イマジン
2008年06月15日
・殺しのない平和な世界を想像してごらん。(ジョン・レノン)
・イメージ、イメージ、イメージが大切。(ザ・ブルーハーツ)
・彼はこの結末をイメージできていたとは思えない。(News ZERO村尾信尚キャスター)

先週日曜、東京・秋葉原の歩行者天国に2トントラックで進入し、男性5人をはねた後、殺傷能力の高いダガーナイフで男女12人を次々に刺して、計7人を殺害(産経新聞より)するという事件が起こった。自爆テロで○人死亡という「国際面」のニュースに見慣れてしまった今の時代、これが日本の、それも身近な街で起きたと言うことに衝撃は隠せない。報道ステーションの古舘伊知郎キャスターはこれを「テロ」と呼んだ。

現行犯で逮捕された加藤容疑者は、調べに対し「事件を起こした後のことは考えていなかった」と供述しているという。進学校へと進み、進路という岐路で「彷徨った」男は、その後の人生で「思うようにならない」ことに身勝手な被害妄想を固めたように見える。バーチャルなネット世界へ「発信」し続けた言葉が、実世界では言葉として機能せず、「相手にされない」という苛立ち。相手にされようと頑張ることはせず、相手にしない「周り」への勝手な敵意。この男がひき殺し、刺し殺した尊い命は、こんな形で終わるはずもない重いものだった。先述の村尾キャスターは、被害者の親族・友人たちのインタビューが流れた後、彼は、自分が殺した人の【人生】が終わり、その周りに悲しみがこれだけ溢れるということを、想像出来ていなかったとしか思えない、と言ったのだ。その通りだと思う。友達の泣く顔、親の全てを失ったかのような青白い瞳。この犯罪者に対して、僕には情状酌量の余地はない。ただただ被害者の方の冥福を祈るばかりだ。

一般論として、このような犯罪に走る人間とは、どういう心理なのか。
それを考えたとき、一冊の本を思い出した。それは犯罪心理学といった類を扱ったものではないが、実に的を射ているように思うのだ。『理系思考』(元村有希子著/毎日新聞社)という著書には、文系・理系という「分け方」が単調な人間の思考を作ってしまうということなどが、日常生活の実例を用いながら「易しく」書かれている。その中で「分からない」ことを分かろうとするチャンスが、今の教育では奪われているのではないかといった旨のコラムがある。科学者達は、いとも簡単に「分からない」という言葉を口にする。だから、面白いんですよ、と続く。理科の時間、なぜこうなるのか、という疑問が沸いた時、それはこうだからですよ、という答えがあって、それを試験では記入しないと不正解になる。「子供たちの知的好奇心を触発する体験型科学教育を実践しているイラン・チャバイさん」という人のある授業で、チャバイさんはドライアイスの入った透明の箱を見せて、子供たちに「この中に何が入っていると思う?」と聞いたそうだ。そうすると、間髪入れずに「二酸化炭素」という答えが返ってきたという。「透明なのになぜわかるの?」ときくと、「だってドライアイスだから」、と。つまり、ドライアイスは気化して二酸化炭素になるという「知識」だけが子供たちの頭にあって、本当に二酸化炭素なのかどうかは試験にでないからどうでもいいのだ。著者は「知っていても、理解できていないことが多い」といっている。

知っている。殺傷能力のある刃渡りを持つダガーナイフが、どこに売っているか、それを購入して、歩行者天国になっている秋葉原に行く。トラックはレンタカー屋に行って、引っ越すという理由で借りられることも知っている。それで突っ込んで、大騒ぎの中をナイフで次々と刺す。この男の「考え」は、トラックでひけば死ぬ、ナイフで刺せば死ぬという知識しかない。その先のことが理解出来ていないのだ。

もっと言うと、「彼女ができない」「仕事がない」ということも供述しているようだが、生身の人間社会で自分をどう振る舞い、自分がどう思われ、自分をどう見て欲しいか。そのためにどうすればいいかという「理解」が欠けているのだ。Aボタンを押せばキックを放ち、Bボタンを押せばパンチするという「知識」だけで生きていけるほど、リアルな世界は単純ではない。それを理解するために、ゆっくりと頭の中で思考して、行動して、挑戦して、努力して、そうやって身につけていく「大事なもの」を、この男は勝手に放棄し逃避しているとしか思えない。25歳。たったそれだけの時間(人生)で、理解できるほどのものではない、ということも付け加えるなら分かっていないのだ。全て教えられ、答えばかり覚えてきた者にとって、分からないから答えをイメージする楽しさが、可哀相だが欠如している。(だからといって、社会構造が云々、この男の犯罪の理由にするのは絶対的におかしいが)。

今後の事を考えて、この男のような「犯罪者」が出ないためにも、元村氏が書いているように「甘いキャンディをゆっくりと味わうように、考え、理解する楽しさを、教室や社会のいろんな場でできるといい」。自分が投げかけた言葉で、相手はどう反応するか、イメージしつつ失敗と成功を繰り返して、もっと先の自分の、「なりたいイメージ」に近づくために生きていく。これも、それも、あれも、どれも「駄目」という絶望は、結局のところ、これも、それも、あれも、どれもが同じ事でしかないからで、これと、それの間にある差異をイメージすること、一番大事なのはそういうことである。

これは想像の範囲を超えないが、この男は、地味といわれている職場でもくもくと働く毎日の発散に、大東京の華やかな繁華街で、自分があたかもヒーローになることを想像したのかも知れない。もしそうだとすれば、それこそ「イメージできていない証左である」と僕は思う。

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