■2019年7月13日
「梅雨は手強いですが。」

雨が降ったり、寒かったり、降ってなくても曇天で、梅雨だなぁ、と実感する今年の7月。「あれ?梅雨って、もう終わったの?」と実感乏しく空梅雨だったここ数年から考えると、しっかりとジメジメしてました。

そんな梅雨も、もうじき終わり、夏が来ますね。夏=夏休み。わが家では、息子の学校の夏休みと同時に、夏が来る、という感じです。

自由研究はどうするか。応募するポスターには、何を書こうか。そもそも、ず〜っと休みの平日を、どう過ごすか。もう少し、大きくなれば、子供たちだけで出かけるのでしょうが(そんな時期が来るのも、また寂しいですが)、まだ家族でのお出かけが中心です。

土日は、私も含めみんなで出かけますが、平日はもっぱら母・息子でのお出かけになり、その行先候補が、家族共通のスケジュールアプリにどんどん入ってきてます。

東京にいると、夏休みにキッズプログラムが多くて助かります。省庁が主催のキッズデーでは、各省庁から、夏の2日間、いろんなプログラムを開催してくれ、行ってから決めていては回りきれない量なので、行く前から品定め・・・。と!さすがは公務員!エクセルに羅列されただけのプログラム・・・。

文部科学省はやる気がないな、とか、え!?副大臣と写真撮影?(って、誰、それ〜)などなど、オモシロイものも多く、せっかくなので、普段は体験できないプログラムを狙って、申し込みをしていました(妻が)。

その申し込み方法も、往復はがきですからね。さすがです。10年、20年前なら、宮内庁が管轄する桂離宮とか御所などの見学応募は往復はがきでしたが、それも完全にインターネットに変わっている今、あえて、の往復はがき(往復はがきって、今、いくらなの?と思えるほどなのに)。

まぁ、それはいいとして、やっぱり、こういう機会は貴重です。鉄道好きの子も、科学に触れることが出来るし、国会図書館の地下倉庫を探検できるなんて、まるで映画「ニューヨーク公共図書館」の世界じゃん、と想像できるし。

これは、行きたい、私が、行きたい。と思って、いろいろと休む方向で考えましたが、ちょっと長期夏休み休暇の前だけに断念。息子と妻から、土産話をきくことで納得しています。

他にも、ワークショップ系のイベントも多く。劇団員と一緒に演劇したり、ヒップホップダンスをしたり、もちろん、木を切ったり、どこかへ登ったり、と。なかなか満載の予定で、これは、また息子も真っ黒になるな、と、こちらがにんまりするばかりです。

そんな夏休みをぼんやり想像しながら、にんまりしますが、明日、また、雨予報ですね。なかなか今年の梅雨は手強いです。

わが家はここの所、連続で味の素スタジアムに通い、FC東京のサッカーを観戦しているのですが、今まで、3試合連続で雨です(神戸に負けた試合から、マリノスに劇的逆転勝ち&久保健英の壮行セレモニー、そして前節のガンバ戦)。

で、明日の多摩川クラシコも、雨予報です。まぁ、もう、慣れましたけどね。試合がオモシロかったら、気にならないものです。ただ、青赤パークに行けない分、残念ですけどね。

それにしても、ここのところの日本人プレーヤーの活躍がすごいですね。いろんな競技で、びっくりのニュースが飛び込んできます。

参加することに意義があった五輪時代さながら、NBAの試合に出た!というだけで大ニュースだった日本のバスケットボールが、なんとドラフトの1巡目、それも全体の9位で八村塁が指名されるという快挙。

正直、それがどこまでの快挙なのかピンときませんでしたが、ある人が「アポロが月面着陸したぐらい」の驚きと快挙というので、想像ができました。

サニブラウンは、世界一を堂々と口にして、世界記録を狙うと言います。そういう感覚で陸上100mという花形に挑む彼には、国内の試合は敵なしでしたね。なんだか、これからが本当に愉しみで、大坂なおみと同じく、世界で活躍できる未来が現実になりそうです。

世界的活躍、というのが、なんというかお家芸と言われた柔道や器械体操だった時代から、まずは競泳という花形競技で世界的活躍の風穴を開け、今や、【ほんとうの意味で】世界中の人が知る選手が出てきましたよね。

レアルとバルサに日本人の若者がプレーする、なんてことになったら、これこそ正真正銘クラシコ。本当にすごいですよね。

そんな中、先週から始まった新ドラマ「ノーサイドゲーム」。再来月の9月から始まるラグビーワールドカップを強烈に意識した番組編成ながら(同じように、オリンピックの前年に、オリンピックものを!と意識して始めた『いだてん』が、軌道に乗り切れていませんが/個人的には、阿部サダヲ主演のクールになって、クドカンワールド全開で面白い)、内容がめちゃくちゃ面白く。

やっぱり原作の力かな?と、池井戸潤+日ドラの安定感を感じさせます。そこに大泉洋がぴったり。だいたい、初回で一気に面白くして、中盤だれつつも、ついつい見て、最後にガッと面白くなる傾向から行くと、気運が昇り調子のころに、ラグビーワールドカップのニュースが飛び交うんでしょうね(初回の視聴率もよかったみたいです)。

いや〜、夏はいいです。スポーツがことのほかすごいです。高校野球もありますもんね。アメトーークで高校野球大好き芸人がお蔵入りしたとはいえ、去年の大スター、根尾がようやく1軍に入って、今年もまた、スターが生まれるんでしょうね。大船渡高校の佐々木朗希が甲子園に出たら、完璧に大スターですよね。

ただ、、、甲子園で大スターになると、なかなか順当にスター街道はなく、逆に、大谷翔平のように、夏の甲子園に出られない方が?プロになったら飛躍するということもありますからね。(そういう意味では田中将大ってすごいですね(ま、悲劇のヒーローみたいな扱いでしたが)。

なにはともあれ、夏です。冷夏予想もなんのその、きっと猛暑です。とける〜、とか何とか言いつつ、熱くたのしもう!と思います。

さ、OCEAN PEOPLES 19に行くとするか。Rickie-Gだぁー。



■2019年7月6日
「じゃないコト」

回転イノシシ、のろまなチーター。真っ直ぐ、高速で走るモノごとの「逆」は、つまり「嘘」なんでしょうか?

象の鼻も、キリンの首も短くて、四角い地球から、凍った太陽を見上げる世界でついた(私の)ため息は、はたして「本当(本物)」なのだろうか?という詩を書いたことがあります。

じゃないコトは、嘘で、本当のことは覚えた通りで学んだ通り、という一辺倒が恐ろしいことだと気づくきっかけは、「そういう人」には難しいですよね。

いろんなものに触れて、いろんなことを見聞きして、いろんな方向から考えて、いろんなものを認めるという理想世界から、そうじゃない世界を眺めても、ややこしくて、面倒で、見て見ぬふりで、自分には関係ないから、と思ってしまうのも事実です。

ここで、一つ問題があって。こちらの世界と、あちらの世界の、どちらが本当なのかを考えると、「自分のいる」世界のことが本当で、そうじゃない方を間違いだと思ってしまうことです。

「自由主義は時代遅れになった」と発言したロシア大統領の言葉が鋭くささります。

自由はいいことだ、という主義の中で、その自由を守るための自国第一主義や大衆迎合主義走ることに対しての言葉だと言いますが、ある側面では、そう発言してしまいたくもなるのかな、と思います。

何もかもが自由、という中で、自制しつつ欲求を満たし、幸せであり続けることの難しさから、安易な方向へと政治が動く。そんなことが、「選挙」の前では繰り返されています。

そういう意味では、消費税増税、憲法改正という、ある意味ブレずに掲げるテーマは、判断材料として十分だと言えます。

6年に一度、じっくりと審議して、道を決めていくとされる参議院議員を選ぶ選挙が行われます。自民圧勝の声の中、自分の一票をどう使うか。比例の政党、小選挙区の政治家はどこがいいか、誰がいいか。う〜ん、と・・・(って!)悩めますか??

消費税に反対という分かりやすい政党は分裂して、票が分割するから対抗勢力には到底なれず、批判しては議論の時間をのばして、それだけ「考える」時間を国民に与える役割?だけのようになった野党が増えるばかりですよね。

ある意味、盤石。強すぎるから嫌いな横綱みたいな拒否反応で、少し票は余所へ流れるかもしれませんが、概ね自民圧勝は間違いないでしょうね。これは、投票率が悪そうですね〜。

ちなみに、7月21日は選挙だね、というと「え?そうなの?」という反応は【普通】ですが、自民党と他にもうひとつ、政党名を挙げてみて、とたずねてみると、共和党と言い出す人もいて、社会党でいいんだっけ?あれ?民主党ってまだあるんだっけ?というオリーブの木状態。低い木が一面に野党の森に立っています。

今、この一票を手に、本当の未来に向けてを投じたいのに。そのハコがないことの嘆き。それが、何年も続いているように思います。それだけ平穏、なんだかんだいっても、不満がないんでしょうね。

幸せな時には、そうではない時の準備を、その逆もしかりで、これは、常に大事なことなんだと思います。

20年以上も前、私は、ひとりで(そんなに)お金も持たず、海外を旅してきました。駅に行けば行ったでトラブルが起こり、乗り合いバスも安宿も、それはもう連続したトラブル(だらけ)。

あの頃の私は「トラブルが起こるまで、そのことは考えない」と決めていました。

夜、眠る前に「明日、こうなったらどうしよう」、「あれが使えなかったらどうなるんだろう」云々、悶々と考えていると、もう眠ることすらままならないことを経験してからの事です。

大事なのは、トラブルが起こった時の対応。柔軟に対処できるかどうかだ、と。そんなことをしているうちに、何度もトラブルに「対応」し「対処」できるうちに、トラブル自体へのおそれみたいなものが薄らいでゆき。

元々、これでもか、というほど云々、悶々と考えていたからこそ、その場で対応・対処出来ていたのに、そのところがすっぽりと抜けて、変な自信で「大丈夫!」と思いだしたころのリスクを考えれば、本当におそろしいことでした。

命を守るための行動。九州を襲った豪雨で繰り返されたのが、この避難指示。大丈夫(だろう)という気持ちを追いやって、避難することが、命を守る行動。

避難したときと、そうじゃない時の差が、取り返しのつかないことになった例が多いだけに、テレビでも頻繁に繰り返された言葉でした。

これまでも大丈夫だったから、大丈夫だろうという気持ちに訴える言葉として「命を守るための行動」という言葉は、避難指示と避難勧告の違いの分かりにくさに比べて明快です。

今の状態の「じゃないコト」を考えること。今の自分にあるモノ/コト、「じゃない」方向を見聞きすること。これは、本当(正解)だとされ学び覚え、時に経験したことに縛られてしまわないために大切なことなんですよね。

これは、ある意味で備えとなり、根本的には広さや大きさ、優しさにもつながることだと痛感します。

変に固執して、先細る。そんなの嫌だと頭で否定していても、「じゃないコト」へのコンタクトは、心が拒否しますよね。なんなんでしょうね、この感覚。歳を重ねれば、余計にそうなります。

ずーっと、昔の音楽を聴き続けて、「今」の音楽に〈耳をかさない〉とか、ついつい、発言の最初が「昔は、」とか「今までは」とか「かつては」とか。その例を正解の如く話してしまいます。

もう、黄色信号が点滅して、赤になろうしている状態ですよね。頭ではわかってるんです。ここに、そう書いている私自身も、そうです。

が、拒否感があるんですよね。最近は、「じゃないコト」を「新しいコト」と言い換えて、便利に「それは分からない」とか「それがなくてもやっていける」なんて思ってしまうから、・・・【赤】ですよね、もはや。。。

いやぁ、赤面します。考えれば考えるほど、けつをまくっているようで。頭で分かっている(少なくとも、それぐらいの)ことは、心で拒否しても、「じゃないコト」をしっかり見聞きして、考えて、取り入れて、広げていきたい。

そんな機動力を、身に着けたいと強くここに思います。



■2019年6月29日
「間にあるニュース」

家のポストに投函される区の広報誌をめくっていると、「え、そうなんだ」「こんなサービスがあるのか」と思うことがしばしばあります。

私は新聞をとっているので、チラシと一緒に入ってきますが、そうでない方は、最寄駅などでピックアップするんですかね。と、よく考えると、毎日毎日スマホの画面を見て、SNSやスマホニュースを追っていても、知らない「自分の地域のこと」は多いですよね。

それは、大きな網の中から抜けて落ちているモノたちで、だけど身近で重要度が高い、という反比例状態にあるというか。

それなら区の広報をフォローすれば、SNSやメールで同じ情報は配信されているだろう、と、まぁそれはそうなです。が、手のひらで操作しながら「見ている」ものと、紙になってめくって「読む」ものとでは、(私の育った年代の影響が大きいですが)違うように思います。

つまり、スピーディーにパンパンと飛んでくる情報をキャッチする(卓球のラリーがイメージ)と、何度か校閲して校正を入れてから発信する情報(キャッチャーとピッチャーで首を振りあってから決める次の1球がイメージ)の違いとでも言いますか。

なので、受け取る側は勝手に量と質の棲み分けをして、取得する情報を精査しているように思います。現に私の場合、その勝手な棲み分けから、区の広報誌で新発見をしたりするわけです。

先日、TBSのNEWS23で「ニュース砂漠」という特集が組まれていました。地方紙で日刊紙が1紙もない地域、あるいは週刊・月刊しかない地域が、アメリカでは増えているようです。そこをニュース・デザート、ニュース砂漠と呼ぶようです。それが、問題になっている、というのです。

(NHKでもない限り)取材したニュースを配信し、紙面を組み、送りだすのは「お仕事」で、広告収入を見込んだ利益が必要になります。広告を出すか出さないかは、その媒体が浸透しているかどうか(広告価値)で決められ、浸透させるためにはオモシロイ紙面でなくてはいけません。

大きな媒体が取り上げるニュースと、SNSなどで「友人同士」だけが分かる小さなニュースとの間、地域社会におけるニュースを伝えるというのは、なるほど、これだけデバイスが増えると難しいですよね。(広告価値という観点からも)

地域の広報ではなくニュースを取り上げ、問題提起する新聞(媒体)は、なので苦境し、儲からないから廃刊(ナッシング)となっているようです。では、その(バッテリーが投げる次の1球というイメージの)ニュースは?住民はどこから取得すればいいのか。確かに問題ですよね。

先述の番組の特集では、非営利組織からのニュース発信が、一つの解決策だと言っていました。確かに、それもあるでしょうが、砂漠の中で、必要な分の水を送り出す「川」になりえる妙策でもないよう(数的な課題)に思えます。

かといって、廃刊(ナッシング)、もしくは現状維持で継続(オール)のオール・オア・ナッシングで検討する段階はとっくに過ぎている今、、、

この<間のニュース>をどうしたらいいですかね。

雨がたくさん降る場所から、離れた地域にいて。だったら雨の降る地域へ行けばいいと居を変えた歴史。忘れられたように干からびた砂漠。脈略もなく、大した意味もないですが、ふと、単純に、ラストベルトという言葉が浮かびました。

ニュースが機能しなくなると、一辺倒の言葉(考え方)が簡単に入り込んでしまって、なんだか大きな流れを生んでしまいそうで不安です。

必要なのは、この<間のニュース>を、しっかりと見極めて、ピッチャー・キャッチャーのように何度か首を振りあうように、精査して、しっかりと「見つめる」人が存在し続けられること。そんな方法はないかということで。

責任の所在がはっきりしつつ、そこに誇りを乗せて伝えてくれるニュースは、SNSや地域コミュニティーの掲示版(ネット上)では不可能な話ですからね。

なぜ不可能なのかというと、例えば、スーパーで売っている野菜に、「農家の顔」が載っているように、掲示板も身元を明らかにして、責任をもって伝えればいい、なんて言い出すと、「その人にとって得することはない」ですからね。

農家の顔の場合は、だから安心して買えて、売上が伸びるという広告要素ですが、掲示板のそれは違います。だから、非営利か。ふんふんと、こう考えても、解決策の(一つの)正解のようにも思えるのですが。

う〜ん、自分の住んでいる地域に、NPOが立ち上がるような想像も出来なければ、もし「組織」立ち上がって、それが動き出すと、より多く、より大きくと自然と向かっていくようにも思えて。

紙かデジタルか(ハード面)の判断には、印刷工場や配達員などの利益確保という「守り」の問題を除けば、結論は出ているように思えるのですが、コンテンツの問題ですからね。扱うニュースの持続可能性。

質を保った投げかけで、地域の判断基準になりうるものの行方は、発信側が独り相撲で「ここに掲示します、ここに配信します」というので済まされず、本当に厄介な問題です。

<間>で抜け落ちそうな、質を伴ったニュースの行方。これに対応策が講じられれば、もしかして、投票率も上がるんじゃないか?と思えなくもないです。

それは、視聴率ばかり気にする「みんな」の考え方(価値の置き方)が、違うベクトルをもって評価される流れへと、大きく変わるようにも思えるからです。

私の住むマンションでは、代表者が理事となり、そこで話し合われたことが議事録でのこされます。議事録は印刷され、全戸配布されるようになりました。昨年まで、誰もがアクセス可能な「ネットワーク上」にアップしていたのですが、それでは伝わり切らず、(お知らせや広報の類ではなく、検討・決定事項を伝える議事録であるので)確実に届ける方法として、、、紙の復活でした。



■2019年6月22日
「熱海と別府」

宴会場(で)団体さん(の)慰安旅行。そんな「昭和」のかおりをぷんぷんさせて、おっちゃんたち(が)浴衣(で)大広間、ビールを注いだり注がれたりで、「まぁ、まぁ、まぁまぁ」とやっている。

そんな画がパッと浮かぶ【古臭い】温泉宿と、イメージがぴったり合致するような熱海と別府が、どうやら、最近、大変身を遂げているらしいぞ、と伝えるニュースが盛んです。

首都圏から気軽に行ける温泉街として不動の地位にあった熱海は、箱根や草津など多くのライバルが素早く時代に合わせて「変身した」のに後れを取った感がありました。

別府も、日本一の源泉数で福岡、広島、大阪から「黙ってても」人が来ると胡坐をかいているうちに、湯布院や黒川などの台頭に追いやられた感があります。

よく言えば昭和レトロ。でも、実際のところは古臭いというイメージから、どちらも抜け出せてないと思っていました(特に、宿の水回りや、大浴場などの造りが)。

しかし、ここに来て。

元々豊富な源泉と湯量を誇り、温泉宿が多く、何より「海」という武器を持つ熱海と別府は、そのメイン素材をベースに、〈最近モノ〉を絶妙に塩コショウすることで、脱皮したらしいのです。

熱海は、1957年に始まった歴史ある花火大会を見直し、現代にあった形(温泉に浸かりながら見られる花火)を定着させました。意外に安くて、結構おしゃれじゃん。そう思って熱海へ向かうと、玄関口の駅も新しくなり。

海にビーチに、熱海銀座は新宿ゴールデン街よろしく、それはそれでいとをかしで、翌日、ロープウェイから眺める海と街並みはまるでリビエラ。もしくは南イタリアの地中海じゃないかと。

ロープウェイを上り切って、リニューアルされたばかりの展望台から眺めたら、ここは外せない?熱海秘宝館で笑う。なんとも、これぞ熱海という楽しみ方が出来ます(宴会しなくても)。

何より、星野のリゾナーレ熱海や「ATAMI BAY REAORT KORAKUEN」などリニューアル・ニューオープンのオオバコに加えて、隠れ家・ゆったり・間接照明(灯篭)で大人も惹きつける宿が次々リニューアルオープンしている所が、熱海の強さなんでしょうね。例えば「月のあかり」。ここはセンスのいい人気の隠れ家です。

さらには、初島がありますからね。熱海から30分、首都圏で一番近い離島を謳う初島は、グランピングあり、子供たちのアスレチックあり。もちろん、海の幸も堪能できて、マリンスポーツからアジアンリゾート風のテラスまで。素材は、そろってますよね。

別府はどうか。ここは、別府プロジェクトがすすめたアートがあります。アートと湯けむりの町を目指して、あちらこちらにアートをちりばめ、別府=アートというのも根付いてきたかな?というこの段階で、「ANAインターコンチネンタル別府リゾート&スパ」がオープンですからね。

どうだ、バン!という満を持した感があります。ANAインターコンは、アジアンビーチや沖縄で展開するようなリゾート体験を売りにするもので、そのノウハウを別府という温泉街で体感するラグジュアリーの提案です。これは、もしかすると一つの大きな流れを作るかもしれません。

熱海も別府も、まずは「人」を惹きつける施策を公が先導して始め、それに上手く乗っかろうと、重い腰を上げてリノベーションした店や宿も多かったと言います。それが、ボトムアップ的なパワーに変わって、成功したんでしょうね。

そもそも、古いだの、ダサいだの、モサいだの、そんな風に感じていた世代とは違う次の世代、今の若者には、熱海は温泉に入りながら花火が見られて、フェリーで離島にも行けるところだし、別府はアートとラグジュアリー体験ができるところ、という印象なんでしょうね。

そんな新しい注目スポットとして、すんなり受け入れる世代に、底力を見せつけた熱海と別府(という感じでしょうか)。

そして、訪日外国人の存在です。もはやATAMIとBEPPUは、東京、大阪、富士山という「一回目」の旅行を済ませたリピーターが目指す場所(温泉地)。

外国人の温泉ブームに、しっかりと乗っていると伝えるニュースが多いです。反面、あくまで日本人は箱根で、外国人が熱海に集中する?というような変な棲み分けで、それぞれの温泉街が「それ色」に染まってしまうのは嫌だな、と危惧しつつも、熱海、行ってみようと思います。

押しも押されぬ一大スポットだったエリアが、古臭くなって廃れ、もう一度復活する姿。もしからしたら、全国に溢れているそんなものの象徴として、熱海と別府の復活は、どこか気持ちいいものでもあります。

昔はよかった。でも今は、と嘆いてる親の背中を、しっかりと支えて「自分なり」に立て直していく子供達。そういう自営の宿や店の「継投」もあるんでしょうね。

そこには、何というか、技や空気感が濃厚だし、何より、関わってきた人の数が膨大です。それが、たぶん、〈そういう〉宿や店では財産で、初めて訪れても、いくら柱や壁、内装が新品でも、雰囲気がしっかりと定着しているんですよね。

訪日外国人がANAインターコンで、まるでプーケットのような楽しみ方をすることは考えにくく、オオバコのホテルを出て、アートで溢れた別府の町を歩いて、ところどころで触れる「しっかりと定着した雰囲気」。

クール・ジャパンというのがあるなら、それはマンガやオタクではなく、「これ」かもしれませんね。

外資が、その土地の雰囲気ごとガサっと「買い取る」のではなく、そこにある雰囲気を借景に「資金」をつぎ込む。アマン的な開発と展開が、熱海・別府で盛んになると、今後がほんとうに楽しみになります。

もちろん、同じような取り組みをしている町や村はたくさんあります。過疎地の活性化を目指して「現代アート」というエッセンスをつぎ込んでいる場所も多いです(流行りですかね)。

だけど熱海と別府、とは違う反応を示してしまうのは、なんでしょう、「あの熱海が?」とか「へぇ〜、別府がね〜」という、これまでのイメージがこれでもか、というほどに固定されているからこそ、そのギャップの反応なんでしょうね(そういう世代には)。

これから、熱海に本格的に外資のリゾートが入ってきて、本当にリビエラみたいになったりして、と心配するのは杞憂でしょうか。思えば、アマンの創業者は、このあたりに、リゾートの神髄を感じたとも言われています。

温泉地、リゾート、海も山も、食も遊びも雑貨もアートも。再び、集まり始めるかもしれませんね。



■2019年6月15日
「2000万円ショック」

2000万円。老後、年金以外で必要となる試算(合計金額)として金融庁から提示され、そのインパクトからか、いろいろと話題になっていますね。

先日、全財産を元妻に渡して離婚する、と発表したビートたけしさんに、弟子のダンカンさんは「殿は、2000万円あるかどうか心配」というようなコメントを出していました。(発表した)金融庁の言うところによると、不足する2000万円は、夫婦二人で、だそうです。

それを受けて、やいやい言いたい放題の野党と、しゃべり方がぐにゃっと歪んで感じる大臣の返答。果ては、年金問題でつまずきまくりの総理大臣が、夏の参院選だけを考えて、おろおろする構図が、連日、テレビや新聞で盛んです。面白いことに、SNSやスマホニュースでは、ほぼ見かけません。

選挙=投票する人=年金が身近な人、というこの国のいびつな年代構成を、こんなところでも見て取れるというか。お隣の香港で、学生が中心となってデモを行っているのを見ると、「国」と対峙して、どう向き合うかの感覚が、ここ十数年の若者とは乖離しているように思えます。

結果を急ぎ、なんとか日本国民の目を「外」に向けようと?してか、あわててイランを訪問した安倍総理の、まぁすべった感じが表すように、今、政治に対して、良いも悪いも代案もなくて、実感なしで「ツクラレタ」データで、好景気だといい出し、(データ上でさえも)そう好調でもなくなると「前よりましだ」という、なんともおろそかな始末。

何なんですかね、あの、民主党議員に質問されると「民主党政権時よりもましでしょ」という安倍さんの言い方。あれは、ちょっと、今日日の子供の喧嘩でも言わないのでは?挙句、民主党じゃない議員にも言い出して、「私は民主党ではないですからね」と言われてました。

まぁ、それでも、「(自民党の)代わりに」任せるところがないのが現状です。厳しいですよね〜。

東京オリンピック・パラリンピックに向けて、とにかく今は突っ走れ、と、見て見ぬふりして(後回しにして)生活してますが、これ、いつか、どかっと(それは年金並みに)しっぺ返されるんでしょうね。

※だから、そうならないために、自分のことは自分で、投資しろと、いうことなんでしょうが・・・??

ポスト五輪、2021年からの東京を考えるプロジェクトが、去年ぐらいからどんどん立ち上がってます。

が、それらも実感乏しく、私も見て見ぬふりの一人なんですが、ふと、近所で大規模な工事が始まって、工期終了が令和4年となっているのを見て。そうなんですよね、うまく言えませんが、そういうことなんですよね。私にとっての年金も、2000万円も、そういうことなんですよね。

五輪後の2021年かぁ。それは、新しいアメリカ大統領が就任する年です。大学入試は、センター試験に代わって新しい方式に移ります。このまま安倍さんが総理大臣で続いたとしても、任期が切れてポスト安倍の時代に入ります。

東日本大震災から10年、9.11同時多発テロから20年という節目でもあります。

カタールではサッカーワールドカップが開催され、大阪の長居スタジアムはサッカー専用の桜スタジアムに生まれ変わります。大阪と言えば、この年にいよいよWホテルがやってきますね。

×1年という年は、世界中を震撼させる震災や戦争・テロが起こるという周期?なのか、1991年には湾岸戦争が起こり、20世紀最大規模の噴火ともいわれたフィリピンのピナトゥボ山大噴火がありました。高確率で予想されている大地震、大津波も、心配でなりません。

2021年の息子の年齢は未来ですが、同じ歳だった私の過去、1986年には何があったのか。調べてみると、なんとこの年(私が10歳のころ)まで、江戸時代生まれの人が生きていたということに驚きます。

青函トンネルがつながり、アメリカではスペースシャトル「チャレンジャー」号の爆発事故がありました。チェルノブイリの爆発事故もこの年でした。

そんな中で、男女雇用機会均等法施行されたり、企業がコーポレート・アイデンティティ(CI)を導入したりと、その後、数十年後にようやく定着することの始めの一歩を踏み出した年であったことも分かります。

ちなみにこの年のサッカーワールドカップはメキシコ開催で、決勝戦はアルゼンチンと西ドイツでした。今は、地図上にない国名(ソ連とか)も多かった時代です。

私自身の10歳からの世界(と日本)は、激変でした。何しろ、ドラクエが発売になった年から、今までの変化ですからね。2021年、息子は10歳になって、それから先のことを考えると、もうどんな変化が起こるのか想像するのも難しいほどです。

「あ、おれ、こんど10日間、月にいくから」とある日突然、遠い旅先を告げられ、こどもが生まれたら、金星まで面倒に来てくれないか、と頼まれたりするのか。

ずっと先が、明日・明後日のことになると、その時点の「今日」は、今とぜんぜん違って、さぁ良くなってるのか悪くなっているのか。その良し悪しの基準は、いったい、どこに置くのか。根本が、どうやらガラリと変わりそうなだけに、その判断基準は難しそうです。

そんな未来を生きる世代に向けて、老後に2,000万円不足するから投資しよう、金融商品をかって、活性化しよう!という呼びかけが、どれほど無意味で、どれだけ無謀で、どれだけ無益か。

大臣が受取拒否する資料を、本当に、何のために作ったんですかね。「国」が発表することで、ほいほいと動き出す国民だと思われたことにも腹立たしい、というか。

まぁ、そうは言っても、この件で、少しでも老後のことを考える人がいれば意味がある。苦し紛れのコメンテーターの言葉を借りれば、あ、まぁ、そうなんでしょうね。と。考えてみました、私たち夫婦の老後。

リーマンショックを受けていろんな慣習から解き放たれ、新しいものも生まれました。それにならって、この2000万円ショックから、私たちも何かを、生まないと。

出てきたのは、たった一つ。見て見ぬふりして、見過ごさないということでした。見るべきを直視して、その結果を行動に移そうと。

梅雨入りした東京の、じめじめした気候も手伝って、本当に頭の痛い現実です。

先日、米ワシントン大や国立長寿医療研究センターなどの日米研究チームが、加齢で減少する物質を押えるための酵素の抽出に成功して、それを注入すると若返る、というようなニュースがありました(朝日新聞)。

老後、それは若返った老後。元気に暮らすための2000万円。よし、直視、直視で行きます!



■2019年6月8日
「あいしてるトーキョー、ららららら〜ら」

向こうのゴールで、キーパー・林がキャッチして、ボールをこちらに送る。ホームゴール裏ではサポーターが「カモン・トーキョー、カモン・トーキョー」と声をあげる。いやぁ、今年のFC東京は、試合が本当に面白いです。

息子がサッカー好きということで、4、5年前からちょくちょく味の素スタジアムに足を運んではFC東京の試合を見てきましたが、確実に、ケンタ・トーキョー、長谷川健太監督になってから、サッカーが変わりました。

就任一年目の去年は、かつての阪神タイガースよろしく、スタートダッシュは決めたものの、後半は息切れ。ずるずる順位を下げました。が、今年は、何もかもが違います。

まず、開幕戦となったフロンターレとのアウェー。ここを引き分けたのが大きかったのか、ホーム開幕戦のサガン鳥栖からホームでは負けなしの怒涛の勢いです。わが家も、これまでサガン鳥栖、エスパルス、アントラーズ、ジュビロ、大分トリニータと観戦し、「トーキョー、トーキョー、ね〜むら〜ない、まち〜」と勝利の合唱に酔いしれています。

特に、ここ2試合は、勝利後、スタジアムを回ってきた選手たちと一緒にユルネバ(「You'll never walk alone」)を大合唱するスタイルになって、もう、気持ちは高ぶるわ、心地いいわで大変です。一体感、みたいなものが生まれてきて、いい雰囲気だなぁ、とかみしめつつ。

来週はヴィッセル神戸戦です。今年初の夜の試合観戦になります。去年8月のヴィッセル戦も行きましたが、イニエスタ効果で味スタは超満員で、おそらく来週も同じような感じでしょうね。去年はイニエスタ、出ませんでしたが、今年は、調子のいい東京が、イニエスタにどう挑むか(いや、どう料理するか?)。

永井、ディエゴという突破力抜群の前2人と、東京の代名詞、鉄壁の後ろ森重、室屋、小川、渡辺。その真ん中で、久保がファンタジスタですからね。たけふさ〜、たけふさー、っと何度叫んだことか。東、高萩、拳人、もー、最高です。歓喜を呼んでくれる選手たちです。

久保は、バルサやパリやレアル?と、まぁ、色々旅立つ先があがってますが、それまでは東京で!しっかり見ておきたいです。夏に移籍して、12月のE1とかで日本代表として凱旋?みたいな未来を想像しながら。

一つ、心配要素としたら息切れです。9月のラグビーワールドカップ開催期間中、アウェー続きですからね。阪神タイガースが高校野球で甲子園を明け渡す死のロードみたいな。それでなくても、スケジュールがタイトで、息切れ、だけ、なんとか、回避してほしいな、と。

順調にいけば、11月、ホーム味スタで30日のレッズ戦、ここらで初のタイトル奪取で喜びたい!と・・・。まぁ、そんな先より目の前の一つずつですね。今週のJリーグの中断明け、来週のヴィッセル神戸との一戦は、しっかりと勝ちたいところです。

考えてみれば、サッカーって、本当にワールドスポーツですよね。ラグビーやバレーがワールドを名乗っても、「え?それどこ?」という国ってあまりないですよね?野球に至っては、全世界から選手が集まってきているという理由からか?MLBの優勝をワールドチャンピオンと言ってしまう荒業。

トリニダード・トバコとの試合、なんてサッカーぐらいですよね笑。息子と二人、iPadの世界地図でどこにあるか調べました。ベネズエラの近くにある島国。息子には斬新だったようで、エルサルバトルに行ってみたいと言い出してます笑

そんなサッカーも、アメリカでは下火。アメフト、バスケ、アイスホッケーにベースボールという国でしたからね。なかなかサッカー熱は上がらなかったようですが、ここ最近、アメリカでもメジャーリーグサッカーというのを聞くようになりました。

この夏、ニューヨークのヤンキースタジアムで行われるニューヨークダービー、ニューヨーク・シティFC vs NYレッドブルズを観戦します!カナダでもプロのサッカーリーグが始まるし、次の次のワールドカップはアメリカ・カナダ・メキシコの共同開催だし。

ますます、ワールドです。ボール一つあればできますからね。それは強いですよね。今の、ヨーロッパと南米がつかんでいる「主流」を、この先、どこが取って代わるのか。そんなことなく、やはり、サッカーといえばヨーロッパと南米なのか。

そんな南米が、ヨーロッパサッカーから距離をおいたコパ・アメリカが今から楽しみです。たけふさが、どんなプレーを見せてくれるのか。いや〜、眠れないですね。

思えば。ローマのオリンピコでACミラン戦を見たころから、ちょうど「ナカタ、ナカタ」と声をかけられる頃、バルセロナのカンプノウでは、これぞサッカーなのか、と思った記憶まで。今では、ヨーロッパでのサッカーも、簡単にQRコードで観戦できますからね、時代の流れってすさまじいです。

わが家も、ドイツを中心にサッカー紀行を、次の次の旅では計画してみようかなと思うほど、どはまりです。

ミュンヘン、デュッセル、ベルリン、シュトゥットガルト、ついでにフュッセンでノイシュバンかな。もちろん、ビールにソーセージ、ロマンチック街道に興味はないけど、ローテンブルクには行ってみたいな。そうか、ヴィース教会も外せないのか。

そんなことを夢見ながら、まずは味スタ。代々木にホームスタジアムが出来るまでは、完全に、飛田給が東京のホームなので、予定が許す限り、通います!そして声をからします!応援して、喜びをもらいます!

