ワンガリ・マータイというケニア人女性が、2004年のノーベル平和賞に輝いた。
昨年のエバディ(イラン人)さんに続き、二年連続で女性が受賞したことになる。
僕は、このニュースを屋久島で知った。
何をした人だろう、、、と記事を読み進めると、植林活動とある。・・・えっ?と思った。
昨年の場合、社会的弱者の女性と子供の権利を主張し・・・云々と、「はぁ、そういう人か」と理解し、ぼんやり「平和」が合致した。が、今回はそうではない。
環境=平和?
僕の目の前には、樹齢数千年の屋久杉が鬱そうと生えていた。
環境ねぇ、と一呼吸おいてから「京都議定書」の事を考えた。ロシアの動きで、その意義にまた脚光が集まりだしていたからだ。地球温暖化、異常気象。フランスでは昨年の夏、猛暑のために多くの人が亡くなった。この屋久島にやって来る時も、今年に入ってから9個目の台風が上陸しようとしていた。熊は食べ物を求めて日本列島のあちこちで出没し、レタスは高級京野菜ほどの値段を付けた。
台風が接近、上陸、そして温帯低気圧に変わるころ、翌日の新聞には「死者○名」という文字が並ぶ。熊に襲われて死ぬこともある。野菜は今までのように手軽に手に入らず、健康を損ねて死に至るかも知れない。

「環境・・・ねぇ〜」

マータイさんは受賞決定後の記者会見でこう述べた、「木を植える時、私たちは平和と希望の種を植えている」「地球環境を守ることは平和を守ることに直接つながっている」(共同通信)と。数十本という単位から植林を初め、コツコツと持続させ、数万本にまで来た彼女の活動。
環境=平和。まだしっくりこない。
続けて彼女は、「多くの戦争は資源をめぐってのことで、資源はどんどん減少している」と述べる。平和の対義語、それは「戦争」「動乱」ということになるのだろうか。戦争の同意語、それは「死」。

ようやく僕の頭で合致し始めた。
つまり、環境を守る→資源が増える→行き渡る→戦争が減る→死なない。

そこに来て今回の台風23号の上陸である。今年に入って10個目だ。死者の数は80人を超えた。平均すると、一年間に上陸する台風の数は2〜3個であることから考えると、やはり異常だ。発生する台風の数と上陸する台風の数でどんな関係があるのかは分からないし、そもそも、そこに環境破壊や異常気象がどうリンクしているのかも分からない。が、やはり、印象的に「環境」は破戒され、もしかすると、地球から何らかのメッセージがおくられているのでは、と思ってしまう。そう感じる以上、僕の中で、いや多くの人の中で、今、環境が破壊されていると強く思っているに違いない。SOS。手を差し伸べるべき市町村では、忙殺によって避難勧告が遅れたとか。言ってみれば、そちらの方がSOSの状態。そこまでもろい危機管理体制に唖然とする。

僕らは毎日、快適をもとめ、確率の少ない「危機」に対して鈍感になっている。目に見えて実感できる「戦争」にばかり反対する。その反対にある「平和」を求める。平和という形なきものを求め、それでよし、とする。
平和、平和、平和。もう、これは一種の呪文だ。

何が平和か。戦争じゃない状態だけを示すのではない。
差別、虐待、孤立、異常気象。それらがもたらす「死」。そこからいかに脱するか、遠ざけるか、そのための災害対策であり、児童虐待防止センターだ。それらをしっかり確立することが、平和への道であり、そのための活動だ、ということになる。

戦争を止めよう、なぜなら、死ぬから。
危機管理を整えよう、なぜなら、死ぬから。

そんな一つに、環境を守ろう、というのがある。
なぜなら、死ぬから。

平和活動の枠が広がり、日々、日の当たらぬ所でコツコツと継続的に活動する人がいる。今回、そんなマータイさんの植林活動に光をあてたノーベル賞はすばらしい、と思う。かつてはアラファトや金大中に平和賞を与え、なにが平和だ!と怒りをかっていたが、今年の場合は、ほんとにすばらしい、のではないだろうか。

破戒せず、殺さず「生きる」ことを目指そう、と思う。そんな平和のために動こうと思う。
なぜなら、そうしないと、死んでしまうから。

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なぜなら、死ぬから

2004年10月23日