければ、戻ってきますから」と半分本気で言うこともあった。けれど、宏美はあくまでも、子供が欲しかった。そのためのタイムリミットに焦ってもいた。
 夫との間に、もっと強い結びつきを望んでいた。宏美が帰宅し、夫がそれよりも数時間遅れて帰宅する。会話は、二人で晩酌する一時間ほどで、夫はさっさと風呂に入って寝てしまう。ちょうど、夫に役職が付き、部下ができ始めると、話す口調や内容までもが、段々と世間一般になっていくような気がした。宏美はそれが嫌だったが、仕方ないとも思っていた。義理チョコでも何個かチョコをもらってくる夫。三十後半には見えないルックス。まだまだ大丈夫じゃん、と、朝出かけていく夫を見て思うこともあった。
 三十五歳。宏美は、この歳の誕生日を静かに迎えた。子供を産むことが頭から離れない宏美と、どこか、それはもう遠い過去の話という体の夫。六本木の高層階のイタリアンレストランで、夫は宏美の誕生日を祝ってくれた。夫の優しさが、どうも表面を撫でるだけのソフトタッチに思えて、それが不満ではあったが、やっぱり二人きりで外出すると楽しかった。仕事の話を続ける夫。それを聞きながら、同じようなシチュエーションで同じようにムカついたことを話す宏美。二人で「だろ?」「そうよね」と言い合いながら、ワイングラスを傾けた。「俺さ、最近、また体重が落ちてるんだよな。どっか悪いのかな?」「大丈夫じゃない。こないだの検診の結果も、問題なかったじゃない。だいたい、世間一般の三十八歳男子が、みんな太りすぎなのよ」「だよな」。ワハハと笑い会う二人に、これ以上何が必要なのだろうかと、宏美は思ったりもした。
 三十五歳を過ぎて、それからの三年間はあっという間に過ぎた。夫との間で、肉体関係は、あいかわらず一度もなかった。これは驚くべき事なんだろうが、宏美の中では、とても自然で、何の不都合もなかった。もう、子供の事には整理がついていたし、夫の性欲の発散場所として、浮気やゲイを疑ったこともあったが、動物的本能を忘れた新型人類という週刊誌の特集記事にあったそれが、どうも夫にはしっくり来ると思っていた。 
 アラフォー。今の会社に働き始めて、八年が経とうとしていた。宏美のこなす業務範囲は広く、新人教育においては一手に引き受けていた。そのためか、ここ数年の新人女子社員からは、恐れられることも多く、煙たがられる存在にもなっていた。「結婚はしてるらしいけど、子供がいない、おばさん」。それは事実そのままだったが、だから「夫へ不満がある」「行き場を失った性欲をパワハラで発散している」などと、強引なつながりで拡散していく噂。それらを耳にする度に、宏美は、何とも言いようのない疎外感を感じるのだ。自分の時代というものがあるなら、終わったなと思うのだった。夫は、四十を過ぎて、課長になった。中間管理職にありがちなサンドイッチ状態で、休日は、ほとんどが接待続き。平日の夜も、最終電車にも乗れず、ほとんどがタクシー帰りだった。
 夫のいない部屋。自分の居場所のない会社。
 宏美にとって、この頃に通っていたバーが、唯一の居場所だった。会社帰りに立ち寄れて、独りになっても寂しくない場所。そのバーのマスターは、絵に描いたような髭面の初老で、なんとも落ち着く雰囲気を醸し出していた。通ううちに、常連客の顔も何人か覚えた。その常連客の中で、ナカザキという若い女性といつも一緒に来ている青年が、宏美は少し気になっていた。
 その青年は、ちょっと前に、戦隊者のヒーロー役を演じていた若手俳優に似ている。青年は、ガモリというらしい。宏美には、特技とする癖があった。それは、周りの声を敏感に察知し、知らない間にそれを全部覚えてしまうことだ。その宏美の耳と頭が、二人の一部始終を解読し、解き明かしていった。婚約者よりも、ガモリのことが好きなナカザキは、婚約破棄を本気で考えている。どうも二人の間柄はそんなところだった。
 一体どうなってるんだ近ごろの若者は、と宏美は思った。ちょうど、宏美の元にも中途採用で入ってきた二十四歳の女子社員がいた。その顔が真っ先に浮かんだ。大学を卒業して、一年半で会社を辞めたその女子社員は、性懲りもなく「がんばります、うふ」と、可愛さばかりをアピールしてうちの会社の人事を手玉に取った。人事部に、ヒトをみる目がないことは痛いほど分かっているが、それにしても使えなかった。そんな小娘を雇うぐらいなら、自分にその娘の給料分をくれたら、二人分しっかり働くのにと、宏美は思っていた。一年半前も、その女子社員はきっと、同じようにがんばります、うふ、と言って入社したに決まっている。その結果が、がんばれなかったのだ。なのに、どうして、それを信じてしまうのだろう。まぁ、いろいろあって、社会勉強もしただろう。同じことは繰り返さないよ、という上司の言葉ほど、「甘いな」と思わせるものはなかった。
 ナカザキという女。なんとも、その駄目女子社員と重なって見える。婚約を破棄して、別の男にはしる。その行動自体に、一貫性がないではないか。出会う順番が違った。ナカザキは、本気でそんなことも言っていた。仮に順番が逆でも、ガモリという男を捨てて、違う方に「アンタ」なら走ってるよ。宏美は、そう考えながら、ま、別にいいけどという、完全他人事の人生の一部を勝手に楽しんでいた。それにしても、このガモリという男。ナカザキがトイレにいくと、速攻携帯電話を取り出して、何処かに頻繁に連絡を取っている。「こやつも相当な悪じゃの〜」と、宏美は、心の中でニタニタしてみせるのだった。
 ある日、珍しく定時で上がれた宏美は、いつものようにバーの扉を開いた。まだ時間が早かったので、ディナーメニューが表に出ていた。パスタなんかも出すんだ、と宏美は独りごちに言い、店内に入った。
 カウンターが八席と、四人用のテーブルが二つの小さな店。客は、ナカザキとガモリだけだった。宏美は、この二人の会話にも飽きてきた頃だったので、もっと違う客が来ないもんかと、肘をついて、芋焼酎をロックで飲んでいた。独りで居る時間、全てを忘れて、全然違う世界を垣間見ては楽しんでいたのに、ここ最近は、会社のことを考えてしまう。その多くは、考えたところで正解のあるものではなく、結局、仕方がないと諦めるしかない類の問題が多かった。昔なら、夫に愚痴るように相談していたかもしれないが、それもできない。三十八歳の女が、心を許して話せる仲間も、社内には、実際問題として一人もいない。これが日本の会社の現状かと、芋焼酎のお代わりを頼んだ。
 と。突然。驚くことに。ナカザキが、コップの水をガモリにぶっかけた。
 近頃では、映画でもなかなか見ないような演出だ。いや、演出じゃない。ナカザキの本気の一撃だ。グラスの水をぶっかけた後、「さいってい!」の一言を残し、ナカザキは店を出て行った。宏美は、開いた口がふさがらない状態で、ガモリを見ていた。何、何、何、何がどうなって、そういう展開になったの! 心の中で、一番おもしろいシーンを見逃してしまった後悔が埋め尽くす。聞きたい。マスターに、ねぇねぇねぇ、どうなったの、二人、と映画のあらすじを聞く感覚で尋ねてみたい。が、もちろん、そんなことができる雰囲気ではない。
 緩やかにカーブしたカウンターの両端に、我森と宏美の二人だけ。宏美から我森の顔が、ほぼ真正面に見えた。「水も滴る……」じゃない、と宏美の中で、ポッと熱いものが灯った。すいません。頭をぺこぺこ下げながら、マスターからタオルを受け取る我森。ずっと見ている宏美には、気付いていないようだった。宏美も、なんだか見てはいけないと思いつつも、「ガン見」癖が出たようで、ぼんやり凝視してしまった。
「あ、おかわり、いただけますか」
我森が、マスターに空いたグラスを渡そうとしたのと同時に、
「あの」と、宏美が、声をかけた。
「飲み直しませんか? 別のところで」と、我森を誘った。
マスターの方が驚いた顔で、宏美の方を振り返った。
「すいません、マスター。ちょっとお店変えますね」と言うと、我森の方へ近づき、彼の腕をとった。為されるままに立ち上がった我森。意外と背が高いな、と宏美は思った。いつも、座っている我森しか印象にない。座っていると、顔も小さいので、こんなに身長があるとは思わなかった。
 店を出て、二人は宛もなく路地を歩き、そのまま突き当たりにきて、宏美は、ジャンプするようにして我森に抱きついた。彼は、しっかりと彼女を受け止めた。宏美の中で沸騰する何かが、我森の肉体をむさぼった。ブロック壁を背にして、我森は激しい宏美の全てを受け入れた。そのまま、彼らは路上で肉体関係をもった。映画のような現実の続きを二人は、最後まで演じきった。

 その日を境に、宏美の中に大きな変化が芽生えた。それは、これまでの人生についての、整理整頓されすぎた、薄っぺらさへの後悔の念とでもいうべきものだった。毎日には、多少のいざこざもあったし、泣いたことも、笑ったこともあった。雨の日もあり、晴れの日もあり、だけど、一年は驚くほどに速く、あっという間に今の歳になった。決まって春夏秋冬のリズムが繰り返された。そこに生じる、絶望的なつまらなさ。善と悪の単調さ。宏美は思うのだ。自分の人生は、正解ばかりを選んでほぼ真っ直ぐ来た。それが、とても誇らしい反面、だから、絶望的につまらなかったのだ。
 初めて会話をした男と、屋外でセックスをする。やっちゃいけないことは、やっちゃいけない。宏美は、小さい頃からそれを遵守してきた。駄目だと言われることをわざわざするのは、無駄に思えた。しかし、我森の肉体が、忘れられない。あの夜は、夢中だった。本能のままに、はみ出した。駄目なことを実際にやってみた。これまでは誰かがはみ出すのを見て、そこに自分を投影しているだけだったのに。完全に勢いだった。考えてはいなかった。だけど、その「踏み出した一歩」が、これほどまでにスリリングで、これほどまでに興奮するとは思ってもいなかった。宏美は、我森の全部に触れたかった。全てを舐め回したかった。もっと、もっと、もっと、我森を欲していた。
 それからも、宏美はバーに通い続けた。我森とは、その度にプレイした。ナカザキという女は、あの日以来、一度も見ていない。あり得ないような状況で、あり得ないような現実を共有した者同士の続きは、想像していたよりも楽しかった。
 連絡先の交換はしないこと。お互い、完全に「遊び」の関係を全うすること。宏美が出したこの条件に、我森は忠実だった。とても危険な香りのする関係。どこの誰かもはっきり分からない、完全に遊び人の、若いイケメン。それを知りながら、こちらも割り切って遊んでみせる大人の女性。宏美は、夫との間で欠如していた「もの」だけを我森との間で埋めようとした。それ以外、宏美には何の不満もないのだ。自分には、家庭がある。子供はいないが、夫がいて、マンションがあって、仕事がある。我森は、それらの盤石なベースの上にあるのだ。それでよかった。四十歳を目前にして、宏美の中には、信じられない性欲が涌いた。この十数年、満たされることのなかったものが、我森の肉体を借りて満たされていく。それは、宏美が思っていたよりも、はるかに重要なものであったし、なくてはならないものだった。それを無しに、彼女はこれまでを生きてきたのだ。
 そんな関係も三ヶ月が過ぎたある日、宏美は、初めて我森にお金を渡した。
 ちょうど、宏美の仕事が繁忙期に入り、いつものバーにも、なかなか顔が出せなくなった時期だった。二人は、お互いに連絡を取り合うことが出来ない。会うのは、会いたくなった方がバーへ行き、お互いに顔を合わせたときだけ。五日ぶりにバーに向かった宏美が扉を開けると、我森がすがるような眼差しで見てきた。
「俺、ずっと会いたくて、毎日来てたんっすよ。ひどいじゃないですか」
「ごめん、ごめん。こっちは、ちゃんと仕事してる大人なの。あんたみたいに、フラフラ時間をもてあましてる訳じゃないんだから」
「ひどい言い方だなぁ。ま、いいや。ね、早くいきましょ?」
 我森に腕を引かれてバーを出るときから、宏美の身体の中は、熱いもので満たされていた。我森は傍目から見ると、影のあるいい男だ。年齢以上に大人びている。なのに、こうやって話し始めると、可哀想なペットに似て、とても可愛いのだ。宏美は、このかわいさに、いつも自分を見失いそうになる。安いラブホテルは嫌。それが、宏美が最近付け加えたもう一つの条件だった。さらに言うと、いつも割り勘だった。お金で繋がる関係は、宏美にとって生理的に嫌なのだ。「金がないから、今日ぐらいここでいいでしょ」という我森に、「じゃ、私が出すから」という事はたまにあったが、それは特別だ。大体、ちゃんとしたホテルの部屋をとって、二人でプレイをして、先に部屋を出るとき、宏美が我森に自分の分を渡す。そういう不倫関係を続けていた。
 それが、この日は違った。うまく言えないが、宏美の方に隙があった。ちょうどその日、会社で上司に言われた一言が引き金だった。「柏本くんさ、それじゃ下がついてこないよ。ルールは大事だけど、柔軟さも必要だよ。ルールだけじゃ、いざと言うときに、力にもなってくれないからね」。つまりは、何なんだ、と首を傾げる宏美にも、多少、思い当たる節はあった。自分だけに特別な対応をしてくれた上司。部下にとっては、いざというとき、その上司のためならと力になってくれることもあるだろう。確かに、宏美のチームは、団結力の欠如した、なんともちぐはぐな形でしか仕事に取り組めなかった。ドライな関係を築きすぎたのかも知れない。宏美は柄にもなく、自分のやり方に疑問を抱き始めてもいた。事務職だけをこなしていた時期はとっくに過ぎ、宏美は、一つのチームを任されるマネージャーになっていた。そんな自分が、まとめることのできないバラバラのチーム。
「分かってるんだけど。こんなこと、ぜったいにしちゃ駄目だって、分かってるんだけどお願い、すぐ返すからさ、三万円、貸してください」
 お互い裸のままベッドに座り、急に正座になった我森が、右手を突き出して深々と頭を下げた。その様子を見て、宏美は可笑しくなった。
「何に使うの」
 自分が母親にでもなったかのようで、嫌だった。だけど、ちょっとだけ嬉しい気持ちもあった。
「だから、さっきから言ってんじゃん。うち、じいちゃんもばあちゃんも死んで、高校の時からずっとよくしてもらってる大家さんに、格安で家を貸してもらってんの。確かに安いけどさ、家賃がちょっとね。今月ピンチで」
「三万円もないの? 一応、働いてるんでしょう?」
「それはそうだけど。こんなこと言ってもしょうがないし、言いたくもないけど、どっかいっちゃったうちの両親が、借金つくってて、それ返すので、いっぱいなんだよね」
 我森の家庭が複雑なことは、これまでにも聞いていた。若いのに、色々苦労が絶えないなと同情もしていた。それが仮に、全部作り話だとしても、宏美には何の害もない。元々、そうやってリスクのある関係を始めたのだ。しかし、実際に金銭の貸し借りを始めてしまうと、ゆくゆく面倒なことになるだろう。
 我森はいい男だ。しかし、宏美にとっては、それだけだ。彼とこの先、将来をどうこうしようという対象ではない。だけれども仮に、だ。我森のいう話が本当だとしたら、ここで自分が払う三万円が、彼にとっては、とても重要になる。この先、いつまで続くか分からないこの関係を優位に保てるのではないか。「いざというときに力になってくれる」「ルールを越えた柔軟性」。宏美の中を巡る言葉。自分が優位に進めていく我森との関係。彼女は、頭の中で計算する。夫には、手取り二十五万円の給料だと伝えているが、実際は三十五万円。残った十万円も、積もり積もって、今では結構な額になっている。我森との関係で満たされているものを考えると、習い事で払う月謝よりも有意義かもしれない。
「三万円でいいの?」
「え?」
「だから。お金。必要なでしょ、その家賃分が」
「ほんとに! 助かります!」
 にっこり笑った我森を、宏美はぎゅっと抱きしめた。
 
 それからの二人の関係は、宏美が頭の中で思い描いていた方向とは真逆に進んでいった。我森の要求する金額が、徐々に増していったのだ。急激な増え方ではなかったが、気付けば、一回に十万円を渡すまでになっていた。宏美は、何度か拒んだことがある。拒んだ後は、拗ねたように我森は冷たくなり、それでも彼の身体を欲してしまう宏美は、またバーへ行き、我森を待つようになってしまう。我森も、プイッとふてくされてホテルの部屋を出たことなど、まるでなかったかのようにくっついてきて、二人でプレイする。
 完全なる、アディクションだった。足りないものを補うだけだった我森との関係が、完全になくてはならないものとなり、宏美の身体はもう、我森なしではどうしようもなくなっていた。積み上げてきた八年に及ぶ貯金は、驚くほど早く崩壊した。たったの数ヶ月で百万を越える金額を我森に渡したことになる。振り返って冷静に考えると、怒りで煮えくりかえるが、我森を前にすると、特に使う宛てもないからいいか、と宏美は思ってしまうのだ。貯金が底をつき、家計の中からお金を持ち出すことが増え、それも限界で、ついに、宏美は、夫に内緒で夫婦の貯金にまで手を付け始めた。もう駄目、終わりにしないと、全部を失ってしまう。
今年に入って、我森の要求する額は一回につき数十万円にまで跳ね上がった。
 お金が必要な我森の理由は色々あった。宏美も頭のどこかでは、嘘の作り話だと思っていた。思ってはいたが、お互いが裸になって貪り合い、しばらくして部屋の電気を付けると、我森の身体には無数の傷があるのだ。縄のようなもので縛られた跡、そして鞭で叩かれたような跡。初めは、宏美も「そういう趣味なの?」と笑い話にしていたが、SMなんてレベルを超えて、このままでは殺されてしまうのではないかというレベルにまで傷跡は深くなっていた。金を持って行かないと、本当に殺される、と我森は言う。その表情と、実際に彼の身体に残る傷跡。警察に行った方がいいという宏美の提案も、警察じゃかなわない組織だという莫大な暗黒のイメージが勝り、宏美は、ただただお金を渡すしか出来なかった。
 頭の中で割り切って始めた「危険な関係」から、もはや引くに引けなくなった宏美。我森を助けたい。頭の中枢神経が送りだす命令は、それしかなかった。ついに、夫が勘ぐり始めたとき、宏美にも、一体いくら我森に渡したのか、分からなくなっていた。大切なのは、夫との生活。その安定の上に立って、初めて我森がある。そんな当たり前のことを何度も何度も考えながら、それでも、またバーに行ってしまう。