スポーツってすごいです。梅雨が明けたら、釣りに行こうと歌ったものがありましたが、梅雨が明けたらスポーツ観戦です(私の場合)。7月には、味スタで観戦するのはもちろん、バドミントンのトーナメントも見ます。

妻ががんばって応募した有名サッカー選手のサッカー教室、もちろんプール。高校野球も、東西の東京大会は見に行きたいな。甲子園は、ちょっと、遠すぎるのでテレビ観戦だとしても、水泳に卓球に、東京オリンピックを想定して大会が行われます。

極めつけは9.15のマラソンでしょうか。日本のトップ選手がオリンピックを目指して走る本気の戦い。言い訳無用の真剣勝負が、もう今から楽しみになっています。

ここ東京で、特に向こう1年間、オリンピックまでのカウントダウンがスポーツの機運をあげて、わくわくしてきます。と、同時に、今年はハーフまでは無理でも10kmぐらいのコースにエントリーしてマラソンも走り切りたいな、とドキドキもしています。



■2019年6月1日
「今すぐ出来ることから」


ある団体やグループには、〈そうすること〉に疑問を感じさせない独特の空気感があって、それを慣習なんて呼ぶことがありますよね。それ、おかしくない?という意見を飲みこんで〈流れ〉をよくする、というか。

空気がそれを許した・許さなかった、ということが、事件になることも目立った一週間だったように思います。

ある市立高校でのバレー部顧問による体罰。殴る・蹴るという「指導」が、どこまで許されるのか、という問題ではなく、もちろん、やる側とやられる側の信頼関係(愛情)の問題でもなく。

バレー部で問題化したにも関わらず、すぐにまた別の部活で平手打ちがあったということから、この高校では、なんというか「あたりまえ」に存在したことの証明であるように思います。

甘やかすと図に乗る。こういう「体罰」が問題になって、どこまで許されて、許されないのかという論調になれば、何でもかんでも体罰と言い出して、生徒が図に乗る、という意見をよく聞きます。

これって、セクハラ(をはじめとするハラスメント)に似てるな、と。もっと言えば、児童虐待にも。つまりは、「どこまで」許されるのか、という線引きに走れば、境界線はあいまいになるので、一旦、全てをなし、とすることから始めるしかないんでしょうね。

あくまでも、それは、「体罰」、「セクハラ(嫌がらせ)」「虐待」ということについてです。入院するとか、自殺するとか、死ぬとか。そういう犯罪に対して、です。

その線引きって、はっきりしているように思います。子育てをしていて、これ、虐待かな?と浮かぶ場合は、だいたいしつけの域であって、それがエスカレートして、もう慣れてしまって感覚がおかしくなっているから、犯罪につながる虐待になるんでしょうね。

慣れてしまい、もはや疑問にすら思わなくなる。それは、とても怖い状況です。企業内倫理とか、内輪の論理というものに、感覚が麻痺した時に起こってしまう犯罪の数々。

これらを防ぐのは、「だらだらと麻痺したまま続けない」というのしかないように思います。

そのためには、あれ?これって体罰じゃないよな、とか、これって虐待じゃないよな、と逐一の気づきが必要なんですが、物理的な方法としては、さっきも、昨日も、一昨日も、同じことやってるな、と思えば、今日は、今は、しない、ということのように思います。

続けて何度も継続的にしない。それが、麻痺してしまった中で行う行動を、犯罪にしない効果的な方法のように思います。

ただ、大学のサークルでの一気飲みは、ノリとか空気とかいうモノが生み出す犯罪です。だから、即、断つべきものだと思います。

幼稚園や保育園で、散歩中に事故にあう。登下校時に事件に巻き込まれる。普段から気を付けて、それもしすぎる必要があるような世の中で、不可抗力に対して、これほど無力だと、一歩も外に出たくないと思えてきます。

18年前、小学校に男が侵入して児童が殺傷された事件。それからしばらく、学校という場が、性善説に立ちすぎて、無防備だったという風潮からか、今では、授業参観や運動会でも、学校に入る保護者は、それを証明するものが必要になってます。

つまりは、不審者を寄せ付けない取組が広がったとも言えます。何か、事件があれば、それを模倣するような事件が続き、それに対して対策を練って、防止する策が取られる。

今では、学校の行き・帰りの防犯が重要になってきている気がします。この不可抗力から、身を守る術。アメリカの小学校では、子供の送り迎えは常識で、子供だけで学校と家の往復をすることは少ないと言われてきました。

日本でも、すぐに、そうなる、とは言いませんが、そういう世の中になってきたのかもしれない、と思わなくもないです。

考えてみれば、朝・夕のラッシュ時、あれだけ大量の人が、階段を上り下りしていて、これって、ここで上の人が誰かを押し倒せば、すごい事故につながるな、と思いつつも、「何とかしないと」と思うだけで対策を止めていることも多いかと。

特に、老朽化に対しては、実際に大惨事がおこらないと、「かもしれない」だけでは重い腰が上がっていないようにも思え。高速道路や線路、駅舎、校舎、市役所などなど、不特定多数の人が利用する場所であればあるほど、そこは「しすぎる」ぐらいの対策と注意が必要だと思います。

飛行機が地上で動けるところは隔離されています。新幹線もそうです。なのに、車や自転車は、歩行者と入り乱れています。だからこそ、事故が多発しています。こうなれば、早急に、完璧な区分けが必要なんじゃないかなとも思います。

そんな急にはできない、ということで先送りして数十年。アクセルとブレーキを踏み間違えて起こる事故も、もう何度聞いたか分かりません。高齢者による自動車運転、パトカーに追われて逃げた末に起こす事故。

それらに巻き込まれる被害者。今、すぐに出来ること。それは意識の枠内が多く、それをしたところでどうしようもないと思えば、その意識すらしなくなります。すぐに出来る意識を、全員が持てば、その意識から一つも二つも大きな範囲、大きなコトでムーブメントが起こります。

ペイ・フォワードという、小さな変化が、大きなムーブメントを生むように、まずは、すぐにできることを。それを無駄だ、無意味だ、もっと大きなことを改善しないと・・・と繰り返していても、一気に、大きなことは起こらない。何より、これは、加害者になること、そして被害者になることから守るためなので。

体罰もセクハラも虐待も、不可抗力の事故も全部、まずは、今すぐ出来ることから。小さな、意識の変化を多くの人が少しずつ持ち、そうして大きく的確な、資金も工期もひっくるめて、変わるための動きを生み出す。必要なのは、これかな、と思います。

疑問すら思わない慣習、ただただ性善説にたって大丈夫だろうという神話、ここでこうなったら大変だという危機意識。それらを日々考えつつ、昨日までは「当たり前だった」ことが、今日考えれば「恐ろしかった」と思えることを増やしていくことが、本質的な安心につながるかな、と。

浅い川も深く渡れ、葦をふくむ雁、危ない事は怪我のうち、安に居て危を思う、川越して宿を取れ。昔から、用心に関する諺や言い伝えは多く、びくびくせずに、しっかりとした用心の元に。始めから完璧を目指してゼロでいるより、小さなイチから。

事件、事故に巻き込まれた被害者の方、ご家族、ご友人の方々の胸中を察し、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたします。

目指すべきは完璧です。そして被害者(同時に加害者)ゼロの世界です。そこに向けて、今すぐ出来ることを。



■2019年5月25日
「これからのことをギラギラとこねくりまわしています」

また、ひとつ、歳を取りました。もう、ため息すら出ず、それどころか、ひとつ歳を重ねることができて(無事、生きていて)よかった、と胸をなでおろしながら、感謝!と叫びたくなるほどの毎日に、ありがたや、ありがたや、です。

誕生日というタイミングで、何か節目的なことをするのも、ここ最近はなく、続きが続いて面となって重なって、やれ息子の運動会だの、週末のお出かけの予約確認だのと「変わりなく」過ぎ去ることが多かったのですが、今年は、ふと、なぜか、旅ログを見直すことにしました。

海外の旅の記録は、これでもか、というほどしっかりと取っているものの、国内となると、あやふやで。二十代のころまで、確か取っていたはず、とパソコンの古いフォルダに探しにいって、ようやく見つけると、引っ越し前のアルバムよろしく、「あったなぁ〜」「いったなぁ〜」「なっつかしいなか」と、ログ(記録文字)を見るだけで蘇ってきました。

記憶のある最古の「旅」は、当時、京都から、出来て数年の東京ディズニーランドへツアーでいったこと。そろばんスクールからの募集で行った記録です。さすがに、ディズニーランドで遊ぶ!というだけでは「あれ」なのか、途中、登呂遺跡で学び的なことも含まれていました。

それから小中学校の修学旅行や高校の卒業旅行、大学時代の仲間との旅に20代のあちこち・うろうろ旅まで。とっちらかった「ログ」を一つのシートにまとめてみると、まぁ、よくもこんなにいろんな所に行ったもんだと思うと同時に、あ!そうか、もう、43歳か・・・。

そこで、47都道府県の中で、「宿泊」したところ、「訪問」したところを一覧にしていくと、32都道府県で宿泊の記録があり、訪問しただけの県が13県でした。ふんふん、と思いながら、あれ?山形県にも行ったことなかったっけ?

米沢牛を食べたはず!と思ってましたが、それは前沢牛で、蔵王へ行った気でいましたが、その記録はなく、これまで、日本で行ったことのない都道府県(通り過ぎたことはありますが)は、福島県だけだと思っていたので、なんだかハッとしたりして。

こうも経年すると劣化するというか、記憶があいまいになっていけませんね。ここいらで、ちゃんとログを取り直してよかった。

そうか、そうか、山形県と福島県には行ったことがないのか。これまで訪れた45の都道府県の記録を見ながら、「まだ見ぬ」山形・福島の旅。何となく計画したくなりました。

パッと浮かぶのは、「とれいゆ つばさ」に乗って福島駅から新庄駅までいくプランです。足湯車両でのんびりしながら、山形県産のワインなんて飲んだりして。米沢で肉料理、さくらんぼや温泉や大自然の空気をいっぱい吸い込む旅。悪くないな、と。

いや、しかし、まてよ。「せっかく」ここまで行かずにおいた県。一気にいくより一つずつじっくり攻めるか、と思いつつ、まずは福島。磐梯山の星野リゾートでのんびりしつつ、鶴ヶ城や大内宿を歩くのもよさそうだな。3月に初めてスキー体験に行き、また行きたい!といっている息子のことだから、猫魔スキー場というのも面白そうだ。

いやいや、スキーに行くなら、山形の方がいいか。(行ったつもりだった)蔵王に行って、温泉とのペアリングは最高かもしれないぞ、と。よ〜し、よーし、蔵王か。今年の冬、いっちょスキー&温泉でアクティブに行くか、と思ったところで、山形や福島にスキー、ってベタすぎないか?

と!何、これ!都心から2時間半の非日常空間、パスポートの要らない英国をコンセプトにするブリティッシュヒルズというところが福島にあるではないですか。中世英国の世界観。スコットランドのハイランド地方に近い風土を持つ(と謳う)羽鳥湖高原に広がる施設らしく、マナーハウスにティーハウス、パブまであって、泊まることができるので、思い切る価値はあるかもです。

まぁ、挙式とかイングリッシュラーニングなんかもあるので、研修施設?とも思えなくないですが。イングリッシュガーデンの花を愛でたり、テニスにゴルフに。これは、楽しい旅になりそうです。

山形にもないかな〜。あ、そうか!銀山温泉が山形か。ここは、何年も行きたいな、とぼんやり考えていたところでした。やっぱり銀山温泉は冬ですよね〜。12月の始めで仮置きして、宿をちょっと探してみようかな(レートが出たら)。

そんなこんなで、ひとつ歳をとって、目も腰も足もすぐに疲れるようになったとはいえ、まだまだギラギラと旅の予定を立てたくなるので、大丈夫!だと、なぜか納得したりしつつ。

令和初の誕生日、運転免許証の更新は平成32年です。つまり来年ってことで、これまで続いてきたことに、一区切り、こんなところでもいい機会に思えてきます。

旅のログをとるついでに、これまで暮らした家の記録も取ってみました。生まれて間もなく、私の記憶のおぼろげな時期に一度引っ越して、そこから大学生になるまで育った家があり。その後、一人で暮らした西宮市、東京に来てからも、この13年で4度の引っ越しをしました。

どこへ行ってもぶれない軸を太く、その軸がしなやかに対応できるような環境の数々。人間、生きているだけで、ほんとにいろんなことが身につくし、いろんなことが増えていきますね。まじで、まるもうけです。

この先、生きていく中で。世の中は、どれだけ変わるんでしょう。ちょうど、このログをとる中で、一番、見返したのはスマホのカレンダーアプリです。そのカレンダーも、2011年7月以前はなく、と、え!スマホに変えたの、2011年7月だったのか、と。

考えてみたら、8年前、主流になりつつあるとはいえ、まだスマホは新しいものだったんでしょうか。それが、今や、当たり前になったどころか、古くなりつつあるから、おっとろしいです。8年後。私が五十を超えたころの主流は、インターフェイスすらないんじゃないか?と思えなくもないです。

なるべく直感的に、便利に手軽に、ワン操作で。モノとモノがつながる訳も知らず、見えない「線」が混線してしまった混乱を想像します。なぜ、こうなるのか。の理解よりも、これを、こう押せば、こうなる、ということばかりを強いられそうで。

「今」に追いつくために必死のことは、追いついたとしても過去なんでしょうか。大事なのは、追いつくことじゃなく、別の道を見つけることなんでしょうか。

パッと出で、ものすごいことをやりだしたり、じわじわに見えて急速に、一気に塗り替えたり。そういう物や者やモノが多そうで、出来るなら客観視して、へー、ほー、と感心ばかりしていたいものだな、と、まだ人生の折り返し地点を過ぎたばかり。そうは言ってられないと・・・

私はこれまでの記録を整理して、これからのことをギラギラとこねくり回しています。



■2019年5月18日
「褒めるオンリー(理想)」

朝、コンビニでホットコーヒーを買う。レギュラーサイズと注文して、電子マネーでピッ。して、カップをもらってマシーンに置く。で、サイズを認識したマシーンのボタンを押して、豆がひかれて、抽出される。その間に、マドラーやら砂糖やらミルクやら、袋を破って準備して。

そのまま持ってあがって、デスクでホッと。ああ、その朝の一杯は美味しいです。ホットかアイスかを迷った挙句の判断が違って、暑かったり寒かったりするのも、この季節ならでは、かな。例えば、この状況を一句したためて、それを数千年後の日本人がよめば、「ああ、古きよきニッポンの情景」とか言ったりするの哉。

TOKYO2020、2020年の東京オリンピックに向けて、いよいよ観戦チケットの抽選販売が始まりましたね。テレビ、新聞、SNSからネットニュースまで、津々浦々告知がすさまじく、世界中の人がチケットを狙っているんでしょう。申込開始直後、何万人という待ちが出て、1時間以上の待機でした。

確かに、繋がるか繋がらないか、という状況でじりじりと待たされるよりは、あと何時間待ち、が出た方がいいのかもしれませんが、ちょっとね、どうなんでしょう、もっと未来的でスムーズなやり方ってなかったんでしょうかね?

そもそも、当選したチケットは総買いか総放棄かというのって、いまどきありですか?こういっちゃなんですが、どのぐらいの人が来るかわからない、というイベントではなく、大量の、それはもう数百万単位で一極集中するんですから、抽選後の放棄の対策をとろうと思えばいくつも方法はあったような。

まぁ、早い者勝ちではないということなので、それを信じて、私は、のんびり構えてました。

で、まず、競技スケジュールを見る。家族分を取るので、総額は相当なもんですが、どうせ当選もしないだろうから、と、絶対に見たい競技に絞ってチケット種を選び、この機会だからみてみたいな、というのは2020円の応援チケットを選んでみました。

テレビで観戦するもよし、都内各所のスポーツバーで見るもよし。なんだったら、競技場まで行って、おそらくはパブリックビューイングがあるだろうから、そこで体感するもよし。もしかしたら、2020円の応援チケットで、ものすごく見にくい席になるぐらいなら、そっちの方がいいのかな、とか何とか云々。

色々と考えているだけで楽しいものですよね。家族そろって、見たい競技をあげるだけで、え?うそ?なんで?という意外なものが出てきたり笑 私の息子が、「走り幅跳びは絶対見たい」と言い出したのには、驚きました笑。

抽選が外れても、まだ一年以上ある中でチャンスはありそうだし、そもそも、これだけの競技の数の、一つも見られないということはなさそう(ってあまいですかね)なので。もし、一つもチケットがゲットできないなら、朝6時から起きて、マラソンを沿道で応援するもんね〜、と。

それにしても、改めてオリンピックってすごいですね。名古屋や大阪、福岡などの大都市が挑戦しては敗れ、結局、東京で勝ち取った世界的イベントです。東京の次はパリ、そしてロサンゼルスと、この都市リレーも素敵です。トーキョーが、どれだけスマートに、そして熱く大会を成立させるか。その後にもつながりそうです。

さて、初夏(本番)です。

この後の梅雨を耐え忍べば(って、ここのところ毎年、空梅雨ですが)、夏です。今年はどこのプールに行こうか、FC東京はこのまま勝ち進んでくれるだろうか、東京ドームに阪神が来るのはいつだろうか、高校野球はどうなるんだろう。大船渡の佐々木投手は、このプレッシャーに耐えられるか?などなどスポーツにばかり目が行きます。

絶対必勝で努力を重ねて、その過程が大事、とばかりに生活の中心になっているお子さんを見ていると、わが息子の、なんだろう、楽しみながらやる!を地で行き、勝負への執着の、無さ笑。ま、このぐらいがいいんですけどね。

サッカー少年の彼に対しては、(ことサッカーに関して)私は褒めるオンリー、良かった時だけに、良かったぞ、というようにしています。

良かったけど、あそこはこうした方がいいとか、あそこだけはダメだったとか。なんというか「今後のため」にいろいろ言いたくもなるんですが、そこはグッと我慢して、褒めるオンリー、これに徹したいと思っています。

褒めて伸ばす。先日亡くなられた小出監督は、有森選手や高橋尚子さんを育てた名監督ですが、よく、この褒めて伸ばすタイプだと言われていました。そこには、キャラクターもあって、包容力につながっているような気もして。イメージですが、女子の選手と男の監督という関係性から自然にそうなったのかな?と思わなくもないですが。

ただ、高橋尚子さんが、まだ弱い選手のころ、夜、一人で走りに行こうとしたとき、それに気づいた小出監督が「お、走りに行くのか?よ〜し、一緒に行こう」といって、腰を上げて付き合っていた映像が印象的です。

褒めて伸ばすには、寄り添って一緒ということが絶対条件なんだと思い知らされる場面でもあります。

怒る・叱るというのは、基準が怒る側・叱る側であって、そこに達してないから「言う」という行為かな、と思います。逆に、褒めるというのは、確かにそこに達したから言う行為ではあるんですが、どこか、基準が、あくまでも褒めれる側にあるような気がします。

分かりやすく、私と息子で言うと、私が叱るときは私側の基準だけれど、褒める時は息子側の基準である、というか。褒めるには、前よりも今とか、初めてできたとか、駄目だったものがよくなったとか。ある一定期間(程度)、寄り添って一緒にいないと気づけないという感じがします。

赤信号を渡るな、と叱る。それと、赤信号でちゃんと待てたね、と褒める。この違いといえばいいのでしょうか。

そんな風にして、寄り添って褒めるオンリーで行く。といっても、ことスポーツだけです(それが限界です笑)。全部の行為をそうするなんて、端から無理です。そこまでの包容力は・・・ないです。親も人間、感情の持ち主です。それを我慢してまで、息子の全行為に褒めるオンリーでは、無理が生じますよね。そして、嘘になってしまいそうですよね(というのは言い訳ですかね?)

私は、叱ります。そして、息子は大声で反応してきます。そうやって一緒に生きています。でも、明日の(息子の)サッカーの試合は、寄り添って、褒めます。出来るだけ、褒めるシーンが多いようにと、こちらまで緊張しています。

だけど、息子は、そんなことよりウキウキの方が強いようで、とにかく楽しみにしてます。そんな息子の、そういうところ、いいなぁ、と思ってます。



■2019年5月11日
「少しあるのか、少ししかないのか」

コップ底の3mmぐらいの水に対して、「a little water」(少し、水がある)と、「little water」(水は少ししかない・少しもない)ととらえるかの違いは、否定文の感覚をつかむための例文だったように思います。

中学生の頃の私は、同時期にTHE BOOMが歌う「考え方しだいで世界は丸かったり 考え方しだいでコンペイトウにみえたり」(『逆立ちすれば答えがわかる』より)という歌詞が重なって、とらえかた、というのを実感したような気がします。

上方向か、下方向か。それは、同じ事象に対して前向きか、後ろ向きか。つまり、ポジティブかネガティブか、みたいなことになって、なぜか転じて、ノーテンキとかオメデタイなんてことで「あいつは○○○○○」と言われたりもして。

元来、おそらく、とても後ろ向きで、じめじめしたとらえかたが多かった記憶がありますが、ある時、ふと、いやいや、そうでもないでしょ、という考え方が芽生えて、以来数十年の蓄積で、メデタク、ポジティブになったような(私です)。

ある状況下で、外向きに何かのせいにできない時、どんどん内に向かっていきますよね。自分が悪い、だからダメなんだ、なんて。そんな風に考えてしまうのは、おそらく自然なことで、私は決まって、だからこそ能天気に、思い切りオメデタク、〈違うこと〉を考えるようにします。

空間を飛び越えて、時間も歪ませて、まったく別の、例えば、ドラえもんと、のび太と、ジャイアンのことを思い浮かべて、「そこ」にいるようにするのです。

ひとりで旅して、ひとりで眠りにつくとき、考えれば考えるほど、窮地でピンチで、逃げ出したいけど、そうも言ってられない時、「同じ空間と時間」を、どうとらえるかの違いで逃げてもいたし、それゆえ、意外と軽く飛び越えることもできた、という経験値が私にはあります。

これが、もしかすると、強みかもしれないな、、、

と、あの頃、1日10ドルほどしか使えないニューヨークの安いホテルで、ドミトリーに精神的に疲れ、帰国までの残り日数を数えながら、ぐんぐん底へ底へ、夜のパトカーの音と傾いた床とベッドと、、、なんて気持ちが、ふと蘇ってきます。

内向きに考えている「自分」の表情は、他人から見ると不可解で、決して気分のいいようには映らない、ということに気づくまでは、そうやって、まぁ、じめじめと後ろ向きだったんだと思います。

ゴールデンウィークを終え、学校に行きたくないと訴える子供(のSOS)に対して、親はどうすればよいか。今週はそんなニュースも目立ちましたね。何しろ、10連休明けの通常生活でしたからね。

学校は、行きたくないなら行かなくてもよい(行かない)という選択肢を与えることが重要だと、往々にしてそんな意見が多かったと思います。なるほど、その通りだし、私自身もそう思います。

が、現実的に、子供が学校に行かない中で、自分は働きに行けますか? 今や、母親が働く、父親も働くなんて常識(になってますよね?)の日本で、いざ、小学校・中学校に行きたくないという子供のSOSに「行かなくていいよ」という反応が即答で出来ますかね?

ここにある、「学校に行く・行かない」という二択だけでは、限界があるようにも思います。子供に対して与える選択肢が、学校に行くか・〈あそこ〉に行くか、というように、学校と家以外の〈あそこ〉という場の提供がマストなように思います。

学校に行かないなら、家にいるしかないというのではなく、例えば区民センターのコミュニティや、隣町のスタディセンターなどに行く、というのがあればいいのに。

そんな場の提供に費やす金と時間はどうするのか、なんて議論の詰まりで、なかなか進んでいない現状を見ると、まぁ第三の場の提供は、そう簡単なことではないんでしょうね。

学校以外の子供の〈場〉は、そもそも家があるじゃないか、なんて吹聴する(家庭を顧みない)おじ様議員の声が聞こえてくる気もします。

学校に行かない、なら家にいる。じゃ、家を〈あそこ〉にするしかないのかな。第三の場を作るのではなく、既存の(家という)場を選択肢の一つとして成り立たせる。

でもなぁ、主夫でも主婦でも、どちらかが専業となると、なかなか生活がなりゆかず。。。と思い始めた時、ふと、リモートワークス、在宅勤務があるじゃないか!なんて働き方が浮かんできます。

だいたい、大人(親)自体が、同じような時間に、同じような場所に集まる習性があるから、子供が学校という決まった時間・場所以外の選択をすると、なんだか後ろめたく云々思うのではないか?

地獄のような満員電車での痛勤に耐えてまで、オフィス街の同じようなビルの小さな席に座って、PCをはじく必要は本当にあるのかな?う〜ん、どうも首を傾げてしまいます。

もちろん、痛勤電車で通っているような職種の人の多くは、大きな機械で特殊な技能でもってモノを造りだす製造業の人ではなく、PC画面上で通信ネットワークで業務完結する人が多いという前提に立って、ということになりますが。

であれば、学校に行きたくなら、行かなくていい、家に「一緒に」いよう、という即反応ができるかもしれません。

クロールやバタフライが友達はできるのにぼくにはできない。お兄ちゃんはすらすら解くのに、ぼくには出来ない。漢字をすぐに忘れてしまう、あの子はいつも先生に褒められるのに。などなど、そういう自分の周りに対して劣っているところばかりに焦点を合わせて、どんどん内向き・後ろ向きになっていた頃、、、

そういえば、職人だった私の父は、母と一緒にずっと家にいたことを思い出して。だから、どう、ということもないのですが、ま、別に学校が嫌なら、家に居ればいいだけだな、という選択肢があったように思います。

そんな私も今や、一人の子の親です。

もし、子供が内向き・後ろ向きになった時、ちゃんと正対した何かを、自分の言葉で伝えられるだろうか(もしくは伝えているだろうか)?と自問することもあります。

そして、「ま、別に、嫌なら家に居ればいいだけだな」と思わせているかどうか、などなど。

周りの子と比べる必要はないだの、自分自身との闘いに勝つことが大事だの、どこかで聞いたようなことを思い浮かべては、う〜ん、どうもしっくりこないな、というモヤモヤの日々です。

人と比べて競争して、勝ち残って行って欲しいけど、負けて全否定するぐらいなら、競争なんてしなくてもいいし、勝たなくてもいい、とも考えてしまうけど、だからといって、ちゃんと負けも(もちろん勝ちも)実感して欲しい。

今のところ、はっきりしているのは、「全部、もう、どうでもいい」と放棄してほしくはないな、ということだけで。負けたら負けたで、勝つために、勝ったら勝ったで、負けないために、どうしたらいいんだろ、どうしたからよかったんだろ、みたいなことを考えるんじゃなくて、感じてほしいな。

それは明確に思います。そして、後ろ向きなら後ろに回って、下向きなら同じぐらいまで下がって、いつも、出来る限り、正対していたいな、と思いつつ、です。

前向きの時は後ろからそっと、上向きの時は落ちてきたときに受け止めるために下で、そういう子供との距離感を大事にしながら、ちゃんと正対すべき時に備えて、面と向かって伝える思いを・言葉を用意して、いるべきだなと思っています。

結局のところ、あ、そうか、場所の問題じゃないのか、とも。空間・時間を超えて「逃げてきた時」、ちゃんと正対してくれる人(親)がいる。それを子供には絶対的なモノにしないといけないな、と。

すやすや眠る息子を見ながら、思ったりします。



■2019年5月6日
「年末年始のようなGW」

この10連休。駅も高速も(東京の)街も、どこもかしこも、ぎゅうぎゅうでしたね。すし詰め、芋洗い、黒山の人だかりが、ニュースで映像になって届く度に、(見てるだけで)クラクラしてしまうような。

特に、東京都内は地方からの観光客で混雑度がぐんと増し、逆に、地方の観光地は、訪日外国人が〈東京から避難するように〉集まったといった感じでした。

新宿や渋谷、品川の駅では、普段の休日の「駅なか、駅前の人の流れ」とは異質の、なんというか、不慣れな人たちの立ち止まりや、キョロキョロが目立ち。

逆に、横須賀や日光、千葉の袖ヶ浦などでは、え?と驚くほど外国人が多かったように思います。(それは京都などの観光都市に外国人観光客が多いことを知った上でも、感覚的に大量の外国人が東京近郊に避難したなと思わせました)。

それにしても、訪日外国人の初めてと、地方から来た日本人の初めては、迎える東京という街の顔は同じなのに、ぎこちなさ(キョロキョロ感)が、外国人よりも圧倒的に、地方から来た日本人の方が目にとまります。

右斜め前の青信号の渡り方、地下出口の左右通行、改札口そばの待つ場所などなど。流れをせき止める方に目をやると、(方言で)慌てたり、焦ったり、怒ったり?する日本人でした。(おそらく、普段と比べて多かったので、目だっただけなのでしょうが)

さて、わが家は、この10連休。

平成の最後と、令和の始まりをしかと東京で体感すべく、東京に居ながらにして、近郊への日帰りを中心に組み立てました。

あいにくの雨で、平成最後の皇居ランを諦めた4月30日、息子の友達家族を招いて、ホームパーティをし、テレビでは大晦日のような「さよなら平成、この30年間」と題したハイライトが目白押しでした。

何かとイベントになれば自然発生的に群れる渋谷のスクランブル交差点でも、元号カウントダウンがあったようで、今回のGW特有の年末年始感に花を添えたといったところでしょうか。

迎えた令和元旦。私はワインの飲み過ぎで、頭がガンガンする中、予報に反して晴れた東京で、朝から令和最初の皇居ランをそそくさと諦め、次々に行われる即位関連の儀式をテレビで見ていました。

元号が変わる、それも喪に服さず退位の翌日に即位があるという「初めての」経験をしながら、不思議と新たな気持になるもんだな、と独りごちで。新聞の日付の平成と令和を並べて実感したりもしました。

平和だった平成から、令和はどういう時代になるのか。天皇陛下の一般参賀のお言葉が示すように、日本のみならず、世界の、交流と平和が、どこか知的で、本音で暖かみのあるものになれば、と、ここでも新しい流れを感じ取ったりもしました。

令和になって2日目、朝4時に起きて準備して、早朝に東京を出発して日光へ向かいました。すいすいと好調に東京を脱出して、栃木県に着くまで、これといった渋滞もないまま行けたのは良かったのですが、いざ、最初の目的地の日光東照宮近くになると、大渋滞。

朝8時には、参道の道は車が動かず、土産物屋が特別に駐車場として貸し出すところに(前の車が入っていったので、それに続いて)幸運にも停めることが出来ました。

※そう言えば、コンパクトカーのレンタカー代で、無料アップグレード、クラウンのロイヤルスイートが借りられた幸運の始まりの令和は、なんとも幸先のいいスタートでした。

ここで土産物屋の特別駐車場に停められたのも、ラッキーでした。車を停めて、歩いて東照宮へ向かい、入場券を買う列もさほど長くもなく、御朱印も並ぶことは並びましたが、まだまだましな方でした。

と、いうのも、一通り日光東照宮を見て回って、正午過ぎに帰ろうとしたとき、ぞっとするほど入場券を求める列は伸びて、駐車場も満車、さらには、参道の車の列も微動だにしない渋滞でした。

出発が2時間遅かったら・・・、と胸をなで下ろしました。そこから、(栃木まできたので)宇都宮で餃子でも食べようと、人気店「正嗣」の鶴田店に向かったのですが、ここは、限度を超える大行列。

隣のつぶれた?ガソリンスタンドの臨時駐車場も満車で、店の入り口からぐるりと列を作る人の群れに、一度は並んだものの、日差しにやられ、体力の限界を迎えた7歳の息子のSOSもあって、諦めました。

行列もましかな?と思って選んだ鶴田店でも並んでいるなら、いっそのこと、ど真ん中、一丁目一番地にいってやれ!と、宇都宮駅前の餃子通りへ向かいましたが、有名店が並ぶ餃子店のすべてに、行列が出来ていました。

益子焼陶器市まで足を伸ばそうかとも思いましたが、夜8時までのレンタカー返却時間が心配で、渋滞必須の中、帰京しました。(返却時間、ギリギリになってしまいました)。

日光東照宮だけでも、ちゃんと見られて良かったなとなぐさめ、餃子も、たまたま通りかかった満天という店で食べられたので、ヨシとすることにします。
(宇都宮餃子は、普通に旨い、というのが特徴?かと思いますので、そういう意味で、満天の餃子は旨かったです。それよりもラーメンの方が価値ありでしたけど)

基本的に、遠出する日を除いて、わが家は起床後、まずは家族でランニングをしていました。都立公園の前に住んでいる土地の利を活かしたような生活スタイルにして間もないのですが、まぁ、走った後、息子とサッカーをやって、シャワーを浴びて、朝ご飯を食べるというのをやってます。

そして、午後からのんびり、大井町まで劇団四季の「ライオンキング」を鑑賞したり、電車で郊外にいってアウトレットモールで夏物を買い足したりして、昨日は、千葉にある東京ドイツ村に行きました。

こどもの日は、こどのもためのことを。息子には、あの広大な芝生の丘がパラダイスで、汗だくになって走り回っていました。暑過ぎず、寒くもないこの時期の恩恵を受ける、最高のこども日の過ごし方だったと思います。

ただ、恐怖のアクアライン。行きも帰りもしっかりと渋滞して、普通に行く倍の時間を要しましたが。帰りは、アクアラインの渋滞を抜けてから、レインボーブリッジを渡り、芝公園の絶景夜景を堪能出来ました。

東京タワーを中心に、ビルとビルが見事な光のハーモニーを成し、あの夜景は、本当に見事でした。それまでの渋滞で頑張って起きていた息子は、残念ながら、その見事な夜景の頃には寝てましたが笑。

10日も休みがあれば持て余す、といった人も多い中?幸い、わが家は「足りない!」と思える連休を過ごすことが出来ました。

海外にガツンと行った方が、もしかしたら安上がりになったかも知れませんが(それはないか)、これだけバラエティー豊かな休日の過ごし方が出来たコトに感謝しつつ。

連休最後の今日、息子は早速普段通りの習いごとに出かけました。本当に頭が下がる思いです笑

兎にも角にも、沖縄旅行をしたり、知床や九州一周なんて、往々にしてゴールデンウィークは東京以外で過ごすことが多かったわが家も、東京に居ながらにして過ごしたこの連休は、いやはや、しっかり楽しかったな、という感想です。

そして、今年のGWは、年末年始感が本当に強かったです。基本的に、食っちゃ寝、食っちゃ寝していたので、身体のむちむちする感じも、年末年始みたいです。

さぁ、連休も終わって、令和になって、ここでバシッと気持を切り替えて、平成と同じく平和で楽しく、これまで以上に躊躇わず・面倒がらず、色んなところに出かけて、色んなものに触れるぞ、とぽっこりお腹をさすりながら思っています。



■2019年4月29日
「これからの話をしよう」

ここ一か月で、いったいどのぐらい書いて、言って、思ったり、つぶやいたりしただろう、この言葉を、ここにも書きます。“これが平成最後”の更新となりました。

2003年にこのホームページを立ち上げてから16年、ずっと平成の時代に記してきました。2003年は平成(ここで調べないとパッと出てきませんが)15年。平成の30年間とよく言われますが、考えてみると、平成の半分にあたるんですね。

長いといえば長く、短いとも言えて、楽しかったか、良かったかというのも半々の感想をもったまま令和です。いよいよ始まります。

大型10連休中に変わる元号が、これほどまでに(世間の多くが)注目するのは、どこか=(イコール)時代、みたいなニュアンスがあるからでしょうか。

平成の時代を終えて、令和という時代へ。
さぁ、これからの話をしようと思います。

去年から、日経新聞の電子版(紙面ビューアーアプリ)で、私は「AI」というワードを登録し、その記事がオレンジ枠で囲まれる仕様にしています。日々、思うのは、まぁオレンジ枠記事の多いこと。どこもかしこもAIで、それらはどれも未来の話です。

が、ちょっと待てよ、と。未来(と言っていた先)にそろそろ到着しかけているのではないか、と思ったりします。人手不足解消、単純労働の正確性、コスト削減。そんな問題の解決策としてAIに目も向ける動きもあれば、どこか、AIならでは、みたいなモノに期待する向きもあり。

人の代わりから、人にはできないことをAIに。それは、ある意味の棲み分けで、(人にとって)恐怖にはならないかもしれないし、いやいやSF的なことを想像すると、AIがAIのために存在して、人はAIの代わりになるんじゃないか、とまで、まぁ、いろいろとストーリーが浮かぶわけです。

こんな時代が来る、これからはこうなる。だから、このままじゃなくて、こうしよう。そんなあやふやなスローガンがあふれ、「じゃ、いったい、こんな時代の、こんな、ってどんな?」と突き詰めれば、よくわからず漠然としているわけです。

未来のことなんて、もちろん、漠然としています。それをできるだけ先読みして、取り残されないように先手、先手を打っていかなければ生き残れない。エイエイオー!みたいな、朝礼や月初ミーティングでの掛け声(のような話)に辟易としている人も多いのではないかと思います。

その掛け声も、伝言ゲームよろしく、言い始めた人から数十人を挟んで自分まで届くものだから、根源的な意図が違っていたり、コトバだけを左から右へ流すうちに、「え?なんておっしゃりたいのですか?」的状態になっています。

みんな集まって、大量の業務を効率的にこなして、大量の儲けを出して少しずつ分け合う今。それを変えることはできません、きっと、ここ数年では。でも、です。個々が個々に臨機応変に結びついて、(例えば大きな)結果を出した時に、分配されるのは、個々の貢献分(はっきりとした)になります。

なんだかよくわからないうちに割り振られて、多い・少ないの差をつけられて受け取るのとは話が違ってきます。それを可能にしつつあるのが、ネットワークです。もっと言えば第五世代に入る通信です。

これまでのように、集まりの中で頭角を現すために日々の犠牲を努力と呼ぶこともなく、ひらめきで立ち上げて、それがたまたま合致して儲けを出して、そしたら人を集めて、いつしか(これまでと同じような)集まりとなったGAFAになることもない時代です。

あくまでも丁寧に、自分は自分という個であり、一人じゃできないことの結びつきを通信やネットワークが可能にする。その便利機能としてのシェアオフィス、近所の働くスペースということになるかもしれません。

私は、これをする。私には、これができる。だから、それと結び付けてあれをする、と思った時の「それ」とのリンク。この繋がるイメージが、今は「たまたま・ラッキー」という印象なので、面倒くさいと思いがちですが、仮にですよ。この結びつきが、「ぷよぷよ」(というゲームがありました)みたいに簡単にくっつき出すとどうでしょう。

