大学封鎖に火炎瓶。まるで映画「69」(村上龍原作)の世界を思わせる言葉が少年(青年)とリンクして報道されている。

フランスでの出来事。パリの学生街・カルチエラタンで大学や高校を封鎖した若者と警官隊が衝突して、火花を散らしている。原因は、ドルパイン首相の提案した法律「初期雇用契約(CPE)」への反発。今、フランス国内では(特に移民の)若者の失業率の高さが社会問題化している。そんな中で、シラク後の次期大統領選をにらんで、サルコジ氏に水をあけられたままのドルパイン首相が、一発ドカンと花火を打ち上げようと提案した法律が、CPEである。内容を簡単に言うと、若者の雇用を広げ、雇用者側は2年以内であれば簡単に解雇できるという法律。これは、一度採用すると解雇しにくいという雇用者側の声をうけて、言ってみれば2年間にも及ぶ「試雇期間」を設定するというもので、新聞紙上で記されている「若者を雇用しやすくする法案」という一見おいしそうな話では決してないのが事実。それに対して若者は怒っているのだ。とはいえ、現状を冷静に受け止める若者は、「そうであっても就職がないよりはいいから」と、この法案に賛成する意見もある。
全土に広がりだしたフランスでの学生デモが、今後どう進んでいくかは分からない。が、実際問題として22%とも言われる若者の失業率は、国際社会の中で企業が生き残るには危機的数字であることは間違いなく、欧州の大企業にイマイチ活気がないのは、そんな「若いパワー」をくみ取れていない形だけの安定(つまり雇用を控えて、現状だけでギリギリプラスを出していく)を追い求めているからであろう。学校を封鎖するという行為にぼくは正当性を認めない。が、その行動力には「パワー」を感じる。若者、少年たちのパワー。彼らの十年、二十年後、「あの頃は若かったし熱かったよ」と振り返る頃、フランスは再び、華の国になっているような気がする。

一方、日本。長びいた就職難の時代。若者はフリーターとなり、ニートとなって籠もった。
そんな日本でも、ここ1,2年は製造業を中心に、景気の回復と「2007年問題」(団塊の世代の大量退職で技術継承が危ぶまれる)を危惧した風潮があいまって、就職率は大学卒業者・高校卒業者ともに伸びている。安定期にはいったとする新聞もある。

その日本でおこった事件。兵庫県姫路市で、昨年10月、足が不自由で心臓にも病気を抱えたホームレスの壮年が、少年たちのなげこんだ「火炎瓶」で焼死した。その事件で15歳を含む少年4人が逮捕。東京世田谷では、同じく少年が自宅に火をつけ、継母と実父の間に生まれた幼児を焼死させるという事件もあった。少年たちが向かうパワーのベクトルに、凶悪犯罪に手を染める様に、いつまで続くのかと心配になる。

以前、ぼくはエッセイの中で、少年たちが「自分に向けて放った狂気」が、そのまま「他人」にむけられている現状を綴った。警察官から拳銃を奪おうとした少年が、警官を射殺したという事件をうけて、少年の供述「拳銃を奪って、自分で死のうと思った」というのをうけてのことだった。つまり、自分自身に対する諦めや喪失感が、「他人」に向いてしまっている。

姫路の事件は、橋の下で暮らす壮年に、石を投げたりを繰り返していたという。この光景を想像するに、胸がつまる思いだ。池にいる鯉めがけて石をなげているような感覚で、少年たちは「笑って」いたのだろうか、と怒りも湧いてくる。いたずら、悪ガキ、不良。中高生に貼られるレッテルがあり、それらを段階を踏んで着実に貼られてきた少年だったという。彼らは、火炎瓶を投げつけ、焼死させたと言うことで犯罪者となった。凶悪犯罪と言われる放火と殺人。この二つを犯した彼らには、もう先述のレッテルだけでは足りない。しっかりとした「責任」をとらせる必要がある。

少年犯罪を見るとき、根本におくべき理念は、「再生」だ。まだ若く、やり直すチャンスがある。だから、少年という特別なくくりで保護して、出来る限りをつくして更正させる。が、どうだろうか、、、
姫路の事件で伝えられるところを聞くと、火炎瓶に細工してまで燃えやすようにしていたという。それを投げた後、その先でどうなるか。子供なので、少年なので、想像がつかなったのだろうなどということは絶対にない。もっと言えば、この逮捕された少年4人のうち、すでに働いている少年もいたのだ。社会人となっていた彼らの想像力が、火炎瓶を投げた先に及ばないはずはない。
となると、これは殺意をもった「殺人」と解されてもしかたがない。彼らの行為に対して、一度しっかりとした態度で「処罰」する必要がある、とそんな意見を持つ人もいるだろう。おそらくは、結構多いのではないかと思う。先に述べた根本理念、少年犯罪にたいしては「更正・再生」という見地からまず考えるという絶対条件を満たし、それでも無理ならしっかりとした処罰が必要、なのかもしれないとぼくの意見も傾いてきたのは事実だ。そうせざるを得ない程、少年事件が絶えなくなっているという現状を憂う。

世界の東西で、若者が火を噴いている。どちらが良いとも悪いとも言えないが、若者のパワーが一丸となって「何か」を主張している様には、頼もしさを感じる。「ファイナル・ファンタジー」で戦う前に、「たまごっち」に愛情を注ぐなんてリアルを諦める前に、日本の若者にも「目の前にある温度ある現実」に触れて欲しい。そして、「外」に向かって火を噴いて欲しい。そんな風に願いつつ、二十代もあと数ヶ月になったぼくは思うのである。



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火を噴く若者たち

2006年3月18日