「本当に、もう無理なの」と、宏美が泣いて言った夜、
「……そうだよね。ごめん。無理させて。
俺なんかに、出会わなかったらよかったのにね」
「そんなことないよ。私、すごく貴重な時間だったし、これからも、ね、私、出来る限りのことはするから。春から、ちょっとだけど、給料も上がるの。だから、だから、
もうちょっと待って」
「もう。駄目だよ。これ以上、宏美さんに迷惑かけられない。終わりにしよう」
「いやよ。待ってよ、ねぇ、待って」
 我森は、ホテルの部屋から出ようとした。こうやって、彼が部屋を出て行くことは何度かあった。だけど、今回は違った。これまでのように、拗ねて出て行くのではない。完全な形で別れを告げて、出て行くのだ。宏美にはそう感じた。それが、彼女を絶望的な気分にさせた。
「待ってよ」
宏美は、大声を出した。我森は立ち止まり、振り返った。
「もう、終わりだよ。言ったでしょ、俺、まじでやばいんだって。これ以上、俺なんかと関わらないほうがいいよ。今までありがとう。金も、ちゃんと返すから。いつになるか分かんないけど、俺、両親の借金返したら、ちゃんと働いて、絶対、宏美さんから借りた金、返すから。ありがとう」
「いやあああ」
 大声で叫んだ宏美は、気付くと、ベッドサイドに置いてあった花瓶で、我森の頭を殴っていた。
 倒れている我森を見て、宏美は震えが止まらなくなった。震えた声で、貸したんじゃない、あげたのよ、返さなくてもいいから、このまま、今まで通り、お願い……どこにも行かないで。宏美は、呟くように言って、泣いた。我森は動かなかった。宏美は泣いた。泣いて、叫んで、だけど、そうするのと同時に、服を着て、バッグを持って、宏美はそのまま、部屋を出た。
 我森という中毒から抜け出せない自分に、時々、いっそのこと、手の届かないところへ行くか、消えて無くなってしまえば良いのにと思うこともあった。だけど無理、いくら遠くへ行っても、探し出して、見つけ出して、また繰り返すだろうことも分かっていた。そうであるなら、このまま、ちょっと「本数」を減らす感覚で、宏美に扱える程度のプレイで済ませておけばいい。完璧に無くなるというのは、考えただけで耐えられない。
 ホテルから電車に乗って、家へ帰る途中。我森の残像が宏美の頭の中を締めつけた。あの時、自分はいったいどうしてしまったんだろう。あそこに花瓶がなければ、たぶん、我森に抱きついていたんだと思う。倒れた我森が、暗黒の組織に殺される像と重なって見えた。これまで宏美は、我森との関係を続けながらも、最終電車には間に合うようにして、必ず帰宅していた。自分の家庭。そこに夫がいなくても、家を空けることは絶対にしなかった。我森を置いて出た部屋。最終電車に乗り遅れないように駅まで走る自分。どうしよう。このまま夫と顔を合わせて、普段通りにできるだろうか。宏美の心に、会社のオフィスが浮かび、そこで響くキーボードと電話の音、うすら笑顔で笑う後輩達の顔、口では上手いこと言うが、陰ではボロカスに言っているだろう上司達の顔……。夫の、最近かけ始めたメガネの奥の、笑っていないのっぺりとした、爽やかな表情。宏美は、我森のいない日常を思った。 
 夫はその日も家に戻らなかった。最近では珍しいことではない。会社には仮眠室があり、そこに泊まっていると言っていた。朝一番の会議のために、準備が朝方までかかるらしい。知らない女と、どこかのホテルの同じベッドで寝ているのかも知れない。宏美とは無理だが、他の女となら、セックスをしているのかも知れない。宏美は何度も考えたことがある。考えたが、仮にそうだとしてもいいと思ってきた。宏美自身も、我森と一緒に寝ているのだ。そういうお互いの「裏」は、見ないように暮らしていけばいいのだ。
 だけど、こんな夜は、完膚無きまでに思い知らされる。自分は、本当に、独りきりなんだと。我森はまだ、あの部屋にいるだろうか。今、行けば、会えるだろうか。会って、どうするんだ、いつもみたいにケロッと忘れて、プレイ出来るのだろうか。そんなことを考えながら、その夜、宏美は眠ることが出来なかった。
 翌日。会社には、休むと電話を入れた。午後になっても、食欲が出なかった。カーテンを開けるのも億劫だった。何日も前の新聞に目を通し、ぼんやりと文字を眺めていると、白黒の、どこにでもありそうな温泉旅館の写真があった。「たまには ゆっくり しませんか」。そんなやすいコピーが、宏美の心を掴み、どうすればいいか分からない宏美は、とにかく食卓にメモを置いて、バックに荷物を詰め込めるだけ詰め込んだ。そして、電車に飛び乗り、この温泉宿までやって来た。

 美味しい漬け物にお味噌汁。気持ちに染み渡る安堵。宏美は、自分の食べた食器を重ねて、厨房へと運んだ。わざわざすみません、という女将さんに、今日でチェックアウトすることを伝えた。ふとテレビを見ると、また違う誰かが、違う局のワイドショー番組で、我森の裸を見ていた。 

 綿貫(わたぬき)孝一は、心底安堵していた。我森は、これで被害者なんかじゃなくなった。ただの殺人犯だ。仮に、彼が何を話したところで、誰も信じない。よかった。ぜんぶ元通りになる。綿貫は、ここ最近の食欲不振など忘れ去ったかのように、おかわり自由のご飯をよそい、生卵をかけて、掻き込んだ。ロビー横の簡単な食事スペース。このビジネスホテルでの暮らしも、今日でおさらばだ。



綿貫の我森プレイ


 ずっと檻にいた猿が、急に放たれると、ビクビクしてたじろぐというのは嘘だと思った。本能は、もっと奥深い所で、自分をスパークさせる。それは、押さえつけていたスポンジのボールが、ポンと跳ねる感じに似ている。もし仮に、今、綿貫の目の前でテレビを見ているあの青年の部屋に行き、お金を渡せば、彼もまた、いいなりになるのだろうか。綿貫は、そんなことを考えていた。
 冴えないオヤジ。そんなことは、誰ひとりとして綿貫本人には言わないが、風呂上がり、全身鏡に映る自分のたるんだ身体を見る度に、誰よりも感じていた。父親が一代で築き上げた会社は、東南アジアにも進出する企業となった。低価格で高品質。今ではどこでも使うこの強みを四十年も前から唱えてきた会社だ。バブル期、もっと利益を多くして、楽をしようと思えばできたが、あくまでも定価を下げて販売した。下着専門メーカー。大手に比べ、ネーミングだけでは売れない。勝負できたのは、徹底した高品質の追求と、可能な限りの原価調整だった。綿貫は、そんな一家の長男として生まれた。
 一人っ子だった彼は、ゆくゆくは会社を継ぐ二代目。小さい頃から、彼の周りの者は、誰も綿貫を批判しなかった。裸だと言われないまま育った綿貫は、中学に上がるまで、自分が一番だと、本気で思っていた。中学時代、自分の顔や背格好が、イケテナイと知ると、そのことが怒りに変わった。その怒りを抑え、なんとか安定が保てたのは、幼稚園の頃から家庭教師を付けていただけあって、勉強が出来たことだ。
 父親の方針で、中学までは公立校に通ったが、仮に中学受験をしていたら、十分に難関御三家と言われる学校に合格できただろう。行けたのに、行かせてもらえなかった。だから、ここは、自分の居るべき場所ではない。中学時代の綿貫は、一言で言うと、誰からも相手にされない存在だった。女子からはもちろん、クラスの目立つ男子にも、相手にされなかった。唯一、小学生の頃から小遣いをたくさんもらっていた綿貫が、お菓子やゲームで釣った子分のような友達が何人かいるだけ。三年間、帰宅部。それが、多感な時期の彼が居た場所だった。
 自分に足りないのは、容姿だけだと思い込んでいた綿貫。彼のひねた性格や、虚言癖は、誰とも深く接せず、ぶつかることもないまま、ひどくなる一方だった。当時、自分のイケテナイ現実を避け、綿貫が逃げ込んだのが空想だった。彼は、ずっと空想日記を付けていた。その中では、クラスの女子と付き合い、学年で一番人気のサッカー部の男子と親友だった。その男子は、綿貫が困ったときには、何でも力になってくれた。もう一つの空想の中学時代。この先の綿貫の根幹のような部分を形成したのは、現実ではなく、むしろ空想の日々だった。
 都内の難関私立高校に合格したとき、家族や親戚、そして会社の幹部達は、これで一安心だと思った。二代目もしっかりと育っていると、その合格だけで思いこんでいた。しかし、父親だけは違った。そんな父親の態度に不満を持つ母親は、自分のしてきた教育が間違いではなかったと、息子の合格を喜んで止まなかった。入学式の帰り道。親子三人で、銀座の料亭で食事をした。そのとき、綿貫の父親は、「将来、おまえは何がしたいんだ」と聞いた。「分からない」と応えた息子に、「まぁ、ゆっくり考えて見つけろ」と言った。それを聞いていた母親が、「孝ちゃんは、会社を継ぐんだから」と笑ったが、父親が、そのときはっきりと「もし、うちの会社に入りたいんだったら、自分の力で一から頑張らないと駄目だ」と念を押した。
 父親は、自分の息子には、社長としてのカリスマ性のような、引っ張っていく人間力がないと判断していた。そして、その力を経験の上から身につけていくだけの器もない、と。父親の言葉を綿貫はずっと覚えていた。認められていない。高校生になったばかりの彼には、非常に厳しい言葉(現実)だった。頑張らなければならない。それは、綿貫にとって何を意味するのか。導き出した答えはこうだった。しっかり勉強して、いい大学に入ること。高校三年間、彼は勉強に明け暮れた。それにすがったと言う方が正しいのかも知れない。運動は出来ない、カラオケにいっても歌えない、女子と喋れない、親友が出来ない。そんな彼に残された唯一の道。いやそれは武器と言っても良かった。必死になって勉強して、いい大学に入ることだった。
 綿貫は、第一志望の東大に合格した。合格してすぐ、父親が死んだ。
 母体の大きくなっていた父親の会社は、いくつかの派閥が存在し、派閥争いの末、それまで副社長を務めていた四十二歳の若い男が社長になった。幸い、その新社長は、創業家の派閥で、綿貫が社長になるまでの繋ぎだと言ってくれた。父親が倒れ、他界するまでの一ヶ月。それまでの無理が祟ったのか、あまりにもあっけない最期だった。肝臓ガン。転移が進んでおり、手の施しようがなかった。何でも我慢してしまう父親の性格が、裏目に出る結果となった。
今でも考えることがある。父親は、本当のところどう思っていたのだろう。病床で、見舞いに行った綿貫に、父親はこう言ったのだ。
「孝一、おまえ、他人が自分をどう見てるか、気になるか?」
「別に気にならないよ。自分は自分だし。他人なんて関係ないもん」
 そんな風に応えた綿貫に、父親はしばらく何も言わなかった。ただ目を閉じて、じっとしていた。そんな父親を綿貫もじっと眺めていた。
「これからは、」
 ゆっくりとした口調で父親が言った。
「それじゃ、駄目だ」
 綿貫が聞いた父親の最期の言葉。これからは、他人がどう見ているかなんて関係ない。それじゃ、駄目。綿貫は、大学を卒業して父親の会社に入り、部長、専務となってからも、この言葉の真意をとらえられずにいた。
 綿貫の中では、大学に入ることが第一関門だった。それが終わると、次は結婚。その次は子供を作って、家族を養う。そうして、自分は会社を継ぐ。何歳までに、何をするという縛りは、彼が生きていく上で重要な指標となっていた。それを順調にこなしていく自分に、やっと自信が持てた。それが裏付けとなって、自己を確立していたともいえる。結婚は見合いだった。父親が亡くなってから、母親の息子へ注ぐ愛情は、もはや常軌を逸する状態と言ってもよかった。自分の息子が一番。それが母親の生きる糧となっていた。見合い話は、軽く二十回を越えた。綿貫が選ぶ前に、母親の審査が入り、それに合格すると、実際に綿貫と会う。後は、相手が綿貫を気に入るかどうかという問題だけだ。家柄、素行、学歴。綿貫の母親は、そんな肩書きと、うわべで見えてくる相手の印象を重視した。二十五歳までに結婚する。綿貫には、その期限が迫っていた。社会経験は、最低三年は必要。それを終えてから結婚するのがよい。母親が昔、ぽろっと言った一言が、彼の結婚リミットだった。
 結婚相手は、短大を卒業したばかりの二十一歳の女性。綿貫の母親が、お稽古で通っていた茶道教室の先生の知り合いの娘だった。彼女の実家は、石川県で呉服問屋をしていた。大人しく、男性の三歩うしろを歩いて付いてくるタイプだった。綿貫は、写真を見た段階から気に入っており、後は相手がどう思うか。さすがの母親も、相手の気持ちまではコントロールできない。もちろん、猛烈なるプッシュとプロモーションは欠かさなかったが、相手がOKをしてくれたとき、綿貫よりも喜んだのが母親だった。
 結婚生活は、綿貫の実家で、母親と妻の三人暮らしでスタートした。綿貫にとって最も重要なことは、二年以内に子供を作ることだった。二十七歳。綿貫の父親が、自分を産んだ年齢だった。それまでには「絶対」子供をつくる。会社から帰り、妻と母親の三人で夕食をとり、「ほら」と目配せする母親の合図で、妻と二人で寝室に入る。そして、まるで取扱説明書通りのセックスをした。黄色と赤と白の線をここに繋いで、それからこのボタンを押す。そしたら映るテレビのような射精。あの頃の妻が、そんな生活をどう考えていたのか、綿貫は、考えることすらなかった。
 結婚して一年が過ぎ、妻が妊娠した。あとは男の子か、女の子か。妊娠の知らせを聞いた母親の喜びようは、凄まじかった。生産者と「それ」を流通させる者が別々であるかのように、作る人であった綿貫は、子供のことにほぼノータッチだった。彼なりに、自分の子供の将来を考え、子育ての本を買い、妊娠中の妻のフォローをしようと躍起になっていたが、それらは全て、綿貫の母親が担った。母親に任せっきりにした彼の「弱さ」に、妻が失望してしまったことは、言うまでもないが、綿貫自身がそれに気付いていなかった。子供の名前だけは、自分達で決めたい。そう思っていたが、それすら叶わず、母親が勝手に頼んだ、寺の僧侶からもらった。男の子だと分かってから、家中に青と緑を基調にしたベビー用品が溢れるようになった。
 子供が育つハイペースな成長は、綿貫の出世とリンクするかのようだった。彼は、トントン拍子に出世していった。離乳食から始まり、おむつを取り替えてもらい、自分の希望や意見は言葉にもならない泣き声に近く。それらをすべて母親のように一から十まで拾い上げて形にする周りの人たち。彼らは、綿貫を社長にしようと奮闘する幹部たちだった。よちよち歩きを始めた綿貫が、壁に落書きをすれば叱ることもある。思った以上にお利口だったときは、よしよしと頭を撫でられる。そんな会社での綿貫は、完全にお飾りにすぎなかった。一時ほどの勢いは失ったが、業績は好調に推移していた。超抗菌仕上げの男性用下着が二年前にヒットし、知名度も徐々に上がっていた。
 綿貫の息子が小学校に上がる頃、彼は専務になり、会社全体のことを考えるようになっていた。折しも、デフレが到来し、安くて良いモノは当たり前。その中から選ばれる時代だった。夏は涼しく、冬は温かい。そんな下着に求められる機能をどれだけ低価格で提供出来るか。何もできない、おぼっちゃん専務と陰口をたたかれながらも、綿貫なりに発言を繰り返した。彼の頭の中には、お勉強してきた様々な方程式があった。しかし、どれも現実離れしており、教科書通りを熱弁するにすぎなかった。それでも、周りは綿貫に気を遣った。というのも、先代の死後、社長に就いていた男にはリーダーシップがなく、その男が社長で居られる唯一の理由は、綿貫までの繋ぎであるということだけだったからだ。創業家という看板を背負って、綿貫が社長になるまでのリリーフ。何とか、綿貫を社長に仕上げなくてはいけない。会社の中で、今でも一番大きな派閥は、初代社長である綿貫の父親を慕うメンバーだった。もはや綿貫個人がどうという問題ではない、初代の息子という「血」だけが重要だったのだ。こんな古い体質の社風に、意見のあわない社員達は会社を離れ、出世する者はみな従順だった。
 息子が中学生になる頃、綿貫にも社長就任の話が、ちらほら出始めた。役員会議で全てが決まる。票集めのために綿貫は走り回った。彼自信の人間性で一票を投じる者は一人もいない。それを誰よりも痛感していた綿貫は、だからこそ地位が欲しかった。飾りでも何でも構わない。とにかくあの社長室の、一番大きな椅子に座りたかった。四十一歳。初めての挑戦は圧倒的多数で否決された。綿貫に社長の器はまだない、という結論だった。一般社員には、自分たちの会社の社長が誰になるかというより、台湾の会社に吸収合併されるのではないかという噂の方が気になっていた。いっそのこと、合併でもされた方が、将来性があると考える社員たちも中にはいた。山梨県で生まれた中小企業よりも、今やロンドンやニューヨークに出店する企業の傘下に入った方がいい。綿貫は、そんなもやもやした月日を暮らしていた。
 会社のもやもやを引きずったまま、家に帰ると、自分の映し鏡のような息子がいる。口ばかりが達者で、妙に冷めている。運動会では最下位を走る息子。学芸会では小道具係の息子。担任の先生からは、息子に関する具体的な例は挙がらず、いつも「よくやってます、このままで大丈夫です」という抽象的なことしか言ってもらえない。目立って良くも悪くもない存在。薄い、存在。そんな息子を見ていると歯痒かった。が、小さい頃から、あまり密に接することのなかった息子にとって、父親である綿貫の言葉は、中学生になってからでは、届かなかった。
 四年。最初に社長就任を否決されてから、毎年のように話は持ち上がるが、実現しなかった。とはいえ、他に有力な候補もいなかった。業績は横ばいのまま。この不景気の中、それは大したものだという守りの姿勢が社内の雰囲気を占領していた。「僕は、こう思いますけど」。綿貫の意見は、いつもこんな感じだった。自分はこう思うけど、それで行こうというわけではありません。強く出て叩かれるのが怖かったのだ。いや、もうそれが面倒だったという方が正しいのかも知れない。
 家に帰れば、母親の意見が最終意見として尊重され、綿貫の意見は通らない。息子がどんどん自分のようになっていく。仲間の輪から離れて、自分一人だけで完結する事に逃げ込んでいる。人と意見を交わして、その中で自分の意見が通せる力。その能力を無視したまま成長していく息子に、綿貫は危惧を抱いていた。「他人がどう見ているのか」。そんな時は、父親の言葉を思い出す。今の綿貫は、どう見られているのだろうか。ある日、綿貫は、父親と同じ質問を息子に投げかけてみた。同時に、息子が応えるだろう言葉に、自分はちゃんと解答を与えようとも思った。父親みたいに、「それじゃ駄目だ」と言い残して死んでしまうのではなく、ちゃんと、「他人の中の自分」を意識する大切さと、その中で「自分を保っていく強さ」を。それが、一番大切であることを教えようと思った。
「おまえ、他人が自分をどう見てるか、気になるか?」
 息子は、いつものように冷めた顔で、綿貫の質問を聞いていた。しばらく、無視していた息子にもう一度呼びかけると、
「じゃ、父さんはどう見てるの? ボクのこと」と、逆に聞いてきた。
 綿貫は言葉に詰まった。そして、何も言えなくなってしまった。ここではっきり言ってしまっていいのか。息子は傷付くだろうか。そもそも自分から見る息子は、本当の姿なのだろうか。そんなことを考えていると、
「ボクは、父さんみたいには、ならないよ」
 口いっぱいに頬張ったトンカツ。ニキビの目立ち始めた顔。そして、「自分みたいにはならない」といった自分の映し鏡。もう、何もかもどうでもよくなった。勝手にしてくれ、とも思った。
 毎日は、穏やかに過ぎていった。どうでもよくなった穏やかさの中に、綿貫は埋もれていった。静観し傍観し我慢せず受け入れた。何かを発信しても届く先はない。受信して何かを思っても、それが通るわけではない。空しかったが、どうすることも出来なかった。どうしようとも思わなかった。
 母親が死んだ後のことを綿貫は想像する。おばあちゃん子の息子は、精神的な支柱を失って、ふさぎこむのだろうか。何でも母親に相談して決める妻は、右往左往するのだろうか。もしそうなれば、自分は、今よりももっと存在を認められるのだろうか。リビングの光景を思い浮かべ、高校生になった息子が「あれが欲しい」とおねだりをする。妻は、「お父さんに聞いて、いい、って言ったら買ってもいいわよ」と答える。息子は自分に懇願する。そして自分は考える。息子にとってそれが必要かどうか。そして、息子にとって、ここで買ってやるのがいいか、我慢させるのがいいか。それは、ずっと先に出る答えでも構わない。考えて、考えて、自分なりの答えを出す。すると、妻も息子もそれに従う。そんな、夕食時の光景を空想して、少し気持ちが楽になる。
 社長になった自分も空想する。自分の元に上がってくるトップレベルの情報を分析し、先を読み決断する。それに向かって、社員が一丸となって取り組む。いい結果も悪い結果も出る。それをすべて自分の責任として抱え込む。耳の痛いこともダイレクトに言う。それが数年後、いい結果を生む意見だと自信を持って告げられる。自分の裁量を認める周りが居て、自分は周りを信じ切って任せられる。会社は、自分なしでも回って行くが、最後の最後は自分の決断が必要になるという形。綿貫は、社員から本音で話される自分を妄想するのだった。
 もちろん、現実は違う。そんな現実から逃避するノート。中学生の時に記していたそれと同じだ。あれから二十五年以上が経ち、決まった通り歩いてきて、家族も築いて、専務になった今でさえ、あの頃と、何も変わらない自分がいた。目を開けるのも嫌になるほどの現実だった。だから彼は、息子のことも家族のことも、会社のことだって、すべて眺めることにした。傍観するだけの自分の存在感をまた、あの頃のように一人だけの世界に持ち込んでいった。
 綿貫は、家からも会社からも離れた上野原に、マンションを借りた。それは、彼が自由に使える金で、内緒に契約したものだった。2DKの一部屋と、地下の多目的スペースを一部屋。彼は、その部屋を自分の城にするようになった。
 何もかも思い通りにならない現実から逃げ込む、具現化させた空想の世界。そう、中学生の頃から変わった点があるとすれば、想像しかできなかったものを金で買い揃えられることだった。その城には、今でも付き合いのある小学校時代からの同級生を呼んだ。お菓子やゲームで釣った従順な者たちだ。地元の優良企業の専務である綿貫は、彼らにとってはお客様だった。その友人とも呼べないだろう彼らは、地元山梨で小さな下請け企業にいる。大得意先の専務。昔のように、ちゃん付けで呼び合うが、そこには社会のシステムが歴然と存在していた。
 ゴルフ、麻雀、飲んでは遊び、遊んでは飲む。綿貫が「集合」のメールを入れると素直に集まってくる「仲間」が、唯一、彼の思い通りになる存在だった。しばらくは、そんな楽園のようなマンションの一室で、城主気分を味わっていた。しかし、綿貫には会社での決定権がない。彼らもうすうす気づいてはいたが、話せば話すほど、それが確証を得るように思えた。次第に、休日だろうが、深夜だろうが集まってきた「仲間」が、何かと理由をつけて断るようになった。それと同時に、綿貫自身の中にも、妙に冷めた感情が涌いてきた。結局、半年ほどで「仲間」を集めるのを止めた彼は、また、どんどん内に籠もるようになった。内に籠もっては、誰にも邪魔されない世界、自分の思い通りになる世界を築きあげていった。

