クロスメディア

加速する社会
2008年09月07日
ワンソース・マルチユース。一つの「源」から複数の「出力」を行うこと。クロスメディアという言葉が盛んに使われ、それがなかなか実現しないようにみえる、ちょうどその過渡期にあって、着実に「変化」は起こっているのだ。そして、その先にある「加速」した社会が、僕らには待ち受けているように思うのだ。

古いシステムから、まったく別のシステムへのシフト。
これが成功するかしないかで、この先が決まるとも言われる程に。

日本が高度経済成長を遂げた時代、欧米各国には一つの確立した「システム」があった。そこに、「新たなシステム」が登場し、大量生産へのラインが敷かれた。その時、日本はそのシステムを「変化」と捉えることなく、そういうものだ、と受け入れることが出来た。(もちろん、日本人が生み出したと言われる生産ラインもあるが)。つまり、その「新しいシステム」を、ゼロから取り入れたのだ。が、すでに確立されたシステムを持つ国では、変化への対応が遅れ、今までのものからの「切り替え」が進まなかった。今、世界では「その波」が再び来ている。それは、これまで築き上げてきた方法なりシステムでは立ちゆかなくなるほどに大きいものらしい。

メディア(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・インターネット)という媒体を例に取ると、印刷物には印刷物用のデータ(DTP)を作り、ネットにはネットのデータ(HTML)を作る。最後の出力によって、初めから別ラインで作成しているのだ。だから、同じコンテンツを雑誌にするのと、ネットに流すのとでは、別々の作業が必要になっている。これを、コンテンツ(情報源)を一つにして、それを紙に印刷しようが、ネットで配信しようが変わりなくしようという動きが、クロスメディアの一つの意味になる。

メディアの中で、既存の新聞・テレビなどの媒体に、インターネットという化け物のような媒体が加わり、それが「区別」されることなく一つの確固たる存在として認められるようになったことが、より効率化が必要と叫ばれるようになった要因の一つだ。元々、研究者の間で使われていたネットなるものが、自然に広がり、その広がりに合わせ便宜的に加えられた「機能」が乱立。収集がつかなくなったというのが今の状況だろう。例えば、ブラウザ一つとっても、文字化けやレイアウトの不一致など、紙に印刷して一斉に配信するのとは違う「欠点」がある。がしかし、印刷物にはないスピード感やコストの面で、おそらくはほとんどの紙媒体が取って代わられるのも時間の問題だろう。

では何が一番の問題なのか。

先述の通り、源(ソース)がバラバラなことだ。一からシステムを立ち上げ、そこに情報を放り込んで新ビジネスを展開する動き(90年代後半から2000年代初頭)にも陰りが見えてきた。そんな立ち往生の中で、既存の大きな組織がようやく重い腰を上げようとしている。ちょうど、「格安航空券」というものに大企業が一斉に参入したのと同じ感覚かもしれない。ネットは専門のネット屋に任そう。小規模な新規参入会社が主なネット屋は、そうやって大物を食ってやろうと考えていたが、やはり何十年もため込んだ大企業の情報には及ばない。しかしながら、大きくなりすぎた大企業の情報には、それを一新するだけの時間とコストがかかる。いつかは本気で取り組まなくてはならないが、それはまだ先だと言っていた五年前とは明らかに事情が違ってきたのが今、ということになる。全ての情報を一所にまとめ、それを用途によって使い分けよう。正しく、ワンソース・マルチユースへのシフトが、そうやって起こっているのだ。

具体的には、これまでになかったソースへの転換が必要になる。そのソースを取り出すのもハウトゥーが変わる。そんな「変化」に、一つの体制としていかにシフト出来るか。やっと覚えたことを、やり直すのかと気が重くなっている場合ではないのだ、たぶん。

バブル期を謳歌した人は、もうその変化に順応できず、未だに手書きだったりする。その手書きを、統合されマルチに使えるソース(メタデータ)として作成することが出来れば、その手書きをデータに起こすという手間が省ける。しかも、そのデータが完璧なものなら次々に出力形態を変えて重複使用できるのだ。

書き始めると止めどなく細かいことになるのでこの辺でよしておくと、つまりは、そういう「変化」へのシフトが、インドや中国など、これからの国には必要ないのだ。彼らの多くは、変化後のシステムが、そういうものだ、として受け入れられる。

であれば、いつまでも「これまで」のやり方に固執していると立ちゆかなくなるのは現実味を帯びてくる。

井上陽水は10年ひと昔と言い、それが5年になった時代も、この先3年、2年と短くなっていくかも知れない。これからは、一つのシステムを全て刷新して対応していくというのではなく、リノベーションの如く必要箇所に修正を加えて順応していく能力が必要になる。それは、個人のレベルではない。一つの組織、体制として、情報はできるだけシンプルな形式で整理してストックし、出力に応じて対応させていく。

あぁ、忙しない、と溜息がでる社会かもしれない。

が、そんな加速度的に進化し、効率優先で無駄を省くシステムからは、享受できる利便性も高いのだ。「らくらくフォン」的な甘えは、もう許されないかも知れない。今でこそ、そんな風に次々出てくる機能に、ギブアップしてアナログで生きている人たちも、テレビだって完全にデジタル化される世の中なのだ。うまく言えないが、10年先、進むものはどんどん進んで、元あったものは残しましょうという機会が減少するのは目に見えている。それだけの需要が無くなるからだ。

昔むかしの人々は、きっと、今のような「変化」を敏感に察知して遊牧していたはずだ。もっと敏感に天候を先読みし、知恵をだして定住していたはずだ。

それは、個人個人のレベルでもそう、一つの村や国家という体制でもそう。いやいや、その延長線上にクロスメディアなる変化はないよと言う人がいるなら、コンビニでチンしたレトルトを食べてる以上、「それは言えないでしょ」と言われるのがおちだ。

これだけ便利になった時代、だからこその加速。
だからこその変化なのだと受け止めるしかないだろう。


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