そして、ぷよぷよ的にくっついた人たちと、テトリスのパーツの「形」を作って、うまくはまるところに入っていく。そして、また、大きな形を作る。そして、です。ある結果・成果を出せば、(隙間なく埋まればお疲れ!といって崩れる)テトリスのように、またバラバラの個に戻る。

この繰り返しに、不安定というのを感じなくもないのですが、それはきっと、今の安定神話(実際は、どんな働き方をしていても安定はないのに)に基づいているからなんでしょうね。

学校や会社、地域社会で、集まり(塊)があり、そこにいることこそが安定(だから安心)、と考えてしまう妙な癖。

所属意識というのは確実にあります。一人きりじゃなくて、自分の「居場所」(確固たるもの)が欲しい。その土台の上に成り立つ「個」でありたい、と。居場所が家庭であるなら、それほど都合のいいことはありません。生計を共にして、寝食も共にする人たちが、自分の居場所というのは一石二鳥です。

だから、家庭のために! ここ(家庭)がとても大切。そう、家庭、家庭、家庭、とグーッと考えてしまうと、パンッと弾けてしまいそうな危険性もあるのに、どうしてもそうなってしまうのも、妙な癖ですよね。

そもそも、「これから」の話をする上で、だから家庭の結びつきを強くしよう、というより、家庭という居場所そのものにこだわらない生き方をしよう、という声の方が大きくなりそうな気もして。

夫婦で生計は別、寝食も、絶対に一緒でなくてはならいというのでもなく、家庭の構成員ですら、「個」だという考え方にたって、ゆるく、かるく結びつくことを好む傾向もあったりして。まさに、それが、これからの話だとすると・・・

元素ぐらいの意味で個を目指しているうちに、原子みたいな話にすり替わるのが、なんとも歯がゆいですが、とにかく、個は個として、居場所を持つというこれからは・・・

孤立とか、独立とか、好き勝手とか自分勝手といった、個に紐付く「側面」とどう折り合いをつけて、正の形にしていくかを模索することになるんでしょうね。

個(元素か原子)を模索しつつ、取り巻く環境の変化も気になります。教科書がなくなって持ち歩かなくなり、ランドセルがなくなるかもしれないし、広告チラシも、実は新聞より早くなくなるかもしれません。

手間を代理でやってくれていた○○代理店という業界は、「わざわざ」感がぐっと減って誰でも簡単にアクセスできるようになると、淘汰されるともいえます。

その変化の代わりになるのが、人ではなくモノなので、個がどうのこうのの前の話、という気もしますが、「これまで」と極端に変わる「これから」があるとすれば、散らばった点を線にして、それを面にするという手法かもしれません。

何でもかんでも分業して効率化し、大量生産で安く提供してきた結果、それが当たり前になるから「値段が高すぎる」と、分業せずに、一人でいちから造り上げたものに対して、思ってしまいます。

だけど、です。第五世代の通信環境は、これまでの範囲を超えて、ぐーっと広い範囲までマーケットとすることを可能にします。これまでのマーケットでは、そんな風に一人で作り上げているとどうにもならなかったものでも、範囲が広がれば、需要も広がっていくかもしれません。

試されるのは、値段ではないということです。きっと、これは確実です。「それ」に対して払う価値が値段と合致しているか。四、五年前から、安いか高いかの二極化で、中間価格帯のモノが売れないという現象が起こっています。

イケアでいいものと、カッシーナで買いたいものの間で無印良品は苦戦とも聞くし、100円マックとシェイクシャックの間でモスバーガーも苦戦しているらしいです。

どんどん出店して、顧客との接点を増やそうという動きがなくなるのと同様、これぐらいの利益を見込んで、これぐらいで売るしかないな、という売り手主導で無コンセプトは、致命傷になりそうです。

まぁ、話があっちいったり、こっちいったりして、過去現在未来の時間軸もぶれぶれになりながら、結果、全部がよくわからない「あやふや感」だけを残します。これからの話をする時、もしかすると、唯一確実なことは、このあやふや感だけかもしれません。

私のこれからを話すとすると、そんなあやふやなことの、すべてに、残さず、妻と息子と一緒に、寄り添っていきたい。それだけです。



■2019年4月20日
「待ってろよ、ニューヨーク」

ちょっと木陰へ逃げたくなるような日差しになってきて、その木の陰で、見上げた葉裏色が、とてもきれいな(輝いているような)季節の到来(を予感させます)ですね。

個人的には、一番、好きな季節になりつつあります。

今週は、衝撃的な映像が飛び込んできました。日本人にとって、パリを象徴するモノ(例えば、パリを表現するときにピクトとして記すもの)は、エッフェル塔や凱旋門かもしれませんが、実際にパリに居て、観光しているとノートルダム大聖堂の存在は大きいです。

セーヌ川の中州、シテ島にデンと構えるのは、大きな塔を対称に構えた門?と、奥に見える尖塔です。ルーブル美術館に行くにも、ムーランルージュを見るにも、ショッピングへ行くにも、とにかく、中心に向かう移動中に目にすることが多い建物です。

そして、パリの方々にとって、それはモノ(建物)としてゴシック建築の美、世界文化遺産というだけではなく、精神的支柱、カトリック教会の大聖堂にして、フランス革命から続く「精神」の場でもありますからね。

空白の23分(最初の警報から2回目の警報)を挟んで、燃え盛る大聖堂を(ただ見守るしかなく)眺めながら、祈り、讃美歌をささげ願った気持ちが分かります。原因の追及と同時に、早々と再建の意気込みが大統領から発表され、それを受けて世界中から1000億円を超える寄付がすぐに集まったのも、納得です。

それだけ、衝撃がありました。ロンドンもEU離脱か残留かの宙ぶらりんで、パリでのデモ、そして、このニュース。夏を前にして、世界中から観光客が訪れて華やかな雰囲気に包まれるだろう欧州の、二大都市でなんとも不穏です。

が、今年、日本人とっては10連休のゴールデンウィークです。去年から今年の年明けをピークに予約が集中して、なかなか取れないという状況を受け、(その勢いのまま?)夏の予約ラッシュもある、と聞きます。

そりゃ大変、ということで、私も夏の旅計画を本格化させて、骨格部分だけ予約をしました。まずは、航空券、そしてホテル。それらのセット割で簡単に旅の期間を決めました。

続いて、ビザ。電子ビザが必要なので、それを申請して、いろんな情報を見つつ、え?ここってそんなに予約困難なの?というスポットは、早速予約。いやはや、英語でば〜っと諸条件(コンディション)が書かれていると、なかなか「うっ」となりますが、根本的に好きなんでしょうね。さくさくとPC画面上で予約を進めました。

で、わが家に溢れるガイドブックや特集記事の雑誌をひっくり返しながら、どれもこれも8年前だったり、5年前だったり。東京でもこれだけ変わるんだから、8年前のものは使えるのか?ということで、最新版のチェックのために本屋へ行きました。

水曜日の午前。代官山は蔦谷書店。ラッシュ時間を終えて、会社が始まると、みんなオフィスの中にいるので、まるで、授業が始まった学校の廊下のような静けさがあって、とても気持ちいい天候の下、気分が落ち着きました。

もちろん、代官山という土地柄の落ち着きはあります。が、それだけではない、水曜の午前の、あの感じ。スターバックスでトールサイズのカフェモカを買って、テラス席でのんびりと。最新の旅先情報を見たりしつつ、ああでもない、こうでもない、と。妻と。

結論から言うと、これまでのガイドブックは、さほどの目新しさはなく、買い替えるまではなかったですが、まったく新しい切り口でまとめたモノがいくつかあって。便利手帳的に、文字だけで紹介しつつ、リンク先を羅列したもの。話題スポットを裏ワザとランキング形式で紹介し、そのスポットは簡単にグーグルマップにリンクできるものなど。

そういうのを買い足して、もう、気分は上々。この感じ、この感じ!盛り上がってきました。

子供を連れての家族旅も、海外は今回で5度目。これまでの記憶は、無いかとても薄い息子も、小学2年生になって、もういろんなことが分かってきてます。その分、行きたいところもはっきりしています。外国で使うお金は、日本の円とどういう関係なのか、なんかも疑問として持ち始めています。

そんな息子には、ちょうどいい、刺激的な旅先だと思います。待ってろよ、ニューヨーク。楽しませてください!

さて、来週からはいよいよゴールデンウィークです。

平成から令和になる大型連休は、東京にいて、しっかりとその瞬間を迎えようと思います。京王線の京王ライナーでは、平成の深夜に新宿を出て、車内で令和を迎えて、初めて日の出を高尾山で!という広告もありました。

下二桁の数字だけでシステムを管理していたので、99というのは1999年のこと、で、2000年を意味する00を入れると1900年になってとんでもないシステム誤作動が出る。そんな風に言われたY2K(2000年問題)も今では懐かしいですが、まさか、平成から令和にかわることで、何にも、ありませんよね?

九州の公共インフラで、請求書か何かに平成31年のところ、令和31年になっていた、なんてニュースがありましたが、それぐらいならいいのに、と誰も何も言わず、当然大丈夫、という雰囲気であればあるほど、心配になったりします。

と、あ、そうか。考えてみれば、私自身、昭和の時代に海外へ旅に出たことはなく、平成に入ってからだったので、平成以外で、海外に出るのは夏のニューヨークが初めてになります。令和発の海外旅行。うん、いい旅先です。

ちなみに、令和になって、東京から出るのは、日光が初めてになります。GWの中盤、レンタカーで日光へドライブする予定です。日光東照宮を見て、あとは、何をしようかな。

息子がマティスの絵を見たいというので、宇都宮の美術館に立ち寄ったり、あとは餃子を食べたいな、とか、いろいろ。距離感が分からず、そもそも渋滞は大丈夫か?なんてことも気になりますが、ま、とにかく楽しみです。

先週から家族でランニングがなかなかできないので、どうも身体が重いと感じつつ、これを記しながら、明日は、久々に早起きして、思い切り体を動かしたい。なんてことを思うようになりました(笑)。

何かで読んだか、聞いたかしたのですが、精神は、身体の動きが先行で左右されるというようなことがあるようです。落ち着け、落ち着けと(精神が先行して)思っても、身体はなかなか落ち着かず。

ではなく、先に身体の(お腹の前で両くすり指を合わせてゆっくり揺らす)動きを起こすと、精神がついてくる(落ち着く)らしいです。

だから、明日は、先に身体をラン。そして、気持ちの重さ・だるさを追っ払いたいと思います。



■2019年4月13日
「今、あえての、新紙幣ですか」

5年後の2024年、紙幣(お札)が刷新されるというニュースが駆け巡りましたね。いきなりのニュースに思えましたが、これって前触れみたいなものがあったのでしょうか。

日本銀行が発行するものの中で、2000円札以外の3種が新しくなるそうです。聖徳太子から福沢諭吉になって今年で35年、紙幣が変わる5年後には40年になる「諭吉」離れに、まだピンときませんが、世界中探しても、これだけの重厚感をもった色合い、そして、なんとも〈デン〉と構える諭吉の肖像は、しっくりきていたのですが、、、

新たに渋沢栄一に変わるそうです。過去にも1000円札の肖像で伊藤博文に負けた(髭がないから偽札が作りやすいという理由だったと朝日新聞では書いてました)過去を持つ渋沢栄一。ずっと昔、韓国で流通していた紙幣に肖像画として使われていたらしいです。

約500の企業設立にかかわった人物で、現みずほ銀行や東京証券取引所なんかの名前も出てきますからね。確かに、お札にはもってこいの人物なんでしょうね。に、しても、知らない笑。

慣れの問題もあるんでしょうけど、新紙幣のデザインは「軽い」気もします。壱万円という漢字ではなく10000という数字が大きいことも関係しているかもしれませんが、色味もライトなトーンに変わったように見えます。

5000円札は引き続き女性から選んだのか津田梅子、1000円札は伊藤博文から夏目漱石になって、ほぼ同じ色目で野口英世の次、北里柴三郎と、予防医学の人が続くことになるようです。

これらの紙幣よりも先に、2年後には500円硬化も2色使い(素材違い)になって刷新されると言います。偽物が多いという理由で、500円玉は銀色からちょっと金色っぽくなって、今度は、その2色の掛け合わせ。どんどん高度になる本物を、しっかり見分けるセンサーもまた、高度化して高価になるんでしょうかね。

が、ですよ。

今や、世界はキャッシュレスまっしぐらです。GDP比で現金の流通量は、南アフリカやスウェーデンでは5%以下、アメリカ、韓国、インドでも10%以下です(日本経済新聞より、16年時点)。

それに対して現金流通量が20%もあるキャッシュ依存の強い日本、とはいえ、東京での生活では、ほぼ電子マネーでやっていけるようになったという感覚が強いです。

このキャッシュレスの動きがどんどん加速して、訪日外国人観光客も含め、多くの人が気軽に「ぴっ」で決算できる社会をつくろう!という最中に、なぜ?紙幣刷新?という疑問はぬぐえません。

(発表した)麻生さんと、(総理大臣の安倍さん)と、また誰ぞやの忖度ですか?みたいな、変なことを勘ぐりつつ、個人的には財布とバイバイして、運転免許証も健康保険証もいろんなID関連、キャッシュカードにクレジットカード関連、果てはパスポートも、み〜んな電子化になってくれないかな、と思っています。

海外に行って、外貨の両替って「昔」はやってたな〜、なんて日が来るのかな。今、スポーツ観戦や演劇、コンサートチケットはQRコードで、紙を持つことも減っています。同じく、エアーチケットもそうです。まず、この【チケット】と呼ばれるものが電子化されてペーパーレスになっています。

その次には、本や雑誌や教科書に至るまで、どんどん紙から離れてデータ化されると、IDの類も、想像するよりずっとはやく電子化されるような気もします。で、ですよ。その中の紙幣。これって、本当に、ね。どうなんでしょうか。

紙幣を新しくするために使われるお金(税金含む)。例えば、印刷機の改修やインクの買い直し、そして新紙幣のための街の店なんかの各種インフラ投資。自動販売機もATMも、なんだかんだ作り替えが必要ですよね。

そのお金をぜんぶ、キャッシュレス社会のためのインフラにつぎ込めばいいのに、と思います。

が、ここで、ふと。もしかすると、世の中の流れは、新紙幣に対応するインフラを作らずに、同じ投資なら、その分の資金でキャッシュレス対応にしよう!という動きになるのでは?とも思います。

現金のやり取りが面倒かつ危険な屋台では、ほぼキャッシュレス決済というタイの話を思い出すと、もはや自動販売機やタクシー車内、宝くじ売り場の小屋の中なんかに「現金」があるのは、非常にリスキーですよね。

向こう5年間で、さて、世の中は「新紙幣」のために動くのか、「無紙幣」のために動くのか。とても興味深いです。

財布から小銭を数えて、レジの前であたふたすることもなくなり、出前を注文して「〇〇〇円です」と言われおつりのないように用意しておく必要もない世の中って、便利以外に何があるんですかね。何を躊躇するのかな、と。

「だって、データが消えたらどうするの」
「停電で使えなかったらどうするの」などなど、
それは【現金】という物を持っているから得られる安心感とは違うような気もして。違うというより、現金を持っていてもありうるリスクですよね。

「スマホ、落としたらオワリでしょ」なんてことを聞くと、イコール財布ね、と。

ま、紙がゼロにはならないということは分かります。が、紙では出来ないものをデータで、そして紙の方が慣れているからというだけの理由のものは時間の経過が、データにしますよね。

個人的には、長らく、紙を扱う仕事をしている身として、ここにきて、あれ?もしや、おれ、紙アレルギーかも、なんてことも思ってきてます。

手のあれかたがひどいです。たぶん、おそらく関係ないですが、ずっと紙に触れていると、かゆくなったり(それは紙が原因ではなく、紙に書かれていること、が、かもしれませんが)。

今はまだ、紙の代わりを「紙と同じデザイン、構図」でデータ化しようとしている段階から脱しきれてません、なので新聞も雑誌もまだまだ紙派が強いですが、コンテンツをデータ最適にしてデザインし、示されると、一気に変わりそうです。
※一気に、とは、レコードがCDになり、ワープロがPCになり、携帯電話がスマホになったぐらいの期間で。

水面下で、ぐつぐつとその日(ペーパーレス)を待ちつつ、芽を出すタイミングをうかがっている状態の今、もう一度、記しますが「紙幣刷新」ですか。



■2019年4月6日
「令和」

“め”いわ、とか、れい“な”と、ついつい音に流されて言ってしまうような新元号「令和(れいわ)」が発表されましたね。平成の次の時代が来る、という雰囲気が非常に高く、発表後、概ね好感触な元号名に、思わず、わくわくします。

この最初の言い間違いは、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)ができた時に、ついついUFJと間違えて、今でも間違えますからね、ここで、きっちり、れ・い・わ、で頭の中にインプットしたいと思います。

まぁ、漢字を思い浮かべればいいんですよね。命令の「令」に、和室の「和」。と、ここでどうも、命令の令というのに引っかかりがあるのですが、「令月(何事をするにもよい月。めでたい月。という意味らしいです)」からとったと聞けば、それはとても美しく。

で、この「令」の字。2種類あると話題になってます。書体の違いで、印刷文字と手書き文字の違いとも言われてますが、最初の発表で菅官房長官が掲げた書が「令和」でしたからね。書きなれている下の部分が「マ」とは違って。だから、余計に、でしょうかね。

個人的には、私の苗字にもこの「令」を使う関係で、妻は郵便局で「鈴木」の「鈴」の右下の部分、「マ」ではなくてもいいですか?と聞かれたそうです。(私は40年以上、一度もそんなこと聞かれたことも、もはや意識したこともなかったのですが)。

よく、高橋さんなどで、高の字が「口」にするか、はしごにするかなんてことがありますが、まさか、鈴木にも種類があったとは。そんな発見もあった、令和の発表でした。

平成最後。そして令和の到来。この1か月間という「準備期間」は歴史上初ということで、これだけ連日報道されると「あれ?もう令和なんだっけ?」と勘違いしてしまいます。

平成の時は、元号の候補が3つだったのですが、今回は6つ。絞りこまれて、4月1日当日、有識者懇談会で提示されたのは、封筒に入って縦書きで、印字で、あいうえお順で、並んでいたそうです。

「英弘」、「久化」、「広至」、「万和」、「万保」、「令和」。漢書と国書を出典とする3つずつが並び、この中から国書出典の3つが人気を寄せていたと言います。

作家やノーベル賞受賞者など多岐に渡る有識者の方からの意見を受けて、最後には「令和」になったといいます。発表は11時半から、ということで中継が始まり、なかなか始まらず、じらされ、この段階で、国民の注目度は非常に高かったですよね。

新宿のアルタ前にも多くの人が駆けつけていたらしく、発表のまさにその時、手話のワイプが、高く掲げられた額縁とかぶってしまうということも大きく報道されました。

菅官房長官の発表の後、記者会見場の背景カーテンは、紺から深紅に変えられ、そこで安倍総理はこの元号に込めた意味として、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味」と説明しました。これは非常に美しいなと思いました。

さらに、出典元の『万葉集』、その中から「初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす」という一節から取られたという説明は、とても薫り高き、日本の和の文化を想像されると、個人的にも好印象でした。

春とか秋の情景からではなく、2月の、春を待ち、もうすぐそこまで春が来ていという(わくわくした)情景が見られて、本当に気持ちがいいです。新しい時代に向けた「スローガン」としても、賛成したいところです。

平和になってほしい、国際社会に向けて日本のあるべき姿はこうだ、という、どこか堅い(ありていな)ものではなく、和歌の世界の、それも1300年前の大伴旅人の序文が説明される流れが、優雅であり、どこか皇室であり、うん、やっぱりいいな、と。

高校野球の世界では、平成になって初めてのセンバツ大会を制した愛知の東邦高校が、その時以来となる、平成最後の今回センバツ大会で決勝まで進み、見事優勝しました。こういう巡り合わせって、あるんだな、と思ったりもします。

さて、4月です。

新しい学年、新しい学校、新しい会社と環境も一新して、気分が新鮮な方も多いかと思います。張りつめたまま4月を過ごすと、今回のGWは10連休ですからね。ここで、しゅるしゅると萎んでしまう五月病になってしまう可能性もあるので、テイキットイージー。気楽に行きましょうね。

それにしても、満開を迎えた桜の中で、風の冷たい日が続きます。雪が降ったなんて地方もあるようで、凍える四月の、きれいな桜という組み合わせが、花見も凍えながらポット持ち込みでホットコーヒーを飲む、といったところでしょうか。

私の家の周りには桜が多く、時期をずらして、満開になっては葉桜になるので、ぼんやり歩きながら、あ〜あ、と(もっとぽかぽかなら気持ちいいのになと)ため息が出たりするのですが、それもこの週末を挟んで、入学式シーズンになれば、華やかになるんでしょうね。

去年は金曜だった小学校の入学式も、今年は週が明けた月曜日ですか。入学式は小学生ながらに緊張するらしく、土日を挟んだ去年とちがって、今年は一気に小学生生活が始まりますね。

今年の新入生は、平成最後の、ということになるんでしょうか?年度で考えるので、もう令和最初の新入生ということになるんでしょうか?どちらにしても楽しい一年になることを願っています。

1月1日に新春の浮き上がりがあって、4月1日には新しい時代への扉が開き新年度の始まり。ドキドキしながら、5月1日には新時代の幕開けには、気持ちはぐ〜っと盛り上がっているのでしょうか。今年は、節目みたいなモノが多い年です。

さぁ、この一か月、平成最後の〇〇をいくつ出来て、やり残しのないようにしたいなとも思い、令和初の〇〇とうまくつながっていくことを願いながら。そして、その先もずっと、と希望するばかりです。

突如、4月1日の夜に帰宅すると、息子はiPadに「令和」と見よう見まねで漢字で書き、「新しい元号は・・・」と一拍置いて、「れいわであります」と言いながら掲げました。私は今、その、動画をにやにやしながら見ています。



■2019年3月30日
「金メダル以上」

なんだか寒の戻りで寒い日が続いた今週。週が明けたら4月ですよ。そして、いよいよ、平成の次の時代、新元号が4月1日の11時半に発表になります。

はやいもんですよね。まだ小学生だった私が、昭和の終わりもよく分からないまま、「平成」とかかれた額縁を掲げたおじさんがいて、なんか、平成って言いにくい、と思ってから・・・

30年が過ぎて、しっかり根付いて、その次。また、例えば額縁に「安久」と掲げられても、違和感はあるんでしょうね(ちなみに、この安久はないらしいです。民間の予想ランキングが1位なので)。

考えてみれば明治・大正・昭和・平成ときた時代の、その前、つまり明治の前って、江戸?というのが教科書的な時系列で、明治の前の元号ってなんだっけ?と思ってしまいます。(慶応、らしいです)

大化の改新で有名な「大化」から始まった元号は、歴史的事件にからんで有名なモノ以外、なかなかパッと思い浮かびませんよね。天平とか応仁とか天保とか。いろんな元号があったんですね。

いやはや、やっぱり楽しみです。出産予定日が4月29日の知り合い夫婦は、なんだか、複雑なようで、できるだけ遅く生まれて来て、新しい元号になって欲しい気もするし、平成最後というのに期待したりもするようです。

昭和64年生まれの後輩が、「平成」生まれになりたかったですよ、と言っていたのが、上手く言えませんがしっくり来るようにも思えます。

元号=時代となった明治以降、新しい時代になる、という雰囲気は、確かにありますよね。平成最後の甲子園大会、平成最後の○○。やたらそんなことを聞くのも、時代というイメージが強いからでしょうか。

新しい時代と言えば東京2020。オリンピック・パラリンピックが、いよいよ迫ってきました。この夏を過ぎれば、もっと加熱するのでしょうが、東京のあちこちでオリンピック関連のイベントが行われています。

今日、東京証券取引所で行われたLet's 55というイベントに行ってきました。証券取引所といえば、1999年、当時、ニューヨークに滞在していた私は、たまたま出会った日本からの旅行者と一緒になって、そのうちの1人が商社マンに内定しているという理由でニューヨーク証券取引所の見学にいったのを思い出します。

株の売り買いの現場。その白熱したやりとりに、経済ってここで動いているんだ、と不思議になった記憶。そんな記憶と共に、年末恒例のあの「鐘」を東京証券取引所で見て、またはてな、と。

オリンピック・パラリンピックの競技を体験するイベントなら、神宮とか、六本木とか、スカイツリー前の広場とか、そういうところでやればいいのに、なぜ、あえて茅場町という「休日にはいかない」場所でやるんだろう、と。

まぁ、すべての体験ブースには企業名が入っていたので、まぁ、そういう企業発信の姿勢が出たかな?とも思えたり。ただ、このイベントは正直素晴らしかったです。

入場料が無料な上、いろんな体験をしてスタンプを集めたら、meijiからアイスクリームとお菓子がもらえるというお得感。それ以前に、オリンピアとパラリンピアの、本物のすごさを感じられる迫力というのに感嘆します。

車いすのバスケット、車いすのマラソン、そして、自転車競技はロードレースにBMXも体験できて、息子は、興奮しっぱなしでした。特に、サッカーをやっている彼は、ブラインドサッカーの体験が楽しかったらしく、鈴の音がするボールと、ゴール裏の人の「声」を頼りにボールを蹴る体験は、なかなか出来ませんからね。

その状況で、あのパフォーマンスをするのか、というのを目の当たりにすると、パラリンピックのイメージが180度変わります。

ここで、日本経済新聞主催のパラアスリートのトークショーがあって、成田緑夢(スノボの金メダリスト)とパラ競技の卓球選手・岩淵幸洋さんが壇上に上がっていました。

冒頭、MCの記者の方が「パラリンピアの人の力」について。自分の障がいを乗り切るには二つの要素がある、ということを紹介していました。

1.道具の工夫(進歩)
2.障がいのある箇所以外の鍛え方

だそうです。世界のトップで戦う人にとって、自分の障がいがどうのこうの、というのはとっくに乗り越えてきたモノ。その弱点を、お互いがいかについて、例えば上肢障がいで腕が伸びない選手には、そのちょうど届かないところを狙う。けど、相手も、それは分かっているので下肢のフットワークで打ち返してくる。

そんな話の一つひとつが、本当に面白かったです。冬のパラリンピックで金メダルをとった成田緑夢さんは、無造作にポケットから金メダルを出して、よかったら触ってくださいと言ってくれ。

子供達が前に出て、金メダルを触り、その後、どうぞ、どうぞと客席の大人にも回してくれました。本物の金メダルを、私は始めて触り、テレビでよくみる反応、『重いですね』というのを実感しました。

あれだけキラキラ光って、重い金メダルを手にするために、どれだけの犠牲と努力と周りの強力と挫折と克服を続けたのかを思うと、本当に敬服するしかありません。

夏のオリンピック、東京大会の出場を目指して、成田緑夢さんはスパッとスノボを止め、今は走り高跳びに挑戦しているようです。

左の足首が曲がらない彼は、助走時のカーブ、そして踏み切る時の力の「逃げ」に四苦八苦しているようで、どうにか「自分の体にあった最適な方法」を模作しているとのことでした。

しっかりと自分の体を理解し、それを個性ととられて「強み」に変えるための果てしない努力。サッカーのスーパースター、ロナウドの言葉がふと浮かびました。

強く信じること(自分を)。自分はできるんだという気持を持ち続けてそのための努力をすること。白黒はっきりつく世界で高パフォーマンスを続ける人の言葉は、いつも説得力があります。

卓球のパラリンピアを目指す岩淵さんは、現在世界ランキング6位。彼は東京大会に向けた目標を「金メダル以上」と掲げていました。成田さんも言っていた「パラリンピックはレベルが低い」というイメージからの脱却。できるだけ興味を持ってもらって、その分、環境(お金)が整った中で練習に打ち込める時代。

金メダルをとってから、次の展開に目標を置くあたり、どうも背負っているモノが違うなとも思えます。トリノの冬の五輪で金メダルをとった荒川静香さんが、(震災のあった)東北ではリンクが経営難で取り壊されそうだという現状を訴えました。

そこで練習をし、拠点を失いかけた羽生結弦選手が、その言葉に救われたというのは有名な話です。スポーツは環境だと言います。その環境を作る資金がいる、と。その資金源は、広告効果のある人気で、その人気に企業が協賛する。

この流れは、確かにオカシイかもしれませんが、それが資本主義の原理なのであれば、それに文句をいってばかりいるのではなく、人気、注目度をあげないといけない。

金メダルが目標といえる競技者の、もっと前にいる?ともいえば「金メダル以上」を背負う選手達。そんな彼らに、私は注目していきたいし、見ていきたいし、そして、もちろん、感動させてもらいたい。

なんだか、春になってゆくにつれて、身体がうずいて、ランニングを始めて、なのに、今日は昨日のお酒を引きずってサボってしまって、それがなんとも気持ち悪い状態で。

自分には出来ないパフォーマンスがあり。それをちょっとかじると、そのすごさも実感に変わり。そして、金メダル以上を背負う人達に目を向けて、興味を持っていく。

最近よく持続可能な、と言う言葉を聞きますが、そんな興味や注目が間違いなく、持続可能なものにすると思うので、これからもどんどんイベントには参加して、そして興味を持ち続けたいな、と思った3月の終わりでした。



■2019年3月23日
「開拓者たち」

絶妙な速さと角度で打ち分け、ヒットを量産するのが、時に華麗で、往々にして「らしさ」だったイチロー選手。にしては、という意味ですが、あれ?と首を傾げてしまうような打席が(オープン戦から)続いていたのは確かです。

よく、日米で(活躍する)、と言われますが、そういうときには大概、アメリカでちょっと活躍して、ほとんどは日本での活躍、というのが多いです。が、イチローの場合は、逆ですからね。完全に「アメリカ」という地において、レジェンドにまで上り詰めた選手です。

その選手の現役引退とあって、日本で流れた速報を引用する形で、アメリカ中にも広がったようです。西海岸のシアトル(マリナーズ)、東海岸の大都会ニューヨーク(ヤンキース)、そして南のマイアミ(マーリンズ)まで。

日本でも、出身地の愛知県や、がんばろうKOBEを合い言葉に阪神大震災の復興を巻き起こした神戸でも、イチロー引退の速報を受けて、街頭インタビューが放送されていました。その日引退する当のイチローはというと、東京で、試合をしている、という状態。

なんだか、それがすごく不思議でした。確かに、日本で開幕(7年ぶりに)するという舞台があって、そこにイチローが(メジャー契約をして)ゲームに出るということ自体、どこか決められたセレモニーのようでもあったのですが、それでも、開幕戦という本番も本番のゲームですからね。そんな引退試合というニュアンスだけでもないだろうと思ったりもして。

結局は、キングカズが言うように、メジャーという最高峰の場で「できなくなった」自分を、引退させたということなんでしょうね。今回の帰国には、珍しく奥さんを伴っていたというイチロー、引退はすでに決めていたとのことです。

それにしても、3割が当たり前で、年間200安打以上するのが当然と思わせただけでもすごいのに、それに加えて、ピークを越えて(ヤンキースやマーリンズで)控え選手になってからも、イチローはイチローであり続けましたからね。彼の素晴らしさは、むしろそこにあると言っていた解説者もいました。

イチローは、自分自身を野球の研究者だと言います。そして、周りの多くは、その研究結果を「野球哲学」と称します。

野球に対する姿勢、そして、向き合ってきた27年間(のプロ生活)から学び、感じ、与え・与えられてきた結果なんでしょうね。開幕戦、東京ドームでライトの守備位置につくイチローは、45歳には到底見えない絞られた身体、そして軽やかな姿でした。

日本での実績を引っさげて、フィールドプレーヤーとして初めてのメジャーリーガーになったイチロー。移籍直後は、線が細いだの、小手先の技術だけではメジャー投手の球はヒットに出来ない、だのといろいろと言われていました。

その、いろいろと言われた「(細い)絞られた身体」が、この日のドームのライトの守備位置には(変わらず)あり、否定的だった人の口を完全に封じてきたレジェンドとして立っていました。

アメリカ人の若者が、「なりたい」と憧れるスーパーヒーローになったイチロー。

3月21日、東京ドームを埋め尽くした観客たちと、8回の交代時、4分間も試合を中断して抱き合ったチームメイトの前で引退したイチロー。この光景が、選手生活で間違いなく一番思い出深くなると言いました。

逆に、この日、東京で見せてくれた「変わらない体型」と「変わったバッティング」は、試合後の80分以上にも及ぶ記者会見よりも、もっと多くのモノを私たちに教えてくれたように思います。

ストイックに自分をコントロールし、挑戦し、そして勝ってきた男。その勝ちの倍、負けた(くやしい思いをした)男の引退。とにかく、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

それをあの日、引退を決めた試合当日の東京ドームで言いたかった。2,000円の立ち見席もいっぱいだったんだろうな、とも思いますが、それなら水道橋駅の近くで、「イチロー、ありがとー」と叫びたかった、とも思います。

投手として2人目だけれど、実質的には始めて活躍した(パイオニア)野茂英雄投手。そして、フィールドプレーヤーとしての開拓者、イチロー選手。2人とも引退しました。

そして、今、新たなパイオニアがメジャーにいます。投手と打者の二刀流。大谷翔平選手は、パイオニアにありがちな(野茂やイチロー)言葉の類とストイックさと頑固さと孤独さを持っているように感じます。

かねてよりイチローは、大谷には一年交替で、投手と打者をすれば、両方共にしっかりとした記録(サイヤング賞やホームラン王)がつくとも言っています。が、まぁ、おそらくは大谷翔平もまた、記録よりも、自分への挑戦に重きを置くので、二刀流で通すんでしょうね。

今日、3月23日は平成最後の甲子園、春の選抜高校野球の開会式でした。センバツらしいどんよりした曇り空のもと、選手宣誓では「ありがとう」や「えがおをさかせる」という言葉がありました。

血反吐に、泥まみれ、根性、根性と兎跳びだった時代の高校野球から、時代は進みました。大会のスケジュールも、負担のないものになってきました。世界の舞台で活躍する選手が増えれば増えるほど、考え方がとてもスマートになり、判断の基準が「大会運営側」から「選手」になったとも思えます。

そういう環境で育って行く、これからの子供達の活躍は、本当に頼もしいな、と、さて、今度は、どんなパイオニアの姿があり、だれに心躍らされるのだろう、と・・・。星稜vs履正社の試合をテレビで見ています。8回表、2-0で星稜がリードしています。このピッチャー、確かにすごいな。

考えてみれば、メジャーへ選手がどんどんと渡る中、日本での最後のプレーは見納めとして見てきました。イチローの時は、ガラガラの大阪ドーム(現京セラドーム)で、バックネット裏から見た覚えがあります。ダルビッシュの時は西武ドームで、松井秀喜の時は、甲子園だった、かな。

と、ここで大谷翔平というプレーヤーを、生で一度も見ていないことが、悔やまれて仕方がないのです。日ハムの時も、どうもタイミング悪く、こうなったらメジャーで見るしかないのですが、なかなか西海岸へ行こうというプランもなく。

来年、もしかして、東京ドームで開幕戦なんて、エンジェルスさん、どうですか?大谷翔平が先発なんてことになったら、いや〜、これは東京五輪イヤーに勢いをつけますよね。

そんな夢を膨らませながら。昨日、わが家はサッカー三昧の息子と、日産スタジアムのサッカー日本代表vsコロンビア戦を見てきました。風が強く、寒さが一気に戻った中で、とても熱い試合。

コロンビアの選手のボールタッチの柔らかさ、そしてスピード、テクニックに、感嘆の声をあげつつ、日本の中島、南野、堂安のレベルの高いプレー(の連携)に興奮し、香川、乾、柴崎のさすが、というプレーに、それらを融合させたらすごいぞ、と期待してわくわくしました。

ほんと、すごい試合を生で見れて、良かったです。こうなったら、サッカーも、野球も、オリンピック(という超真剣勝負)のチケット、絶対に取りたいな、と生の力に完全にやられています。



■2019年3月17日
『東京のパーク化』

ずっと閉鎖されていた場所が、オープンする。それまで遮られていた視界が広がる。あ〜、そうだった。そうそう、こういう感じ。こんなにも花が咲き乱れて、春は気持ちよかったんだ。私の近くの公園に、数年ぶりに、桜と菜の花とコスモスとチューリップの春が来ます。(きっと、早咲き桜なので来週あたりには)

渋谷駅も、ず〜っと工事中なので、これがぱ〜っと開けらたら、この街は気持ちよくなるんでしょうね。思い出すのは、新宿駅の南口、高島屋へつながる施設がオープンした時に、一気に「完成形」になったと感じたことです。

東京2020、オリンピックまで500日を切りました。ひとつの施設がオープンするだけではなく、エリアごと刷新させるということが増えてきそうです。思い切り空気をすいこんで、ぐわっと背伸びして、気持ちいいな、と思える空間が、どんどん広がってくれることを願いつつ。。。