 我森は、そんな綿貫の道具の一つになった。
 綿貫が東京へ出張に出て、普段なら日帰りするところを新宿のホテルに一泊した日。そこで女性を買った。綿貫にとっては珍しいことではない。妻との肉体関係が希薄になり始めた頃から、彼はよく外で女性を買っていた。そして、関係を持ち、金を渡す。いつものようにぐっすりと眠ろうとしたとき、急激に襲ってきた怒り。それが何かは、彼にも分からない。何に対しての怒りなのか、そして、なぜ、その新宿のホテルの一室なのか。もやもやした日常から逃避した先で感じるこの気持ちに、綿貫は押しつぶされそうになった。彼は枕を叩いた。掛け布団をぐしゃぐしゃに丸め、それに顔を埋めて大声で叫んだ。わあああああああ。おあああああああ。その日、綿貫は一睡も出来なかった。
 翌日。午前中に会議のあった綿貫は、始発で山科まで帰ろうと朝5時にホテルをチェックアウトした。どうせ眠れないのだと起き上がったときの、あの不快にどんより重い気持ちのままロビーへ降りていった。チェックアウトを済ませ、ホテルを出ようとすると、一人の青年がホテルの警備員ともめていた。どうも、ロビーのソファーで眠っていたようだだった。何の気なしにその様子を見ていた綿貫は、青年を眺めながら、舌打ちした。いい若いもんが何をやってるんだ、と思った。奥へ連れて行かれようとする青年。それを見ながら、綿貫は高校時代や大学時代を思い出していた。自分とは違うジンシュだったその男の姿。女子からの人気。嫌味なほど爽やかな顔。楽しそうな、毎日。それを謳歌する典型通りの青春。それができる、容姿。
「あの」
 綿貫は、声をかけていた。
「知り合いです、私の」
 ビックリしてこちらを向く青年に、綿貫はうっすら微笑みかけた。
「先生〜」
 青年は察したように、警備員の腕を振り払う。
「遅いじゃないですか。先生が来ないから、俺、どっか連れて行かれそうになりましたよ」
「すまん、すまん。あ、どうもすいません。うちの生徒なんです、こいつ。私が責任をもって連れて帰りますから。どうもご迷惑をおかけしました」
 綿貫が頭を下げると、渋々、警備員は早く連れて帰ってくれというかのように頷いた。二人でホテルを出ると、その青年は「ありがとうございました」と綿貫に頭をさげた。「助かりました」とにっこり笑った。その顔を見ていると、綿貫の中に妙な感情がわいた。
「何してたんだ、あそこで」
「いや、急にお客さんが豹変して、部屋から追い出されたんです。だから、始発までロビーにいようと思ってたら、いつの間にか寝てしまって」
「お客?」
「はい」
「君は、あれか。そういう商売をしてるのか」
「それだけじゃないですけど、色々やってます」
 いい若いもんが何をしてるんだ、と思う反面、綿貫の中に、その青年の、子犬のような表情が、なんだか良く映った。
「コーヒーでも、飲んでいくか?」
「あ、はい。でも、もう始発があるので帰れますけど」
「まぁ、いいじゃないか。助けてやったんだし、コーヒーぐらいつきあえよ」
 そして、二十四時間営業のコーヒーチェーン店に入り、綿貫は、我森に色々と質問した。その一つひとつの答え方がよかった。一見すれば、学生時代に綿貫のことを全く相手にしなかったような「イケ」てる容姿なのに、その綿貫に、一生懸命答えようとしてくる。
「何か、スポーツでもしてたのか?」
「はい。水泳をずっとしてました。結構、速かったんですけど、高校を卒業してから全然泳いでないですね」
「いくつだ、君」
「二十一です」
「若いな〜。彼女とか、いるんだろ?」
「まぁ、一応」
「そっか、いいなぁ。楽しい盛りだよ」
「そうですかね。よく分からないです。歳とったら、そう思うのかも知れませんけど、今は、全然、楽しくなんてないです」
「そう言うもんだよ。私も、そうだったからね」
 綿貫は、なんだか妙な感じがした。目の前に座っている我森と、自分は同じ境遇の、つまり青春真っ最中の日々を同じレベルで謳歌してきたような錯覚。それが、とにかく心地よかった。
「ここに、来ないか、今晩」
 綿貫は上野原に内緒で借りているマンションの住所を渡した。
「え?」
「だから、私も、君を買いたいんだよ」
 戸惑っている様子だった。我森にしてみれば、冴えない普通のおっさんが、普通に説教をする感覚で自分をここに連れてきたと思っていたからだ。一秒でも早く、こんな面倒くさい場から離れたいとも思っていた。それが、客になる。思ってもいない展開だった。
「はい。わかりました。何時に行けばいいですか?」
「そうだな、八時半でどうだ?」
「はい。伺います」
 伺います。我森のこの言葉が、綿貫には可笑しかった。
「伺ってくれ。あ、そうだ。私は男を買ったことがないから、相場がわからないんだけど、いくら出せばいい?」
「内容によります」
「そうか。内容か。三万でどうだ? 一緒にいるだけでいい。話をするだけでいいよ。まだ君には分からないだろうが、この歳になると、若者と話をするっていうのも、たまには楽しいもんなんだよ」
「わかりました」
 
