今、イラクで多発する外国人人質殺害事件。殺害に至らず解放された人質事件は、日本人を対象にも起こっており、その動きが、このところ急速に激しさを増している。「要求」に応えない場合は、宣言通りに「殺害」するケースが増えているのだ。
ここでは、そんな人質事件に対して、国としてどう対応するかを考えたい。最も分かり易い例で言うなら、日本を取り上げるべきだが、小泉首相は一貫して「テロには屈しない」という人質の見殺し宣言?を行っており、「だから」イラクには行くな、と繰り返している。世論も「そうだ、そうだ、こんな時に行くべきじゃない」と後押しした。これは、実際に起こった例であり、日本の対応は後述の韓国と同じだ。
以前、この「見聞知覚」でも書いたが、日本政府の見解では、現在のイラクは非戦闘地なのだ。だから自衛隊も派遣している。なのに、一般人は行くな、という。確かに治安を理由に渡航に対して注意や警告を発することは以前からあるので、いわば、その延長線上で今のイラクは「最も警戒」すべき国という扱いなのだろう。
自衛隊はいいが、一般人はダメ。これって、考えようでは「軍隊」ってことじゃないのか。
自衛隊と一般人の違いは、武器の有無にある。つまりは、武器なくして行くことならず、って言われているみたいだ。ね?これって戦争のお話でしょ?
まぁ、いいや。話を元に戻して…。

ここでは、韓国とフィリピンの対応について取り上げる。
イラク国内で、武装勢力が韓国人の会社員を人質に取り、韓国軍の即時撤退を求めた。要求に従わない場合は、人質を殺害すると声明を発表。韓国政府はこの要求を拒否。武装勢力は声明通り、人質の首を切り落とし殺害した。韓国政府はそれでも、武装勢力の要求には応じず強い姿勢でテロに立ち向かう、と発表。追加派遣を決定して現在3600人の軍隊を派遣。これはアメリカ、イギリスについで三番目に多い。
一方、先日、フィリピンのアロヨ大統領は、人質となっていたフィリピン人運転手の解放と引き替えに、武装勢力の要求通り、人道支援部隊51人の完全撤退を完了した。同大統領は、この決断に対して「後悔はない」と記者会見で発表。「武装組織の要求に応じなかったからといって、人質事件が減るわけではない」という大統領の発言は印象的。

スペインやスウェーデン、トルコやアラブ首長国連邦など、それぞれの国の対応についても考えるべきだが、ここでは韓国とフィリピンに絞る。

この2か国の大きな違いは何か。
まず第一に、人質という形で拘束された「人」ひとりが、死んだか、助かったか、という違い。確かに何秒間に一人の割合で、この世界から命が消えているという数字上の「死」はある。が、顔も名前もブラウン管を通して見た「人」の死である。同じようで、印象的には大きく違う。
そして、両国の背後にある事情の違い。似ているのは、韓国もフィリピンも、この春に国民から選挙という形で指示を受け、大統領の地位を固めたということ。その立場をもって、国際協調を重視し、一体となってテロなど武装組織と闘っていこうと判断した韓国のノ・ムヒョン大統領と、世論を重視して、撤退したフィリピンのアロヨ大統領。この、違い。
韓国は、北朝鮮との軍事的な問題上、アメリカとの関係悪化は避けなければならず、国内の反米感情に応えて判断する決断は、後に大きな代償を払うことになる。一方、フィリピンはどうか。もちろん、国際関係において代償は払うことになるだろう。事実、アメリカやオーストラリアは今回のフィリピンの対応に強い不快感を示している。それでも、国民の声を最大限に受け入れた理由。それは、国民の数パーセントが国外で職に就き、イラク国内にも4000人のフィリピン人労働者がいる。今回の決定は、国内のみならず、そんな国外で働く人たちにも有益な判断になるのだ。くわえて、フィリピンは元々8月20日に人道支援部隊を引き上げ、交代という形で派遣するとしていた。その期日が前倒しになったのだという理由もある。

が、しかし、両国ともに、国内世論と国際協調の狭間で決断を迫られたという構図は変わらない。色々言う専門家もいるだろうが、要求を拒否した韓国と受け入れたフィリピンに明確な違いはない。ただ、出した答が真逆だったのだという結果だけ。

なら、と僕は思う。イラク戦争の大儀がどうの、大量破壊兵器がどうのという問題は除いて、こういう選択(一人の国民/人質のために、国としての判断を迫る)を突きつけられたとき、韓国判断かフィリピン判断か、どちらかと言えば、やはりフィリピンの決断に拍手を送りたい。繰り返しになるが、記者会見でのフィリピン・アロヨ大統領の言葉、、、
「人質実行犯の要求に応えていては、今後、同じような事件が多発する。テロには、決して屈してはいけない」というアメリカを中心とした国際世論に対して、「例え犯人の要求を拒否したところで、人質という犯罪はなくならない、だろう」というアロヨ大統領。それなら、目の前の一人を救うという判断。それが正解なのか、間違っているのか、僕にも分からないし、きっと誰にも分からない。が、きれい事ではなく、この判断には、僕は拍手を送りたくなるのだ。きっと、日本では無理でしょうけどね。

「次は日本だ」と、武装勢力の一派とされる指導者は、インターネットを通じて声明を出している。さて、日本だ。スペインのように、選挙を通じて完全に与党を敗北させ、イラクからの軍を撤退させると公約していた野党を政権にのし上げることも、日本ではならず(負けたという自民党に対して、民主党は勝ったとまでは言えないので)、小泉首相の「テロには屈しない」発言だけが宙に浮いている。人質は無事解放されたが、外交官やジャーナリストなど、日本人もイラクで死んでいる。武装組織が殺めた死、その武装組織の裏側にある近親者たちの死、アメリカが殺したイラク人、そこで殺されたアメリカ人。ついに、アメリカ軍人の死は900人に達した。毎日のようにテロが起こり、車や建物と一緒に何人かの命がなくなる現状。絶対に屈しないという強い姿勢だけで、「先」があるのだろうか。ここまでくると、一つの判断として、それまではタブーだったことも歓迎すべきではないか。僕は、最近、そう思うようになった。
戦時下は異常だ。だから「死」が簡単に扱われる。が、その中で、一人の命を守る。このアスペクトだけを考えた場合、今後もフィリピン型の判断は正解だと言えるし、これは非常に大事なことなのだと思えるのだが。

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人質の命

2004年7月22日