そこにきて花粉ですよ。もう、勘弁してほしいです、という方も多いかと思います。鼻水がたれ、目がかゆく、手や顔の皮膚がかゆくなる。せっかくの春に水を差すというか、雌しべ目指してちゃんと舞えよ!鼻とか目にはいってくんじゃないよ、と花粉たちに言いたくなるような状況です。

清少納言の時代、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」様子を、をかしがったように、わが家も、そんな早朝を眺めながら、のんびりと起き上がり、顔を洗い、そしてウエアとシューズを身に着けて、公園へ行く(ようになりました)。

休日の早朝、家族でランニングを始めました。1周が1キロちょっとの公園を、まずは、息子の号令で入念な準備体操をして、のんびり歩きます。腰をぐいぐいひねってみたり、ももを少し高く上げてみたり、肩を回したり、空を見上げたり、家族で、話をしながら。

その後、3周のランニング。まぁ、無理はせずに、それぞれのペースで、ゆっくりと走ります。スマホのアプリの記録によると、たっぷり50分以上、5.5キロほどをまずは歩き、そして走ったようです。終わった後は、すがすがしい、気分です。この気持ちの良さの中毒になりそうです。

家に戻って、シャワーを浴び、朝食を食べる。この歳になって、味噌汁がしみます。これがないと朝食ではない、と思えるようになってきました。

私が少年野球をしていたころ、弁当の時に父母が交代で(冬の間は)味噌汁を大量に用意してくれてました。が、当時は、味噌汁がそんなにおいしいとは思わず・・・。おそらく、コーチや父母のみなさんが、寒い冬の弁当の時に温かいものを、と無理をしてくれていたんでしょうね。

ああ、「そういう感覚」が身に染みるようになりました。案の定、息子は、味噌汁の具だけを食べて、汁を残しています。(そんなに重要視しない味噌汁という)まぁ、気持ちは分かります。

朝、ランニングしてから行動を起こす。休日は、この贅沢な朝活が醍醐味だな、と思います。休日は、何にも邪魔されず、ずっと寝ていたい。そんなことに幸せを感じなくて済む、家族に感謝です。

考えてみると、東京は公園が多いですね。都立公園だけでも82箇所、約2,024haもあるそうです。都はパークマネージメントのマスタープランに沿って、質の高い公園を整備・管理しようとしているそうです。

視界が開けて、ナチュラルハーモニーに彩られる景色は、本当に最高ですからね。このまま進めていってもらいたいものです。

東京の公園と聞いて、パッと思い浮かぶのは、地域によって違うと思います。例えば、上野公園だったり代々木公園だったり。もっと地元密着の(西側に住んでいる人なら)砧公園や世田谷公園は憩いの場として思い浮かぶのではないでしょうか。

そんな中で、明治神宮の森が、大きく変わろうとしているというのを聞き、個人的に楽しみでなりません。荒地だった場を、100年かけて造り上げた人工の森。なんとも東京らしい経緯と、結果を残しているのが、明治神宮の森です。緑と同時に、ここの魅力はなんといっても施設が多いことです。

『パーク』という言葉が持つ「遊び場」があふれているし、スポーツを楽しむ、バーベキューをする、フェスや銀杏や、絵画館まで。休日には小さい子の自転車講習までやっています。

まず、大きな変化は、なんといっても国立競技場です。東京2020のメインスタジアムとして、現代の観客数基準や各設備の基準を満たすために建て替えが行われ、森の中に調和する隈研吾さん設計で新国立競技場が完成間近となっています。

そして、2021年以降、2025年までに現在の神宮球場(野球)がボールパークとして生まれ変わるそうです。現在の秩父宮ラグビー場と場所を入れ替えて整備されることで、賛否様々ですが、高校球児の聖地が甲子園なら、大学野球の聖地として神宮球場は絶対的ですからね。

名古屋ドームよりナゴヤ球場を、もしくは広島市民球場などを「良い」とする懐古的な情を抜けば、今の神宮球場を、もっとボールパーク化することはいいことではないかと思っています。草野球をする人も、プロ野球も、大学野球の選手も、一所に集まれる神宮の森。まだまだ野球人気の高い日本においては、大きく流れを変えることになりそうですね。

ラグビーの聖地は、調布市にある味の素スタジアムに移り?現在本拠地として利用しているFC東京は代々木にできる新スタジアムに移る。首都にサッカー専用スタジアムがないという状況を一新することは、うれしいことです。日本代表戦をする、といったら埼玉にいったりしなくて済みますから。。。

多くのものがデジタル化されて、バーチャルで満足されつつ中、「リアルがち」な、体感できるものの注目度があがっています。音楽業界では、CDを売るという時代を終え、データを250円でダウンロードさせるのも限界を感じた末、今や、ストリーミング。定額で音楽は「耳元」へ届けるようになりました。

そして、どこで儲けるか。これがライブ(コンサート)などの「リアルがち」なパフォーマンスだと言われています。大きな機材を運ぶための搬入口があり、キャパがあり、安全基準を満たした施設が足りないために、興業をうちたくてもなかなかうてない。そんな状況打破のために、チケット売りで成り立っていたぴあが、コンサートホールを横浜に建設するのは有名な話です。

この流れからすると、ライブ感、実感。スポーツの持つ興奮と圧倒的なパフォーマンスを体感する場として、スタジアムや球場は不可欠です。それぞれの競技の、聖地のような「専用施設」ができて、それぞれがしっかりと利益の上げられる持続可能性を持つ。

そのためのパーク化ですよね。

これまでは、試合開始時間にいって、チケットをもぎられて、席について、観戦していたという流れを、大きく変える「丸一日楽しめるパーク化」。アメリカから始まったといわれるこの動きを、サッカーはサッカーで、野球は野球で、バレーボールやテニス、水泳、バトミントン、卓球、柔道、体操、相撲にいたるまで、各々が確立できれば・・・

緑あふれる東京から、「パーク」溢れる東京へと変貌できますよね。

人が住み、憩い、集い、そして「リアルがち」にお金を払う。文化(博物館・美術館・ギャラリー)で溢れ、フード(ミシュランレストラン)で溢れる東京の街に、パークが溢れれば、世界を見渡してもなかなかない魅力的な都市になりそうです。



■2019年3月9日
『おひとりさまがシェア』

自分だけで気軽に、好きなペースで、癒され、(自身と)向き合う。そんな需要の高まりに合わせてか、いろんな商品・サービスが「おひとりさま」化されてますね。

1人で参加することが条件のパッケージ旅行、1人用の鍋料理ができる土鍋、1人用のミニコンロなどバーベキュー・キャンプ用品などなど。

団塊と呼ばれた「かたまり」で動く需要に、大量・同質商品・サービスを、より割安で提供していた時代から、割高でもばら売りになった、というのが、より先鋭化したというイメージでしょうか。

この「おひとりさま」化で、面白いのが年代(層)によって、形態が違うように思えるところです。

まずご年配の方々。生まれてからずっと、カタマリで動くことを強いられ、その中で否応なしに周りに合わせ、空気は読むなんてもんじゃなく掴むもんだ、とばかりに自然に団体の中の個人を身につけた世代です(予想)。

そんな方たちの中には、例えば、子育てが終わって定年したら、夫婦連れだってクルーズ旅行にでも行き、日常に非日常の色を添えようか、なんて考えていたところ、買い物が重要・重要じゃない、遺産めぐりが重要・重要じゃない、など「食い違い」があったりして。

おひとりさま参加限定のツアーの多くは、自分でチケット取ったり宿を手配するのは面倒だけど、かといって、ツアーにのっかって「強いられる時間」を費やしたくもない。そんな参加者が多いと聞きます。

夫婦で行くより、お互い別々で、ショッピングなんかいいから、ゆっくり遺跡を歩いてカメラにおさめたい側と、遺跡なんて歩かずに、おいしいモノを食べて買い物がしたい側が、それぞれの行動に合致した人たちと、パッケージツアーで出会い、意気投合して「楽しく」旅する。

そんな風にしておひとりさま化をシェアしているように思います。

そして、20年、25年前、ひとり旅がやたらと流行って、FITなんて言葉とHISが出てきて、ふらっと航空券だけをとって海外に出向いていた年代。

1人でふらっと旅に出るなんて「若者特有」「若いからできる」と言われ続けてきました。しかし、時代は氷河期。ロストジェネレーションのこの層は、未婚、結婚しても子供を持たない、もしくは、子育てを終えきれていないという人が多いのが現状です。

なので、おひとりさま化と言われても「何をいまさら」と感じるのですが、芸人のひろしさんが1人キャンプに行って、山奥でたき火をしている動画をアップしたら大人気なんてことを考えると・・・

この年代のおひとりさま化は、自分で望んた結果というよりも、そうなってしまったという、ちょっと後ろ向きなところがあるんでしょうか。

そうなってしまった「ひとり」と向き合うためのおひとりさま化。いろいろ考えずに、ぼんやり「ひとりになりたい」という気持ちが濃いかと思います(予想)。

一番苦しいのは、そんなおひとりさまを、シェアできないことです。今はただ、10年、20年先の意気投合した人との楽しい時間のシェアを夢見て頑張っているというところでしょうか。
(そうじゃなく、今現在の家族の時間がパーフェクトという人をたくさん知っていますが)

最後は、ゆとり世代、さとり世代。一人一人別、が当たり前に与えられて育った子どもは、大人になると自分のモノに対する執着が少ないのか?

この世代のおひとりさま化は、もはや特筆するまでもない、という印象です。

兄弟が多く、自分の部屋もないし、ランドセルもおもちゃもお下がり、という団塊ジュニアが親となって、だから自分の子にはそんな思いはさせたくない、と買い与えたのでしょうか。

自分専用のものが欲しい、欲しいと、そもそも思わずして、「存在した」んでしょうね。だからか、自分のものにしたら、なんだか面倒、と考えるようで、「必要な時にだけあればいい」という感覚が濃厚です。

住む部屋はもちろん、食器も、車も、時計も、でかいスーツケースもシェアしている人が多く、果ては、普段着るスーツやかばんまでシェアしていると聞きます。

この層のおひとりさまは、あくまでも執着心のベクトルが「物」ではないように思います。自分の端末で、バーチャルの世界に没頭して、自分のコントロール下のものだけを相手にしているように思えます(予想)。

そもそも、おひとりさまの先に、だれかとの時間や会話や楽しさをシェアしようとすることが、バーチャルにも思えます。

ここまで、かなり飛躍的に、ただただ「目立ってしめされている事象」だけを抜き出して書いてみると、うん、なるほど、私は、どこにも「完全には」属さないな、と思えます。

世代的には完全にロストジェネレーションなんですが、団塊ジュニア世代のような気分もあるし、ゆとり世代よりもゆとり世代的なことを先取りしていたようにも思えます。

そもそも、カタマリになって年功序列、家で女房は永久就職なんてことが完全崩壊した世代なので、属すことに嫌悪感があったかもしれません。それは、大きくて安定した船ではなかったからです。

かといって、はみ出してこもってしまうほどドライでもないので、群れるし、本当は嫌でも相当な理由がないかぎり誘いにはのります。

大きな氷が、ちょうど解けて液体になるまでの間。その期間に育ったから、そんな風におもうんでしょうね。カチカチの氷の行く末はしっているし、液体になって蒸発するほどドライではない、と言いますか。

ただ、ひとつだけ。おひとりさまになって、自分のペースで、自分の好きな時間を謳歌したいと強く思うのと同時に、その先では、生身の人と、温度のあるシェアをしたい。それだけは本当に、強く思います。

コンビニの店員も、電車の運転手も自動化(AI化)して、便利にスピーディーに機械的になっていくだろう未来において、だからこそ、余計にそう思うのです。



■2019年3月2日
『次の時代で、育てたい』

久しぶりに「激しい雨」予報がスマホに入ってきた2月の終わり。3月に入って今日は晴天でしたが、明日からまたすっきりしない天気だとか。考えてみれば、京都にいた頃、梅を愛でに北野天満宮にいった時も雪がちらついて、それはそれでをかしかったような。

この時期、雪ではなく雨なのが、せめてもの救いでしょうか。それにしても、今年は暖かい冬でしたね。これから季節外れの積雪、なんていうのがあるかもしれませんが、これまでの所、過ごしやすかったです。

そういえば、3月の終わり、息子はサッカースクールの泊りがけキャンプで、苗場までスキーに行くことになり、桜の開花が早いと言われる今年、そんな時期まで雪があるのか?と思っていると、雪の多い地域出身の妻は、「余裕よ」とのこと。そんなもんなんですね。

夏の始めにはフジロックで、音楽とキャンプ一色になる苗場も、まだまだスキーに雪遊びが出来るとは。日本の四季、季節のいろいろは、本当に趣が深いなと感心します。

ちなみに、今年のフジロック、SIAやJASON MRAZが来るので、音楽好きの息子を連れていきたいな、と思いながらも、夏には大きな旅を予定しているので我慢です。

さて、いよいよ来月に発表される新しい元号。平成という時代の終わり、戦争はなかったけれど、自然災害の多い時代でした。世間を驚かすニュースの中には、驚愕するもの、震撼させられるものが多かったように思います。

平成元年、1989年の1月8日から始まったこの時代は、当時、まだバブルの尾を引き、どこか実質経済とのかい離があったとも言われます。この年、なんといっても印象的なのが消費税3%の導入でしょうか。世界ではベルリンの壁が崩壊した年でもあります。

平成2年になると、株価が暴落し、徐々にバルブ崩壊が見えてきても、平成3年にはザ・バブルの印象がある(今から考えると残像だったんですね)ジュリアナ東京がオープンしています。平成3年、この年は湾岸戦争勃発の年で、中学生だった私は、テレビで映る映画のような本当の爆撃映像を見て、衝撃を受けたのを思い出します。ソ連という国が地図から消えた年でもありました。

平成4年には、当時、誰もが耳にし、口にしていたPKO法案が成立し、いよいよ自衛隊が海外へと活動の手を伸ばしました。Jリーグが開幕した平成5年、ついに自民党が分裂。総理大臣が自民党ではないということになりました(細川内閣)。平成6年も羽田政権(半袖のスーツの人)、村山内閣(まゆげの人)が首相を務め、誰もが短命だったので名前を覚えるのが大変でした。

平成7年。私は高校3年で、3学期に入ってすぐ、阪神淡路大震災がありました。高校卒業後の春休みには地下鉄サリン事件もあり、日本の東西で、激震が走りました。この年、Windows95が出て、PCがグッと身近になった頃でもあります。ポケベルからピッチ(PHS)になった時ともいえるかもしれません。

金融ビッグバンといわれた平成8年。今や当たり前のグローバルというのが定着し、携帯電話は「高い」ながらも広がりつづけ写メや着メロというのも出始めた頃です。香港が中国に返還された平成9年、山一證券が破たんし、北海道拓殖銀行もつぶれました。この辺りから、完全に不景気という言葉が身に染みだしました。

平成10年にはアップル復活のシンボル、iMacが発売され、長野で冬のオリンピックがありました。みんなが携帯電話を持ち、ITバブルという言葉が生まれたのは平成11年。翌平成12年には沖縄でサミットがあり、2000円札が出来ました。

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開園した平成13年、小泉内閣が誕生します。世界中に大激震がおこった9.11テロもありました。パソコンが普及し、職場のデスクにはPCがあるのが当たり前になった平成14年、学校は週5日制になり、日韓共催でサッカーワールドカップがありました。

PCの普及にともなって、電話線を繋いで電話代が高くつくという不満を解消したADSL。その加入が当たり前となった平成15年、イラク戦争がはじまり、自衛隊はイラクへ派遣されました。平成16年には東京メトロが誕生して民営化され、平成17年には郵便事業も民営化となりました。同じ年、愛知万博が行なわれ、関西ではJR福知山線の脱線事故がありました。

ライブドアショック、ソフトバンクの誕生などがあった平成18年、安倍内閣が誕生します(短命の1回目の)。平成19年のリーマンショックでは、日本の平均株価は6千円代にまで落ち込みました。平成20年、秋葉原通り魔事件が起こった年、iPhoneが発売されました。スマートフォンという言葉も生まれたアンドロイドは翌平成21年に発売。アメリカでは大フィーバーの中で、オバマ大統領が就任しました。

羽田に国際線ターミナルができた平成22年。チリで大地震が起こりました。そして、平成23年。東日本大震災。マグニチュード9.0という大地震は、巨大津波で町ごと飲みこみ、原発がメルトダウンをおこしました。

平成24年、東京スカイツリーが開業し、スマホの普及、そして電話はIP電話になりました。2020年のオリンピックに東京が決定し、富士山が世界遺産になった平成25年、和食も無形文化遺産になっています。

消費税が8%になった平成26年、集団的自衛権が容認され、蚊に刺されないようにとびくびくしたデング熱も流行りました。飛行機事故が相次いだ平成27年、トヨタが日本企業としては初の純利益2.1兆円をたたきだし、北陸にも新幹線が開通しました。

平成28年には北海道新幹線が開通し、働き方改革という言葉も聞こえ始めました。小池さんが都知事になり、天皇陛下が退位についてのお気持ちを表明。アメリカではトランプ氏が大統領になりました。

モリカケ問題で長期政権の安倍さんにお灸が据えられた平成29年には、都知事選の勢いを失速させた小池さん、日本人初の9秒台を出した桐生選手、カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞がありました。

去年、平成30年には大阪と北海道を襲った地震、豪雨、熊谷の41.1度という猛暑、ゴーン氏の逮捕などがあり、平成31年です。4月30日までの4か月。新しい時代(元号)に向けて、天皇陛下は在位30年の記念式典で「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。」というお言葉がありました。

次の時代の人へ、補い続けていってくれることを願う。民間人を皇室に招き、子供たちを自分たちの手で育て、そして被災地へ行っては同じ目線で話を聞き、体力の限界と次の天皇陛下の年齢を考えての生前退位。

ものすごく広い視野で、ものすごく思い切ったことを断行するお姿は、これからの私たちに、「補い続けてほしい」と言い残して退位されます。

時代の流れ、多様性に目をやる広い視野、とにかく聞き、話し、同じ目線で時間を過ごし、そして、思い切ったことを断行する。私は平成という時代で育ちました。そして昭和という時代に生まれました。これから、次の時代で、育てたい。そんな風に強く思います。



■2019年2月23日
『目の前のことが楽しめること』

先日、息子と『来年の習い事をどうするか』という話し合いをしました。その中で、え?と耳を疑うほどの正論や、大人びた言葉が飛び出して、意外に前向きな否定や、当然ながら絶対的な嫌とがない交ぜで。

「じゃ、こういうことで、いい?」と、下校後の時間割のように記した一覧を見ながら息子にたずねると、まぁ現状考えられる最善の策だね、とでもいうような頷き。そして「来年も大変そうだな〜」というつぶやき。

それを聞いた私は、なんとも言えない気持ちになり。楽しいことだけでいいんです。その積み重なりが、先の先の先に大きな糧となるんです。それは、先の先の先から逆算して、今目先のやることを「楽しむ」ことが大事なんだという私なりの信念。

楽しくやるために。親として提供し、協力し、協業すべきことは何だろうか。妻とはよく(この4月という節目のタイミングでは特に)話します。

先の先の先は楽しいことの積み重なりで、そこから逆算して今目の前のことを楽しむ方法。う〜ん、こんな風に考えると、いろんなことがシンプルに思えてきたりもします。Jリーグも開幕して、なんだかわくわくしてきます。目の前のことを楽しみながら、積み重ねたい。

先週の木曜日、昼前に上野公園に行きました。平日でも3月並みの陽気と晴天に誘われて、多くの外国人観光客を始め、たくさんの人に囲まれて、とても賑やかでした。花は咲いていないのに、いろんな「モノ」から花が咲いような雰囲気。

各所にあるポスターやチラシには、桜や春祭りの文字があふれ、ここに桜が咲いて、いろんな人が野外でパフォーマンスをして、子連れがいて、カップルがいて、なんだか絵にかいたような春が確実に来るんだな、と思えることが、実はとても不思議なのに、あたかも当然に思えました。

春になるということ、春になったら花が咲くということ。例えば、一年経てば春になるのは、おおよそ確実なことですが、桜が咲くかどうは分からない。そんな風に思いながら、冬を過ごすのは、嫌になります。

よく聞く例として、春に芽を出すために、冬の間に耐え、蓄え、(努力し)、(夢に見て)がんばる植物があります。きれいに咲けるかどうかをかけて、冬を頑張る。それは、咲く機会があるから、きれいさを競えるというか。

それが、です。2024年、東京の次のパリ五輪で、野球が競技種目から外れるそうです。同時に、ソフトボール、空手も外れるとか。パリの次はロサンゼルスなので、野球は戻ってくるんですかね?

開催場所によって、行なわれるかどうかの当落線上にある競技の選手には厳しいですよね。4年に一回オリンピックは来るけど、そこで行なわれるかどうかは分からない。そんな風にして、努力する冬は辛いでしょうね。

そもそも4年に1度の大会にピークをもっていくだけでも、ある意味「運」みたいなところがあるのに、それが4年かどうかも不安定な状況。

野球やソフトボール、空手の競技者にとっては、いろんな意味で東京五輪は見せ所です。咲けるかどうかの機会を、華やかに咲いてもらいたいと心から応援します。

そんな東京五輪が迫った東京の街では、2020年をターゲットにしてぶりあがった計画が、着実に形になっています。新宿駅から中央線で東京方面に向かうと、国立競技場も、それとわかるまで姿を現してきました。臨海エリアではそれも顕著で、もう来年の夏ですからね。いよいよオリンピックが東京にやってきますね。

と、ここまで接近してくると、2021年からの東京というテーマで話は進んでいき、五輪後の姿を描こうとする話が頻繁に出てきます。例えば、これからドンドン東京に人が増えるのか、これからドンドン東京以外に移動していくのか。

先の先の先。どうなるんですかね。東京に居て出来ることの多くは、東京に居るからこそできることなのか。時間を伴った箱(空間)の距離が、可能不可能を決めていたのは、ちょっと昔すぎないか?と思える事象が増えてきました。

例えば、会議。これは、大阪や福岡から出張に来てもらって行なってましたが、今や、ほぼ、テレビ会議です。その延長線上で、自宅にいて、仕事をこなす在宅勤務も増え、一か所に集めて効率を上げた時代の終わりを、技術が可能にしました。

満員電車で、同じ時間に、同じようなところへ行って、それだけで仕事をしている気になって、何となくの時間経過で、それとなく仕事をしている人(がいるとしたら)には、往復の通勤がなく、ギュッと業務だけに絞れば、シュルッと縮んでとてもシンプルになるような気がします。

これまでの8時間が6時間や4時間になる。プラスして往復通勤の2時間もなくなる。これって、すごいですよね。一人きりで必要な業務だけをやる。効率性は、時間的な観点からいってとても簡単に向上しそうです。

ただ、そこはAI。このホームページでも何度か記しましたが、作業は、そもそも論で「する必要がなくなる」と言われています。作業以外のことで、一人で完結すること。これはアート作品を作るというのでもない限り難しく。

だから、シェアオフィスというのが注目されているようです。そこには、ランダムに集まった人がいて、その中から「たまたま話した」人とつながりが出来て、そこで「自分から選んだなら出会うことはなかっただろう」異種の人と新しい何かが生み出される。

このランダムな出会い。偶然の産物。「自分から選ぶ」のではないこと。よく考えると、バーチャルの世界ですぐに出来そうで、一番できないことじゃないかな?と思ったりします。

バーチャルは、物理的な時間や空間をいとも簡単に飛び越えて、最短距離でたどり着けますが、その分、混線や混じり気を嫌います。実際に「顔」を見ず、「温度」を感じない【人】ともなれば不審が恐怖になって接触しようとしません。

なので、偶然の産物が、形となるには少々不都合なものかと思います。仮に、本屋で同じ本に手を伸ばして「あっ」とお互いが手を引いて、本が落ちる。それをお互いが拾うとして頭をごっつんこする(というのは現実にもないですが)。

こうゆう交じり合いは、皆無なんです。現実的に「ない」というのではなく、物理的に皆無。バーチャルでは、指と指が触れあったときの「ドキッ」も、頭をごっつんこしたあとの「ハハハ」もありません。

もちろん、そこからの事もなく、あるのは「自分で選んで」きた人同士が、仮想空間で「集まって」、ああでもない、こうでもないと自己満足的に固まるしかない、というか。

そういう固まりから生まれるのは、プラス思考よりもマイナスなもの、特に批判にばかりベクトルが向くような気がします。それは、自分で選んだだけで、そこで勝負をしていないからじゃないかな?とも思える訳です。

勝負して、負けることで学び、寄り添うことを知らない人たちどうしの固まりは、たぶん、心のよりどころであり、安穏とする空間であり、だからこそ、そこだけで勝手に膨らんでいくマイナスのベクトルがあるように思えるのです。

ちゃんと勝負した人。ちゃんと負けた人。そこから再び歩き出した人。そんな人たちの先の先の先につながるところで、同じように歩んできた人が偶然のごっつんこをする。そうした時に、何かが生まれるんだろうな、と思います。

目の前のことが楽しめること。私は、自分に刷りこむように息子に語りかけ、勝負して、負けて、それでここにいるんだよ、ということだけでも、最低限、伝えられるようになりたいな、と、この春待つ2月の終わりに思いました。



■2019年2月16日
『やさしく・ていねいに』

浜松町や品川、東京といった駅に着くと、どっとスーツケースをもった観光客が乗車して、いろんな言葉が私の耳を彩り、合わせて匂いもなんとも豊かです。

その昔、私がロンドンでホームステイをしていたころ、隣の部屋のフランス人から「成田空港に降りたら、ソイソースの匂いがしたよ」と言われたことを思い出します。

韓国やインドの方からは食べ物の匂いが、スペインやイタリアの方からは香水の匂いがしたりして。私からは、きっとお出汁の匂いがするのかな?と思っていると、ぎゅうぎゅう詰めの山手線もわくわくしたりします。

ぼくは、麺で出来ている。先週のある晩、汁物の付け合せの中にはいった、にゅうめんをすすりながら息子が言いました。それは、私が「パパは、麺で出来ているからね」と言っているのを真似したものです。つまり、私は麺類が大好き。もはや「それだけ」でも特に苦にならないという人間です。

うどん、そば、ラーメン、パスタ。もう、どれもこれも大好きで、昼食は、ほぼ、毎日(特別、誰かと一緒で、その誰かの強い希望が麺類以外の場合を除いて)麺類です。飽きない?とよく言われます。飽きたことがない、と答えています。

飽きたことはないのですが、嗜好は変わってきました。昔は、ザ・添加物、濃い味でガンガン攻めてくるラーメンが美味しいと感じていましたが、もう、今は、そんなの疲れます。ラーメンでも、無添加で、ていねいに作ったやさしいものが好きです。

うどんも、関西風とまでは言わなくても、やっぱり、あっさりと仕上げてくれるものを好みます。もりそばは、そばをつゆに半分しかつけなくなりました。

何となく、アコースティックに歌われる方が、正直たすかる、といった感覚に近いでしょうか。やさしく、ていねいに作られたものを、量を減らして頂く。ん〜、私も、そういう風になりました。

日本にやってくる訪日外国人観光客の数。これはどんどん伸びて、東京オリンピックまで右肩上がりなんでしょうけど、東京や大阪といった「濃い」街、分かりやすい街、エキサイティングなジャパンから、どこかアコースティックな感じの地方都市へと流れているとも聞きます。

先日発表されたANAとナビタイムジャパン、エクスペディアの3社で立ち上げる新しい訪日旅行サービス。海外から地方都市へと観光客を誘うサービスだと言います。現在、ANAがやっている「Odyssey Japan(オディッシージャパン)」を中心に、展開を広げていくようです。

湖面の丹頂鶴、山間の朝焼け、抹茶を挽く臼、焼き魚、蕎麦、そして、渓流。そこは、私たちの想像する「おばあちゃんの家」のようです。体験を通し、体感し、身体に染み込むジャパンの姿です。クール・ジャパン。実は、マンガやアニメ、オタク文化ではない、この日本の根本に、そう感じてくれる外国人がいると、素敵ですよね。

こういう動きは、何も日本に限ったことではありません。20年以上前になりますが、パリやニースといった街から、古城めぐり、ワイナリー巡りへと観光客の流れが変わったフランスです。

パリは、言わずとしれた大都市です。それは、ただただポコポコとビルが建って、つるつるでピカピカの大都市ではなく、ファッション、カルチャー、アート、ミュージック、フード、パフォーマンスにおいて、とても深みのある最先端都市です。

パリの魅力を伝えるものとして、昔、「パリという都市の魅力は、近郊にディズニーランド(ユーロ・ディズニー)をつくっても、大規模なアウトレットモールをつくっても、勝てないほど」と言われたのを覚えています。

私のパリのイメージは、ロンドンからコーチバスで入ったので、「え!水が冷たい!」と店で買ったミネラルウォーターが冷えていたことに感動したことです(21年前のことです。当時はロンドンで冷えた水を出す店は少なかったです)。

あとは、停電ですかね。雰囲気のある古いビルの中にはいるホテルで、セーヌ川からどんどん南下して、それと比例して緑やカフェがなんとも素敵で、だけど、しっかりと停電してしまって、その時、ロンドンで出会って、一緒にパリに行っていた男性とむさくるしくベッドをシェアする中で。

そんなイメージではなく、原田マハ著「ロマンシエ」のようなパリもしっかりと存在するわけで。こぞって、観光客はパリへ行きました。パリに住んでいる人は行かない、と言われたシャンゼリゼ、コンコルド広場、ノートルダムにルーブル美術館。

わ〜っと行って、(今でいう)爆買いよろしく買いまくってからの、その後の、流れ。ロンパリローマ(日本でいう、大阪・富士山・東京)を卒業して、もうひとつの(顔をみせる)フランスを旅してもらいたい。

そうやって早い段階から仕掛けた人がいて、その人たちが用意したバスルートや、レストラン・ホテルのマップがあってこそ、ロワール地方やコルマール、オンフルールなどの空気を思い切り吸って、浸れるようになったんでしょうね。

東京や大阪から、地方へ。それを地方創生という大看板を掲げて、外国人を誘致しようとするなら、それはどうも動きの鈍い観光課の仕事のようになりますが、あくまでも利益を上げようとする企業が、利益を上げるために「本当に招待(紹介)したい」もうひとつの(顔をみせる)日本を表舞台に上げてくれると、厚みがでるでしょうね。

安室奈美恵さんや大野さんが地方都市へ移住か?と言われてます。東京を離れて、「自分にあった場所」で、やさしく・ていねいに過ごす人が増えたら、地方都市は、どんどん魅力的になるだろうな、と想像します。

2021年。オリンピック後の東京、そして日本の、脱皮した姿を思い浮かべて、とてもわくわくします。ぴゅ〜っとやかんでお湯が沸きました。ほうじ茶でも淹れて頂きます。



■2019年2月9日
『大前提』

冷たい雨、もしくは切るように風、そしてちらつく雪(積雪の予報)。かと思うと、コートを脱いでしまうほどの暖かさ。東京にいると、「私」個人の温度調節は、自分の着るモノひとつでどうにかなる、というものでもないので困ります。

たくさんの人と、同じ空間で移動したり留まったりするからです。オフィス、電車、店内などなどの空調は、何かを基準にして調節されるわけで、その何か、と、私、の乖離に快適さはほど遠いと感じることも多いわけです。

家から駅までは厚着したいけど、電車の中は暑くなるし、地下道もしかり、です。脱ぎ着すればいいじゃないか。というわけにもいかないのが、東京の朝・夕の電車のぎゅうぎゅう詰めで、もう慣れましたけど、ふと、客観的に「詰め込まれた」自分を想像して【搬送】という文字が浮かんだりします。

運んで送られる自分という荷物。飛躍してそう感じてしまう訳です。送られる先が、変更する、配置転換・転勤の時期を迎えようとしていますね。去年は引っ越し難民なる言葉が叫ばれるなど、できるだけ安く引っ越したいと願うどころではない不足があったようです。

今年は、対策が練られて、そういうこともないだろう、という予測ですが、需要の一極集中に対する提供の難しさが露呈しましたよね。ある点で線を引く。ヤマト運輸がそんな対応をして、結果、利益が上がり、働く人からも過酷な状況が薄れたと聞きます。

サバティカル休暇とまではいかなくても、働き改革の一環で、休み方が大きく変わろうとしている日本。がつがつ働いてGDPがどれだけ上がったとか、とにかく造れ、造れ、で売りまくれ、というステージからは、完全に移行したようですね。

今年は、休日が多くなります。それも連休が増えることもあって、じーっとしているのもなんだかな、とそわそわしてしまう私は、実は、夏までの予定を着々と埋めつつあります。日本人が最も苦手と(言われている)先の休暇取得、早期の各種申込み。

私は、自分のスマホのカレンダーで、「ここを休む」と決めて背景を赤色にし、その日に向けていろんな予約を進めています。その赤色になっていないところで、仕事をする。そういう働き方に・・・と、ここで、思うのは、そういう働き方に「変えた」訳ではないということです。

私は、たぶん、ずっとそうやって休みを取ってきたし、早め早めに飛行機やホテル、各種チケットを押えてきたし、「それ以外」の所で仕事をしてきました。

それが、特殊だったからこそ、早くに申し込めば、何の苦労をすることもなかったのですが、働き方改革の影響なのか?ゴールデンウィークの予約は、本当にみなさんお早いです。結果、私は「いつもどおり」の感覚で予約を取ろうとすると、ソールドアウト、フルブックという壁にぶち当たってます。

だからといって、もっと早く!とか、より安いところ!というのを楽しめた年齢はとっくに超えていることもあり、家族3人で、さぁ、何をするのが一番楽しめるかな、と思いつつ休日・休暇の予定を決めています。

サッカー三昧の息子リクエストで、FC東京のホーム開幕戦に行き、日産スタジアムで行われる日本代表の対コロンビア戦のチケットも取りました。その息子は、興味あるかな?とおもいつつも、飯能にオープンするムーミンバレーパーク(R)にも行くつもりです。

春の花見は、本当は滋賀の山奥にあるMIHO MUSEUMに行きたいのですが、ちょっと遠すぎるので近場の関東エリアで探しています。名もない川沿いを愛でつつ歩こうか、それとも祖師谷、砧、等々力あたりで済まそうか。そんなことを思いながら、、、

梅がきれいに咲いてますね。近所の公園では赤に近いピンクの花が咲いて、それだけで気分が上がります。雪と梅。毎年のようにこのコンビを愛でるのも、それはそれでいいものです。

井の中の蛙は大海を知らず、されど青い空を見上げることはできる。この春待つ時期に、どんな状況に置かれている人にも同じ空を見上げ、春を待つ気分でいてもらいたいものだと切に願うような事件が多いです。

何かの問題が起こる。と、それに対応する箇所(人)をつくる。そうなると、そこにばかり、それに関しては集まって、それ以外の個所(人)には、まるで管轄外になってしまう。

年間8万人以上の虐待児童に対する児童相談所。一人の尊い命が奪われると、児童相談所を主語にして、不手際の連続などと書かれてしまう現状。

昔、ビートたけしさんがテレビで「優先席なんてあるからダメなんだ」というようなことを言っていたのを思い出します。優先的に席に座ってもらった方がいい人がいたら、どこの席だって「どうぞ」と譲ってあげる。その大前提なしに、「優先席だけ論」になると、なんともばつの悪いことが多くなってしまいます。

混んでても優先席だけ空いていたり(座りにくい)、逆に優先席にふんぞり返っている人に、なんだあいつ、と思ったり。

児童相談所は、相談するところであることを確立させて、対処する、対応にあたるのは、周りの人(親戚・地域住人)、学校、警察などの「みんな」であれば、S.O.S.に対して、素早く正しい方法(を提案するのが相談所)で、手を差し伸べてあげられるのに、と思います。

一つのルールを作った瞬間に、そのルールを守るためのルールが出来て、そんなルールに縛られて、結局、何のルールだったのかぐちゃぐちゃになって非効率になります。そんな例をいっぱいを知っているだけに、大前提というのを常に忘れたくないものです。

とてもシンプルで、分かりやすいもの(スローガン)に向かって、そのための細かいプランを決めていくというのが企業のやり方だとは知りつつも、その企業で日々の業務をこなしていると、目先のこんがらがったルールや慣習に飲み込まれちゃいますよね。

どうしたもんだか。私が生きていく上で、すべての瞬間に大前提があり、結論に至るまでの最初の最初、根源的なもの。それはもはや、生きていく上で、というより生きることそのものかもしれません。生きる上での今日、明日。10年後、20年後と伸びていって、再び、今。

坂本龍一は言います。自分の人生だけのスパンではなく、子供、孫の顔を見ながら、その孫の人生の長さまで想像を延ばせば、今、やることは変わってくる(というようなこと)を。

梅が咲いて、今度は桜です。満開の桜と薄いブルーの綺麗な空を、ちゃんと見上げられることができますように。そのための、今日です。息子は、土曜授業です。「日直だから見に来て」と言われたので行きました。見に来るな、と言われるまで、見に行くぞ、と夫婦で決めた次第です。



■2019年2月2日
『それからのこと』

嵐の活動休止が速報され、そのニュース「ばかり」が吹き荒れた1週間。大坂なおみ選手のグランドスラム二連勝(ニューヨークとメルボルン)の快挙より先に報じられることが多く、確かに国民的アイドルグループだったんだなぁ、と改めて思った方も多いのではないでしょうか?