我森がそのマンションに着いたのは、九時を過ぎてからだった。上野原なんて遠い所まで中央線に乗ったのは初めてだった。綿貫は、すでにかなり酔っていた。我森にとって、男の客は初めてではなかった。大体、普段はクソが付くほどまじめで、そういう場になると急変することが多い。綿貫も、おそらくその類だろうと思っていた。
「すいません、道に迷ってしまって」
「ああ、構わないよ」
「失礼します」
 靴をそろえて、我森は部屋の中へ入った。広いリビングの奥に、もう一つ部屋がある。そこそこの金持ちなのかも知れないと、我森はふんだ。
「何か、飲むか?」
「あ、はい。同じものをいただいていいですか?」
 芋焼酎をグラスに注ぎ、綿貫は我森に渡す。腹が減っているという我森のために、ピザを注文した。綿貫は、自分の高校時代や大学時代の話、それも空想ノートにつけていた自分の嘘の過去を我森に話した。我森は、気持ちいいほどタイミング良く頷き、感心し、尊敬の眼差しを向けてきた。酔いが回ったこともあるが、綿貫の気分は高揚して、笑いが込み上げて仕方なかった。自分の言ったことが、すべて本当になる空間。かつて、自分が憎むように憧れた容姿の青年が、うんうんと頷いている。
「よく食うな」
「あ、はい。腹ペコだったんで」
「大学生か?」
「いや、行ってません」
「じゃ、ずっとアルバイトか?」
「はい」
 空になったピザのケースを台所に運ぶ我森。焼酎がなくなれば、絶妙のタイミングで継ぎ足す我森。綿貫は、何とも心地いい時間を過ごした。
「もういいよ」
「え?」
「だから。明日もアルバイト、あるんだろ。早く帰って寝なさい」
「あ、はい」
 綿貫は、なんだか自分の息子のようにも思えてきた。じめじめしたところが一切ない、真っ青な晴天のような我森。見ていると、綿貫まで気持ちが晴れるようだった。グラスとフォークと小皿を洗って、我森が手を拭きながらリビングに戻ってくる。すらっとした手足が、何をしてても様になった。
「あ、これ、今日の分」
 綿貫は財布から一万円札を三枚抜き出し、我森に渡した。
「あ、いやいや、一枚でいいです。何もしてないし、ピザとか焼酎とかご馳走になったので」
「いいよ、いいよ。約束だから。その代わり、また明日も同じ時間に来てくれないか」
「はい。それじゃ、失礼します」
 帰って行く我森を見ていると、学校へ行く息子の、それも空想していた理想の息子の後ろ姿のように思えた。
 翌日、我森は約束通りの時間に来た。昨日よりも綿貫には身近に感じられた。また、昨日のように話し、酒を飲んだ。寿司が食べたくなった綿貫は、近所の寿司屋まで我森に取りに行かせた。「はい」「わかりました」「ぼくもそう思います」。そんな我森の一言一言が綿貫の心の中に蓄積されていく。寿司をさげて帰ってきた我森が、小皿をテーブルに並べ、箸をセットする。綿貫が食べるまで、我森は決して手を付けない。それが分かって、綿貫はじらしてみせる。ずっとこちらを伺い、何か言えば俊敏に対応する我森。それらがすべて、綿貫の理想通りだった。一つ、寿司をとって、綿貫は我森の口の方へ近づけた。こちらを見ながら、我森がそれを食べた。
「旨いか?」
「はい」
 綿貫も、一つ、頬張った。食べていい。そう言ってから、我森は箸を割って、小皿に一つ、寿司をとった。それを見ていると、綿貫の中に突如、突き上げるようにして沸いた言葉、
「箸で食うな」
 それを強い調子で、言い放っていた。
 我森は、「はい」と言って、箸を置いた。そして、右手で寿司を掴もうとする。
「手でも食うな」
 そういうと、綿貫は我森の小皿をとり、床に置いた。
「両手を後ろに組んで、口だけで食え。犬みたいにワンワン吠えながら、食ってみろ」
「はい」
 我森は、少しも動じることなく、言われた通りにする。両膝をつき、背中を丸め、舌を使って寿司を持ち上げた。それから、顔を二三度振って、口の中に入れ、それを食べた。飲み込んでから、「ワンワン」と、言った。
 綿貫は大声で笑った。「そうだ、そうだ。よくやった」と、手を叩いて笑い続けた。
「どうだ、旨いか?」
「はい」
「はいじゃない、ワン、だ」
「ワン」
「ハハハハハ」
 その晩、我森は綿貫の命令をすべて素直に遂行した。腰まで下げたジーパンから、パンツが見えている我森の格好。でかい身体を小さく丸めて寿司を食う格好。ワンワン吠える、我森。寿司を手にとった綿貫が上に大きく放り投げる。「落とさずに食えよ。落としたら罰として腕立て百回だ」。ハハハ。上手いぞ、上手いぞ。さ、ほれ、今度は高いぞ〜。おー、ナイスキャッチ。さぁ、次はどうかな。何度も繰り返し、我森は腕立てを四百回やった。最後は、腕立てする我森の背中に綿貫が乗って、お尻をパンパン叩きながらやらせた。徐々にエスカレートしていく自分の気持ちに、歯止めがかからなくなり、結局、自分の口に含んだ寿司をくちゃくちゃ噛んだあと床に吐き出し、それを我森に手を使わず食わせていた。綿貫は、たまらなく興奮した。命令通りに動く我森が、可愛くてしようがなかった。この二時間から三時間にわたる我森とのプレイ。綿貫は、最後に財布から金を出すときになって、初めて現実に戻ってくる。一日目、三万円だった金額は二日目は五万円になった。それも、我森は表情一つ変えず、まるでコンビニのレジの店員のように「昨日は本当なら一万だったんですが、今日の内容だと、五万円です」と言ってのけた。綿貫は、それからも、毎日のように五万円レベルの内容で、我森とのプレイを楽しんだ。命令して、従順な我森がいて、最後金を払って終わる。その空想を具現化したプレイが、現実の中で錯覚を起こすようになったのは、一ヶ月ほど経ってからだ。
 綿貫が家庭で息子に話しかける。それは時々命令するようにもなっていた。しかし実際の息子は、聞く耳を持たない。無視、に近い反応だ。会社でも同じだった。気分が高まって発言した自分の言葉は、ことごとく無視される。これが現実。我森はバーチャルだ。それを頭の中で理解しているが、気持ちのバランスが狂ってしまうのだった。
 我森とのプレイにも、そんなバランスの崩れが現れ始めた。それまでマンションの一室だったプレイの場所が、地下に借りていたスペースに変わった。そこには、綿貫の趣味である鉄道模型が、莫大な費用をつぎ込んで組み立てられていた。以前なら、それを眺めているだけで十分だった。しかし、我森を覚えた今、暢気に走る模型の世界では空想すらできない。実際に、この手で触れて、そして目の前で一人の人間が命じた通りに動くのだ。それ以上の仮想はないだろう。地下室に持ち込んだのは、古いベットと縛り付ける用の十字架のような板。インターネットは本当に便利だ。何から何までクリック一つでそろった。専務室に置かれた自分のパソコンが、閲覧記録など取られてはいないだろうと、安心仕切っていた綿貫は、毎日のようにプレイルームの設備を買いそろえていった。命令通りに動く我森が、ただかわいいと思っていた時期を過ぎると、言うことを聞かない息子や、会社の連中に対する鬱憤を我森ではらすようになった。フラッシュバックするような高校時代のイケてるクラスメイト。総スカンしていた奴ら。そんなすべての恨み。我森をパンツ一枚にさせ、十字架に縛り付け、鞭で打った。パンツ一枚の我森は、綿貫もほれぼれするほどの肉体だった。それまで、一度も男を見てキレイなどと思ったことない。しかし、我森の裸体は、ギリシャ彫刻に近かった。そんな美しい肉体を叩きつける。痛みに耐える顔を見ると、綿貫はどんどん興奮の度合いを増していった。やがて蝋燭も垂らした、空気銃で我森を的に撃ちもした。ぎゅ〜っと絞り出す綿貫の中の感情。一度に払う金額が、十万円にまでつり上がるまで、三ヶ月と経たなかった。
 やがて、二時間から三時間だったプレイの時間が延びてゆき、明け方まで拘束することも珍しくなくなった。檻を部屋の中に設置して、そこで我森を飼っているプレイにもはまった。知らないうちに眠ってしまい、目覚めた綿貫が慌てて檻の鍵を開け、我森に金を渡し、家に戻り、服を着替えて出社する。そんな日もあった。
綿貫の母親は、誰よりも早く、そんな彼の異変を察知した。探偵を雇い、浮気調査を開始した時にはもう、綿貫には、我森なしでは精神のバランスがとれなくなっていた。
 G。綿貫は、我森との連絡を社内のパソコンから行っていた。我森を示すGへの送信が目立って多い。探偵は、上野原のマンションなど、とっくに突き止めていた。張り込んでも、女性らしき影はない。気にかかるのはGという存在。それが誰なのか。探偵を雇っても、決定的な証拠がなかなか掴めない母親は、ある日、綿貫に直接聞いてみることにした。一時の気の迷いなら、今のうちに目覚めさせないといけない。
「孝一、ちょっと、こっち来なさい」
 綿貫が朝帰りをして、シャワーを浴び、ネクタイをしめているときだった。
「なんだよ。時間、ないんだよ」
「毎晩、毎晩、あんたどこ行ってるの」
「どこでもいいだろ。色々あるんだよ。接待したり、されたり」
「嘘おっしゃい」
「なんだよ、嘘って」
 母親に対する口調が、まるで反抗期の少年のようになっていることを綿貫は自分で気付いていない。それは、我森と接する内に、自分があたかもイケてる高校生にでもなったかのような錯覚がもたらすものかも知れなかった。現実との境界線で、自制仕切れないこの頃の綿貫。母親は、ここがもう限界だと思っていた。小さい頃から言い訳はしないし、反抗期もなかった。いつも、自分の言うことはちゃんと聞いていた。もちろん、もういい大人だ。息子だって、高校生になっている。そんな父親になった息子を叱るわけにもいかない。
 綿貫の母親は、彼女なりに、我慢してきた結果だった。時々、母親は思っていた。こんな大人になったのは、自分の育て方のせいではないか、と。会社での評判、父親としての不甲斐なさ。綿貫の母親は、誰よりも自分の息子が歯痒かったのだ。そんな息子の朝帰りをこのまま放っておいていいのだろうか。母親にも分かっていた。綿貫がそういう男ではないことが。しかし、お金を持ってしまった男だ。余所の女に、溺れることも十分に考えられた。
「あんたね。もういい加減にしておかないと、母さんもかばいきれないわよ」
「かばうってなんだよ、かばうって。もう子供じゃないだからさ」
「だから厄介なんじゃないの。あんたが子供なら、叱りつけて言うことをきかせるわよ。もういい大人だから、これまで母さんも、我慢してたんじゃないの」
「とにかく分かった。今晩、ゆっくり聞くからさ。ね、じゃあね、行ってくるよ」
 キッチンで朝食の後片付けをしている妻は、何も言わなかった。その後ろ姿を見ると、綿貫の母親は、不憫でしかたなくなる。
「孝一」
 玄関に座って、靴を履く綿貫の背中に、母親が言った。
「Gって、誰なの」
 綿貫の動きが止まった。それを見た母親が、やっぱり、と思った。
「なんだよ、それ」
「Gっていう人と、あんた、浮気しているの?」
 母親は少し声を落として、綿貫に聞いた。
「浮気?」
 綿貫は声を裏返して大声で驚いた。その表情を見ると、まんざら嘘をついているようにも思えない。母親は、ますますわからなくなった。
「もしかして、俺の会社のパソコン、見たの?」
「見られたら困るような人なの?」
「だから、誰が、いつ、俺のパソコン、見たんだよ」
 綿貫の表情は真剣だった。何かを必死で隠そうとする、子(窮)ネズミの目だった。
「そんなことは今、問題じゃないの。
Gって誰なのか。母さん、それを聞いてるのよ」
「友達だよ」
「毎日、毎日、メールして、上野原で待ち合わせる、お友達なの?」
 母親は少し呆れた口調で追い詰めた。
「あれだよ。鉄道のさ、ほら、サークルみたいなもんだよ。心配ないからさ。じゃ、行ってくるよ」
 綿貫は慌てるように家を飛び出した。上野原のマンションは、もうばれている。会社のパソコンも監視されている。何か、変なことは書いてなかったか。綿貫は頭をフル回転させる。大丈夫だ。我森に辿り着く証拠は、何もない。駄目だ。地下室にあるものを始末しないといけない。また、模型をセットして、疑われないようにしなければ。自分の息子が男を部屋に連れ込んで、SMみたいなことをしていると知ったら、母親は倒れるんじゃないか。とにかく、一日も早く、すべてを「元通り」にしなければ。
 綿貫はその日、上野原のマンションの地下室から、全ての設備を撤去した。まったく付き合いのない県外の業者に依頼して、夜中のうちに作業を終わらせた。会社のパソコンからも、メールデータ自体を消去した。ホストコンピューターに残されたデータも、パスワードを知っている綿貫には、消去することができた。そして、我森との連絡を絶った。
 母親にばれたこと。それが綿貫の中では大事件だった。四十歳も後半に近づき、高校生の息子の父親になっても、結局、母親は怖い存在のままだ。そんな自分を情けないと思う暇もないほど、とにかく、ばれないための証拠隠滅に躍起になった。母親から問い詰められたあの日から、綿貫は家に帰るようになった。あまりにも退屈で、自分の存在感が薄いという「悩み」は、もっと窮地に立たされた今では。何の問題も感じない。とにかく、元通りになること。綿貫の願いはそれだけだった。
 一週間後。すべての証拠を消して、我森との日々などユメであったかのように暮らしていた綿貫に、我森から連絡が入った。会社のパソコンに、Gより送信が来たのだ。
「最近、連絡がありませんが、今日あたり、どうですか」
 一回、二十万円だ。我森は、そんなおいしい関係を断ち切ってしまうのは、もったいないと思っていた。綿貫という男が、最後の最後には正気に戻る、ある意味利口で、ビビリな男だということが分かっていた。檻の中に閉じこめ、そのまま監禁し続けることもできるが、綿貫は、そんなことまでは絶対にしない。
 ぜんぶ自分の思い通り。若い身体も、こいつの人生さえも思い通りだと思っていた綿貫が、逆に、我森に「監禁」された状態になってゆく。Gのメールは、無視しても、無視しても、会社のパソコンに入ってきた。もしかして、と綿貫は空想する。我森がもし、被害届を出したとしたら、どうなるだろう。身体には無数の跡が残っている。いや、けれど大丈夫だ。それが自分と繋がる証拠はすべて消し去った。もう、我森と自分を結びつけるものはない。まさか、傷跡から綿貫のDNAが採取される訳でもないだろう。大丈夫、大丈夫。念じるように、綿貫は、Gからのメールを無視し続けた。一週間、二週間。毎日来るメールが止むことはなかった。恐怖に耐えながらも無視を続けた。こちらから一回でもコンタクトを取ると、また繋がりが残る。とにかく諦めてくれ、もう許してくれ。綿貫は、そう願っていた。
 さらに二週間が過ぎた月曜日。いつものように、綿貫は誰よりも早く出社して、ホストコンピューターからGのメールを消そうとして……、手が止まった。この日、パソコンに送られてきたのは、縛られた我森が、顔を歪めている写真だったのだ。しまった、と綿貫は声に出して言う。何度か、携帯電話でプレイの様子を撮っていた。それはもちろん綿貫の携帯電話で撮っていたので、そんな写真はとっくに消し去ったが、何度か、我森を繋ぎ止めるために彼にも送っていたのだ。それを逆に、使われてしまった。そして次の瞬間、息が止まりそうになった。縛られた我森の背後、細長い姿見鏡が立てかけてあり、そこに、綿貫が、鞭を持ってほくそ笑みながら写っていたのだ。綿貫の身体が震えた。もう駄目だ、と思った。このまま、我森が全てを暴露すれば、自分はもう生きていけない。家にも、会社にも居られなくなる。どうしようか、どうすればいいのか。
 綿貫は、我森を呼び出した。
 場所は、初めて出会った新宿のホテルだった。彼は、以前と何ら変わった様子もなく、あいかわらず爽やかな好青年として現れた。
「どこか、出張でもいかれてたんですか?」
「いや、ずっといたよ」
「そうなんですか。ぜんぜん連絡がなかったから、心配になってました。綿貫さん、ぼくに鞭いれないと、精神がおかしくなるっておっしゃっていたので、これだけ日にちがあくと、大丈夫かな、って」
 綿貫は思っていた。これは演技か? 芝居か? 自分を追い込む若者が、何でこんなに普通でいられるんだ。今となっては、我森との日々に、精神がおかしくなりそうだというのに。
「部屋、行こうか」
「はい」
 最後まで素直な返事だ。しかし、今は、それが恐怖に感じる。この若者はいったい、何を考えているんだろうか。部屋に入ると、何も言わないうちから、我森は上の服を脱ぎ始めた。それは、我森に命じた綿貫の言葉通りのことだ。地下室に場所を変えてしばらく経った頃から、綿貫は、自分の前では何も着るな、と命じていたのだ。一言も発することなく、ジーパンも脱ぎ始める我森。彼の身体には、無数の傷が、生々しく残っていた。半田ごてを押さえつけた左腰の傷は、特にひどかった。こいつのこの身体と、あの写真があれば、もうどんな言い訳も通じない。綿貫は、ブルブルと震え始めた。震える綿貫の前で、我森は指示待ちの体勢で直立不動だ。
「シャワーを浴びて来い」
 綿貫は、とにかく頭の中を整理するために、我森に命じた。はい。素直にシャワーを浴び始める我森。部屋の中に、水の弾ける音が響いた。冷静に、冷静に。綿貫は小さな声でそういいながら、用意してきた睡眠薬を鞄から取り出す。そして、それを大きめの注射器に入れた。何度もそのプレイはしていた。注射器にいれた水を、我森の鼻の穴に突っ込んで注入する。そのプレイを装って、我森を眠らせよう。綿貫には、我森という証拠を消すことしか頭になかった。
 一方の我森は、これを最後にしようと思っていた。最後の請求額は百万円。これだけ請求すれば、綿貫の方から手を引いていくだろう。その前に、口止めしなければならない。有耶無耶のうちに関係を絶てば、どこでどう我森の身に災いが降ってくるか知れない。しっかりと、お互いに確認し合って、全てのことを整理しなければ、後々面倒なことになる。シャワーを浴びながら、我森は交渉の順序をシュミレーションしていた。
 シャワーから出た我森をベットに寝かせ、綿貫は、首をしめた。真っ赤になっていく我森の顔。もっと強く、もっと強く。このまま殺してしまおうかと思った寸前、ふと我に返った綿貫は、手を離した。首を絞められても、抵抗しない我森。我森には分かっているのだ。この男に人は殺せない。綿貫は、用意した注射器を我森の口の中に入れる。睡眠薬の量は、通常の倍以上にした。その注射器を飲み込んでいく我森。綿貫の手が震えている。それを感じ取った我森が、慌てて注射器を口から吐き出しが、遅かった。にらみつける我森。綿貫は、まだ震えている。
「すまん、すまん、すまん。頼む、お願いだ。お願いだから、消えてくれ。もう、苦しめないでくれ」
 綿貫は涙声だった。その声が、段々遠くなってゆき、我森は眠ってしまった。
 完全に眠った我森。綿貫は、用意してきた大きなバックに我森を詰め、台車で駐車場までポーターに運ばせた。心臓が飛び出るほどのドキドキした鼓動。毎回スイートルームに泊まる綿貫はホテルにとってはVIPだ。少々の「おかしな点」には、目をつぶってくれるはずだ。綿貫は、我森を入れたバックをトランクに乗せ、とにかく人気の無い所へ車を走らせた。ぶるぶると震える手。我森はもう、眠りから覚めないかも知れない。いや、もし覚めれば、我森がどんな反逆に出るか分からない。最後、注射器を吐き出してから、カッと睨んだあの顔。あれは、決して自分を許さない顔だ。とにかく、もう、殺すしかない。
 この日、都内でも積雪のあった、寒い夜だった。綿貫は、人気のない山道で車を止め、トランクから我森を取り出した。そして、枯れ木ばかりが林立する山の中へ、我森を捨てた。死んだだろう。いや、もしかすると、すでに死んでいたかも知れない。いつか、バックが発見されて、死体が見つかったとき、ホテルだ。ホテルの従業員は、自分と我森が一緒だった所を見ている可能性が高い。どうしよう、何とか口封じをしなければ。そんな風に考えながら、家路を急いだ。これ以上、朝帰りをすると、母親はもう許さないだろう。とにかく、後のことはゆっくり考えよう。綿貫が家に戻ったのは、もう深夜だった。家族は誰一人として、起きておらず、綿貫を待つ者は、一人もいなかった。
 それから数日間。いつ我森の死体が発見されるかと、ドキドキしながら過ごした。しかし、そんなニュースはなかった。
ホテルに電話をして、警察から何か連絡があったか、かなり不自然だったが問い合わせてみたりもした。特になかったという。いつ、来る。俺は、どうなる。緊張の糸が張り詰めたまま、綿貫は暮らしていた。会社にいても、家にいても、どこかキョロキョロしてしまうような毎日。
 関西出張の話が出て、それを断ったはずが、手違いで先方に伝わっておらず、綿貫は滋賀県へ出張することになった。出張中、何か動きがあったらどうしようか。留守中に警察が家に来て、母親に色々と聞いたら、どうなるんだろう。とにかく、家を空けるなら最小限にしなければ。一泊の予定で出かけた出張も、交渉がなかなかまとまらず、三日目となった朝。綿貫は、テレビで我森逮捕のニュースを見たのだった。

 死んだ、と思い込んでいた我森が生きていた。
しかも、どこかで殺人を犯し、捕まったのだ。証拠写真があるのか。いや、考えてみれば、あんな写真、いくらでも合成できる。殺人犯の差し出した証拠写真など、合成だと言えばそれで済むだろう。目の前に広がる琵琶湖が、今朝はきれいだった。こんなちっぽけな簡易の食事スペースからの、贅沢な眺めだ。なかなか折り合えなかった交渉も、今日には決着するように思えた。綿貫は、とにかく、早く済まして、帰りたかった。

 乾(いぬい)武男は、商店街の電気屋のテレビで、何度も映し出される我森の姿を見ていた。ただただ、可哀想な子だと思った。周りがどんどん勝手に、我森を造り上げていった。そのイメージに、この子はまた、合わそうとしてしまうのだろう。死ぬことも許されずにるのかと思うと、知らないうちに、乾の頬には涙が伝っていた。



乾の我森プレイ


 乾には、あの無味無臭な我森の笑い顔が忘れられない。そして、渇き切ったあの声が、頭から離れない。言葉にならない自分の感情の中に、押さえ込むことのできない残像が浮かぶ。なぜだか、ズキズキ痛む奥歯をそっとなめてみる。
 東京を離れ、有り金すべてをはたいて、ここまで来た。山梨県、大月。東京に比べると、「生活」し辛い点の方が多いが、東京へ戻ろうとは思っていない。昨日から、商店街の電気屋のテレビでは、繰り返し我森のニュースを伝えていた。あの橋の上から真っ逆さまに落ち、その後、どういう経緯で殺人犯となったのか。「コーラとポッキー」。また、乾の頭に我森の声が響いた。

 あの日、乾は空腹だった。
 前の晩、空き缶が思うように集まらず、雑誌も売れなかった。すごく寒い夜で、いつものように、ワンカップ酒を一気に飲み干すこともできなかった。だから、頭ばかりが冴えて、眠れなかった。明け方になり、限界を感じた乾は、まだ人通りの少ない明け方のコンビニへ入った。店員は奥の部屋にいる。カメラもない。完全なる死角。素早くつまみ菓子の袋を上着の中に隠した。そして、何食わぬ顔で、店を出た。
 万引き。この五年、仕事を辞め、家も捨て、路上で生活を始めてから覚えたことだった。自分に言い訳をする訳ではないが、あまりやっていない。どうしても耐えきれないとき、そういうときだけだ。コンビニを出て、トボトボ歩き、ジャケットの内側で袋の擦れる音がする。やっと食べられる。もうすぐ駅も開く。そしたら、これを食べられる。乾は、それを想像するだけで幸せな気分になった。
「いぬいさ〜ん」
 後ろから、誰かが呼んでいる気がしたが、きっと気のせいだ。こんな都会のど真ん中で、自分を知っている者など一人も居ない。それに、「乾」なんて名前は、とっくの昔に捨てた。最近、よく小さい頃の夢を見る。路面電車が走り、それを追いかけて遊んでいた頃。父も母も優しかった。貧しかったが、楽しかった。
「ちょっと、ちょっと。いぬいさんって、お〜い」
長男として生まれ、幼い弟と妹が、八人もいた。自分がしっかりしなければいけない。病気がちの母、厳格な父。暑くても、寒くても、それは口に出さなければ我慢できる。口に出してしまうから、本当のことになるだけだ。
「やっぱり、そうだ」
 若者が、突然、目の前に回り込んできて、肩を揺すった。うつむいていた乾は、驚いて顔を上げた。伸びきった髪が、ガサッと揺れ、嫌な臭いがした。
「だいぶ印象が変わっちゃったけど、う〜ん。けど、やっぱ乾さんだ。ね、そうでしょ」
 最近、視力がだいぶ落ちている。焦点がなかなか合わない。目の前の若者が、いったい誰なのか。なぜ、自分のことを知っているのか。
「おれ、おれ。忘れたかなぁ。神崎小学校に通ってた、我森ですよ」
 乾は、大袈裟に首を傾げて、そのまま無視して、歩き続けた。
「あれ? 違うのかな。ま、いいか。おい、おっさん、こら、ちょっと待てって」
 我森が再び追いつき、乾の肩を掴んだ。
「それ、俺にも一個ちょうだいよ」
 我森は、乾の上着の内側を指している。乾は、我森の顔を凝視した。
「俺さぁ、見ちゃったんだよね。おっさんがそれ、パクるとこ。しかも、それ、俺もめっちゃ好きなんだよね」
「言え」
 か細い声で、乾が言った。
「は?」
「警察にでも何でも、言え」
「まぁまぁ。落ち着いてよ。誰にも言わないからさ。それにあれだよ、もし言っちゃったら、結構、面倒臭いことになると思うよ」
 乾は、我森のことを思い出した。彼がまだ、公立の小学校で用務員として働いていたとき、よく用務員室に遊びに来ていた子供だ。毎年、なつく子供はいたが、我森はその中でも特別だった。いろんな遊びも教えてやった。悪戯ばかりするから、叱ったことも一度や二度じゃない。あの、まだまだ子供だった我森が、こんなに大きくなったのか。
「じゃ、これ全部やるから、どっか行け」
 乾は、さっき万引きしてきたつまみ菓子の袋を我森に渡した。
「いいよ、いいよ。大事な朝食なんでしょ。俺は、一個だけもらったら十分だから」
 袋をあけた我森は、一串だけ取って、あとは乾に返した。
「しっかし、すごいね。ありゃ、プロのシゴトだね。見事だったもん。たまたま俺の位置からは見えたけど、絶対、店員は気付いてないよ」
 乾は、歩き続けた。悔しくて、恥ずかしかった。袋を握る手に、力が入る。かつて、色々と教えてやった子供に、こんな所を見られるとは。誰にも会わないで済むように、全部捨てて、この街に来たのに。こんな所で出会うとは。我森は、乾の横を歩き続けた。
「なんか、こう、バーンって感じだね、乾さん。弾けた、ってやつ?」
 乾は無視して歩いた。眠らない街・新宿も、明け方の数時間だけは、静かになる。まだ明け切らない西新宿の路地。乾の心は、激しく波打っていた。こんな感情は、ここ数年間、一度もなかった。もう、何を見ても平気だと思っていた。どんな目にあっても、静かに受け入れられると思っていた。なのに、こんなところで、自分の昔を知る、それも生徒と出会うとは。よりにもよって、万引き現場を見られるとは。また、悔しくて、情けなくて、乾はやりきれない思いだった。
「あ、乾さん。これ、よかったら、使ってくださいよ」
 我森が一万円札を束にして差し出した。乾の足が止まる。その札を凝視してしまった。そして、乾の手は、勝手にその札を掴んでいた。掴んで数えると十枚あった。十万円もの大金。乾は我森を見た。見られた我森は、にっこりと笑った。こいつの家は確か、貧しかったはずだ。学校のほとんどの者は、詳しく知らなかったかも知れないが、乾は知っている。放課後、夜になってもご飯がないからと、用務員室にきて、乾のお茶漬けの素で茶碗2杯分掻き込んでいたこともある。両親がなく、養父母もかなり歳をとっていたはずだ。我森の容姿や風貌から、貧しさは微塵も感じなかったが、瞳の奥の訴えるような眼差しは、まだ日本が貧しかった時代、乾が幼い頃によく見た瞳だった。その我森が、まだ二十歳そこそこの若造が、なんでこんな大金を持っているんだ。そして、それをなんで簡単にくれようとするんだ。乾は、札束を突き返した。そこまで、落ちぶれてはいない。ギリギリの意地だった。
「じゃさ、これ、さっきのお菓子の分。俺は、ちゃんと、お金を払うからね」
 イヒヒと笑いながら、一万円札を乾のぼろぼろのジャケットに突っ込んで、走り去った。
絶望のどん底に突き落とされた気分だった。これなら、空腹のまま、寒さの中で死んだ方がましだ。これまでの人生、決して裕福ではなかったが、人として守るべきものは、踏み外さなかった。それなのに。
 乾は、教師を三十年務めた。学校の方針についていけず、あからさまに干されるようになって教師を辞めた。その後も、かつての教え子が救ってくれた。その教え子が教員を務める学校で、用務員としての働き口を世話してもらったのだ。用務員は、足かけ十年勤め上げた。結婚もせず、両親もとっくに他界している。孤独。そんな自分が選んだ路上生活だ。誰の世話にもなりたくない、誰とももめたくない。持ちつ持たれつの関係の輪から飛び出したのは、自分自身だ。そのとき、覚悟を決めたはずだ。
 我森が突っ込んだ一万円札。怒りと寒さと空腹と一万円。ワンカップ酒が、頭の中をグルグル巡った。ようやく、街が明け始めた。都市バスも走り出した。タクシーの数も減ってきた。大通りに出ると、サラリーマンの姿も、ちらほらと見られるようになってきた。乾は、ポケットの中の一万円札を親指と人差し指で何度かこすった。ここに、金がある。だが、この金は絶対に使わない。あのコンビニに戻って、この金でさっきのつまみ菓子代を支払おうかとも思ったが、そんなことは何にもならない。握りしめた、つまみ菓子の袋を、乾は捨てた。
 空き缶を集め、週刊誌を拾い、縄張りを侵さないようにルールに従って、路上生活をする。乾は、我森に出会ってからも、そんな生活を続けていた。しかし、ポケットに入っている一万円。「収穫」の少ない寒い夜は、酒が欲しくなった。コンビニに行く。店員を見る。チャンスはある。が、もう万引きはしない。万引きをしなくても買えるのだ。金なら、ある。だけど使えない。二度、三度、乾はコンビの店内でそんな葛藤と戦った。
 四度目、乾はワンカップ酒の瓶と、つまみを買った。我森からの一万円を使ってしまった。一万円が数枚の千円札と玉に変わると、それからははやかった。あっという間に一万円を使い切ってしまった。金をなくし、元に戻っただけなのに、乾は、あのときの十万円の束を思い浮かべてしまう。自分でも情けないと思った。
 かつて、まだ教壇に立っていた三十代の乾は、駄目なものは駄目だ、と相手を構わず主張する男だった。バトミントン部の顧問であった彼は、全国大会へに連れて行った選手も一人や二人ではない。生徒から信頼され、いざと言うときに頼られる教師だった。学校という組織と対立し、見えない「数」の力で徐々に隅に追いやられ、土俵際で踏ん張ったが、押し倒された。その結果が今であるなら、あのときの生き方を変えるか。寒い夜、段ボールにくるまりながら、考えることもあったが、乾の出す答えはノーだった。
 自分でもよく分からない。何もかも失い、路上で生活をすることは出来るのだが、何もかも失うからといって、自分の主張を曲げることは出来ないだろうと思う。爪の間の黒い垢、邪魔になるばかりの髪と髭。ツンと鼻をつく体臭。頭に浮かぶのが、二十歳そこそこの若造が差し出した十万円だという未来が来るというのにだ。
 寒い夜になる。考える。そして思い出してしまう、札束。また、我森とばったり出くわさないだろうかと思うようにもなる。我森は、明け方の決まった時間に、新宿にいた。そんな早朝に、何をやっているのかは分からないが、乾は、いつの間にか我森に会いに行くようになっていた。
 我森は、路上生活者になった乾に、何も聞かなかった。乾と再会したときも「あ〜。やっぱり来た。俺に会いにきたんでしょ」と、にっこり笑っていた。
「なんか、このあいだはすいませんでした。不躾に札束なんか、ちらつかせちゃって。どうですか、仕事しませんか?」
 のこのこやって来て、我森を見つけたとき、乾は正直「やった」と思ってしまった。そんな自分が、すごく恥ずかしいと思いながらも。
「簡単ですよ。えっと、そうですね。ポッキー。分かります? 味は、いちごのやつ。それ、取ってきてください。そしたら、また一万あげますよ。どうですか。ただでもらうよりいいでしょ?」
 あの頃から、我森は変わった子だった。生徒の間で見せる顔も、教師達に見せる顔も、全部つくりものだと乾は気付いていた。人の心の中を必死にのぞき込んで、相手が一番求める自分を造っていく。それをこの子は、すごく自然にやってのけるのだ。それが、教師生活の長かった乾が見抜いた、我森の本性だった。そんな彼が、万引きをしてこい、と言う。お金が欲しいならあげる、しかも、あげる理由もちゃんとつけて。乾は、黙ったまま、ガードレールに腰掛けた我森を見ていた。
「あ、俺、始発で帰るんで、やるならあと三十分もないですよ。俺は、どっちでもいいんで。これ以上、罪を重ねたくなかったら、やめておいた方がいいと思いますけど」
 また、イヒヒと、笑う。乾は、その顔を見ると虫唾が走る。
「あ〜、ありがとうございます。さすがに仕事がはやいですね」
 ポッキーの箱を開けながら、我森が言った。
「乾さんも、食べます?」
 乾は何も応えず、ただ横に立っていた。頭の中で情けなさが飽和し、爆発しそうだった。
「あ、そうか、そうか。じゃ、これ。はい」
 我森が一万円札を乾に渡した。それを受け取って、乾は走るように去っていった。イヒヒ。またあの顔で我森が笑っているように思ったが、振り返らなかった。
 ヘアワックス、週刊誌、プリン、ポテロング、コーラ。我森の要求するものを買いに行き、対価として一万円をもらう。何度か、同じ事を繰り返すうちに、乾は、我森から得た金で要求物を購入するようになる。それにうすうす気づいた我森は、「乾さん、言っときますけど、ルール違反はだめですよ。今回は、まぁ、いいですけど。俺は、買ってこいって言ってるんじゃなくて、取ってこいって言ってるんですからね」と、あの笑い顔で言うのだった。我森の要求は、どんどんエスカレートしていった。
「乾さん、あそこのサラリーマン。ほら、ベンチで寝てるやつ。あいつの財布とってきてくださいよ」
 暖かくなると、そんな「シゴト」も増えた。財布を奪い、IDを眺めては「へぇ〜、あのおっさん、こんないいとこに務めてて、しかも部長なんだってさ」と、無邪気に笑ったりもするのだった。
 乾もまた、我森から得るお金が当たり前のようになっていった。その金で、仲間を集めて河原で宴会をしたり、カプセルホテルに泊まることもあった。乾の金を目当てにし始めた仲間たち。一週間に一度は、シャワーを浴びないと気持ち悪くてしようがない身体になった乾。これを最後にしようと思って我森に会いに行くが、乾の周りも、身体の痒みも、それを許してはくれなかった。我森といると、悪いことの限界ラインがあやふやになるような気もした。あの無邪気な顔で笑われると、それは「悪戯」の範囲ですまされるんじゃないかとも思えてしまうのだ。還暦を迎えた乾でさえ、そう思ってしまう不思議な力が我森にはあった。
 冬から始まった我森との関係が、春を過ぎても続いていた。乾は、いつものようにコーラとポッキーを我森に渡した。それを食べながら、我森は始発までの時間、ガードレールに腰掛けて、欠伸をするように話し続けた。横に突っ立っている乾。すっかり明るくなった朝の街。
「俺さぁ」
 遠く昔の、我森がまだ弱かった頃の話。
「乾さんが言ってくれた言葉で、すっげー覚えてることがあるんですよ。今は、ワシが助けてやれるから、助けてやる。でもいつか、おまえさんがワシを助けてくれるかもしれん。そのときは、一つ、頼むよ、ってね。あんときのお茶漬け、すっげー助かったんですよね」
 我森の言葉が、乾の胸をズサズサと突き刺していく。
「だって周りの奴らになんて、言えないもん。うちは貧乏で、じいちゃんもばあちゃんも俺なんて育ててる場合じゃないなんてさ。我森くんは格好いい! とか、みんなバカみたいに言ってるし、近所に住んでた奴は、いっつも金魚の糞みたにつきまとうし。でもさぁ、なんか乾さんは、何も言わなくても、分かってくれてたっていうか。まぁ、うまく言えないけど、安心してたんですよ、側にいると」
 乾は、我森の言葉を聞いてやりきれなくなった。あの頃の自分が、まだ小学生の子供に影響を与えていたのか。
「言えば、よかったんですよね。ぜんぶ正直にいっちゃえば、今みたいに、ならなくて済んだのかもな。あ〜あ、戻りたいなぁ、あんときに」
 我森はポケットから携帯電話を取り出し、何も言わずに駅へ入っていった。始発電車の時間は過ぎていた。
 正直、乾は用務員の職に就いた時点で、社会の全てを諦めていた。教師の職を離れ、もう誰かの前に立つ気力を失っていた。組織という所に押しつぶされた自分の五十代は、もうなるようにしかならないと思っていた。お茶漬けを食べさせてやる。それも、本当の事を言ってしまえば、優しさでも何でもなかった。ただ、あの瞳を前に「これ以上、深入りすると、面倒なことになる」と思ってしまったのだ。だから、さっさと片付けたかっただけだ。そんな自分の行動を、我森は、あんな風に思っていたのか。そして今、彼なりのお返しをしてくれているのだろうか。
 イヒヒと笑う我森の顔が浮かび、小学生だった彼の顔に変わり、いつの間にか、目も鼻も口もないのっぺらぼうになって消えた。朝から、陽射しの強い日だった。
 乾は、目をさました。何をやっているんだ、と頬を打った。ここまで落ちてしまった今の自分に、改めて愕然とした。もう本当に、終わりにしよう。我森に会わなければ、金は手に入らない。この街にいると、その金目当ての仲間に顔が合わせられない。ならば、街を離れよう。乾はそう思った。手持ちの金の中から、交通費だけを残し、残りを全て仲間に分け与えた。合計で、二十一万九千円になっていた。
 再び金蔓を失った乾は、電車に乗って錦糸町まで行き、その界隈で路上生活を始めた。春も終わり、夏、秋、冬と、食うか食わずの生活だった。しかし、我森からの金を手にするときの、言葉に表せないやりきれなさ。それがない分、潔く我慢することができた。毎日のように、路上生活へと成り下がる者がいた。その数は、増え続けていくようにも思えた。サラリーマン、肉体労働者、外国人、女性、中学生にいたるまで。この国はいったいどうしてしまったんだと、乾も心配になるほどだった。特に、若者が多いようにも思えた。会社という組織が嫌になり、自由を求めて路上生活に落ち、今度はそこのルールに縛られる。そんなちぐはぐな現実だ。もうここから逃げ出す先はない。最後の砦で、ギリギリの自分を試すかのように、彼らは路上生活を送った。
 負けて、逃げ出して、なおも戦わなければならない。それを目の当たりにすると、乾は「若者よ、働け」と、勝手ながら言いたくもなるのだった。まだまだ時間はあるだろう、と。その時間の中で、大逆転の可能性は、十分に残されているだろうと。しかし、時間のあるなしに関わらず、それ相応の理由があって、みんな路上へ来たのだ。他人なんて勝手だ。それは分かっている。分かってはいるが、乾もまた、そんな勝手な一人となって、家出中の女子中学生を説教してしまうのだった。
 去年の夏は猛暑だった。台風が何度も来て、洪水もあった。荒川では、何人かの路上生活者が流された。それがあってから、余計に「住み」辛くもなった。暑いと思えば、暑い。生暖かくても、風を感じることだけに集中すれば、熱を冷ましてくれる。乾の体力は、急激に低下していた。動かず、じっとしていれば、収入がなくなる。早朝のうちに集められるだけの空き缶を集め、それを換金する。最近は、グラム単価も落ちてきた。
 捨てたはずの乾の中の、乾という人間。我森と出会ってから、それを取り戻しつつあったので、彼は絶えず苦しんでいた。気持ちだけが、かつての自分を取り戻しても、状況は何も変わらないのだ。髪も、髭も、爪の間の垢も、ぼろぼろの服装も。かき集めた小銭をレジ台に並べ、嫌そうな顔をする店員に、肉まんを注文をする。お客様に対する態度として、なっていないと憤慨しては、「お客として、なっていないのか」と思い止まる。そんなときは、より強く「現状」を憂えてしまうのだ。もう一度、人生を一からやり直してみようか。あの頃のように、家を借りて、暖かい屋根の下で暮らす生活に戻ろうか。戻りたいなとは思うが、出来ない。もう、出来ない。乾は、年末特有の忙しなさの中、街を徘徊しながらため息をつくのだった。
 年も明け、寒さが増した。特に、この冬は都内でも積雪が多かった。雪が降り始めるまでの間、その数時間が一番辛い。身を切り、気持ちを縮こまらせ、動きを止めてしまう。そんな寒さに耐えながらも、いつものルートで空き缶を集め、雑誌を売り歩いていた。
 我森を見たのも、そんな寒い日の夜だった。屋根や歩道橋の上には、真っ白い雪が積もっていた。乾は、夜に眠ることは出来ない。昼の間、屋根のある場所で睡眠を取り、夜はただひたすらに耐えるという生活を送っていた。何時かは分からないが、真夜中だった。二車線道路の反対側、歩いている我森の姿が目に入った。点滅信号の横断歩道。我森は、一度も立ち止まらず、右肘を押さえたまま渡ってきた。乾は、脳の命令よりも先に、足が、我森の方へと勝手に進んでいった。彼は、怪我をしているようだった。服はびしょ濡れだった。髪の毛も濡れていた。そして泥まみれだった。敗れた兵士。我森はそのとき、自分の体験したことを口に出すのもはばかれるほどに、心身に深い傷を負った兵士のようだった。
「我森、くん」
 乾は、前からうつむいたまま、トボトボ歩いてくる我森に声をかけた。横断歩道の真ん中だった。顔をゆっくりあげた我森は、「ああ」と呟くように、右肘を押さえていた左手を小さく挙げた。
「どうしたんだ?」
 乾は小走りで近づき、支えようとした。用務員室へ飛び込んできて、転んだから絆創膏を貸してくれと言っていた我森。保健室へ行けと行っても、あそこは変な臭いがするから嫌だと言っていた我森。抱きかかえるように椅子に座らせ、すりむいた膝に唾を塗ってやった、あのときの二人。乾が近づき、仰ぎ見るように肩を支えると、我森は、全体重を乾に預けてきた。身長差は、今や十センチではきかない。我森の大きな身体を支えきれず、二人は横断歩道の真ん中で倒れ込んだ。
「おい、おい。しっかりしないか」
 乾の声は、我森に届いていない。眠るように目を閉じ、全ての動きを止めているかのようだった。その顔を抱え上げ、自分の膝の上にのせ、何度か頬を叩いてみた。ひどく寒い日だった。車が一台、クラクションを大きく響かせながら、通り過ぎていった。
「おい。おい。」
 何度も呼びかけるが、我森は動かなかった。仕方なく、乾は全身の力をこめて我森を背中に負ぶった。我森の足は地面についている。引きずるように、二人は歩道へ移動した。誰もいないバス停。屋根は一応あるが、ベンチにもうっすらと雪が積もっていた。乾は、雪を払いのけ、そこに我森を座らせた。小さく、呼吸をしている。そして、大きな身体を丸めて、寒そうにしている。
 乾は、いつも引いているキャリーバックの中から、布製のものを全て引っ張り出した。それらを我森にかけてやった。その上から、自分の着ていたコートもかけた。「ありがとう」。小さな声でつぶやいた我森は、まだ目をあけない。目を閉じ、縮こまる我森。それを見て、乾は「いったい、この子は、どんな暮らしをしているんだろう」と思った。西新宿で出会ったあの日から、この子は猛スピードで生きているような気がする。まだ、あどけなさの残る顔なのに、こんなに若いというのに。乾は、我森を眺めながら、漠然とした悲しみを感じた。
 ズボンの内側にくくりつけている小袋から、乾は小銭を取り出した。十円玉と百円玉。背後にあった自動販売機で、乾はホットの缶コーヒーを買った。それを我森の頬へつけた。ピクッと反応した我森が、やっと目を開け、ありがとう、と言った。
「ワシは、行くぞ。大丈夫か?」
 小さく頷いた我森が、慌ててコートを取り、乾に返そうとする。ゴミ箱から拾い集めたバスタオルやフリースも、一枚一枚畳んで、乾のバックの中へ戻していく。「いいよ、いいよ。寒いから、着て帰りなさい」。乾がそう言っても、我森はバックの中へ全てを返し、そして、真っ直ぐ立ったかと思うと、深々と頭を下げた。頭を下げたまま、我森はしばらく動かなかった。乾は、そんな我森の背中をニ、三度叩いて、キャリーバックを引いて歩いていった。
 我森は泣いていた。乾は、それを見て見ぬふりをしていた。ぼろぼろになって、負けた兵士。あの子は、いったい何と戦っているんだろう。そう思いながら、乾は歩き続けた。
 我森が乾に会いに来たのは、その雪の夜の翌週だった。一週間しか経っていないのに、深夜のバス停で眺めた顔とはまるで違った。とても華やかだった。しかし、乾には、それがツクリモノだということが分かっていた。
「こないだは、ありがとうございました」
 我森は、右手にスーパーの袋を提げていた。その中には、弁当と缶コーヒーと、カイロが入っていた。しゃがみ込んだ我森が、一つひとつ取り出して「こういうの、いりますよね?」と乾に差し出す。あのときの、つまみ菓子も二袋入っていた。
「礼のつもりか?」
「まあ、はい」
「なら、いらん。別に礼は必要ない」
 イヒヒと笑う我森の顔が、乾には忘れられない。その我森の横で、金をもらっていた虫唾が走るような自分も、忘れられない。
「やっぱり、金ですか?」
 我森が見上げながら言った。笑っている、ように乾には思えた。
「なら、百二十円」
 乾が我森を見下ろしながら言う。
「え?」
「そんなに、この間のことをなかったことにしたいなら、コーヒー代だけ払え。それで全部チャラだ」
 ポケットに手を突っ込む我森。百二十円を取り出して乾に渡した。それを受け取ると、乾はさっさと歩き去っていった。背後でシャカシャカと音がする。我森は、取り出した弁当やカイロを袋に詰めていた。そして、乾の後を追ってきた。何も言わず、乾の二メートルほど後ろを歩く我森。乾は、いつもの寝床へと向かっていた。本来なら、もうとっくに眠っている時間だ。午後の、この数時間だけが、静かに眠れる。夕方のラッシュになれば、落ち着いて眠ることが出来ない公共の場所。そこで、眠りに落ちる現状の自分。やっぱり金なのかと思われてしまう自分自身。
 乾はイライラしていた。弱いところを見せたくなくて、強がりで自分をツクってきた我森が、わざわざ会いに来たのは分かる。あの頃と変わっていない。同じクラスの誰かが欠席すれば、給食で余ったプリンをこっそり持ち出し、用務員室まで持ってきた我森。「これ、この間の、お茶漬けのお礼です」と無邪気に見える顔で笑っていた。この子は、何かをされたら、同等の何かで返そうとする。ただ無条件に、何かを与えられることを知らない。それは、この子の強みでもあり、決定的な弱点でもある。乾は、あの頃もそんな風に思っていたのだ。後ろをついてくる我森が、あの子供だった頃の顔と重なってくる。
「生きてきて、楽しかったですか?」
 背後で、我森が尋ねるでもなく、まるで独り言のようにつぶやいた。
 この時間帯は、人通りも車もあるの上。川幅の広い川が、寒そうに流れていた。
「この先、ずっと生き続けて、なんか楽しいのかな」
 乾は足を止め振り返った。慌てて、我森も立ち止まった。
「楽しいときも、そうでないときもある。これまでだって、そうだっただろ?」
 乾は、口に出した自分の言葉を頭の中で繰り返し、「楽しい」と言ってやれないことを悔やんだ。悔やんだが、それが現実だとも思った。過ぎてしまえばあっという間の六十年だったが、色々あった。絶望の淵に立って、このまま続く「人生」に押しつぶされそうになったことも一度や二度ではない。そんなときに見る「先」が、とてつもなく巨大で、想像も及ばず、足はすくみ、もう楽になってしまいと思う気持ちも分かる。
 あの日、深夜のバス停で見た我森の顔は、巨大な「これから」に押しつぶされているようだった。だからといって、乾にはどうすることも出来ない。今更、もう、我森にのために何も出来ない。自分はただ、一人で、潔く、全てを捨てたのだ。そして、残りの限られた時間をやり過ごしていくしかないのだ。
「自信ないな、俺。体力もたないよ」
 力なく、我森がまたつぶやいた。橋の欄干にもたれながら、空を仰いでいた。
「俺、二十一で、もうすぐ二になるけど、これまで生きてきた三倍でしょ。六十まで、まだ四十年近くあるんですよ。無理だなあ。疲れちゃいましたよ」
 乾は、自分が二十一のときのことを考えていた。教職に就く。それだけを考えていた。そのために、毎日を費やしていた。迷いは、なかった。その頃の自分が、もし、我森のように迷ってしまうと、答えはきっと見つけにくいだろうな、とも思った。選択肢が多すぎるのだ。これから先が長い分、それが長すぎて漠然としている分、一度立ち止まって迷うと、抜け出すのは難しい。
「結婚しろ」
 欄干に腰掛けて、足をブラブラさせる我森に向かって、乾が言うと、
「結婚?」
 我森の声は裏返り、その後で彼は笑った。
「ない、ない、ない。俺、好きになられることはあっても、好きになれないですもん」
 カラカラ吹く風にのって、我森の言葉が乾を通り過ぎていく。
 結婚せずに、独りで生きてきた自分の人生を乾は思う。あのとき、自分がもし結婚していたら、どうだっただろう。その方が幸せだったのだろうか。それは、どちらを選択しても同じことだ。だけど、独りの今、誰かと一緒だったらと仮定すると、やはり、結婚すればよかったな、と思うことの方が多い。
 乾は三十歳のとき、結婚の式場まで抑え、あとは式を待つだけという女性がいた。学生の頃から付き合い、ほぼ十年の交際を経ての決断だった。父も母もなくなり、家族の大黒柱のようになっていた乾は、弟や妹の結婚の方を優先させた。当時の彼女は、それをじっと待ってくれた。そんな彼女との将来は、想像通りにはいかなかった。乾の知らない間に、式場はキャンセルされ、彼女は突然連絡を絶ち、そして、完全にいなくなった。在日韓国人。まだまだそんな差別的な目があった時代のことだ。別に、それまで隠していた訳ではない。かといって、進んで言った訳でもない。いや、一度も言ったことはなかった。そんな会話にすらならなかったからだ。「娘のわがままです。今回の結婚は白紙にさせてください。こんな勝手をお許しください」。彼女の母親から手紙が来た。その手紙を持って彼女の家に行ったが、会えなかった。彼女が出した答えに、乾は諦めきれないものを持ったまま、今まで生きてきたのかも知れない。彼は、全力で、彼女を愛していたからだ。
「まだ、出会ってないだけだろ」
 乾は言った。我森は、まだ空を見ていた。
「誰かのために、自分の力を使え。誰かと一緒にいたら、もちろん支えにもなってくれるが、何より、理由になるんだよ」
 乾は、我森に向けて話ながら、あの日、自分が学校を去ったことを思い返していた。
「何かに自分が納得いかなかったとき、何かに強く疑問がわいて、その回答を渋々受け入れなくてはならないとき。そんなときに、飛び出してしまわないための理由に、家族はなってくれるはずだ」
 乾の言葉は、我森には届かない。それは、乾が一番よく分かっていた。二十一歳の若者に、ひとりで造り上げてきたこの子の人生に、誰かは、必要ない。その誰かと手を取り合っていく術を、これまで一度も教わっていないのだ。
「よくわかんないですけど、俺みたいな人間は、子供とかつくっちゃいけないんですよ」
「終わりに、したいのか?」
 乾の言葉に、我森が反応した。ブラブラさせた足を止め、乾を見つめた。
「終わらせて、くれますか?」
 乾は近づき、我森に手を差し出した。
その手で、この橋から突き落とすことも、手を取って「こちら」に戻すこともできる。しかし、どちらにしても、我森は我森の「先」を自分で、歩まなければならない。
「落としてください、ここから」
 我森の顔には、色も形も、影も温度もなかった。
「この手をとって、こちらに来るのも、このまま落ちていくのも、みんな、おまえさん次第だよ」
 その瞬間、我森は笑っていなかった。スーッと身体を反らせ、真っ逆さまに、落ちていった。
 乾は目を閉じていた。自分の中にあった、一番醜い姿が、我森と一緒に落ちていくようにも思えた。ぽしゃん。それは、まるで小石を投げ入れたかのような、とても小さい音だった。橋の高さ、そして極寒の冬。我森が「これから」の前で立ち止まり、それを拒否して落ちていったことを、乾は一つの答えとして受け止めた。我森が落ちていく。その様子を周りにいた数人の通行人が見ていた。周りに人が居たことに気づいた乾の、その差し出された右手は、硬直したように動かなかった。「警察〜、だれか警察呼んで〜」。ベビーカーを引いた若い女性が、金切り声で叫んだ。その声に驚いた乾は、全速力でその橋を渡り、そして、とにかく遠くへと走った。