誰々が脱退、けれどグループは〇人で継続、というのがKAT-TUNやNEWS、TOKIOと続き、王者SMAPの崩壊を機に、ポスト・ジャニーさんの組織運営でタッキー引退など、いろいろとまぁ、ありましたからね。

その中で、嵐(大野さん)が、辞めるのではなく休む、という選択肢を示したことは、一般企業では受け入れられるもんじゃないと切り捨てるのではなく、働き方改革の風に乗って一石を投じたようにもおもうのですが。

5人みんなで「やりたいこと」も「やりたくないこと」も決めてきた。だから、誰か一人がやりたくないと言った時に、一番いい方法は何か。時間をかけて話し合った結果、と嵐は報道陣の前で答えました。

無責任論の質問からは、2年というバッファがそれにあたるという「気持ち」も引き出されて、概ね、安室奈美恵さんのように、引き際の綺麗な形になりそうです。

朝日新聞曰く、「SMAP(の失敗)があったから」というのも納得します。News ZEROで櫻井さんは、2021年以降の個人の活動について聞かれ、「MCでも、ドラマでも、映画でも、絶賛、受付中」というようなことをおっしゃっていました。

3年先、4年先までスケジュールが埋まる(トップアイドルの)仕事を幸せと呼ぶか否かは考え方次第でしょうけど、「そういう(絶賛、受付中)」3年後っていうのもいいな、と思いました。

さて、二月です。

今年の恵方は東北東だそうです。明日の節分当日、私は家族で、初めて、お寺に出向いて豆まきをしよう(見よう)かと思っています。家に帰ってきたら恵方に向かって恵方巻きを頬張ります。

プロ野球のキャンプが始まり、プロより盛り上がる高校野球のセンバツ出場校も決まりました。サッカーはアジアチャンピオンこそ逃しましたが、準決勝でのイラン戦のあの最高のゲームが印相深く、Jリーグも始まります。まだまだ風は冷たいですが、そんな春の蠢き(うごめき)のようなものがありますよね。

「埋まっている(下)」時に腐らず、「何」をし続けるかで、上に顔を出した時の底力が分かる。この春、上に顔を出したモノが、どれだけ花咲、咲き誇るかを「今」の持続に見てみたいというか。

映画のスクリーンや本番舞台で演じる人の「可憐」を地道な努力に紐づける、実に日本人的な美を私もここ最近、特に感じるようになりました。

仮に、2020年夏の東京オリンピック・パラリンピックを映画のスクリーンや本番舞台(つまり「上」)に例えたとすると、そこでどう咲いて舞い踊れるか。そこに向かうまでの蠢きも感じたいと思いつつ、注目の有無に関係なく、出来る限り見てみたいな、と思います。

幸い、東京にいると様々なスポーツに触れることができます。フェンシング、飛び込み、スケートボード、競歩などなど。サッカーやバスケ、マラソンなどの花形ではないものも、注意深く(昔でいう、ぴあを開いて探すようにして)ネットを探れば、新たな出会いもあります。

来年夏にある本番舞台、オリンピックに照準を絞って地道に努力する姿を。今、目先の春に浮かれもせずに日々のルーティンを徹底的に続けている人たちの。「下」の時の一端にふれることが出来たら、推しメンだ、としたり顔で言ったりできそうですしね。

東京オリンピックのチケット詳細と発売時期・方法も発表になりました。これは、もう、何が何でも、ゲットしたいです。そして、推しメンができたとしたら、その表舞台をしかと見届け、声の限りの声援を送りたいと思います。いや〜、楽しみですね、オリンピック!

私は、個人的にオリンピックが大好きで、2000年のシドニー大会から雑誌Numberの特集もとっています。一番、古い記憶はロサンゼルス大会のカールルイス(幅跳びのとき、空中で走ってる!)や、ソウル大会のベン・ジョンソンとの100メートル、バルセロナ大会では開会式の時の教授(坂本龍一)、アトランタ大会の開幕式のパフォーマンスです。

もう、これだけ記憶を濃厚に焼き付ける祭典(イベント)って、やっぱりオリンピック以外にないですよね。そりゃ、商業的にもなりますよ。に、しても、東京でオリンピックをするなら、秋(10月)の方がよかったんじゃないかな〜と思います。ま、商業的なので、しょうがないですけど。

オリンピック・パラリンピック期間中の、約1か月の東京では、キャスト(ボランティア)のみなさんが活躍するそうです。山手線には、品川駅の隣に新しい駅ができます。ん?その時の通勤って、いったいどうなるの?と今から心配しますが・・・

ガツーンと「休む」。東京の企業活動休止宣言!なんて、まぁ、できませんよね、いくら嵐が一石を投じたとしても。

さぁ仕上げの1年半です。国立競技場も出来て、各駅のインフラも改良されて、各種競技場、選手村が完成します。それに並行して、渋谷も新宿も、日比谷も、2020年をターゲットイヤーにしてきたモノが、次々生まれ変わろうとしています。ほんと、激変の時期になりそうです。

この祭典が終わり、レガシーが活き活きとしつつ、基本的にはスマホでつながり、いろんなモノをシェアする未来型都市になることが、なんとも楽しみで仕方がありません。(そうなる青写真のまますすんだとして)

ちなみに、昨年マカオに誕生した豪華ホテル「モーフィアス 」は、国立競技場のコンペに勝ちながら実現しなかったザハ氏の設計です。その具現化した建築物は(写真ですら)見るモノを惹きつけます。

もし、と、資金、があれば、やっぱり新国立競技場はザハ氏の当初デザインで具現化してほしかったなと思います。地方都市に莫大な資金を投じて大きな箱を造ると、負の遺産になるという懸念は、国立競技場ですからね、心配ないと思うんですが。(ただ予算オーバーにもほどがあったので、現実的な案として示された代替案で実現したとしても中途半端になったでしょうけど)。

嗚呼。嵐が去る(活動休止)頃、どんな東京になっているんでしょうね。それまでのことよりも、個人的には、それからのことに、期待しわくわくしています。



■2019年1月26日
『もはや、ことわざ。』

ナンバーワンより、オンリーワン。もはや、この考え方は「ことわざ」になるんじゃない?とまで思うのですが、改めて、確かにそうだよな〜、ということが最近多いです。それは、子育てをする中でもそうだし、年を重ねた今の私の諸々にも、です。

相対評価ではなく、絶対評価で物事をとらえたい。言ってみれば、そんな感じです。目の上のたんこぶ的な「人」がいたとして、その「人」のいない中での金メダルは、本当にナンバーワンか?とか、賞レースにしてみても、良いけど、より良かったモノがあるからという順位。

一番って、その時々(年々)によって色々だし、それら(一番)を「分母」として競い合ったら、また一番が出てくるわけで。一番の中の一番。それを繰り返すと、もう、無限に「一番」が現れて、都度、敗れるモノが出てくるわけです。

どこか、敗れたモノにかける言葉として、ナンバーワンじゃなくても、オンリーワンを、と言ってしまっているのも現状かと思います。

先述のように、「一番」というのは不確定です。それは、その時々(年々)によって決まるものだし、真のナンバーワンというのは、無限に繰り返しても無理なわけです。そういう意味で、オンリーワン。これは、絶対的です。(他に類似があったとしても、〈人〉が捉えられる範囲では唯一、という状態)

そんな「人」になろうとし、そんな「モノ」を生み出そうとする。子育てをしていると、いろんな局面でそう思います。誰かよりも上手く、というのではなく、息子ならではの「手」で。そこには「上」も「下」もない、絶対的な手(唯一)であればいいな、と。

一方で、私は。主観的なオンリーワンを目指すというよりは、受け取り方としてオンリーワンを意識することが多いといいますか。まだまだいろんなものを目指さないといけないとは知りつつも、惰性で慣習のベルトコンベアに乗っているんだろうな、と反省しつつ・・・(続けます。)

今、自分の目の前にあるモノを真正面から、全身で受け止めて、で、どう思い・どう感じるか。手のひらのスマホが、いろんな口コミをあつめ。それらを数値化して評価として、それを見ながら、レストランを決める。きっかけは、そうだとしても、いざ、自分の目の前に出された料理に対して、どう思い・どう感じるか。

その時、〈1分の1〉である「相手」を、しっかりと感じ取って、何かを想うことができるかどうか。それを、最近、私はオンリーワンと呼んで、重要視することが増えてきました。

〇〇の方がいいよ。これは、〇〇と同じだね。〇〇、〇〇。ある程度、経験値が多くなると、過去の〇〇と、現在(目の前)の〇〇を比較します。そして、判断してしまいます。恐ろしいのは、過去の〇〇は、完全に美化されてしまうということです。

初めて出会った時に、感じた生の感想。それを、今の言葉でしっかりと言い表せるかどうか。これこそが、本当に大切だと思ってきました。与えられた時間と、空間で、見て・感じるモノを、経験値をもとに増えた基準で、比較することなく言い表す。このオンリーワン。

広い視野で、薄くとらえるのではなく、広い視野で目の前のモノを突き刺すというイメージと言えばいいのでしょうか。先日、恵比寿のスカイウォークを歩きながら、なぜか、そんなことを強烈に思いました。

東京という街を歩いていると、ナンバーワンというものにあふれているのに、オンリーワンに感化されることが多いです。誰かと競争して、勝ち残ってキラキラしているという側面はもちろんあるのですが、そうではない所で、東京だなぁ〜と感じるところ。

例えば、上海。あの街を歩いていると、にょきにょきと新しいビルが建って、どこか表面的なきれいさに何ともいいようのない「競争」を感じてしまいます。一歩、細い道に入って、こどもが走り回って、夕方に水を撒いて、軒先でのんびりしている「光景」の方が、完全に惹きつけられます。

例え方が分かりませんが、何度も何度も塗って剥げてまた塗った色の奥深さというか。そういうのを、「地」で見せてくれるところにグッときます。その昔、今から半世紀近く前のロンドンを歩いてる時、私は、ずっとロンドンという街にある重さを感じていました。その上を歩くことで湧き上がる何かをかみしめて、完敗していました。

埋め立て地に、「同じような」建物を建てても表せない「美」。継ぎ足し・継ぎ足しで出てくる深い味わいとでも言いたくなるようなものでした。

東京も、ついにそういう「サイクル」に入ってきたのだと思います。真っ白い上に、「誰か」が整理整頓した線を引き、その区画で「用意した用途」を置いていくような街づくりでは、演出できない美、です。

なのに、です。TOKYO2020は、少し不安な展開になっているように思えて仕方ありません。築地市場跡地の活用?を発表する都のトップダウンの考え方ひとつとっても、そう思います。

臨海エリアが倉庫だらけで、人の温度が感じられなかった頃を思い出せば、都市博のために用意した区画に、用意した用途のハコをつくっても、閑古鳥が鳴くだけ、というのを経験したはずなのに。

大阪でも同じようなことが言えるかもしれません。埋め立てて、大きなビルを公のものとして建てて、だけど、結局、ごみ処理場と化している現状。大阪万博に向けた開発、その後のIR戦略を夢のように語っていますが、果たして、そこに「人」はいるのかな?と心配になってきます。

ナンバーワン、の考え方に基づいてませんか?そう自分(たち)に問いかけることが大事だと思います。私は何も「競争じゃなく、共演しましょう」というほどユートピアんではありません。が、ユートピアがあるとするなら、そこに居たいとも思っています。

出来た、出来なかったという息子を見ながら、「みんなは?」「ほかの子は?」と考えるものさし(ナンバーワン)を捨て、昨日の息子、先月の息子、去年の息子をみて、出来た、のか、出来ないまま、なのか。そして、本当に出来ている、のか、出来ていない、のか。

私は、その息子を見る目として、ナンバーワンより、オンリーワンになっているか、どうか。

恵比寿駅を出て、スカイウィークで恵比寿ガーデンプレイスへ。なんだか、平日の昼下がり、造られた建物の中で、経年の上塗りがこのエリアを濃くしているな、と思います。バブルの匂いを残しつつ、恵比寿と目黒を繋ぐようにして。

ロブションの「館」は、外壁修繕の真っ最中で、また上塗りされようとしてました。



■2019年1月20日
『消えちゃった、かたまり』

もー、なにやっても、あかんわ、もうなにやってもな
もう実際問題、あかんとおもった時点でもうあかんわ

岡崎体育が絶妙な声音と強さで歌うこの歌詞に、関西人ならニュアンスが恐ろしいほど伝わるというか(『なにをやってもあかんわ』より)。あれもこれも出来ると思うし、いろんなものに憧れるから、やってみるけど、現実はお利口でヒップホップの人にもなれないし、天津飯と酢豚のセットが幸せという感じ。

一生、このまま寝てよかな、と思うため息交じりの鼻歌を、この絶妙な力の入れ方で歌うから気持ちが良いといいますか。最後の最後に、よっしゃー、と気合を入れるのも分かります。

なにやっても、あかんな〜、と言うてても、しゃーないなー、というニュアンス。聞いてて乗ってきます。(関西人限定かな?)

何をやっても、駄目な時ってありますよね。そういうサイクルにはまってしまって、ぐるぐる負のループを回っている時には、「まだまだ、こっから!頑張るぞ!」と鼓舞するのが、精神的に悪影響?みたいな話もちらほらあって。まぁ、駄目な時は、駄目な状況を、しっかり受け止めた方がいいという感じでしょうか。

学校が嫌なら、行かなくていい。そんなメッセージで溢れている中、(一方で)大事なのは「その代わりに」どうするのか、というのを持っている人と、そうでない人の差が出てきているようにも思います。

嫌だ、と思っても、もうちょっとだけ頑張ってみる。けど、どうしても嫌、というなら、「そこだけが、世界のすべてではない」ので、行かなくても(やらなくても)いい。これには賛成です。が、やっぱり、ね。その代わりに、どうする?というのを。

嫌だと思って止めたすぐ(直後)は、何も浮かばず、ぼんやり、とにかく「嫌だからやめた」という状況をしっかりと受け止めて、体に染み込ませて、そっからです、よね。

一か月後なのか、半年後なのか、一年後なのか、人それぞれのタイミングで、代わりの何かを始める、というメッセージ。それがすっぽり抜けてるから、なんとなく間違って伝わっている気もしています。

1月は、新年という区切りなので、止まっていた人が「再び、動き出す」にはいい時期で、実際、動き出したよという人の話も聞きます。

が、まだ動き出せていない人にとっては、どうも焦る時期が1月というか。会社を辞めて、さぁ、どうするか、なんて、私自身も悶々としていた時、1月って何とも苦しかった記憶があります。

2月になれば、なぜか(梅が咲いて、春のしっぽが見えるからかな?)、4月という新しい区切りが(しっかりと)認識できて、それまでには、なんとかしよ!と、エンジンがかかるんですけどね。今、現在、そんな悶々にいる方へ。あと半月で2月です!

さて。

ここ数年でハロウィンが街中に溢れるようになったのと同じく、恵方巻もすごいですね。これはコンビニの戦略なんでしょうけど、バレンタインチョコレートよりも、恵方巻の方がよく目にします。

家族そろって、恵方に向かって巻きずしを一本、丸々黙って食べるというのは、まぁ、クリスマスよりもハロウィンという感覚に似て、バレンタインより恵方巻なんでしょうね。

考えてみると、クリスマスはこんなに日本の中に入ってきたのに、イースターはいまいち入り込まないのはなぜなんでしょうね。日本には、その時期、花見という絶対的なものがあるからなんでしょうかね。

今、住んでいるエリアに引っ越してきて、八年目になります。

笹塚の不動産屋さんから紹介された時、「え?それ、どこ?」と思っていた場所が、私たち家族の地元になって、こどもが生まれて、なんとも離れがたくなってます。

転勤族の家庭で育った親友が、自分の住んできたところを列挙しながら、だいたい3年単位で同じように暮らしていたはずなのに、「おれは〇〇出身で、〇〇で育った」というのが明確にあると言っていたのを思い出します。

出身地は、だいたい生まれてしばらく暮らしていた所で、育ったのは中学生の時にいた場所らしいです。13歳から15歳の三年間。ここで吸収することは、それまで(の小学生時代)とも、それから(高校生以降)とも違う、とても特別なものなんでしょうかね。

中学時代の話をするその親友の前で、私はぼんやり。中学?え?ほぼ、記憶にないよ、と思いつつ、個人的には、ひとりで海外を旅するようになった、あの頃の記憶が濃密過ぎて、消えてしまっているように思います。

環七をぼくの町まで
転がしてきてくれた
まんまるい 愛のかたまり
(THE BOOM『愛のかたまり』)

環七とか下北(『夜道』)なんて場所を想起させる言葉が、頭の中にあって、東京に来てから代田橋に住んでいたことを考えると、あ!そうか、中学時代にTHE BOOMを知って、聞きまくったことが、私の「〇〇育ち」になるのかな、とも思えてきます。

いろんな人に削られて
煙になって消えちゃった
なにもない 愛のかたまり

ありがとう、ありがとう、わすれない・・・バイバイ。

私は、たぶん、そんな中学時代のことにバイバイして、わすれないまま、今まで生きてきたんでしょうかね。THE BOOMのことを教えてくれ、90分のカセットテープにデビューから3枚分のアルバムをダビングしてくれた当時の友達。リンクされて、いろいろ思い出してきます。あの頃、赤いウォークマンをお年玉で買って、聞いてたな、とか。

岡崎体育が、先述の歌の最後に叫んだ「よっしゃー」。これは、バイバイ、忘れないよ、と生きてきた今までの自分のある時点からここまでとダブります。

だからこそ、こんなにもすんなり、気持ちよく入ってくるのかな、と、だんだん、そんな気がしてきました。

もー、なにやっても、あかんわ、もうなにやってもな
もう実際問題、あかんとおもった時点でもうあかんわ

言うてても、しゃーない。っしゃー、やるか!



■2019年1月13日
『それ以上の、キャッチボール』

光の当たらない影・陰、のようなものをもった人の、言葉や歌は突き刺さるのでしょうか。そうではなく、突き刺さるような言葉や歌を持つ人の、影・陰の部分を、周りが殊に強調したがっているのでしょうか。

後付けでどんどん膨らむ「その人」の像に、いつも感心(というか、へぇ〜と)してしまいます。ひきこもりで?コンピューターに向かって創造を膨らませた人が、表舞台に上がってきて、よりカリスマ性を増した?

米津玄師さんが、そんな風に書かれるのを見ながら、ぼんやりとそんなことを思いました。若者のカリスマ。かつて尾崎豊さんがその代名詞的な存在で、思春期の少年の心の中にダイレクトに突き刺さる言葉を、心地のよいメロディに乗せて届けてくれました。

十五の夜、十七歳の地図、卒業、I LOVE YOU。スクランブル交差点の真ん中で、叫ぶイメージがピッタリくるような。そんな言葉は、「今」の子には刺さらないんでしょうね。

先日、反抗期を「言葉」にしない中学生(いまどきの)という話を聞きました。あからさまには反抗しない、というより、そもそも反抗するという気持ちに圧迫されない?というイメージでしょうか。

ゆとり世代という言葉に代表されるように、学習指導要領の右往左往で固まりとして称される子供達(若者たち)。小学校で英語授業が始まり、中学でダンスが取り入れられ、今度は小学生がプログラミング(コンピューター)をします(必須で)。

大学入試は記述式になり、暗記が通用しない「勉強」でボーダーを引き、考え、生み出す力が必要になると、今の小学生の親たちはやきもきしています。選択肢から選び、マークシートで答えるテストからの脱却を図ろうとしています。

それを可能にした少子化。一人の子供にかける時間(分厚さというか)が格段に増したからくることです。二十年ほど前は、今の子供は虫歯が少ない、なんてことも聞きました。親が、毎晩、丁寧に歯磨きし、歯医者も無料なのでフッ素予防に通ったりするから、と言われました。

確かに。幼少期から「触れ合う」時間の濃厚さを当たり前のように受けてきた子供は、反抗する気持ちも、ぎこちなく(うまく言うことができず)暴力や無言で表現しなくても、しっかりと「言葉」に出来るのかもしれませんね。

そもそも、しっかりと言葉にするような試験で試されもするわけですし。

そう、そこ、つまり「それな!」というビンゴな言葉に、多くの若者が右へ倣え的に共感することも、なるほど減っていくよな、というような「今」の子の生活スタイル。

小学生になる息子を見ていても、周りのお友達を見ていても、そんなことを感じてしまいます。

みんなが同じようなテレビを見て、同じような遊びをして、同じように放っておかれて。そんな幼少期の積み重ねから、「言葉」を探していた私たちの世代は、代弁者なんていうカリスマ的存在を求めたのですが・・・。

今の子は、娯楽のデバイスが「個々」です。YouTubeは、まさしくそんな子たちの欲求を満たしています。多彩で多様で多種多色。個人が個人レベルでアップするから、相当深いところで発信していても、大々的に発信する人と同レベルで視聴できます。

それは、時間を選ばず、クオリティも選ばず、私たちが、学校の帰りにあぜ道で「何か」を探していた時のような気分かもしれません。

それにしても、年が明けてからというもの、寒い日が続きます。

お餅が本当においしいです。温かい出汁に、麺が手放せない気温です。先日、マツコの知らない世界(テレビ番組)で、カップラーメン特集をしていました。

毎年1000以上の新商品が出て、生き残れるのは3つ。そんなデータを示しながら、カップラーメンの代名詞、日清カップヌードルで普通(チキン)のとシーフード、カレーに次いで殿堂入り?したフレーバーは、トムヤムクン味だそうです。

万人に受けるよりも、コアなファンを狙う味。何となく、今っぽいな、と思いました。

さて、全国高校サッカー選手権もベスト4から決勝戦です。先日、大阪桐蔭高校のラグビー部が全国制覇したというニュースがありました。ラグビー。2019年は、ラグビーイヤーになるか?と予想されましたが、今のところ、そういうこともなさそうですね。

五郎丸ブームで、仮に、あのまま彼が王者のリーグで活躍できていれば、なんて思いますが、まぁ、9月になって、ラグビーW杯が始まったら始まったで、盛り上がるんでしょうね。何しろ、日本で開催ですからね。

年末、突如思い立って、スラムダンク(新装版/全20巻)を買い、読んでいるので、今のところはバスケットボールが見たいです。Bリーグでも久しぶりに行くか、と思って調べると、千葉vs栃木のゴールデンカードは、なぜか水曜開催が多く、土日はあるにはあるんですが、2階席しか空いてませんね。

そもそも千葉の船橋まで行くのが一苦労なので、代々木あたりで東京vs千葉、土曜日の15時開始でゲームをしてくれないかな、と思いつつ、今年もJリーグが早速始まるな、とFC東京の日程を調べ、根尾を見に巨人と中日のオープン戦も行きたいなと迷っている間に、チケットって、なくなるんですよね。

さて、サッカーをやってる息子が、なぜかグローブを欲しがり、私としてはもってこい、親子でキャッチボールでもしてこようかな、と。

スポーツ店で、ドロースを塗って、しっかりと「育てる」本格的なグローブ(は高いので)はちょっと止めて、トイザらスで柔らかく軽量の(お遊び)を買いました。

それでも、息子には宝物のように大事なようで、今日は、その(お遊びの)グローブを抱いて寝ました。明日は晴れ予報。公園でキャッチボールしようっと。

晴れた、休日、公園で。キャッチボール。これに、会話なんていらないし、それは、それ以上なんですよね。不思議なものです。



■2019年1月6日
『町へ出よう』

え?セブンイレブンが閉まってる!?

オフィスビル内の店舗なので、考えれば(そのビルの会社が年末年始休暇なら)コンビニも閉める、というのも納得しますが、いざ、コンビニが閉まっているという「非日常」を前にすると、皮肉にも、そのことで正月気分を引きづったりします。

正月だろうが盆だろうが、年がら年中、24時間ず〜っとやってるというコンビニ(便利)さに慣れてしまっているが故の「驚き」なんでしょうね。

平成の30年間で大きく変わったことは?という特集をよく耳にしますが、このコンビニ事情も、確実に平成の時代に大きく変わったことの一つかもしれません。

昭和の時代、確かにコンビニは、ちらほらとあるにはありましたが、郵便局よりも多い店舗網という、今のような状態ではなかったです。

これだけの間隔で店舗があって、当たり前に「開いている」コンビニ。いつも開けるためには人材が必要で、学生のアルバイトもそうそう集まらない事情でか、都心部では外国人がレジに立つ姿は珍しいことではありません。

むしろ、あれ?日本人なのか、という受け答えの自然さに思わず顔をあげて店員さんを見てしまうこともあるぐらいです。いろんなことを人ではなくAIがこなす未来(がやってくるらしく)。商品発注やレジを「人」がやっている平成の今は、次の時代から振り返ると、「そんな時代もあったな」と言われるんでしょうかね。

次の時代。例えば、元号を区切りに「ひとつの時代」とすれば、今年の4月1日には新しい元号が発表されて、5月1日から元号が変わります。これまで元号に使われた漢字の多さランキングや、公的書類に用いる明治・大正・昭和・平成のM・T・S・H、以外の頭文字から考えると、これだ!なんて予想を、素人から玄人まで、色々言ってます。

永和、天安、元長。まぁ、何になっても、すごい違和感があるんでしょうね。そして、そんなものすぐに慣れてしまうんでしょうね。

ただ、いま妊娠中の夫婦で、出産予定日が4月の終わりから5月の始めの方は、気になっているんでしょうね。平成になって元年、平とか成っていう字はよく使われたらしいですからね。

それにしても、この平成の30年。10年どこから5年区切りでいろんなことが目まぐるしく変わりました。近々の5年、特に変わったな、と思うのがネット決済、ネット通販です。

スマホをタップして、何でもかんでもアマゾンで買う。その便利さから、なかなか抜け出せなくなっています。そんなことに慣れきった今、自分が買った商品の重量を感じることもなくなっています。

配達されて、宅配ボックスに入っている商品をいざ持ち上げると、「あ、これ、こんなにも重かったんだ」なんて感じることもしばしばです。

重さを実感しなくなった便利社会。無重力で、ぷかぷか浮かんでいる(宇宙ステーションの)映像が、これからの未来と合致することもあります。常に地球には同じ面を向けている月の、その裏側に、ついに中国の探査機がたどり着いたというニュースもありました。

想像すること、と、創造すること、の間に、相手(他人)のことは欠かせないのに、どうもその「優しさ」に欠けたスローガンで進んでいるような懸念。

優しさ。これは、頼り合うというニュアンスではなく、しっかりとした自分が大前提にあり、その確固たる個の集合体としての「みんな」を、都合よく取捨選択しない、というものだと思います。

そんな優しい社会に向けて。急がば回れ、千里の道も一歩から、小さなことからコツコツと。私がいて、あなたがいる。そして私たちは、また違う彼ら、彼女らと手を取り合う。友達の友達は皆友達だ、なんて。

さて、2019年の幕開けは、とても穏やかな天候でしたね。元日朝のテレビでは、富士山にむけてヘリを飛ばし、初日の出のダイヤモンド富士を空中から狙うという企画をやっていました。

初日の出と富士山。そんな「ありきたりな」映像でも、やはりその美しさにはうっとりときて、窓を開けると、東寺(京都)の五重塔が見えて。でも、初日の出とは方向が違ったようで、ぼんやりと、うっすらと、私たち家族は、帰省中の京都のホテルの一室で、2019年を迎えました。

ここ数年、大晦日は(こどもと一緒に)早々と眠ってしまい、元日の朝は(こどもと一緒に)早く目覚めるというのを繰り返しており、今年も紅白すら見ずに眠りました。

翌朝、米津玄師のキャンドルだの、サザンとユーミンの勝手にシンドバットだのという話題を見聞きし、あぁ、見たかったな、と思ったりして。ふと、今回の紅白は盛り上がったんですね。視聴率もよかったと聞きます。

家族がそろって、こたつでおせち料理をつつきながら話しては、なんとなくテレビを見る。そんなスタイルが減った今のテレビ番組って、いよいよ存在意義を問われるようになってきたんでしょうね。

予算と時間に恵まれたNHKだけが、いろんなトライアルをしながら攻めの番組編成をして、安牌(あんぱい)を取らざるを得ない民放が、じりじりと瀕しているという構図。

これって、変えられるとしたら、いつ、だれに、なにを、どこで、どんな風に届けるかという根本的なことに解を出した者の勝ちなんでしょうね。

日本で年を越す人たちが、日本人だけではないという現実に、どれだけ真摯に向き合えるかというのにもつながる気がします。

年末の京都を歩いていても、年明けの富山を歩いていても、そして、三が日がすんだ東京を歩いていても、本当に外国の方が多いです。先日、北京に移住した私の(日本人の)知り合いが、現地の中国人の話として「日本って、思った以上に、外国人が多いんだね」というのを教えてくれました。

北京を訪れる外国人が193万人に対して、東京を訪れる外国人の数は1,377万人ですからね。そういう感想になるのも納得です。

こんなに外国人が来て多様なんですから、何でもかんでもスマホでタップして、宅配だらけでピコピコとゲームしないで、町に出て、体感するのも貴重です。2019年の始まり。寺山修司が生きていたら、言うかもしれません!書(スマホ)を捨てよ町へ出よう、と。



■2018年12月28日
『2018年』

2018年も年の瀬。残すところも数日でゆく年、そして、くる年はいったいどんなかな、と今年で後厄も終える私は、ぼんやりと考えながら。この年末年始は天候大荒れ、雪に台風?に注意が必要だと予報されています。

思い出すのは、京都帰省の折、積雪がすごくなって、大混乱の中で移動した数年前の思い出です。雪の多い地域出身の妻は、いつも、京都でぱらぱらと鴨川沿いに降って、三条大橋から眺める雪が、優雅だ、なんて言っていたのに、本気で降ると、まぁ、雪は雪ですよね。

京都に住んでいたころは、とにかく雪になると金閣寺へ。そんなことを繰り返していました。あの衣笠あたり、西大路をひたすら北上して、大きく右にカーブする前の道はつるつるで、原付バイクを飛ばしながら、ようやく着いた金閣寺で、白と金のコントラストは、本当に美しかったです。

そんな2018年も振り返ると、小室哲哉さんが引退表明をしたのは、今年だったんだ、となんだか懐かしくなる1月、草津の白根山で噴火がありました。2月の平昌オリンピックでは、羽生選手の2連覇や小平・高木のスピードスケート、カーリングのそだね〜、平野選手のスノーボードなど、連日うれしいニュースが舞い込んできました。2020年の東京オリンピック・パラリンピックのマスコットも発表されましたね。

3月になると、森友問題が連日報じられ、決裁文書が改ざんされるという、まぁ、そういうことあるんじゃない?いや、ないよそれは、と言っていた性善説のようなものが、あっさり瓦解した「事件」もありました。ロシアではプーチンさんが大統領選で圧勝もしました。

4月になって日米首脳会談が行われ、だんだん雪解けムードの朝鮮半島も、南北で首脳が会談をしました。アヴィーチーさんの訃報も届きました。5月、ヘンリー王子が挙式し、是枝監督は「万引き家族」でカンヌ国際映画祭の最高賞を受賞。そんなうれしいニュースの中で、日大のアメフト部、悪質タックルが日本中を駆け巡りました。逃げる監督、堂々と出てきた選手。そんな図もインパクトがありましたね。

6月には大阪で大地震発生。大阪市の北部では大きな被害が出ました。トランプ大統領は北朝鮮との首脳会談にのぞみ、九州からは去年に続いての世界遺産、潜伏キリシタンの遺跡が登録されました。そして、なんといっても、すったもんだで期待値ゼロからの大躍進、ロシアのサッカーワールドカップでのサムライブルーの活躍は勇気づけられました。

7月には西日本を豪雨が襲い、タイでも13人の少年たちが洞窟に閉じ込められる事故が起こりました。暑い夏の始まり、東京オリンピックの開閉会式の総合統括を野村萬斎さんが手掛けるとのニュースに期待を込め、最期まで芸を突き詰めた桂歌丸さんの訃報に心からのご冥福を祈りました。

8月は日大アメフト部の記憶も濃い中、日本ボクシング連盟の山根会長のニュースは何ともパワハラと忖度と、なんでしょうね。権力の一極集中はダメですね。体操界からも宮川選手とコーチ、そこに塚原夫妻も巻き込んで、いろいろと明るみに出てきました。そんなスポーツ界のニュースの中で、高校野球の夏の大会は盛り上がりましね。大阪桐蔭の圧倒的な強さに挑んだ金足農業旋風は気持ちいいものがありました。ジョエル・ロブション氏の訃報を受け、受け継がれた味をこれからも堪能し続けるんだろうなという功績の大きさをかみしめたり。

9月はまさに日本を襲った災害の月。大阪の地震、西日本の豪雨に続いて、また台風21号が関西を遅い、関西国際空港は機能麻痺状態となり、そのまま北海道では大地震が発生。ブラックアウトで街の灯りが消えました。続いての台風24号の被害もまた、泣きっ面に蜂で、自然の猛威を恨みました。樹木希林さんの訃報もありました。そんな中、日本勢としては初となるテニスのグランドスラム、全米オープンで大坂なおみさんが優勝しました。

10月は3年以上も拘束されていたジャーナリスト、安田純平さんが解放され、カナダでは世界で2か国目となる大麻が合法化されました。11月に入ると、日産を救ったとみられていたゴーン氏が、実は私腹をどんどん肥やす人物で、いくつかの違法性が追及され逮捕されました。日産の社長が、日産の会長の逮捕を受けて開く会見が、なんだか他人事のようでとても違和感がありました。2025年に大阪で万博が開かれることも決定し、大谷翔平さんが二刀流というニュータイプの選手像でメジャーの新人賞に輝きました。

そして12月。流行語大賞やM-1、今年の漢字も発表され、紅白の大トリはサザン!なんてニュースの中で、ぽかぽか陽気の東京では、なんとも12月の気分に浸れないな、なんて思っていると、この寒さです。ああ、この年末年始の大寒波、私たち家族の帰省の旅は、果たして、どうなることやら。

なにはともあれ、今年も一年間、アクセスして頂きありがとうございました。

来年、なんといっても5月1日の即位の礼で、平成から新しい元号になります。大河ドラマは工藤官九郎脚本のオリンピックもの「いだてん」が始まります。サッカーのアジアカップもあります。2月には大阪でクールジャパンパーク大阪(どうでもいいですが、大阪にあるものはいつもジャパンと称しますね)が開業し、3月には埼玉県でムーミンパークがオープンします。まだまだたくさん、2019年も楽しいこと、そうでないことで溢れそうです。

それらに、まずはわくわくしながら。来年も楽しみたいと思います。



■2018年12月22日
『10連休』

10連休。そんな言葉を私の周りでは、最近よく聞きます。土日を含めると、来年のゴールデンウィークは10連休。で、で、だから、どうする?と。

まだ、昭和の時代。天皇誕生日と憲法記念日、こどもの日がまとまる4月末から5月にかけても確かに黄金週間で、5月3日と5日に挟まれた4日も休みになったのはいつからでしたっけ?国民の休日なんて呼ばれていた気がします。

平成になっても、昭和天皇誕生日は休みのまま、名前を変えながら、今は昭和の日として残っています。で、知らない間に、5月4日も、みどりの日という名前が付いています。あれ?みどりの日って4月29日じゃなかったっけ?・・・なんて。

祝日、休日が、いったい何の日か、なんて、気にすることもなく「わ〜い」と言っている反面、休みにはならないバレンタインデーやクリスマスイブは、なんだかしっかりと意識しているのが不思議ですよね。

一応、来年のゴールデンウィークが、何の日の集合体かを記すと、4月29日(月)昭和の日、4月30日(火)国民の休日、5月1日(水)即位の日、5月2日(木)国民の休日、5月3日(金)憲法記念日、5月4日(土)みどりの日、5月5日(日)こどもの日、5月6日(月) 振替休日。これに4月27日と28日の土日を合わせると10連休です。

ようやく、スマホのスケジュールアプリ、ジョルテにもこの休みの名前が入ってきましたね。但し、多くの紙のカレンダーでは休みを示す「赤文字」ではなく、普通の平日になっているのがほとんどです。

これは、カレンダーの印刷開始時期が10月ぐらいなのに、まだ、決まりきっていなかったことが理由です。各社、いろんな対応をしていて、この間、赤文字の数字シールがついたカレンダーもありました。休みと確定した段階で、貼って、と。

今の時代、物事が前広に進んでいるので、来年、再来年のことでも「え?こんな(早い)時期がデッドラインなの?」と思うことも多いです。来年5月1日から始まる新元号、さぁ、いつ公表されるんですかね。

ちなみに、この10連休。特にロングと呼ばれる飛行機は、ほぼ満席路線が多く、だいたい、年明けから一気に始まっていたゴールデンウィーク期間の早期申込も、あの手、この手で裏から手をまわしている人たちの席確保によって、今から、腰を上げて、さぁ探すぞ、と思っている人には厳しい状態という話も聞きます。

但し、それは人気路線の話。定期便の本数は決まっているので、イコール席の数も決まってます。なので、キャンセルチャージのかかる時期にもう一度チャレンジ(その段階で重複予約が一気に落ちるので)するか、もしくは旅行会社がやっているチャーター便の席を狙うか、ですかね。

9泊10日ですからね。なかなかないですよね。少々割高でも、思い切ってアフリカにサファリにいったり、南米の端っこまで行ってみたり。だいたい3泊がベースで海外を旅行する人たちの目の色の変わり具合も、わかるような気がします。

さて、わが家。そんな時に、海外へ出るのは止めます(笑)。

時代が変わる、新しい元号で始まる、そんな機会はなかなかありませんからね。5月1日の即位の日は、ここ即位の礼が行われる東京で、しっかりと迎えたいと思います。パレードも見たいと思いますが、これから真剣に「どこでみればいいか」を調べないとな、と思っています。

なので、その(5月1日)前後。4月の4連休と、5月に入ってからの4連休を二つに分割して、予定を立てようと思っています。

何となく考えているのは、4月は東京からひたすら南下して(というか西に向かって)。レンタカーか鈍行列車で、とにかく行けるとこまで行ってみようかと思っています。行って帰るという距離を考えると、4日間なので岡山の直島あたりが限界かな?と思いますが、息子には、是非、広島の厳島神社を見せてやりたいので、そこまで行って帰ってこようかと企んでいます。

そして5月2日からの4連休。今度は、東京から北へ向かって、桜前線を追いかけるのも面白いな、と思っています。桜の名所と呼ばれるところ(は混雑しているので)を絶妙に避けて、ここ!というところを巡らたら最高だな、と思いつつ、福島や山形、宮城、秋田、青森と、出身が「東北」の友達に桜がきれいなところをいろいろと聞いています。

なんちゃら川の堤防!とか、なんとかかんとか橋の近く、とか。挙句、なになに小学校の校門、というオススメの桜情報がたまっていくと、なんだか、わくわくしてきます。 

あ〜、もうそろそろ本格的に考えないといけないな、とは思いつつも、今は年末。今日からの三連休はクリスマス関連行事三昧で、それが明けるとすぐに帰省。東京に戻る頃には、さすがに、もう、遅いのかな、と心配になってきます。

たぶん。こんな風に焦りながら、来年のゴールデンウィークのことを考えているのを聞くと、気が早い、あせりだ、なんか、しんどい、と思われるんでしょうね。

間際に決めて、さっと予約して断行する。その行為が、いかに「割高」で、いかに「損しているか」。なまじっか知ってしまっているから、焦るんですけどね。

とにかくメリークリスマス。今年も終わります。

家族で過ごす聖夜が、このままずっと続けばいいのに、と願いながら、まだサンタさんを心から信じている息子と妻と家族でメリクリします。

これから先。新しい元号も数を重ねて、息子はどんどん大きくなって、私と妻は年老います。一昨日の木曜日、私たち夫婦は、息子に夕方まで学校にいてもらってクリスマスランチをしました。

話す内容が100%息子のことだった頃から考えると、10%ぐらいはそれ以外の、つまり息子が成長してからのことを話しました。どんどん変わって行く未来を見て、それにうんざり疲れて、じーっと留まるのは本当に嫌だな、とそんな話をしました。

留まる=安泰、なんてありっこないことを見せつけられている世代だからこそ、そう思うのかもしれません。昔、10年ぐらい前だったかと思いますが、関西のテレビで上沼恵美子さんが言ってたことを思い出します。

子育てが終わって、夫婦二人きり、やっとと思ってスイスに旅行へ行ったというような話の中で。「あかん、あんなきれいな自然だけがあるところは、夫婦で話すことがなくなる」と(笑)。もっと刺激、もっと変化。いうなら、もっともっと愚痴を!と?