 それから乾は、宛てもなく走り、中央線に乗って、ここ大月にたどり着いた。それからは、我森のことを思い出すよりも、まずは「生活」することで精一杯だった。
 都会に比べると、ここには、何処へ行っても何もなかった。あったとしても、何処に何があるか、分からなかった。テリトリーや暗黙のルールのようなものが、存在するのか否か。そして何より、どうやってお金を作り出せば良いのか。とにかく、これまで簡単に手に入った「情報」が、ここには欠如していた。二日、三日とさまよい、もう、どうにもならないと諦めるようになってから、乾は、我森のことを考えるようになった。
 あのとき、橋の上から落下することを選んだ我森の、まだ二十歳そこそこの人生を思う。もう、自分もここで終わろうか。乾はそんなことを思い始めていた。リセットボタンを押しても、コンピューターが壊れて、強制終了すら出来ない人生。用務員として働いていた晩年、乾はコンピューターで備品管理や戸締まりをしていた。しかし、不慣れな分、よく強制終了させていた。我森が終わらせたいと思っていたこれからの四十年。強制終了できず、ただ固まったまま動かない、コンピューターの画面。

 電気屋の二台並んだテレビ。隣のテレビでまた、裸の我森の写真が映し出されていた。これから、自分には何年残っているのだろう。乾は、ぼんやりと考えた。我森が恐れたほど、この先は莫大ではない。「まだ、いける」。乾は声に出して言ってみた。口に出してしまえば本当になる。そして、商店街を抜け、少し離れた所にある寺の境内へと入っていった。
 昨日、その寺の住職が、乾に持ちかけた話の返事をするためだった。ボランティアだが、動けなくなった一人暮らしのご老人の身の回りのお世話をしてくれないか。ささやかながら、食事はその寺から提供されるといっていた。もし希望すれば、住職の家の空いている部屋で寝てもらってもかまわないという好条件だった。着るものは、なんとかある。そこに寝るところと食事付きの話だ。乾は、自分の体が動くことに感謝した。「私なんかに、出来ますかね?」と、乾は聞いたが、その住職は「わかりません」と言ったきりだった。なぜ、私に声をかけてくれたのかを訊ねると、他にも何人か、同じようにお願いしている人がいると、住職は言っていた。
 境内には、梅かと見間違うほど早く咲く、桜の木があった。「春に咲く、新しい何か」。乾はまた、声に出して言ってみる。おかしな時期に、狂い咲いたところで、かまわないじゃないか。六十になる。今のところ、何も無い。ゼロからのスタートだ。狂い咲きの桜の後ろを春が追いかけてくるイメージ。乾は、明日から、ある老人の身の回りの世話をすることにした。