おそらく、変化や刺激の中で、必死なときにこそ、美しい自然は癒してくれるんでしょうね。なんとなく、今、そのことが想像できるような気もします。

子育てが終わって、ほっとするのも束の間、今度はやれ嫁だ、孫だと忙しくなる? そういうのが、いいですけどね。そんな激動の未来が、わが家にもやってきてくれたら、最高です。

強いたりしませんが、そんな選択肢を息子が選んでくれたなら、未来もなかなか変化や刺激に満ちそうです。

そうなった未来の、10連休を勝手に想像して、「ああ、どっかで、のんびりしたい」と言っていたいものです。



■2018年12月16日
『新しい時代が始まるよ』

クリスマスに年末に。12月の色を日々濃くしていきますね。息子は、サンタさんへお手紙を書いて、プレゼントをお願いしていました。欲しいモノを書いた後、「まいとしありがとうございます。」と添えた一言に、父(私)は、思わず、にんまりしてしまいました。

さて、そろそろ団体さんで、終電近くの電車に乗り込んできて、ワハハアハハと大声で笑いながら、一年を締めくくる忘年会帰りのおじさまたちが、ちらほら見受けられるようになってきた東京です。

忘年会もやる会社が少なくなってきてると聞きますが(私もあまり経験がありません)、いろんなことが「リアル」で、そんなリアルを忘れるための会?という意味合いもあるのかな、と思ってみたりします。

水曜日に最終回を迎えたドラマ「獣になれない私たち」。これは、リアルというには少々ドラマチックになってましたが、SNSなどでは共感の声が多いなんてことも聞くので、あんなに関西弁でガンガン指示してくる社長の下で働くIT企業っていうのも、それはそれで大変だな、と。

一方で、ドが付くほど現実とリンクしている展開で、高視聴率の「下町ロケット」は、こんな中小企業なら働いてみたい!と思えるほど「熱い」ですよね。そんな風に思う若者が多ければいいな、と願望に近い感覚を抱くおっさん化した私には、やっぱりフィクションです。それが残念、と思い続けたいものです。

ドラマの話を続けると「中学聖日記」。これは、完全にフィクションだと言い切りつつ、現実逃避するおばさまが、キャーキャーと元高校野球球児のルーキー俳優に夢中というのを聞くと、「あの世代」の女性って、いつの時代も元気ですよね。

ああ、それにしてもしみじみ。バブルで浮かれて、弾けて沈んで、それでも流行を作ってきた人たちの時代、昭和から平成の移り変わりも新たな時代に入ります。東京オリンピックがあり、大阪万博があり、リニアが開通して、その先。

AIが病気を診断して、処方箋を出して、企業の採用をして、単純作業を処理する。日本人の人口減少に、移民が流れ込んできてコミュニティを作り、日本は、日本の中で、いろんなものが混合し、純度を落としながらも新しい色形になろうとする過程です。

それを、ど真ん中で体験できないのを心底無念に思います。こんなに激動する時代の流れ、その変わり目を体験・体感できるなんて、わくわくします。海外の町を歩きながら、ひりひりするほど全部吸収していた自身の若い頃を思い出しながら。

それを、日本に、ここ東京にいながら体験・体感できるなんて、いよいよロンドン、ニューヨークにパリといった文化水準になっていくようで楽しみです。懸念ももちろんあります。これまであった、日本人同士の「言わずもがな」の常識と秩序が、言わないとわからない関係性の連鎖に変わります。

「きっとこの世界の共通言語は、英語じゃなくて笑顔だと思う」と謳った高橋優の、何となくぼんやりした、ありきたりな、だけど、とてもリアルな日々が、すぐ目の前に迫ってきているような気がします。

私が中学生の頃、英語の授業で「グローバリゼーション」という話を読んだことを思い出します。ソニーの創業者、盛田氏の言葉を借りながらの話だったと思います。日本で作って、日本で売る。この「国」単位では追いつけなくなるボーダーレス。

考え方の枠が「世界」に広がり、その中で交流し、商売し、儲けていくという「仕組み(のようなもの)」に、なるほど、そうか、と思ったものです。それから三十年弱。もはや、そんなの当たり前になりましたよね。当たり前になってから、逆行する動き。歴史は繰り返すってのを地で行くここ最近の世界情勢です。

自分の国が潤ってからの話だろ、という考え方。大前提はもちろんそうでしょうけど、ちょっと待てよ、と思うのは、自分の国【だけ】で、いったいどれだけのことが《効率よく》生産性を保って成り立つでしょうか。

流れに逆行し、目線を変え、新たな「道」を築くのは大いに歓迎ですが、ただただ「抗っている」という状態は、厳しいな、と思います。流れには、乗るか、逆に行くかで、抗うのは、どうも口先をとがらせてブーブーと文句を言っているだけに似ていると感じてしまいます。

逆に行く。これは、例えば「初心に帰る」というのも一つだと思います。流れに乗っかって、いつの間にか「ここ」まで来たけど、果たして、これが成りたい姿だったのかどうか。そんな時は立ち止まって、川岸に一旦あがって「逆」の方向に進むというのもだと思います。

流れからも上がらないで、その中で必死に抗っていても、疲れるだけで溺れそうだな、と感じてしまうのが正直なところです。

わたしは、いったい、何を言っているんでしょうか笑

言いたいことは、シンプルで、簡単で、一つです。新しい時代が始まるよ、ということです。そこに向かうための「ココ」で、やること、やれることはいったいなんだろう、と考えることです。

先日、家族で泊まった箱根の旅館、雪月花の大浴場には「瞑想の湯」というのがありました。これ、なに?という息子に「考えるお風呂だよ」というと、大浴場に行くたび「ぼく、考えるお風呂で、考えてくる」と言って何度か入ってました。

7歳の息子の生きていく未来の世界。考えるお風呂から、考えた先のことを、私も、瞑想の湯につかりながら思い浮かべたりして。

その湯は、とてもぬるく感じました。隣にはサウナがあって、その前には水風呂。熱い湯の内風呂と繋がるように露天風呂があって、そこは外の寒さも忘れるほど熱く、心地いいものでした。それらに比べて、ちょうど真ん中あたりにあった瞑想の湯。

頭を冷やして(水風呂で)考えるのでもなく、ボーッと湯に浸かりながら、ただただ心地いい(露店風呂)で温まるわけでもない、なんとも「ちょうどいい」ぬるさの瞑想の湯。考えるって、そういうことなんでしょうね。うん、そうやって、考えたい未来です。



■2018年12月8日
『例年通り』

師走の夏日!なんてニュースが飛び込んできた12月のはじめ。週末になって気温もぐっと下がって、雨が降ったりと、なんだか東京も、暖かいと寒いの入れ代りが激しいです。

寒いのが苦手で、憎しみすら感じる身としては、暖かい冬は大歓迎ですが、そうはいいつつも、〈耐えるべき時は、耐えるべきことに耐えなくてはいけない〉のではないか?という、なんというか、

12月には12月らしい寒さがちゃんとあって、それに耐えて過ごさなければならない危機感みたいなのも芽生えます。

大きく言えば、地球環境。身近なところでは、この時期に、この時期らしい寒さでキリっとしないと育たない作物があるような、とか。ここ数年、バブル時代アゲインとばかりに復活しだしたスキーやスノボも、行けなくなるな、とか。

やっぱり、「例年に比べて」の違い(異常)は、いろんなところの影響を心配して、寒いのが嫌いで、暖かい方がいいのに、寒くなって欲しいと思う、なんとも変な感じです。

「そだねー」。生まれ育って、ず〜っと使ってきた言葉が、ある年の流行語になる。これってどういう気持ちなんでしょうね。

今年の流行語大賞が「そだねー」に決まりました。「eスポーツ」や、「ひょっこりはん」「ボーっと生きてんじゃねーよ!」など、生まれたての言葉で、それが流行ったというのとは違って、「そだねー」というのは、新しいJR山手線の駅の名前(高輪ゲートウェイ)よりも違和感があったりします。

それは、そうとして、東京というところに住んでいると、駅の間隔が本当に近いですよね。

品川駅と田町駅の間に出来る「高輪ゲートウェイ」駅は、品川から歩けるのはもちろん、下手したら、東横線の渋谷駅から埼京線の渋谷駅に乗り換えるより近いんじゃないか?と思うほどの距離です。

これだけの密集都市なので、ひとつの駅を使うだろう利用者が、それだけの(短い)間隔でつくっても成り立つんでしょうけど。代田橋駅のホームから笹塚駅は余裕で見えますからね。

ひと駅前で降りて、歩いて帰ろう(という運動)が流行りだした時、私は京都に住んでいて、大阪まで電車で通っていたのですが、ひと駅前で降りたら、相当歩かないといけないので「気軽さ」はなかったです。

ここ最近の運動不足、全身ぷよぷよしてきて、あんなに「痩せ」だ「痩せ」だといわれるのが嫌で、ちょっとぐらい太りたいと思っていた頃からすると、いやはや、何だったんだ?と「経年加肉(年が経って、ぜい肉が加わった)」といえばいいのか、そういうのを感じます。

気軽にひと駅前下車運動が出来なかった痩せ時代とは違って、ひと駅間隔近い東京での暮らし。このぷよぷよを何とかするか!とは思うけれど、まぁ、春になってからかな、と駄目な感じです。

思えば、まだ「加肉」のなかった20代前半から、クリスマスシーズンにやっていたM-1。12月の始めにK-1があって、それと時期を若干ずらして行われた漫才の祭典も、なんだかんだ続いていますよね。

ルミネTHEよしもとや、NGKでみる通常講演の漫才よりも、あきらかに気合の乗り方がちがう「芸」。独特の雰囲気があって、私は毎年、しっかり見ています。

今年は、霜降り明星が史上最年少で優勝しましたが、和牛やかまいたち、そしてジャルジャルの漫才が、やはり突き抜けて面白かったのではないでしょうか。

その中で、「新しい」というか「破壊力」というか。〈置きに行く〉結果を避けた、審査委員の方たちの総意かな?とも思えます、霜降り明星の優勝は。

だいたい、どの審査委員の方も、10点の範囲内で勝ち・負けを採点している中、85点から99点までの範囲で審査する人もいて。個人的には、50点をつけてしまう立川談志師匠(スピードワゴンに対して)や、100点をつける島田紳助さん(笑い飯に対して)の意思・意図がおもしろいと思う反面、

1点ずつ、しっかりと順位をつけて採点する審査員の方の結果がおもしろくも思っています。

上沼恵美子さんが、今年で審査員を引退するというニュアンスの発言があったと話題になってますが、去年、上沼さんは「審査員が、審査されてる」という気持ちを吐露しています。そういう気持ちで審査し、ファイナリストは、精一杯の漫才をする。

誰かが言ってましたが、本当に、こんな「青春」的な大会って、高校野球の甲子園球児を見ているような気持になります。だからこそ、酔っ払って訳がわからないことをいう「40代」は、勘弁してほしいと思います。

ちなみに、さんまさんが審査員をするM-1も、見てみたいなと思います。ご本人が嫌だといっているので実現していないようですが、お笑いモンスターとして、ここらで、じっくり腰を据えて、「年寄がでしゃばって」欲しいと思います!

いやはや、こういう話題を記していると、うん、やっぱり年末が近づいているし、ちゃんと年末だな、と。今日は、晴れてはいますが、「例年通り」のキリっとした寒さの東京です。

上野へ、ムンクでも見に行きます。



■2018年12月1日
『身の丈に合わす』

11月の間に、冬を知らせる強い風が吹く。これを木枯らし1号と呼んで、今年は、その木枯らし1号が吹かなかったらしいです。

暖冬予報の今冬ですが、こういう時に限って、年が明けると大雪が降ったりして、ここ東京では、また大混乱になるんだろうな、なんて思いながらも・・・

そう言えば、コートを着ることもなかったな、と確かに暖かかった11月を過ごしました。今日から12月です。なぜか、様々なことを「年内に片付けよう」として、忙しくなるのが師走ですよね。

年賀状の準備をして、年越しの食材買い出し、そして大掃除。夏休みは「休みだ!」という気分が多かったのですが、冬休みって、クリスマスプレゼンととお年玉のダブルインカムに喜ぶぐらいで、長期休暇の印象はなかったような気がします、私の小学生の頃って。

冬休みに何をするか、を計画中の息子も、ぽつりと「ねぇ、パパ、冬休みって、短くね?」と言い出してました。確かに短いですが、やっぱりお正月をまたぐと、休んだ感が出ますよね。

わが家は毎年、年末年始を京都と富山の帰省で過ごします。クリスマス明けから息子が冬休みに入り、29日には、家族全員がお休みモード。大掃除をして、東京での年末を体感するために、「そういう所」へ出かけていって。

30日からは京都へ行きます。そして年明け4日か5日に東京に帰ってきて、8日からはもう学校です。となると、確かに「短いよね」と応えるしかなく。

だんだんと「自分のしたいこと」と「家族ですること」の区別を始めた息子に、先約という形で家族行事を入れないとままならなくなってきています(笑)。

私が小学生だった頃。もう30年以上前の、昭和の時代は、まだ、いっても正月には正月の空気感があって、特に元日の朝なんかは、不思議なぐらい、し〜んとしていたように思います。

2階の部屋で目を覚まして、1階の台所から漂うお雑煮の匂いに嬉しくなったりして。慌てて駆け下りて、「明けましておめでとうございます」と挨拶して自分の席に座ると、お年玉が置いてあって。

そういう、お正月、私の息子にはないな、と思います。

元日からコンビニに行ったり、なんだったら、あれ?なんで閉まってるんだっけ?と思った後に、ああ、正月だからか、なんて思うこともあります。

平成の30年間で変わったこと。これは、平成の終わるこの時期に考えても確かに良いように思います。先日、秋篠宮さまがお誕生日会見の中で、国事行為ではく皇室行事として行われる大嘗祭について「出来る範囲で、言ってみれば身の丈に合った儀式」という発言をされ、新聞で大きく報道されています。

変わらない、続ける(継承)という連続が、“分厚さ"になり“重さ"になり、重厚感を伴った価値になる日本の伝統を(ふと)考えると、この発言が、なんだかものすごい角度から飛んできた魔球のようにも思えます。

それは、とても鋭く、バッターの胸元をえぐるという類いのものではなく、気持ち良いほど伸びるストレートとも思えるような。

皇室のこととは別ですが、例えば慣習的に続いてきたものに「変化」をもたらそうとするとき。企業の風土や技術・やり方にイノベーションを起こそうとするとき、なかなかうまくいかない場合が多いと聞きます。(そして、それは多くのところで私も実感します)

イノベーション。何かに変化をもたらせることを「挑戦」という括りにした場合、〈人間には挑戦を阻害するバイアス〉があって、それは主に〈現状維持バイアス〉と〈損失回避バイアス〉だというのを読みました。(『スタンフォードでいちばん人気の授業』佐藤智恵著・幻冬舎)

それを読んでいくと、イノベーションに成功した企業とそうでない企業の「周りの目」について書かれています。そして、その「周りの目」を作るのは、経営者だとも。

そもそも、変えても良いし、変えなくてもいいなら、もう、今まで通りの方が楽じゃないか、という現状維持バイアスに加えて、変えて失敗でもしたら大変だという損失回避バイアスがかかるわけです。

著書では、失敗しても制裁しない風土だけではなく、その失敗から多くを学んで成功に繋げた人を大いに称賛し、昇級させる企業の風土。それが、イノベーションをもたらすと書かれています。

そういうものだから、といって、そういうものをしないと何だか気持ちがむずむずするので、「ちゃんと」やる。儀式的なことは、そういう側面が多いように思います。

法事、お歳暮、年賀状。こちらとしては、やる必要性はないけれど、相手様がやられるなら、こちらもやらないといけない。なんとなく、そういう「他人の目」を見ながら、お互いに「やらなくていい」と思いながらやっていることも多いかも知れません。

スパッと、お歳暮も年賀状も送らない。それは「世代」ですよね。同世代では何の問題もないのですが、世代が跨ぐとそうはいかないことの多く。

それに、善し悪しをつける気はもちろんありません。良いも悪いもないのですから。ただ、そこに一言の問題定義をして、身の丈に合わせたモノにする。

これは大事だな、と思います。



■2018年11月25日
『未来のデザイン』

11月23日、勤労感謝の日が誕生日の息子。今年で7歳になると同時に、私たち夫婦も、親になって7年というお祝いをしながら、これ、息子が「父親」になって、いつも仕事を頑張ってくれてありがとう、と感謝されるとき、イコール誕生日って、どんな感じなんだろうな、と思ったりします。

プレモルを、どれだけ、飲むんだろう、とか。

昔から、元旦が誕生日だったり、クリスマスが誕生日だったりする友達を見ていると、いいなぁ、と思うと同時に、記念日を1つ、損しているよな、とも思ったりしました。

勤労感謝の日とクリスマスや元旦は「レベル」が違うとはいえ、まったくの普通の日に産まれて、だからこそ、その日が一年の中で「記念日」が増えた私からすると、なかなか理解しがたいというか。

まだ、7歳の彼には、そんなこと構い無しの喜びようで、おばあちゃんから1万円もらったのに、なんでトミカ4Dだけなの?という、ちょっと大人の事情に突っ込んでくる質問をしてくる始末。

まだまだカワイイですけど、これが、あと7年したら、もう、両親となんて、一緒に過ごしてもくれないんだろうな、とそんなことを想像して寂しく感じたりもしました。

今年の11月23日。パリでは2025年の万博開催都市の投票がありました。2020年の東京、そして2025年の大阪。五輪から万博への流れは、その国の勢いを保つためにも重要なんでしょうね。

サッカーW杯とオリンピックのダブル開催というのがアメリカやブラジルで続きましたが、アジアでは、この五輪と万博ペアが、1つのスタンダードのようです。(北京、上海とか)

太陽の塔にエキスポランド。万博記念公園は、モノレールで行く、ちょっと遠い所というイメージのある大阪の万博ですが、今度の万博は夢洲らしいです。昔から、埋め立てては、大きなものをぶち上げようとして、失敗してきた負の遺産。その汚名も返上できるか?

思えば、私が中学の時、14歳。大阪で花博(花と緑の博覧会)がありました。立ったまま乗れるジェットコースターがある!とか、園内を周遊するアトラクションが開始当初に事故を起こしたり。色んなことがあったような気もしますが、友達だけで京都から大阪まで行ったのを思い出しました。

2025年。ちょうど息子も14歳です。大阪なので、ちょっと遠いですが、友達とだけでいったりするのかな?と思うと、なんだか感慨深かったりします。

万博といえば、他にも愛・地球博というのもありました。これは完全に社会人になってました。愛知県まで新幹線でいって、藤井フミヤ氏がデザインした大地の塔が、はて?と思って、マンモスの冷凍保存の展示が、通り過ぎるエスカレーターの速さに「おいおい」と突っ込んだ記憶。

正直、やんわりして、ほんわりした万博だったので、これ!というインパクトはなかったですが、レガシー(万博後の利用)としてはかなり成功していると言います。

元々あった自然を壊さず、そこに馴染むように設計した万博展示が良かったと言うことです。が、さて、今度の大阪万博。埋め立てたところに「未来社会のデザイン」をテーマに、最新技術?を魅せるパビリオンが続く、とか?その後、カジノを大々的に誘致して、訪日外国人を巻き込んだ「マカオ化」もしくは「シンガポール化」を目指すとか。

どうなんですかね〜。オリンピック(2週間)とは違って、半年間の開催期間がある万博。生活の一部として、大阪に「受け入れる」覚悟は、本当にあるのか?鶴見緑地線のような、「それ専用のインフラ」を構えて、〈大阪を通らず〉に直行できる道を作るのか。

高度成長期に、日本は東京五輪と大阪万博をやりきって世界に「日本」を示したと言います。今は、世界は日本を知っています。その知られた日本の再認識として五輪と万博をするのも1つでしょうし、新たなNIPPONを魅せるのも、魅力的です。

今年、JR東海の京都旅行のキャッチコピーが、「そうだ 京都、行こう。」から「そうだ KYOTO 行こう。」に変わりました。

京都、から、KYOTOに変わった時代。♪こんにちは こんにちは 世界の国から♪ と歌った万博は、今度ははなんて歌うんでしょうか。

リアリティを、仮想でどう魅せるか。それが今度のコンセプトになりそうです。仮想空間にリアルを。それを手に取るように体感できれば、世界は変わる。それが、未来と呼ぶなら、そうなのかもしれません。

今の時代、明日、いや1秒後すら、いかにデザインできるかです。そのデザインを、それも「未来」の。1970年の大阪万博で、岡本太郎氏は縄文時代に礎を求めました。

太陽、地底、未来、現在。これまでの進化をたどることが、未来だといわんばかりの太陽の塔は、50年近く経った今も、色褪せません。

屋根を突き破り、顔を出した太陽の塔に、違和感を抱いた人も多かったと聞きます。50年後、とは未来です。そこに向けたデザイン。2025年の今度の大阪万博の50年後。2075年の未来は、寿命が100年といわれています。

100歳まで生きる時代は、80歳まで働くのか。40歳には何をしてて、60歳にはどうなるのか。そこに、ダイレクトに刺さるデザインとは何か。

埋め立ての進む舞洲で、どれだけの提案があり、そこからどれだけの「刺さる」デザインが生まれるか。やっぱり楽しみです。期待が膨らんできます。

ちょっと耳にしたところによると、太陽の塔のようなシンボリックなものは作らないそうです(2025年の大阪万博では)。ヤノベケンジさんが「人形」を作るわけでもなく、吉本が芸人を集めて歌謡曲のようなテーマソングを歌うわけでもなく。

なんとなく、やんわり、ふんわり、「終わった後(レガシー)」を考えて、『未来』をデザインするのか。まだ、詳細は決まっていないということも聞きます。あと、6年で出来ることを、これからやる。まぁ、そんなスタートでも、期待して待つだけです。

楽しみです。



■2018年11月18日
『うどんの想い出』

実家から届いた、丸いお餅。それをみそ汁に入れて、いただく朝食は。白味噌ではない、わが家の(味の)みそ汁でも、丸い餅が入っているだけで。何なんでしょうね。何だか懐かしい、何とも言いがたい感情になります。

餅は四角い。そういうものである「今」の日常から、丸い餅を食べていた、子供時代の地方都市のある日が、ふっと蘇ってきて、何だか懐かしい、何とも言いがたい感情が続きます。

食べ物って不思議ですよね。流行歌みたいに直接的ではなく、書物(文献)のように他人事でもない。余所事と自分事のちょうどいいバランスで、記憶が蘇ってきます。

昔から、変わらず、私の好物といえば「うどん」です。蕎麦もラーメンも、パスタも全部、麺類は好物ですが、生まれ育った地域も関係してか、蕎麦よりうどんの方が多く接してきました。(同じくラーメンやパスタよりも、はやくから接してきました)

そんな「うどん」の思い出。

まず、いちばん記憶の古いのは小学生の頃。太秦の映画村で食べた天ぷらうどんです。〈ザ〉がつくほど普通の天ぷらうどんでしたが、それまでは「食べなかった」ふやけたころもが、美味しいと思った最初でした。

ころもを集めて大きく見せた海老の天ぷらが、出汁の中でバラバラになって、浮かんで。それをすくって出汁と一緒に飲む。あれ?美味しい、と始めて思った瞬間でした。

次の思い出は、中学生になる寸前か。スーパーで売っているアルミ鍋の鍋焼きうどんです。麺を8割ほど食べた後、残りの麺をレンゲでブツ切りにして、そこに冷やご飯をぶっ込み、最後にコンロの上でグツグツさせながら卵を落とします。

その卵を、ぐるぐると、かき混ぜながら、カチカチになるまで煮込みます。その旨さとボリュームは、塾に行く前に食べていた想い出の味です。

中高生の時期は、とにかくボリューム勝負でした。学校の食堂では、麺が3倍入った特盛りを頼んで、流し込んでいたし、駅前の『阪急そば』では、大盛りにしても少ないので、天ぷらうどんときつねうどんを2つとも「大」で頼んだりしていました。

(※ちなみに、この『阪急そば』の天ぷらうどん。麺をさっと湯につけて、出汁を入れて、「ふにゃふにゃ」の天ぷら(どん兵衛の方が、あと乗せなのでさくさくです)を乗せるだけなんですが、無性に恋しくなって。働き始めて、一人暮らししていた阪急・西宮北口駅の『阪急そば』には、週一で立ち寄って、あの端っこがちょっと硬い天ぷらを好んで食べてました。)

質より量という中高生の頃の私にも、ふと、体に染みこむうどんもありました。小さい時から食べて続けていた、近所の定食屋のうどんです。

この定食屋の味は、100パーセントに近いほど出前の味です。両親の友禅型(仕事)の締切日の前ともなれば、兄と私は、この定食屋に電話して、うどんが来るのを楽しみに待って、待って、待って、ようやく来た器からラップを外す。と、瞬間にモワッと来るあの湯気と匂いは、いまでも覚えいています。

その後は、つき合った彼女の家がうどん屋だったり、アルバイト先では、韓国料理屋でもないのにチゲ鍋うどんが名物だったり、京都の東山、岡崎、北山で、うどんの行きつけ店が出来たりした大学時代。

ロンドンに滞在中、1ヶ月を過ぎてくると、どうしてもうどんが恋しくなり、当時、レスタースクエア(だったと思う)にあった「トーキョーダイナー」という韓国人が経営していた店で、2,000円(ぐらい)のうどんを食べたこともあります。

当時は、関西のうどんに慣れきっていたので、そのトーキョーダイナーの醤油のきいた出汁に「辛い」と感じていたのに、それよりも久々のうどんに感動して、よく考えたら韓国人がつくる日本食なんだけど、そんなの関係なく美味しいと感じていたこともありました。

そうこうしていると、第何次になるのか、讃岐うどんのブームが再来して、本場・香川に出向いたり、きしめんや稲庭うどんも制覇するぞ、とばかりに、全国のうどんを食べ歩きもしました。

個人的には、大阪の、ちょっと太めで、そこそこ腰のあるうどんが好きなことに気付き、天ぷらよりきつねを好み、カレーうどんも大好きになっていきました。

20年以上前、大阪の西梅田、サンケイビルの地下にあった「四國屋」や、同じく大阪の本町にあった「得正」のカレーうどんが、とにかく美味しかったという記憶があります。

大阪ではあと、地下にあった「更科屋」だったか、なんだったか。そこの鍋焼きうどんも忘れられません。店の名前も雰囲気も忘れ去った後でも、味ははっきり残っています。

東京に住み、慣れて、出汁の濃さがどうのこうのいうことも過ぎて、結局、温かい蕎麦には、東京の出汁がぴったりだということに気付き始めたとはいえ。

冬の、鍋焼きうどんは、格別です。どんな麺類をも寄せ付けない冬の王様です。(本当に鍋をして、締めで入れるうどんも、鍋のうどんとして王者ですが、それはまぁ協会違いということで、両者王者です)

五反田にある普通の蕎麦屋の鍋焼きうどんは、100円で焼き餅がトッピングできるのでよく食べていたし、定食の混ぜご飯と、なんともするする入っていく感じが癖になって、飯田橋にある「きしめんの鍋焼きうどん」もよく食べていました。

帰省した京都では、『おめん』のうどんを食べて、『岡北』でも食べて、『山元麺蔵』でも食べて。せっかく京都に帰ってきたのにうどん食べるの?と妻に言われても負けず食べてます。

とはいえ、ここ最近は、やっぱり、『はなまるうどん』や『丸亀製麺』でうどんを食べることが多く、丸亀さえあれば、ランチ難民にならなくて済む、とばかりに、「使えるアプリ」を最大限利用して重宝しています。

普段使いのこのチェーン店の味が、バンコクで味わえると、同じ丸亀製麺の釜揚げうどんと明太子のおにぎりとちくわの天ぷらも、それはそれは特別になり、東京で食べるのと同じじゃん!と、そのままの味ににんまりした記憶もあります。

ソウルフード。おにぎりでも、お好み焼きでもなく、うどん。これは、確実に私のソウルフードです。故郷を思い出し、そして、私の住んだ・生きた時間と場所に、それぞれに根付いているもの。

思い出すのは、私が長期で海外へ一人旅に出る前の晩は、必ず母は天ぷらうどんを作ってくれました。今は、妻の作るカレーうどんが、私のテンションを上げてくれる料理の1つです。

これからの時間に比例して、うどんの想い出は、どんどん増えていくんだろうなと思いつつ。昨日、テレビで本郷にある味噌煮込みうどんの旨そうな店が紹介されていました。また1つ増やしに、行ってみようと思います。



■2018年11月10日
『知らない流行語』

本日、晴天なり。本当に気持のいい天気ですね。昼からビールを飲み、ちゃんぽんを食べ。そこ(フードコート)には、私たちと同じような家族連れがあふれ、賑やかで、楽しげで。休日の午後の晴天って、宝です。

さて、私はリンガーハットのちゃんぽん(麺1.5倍)を注文したのですが、完食するのに苦戦する〈おじさん的〉満腹中枢で、逆に、息子(6歳)の食欲はぐんぐん上がってきて、ああ、世代交代かな、なんて訳の分からないことを考えてみたりしつつ。

ふと、隣の席に「おっかさん」といいたくなる体格のおばさまが座っており。器の大きさが明らかにちがう麺2倍のちゃんぽんを軽く平らげ、最後にレンゲで器の底が見えているスープの残りをしゃかしゃか救ってました。

その前には、男の子が3人。そりゃ、体力が要りますよね。しっかり食べて、ぐいっと3人(の息子)を引き連れ、去って行きました。(その後、アイスクリーム屋さんに並んでました笑)

何でもない休日の、なんでもない近所のフードコートでの昼食。帰りに本屋によって、本を選んで。「2冊まで買っていい」といわれた私の息子は、4冊の本を持って悩んでました。

おしりたんてい、動物スポーツ図鑑、おもしろクイズ1000、アフリカのことわざ。結局、クイズの本と、新たに目に飛び込んできて一気に他候補を追い抜いた「おりがみ図鑑」に決め、帰宅してから、折り紙を必死に作っています。

流行語大賞の時期です。もうそんな時期か、と毎年思うと同時に、流行語っていわれても、知らないというのもまた、毎年です。ノミネートされたのは、以下の通り。

●あおり運転 ●悪質タックル ●eスポーツ ●(大迫)半端ないって ●おっさんずラブ ●GAFA(ガーファ) ●仮想通貨 / ダークウェブ ●金足農旋風 ●カメ止め ●君たちはどう生きるか ●筋肉は裏切らない ●グレイヘア ●計画運休 ●高プロ(高度プロフェッショナル制度) ●ご飯論法 ●災害級の暑さ ●時短ハラスメント(ジタハラ) ●首相案件 ●翔タイム ●スーパーボランティア ●そだねー ●ダサかっこいい / U.S.A ●Tik Tok ●なおみ節 ●奈良判定 ●ひょっこりはん ●ブラックアウト ●ボーっと生きてんじゃねえよ! ●#MeToo ●もぐもぐタイム(新語・流行語大賞公式ページより)

「そだねー」と「もぐもぐタイム」は、2つもいるか?とも思うし、やっぱり冬のオリンピックは記憶が遠くて、加えてサッカーW杯が後にあるので薄れますね。

ご飯論法や首相案件が「新語」なのか「流行語」なのか分かりませんが、初耳だし、大谷翔平を翔タイムという「語」で表すことは少ないのではないかな、と思います。#Metooは、日本では流行してない気がします。計画運休やGAFA、スーパーボランティアというのは、なんだか選択者の解釈が強すぎる気もします。もう時短ハラスメントについては、言及にも及ばずかと。

かつては、「オバタリアン」や「同情するならカネをくれ」「なんでだろ〜」など、まぁ確かに世相というのを表していたかな、とも思います。が、去年の流行語が「インスタ映え」というのをかろうじて覚えている方も、一昨年は?と問われると、かなりあやしいのではないでしょうか。

まぁ、1団体(企業)が集計するものなので、今年の漢字と同様に、どうのこうの言うこともないのですが。

ただ、流行語も新語も、やっぱり周知されていることが大前提だと思うんです。周知されている範囲(世代)が広ければ広いほど、それは流行語であり新語であり、結果、世相を表すというか。

なので、調査方法として、全国47都道府県のそれぞれで、10歳から80歳まで1人ずつランダムに71人選んで、「その言葉を知っているか、知らないか」のシンプルな調査をして、知っている言葉の多いものトップ30をノミネートすれば、無理やり「ねじ込んだり、金の匂いのする変なノミネート」が減るのかな、と思ったりします。