 身柄を拘束された我森は、夜明けすぐ、香川から東京へと移送された。
 あの時、誰もいないはずの露天風呂で、フラッシュが光った。つまりは、辺りに張り込んでいた記者かカメラマンがいたということになる。秋山は、ずっとそれを考えていた。露天風呂という、外の目をシャットアウトした場所で、なぜ狙えたのか。どうも引っかかった。ネタになるものを敏感に盗み取って、骨の髄までしゃぶりとる連中。長年、刑事なんて仕事をしてくると、嫌と言うほど見てきた。そんな奴らの嗅覚に、我森がはまってしまったのか。
 秋山は、あの現場に居た二人の若い刑事の一人、今、助手席に座る大介を見た。ちょうど一通りのことを覚えた気になって、舞い上がる年頃だ。二十七歳。一度突っ走ったら、止めるのは難しい。また勢い余って、隙ができたか。今回の容疑者確保の情報が、大介の何らかの行動から漏れてしまったような気がしてならない。大介の倍以上生きていて、秋山は今、思うのだ。今回の事件が、間違えた方向で弾けなければいいのだが。
 東京に身柄を移されてから、我森の聴取が本格的に始まった。驚くほどスムーズだった。田所マミを突き飛ばし、床に倒れた被害者を置いて逃走したこと。そして、その被害者が死んだこと。それらの事実をあっさり認め、それに見合うだけの罰を望む姿勢だった。金銭的なやりとりや、被害者が精神的に不安定であったこと。そして、別れを告げることになった経緯まで、我森はマミとのことを全て話した。注目されたのは、被害者の死因となった刺し傷が、我森によるものかどうか。それ次第だと、秋山は思っていた。ただ、この先にはもう、大きなヤマはないだろうと、ホッとしてもいた。ワイドショーで、我森のあの写真が、全国に晒されるまでは。



マミと我森のプレイ


 我森は、自分の手で突き飛ばし、食器棚で頭を強打して倒れたマミを見下ろしていた。全てを終わりにしたかった。幼なじみを妬んだ略奪愛も、不倫も、狂った欲求のはけ口になるのも、変な優越感も。そして、マミのうそ偽りの無い気持ちを受け止める、自分の嘘も含めて。だから、我森は数分前、マミに別れを告げた。
 それを聞いたマミは逆上した。「だったら、一緒に死んで欲しい」と頼んできた。我森は、また、マミの冗談だと思った。ここでキスして、ここでスキって言って。マミの頼み事は、いつも冗談に近い。なので、我森も始めは、笑った。その我森の笑顔も強ばり、マミの顔からは、色が無くなり始めた。彼は急に、怖くなった。
「冗談、だろ?」
 いつものように、柔らかくて温かい特異な声で、マミに問いかける我森。マミは、本気だった。
 
 大学生のマミにとって、同年代でも少し大人びた我森は、自慢の彼氏だった。自分の力だけで生活し、両親も居ない孤独な人生にも負けず、必死で生きていた。そんな我森から漂う空気は、マミの周りの男子学生にはなかった。そして何より、我森の容姿。すらりと長い手足に、ひょろりと高い背丈。だけどがっしりした肉体。わがままプリンセスのマミにとって、容姿も、従順な優しさも、我森の全てが好きだった。
 マミはいつも、友達が行きそうな場所へ我森と出かけ、そこで出会った友達に、偶然を装って我森を自慢した。経済的に、何不自由なく育ったマミ。幼い頃から、欲しい物は全部買い与えられてきた。バッグを自慢し、買ったばかりの靴を自慢する。「いいなぁ」「かわい〜」という彼女たちに「で、これが私の彼氏」と我森を紹介するのだ。「へぇ〜」と言いながら、バッグや靴と同じ眼差しで、我森を見てくる。そんな彼女たちに、我森は頭を少し下げて挨拶をする。
 初めは、マミにとっての我森が、身につけて歩き回りたいだけのアクセサリーのような存在だと思っていた。マミの部屋にある、かつて「欲しかった」ブランド品陳列した棚。いずれ、その棚に自分も並べられ、忘れ去られるまで、ただそれまでの彼氏だと思っていた。そうやって扱われる方が、我森にとっては楽だった。彼は、マミのことを一ミリも愛してなどいなかったからだ。

 育ててくれた祖父母が死に、それでも格安の家賃で貸してくれた大家。我森は、そんな大家に感謝しつつ、家賃の滞納だけは避けたかった。高校生の間は、祖父母が残してくれた貯金を少しずつ切り崩しながら、簡単なアルバイトをするだけで生活ができた。しかし、それにも限界が来て、高校を卒業すると色んな仕事をするようになった。金を稼ぐことは、本当に大変だった。街でティッシュを配り、配っているときにスカウトされて、雑誌の読者モデルをやったこともある。そのスカウトが、夜の店を紹介するときもあった。色んな仕事をしたが、どれ一つとして合わなかった。三角形の穴に、同じような大きさの四角形の何かをぐりぐりとねじ込むような毎日だった。
 そんな生活の中で、マミの「金」はたやすかった。三割の事実の上に、七割の嘘を積み上げて、話をでっちあげる。それをマミに語ると、彼女は泣きながらお金をくれた。何度も金をもらったが、マミに金を渡した感覚は薄いだろう。それは、飲んでいるジュースを一口あげる感覚に近いからだと、我森は思っていた。
 マミは、我森の現状を両親に話したようで、マミの母親から「うちで一緒に住めばいい」とまで言われるようになっていた。マミの母親は、娘と我森の将来のことを真剣に考えていた。少しでも早く孫が欲しいマミの母親にとって、その孫ができるだけ容姿端麗の方が望ましい。娘婿に望むことは、マミの母親には多くない。経済的なバックアップは完璧にするつもりだった。娘のことを任せるというより、娘婿ごと引き受ける。娘の結婚は、マミの母親にとってそんな感覚に近かった。結婚してしまいなさいと、マミにも我森にも繰り返す母親。我森は、そんな母娘とも、くっつきすぎず、突き放し過ぎない、絶妙な距離感を保っていた。
 マミもマミの母親も、熱が冷めればサッと引くのは分かっていた。しかし、結婚という話が出ている以上、そんなにすぐでもないだろう。その間に、もらえる分をしっかりもらおう。我森は、読者モデルもホストも辞め、他に掛け持ちしていたアルバイトも辞めた。今しか得ることの出来ない「金」をできるだけ多く得たい。祖母が死に、残してくれた貯金がじりじりとなくなっていくときの恐怖を忘れることができなかった。無駄使いは一切していない。無駄どころか、必要なものでさえほとんど買わずに過ごしてきた。それなのに、貯金は減っていった。じりじり、と。少し、ずつ。金は、あればあるだけいいのだ。我森には、それが痛いほど分かっていた。
 この先、本当の意味で困らないために、何かの資格を取るか、手に職をつけるという選択肢はなかった。そこまで遠い未来よりも、まずは目先のことを優先したのだ。
 不倫と売りとマミ。これらの金蔓から、慎重に、かつ大胆に金を得ていく我森の日々。いくらあっても、まだまだ足りなかった。すぐに祖父母が残してくれていた貯金額は超えたが、それでは一年ちょっとしか持たない。その五倍、十倍と必要だった。時間をできるだけうまく使って、少しでも多くの金を得るため、「遊び」や「演技」を繰り返しているうちに、マミとの時間がおろそかになったのは確かだった。
 そんなある日、マミが自殺未遂をはかった。
 彼女は、自分の部屋で手首を切った。マミの母親から連絡をもらい、急いで駆けつけた病院には、初めて会うマミの父親もいた。婿養子に入って会社を継いだマミの父親。一目見ただけで、優しさがうかがえる温和な人だった。あのマミの母親と、この父親。その間に生まれたマミ。何というか、すべてが同じ色カードの柄違いのように思えて、家族というのが改めてうらやましく思った。
 マミの母親は、怒っていた。このところ我森からの連絡がないと、マミから相談されていたらしい。確かに、連絡は来るが、返事をしていなかった。この頃、ちょうど綿貫からのプレイが激しさを増し、身体中に傷が目立つようになっていたのだ。それを上手く利用できる相手ならまだしも、マミにとって我森は、アクセサリーだ。傷がついたと知ったら、どう反応するだろう。しばらく、綿貫から儲けて、それを終えて「きれい」になったら、マミに戻ろう。我森はそう思っていた。
 しかし、我森から何の連絡もない時間が、マミには耐えられなかった。それは生きていくことさえ、無理なほどだった。我森に届いたマミからのメールには、生きていけない、死んだ方がましだ、という文面が並んでいた。我森には、それがマミの大げさで、冗談のような本心だとは気づけなかった。
 マミが意識を取り戻したとき、ベッドの側にいる我森を見て、ただ、しくしくと、二十分も三十分も泣き続けた。そんなマミを見て、我森は心の底からぞっとした。マミのまっすぐな本気が、その静かにすがるような時間の中で突き刺さった。我森は、恐怖を覚えたのだ。
 乾と話すようになり、我森は「老いていく」ということを少しずつ実感するようになっていた。時間が経ち、過去とは結びつかないような現在に放り込まれるのだ。四十年先。そんなにも遠い未来。それまでマミと一緒に居られるのか。マミは、本気でそれを望んでいる。それを断って、四十年も先まで、自分には必要な「金」を稼ぐことはできるのか。あまりにも漠然とした不安だった。
 
 マミは、我森だけにすがっていた。自分の元から、我森が離れることなど、想像していなかった。小学生の頃から友達と呼ぶ者はいたが、友達ではなかった。相手も自分自身も、どこか余所事で、一緒に居て感じ取れるぬくもりはなかった。それを孤独だと認識してからのマミは、それはそれでいいと思うようになった。やがて、それがいい、と強がり始めてからは、カラカラと、ただ空虚な毎日だった。周りの女子、クラスの男子。マミが持っている物だけを媒介にして、空を泳ぐ会話。マミは、はやく大人になりたかった。
 大学生になってからも、そんな日々は変わらなかった。ただ、周りのプレイヤーが変わっただけだった。結婚は早い方がいいと、口癖のように繰り返す母親。その「早い」と言われる年齢に、近づきつつある自分。マミは、物に飽きていた。かといって、人とはうまくいかなかった。誰か一人、この人、と決めた相手がいれば、他の物なんて何も要らないと思える。それが結婚だと、マミの母親は言う。両親を見ていれば、確かに結婚はいいものだとマミには思えた。誰か、特別な、一人。その人との暮らしを想像して、いつか来るだろうそのときに逃げ、それまでは「このまま」でいいと思って暮らしていた。
 マミが我森と出会ったのは、混み合った電車の中だった。車内の奥までするすると進み、つり革を持って立った場所。その前の席に座っていたのが我森だった。うつむいて、眠っているようだった。マミは少し上を向き、窓からの景色と、その上に流れるデジタル公告を何となく眺めていた。そのとき、マミの膝を何かが触ったので、「キャッ」と思わず声をあげてしまった。驚いた我森が「すいません」と謝った。
 座っていた我森が足を組み直したとき、マミの膝に触れたのだ。マミは、周りを気にしつつ、「いや、すいません」と逆に謝った。上から見下ろした我森の顔。マミは、ドキッとした。店の棚に並ぶバッグにドキッとすることがある。並んだ靴にも、ショーケースのピアスにも、ワンピースにも。そんな「コレだ」というドキッと感だった。次の駅で急に立ち上がり、我森は降りていった。むくっと立ち上がると大きかった。何も言わず、マミの横をすり抜けていき、その我森の姿をマミは目で追った。見失いそうになった時、マミは衝動的にその電車から降りていた。
 そのまま、我森の跡をつけた。駅を出て、しばらく歩き、駅前の賑わいがなくなって住宅街へと入っていく。我森は、気付いていないようだった。どこまで行くのかな、とマミが思った瞬間、我森は「家」の中に入っていった。そこは、マミが思う「彼の家」ではなかった。数戸が連なった長屋で、とにかくみすぼらしかった。マミは、がっかりした。この店構えの中に、この商品があるからいいのであって、この雰囲気で食べるから、この料理は美味しいのだ。この家に住んでいる男か。マミは、何やっているんだと自嘲した。夢中で跡をつけてきたので、帰り道が分からず、駅まではたまたま通りかかったタクシーに乗った。
 その晩も翌日も翌々日も。マミの頭からは、なぜか我森が離れなかった。彼が住んでいる家よりも、電車を降りるとき、すれ違った彼の首筋や、跡をつけて、ずっと見ていた後ろ姿が、忘れられなかった。マミにとって我森は、何日か考えて、それでも欲しいと思った者だった。マミは、我森の住んでいる駅まで行くことにした。そして、思い出しながら、我森の家を目指した。しかし、なかなかたどり着けなった。よく似たような公園と、曲がり角が多いのだ。一回目、二回目、三回目。結局、我森にも会えず、家にもたどり着けない日を重ねると、マミには、何が何でも会いたい人になった。誰か一人のことをこんなにも考え続けることは、初めてだった。マミは、居ても立ってもいられなくなっていた。
 七回目のチャレンジは雨の日だった。マミがいつものように駅を出て、この前失敗した道とは逆を進んで、ふとコンビニに出くわしたとき、店の前で、傘も持たず立っている我森を見つけた。マミの心臓は、ばくばくと音を立てた。その音を慎重に飲み込みながら、そのコンビニ近づいた。我森は、何の反応もしなかった。ただ、前を流れている人達の中の一人。マミは、声をかけたかった。しかし、なんて言えばいいのか分からなかった。この間、電車で膝を……。そんな台詞を浮かべたが、覚えている訳がないと思い直した。咄嗟に「傘だ」とマミは思った。店内に駆け込み、ビニールではなく、黒い方の、千円の傘を買った。レジに並んでいるときも、店内から外をうかがって、このまま我森がどっかへ行かないか、ドキドキした。
 マミは、買った黒い傘を持って、我森に近づき、
「これ、よかったら、どうぞ」と言った。
 不審がってこちらを見る我森。しばらくして
「なんで?」と言った。 
「いや、傘がなくて、困っているのかと思って」
「あ、そう。え? これ、もしかして、いまこの店で買ったの?」
「そう。あ、いや、予備に。今持ってる傘が、強風とかで折れたときのことを考えて、もう一本あった方がいいかな、と思って」
 我森は、マミの持っている黒い傘を見て、しばらく考え、なるほど、とぜんぶ納得した。
「そうなんだ。本当にいいの、借りて?」
「あ、はい。もちろん。貸すんじゃなくて、差し上げます」
「あ〜、助かったぁ。財布、忘れて来たから、傘が買いたくても、買えなかったんだよね。助かります。どうもありがとう」
 にっこり笑う我森の顔を見ると、マミは、じわっとあたたかくなった。
「じゃ、これ。もしよかったら」
 マミは、財布から一万円札を抜き出して、我森に差し出した。
「え?」
「いや、あの、財布を忘れたって、さっき、あなたが」
「あ〜。え、ほんとに? じゃ、遠慮無くお借りします。ありがとう」
 我森が、あっさりと自分の手から一万円を取ったとき、マミはホッとした。また、嫌がられることをしてしまったっと、内心悔やんでいたからだ。しかし、我森はありがとうと言った。
「えっと、これ、どうやって返せばいい?」
 我森が訊ねると
「じゃ、連絡先、教えてもらえますか?」とマミが言った。

 連絡先を交換した二人は、それから毎日連絡を取り合った。マミが一方的に打つLINEに我森がついてくる。一万円を返してもらうために会うという名目は、マミの中からあっさっり消えていた。
 マミのいつも遊ぶ街で、我森と会う。男の人が行っても、苦ではないところを選んで、そこで会う。話せば話す程、我森の口や目や耳や鼻や、もう我森の全部から魅力が溢れてきた。マミは、いつしか我森という男が好きになり、それに付随する全てが好きになった。どこに住んでいても、何をしていても。我森だから、素敵なのだ。もう、マミは我慢ができなかった。このまま、紅茶とスイーツを食べて、少し話して、笑って、それで別れて、またLINEをして、次の会う約束をして。その関係に確固たるものが欲しかった。
「俺と、付き合ってくれますか?」
 五回目に会った店で、我森がマミに告白した。
「え、なんで?」と、あまりに唐突なうれしさのあまり、マミが聞く。
「いや、そう言って欲しそうだったから、なんとなく」
 我森は、マミが半分食べたマカロナッツを頬張った。

 それから、二人は恋人同士となった。それまでと同じようにスイーツ屋で話し、その後で、それまでにはなかったセックスをした。マミにとっては初めての恋人だった。身体を見せ合い、そして触れあう全ての行為が、特別でたまらなかった。
 デートのお金はすべてマミが払っていた。付き合う前も、付き合ってからも、それは変わらなかった。マミが両親と一緒に居たくないときは、我森の長屋で二人きりで過ごした。マミのしたいまま。それに我森が合わす。そんな関係に、マミは何の不思議も感じていなかった。我森にとっても、損のない、というよりもむしろ得の多い関係だった。マミが周りの友達からどんな風に思われているかは、友達だと紹介された女達の目を見ればすぐに分かった。その反応をマミも自覚していると我森は思っていた。つまり、マミという人間は、全ての関係に希薄なのだ、と。
 しなやかに緩み、張り詰めることのないマミとの日々。我森は、いつか自分の暮らし方に限界が来たとき、最後に残るのはマミかも知れないと思うようになっていた。そうなった時、マミに付随するもの。彼女の家族や、金。それらが、我森をしっかりと掴んで離さないような、彼が一度も経験したことのない絶対的な安心に誘うようにも思えた。マミと、一緒に生きていく。それは、悪い事ではないかも知れない。
しかし、我森は自分にストップをかけてしまう。これまでも何度か、同じよな温かさを感じたことがあった。その度に、その関係は無くなっていった。自分には、無縁なのだ。マミにとって自分は、ただのアクセサリーだ。我森は、金蔓を追いかけては、長屋の隅の、階段下の引き出しに、お金を貯めていった。

 冗談じゃ、ないよ。そう言って、包丁を手に、我森に迫ってきたマミの姿がよみがえる。我森の長屋の狭い居間。祖母と祖父と我森が座ればぎゅうぎゅうの狭い食卓がある。そこで、別れを告げた我森と、それを聞いたマミ。
 凍り付いたような空気を裸電球の灯りが照らしていた。背もたれの壊れた椅子が三つ。流し台からは、嫌な臭いがした。一階には六畳間がもう一つ。二階に行くと六畳と四畳半の部屋がある。祖父母が死んでから、二階は完全な物置になっている。我森が小中高の間に獲得した、十数個のトロフィー。それらは、透明のビニール袋に包まれて奥の方にしまわれている。祖母は、我森が水泳で優勝すると、特別な日だと言って、無理をしてでも赤飯を炊いてくれた。そんな祖母がいつも腰掛けていた右側の椅子が、倒れたマミの左側に見える。我森は、祖母の椅子を眺めていた。
噛みついた飼い犬に、お仕置きする飼い主のマミ。薄灯りの中でも、マミの震えは、はっきと分かった。包丁が妙に光っていた。幼い頃からそうであったように、「本気だからね」と、無茶をする仕草を見せれば、思い通りになると思ったのだろうか。別れたくないマミの本気。病室のベッドで、しくしく泣いていた彼女を思い出す。そんな彼女の気持ちに、もはや応えたくても、応えられない我森。もうマミと一緒に居られるほどきれいではないのだ。別れないという選択肢は、もうない。
 マミが包丁を突き出して、我森のほうへ倒れ込んできたとき、反射的に、マミを突き飛ばした。埃をかぶった茶碗や、不揃いのコップが並べられた古い食器棚。その食器棚にマミがぶつかり、がちゃんと大きな音を立てた。頭を打った彼女は、そのまま冷たくて、傷だらけの床に倒れこんだ。
 昔から、我森は捨てられている猫を見ると、可哀想だった。それは、教室の隅で泣いていた女子にも、いじめられている同級生にも、同じように思った。しかし、その気持ちはいつも、頭の中心から遠く離れて、心の反対側にある飛び地での感覚でしかなく、どれも実感がなかった。床に倒れ、うーうーと苦しんでいるマミを見たときも、同じだった。とても遠く、何もかもが鈍かった。
 我森は、その場から立ち去った。去り際、マミの方を振り返ると、目を開き、懇願する涙を流していた。可哀想だった。だけど、ここで拾って帰ったとしても、ばあちゃんは飼うことを許してくれない。何度も経験したから、分かっている。どうせまた、ここに捨てに来なければならないのだ。それを思うと、思い切って目を閉じ、ダッシュで走り去らなければいけない。
 倒れたマミを置いて、我森は長屋を出た。急いでいたので、持ち金は少なかった。最初の二日は、行く宛てもなく、東京近郊をさまよっていた。その中で、ふと、ばあちゃんが言っていた「修ちゃんはねぇ、四国の香川県っていう所で、生まれたのよ」という言葉を思い出した。そして、我森は、夜行バスに乗った。
 まずは大阪まで行き、そこから電車で和歌山へ南下した。そこからフェリーで徳島へ渡り、そのまま、またバスで香川までやって来た。香川へ来たのは初めてだった。生まれた場所。生んでくれた両親がどんな人か我森は全く知らない。小学校に入ってから預かってくれた祖父母は、両親について何も言ってくれなかった。我森は、幼心に、じいちゃんも、ばあちゃんも知らないのだと思っていた。実際に、知らなかったのかも知れない。北関東の養護施設で育てられ、親切な老夫婦に引き取られた我森は、その時とても嬉しかったのを覚えている。それと同時に、恐れてもいた。施設でたびたび問題を起こしていた、自分のコントロールできない部分が出てしまわないか。一度引き取られて、また戻ってきた施設の友達を見て、自分もいつかは、捨てられるのではないか。我森はずっと、そうならないために、注意深く生きてきたのだ。
 高松のターミナルの駅から、バスに乗って終点まで行った。辺りは真っ暗で、明かりの付いているところが全くといっていいほどなかった。山奥にポツンとあるバスの終点。我森は、疲れていた。ここ三日間の宛てのない日々。歩いて歩いて、外の明るいところで寝て、また歩く。いくら若いとはいえ、限界だった。
 バスの運転手に聞くと、近くに温泉旅館があると教えてくれた。温泉の湯がいかに良いかを熱弁されたが、我森は、とにかくゆっくりと休みたかっただけだ。布団の中で眠りたかった。教えられた旅館は、とても小さかった。温泉に来るのは、初めてだった。家の風呂でも浸かるのが嫌いだった我森には、わざわざ「浸かりに行く」ということが信じられない。
 小さな和室へと通され、そこで少し休んだ。しばらくすると、自分の臭いが気になってきた。ここのところ、風呂にも入っていないのだ。部屋に風呂が付いていないので、大浴場へ行き、せっかくだからと、我森は露天風呂に浸かってみた。
 気持ち良かった。じわ〜っと温まった。山奥の静けさの中、露天風呂には一人だった。ふと、陽人の母親の声を思い出した。優しくて、おっかなかった陽人の母ちゃん。「もちろんよ」。助けて欲しいときは、いつでも助けてあげると言ってくれたあの声。その声が、あんなにも頼りなく、弱々しいと感じたときのこと。「もう、いいですねよ」。我森は、誰というわけでもなく、訊いた。自分でも、ここまでよくやってきたと思う。孤独は、演技で誤魔化し、現実は、逃避で切り抜けてきた。騙しているのは、全て「仕方のない」ことだったのだ。
 
 空には、おとぎ話のような、星空が広がっていた。

 近づいてきた二人の刑事が口にした、マミの名前と、殺害という言葉。我森は、驚いた。マミは死んだのかと思った。彼女は、あの後、自分の手で、自らの命を奪ったのだ。その殺人犯になっているのか。マミの母親が、今度こそ許さないと思って、そういうことにしてしまったのだろうか。「もう、本当に、いいかな、ぜんぶ」。我森はつぶやいた。そして、橋の上から落ちるとき、見ていた乾の目。それと同じような眼差しをずっと見ていた。

 田所マミの遺体は、通報を受けて駆けつけた警官によって発見された。その通報は、田所マミ本人の携帯電話からあった。発見現場の家には、一人で暮らす我森という男がいる。そして、我森と被害者は、恋人関係にあった。まずは、その男の行方を追うことから始めた。それにしても分からないのは、被害者の携帯電話を使ったということだった。カモフラージュにしては、雑すぎる。秋山は、いつも組んでいる刑事ともう一人、三ヶ月前から組んでいる大介を連れだって、この事件にあたった。二人の刑事には、それぞれの任務を命じ、秋山はひとり、被害者が自殺したという線で、捜査を始めた。
 我森という男は、両親と死別し、養護施設へ入った後、養子に出されて十年以上をここで暮らしていた。近所の人、十人に聞けば、十通りの我森が出てきた。対照的に、被害者の田所マミについては、誰に聞いても同じようなものだった。この二人が出会い、恋人となり、なぜ殺人にまで及んだのか。我森本人を捕まえて、聞いてみるしかないと思った。
 我森は香川に向かう。秋山は、我森が香川で生を受けたと聞いたとき、ピンときた。東京から香川への生き方は、新幹線か、バスが主流だ。我森は、バスを使うだろうと踏み、長距離バス会社に協力を要請し、予約者リストをあらった。しかし、なかなか足取りは掴めなかった。やっと大阪へ向かったとわかり、その後、和歌山からフェリーに乗って香川へ渡ったということが判明したのは、事件から二日後のことだった。
 秋山は、自分の息子の事を思い出していた。再婚だった妻の連れ子として、家族となったが、一度も息子は、秋山に本性を見せなかった。その息子が、大学卒業を間近に控えた三月、自殺したのだ。我森を追えば追うほど、彼の話を聞けば聞くほどに、秋山は胸が締め付けられそうになった。一体、息子も我森という男も、何をそんなに恐れていたのだろうか。そしてなぜ、一番言いたかっただろう素直な言葉を、飲み込むようにして生きていたのだろうか。
 香川県に入ってからの我森の動きは、すぐにつかめた。他県から来た者がとるルートが、そんなに多いわけではない。高松のターミナル駅で我森の姿をとらえ、そこからバスに乗り込んだ我森を県警の車を借りて追いかけた。温泉宿に入っていく我森。そのあとを秋山ら三人も続いた。部屋で容疑者を確保をしたかったが、他のお客様の迷惑だけは、避けて欲しいという旅館側の要望を聞き入れ、我森が部屋を出るのを待った。
 そして、誰もいない露天風呂で我森の身柄を拘束した。



裸の我森後


 各局のワイドショー番組では、独自の取材を基に、様々な角度からこの事件を伝えた。この事件というよりは、我森のことについてである。また、ネットに流出した拘束時の写真以外に、同じような構図で、我森がうつむいていない写真が新らたに週刊誌に掲載された。容疑者であること、その容疑が殺人未遂であることから、秋山は、この事件の扱われ方に違和感を覚えた。そして、世間の反響がアンマッチであることが気にかかっていた。
 週刊誌が、我森の顔が分かる写真を掲載したことで、一気に「これまで」の我森の写真も電波に乗り始めた。読者モデルをしていた頃の写真、中学時代の水泳競技会の模様、そして、高校時代の(隠し撮りのような)制服姿の写真。これらはすでに、ネットの世界で出回り、ものすごい速さで共有されていた。リアルのコンテンツをバーチャルの世界で転がして遊ぶ匿名たち。不特定多数のユーザーが垂れ流す、我森のわずかな真実と多くの嘘。秋山は、ここ数年の「この速さ」に、時代の流れと恐怖を感じてしまうのだ。
 世間の反応が大きく変わったのは、ある番組がスクープしたインタビューだった。遺体発見現場となった家を貸していた大家が、取材に応じたのだ。
「あの子が、人を殺すなんて、ちょっと考えられませんけどね。でも、まあ、そういう犯人は、だいたい、考えられないことをしてしまうんでしょうね。あの子の両親は、まだあの子が産まれて間もない頃に殺されてね。それは、むごたらしい殺され方だったらしいですよ。強盗に入られて、そのまま殺されたそうです。まだ、一歳にもなってなかったあの子は、しばらく、お医者さんに通っていたみたいです。精神的にちょっと不安定なところもあったみたいですね。でもね、ここに移り住んできてからは、元気でしたよ。挨拶なんかもしっかりするし、一人で暮らし始めてからも、家賃だってきっちり払ってくれました。毎晩遅くまで働いてるようで、私も時々は心配になって大丈夫? って声を掛けたりしたんですけど、あの子、大丈夫です、ってね。ほんっとに、立派ないい子でしたよ。ここに元々住んでたご夫婦が、しっかりと育てたんでしょうね。血も繋がってないから、衝突もあったのかもしれませんけど、私らには全然、優しい子だと思ってましたよ。そんなね、ひとさまの娘さんを殺すなんて。まだ信じられません。生まれてから、ずっーと大変なことばっかりであの子、不憫でたまらないですよ」

 裸の写真が流出してから、まるで「物」を扱うような書き込みばかりだったが、この大家のインタビュー後から、悲劇の主人公のように、「人」を扱うような内容に変わっていった。ネット上の掲示板という掲示板が、炎上した。格好いい! かわいそう! 守ってあげたい、助けてあげたい。そんな書き込みに、また誰かが同調する。それをテレビという公共の電波で伝える。正義と不正義が、イメージだけでコロコロと形を変えていった。
 我森の知らないところで、形のない「グループ」ができ、文字だけでつながりながら飛び交った。いつの間にか、彼はカリスマ的な存在にすらなっていた。元をたどれば、我森の両親を殺した強盗が悪いんじゃないか。もう二十年近くも昔の事件が、またネット上であふれ出した。その強盗が当時未成年で、無期懲役の判決後、今ではもう普通に社会生活を送っている。この事実がネットに書き込まれると、それに対する怒りの声が、日に日に大きくなっていった。当時少年Aだった強盗殺人犯の実名まで、ネット上に垂れ流された。
 我森を伝える多くのネット上の情報が、我森へ同情するようになり、ほとんどのワイドショー番組は大きく扱わなくなった。焦りを感じたマミの母親は、カメラの前に立ち、顔も声も変えず、我を忘れ、大泣きで訴えた。
「娘は殺されたんです。大けがを負わされて、そのまま放っておかれたんです。すぐに救急車を呼んでいたら、娘は助かったんです。なのに、それをしなかったんです。だから、娘は死んだんです。もう、戻って来ないんです。なのに、殺した方だけが、のうのうと生きていくのは、耐えられません。娘を返してください。それができないなら(ピー)も同じような目に遭わせてください」
 マミの母親は、我森の名前を叫んでいたが、ピーでかき消されていた。この母親のインタビューが報道された直後、マミの友人Aとして、顔を隠し、声も変えてテレビに映った女子大生の出現で、この話題は一つの区切りを迎えることになった。事件当日、マミがその友人AにLINE通話をかけていたという内容だった。
「笑いたければ、笑ってもいいわよ。バイバイ」
 その時、マミはそう言ったという。世間で騒がれるようになって、それがどんどん大きくなる中で、友人Aはなかなか言い出せなかったらしい。

 大介は、この事件がこれほど世間を騒がせることに驚いていた。驚くと同時に、責任の一端は自分にあるとも思っていた。初動捜査で我森の身辺をあらっているとき、一人の記者が近づいてきた。その記者は、我森と高校時代の同級生だと言った。我森の家で事件があったこと、それについて刑事が嗅ぎ回っていること。大介がその同級生という記者から事情を聞くと言うより、逆に、根掘り葉掘り聞かれているような気がしていた。結局、その記者が大介の後をつけ、香川まで来て、あの写真を撮ったのだ。
 我森の話題が大きくなり始めると、また、その記者は大介にコンタクトを取ってきた。事件はいま、どうなっているのか。本当に被害者は、自殺したのか。我森が殺した可能性はゼロなのか。そして、この事件以外のことについても、すでに警察は動いているのか。矢継ぎ早のそんな質問に、大介は一切応えず、ただ一点。なぜあの写真が撮れたのかを記者に問い詰めた。
「たまたまですよ。あいつが露天風呂に入っていったんで、まぁ、この先、なんかに使えるかと思って、裸でもおさえることにしたんですよ。そしたら、ビンゴ。あんな現場が押さえられるなんて、ほんと、こっちが驚きましたよ」
 にやにやしながら話すその記者は、その時の詳細を嬉しそうに話し出した。露天風呂の脇に小さな林があり、立ち入り禁止という低いフェンスを越えると、何かの足場のようなものが組まれていたこと。そこに上ってみると、しっかりと露天風呂の様子が見渡せたこと。その後、せっかく撮ったスクープ写真なのに、どこも買い取り手がなく、しかたがないので自分でネットに流したこと。それが大きな反響を呼ぶと、手のひらを返したように、今度は売って欲しいと、向こうから言ってきたこと。
 記者が「写真って、やっっぱり良いですね」と言いながら立ち去っても、大介の頭からは、記者の言った「この事件以外のこと」というのが離れなかった。もともと、我森の家から八百万近い札束が見つかったことに、大介は注目していた。我森の足取りを追いながらも、そのことが気になってしょうがなかった。大介以外は、あまりこの札束について追求しなかった。ホストやモデルのようなことをやって、その反面、普段の生活が非常に地味だったことから、このぐらいの金額が貯まることもあるだろうと考えていた。しかし、大介は、二十一歳の若者に、八百万円という金額が貯まるとは、どうも納得できなかった。そんな中での、余罪を匂わせるあの記者の言葉。それと、八百万円が、結びつくような気がした。
 すでに、大介は「次」の事件を追っていたが、休みの日や空き時間で、独自に我森の八百万円について調べた。大介の頭には、どこかに危機感のようなものがあったのだ。怪我をさせた相手を置き去りにしたという行為も忘れて、裸の写真や生い立ちがだけが一人歩きして世間を惹きつけた我森。彼が、このまま悲劇の主人公として終わってしまっていいのか。



 半年後。


 傷害罪で、罰金刑に終わった我森の事件は、もう世間の多くが忘れ去っていた。しかし、大介は地道に調べを進め、柏本宏美にまで辿り着き、綿貫孝一の存在もつかんだ。「金」の出所へ近づくに連れ、大介の中にあった危機感のようなものは、薄れていった。

 ここ最近、休日になると、大介はいつも同じホテルにいる。ホテルの一室で、シャワーを浴びている宏美が出てくるのを待っている。ぼんやりと、スマホを見ながら。
「我森の代わり、俺じゃ、だめっすか?」
 大介の言葉に耳を疑った宏美が、あきれかえった顔で笑う。
「身体でしょ、ようは。俺も、そこそこ、いいですよ」
 宏美に近づいた大介と、それを受け入れた宏美の関係は、ここ二ヶ月ほど続いている。確かに、大介は我森に負けず劣らず、若く張りのある身体だった。宏美は、大介の身体に溺れ、プレイを終えると、大介の身体に残った縄や鞭の跡を、そっとなめてやるのだった。

 じんわりしたこの感覚は、一体何だろう。ゆらゆらした、心地よいこのブレは、どうしたんだろう。コーチとして働き始めた水泳教室のプールサイドで、我森は、天井を見上げていた。穏やかな秋晴れだった。そこに、スーツ姿もようやく見慣れてきた陽人がやってきた。陽人が就職した会社は、一年目の一日目から、名刺だけを持たされ、あちこち営業へ行かせるようなところだった。二ヶ月ほど前の夏の始まり、何の結果も残せず、困り果てて駆け込んだ水泳教室で、陽人は、我森と出会った。彼は、鞄から取り出した自社のスイミング用品のパンフレットを渡しながら、あの時、我森の背後に、大きな太陽を見たのだった。



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我森プレイ

鈴木正吾著

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