そういえば、テレビドラマ界から、流行語が遠ざかってずいぶん経ちますね。入ったとしてもNHKものばかりで、じぇじぇじぇ、とか。そんな今クールのドラマの話。

「中学聖日記」は、聖が恋した中学生(演じる俳優は19歳の元高校球児)は、ようやく実年齢ぐらいの18歳になって、見る側からは違和感がなくなるんでしょうけど、反面、中学生ちゃうやん!とも思う訳です。

「獣になれない私たち」は、みんながみんな獣になれず、ずーっと苦しい状況で生活していて、ガス抜きのフッとした笑いに救われながらも、なんともドラマっぽい。ついつい見てしまうドラマなので、日本シリーズで開始が大幅に遅れても見てしまいました。

「大恋愛」は、昨日、泣きました。寝室に籠もって見ていた妻は、終わったら目を腫らしてリビングに来て、泣いた、と。そういうので、私も録画で見て、確かに泣きました。いいドラマです。ただ、完全にドラマ的な展開です。

「下町ロケット」は民放ドラマでは最も視聴率が良いですが、朝ドラの「まんぷく」に比べたら10%前後も離されているようです。ここでも何度か書きましたが、視聴率はもはや当てにならないので、ネットの反響などを見ていても、続編なので、それほどの反響もないのかも知れません。が、確実に面白いです。

これらのドラマがクライマックスに向けて進み、来週の木曜日にはM−1の準決勝があって、決勝進出者が決まって、話題になるころ、今年の漢字も決まって、ノーベル賞の授賞式があって、各地から冬便りが来て、と。もう、ほんと平成30年も残すところわずかです。

ちなみに、一昨年の流行語大賞は「神ってる」でした。



■2018年11月4日
『世界を走り、たい。』

渋谷(という街)と、ハロウィーンが合わさって「逮捕者」「迷惑行為」「あばれる若者」みたいなニュースが、連日続いた今年のハロウィーン。それを見るたびに、ハロウィーンとは別の、それは渋谷で起こった(単純な)犯罪のニュースなんだよな、と思いつつ。

先週末から31日のハロウィーン当日まで、仮装した若者が(おそらくは遠方から)集まってきて、わあ・きゃあと楽しんでいましたね。

ちょうどその(吸い寄せられる)時間帯に山手線に乗っていると、思わずドキッとする仮装(血まみれのナースなど)の人が、車内の奥から「すいません〜、おります〜」なんて出てきて、ギョッとする、なんていうのも、まぁ、ここ4、5年の風物詩ですね。

ハロウィーン。毎年思いますが、私が子供の頃はもちろん、街で仮装して騒ぎたい!と思うほどの年代(若い頃)にもありませんでした。異文化として、アメリカの文化として「そういうのもあるんだ」と、言ってみれば、イースターエッグやセント・パトリックデーと同じような立ち位置でした。

それが、恋人限定のクリスマスのようなイベントにはない、気軽に、友達同士で騒げるイベントとして定着し、どんどん広がってきました。

広がる過程で、川崎ハロウィーンのように「主催者」がしっかりといて、あくまでも仮装パレードとして楽しむスタイルと、渋谷のように主催者もなく、自発的に吸い寄せられてきた若者が仮装して騒ぐスタイルに分かれ・・・。

良い例として川崎が、悪い例として渋谷が紹介されるニュース番組に、いや、それも、なんか違うなと違和感があったりしました。

おそらく、今年のハロウィーンは、ひとつの起点になるような気がします。整理整頓されたパレードスタイルのハロウィーンではなく、街のイベントとしてフリースタイルのハロウィーンの。今年の反省?をもとに、いろんなことが整備されていくでしょうね。

息子が、「街で仮装して騒ぎたい!」と思う年代になるころ、さぁ、どんなスタイルになっているでしょうね。その息子(6歳)は、今年もお気に入りのライオンの着ぐるみを来て、近所の都立公園で数十人の友達と集って(ママたちが集めて)、お菓子をトリック・ア・トリートしていました。おばけのバケツに、いっぱいお菓子を入れて、食べて・喜んでいました。(そういう、東京でのハロウィーンもあるのです)

さて、ハロウィーンも終わり、毎年の恒例と化した(わが家では)入間基地のブルーインパルス展示飛行も見終えた今、秋も深まった紅葉が楽しみです。東北からは積雪の映像も飛び込んできていますが、東京は、きりりとした気候がとても気持ちいいです。

今年も、紅葉は高尾山でみるのかな、とか。いやいや、箱根の温泉を予約しているので、登山鉄道から見るかな、なんて思いながら・・・

何をしても、気持ちよく、
何かがしたくなる、そんな季節です。

私は、だから、秋が好きです。息子が生まれてきてくれた秋、11月の始まりを、そんな風にして迎えています。

今年も、息子と一緒にマラソンに参加します。マラソン?とはとても言えない、1kmや2kmの健康マラソンですが、去年に引き続き味の素スタジアム(東京スタジアム)で行われる京王駅伝フェスティバルに行きます。今年は、息子だけで走る2kmのマラソンに参加します。

そしてもう一つ。世田谷246ハーフマラソンの健康マラソン、親子で1kmを走るコースにエントリーしました。先日、その世田谷246マラソンの参加証が届き、色々と読み込んでいると、なぜかしら、うずうずと気持ちが高ぶってきました。

タイム、記録、表彰式など云々、そんな文字に、健康マラソンなんてのではなく、本格的に走りたくなる!と。

というのも、(何度かこの場でも書きましたが)私は小学生の時、マラソンが得意でした。決して好きではなかったのですが、速かったので、みんなからスゴイとかうらやましと言われ、だから、その位置をキープするために、毎朝走って、体力をつけ、そしていつも1位、2位を競っていました。

うずうずするのは、その血、というのが一つ。そして、それよりも強烈にうずくのは、マラソンを、息子と、いろんなところで、走ってみたくなるというものです。

東京で走り、札幌で走り、仙台、新潟、横浜、名古屋、京都、大阪、広島、福岡。国内だけでも、いろんな都市マラソンがあります。マラソン+家族旅行というスタイルは、なんだかうずきます。

国内だけではなく、香港、台北、シンガポール、シドニーやボストン、ニューヨーク、シカゴ、ロンドンにベルリンなど、もう夢は広がります。

よし、買おう!とランニングシューズとウエアを検索して、カートに入れたぐらいで、ふと我に戻るんです笑。

まぁ、せっかく家の前に大きな公園があるので、ちょっとずつ走ってみたりしようかな。あの、「みんな」がはいているオレンジのシューズ(NIKE Vaporfly elite)で、駆け抜けようかな、とか。そういえば、その公園は大学駅伝の部員がよく走っていて、あんな風に・・・はいかないけど、その気になれる、というメリットもあるので・・・。

ハロウィーンからクリスマスへ移ろう中、私は、そんな風に「やってみよう!」と思っている秋。寒くて凍えそうな冬になれば、しゅるるん、としぼんでしまうのですが、その前に、なにか形にしようか、な。

とにかく、健康(ファン)マラソンをファンして走れたら、次の段階に進めるような気がします。(息子が、ど〜してもやりたくて・ごねて、もうしょうがない、つきやってやるか、という状況になる他力本願なこともちょっと考えています)

ちなみに、ハロウィーン。これは11月1日のカトリックの聖人の日、All-hallow(万聖節)の前夜に行われるAll-hallow-evenを略してHalloweenになったらしいです。ランタンとか「お菓子、ちょーだい」のスタイルになったのは、アメリカらしいのですが、もともとはキリスト教のもの。

クリスマスも、もちろんキリスト教なので、10月から年末まで、まぁ日本の都市ではキリスト文化に染められるわけです。山里は紅葉に染まり、だからそのコントラストが日本の深みにもなっているんでしょうけど。

ふと、以前、小籔千豊さんがテレビで、キリストの誕生日を祝うより、お釈迦さんの誕生日を祝う、といって4月に個人的なイベントをしているというのを思い出し。

本当、日本って、深みが増してきたな、と思ったりします。



■2018年10月28日
『本能にしたがって』

将来を決められてるじゃん。それって、おかしくない?という声も聞いたりするプロ野球のドラフト会議が終わりましたね。まぁ、プロ志望届というのを出すのが「エントリーシート」で、採用通知が「指名」だとすると、球団は、配属場所というニュアンスに近いのでしょうか。(一般の企業で言うところの)

それにしても、今年のドラフトは、高校生が粒ぞろいでしたね。大阪桐蔭から4名が指名され、(関西が本拠地の)阪神タイガースは、ゼロという、まぁ、このあたりの運のなさを云々言うまえに、みなさんの活躍を願ってやみません。

プロとして活躍するためには、いろんな要素が必要になります。まずは、チャンスの有無です。そして、それを活かせる強さです。それ以前に、自分を追い込むことのできる「日常」を築けるかどうか、です。なんて、思います。

お金を払って見に来る観客の前で、スポーツをする。それも、非常に高い次元での真剣勝負をする。そして、結果は、だれの目にも明らかな形で現れる。それを「うらやましい」と思うこともありますが、それ以上に「厳しさ」を感じたりします。

テレビが普及して、ネットなどでも露出する今、「お金を払って見に来る観客だけを相手にせず、もっと幅広くスター性のような派手さ」を求められもします。そんなショービジネスによって、肝心のプレーの質が落ちては元も子もないわけで、言ってみれば原点回帰。球団側も「ボールパーク」化を進めた試合運営をしているように思います。

実直さ、努力、そして花咲いた時の周りへの感謝。この日本人的な美徳を、形を変えながらもやっている選手が、やはり人気が高いですよね。

必要とされる場所で、必要とされる以上の活躍ができるという奇跡。それを数多くの分母中からつかみ取ったスターという分子になる。

本当に、過酷な世界だと思います。その分、華やかな成果が持たされます。

さて、すっかり季節も変わって、ハロウィンから紅葉へと時間が流れると、クリスマスになって正月ですね。今年の年末年始は、「平成」最後となります。アラフォーの世代は、昭和から平成に変わった時のことをおぼろげに覚えています。昭和に慣れ過ぎて、平成に違和感もありました。

私は、小学校卒業が昭和最後、中学入学が平成の最初という年齢です。ですので、どちらかというと、自分で「書類」などに記載する年号は平成の方がなじみがあるとはいえ、一気に西暦が普及したので、あれ?今、平成何年だっけ?というのが多かったです。

区役所に行けば、「そういう人」も多いのでしょう。《今年は平成○○年です》という張り紙があったほどです。そんな平成の30年間。日本は、不況だとはいえ、それまで「ひっしのぱっち」でガンガン伸ばしてきた「力」を、日本のブランドにした時代だったように思います。文化水準もそうですし、世界へ羽ばたく日本人の「質」がそうです。

さて、次の時代です。人口は多めとはいえ、資源はなく、国土も狭い日本。人工知能が「勤勉さ・正確さ」という日本人の得意とする労働力の代わりになり、技術革新に伴う「新しい技術」は、日本よりも先を行く国がたくさん出てきました。

競争しようとするなら、前途は多難です。かといって、それをしないという選択肢を取るなら、今の生活水準を守ることも難しくなり、さぁ、どうするかな、と「これから」の人はいろいろと悶々しつつ、その前に大学入試はどうなるの!就活ルールはどうするの!と、過渡期ですよね。

平成の次。これまでを継承しつつ、変わる必要があり、それに対する不安が満ち満ちているように思う今、ウルフルズ(作詞:トータス松本)が、関西ローカルの朝の番組に寄せたテーマソングが、すっと刺さります。

♪変わらない 変わります
 変わる 変わる時
 変われば 変われ

悶々としているものを、ザグッと謳うセンスは、まぁ、ウルフルズの真骨頂ですよね。「ええねん」「すっとばす」「バンバイ」「ガッツだぜ」。

変わらない(というとこもあり)
変わります(というとこもあり)
変わる時(が来て)
変われば 変われ

というメッセージ。変わる、変わるといわれ、なだかフワフワと土台が揺らぎながら、じゃ、そのために何をどうすればいいのかと不安、だとして、

変わる時が来たら、変わる姿に順応して、変わっていこう。まぁ、つまりは「柔軟に行こうぜ」と、「ちょっと、本腰いれてやってやろうぜ」と、そんな風に私個人は受け止めました。

煽り、煽られ、気ばかりあせって、じっとしてても、焦りは消えないし、それどころか、本当の手遅れになりかねず。だから、自分の目でしっかりと潮目を見て、本能に従って順応(変化)していこう、と自分に言い聞かせ、息子に姿勢で見せたいと思います。

10月最後の週末。近くの大学でお笑い芸人によるミニライブがありました。整理券配布から足を運んで見てきました。囲碁将棋、ひょっこりはん、和牛。まぁ、学祭にありがちなバーター付きの人選です。

ふと。大学の講義室の、500人も入れば一杯の部屋で、同じ空気を吸って、笑っていると、テレビの画面の向こうではなく「ココ」、今、ここで笑いあえる空間が「変わるのかな〜、本当に」と呑気にもさせます。

言ってみれば、本質的に変わる時代の節目は、もう経験済です。もっと言えば、一気に、明日から変わるという変化は、逆に言うとみんなが対応しやすいもので、そうではなく徐々に変わって、振り返ってみると、あの頃に変化したんだな、という類の変化は難解です。

人を笑わせる。それは、どんな手を使っても、なりふり構わず、目の前の人に向けた「語り」です、「パフォーマンス」です。

日々、少しずつ変わるもの。それに気づけるように、日々のアンテナ、日々の笑い、そして日々の楽しみをていねいに、重ねていきたいと思いました。

平成最後の年末年始。今年の年賀状は、いつものように西暦で2019年元旦、と書かずに、平成31年元旦、と書こうかと思います。

これまでの30年間に思いを馳せ、変わってきたものに想い出を乗せ、そして、変わりゆくものへ「私も変わる」と誓いながら。



■2018年10月20日
『楽することを排除した愉しさ』

起きたら朝食抜きで準備して、家を出て、満員電車に揺られて、ずっとスマホでゲームして。会社についたら気怠くパソコンのスイッチを入れて、ため息をつく「働き方」。

それに、改革を。働き方改革は、理想を具現化するために少々強引に、なんというかパフォーマンス的な雰囲気も含んで「半強制的」に進もうとしています。

言ってしまえば、"ノー残業デー"という、形の上では会社から帰るけど、家で悶々と残した仕事が気になったり、気になるだけでなく、実際に持ち帰って仕事をしてしまったり、というのに近いようにも思います。

広辞苑でひくと、「本末転倒」とは〈根本的な事柄とささいな事柄とを取り違えること〉らしく、改革というものの中に、根本的な事柄の変化を言うとすれば、働き方改革って、何なんでしょうね。

業種にもよりますが、オフィス街というところで働く多くの企業では、パソコンがつながっていれば仕事ができるという状態になっている場合が多いです。

で、あれば、わざわざ賃料の高いビルで「人数分」の机を並べなくても、自宅や自宅近くのテレワークオフィス(シェアスペース)で、会社のサーバーにつないで仕事をすればいい。

東京だと、通勤にドア・トゥー・ドアで2時間ということもよく耳にします。往復で4時間。これが勤務時間にプラスされています。自宅なら、それがまるまる「自分の時間」になるわけです。

働き方改革には、ダイバーシティ(多様化)や、ワーク・ライフ・バランスなどが紐付いています。仕事とプライベート(ライフ)をバランスよくする。これは、単に時間というものに当てはめて、その時間比率でバランスをとるということではありません。

が、拘束時間は、日本人にありがちな「横並びの平等意識」のようなものから、損得勘定になるので何となく時間配分を言っているように思います。

そこで出てきたのが、休み方改革。休む=サボる。この深層心理が、日本人の強みである勤勉さを表しているのでしょうが、それを変えていこうというのが社会の流れです。

有給休暇は、週末と重ねてとることで長めにする。逆に終日や半日という単位で休みを取るまでもない「ライフイベント」があるなら、始まりの2時間を休みにして区役所の手続きをしたり、通院したり。逆に、終わりの2時間を休みにして、夕方からコンサートにいったり、です。

この「運動」の根にあるのは、ず〜っと仕事にかじりついて、カリカリ、ガツガツ作業することを仕事だと思っていると、発想力、ひらめきがなくなる。もっと言えば、「そういう仕事」はAIなど知能を持った機械がとってかわるという革命に対応するためだともいえます。

今、慣習的にマストだと思っている「仕事(作業)」は、本当に必要なのか?と思うこと。もっと違う方法、もっと効果的な方法などを考えて、少しずつ変えていって「いい流れ」にすること。

したいのは、つまり、これだと言えます。会社での働き方に改革をもたらし、そんなワークスタイルが確立できれば、できた時間を休みに使う。そんな動きが、ここ日本で、特に東京では確実に起こっています。

ふんふん、と聞きながら、個人的には残業反対、遅くまでいる人=仕事している人、という感覚を、20年前から疑問に思って、現にほとんど残業していない身としては(だから、業務単位での評価はあったとしても、組織からの評価はないんでしょうけど笑)、この流れは大賛成です。

が、ふと、あれ?と思う訳です。
どこかで聞いたな、と。

会社での拘束時間を緩めて、生まれた時間を興味のあること、自分の将来ビジョンに合致したことに使う。そういう「ゆとりある」時間を「愉しむ」ことで、新たな発想や多様なものの考え方ができる。

それが、ワークにも活かされる、と。あれ、あれ、あれ?小学生のあいだから宿題をいっぱい出して、習い事をして、とにかく知識を詰め込んできた教育に待ったをかけた「ゆとり教育」。

ゆとりある時間の中で、いろんなことを深く学ぼうとした方針。これと働き方改革は違うようで、なんとなく始まりの発想が似ているのようにも思います。

ゆとり教育が終わり、「平均的」には常識がないだの、がんばりが足りないだの、と"ゆとり世代"は、いろいろと言われていますが、若いうちから世界を相手に戦え、そして活躍し、結果を残す「人」が出てきたのも確かです。

平均的に皆が皆おりこうさん、というのとは違い、グンと突き抜けて、とても素晴らしい人を誕生させました。それもまたゆとり教育のたまものです。

ひとりの日本人が、ある分野で世界のトップに立つ。と、その後に続く日本人には、「自分にもできる」と、突き詰める(努力する)ことに、具体的な未来像が持てるように思います。

水泳競技において世界で戦うなんて、体格も違うから所詮無理だよと思いながら、毎日泳ぎの練習をするのと、北島康介さんのように突き抜けて活躍(オリンピック2連覇)した人の後で、それに続く世代が頑張れば出来ると思って泳ぎの練習をする違いと同じです。

先週の火曜日、世界ランク5位のウルグアイと戦ったサッカー日本代表。4-3の勝利というのももちろんですが、その試合内容に驚きでした。どこか、ひとつ次元を上げたな、と思わせるものでした。

これも、カズ、ヒデと続いて続々と世界で活躍する人たちを見て、それが当たり前になった世代の、次の次元なんでしょうね。

ということは、ですよ。このまま働き改革が進んで、例えば、日本企業の平均的価値というのがパッとせずに、本来の勤勉さの不足などが嘆かれる時代が来ても、ユニコーン企業のような、どこか突き抜けた企業も出てくるのかな、と想像したりします。

どちらがいいのか。高校を卒業したら大学へ。大学を卒業したら、「ルール通り」に就職活動へ。なんだか、そんなルーティンも、最年少記録を作る勢いで、どんどん社会に出てきて、どんどん失敗して、実戦形式で「必要最低限」のものを身につければいいのに。

父親となり、その立場から息子を見ていると、この先がとても明確です。向かおうとする方向に、不安よりも頼もしさを感じます。自分の時代にはなかったものが普通に存在し、それを空気のように吸って・吐いてきた世代の未来です。

楽しいの中にある「楽/らく」することを排除して、愉しみながら生きて、発想して、頑張る。この、スパイラルに入ることを、、、賛成・・・だけど、はて?、

それって、国家レベルの施策で、やっていくモノなんですかね?



■2018年10月14日
『音楽とドラマとスポーツのはなし』

10月から始まった、有働由美子さんの「NEWS ZERO」。これまでは、大学の講義のような、どこかカチッとした空気感がありましたが、なんだかやんわりしてますね。それについては、色々と個人的見解(賛否)をSNSでつぶやかれては、それがニュースになるという、まぁ、ここ最近ではありがちな展開が見られます。

そのエンディングテーマ。椎名林檎さんが、エレファントカシマシの宮本浩次さんを迎えて「獣ゆく細道」を歌っています。少し前には、ウルフルズのトータス松本さんと歌っていました。異色のコンビ(コラボ)。声音の違いが、素敵な世界を織り上げています。

女性ボーカルの特殊性と、男性ボーカルのパワー。そんな女性ボーカルで、ぱっと浮かぶのは、例えば、CHARAさんやnokkoさんですが、断トツで(個人的に)異色コンビソング(というものがあれば)で好きなのは、矢野顕子さんと忌野清志郎さんが歌った「ひとつだけ」です。

♪欲しいものはたくさんあるの

と、歌いだす矢野顕子さんの声。もう体中に染み込む快感に酔いしれます。その雰囲気に身をたゆたえていると、

♪けれども今 気がついたこと

と、清志郎さんの声。ただただ気持ちいいです。イヤホンで聞いていると、ゆったりと漕がれた気分に、太陽の光がちょうどよく当たる感じというのでしょうか。

調和するっていうことの、意味の広さを痛感します。色で言えば、補色(反対色)やトリコロール三分割、ナチュラルハーモニーなどの「決まり」にそった調和とは別の、ジミー大西画伯のような「え?ここにピンク!?なのに、なんでこんなに合ってるの」という調和というのでしょうか。

それにしても、大坂(なおみ)半端ない、大迫(傑)半端ないという、うれしいニュースが多いですね。女子テニスの大坂なおみ選手は、世界ランキングが4位となり(日本人最高位タイ)、男子マラソンの大迫傑選手は日本新記録をマークしました。東京オリンピックが、楽しみになるばかりです。

バトミントン男子で初めて世界ランキング1位になった桃田選手は、なんだか元気な若者!というような大胆な行動で週刊誌騒ぎになりましたが、まぁ、それぐらい注目される存在になったんですね。

半端ない活躍で世界を魅了する日本人。その人たちを見て、勇気づけられる日本人。そして、日本人であることの広がりというか多様さ。

米国は米国人のものだ!という(トランプ風の)向きとは違うところに、勇気づけられたいとも思います。

さて、先述のNEWS ZERO。有働アナがNHK時代に、番組冒頭で朝ドラを受けてコメントする「ドラマ受け」をしていましたが、それを日テレでもやったぞ、というざわめきがありました。

有働さんが、思わず受けたドラマ「獣になれない私たち」。これは、久々に、ぶっちぎりで面白いドラマでした。気持ちのいいセリフ回し、そしてスパイスの効いた関西弁。そこに社会問題を散りばめて、布石を巻いた第1話で、私はドはまりしました。

話題性の高いドラマが、初回でがんばる感じもなければ、派手にお金をつぎ込んでドヤ感を出すこともない。ただただ、キャストの個性を最大限に生かし、そして真ん中にいる主役は、淡々と上質な演技をする。

大人のドラマ(をまとった)コメディであり、ラブであり、なのに、これでもかというほどにリアリティ。どう展開していくのか、本当に楽しみだし、早く次回がみたいと思います。

ドラマ低迷期なんて、視聴率だけではかると言われますが、これだけディバスやチャンネルが増えると、もはやドラマは元気、という時代なんでしょうね。

面白いというのが多様化して、その受け皿を可能にするハコがある。平成も30年経って、充実してきたな、と思います。

音楽もドラマもスポーツも、秋だからかな、体が素直に受け入れるような気がします。○○の秋。昔の人はよく言ったものです。

niftyがまとめたアンケート結果では、○○の秋にあてはまるのは、多い順に、食欲、紅葉、実り、読書、行楽、運動、芸術、睡眠、ファッション、勉強となるようです。

勉強の秋、、、笑。睡眠や行楽を見ていても、つまりは、何をするにもいい季節ということで、確かに、春にはない、縁側に腰かけるという感覚がありますよね。渋めの濃茶、おもめのお菓子、出汁の効いた美味しいおうどん。やっぱり、食欲の秋ですかね笑。

ボジョレーヌーボーというのもありますね。ワイン。妻は、夜な夜なワインの知識を増やしつつ、ぶどうの品種を超えて、産地の地形に思いを馳せ、ぼんやりと「草原をかけぬけるように」、「ごろごろとした岩山の猛々しさ」や古き良きシャトー、ニューワールドの単品種の諸々を語ります。

食後、子供が寝たら、夫婦でしっぽり。いつものダイニングテーブルに、小さなキャンドルを2、3個だけ置いて、うすぼんやりと(した灯りの中で)、「満点の星空」を思い浮かべながら、ワインを飲む・・・そんな秋、というのも、いかがかと。



■2018年10月7日
『というか、正直です。』

すっかり秋です。それは、風が、ということです。まるで夏みたいな事象が、自然界でも人間界でも起こっていますが、どうしようもなく、自然は、ピュアです。というか正直です。

私は、息子によく言います。自分の気持ちは、相手にそのまま伝わるということを。自分が優しくしたら、ちゃんと優しく伝わるということを。その逆も、ちゃんとそうなるということを。だから、と。

場当たり的に、「今」のことだけ考えて、地球を使えば、それは「すぐに」しっぺ返しがくる。そんなことを思わなくもない、自然災害の多さですね。ここで言う、今や、すぐというのは、地球が歩んできた長さで言うところです。100年や200年は、今、ということができると思います。

この100年。私たちの先祖が「選択」し、歩んできた素晴らしい発展。歴史の教科書で学ぶ「昔」に比べて、生活は楽になり、便利になりました。石炭、石油、電力、ガス。そんな動力を思い切り使って、これまでの物事を「任せてきた(機械に)」ともいえます。

そのしっぺ返しが、オゾン層破壊による温暖化と海水面上昇につながったり、津波で原子炉がメルトダウンしたり、ということになるとは、「開発し、生み出し、利用・享受」する中で、果たして、どこまで現実視できていたのだろう、なんて思ったりもします。

機械化から時代は進んで、パソコン社会になり、世界中が国境を越えて、グローバルにつながり、生産体系もマーケットも広がり、効率化されてきました。そこに、サイバー攻撃や、ネットワークのダウンによる被害を、これまた、どれほどまでに現実視できたいただろう、とも思う訳です。

先日、ある映画の予告で、《ある日、スマホを落としてしまった男が、そのスマホデータからあらゆるものが盗まれ、悪用され、周り(彼女)を巻き込んで、大きなトラブル、深い恐怖に見舞われる》というのを見ました。

言ってみれば、この日常に、普通に存在する大きな落とし穴へ、ブラックホールのように吸い込まれていくというものでした。

頭では、一応理解できている「お〜怖っ」という現実を、どれだけ視れるか。そして、対処・対応が取れるか。それを知って・覚えて、あとは足腰が動くかということになるので、精神鍛錬、みたいなのも必要なのではないか、とさえ思ってしまいます。

とはいえ、今時、Suicaも持たずに電車に乗れば、改札口さえ少なくなって、なかなか出られないという時代ですからね(切符が入れられる改札機は端の方にちょこっとあります)。「そういう悪用され得るもの」を使うしか、ないんですよね。

そして、今。また、新たに「任せよう」としています。

それは、これまでのように、(人間の)代わりにやってもらうということに他ならないのですが、こんどの革命は、(人間が)指示をしなくても、機械が自ら考えるという人工知能に、です。

データ分類や分析というものから派生して、これまで長年の経験を活かして、えんぴつなめなめ値付けていた価格を、過去のデータから導き出して最適価格に設定する(JALの航空運賃など)というところまで来ています。

便利になる。「そのために」使っていた人間の時間が、他の(何か)に回せる。

AIによる社会はそういうことで、決して(仕事がAIに)「奪われる」という危惧は、必要ないという声も聞きます。さらに、それまでにはなかった「業務」というのが生まれ、そこに人間は雇用されるとも聞きます。

いずれにしても、です。これまで同様、(産業)革命によって持たされる、その後の「しっぺがえし」を、どこまで現実視できているか。私は、ふと心配になったりします。

息子には、他にも、こんなことをよく言います。

選択して決めたことは、その選択が悪かった、ということはなく、選択後に良くできなかっただけだよ、ということを。

つまり、決めたことは、その選択が後々良かったと思えるように、生きていこう、と。

選択は、必ずしも「自分」で出来るものばかりではないです。時代の流れがそうするものもあれば、何かの団体に所属していて、半ば命令的に行われる決定もあります。そこには、選択というものとは程遠い、無力感のもと、自分を「そちら」へ置かないといけなくなります。

だとしても、その後の良し悪しは、くよくよとその時点(それ以前)に思いを持っていっても仕方なく、やっぱり、そうなった以上は、少々無理してでも、自分に嘘をついてでも、「良く」なるように。前向きに、と。

私の言葉を、ふんふんと聞いてくれる息子へ。ありがとうね。わからなくてもいい、ただ聞いてくれるだけで、いつかふと思い出してくれれば。

これから、息子が生きていく世界は、たぶん激動し、いろんな便利を享受することだと思います。いろんな仕組みができて、いろんなことが希薄になりつつ拡がるかとも思います。

その、どこかの段階で、しっぺ返しがこないように。変わってゆく「岐路/選択」の、その後を「良く」していってもらいたい。と、まるで、老後のようなことを思ってしまいます。

まだまだ!ですけど!私も!と、ココに記して、そう思うことにします。



■2018年9月30日
『ヒーローと一匹オオカミの差』

新しい視点、新しい切り口。そういうのに「良い」評価を与えがちな今の世の中は、ちょうど、なんというか過渡期というか、端境期にいるんでしょうね。

例えば、アートの世界。かつて、ピカソが「アヴィニョンの娘たち」を発表したとき、もっと言えば、バッハが作曲し、その音の輪を知らしめたとき。

まん丸の真珠に歪みを加えた「美しさ」や、見たものの複数の視点を1つの構図の中に収めた力が、バロックやキュビスムとして大きな流れを生みました。

そんな流れには、追随者の存在が大きいとも言われます。例えば、革命とまでは言えなくても、J-POPの中でも、Mr.Childrenが「らしい」音楽を作ったり、BUMP OF CHICKENだったり。

その前なら、小室音楽があって、宇多田ヒカルに流れたように。今で言えば、ニコ動でアニメチックにやっていた米津玄師に追随しているようなものを多く耳にする印象だったりです。

お笑いもそうです。ダウンタウンが築いた笑いがあったかと思うと、それをぶち壊すぞと正面突破する者はなく、どこか「あっち」「こっち」からの切り口に、思わずうなるような職人芸が多いように思います。

キング・オブ・コントは、強烈な個性で勝ち抜くR-1や、言ってもベタにわーわー言うのが強いM-1とは違って、本気に職人気質なネタを選ぶ傾向にあると個人的には思っています。

今年優勝した「ハナコ」もそうだな、と思います。笑いにする手法やネタの切り口(が新しいとか斬新)云々よりも、「ああ、そこにも、笑いはあったか」というような、なんとも言えない世界感があります。

昨夜放送された「ENGEIグランドスラム」で千原兄弟のネタを見ていると、四十九日という緊張に、お笑いの緩和をもってくる典型とはいえ、切り口が斬新でした。新しいというのは、ここにこそあるのかな、とも思った次第です。

本は少し違って、あくまでも「これだけは書いておかないと」という気概や気合いが乗り移った作品が、賞レースを勝ち残り、読後感の(すっきりするとか、重みがあるなどの)違いで、まるで赤ワインのような楽しみ方をすることが多いと感じています。

本を手にする人の、個人差でそれぞれの質を楽しむというか。ワインを引き合いに出したのは、分母(というかターゲット)が、両者同じく狭い反面、とてもひとり一人のこだわりが深いという共通点があるように思えるからです。

コアなファン。その上をいって発する人。を、評してお金を出すファンというサイクル。ここでやっていると、案パイな分、いやそれだけでは「じり貧」だという焦りもあるんでしょうね。

じり貧。その言葉に、異常なまでにとりつかれて、本来のあるべき軸を見失ってしまうと、なんだか出口ばかりが増えて、余計に迷子になるように思います。

もっとたくさんの人に、もっとたくさん知ってもらって、もっとたくさん売ろう、と。

そんな汎用性の中に、「らしさ」みたいなものを中途半端に入れようとするから、まぁ、廃刊だの廃業だのといろいろと出てくるんでしょうね。と、書いている私自身も、それはとても難しいことだと認識しているつもりです。

大型の台風が2つ発生して、「また」日本列島に襲ってきているというニュースの中で、先週、私の中で際立ったのは、貴乃花の大相撲協会からの退職でした。

孤軍奮闘という印象の濃いこのニュースから、私は一匹オオカミという言葉を思い浮かべました。息子のお気に入りの一冊、「ざんねんないきもの辞典」(今泉忠明監修・高橋書店)には、

一匹オオカミは弱い
”力のないオオカミは一生1匹のまますごさなければならない”とあります。

一人で、何かを成し遂げるには、ダイレクトに「その」方向に向けられる力ではなく、放射線状というか、周りに向けて幾つもの線を張り、結びつける方向に使う力が必要だということになるのかも知れません。

そんな力のあるなしが、一匹かどうかの結果になると仮定します。で、あれば、それは統率力とか、組織の中で生き抜く力、みたいな、日本人の中に潜んでいる「そんなのダサい」というニュアンスの力が必要と言うことになります。

これは、日本の組織社会では必須で、だからこそ、多くの人が致し方なしの気持で受け入れ、身につけているのに、そんなの嫌だと「一匹オオカミ」になり、三割バッターぐらいの「ヒット」が打てたりすると、どことなく尊敬されるという流れ。

よりもむしろ、「そんなやり方でヒットを生む」ことへの嫉妬にまみれて、最後の最後に笑えるかどうか不明、というのが現状です。

一匹じゃない状況がつくれる力の有る無し。これは今後、ますます必要になってくるように思います。

オフィスという決まった場所に集うことなく、リモートワークスで繋がる組織が、ひとつの目的のために、同じ方向に進むためのまとまり。

これはある意味、一匹オオカミが集って、それぞれが一匹にならないための強さを持つ必要がある組織体の姿ということができるかと思います。

小泉進次カ議員の顔が浮かびます。それとは別に、橋下徹さんの顔も浮かんできました。「目的」のためには集団の力が必要で、その集団(数と言ってもいいかもしれません)をまとめ上げる力。

が、目的のために使われず、数集めに走るという組織。誰もが慣習で動き、判断し、上下関係が生じて、忖度の応酬がはびこる中です。

求めているのは(求められるのは)、ヒーローのような存在です。ヒーローの仮面をかぶった一匹オオカミではなくて、です。このヒーローと、一匹オオカミの「差」が、これからも判断し、選択していかなければならないんだろうな、と思う次第です。



■2018年9月24日
『ノットテレビでテレビ』

2011年には600万人強だった訪日外国人の数が、ここ6年ほどで、一気に3,000万人に迫る勢いの日本。私が20代の頃、“日本の入国者は、出国者(海外へ行く人の数)の半分に満たない、いびつな国”なんて言われていましたが、、、。

ここ数年、ずっと横ばいの出国者数に比べて、ぐいぐい伸びる入国者数。安倍さんは、自分の政権になってから、ビザ緩和やクールジャパンキャンペーン?で成果が出た、と(総裁選で)主張してましたが、そんなのは真の要因ではありません。

例えば、韓国。ここ数年で出国者の数が日本を追い抜く勢いです。今年、出国者が3,000万人に達するんじゃないか?とさえ言われています。日本に比べて、人口が少ないのに、それでも出国者の数は日本以上という状態です。

先日、韓国最大手の旅行会社(ハナツアー)の方のお話を聞く機会がありました。その方曰く、韓国人の旅行ブームを生んでいるのは、旅番組だ、ということでした。

人気タレントが、番組の中で旅をして、その映像から「旅する気」が芽生えた人達に、LCCの興隆でエアチケットが安くなり、民泊などのシェアエコノミーでスマホ完結の気楽さが追い打ちをかけているとも言います。(ビザの緩和があるとすれば、ここの1つの要素として貢献している)

その話を聞きながら、ちょうど私が大学生だった1995年から99年、20世紀の最後にやってきたバックパッカーブーム。沢木耕太郎著「深夜特急」を模して、電波少年というテレビ番組で、無名の猿岩石というお笑いコンビが、香港からロンドンのトラファルガースクエアまでヒッチハイクで旅するという企画が人気を博していました。

他にも、映画(トレインスポッティング、リアリティ・バイツなど)やファッションなど、カルチャーの多くがヨーロッパやアメリカ東海岸から伝わる時代。

ローマのスペイン階段から繋がるブティックストリートでは、プラダをはじめとする店で、今の東京で中国後が当たり前のように、日本語が当たり前に通じました。

テレビや映画、ファッションから芽生える「旅する気」が当時の日本には充満していました。そんな気分を持ち上げ、現実のものとし得たのが、格安航空券の存在です。団体航空運賃のばら売りという手法で、安いチケットで海外に行けるようになりました。

大学時代の私は、大学よりも、ひとりで出かけた海外の都市の方が友達と出会え、そして、二十年経った今でも連絡を取り合うのは、そんな時に出来た友達ばかりです。

現在の韓国の状態を、勝手に、当時の日本のようなモノだと想像するなら、その盛り上がりは、手に取るようにわかる気がします。

東京から日帰りで簡単に行ける鎌倉や、ちょっと遠出しての京都まで、外国人観光客たちは本当に多いです。そんな東京以外で外国人観光客に出会って、ふと思うのは、私自身がそうであったように、例えば、ロンドンやニューヨークなんかでは、「その都市の中に自分を馴染ませる」ことを目指していたように思います。

なんとなくニューヨーカーと同じことをしよう、と思っていました。おそらく、東京でも、外国人観光客の多くは、そんな風にして、東京で生活している者に馴染もうとしているように思います。

が、鎌倉や京都(ロンドンで言うならブライトンや湖水地方に出かけるのと同じ)では、旅行感が一気に濃くなって、その都市に馴染もうなんてことより、旅しちゃうと言いますか。

それ、ほんとに自分の国でやる?というような、考えられない行動を、旅の恥は掻き捨てよろしく、やっている観光客が多いように思えます。

アニメの聖地として台湾で有名な鎌倉高校前駅の踏切では、遮断機に手をかけて、江ノ電バックに写真をとったり、道路のど真ん中にまで入ってポーズを決めたり。

なんというか、今だけ・ここだけ・旅先だから、の行為ですよね。日本の大学生も、世界各地の世界遺産に落書きしたり、変な店で、監禁されたり、ぼったくりにあったり。と、まぁ、旅感が出過ぎるのも、本当に考えものです。

さて、そんな韓国でのテレビは、ケーブルテレビが出てきて、チャンネル数が増えたと言います。日本では、依然として地上波が強く、NHKに民放4局が主流。そこにテレ東を加えて、発信し続けていますが、その視聴率が芳しくありません。

若者のテレビ離れ。数字だけみればまさしくそうです。が、見逃した番組、もう一度みたい番組をオンデマンドで見られるアプリ「TVer」が出来てから、録画することすら止めて、端からこれで見ようと決めている次第です。

先日、視聴数が過去最高になったと「グッド・ドクター」のニュースが流れていました。視聴率だけでは計れないノットテレビでのテレビ番組。いい加減、新しい評価基準(指針)がいりますよね。

もっと言えば、広告収入(スポンサード)だけでやろうとするから民放はつまんない(顔色をうかがって)のであって、NHKに受信料払っているので、それを5局で割って、いろんな視点から面白いのを作ってくれればとも思います。

NHKは、黙っててもお金が入ってきて、まるで公共工事のような、なんとも時間と手間を非効率にかけた無駄遣いが多いという例が散見されますからね。

そんなテレビのドラマの話。10月からいよいよ真ドラマが始まりますね。ノットテレビで見るとは思いますが、注目は、やっぱり「下町ロケット」ですかね。外れはないでしょうからね。あとは「中学聖日記」「大恋愛」「ハラスメントゲーム」などでしょうか。

ドラマでも、多くの名シーンを演じ、創り出した「画」に圧倒されるということが多かったです。樹木希林さん。別居を続けた夫・内田裕也さんのお別れの言葉が素敵でした。だから、ここでもそれをなぞります、「見事な女性でした」。ご冥福をお祈り致します。



■2018年9月16日
『わたしの、中心』

おもむろにソファに寝そべって、息子が本を開いた夜。黙って読み始めた彼の傍で、私も妻も、読み物をしていました。テレビの音が、なんだかぼんやりとリビングルームでこだましているので、私は、思わずテレビを消しました。

「ご飯を食べる時は、テレビを消し、家族で会話を楽しもう」と言われた時代の「テレビ」は確実に中心にいました。が、今は、ただ流れているだけです。それは、それ以外のもののために、消される時代です。

仮に、本ではなく、私たち家族三人が、スマホやタブレットを見ていていも、「テレビ以外」という状況は変わりません。

中心にいるものが何か。
それが何であれ、移り変わるものです。

その移り変わりに、私たちは、とても自然に対応していきます。その流れを作り、その流れから「儲けよう」と考えることでもしない限り、それは特に問題はないのですが、なぜだか、移り変わりに、残念がったり、焦燥したり、どこか溜息が出そうになるものです。本当に不思議です。

車にビールに映画に書籍、雑誌に旅行にテレビまで。若者は一切合財から「離れ」、二次元に埋没しているという「像」を作りがちです。

しかし、それは、ただ単純に若者の人口が減っているわけで、月報で売り上げ数値ばかり追っている以上、まぁ、そういう「離れ」論になるんでしょうね。

実際は、太い幹のように、みんなが同じようなことにお金を使うのではなく、恐ろしく枝分かれした多様のモノやコトにお金を使うようになっただけで、それをいっぺんに集めれば、一人分の「消費」は、今も昔も大差ないと思うのですが。

その多様性を読み切れずに、「中心」探しをしてしまうから、先述の嘆きや溜息、ということになるんでしょうね。

まとめて一言で表そうとする限界を感じる時代です。バラバラに存在するモノやコトをカテゴライズして語ることも、同じように限界かもしれません。

クールジャパンとして発信する日本政府のやり方が、世界の中で不発に終わっているということを聞いても、同じことを感じます。二次元、アニメ、ゲーム。日本をイメージして「良い」と思うことを、経済的に「儲かってる」に置き換えてしまうからなんでしょうね。

ぼく、私、俺、自分。各々が持つ「中心」を、各々が追い求めます。それを一つの場所でまかなう時代は、百貨店と一緒に過ぎ去ったかと思います。

かつて、シャワー効果なんて呼び、イベント(催事場)を最上階に置いて、とりあえず客を上に移動して。その客が下りてくる間に、各階に立ち寄って購買してもらおうとする効果です。

そんなものが通じる時代から、専門店主義になりました。それも、もう過ぎ去ったかのような印象です。各々が欲しいものは、欲しいモノやコトを「専門」で売っている所で消費してました。

が、今や、ウェブです。溢れる情報をキャッチするには、部屋の中でも(PC)、電車の移動中でも(スマホ)可能です。

その情報を、これでもか、というほど一極に集中し、その分類を機械的にこなし、ウォンツとニーズを確実につかんだ上に、サジェストまでしてくるAmazonは、言ってみれば、今の時代を築いていますよね。

各々の中心を集めて、それをスマートに正確に誘うという手法。今の所、これが最適なようにも思えます。これは、場所じゃなく、ある意味、空間でやったから、可能になったんでしょうね。

だけど、です。時代は繰り返します。過去に流行りすぎて「ダサい」と思われたことが、一周回って、また、かっこいいというウォンツになる。そこから派生したニーズは、ディスコだったり、スキーだったり、バックパッカーということになるから、面白いものです。

生まれた子供が、おままごとをしたり、電車や車が好きでトミカを求めたり、人形に昆虫に、おならやおしっこがバカ受けする「人間のウォンツ」は、時代が変わっても、普遍なところも多いのが事実です。

ただ、そのフォルムを、時代に合わせて、タイミングを失せず打ち込めば、例えば「儲けよう」とする人たちの嘆息も減るのかな、と言うのは簡単ですが。

平成最後の夏が終わろうとしています。

いや、もう9月も半分過ぎたので、終わった、と言っても過言ではないです。そんな時代の、新しいものへ向かうわくわく感とは正反対に、そわそわするだけで、梯子を外されて落っこちる自分が見えるようで怖くもあります。

これからも、変わるは必須。そんな必然に、できるだけ自然に対応したいな、と思います。そのためには、ただただ自分の赴くままに素直に行きたいな、と。なぜなら、私自身の中心は、いつも、「ここ」にあるんですから。そこが、メジャーでも、マイナーでも、中心であることに、変わりはないのですから。

私の中心は、ずっと「旅」にあります。

自転車で、行けるところまで行って、隣町で迷子になっていた小学生時代も、電車を乗り継いで、大都会へ行って、ドキドキしてた中学時代も。一人で、海外へ出始めた時もそうです。

なんだか、どこかへ行きたいという衝動が中心にあったように思います。家族が出来た今、その形態は変わったとはいえ、根本は変わりません。

面白そう、という嗅覚に敏感でいたいです。
その嗅覚にそって、身軽でいたいです。
そして、あらゆる感覚を素直にして、いろんなものに触れたいです。

最近、息子が2歳や3歳の時に出かけた場所へ、6歳になった彼と再訪することが増えてきました。そうすると、動画や写真で見た「行った場所」が、目の前に現れて、息子にとっては興奮するものでもあるようです。

そんな興奮を共有することが、私の、今のところの中心になっています。



■2018年9月9日
『備えるだけでいけないことを知る』

9月1日に発生した関東大震災を教訓に、この日を「防災の日」として、その週を防災週間、そして9月を防災月間と呼び、私の住んでいるマンションでも、職場でも、そして息子の小学校でも、防災訓練が予定されていました。

そんな中での、関西地方を襲った暴風雨と、北海道の大地震。訓練じゃなくて、本番が来た、という感じです。全国規模で行おうとしていた会社の防災訓練は中止となりました。

一年に一回、決まった時期に、決まったことをして、それで安心、というレベルではない危機を改めて感じてしまいます。

まず、9月4日。ちょうど7年前のこの日も台風でした。私は結婚式の当日で、京都で挙式をしたので遠方からわざわざ来ていただく方が多く、その方たちには本当にご苦労をかけました。和歌山県では、多くの被害を出した台風となり、いろんな意味で忘れることができません。

何の因果か、同じ日。今年の台風21号もすさまじかったです。たまたま東京の自宅で終日テレビを見ていた私は、ワイドショー、ニュース番組、特別番組等で映し出される画面に、え?うそ?すごい、と声を出しながら驚きました。

室戸岬や和歌山の白浜など「よく見る」台風の映像には、どこか慣れている自分がいて(それが恐ろしいのですが)、それが、大阪市内となると、淀川の支流や大阪城公園の近くで、すさまじい風と川の水位上昇の映像に変わると、心臓がバクバクしました。

駐車していた車が、まるでトミカのおもちゃのようにころころと流され、ものすごい風と高波が襲い、そして中継するアナウンサーは安全確保のため建物の中に入って状況を知らせていました。竜巻のようなビル風が渦を巻き、普段の風景の想像すらつかない映像。

思わず大きな声が出たのは、関西国際空の浸水でした。最初は、ボーディングブリッジの箇所、駐機場まで浸水しているなんて「ありえない」というような報道でした。もしかして、これ、水ですか、と。海水がここまで来ているんですね、と驚き、白波を建てる海水が関空を飲み込んでいるとわかった時の恐怖。(これは、今まではケタが違う、というか)

世界初の海上空港として関空が開港した時、私はまだ高校生でした。その後、地盤沈下に悩み、不景気にやられ、それでも何とか国内屈指の大空港の立場を保ってきた関西経済の基盤。そんな空港の浸水は、まるで沈没のようにも見えました。

海水が、ここまでくるとは想定外の規模。また、福島のような言葉を聞くこととなりました。

さらに、関空と陸地を連絡橋に、風に流されたタンカーが衝突。片側4車線の道路の半分までめり込んでいまいた。高潮でタンカーは下をくぐれず、橋にあたって止まる。20代まで、海外へ行くといえば、いつも関空を使っていた私には、あの連絡橋がいかに重要かわかっていました。

橋さえ、通ることができれば。なんとなかなる。そんなイメージの、命綱のような橋。その壊滅的な打撃。台風が来ると予報され、JR西日本は前日に早々と運休を決めて、それだけ「家から出るな」モードにしていても、確かに海外へ行く、という予定を思い切ってやめてしまう訳にはいかないんでしょうね。

乗り継ぎで関空に来た人もいたと思います。関空で働く人たちも合わせて8,000人もの人が孤立する大惨事となりました。アジアから来た観光客が、「ノー・バッテリー、ノー・ワイファイ」と言って、連絡もつかない孤立状態を嘆いていました。

食糧確保のために空港内のコンビニには長蛇の列ができ、車も電車も連絡橋を通るので、脱出は不可。風は収まり、雨が止んでも、暗く、どんよりした空港で、一夜を明かす人たちの気持ちが、ぎゅーっと胸を締め付けました。

さらに、時間が経過するごとに、京都からの映像も入ってきました。看板が飛び、屋根がはがれ、そして京都駅のガラスの壁面が落下しました。私の実家も相当な被害を受け、もう何から手をつければいいか、という状態だったそうです。

四国に上陸し、瀬戸内海に一度抜けて、再上陸した台風は、北陸から北海道にむけて列島縦断。青森では、リンゴの木の枝に、風に負けじと支え木がなされ、強風にゆられ暴れるフジが、しがみついていました。その風が北海道へ。

夜になって、風と雨による被害を北海道にもたらし、ようやく抜けた。と、思った矢先の、真夜中の大地震。9月6日の午前3時8分、胆振地方中東部を震源に、最大震度7の大地震が襲いました。

発電所が壊滅的被害を受け、ブラックアウトという連鎖で大停電に襲われた北海道。札幌や函館など、都市部も真っ暗闇になった様子が伝わってきました。

震度7という揺れは、2年前の熊本地震以来。余震に恐れ、いや本震がまだ来るのではないかと疑心暗鬼になり、さらに停電で真っ暗。台風の上の大地震という災難に、言葉を失いました。ろうそくに懐中電灯、そして何よりバッテリーを求めて、人々が右往左往していると報道されていました。

唖然としたのは、厚真町の土砂崩れの映像です。山という山が、まるで元々そういう絶景であるかのように崩れ、その真下に「生活」があったと聞くと、背筋が凍る思いでした。安否不明者がまだいる状況ですので、捜索に当たられる方のご苦労を感じつつ、とにかく無事を祈るばかりです。

5年間もつ防災用の飲み水、そして非常食、さらには、やっぱりライフラインとしてスマホ用モバイルバッテリー(大容量)は必須と、私は取り急ぎ揃えようとAmazonにアクセスすると、入荷待ち状態が多かったです。

防災訓練をして、危機感を思い出そう。いろんなことに備えよう、とした防災週間が、本番の災害に、こんなにも圧倒的な脅威に、私たちは、備える気持ちを、そのための出費を、惜しんでいる場合じゃないと思い知らされました。

災害に備える、という防災月間の9月に、私は定期健診を受けることにしています。それはたまたま9月に始めの検診を受けたので、以来、ずっと9月に受けています。一年に一回。自分の体を見つめる。そして備える。それをした「だけ」で安心、となってはいけないと、今は思います。

病気も災害も、急に襲ってきます。それをゼロにするのは不可です。無傷でいるのも不可です。であれば、せめて、それに備えて、生き抜くためのモノとコトをしなければならない。先週あった二つの大災害からそれを強く思いました。

被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。



■2018年9月1日
『手のひらに宇宙はないはずだ、と』

重松清著「かあちゃん」を、帰りの電車で、つり革をもって立って、スマホ(電子図書)で読んでると、もう堪えられず泣いてしまったりして、と、前で座っている人が、私を見上げてきます。え?という顔で、しかめてきます。

文庫本を持って泣いている人なら、「本」で泣いていることが分かりますが、スマホの場合、「何」で泣いているか定まらないので、不気味に(というか気持ち悪く)うつるんでしょうね。見上げてきたその女性(おばさんでした)は、ものすごく、はっきりとした顔で、明確に、不気味がってました。

まぁ、分からなくもないですよね。なにせ〈手のひらに宇宙〉とまで言われるスマホです。動画からゲーム、ニュースに漫画と、中身は無限です。その中の何かを見て泣いているんですから、理由を想像してしまいますよね。

面白いのは、その想像の中で、最も不気味で「こんなので泣いてたら嫌だな」と思うことが、一旦、そう仮定してしまうと、もう、「そう」としか見えないことです。

なので、あのおばさんは私をどう思ってたのか。それを想像するのは止めておきます。一旦、そう仮定してしまうと、完全にそうなってしまうので。

それにしても、重松作品は泣けます。もう泣くためのツボをしっかりと抑えていて、まるで「解」を求めるまでの過程が美しい数式のような、しっかりと、完璧に泣けます。

読む側としても、泣きたい、と思って重松作品を読んでいるので、しっかりと泣かせてくれるなら、少々ストーリーが強引でも、原稿枚数に制限があった?と思わせるほど最後を巻きまくっても、いいんです。ある種、村上春樹や吉田修一の作品を読むのと似ているんでしょうね。

「流星ワゴン」や「とんび」、「その日のまえに」など、とにかく泣いて、泣いての重松作品ですが、最近、歳をとって涙腺が緩んでいる私は、結構、なんでも泣いてしまいます。

ドラマ「チア☆ダン」でも泣いたし、「グッドドクター」はもちろん号泣。ふと気付いたら「ヒモメン」でも泣いてましたから、これはもう重松作品にすがらなくても良いかもしれませんよね。

ちなみに、「チア☆ダン」の福井弁に、最初は相当違和感があって慣れなかったのに、今や普通になっているし、朝ドラの「半分、青い」も先週、今週は岐阜弁漬けでした。

沖縄、博多弁、関西弁に東北弁など、これまで有名な訛りに加えて、福井や岐阜の言葉がつい出てきてしまいそうになるので、テレビの力ってすごいです。

テレビの力と書くと、リビングルームでテレビ、みたいなイメージですが、今や、ドラマもバラエティもティーバで見てます。NHKの番組がティーバに入ってくるらしいので、そうなるともっと見てしまいますよね。

だいたい今日日、テレビにYouTubeもティーバも入ってるので、まぁ、「視聴率」なんて指標になりませんよね。

さて、今日は一日、家でのんびりしました。

ゆっくり起きて、ゆったり息子と話して。雨が降り出すという予報だったので、その前に家の前の公園に行きました。

今年の夏は、公園にもなかなか行けませんでしたね。とにかく酷暑で、熱中症が心配だったのと、外出は控えろという警告がなんだかひっかったりして。そんな暑さも9月に入ってだいぶ緩んできて、まぁ、公園にも行きやすくなったのです。

が、蚊が。特にヤブ蚊が元気になってくる気温というか、暑すぎて活動?できなかった蚊たちも、やっと元気になってきたのか。

サッカーをして、ちょっと休憩して突っ立て居ると、蜘蛛の巣でも触れたかな、ぐらいの感触があって、ふとふくらはぎをみると3匹も、ヤブ蚊が止まってました。

慌てて振り払っても、時、すでに遅し。数分後にぷく〜っと赤く膨れあがり、かゆい、かゆい、かゆいとなりました。油断してました。虫除け、塗らずに短パンで。

欧州では、長年導入してきたサマータイムを廃止しようという動きです。どこか安定して季節が流れ、安定して自然がサイクルしていた頃には、その自然に合わせて過ごしやすいように人為的に時刻を調整すれば良かった。

のですが、自然のサイクルがこれだけ安定せずに、不安定にずれたり、はやまったりする昨今の地球上では、人為的に小細工しても無駄、と言うことなのかな、とぼんやり思ってしまいます。

スマホの中に情報を埋め込んで、それさえあればランチタイムにぶらぶら街を歩いていても蕎麦も食べられるし、コーヒーも飲めます。そんな便利な社会では、いろんなものが自動化されています。

ただ単なる自動化ではなく、その「動き」に「考え」が加わってきています。今まで「人間がしていた」ことを人以外がやる。航空会社のJALでは、これまで料金設定を人の長年の勘で付けていましたが、これを過去のデータを元に人工知能がつけていると言います。

それが、大当たりで空席率が下がったなんて話を聞くと、公園でサッカーをしてヤブ蚊に刺されることって、ヤブ蚊の動きをデータ化して避けるようになるのかな、とまで思います。

そもそも、父親と息子は、公園でサッカーをするのかな、なんてことを想像すると、「そればかりは死守したいな」という変な力が働いてしまうような・・・。

今、スマホに間違い電話が入りました。「もしも〜し、おひさしぶりでございます」という品の良さそうなおばさまお声。・・・え?間違いでは?と私の名前を告げると、丁寧に謝罪の後、電話が切れました。

上手く言えませんが、それは、なんかすごく、良いな、というか、そういうもんだよな、というか。コレばかりは、そう、まぁ、あり続けて欲しい「コミュニケーション」だな、なんて思います。オカシイですね。

明日は夜に、味の素スタジアムでFC東京vs鳥栖の試合を見に行きます。トーレスのゴールはあるのか、青赤の意地の勝利を見られるのか。明後日から学校が始まる息子も、まぁ、おそらく明日は夜更かしになりそうです。

リヴァプールよろしく、東京でも、スタジアム全体でYou'll Never Walk Aloneを大合唱し、ひとりじゃないこと、を実感してこようかな、と思います。

手のひらなんかに宇宙があるわけではなく、この宇宙には、これだけたくさんのヒトとモノがあって、ライブで実感できることが多いのだ、と。



■2018年8月26日
『命より大事なモノはない』

スイム、バイクと61.5qをこなして、100qのマラソンに挑戦したみやぞんさんが、武道館にゴールして、「負けないで」「サライ」を合唱した夏の終わり。いやぁ、このゴールで夏休みの終わりを感じる「サザエさん症候群」の小中学生も多いんじゃないかと思いますね。

それにしても、今日は暑かったです。朝10時の時点で、ベランダに観葉植物を出しただけで、やばい暑さ。モワッと感が、生命の危険を感じさせる独特の気候でした。

東京では40度に迫るんじゃないかとも言われ、台風の風でなんとなく暑気がさらわれていたところ、どよ〜んと落ちてきた感じでした。今年の残暑も「半端ない」らしいです。

先週の台風、凄かったですね。東京では風が強かった、という印象ですが、関西方面では雨も凄かったです。

先週の木曜日。午後には四国に上陸して、夜には近畿地方を直撃する。そんな台風20号の予想進路を見ながら、私たち家族は台風に向かうように京都へ帰省しました。

今回の帰省は、マイルがたまったので飛行機で伊丹へ。羽田を午前中に飛び立つ便だったので、欠航はないだろうとは思ってましたが、伊丹空港の風の具合次第で、他の空港に降り立つ、なんてことになったら嫌だな、と思いつつ搭乗。

1時間のあっという間のフライトで、すぐに伊丹に着き、横風に煽られて少しぐらぐらとしたランディングでしたが、無事に着陸しました。風の強いときは、わざと機体をドスンと下に下ろします。これは綺麗な斜度でランディングすると、滑るようにして流れてしまい、ブレーキが効きにくいから、すこし上からピンポン球をストンと落とす要領で機体をたたきつけるそうです。

それを知っていてもなお、けっこうな衝撃を伴っての着陸でした。まず、伊丹空港が綺麗になっていてびっくりしました。おみやげ売り場やレストランの入ったエリアは、最近リノベーションをしたとかで。期間限定で「白い恋人」が売られていたので、思わず買っちゃいそうになりましたが、神戸プリンを試食してガマンしました。

伊丹空港から大阪モノレールで万博公園へ。そう、今回の帰省は、4ヶ月前から開始される太陽の塔の内部公開の予約が取れた日に合わせてのものでした。

48年前の万博から、長らく閉ざされていた太陽の塔の中。真っ赤な世界だとか、「もうひとつの顔がある」とか、まぁ、青山の岡本太郎記念館で知り囓ったものはあったとはいえ、蘇ったその世界感には、是が非でも触れておきたい。

そんな風にして4ヶ月も前から楽しみにしていたその日が、ちょうど台風直撃なんて。前日から、23日木曜日に予約された方へ、メールが来て、閉館するおそれがあるのでサイトをチェックするようにと言われました。

茨木市、高槻市に暴風警報が出たら、閉館します、と。予約は14時半から。これは凄く微妙なタイミングでした。

大阪モノレールも、乗り込んだら「途中で止まる可能性がありまっせ」というニュアンスのアナウンスが流れ、びくびくしながら万博公園で下車。確かに、風は強いですが、晴れていました。そして、太陽の塔は、ピカピカと輝いていました。

日本一の観覧車、オオサカホイールはすでに強風のため運行を中止しており、体感型水族館のニフレルも午後4時に閉館を繰り上げると、午後いちの段間で決定済み。小中学生に人気で行列を作っていたVS PARKも入場打ち切りという状態でした。

ららぽーとに入って、ぶらぶらと予約時間まで暇をつぶし、三十分前に万博公園へ。太陽の塔。これは何回見ても、本当にすごいシンボルです。圧倒的な建物です。すごく、アートです。

これだけネットが発達して、バーチャルにリアルが見られてたら、旅行なんて行かなくても十分満足じゃん。なんて、とんちんかんなこと、この太陽の塔を目の前にして、芝生と青空が織りなす太陽の塔とのハーモニーを見ると、言ってられなくなります(と個人的には思います)。

万博公園自体も閉館の準備?のような状態で、近くの売店は店じまい。一応、ちょっと早いけど、太陽の塔に行ってみると、なんと予約時間に関係なくご案内している、と。え?ラッキー。じゃ、入っちゃおう、ということで中へ。

内部は写真撮影が禁止な分、その世界感にどっぷり浸かれて満足でした。

地底の顔が現代の姿で再現され、LEDの電飾は当時よりも断然に世界感をクリアにしているそうです。見上げて、見下ろして、はあ、なんと最高な世界でしょう。これは、もう、何と言って良いか。こんなところ、ガウディでも、バスキアでもできっこないんじゃないかと思うぐらい「(芸術が)爆発」してました。(太陽の塔内部公開の詳細は当ホームページの「Report」をご覧ください)

太陽の塔を後にして、パラパラと天気雨も降ったりして。風は相変わらず強いので、急いでモノレールへ。

南茨木まで行き、そこから阪急の京都線で帰省しました。京都まで、なんだかんだ結果的には、晴れてたし、風があって暑過ぎもなく、太陽の塔の内部はしっかり見られたし、良かったです。

この日、関西地方では、早くから電車の最終時刻の繰上が発表されました。デパートやお店は閉店時間を繰り上げて、とにかく、速やかに、早めの帰宅を促しました。

公共交通機関がそう決めてくれると、企業で働く人も判断がしやすいのか、夕方を前に帰宅の列が出来、台風が本格的にやってきた夜(普段の終電間近)には、ほとんどの人が帰宅しているという状態でした。

夜、雨は横殴りで、風は強く、被害も相当でたようです。被災された方には、一日も早い復旧を心よりお祈り致します。

思い起こせば七年前の東日本大震災。東京では、早々とJRが終日運休を決め、駅構内から人を閉め出しました。そのことで帰宅を急ぐ大量の人が溢れ、帰宅難民が出ました。

それを教訓に、帰宅するなら「早めに」、帰宅が困難なら帰宅はしないように。そんな災害への心得が、周知されるようになりました。

色んな災害が想定外で起こります。それらを不幸にも何度も経験させられる日本で、特に都市部で、人の流れ、避難経路、避難順序、避難するというタイミングと方法、みたいなものが、その不幸の繰り返しからブラッシュアップされているようにも思います。

教訓を活かす。そして、命より大事なモノはない。その命を守る行動に、躊躇や、「大丈夫だろう」という過信や慢心を持たない。そんな、行動が、今回の台風20号、近畿地方直撃にはあったように思います。

かなりの確立でやって来る東京への大地震。いつ何時起こるか分からない水害、暴風被害。それらに、対処するには、命より大事なモノはない、という「早めの避難(行動)」なんだと思い知らされました。

例えば、今回の私たちの帰省が、午後の便なら、たぶん、かなりの確立で予定を変更し、帰省しないという方法もとったと思います。

孫である息子は、母である祖母に甘えていました。そして、楽しんでいました。そんな時間を、いつまでも続けるためには、一度の帰省を止めるという判断も大事だと、今回はたまたまうまくいった帰省から帰京した今、思う次第です。



■2018年8月19日
『ゆったりした朝』

毎年、毎年、平年並みの気象状況が通用しない中で、平年っていつのこと?と思います。豪雨に洪水なんかの災害に対しては、これまでの常識を捨てて対処するように、とまで言われています。

遠くで汽笛がなるような、注意報・警報を聞いているようで、ほんと、この状態が恐ろしくもあります。先日、豪雨の中で雷が光り、ごろごろと轟く中、消防車がサイレンを鳴らして走り回ってました。それを、部屋で、私は背中なんかを掻きながら、聞いていました。

現実の危機が「そこ」にない(かのような感覚)で、ただスマホの中の、高速に交錯する雑多な情報に、右往左往しています。ぶつかって怪我をしそうですが、それにも慣れてしまって、渋谷のスクランブル交差点よろしく、うまく、かわしながら生活しています。

アメリカのトランプに中近東、ヨーロッパ格差にトルコリラ暴落。自民党総裁選の動きも、高校野球の結果も、アジア大会に向けた注目選手も、新しいアプリも。山手線が自動運転化するかも?という未来の情報まで絡んでくるので、ほんとにうまく状況がつかめなくなります。

昔、晴れた午後にベンチで座り、目を閉じて現実を見る、というような詩を書いたことを思い出します。とても晴れていることさえ、目を開けていると「まじりっけ」のあるものに見えてしまうから、目を閉じて「見よう」と表現したのですが、実は、ベンチに座る、という「静止」こそ、今の時代には最も重要なのかもしれないな、と思えなくもないです。

向こう3年の中長期的な視野。現状を打開すべき対策のあれこれ。あれもしたいし、これもしたい。だから、まず、どれからしようか(という、ある種のポジティブな側面)より、あれも、これも「しなければいけない」という、追われたような感覚の中で、物事は好転するのかな?と不思議です。

夏も終わって秋になる。そうやって公転する時間の流れは絶対なのに、それに追いつけ・追い越せで、どんどん追いつめているように思います。

そんな時には、深呼吸。それが大事、ということを言い聞かせているのに、わちゃわちゃしてるな〜、と自嘲する日々です。

先日、ガラガラの通勤電車の中。お盆の最中の東京を移動していると、「あれ?わちゃわちゃしているの、おれだけなの、か」と気づかされたりもします。

十分な休息と水分補給。気合いと根性ではなくて、科学的に効率よく。流れは、どちらかというと、そちらにあるんですよね。

ゆっくり「本」を開いて、いつもよりたった1時間、家を出る時間を遅らせるだけで、心に余裕ができます。普段通りに起きて、普段よりも数ページ多く本を読み、数分長く新聞に目を通すだけです。たったそれだけで、ゆったりした朝にたゆたえます。

そんな朝から始まった一日は、視野が広がるというか、クリアになるというか、〈あ、そっか的〉なひらめきがあるというか。ものすごく難しく考えていたことが、意外にシンプルで簡単だったりします。

さて、8月も半分が過ぎて、もう9月が見えてきてます。京都では五山の送り火が終わって、月末には都内でいくつもの納涼的なイベントの最終ステージです。夏のお祭りでとった金魚も死んでしまって、夜にはエアコンをつけなくても、まぁなんとかやりきれるほどの気温になりました。

去年の今頃は、家族でダナン・ホイアンへ行く準備に勤しんでいたのですが、あれから1年。それが速いな、と感じないのは何でしょうね。どこかで「まだ、1年しかたってないのか」と思ったりもします。

こどもの日々の成長、毎週のように出かける日々、笑って泣いて、怒って過ごす日々が、物理的な時間経過を知らせてくれるから、24時間を365個積みかさねる重みになっているんでしょうね。

スカスカでペラペラだと速い、とまでは言いませんが、そういった側面もあるのかな、と思います。1年、2年前の出来事が、もっと以前のことに思える。それは、私という軸で認識するのと、こどもの軸で経過している時間の不一致のせいかもしれません。

生まれてから7年も経っていない人生の中に詰め込んできた息子の日々。一つひとつを着実に忘れているようで、親としては残念でもあるのですが、まぁ、それはそんなものなんでしょうね。「ほら、あれ、覚えてる?行ったでしょ?」と聞いても、「う〜ん、なんとなくね」なんて応えられて。

私自身のことを思い返すと、小学1年生の出来事は、ほぼ記憶にありません。トピックス的な、というか、具体的なことは何も思えてないような気もします。いくつかは、後追いで「聞いた」ことが上塗りされて、記憶の片隅にへばりついてはいますが。

ただ、全体的な時間(日々のイメージ)は、確実に覚えています。覚えているというより、それがベースになっているように思います。休日になれば、どうしていたとか、夜はこんなかんじだった、とか。笑っていた、こういうことをしたら怒られた、などなど。

そんな日々の全体イメージって、こどもには本当に重要ですよね。それをもって教育と呼んでもいいほど、大切です。

息子の中で、この私たちの日々が、いったい何色で、どんな全体イメージなのか、10数年後に聞いてみたい気がします。それを聞いた自分を想像して、そこで後悔のないようにしたい。そう強く思っています。

ゆったりした朝には、そういうことも、考えたりするわけです。やっぱり、大事ですよね。それを大事にしていたら、「朝はゆったりしていた」という印象になって、それが息子の中に定着したりして。

そうなったら、きっと後悔しないだろうな、と思います。今朝も、休日だから、というのもありますが、とてもわが家は、ゆったりです。



■2018年8月13日
『腐らない、という勝利』

左投手が、大きなフォームから、相手バッターの胸元へ、ビュンとストレートを投げ込む。いやぁ、見ていて気持のいい投球というのが多いです。連日の猛暑。アルプスからの応援を受けて、泥だらけのユニフォームで走り回る高校球児たちは、やはり日本の夏の風物詩。爽快です。

勝った、負けただけに固執しがちなところ、スポーツマンシップに則って、本気の夏、ですか。楽しいです。が、ふと、あれ?と思うほどに、甲子園までやってくる球児たちは足腰がどっしりしています。

腕も太く、なんだか、高校生の部活動の枠を越えた、プロの選手並みの打球を飛ばしたりもします。

18歳で成人の時代が来ると、テレビに映っている球児たちの中にも「成人」がいるということになります。であれば、それはひとつの完成型。150キロを越える速球、センターバックスクリーンの一番深いところへ放り込むホームラン。

昼間に高校野球を見て、夜にナイター中継でプロ野球を見る。必死さ、汗、声なんかはもちろん高校野球とプロでは違いますが、1つ1つの急速や打球の速さ、内野のさばき方、外野の肩は、いやはやお金が取れるレベルですね。

年々、甲子園で勝つためにやること。それが、先輩世代から受け継がれて、ここでもっとやらないと勝てない、特に冬場の走り込み、バットの振り込み。その数と質が、先代の反省をもとに、もっと、もっととなっていった成果でしょうね。

夏の高校野球も100回です。戦争で中断があったので、100年以上、やっている訳です。その長い歴史の上に築きあげられたプレーの質には、単純に高校生の青春、清々しく礼儀正しい姿「だけではない」感嘆を覚えます。

「腐らない」。この強さを本当に学びます。

怪我や失敗から学び、そこから這い上がる強さ。怪我でも失敗でもないですが、幼い頃から順当すぎるぐらい注目された男子バトミントンの桃田賢斗。若干23歳でこれだけの「強さ」を手にしたことは、これからの彼の人生にとって大きな事だと思います。

十代後半、彼は男子バトミントンというマイナーなスポーツを、「あこがれの対象」とするために、派手になりました。格好いい、というのが、お金を稼ぎ、ブランドモノを身につけて、夜の街で遊び回る。

昔、フェラーリで六本木、アルマーニのスーツ、なんて、キングカズのような時代の錯覚か?と、思ってました。調子に乗る、という誰もが陥る落とし穴にまんまんとはまってしまい、違法賭博、夜の店での遊び。写真に撮られて、オモシロ可笑しく露出して、ついには出場停止になりました。

リオ五輪、メダルの有力候補。世界ランキング2位まで上り詰めた少年の大きな挫折でした。

それまで、自分との闘いを強いられ、常に自分とだけ向き合った練習。そこには、ある程度の自分・中心、という環境が整っていたことでしょう。が、練習が出来ない。人の練習をヘルプする側。シャトルを拾う、道具を運ぶ。そんな日々。

元、世界ランキング2位、それも二十代になったばかりの若さ。意固地なプライド、周りの目。気にし始めれば数々の「ポイント」があったと思います。腐るための、ポイントが。

さらに、桃田選手は走るのが嫌い。だから、走り込み不足で体力に課題があり、技とセンスで速く勝負をきめるし合い運びでした。あと一歩で勝てない。そんなことを思い出し・・・

よく、考えれば、やっぱりバトミントンが好き
よく、考えれば、こんなに応援してくれる人がいる
よく、考えれば、勝つために必要なことは
いま、出来ることは、走り込むこと。

腐りかけるポイントで、彼が導き出したのは今できること、それが苦手で嫌な走り込みだったと言います。謹慎中に徹底的に走り込んで、体力を付けた桃田選手。そして、バトミントンができることへの感謝。

謹慎が解け、全日本を獲り、世界に挑戦した今回。桃田選手は、見事、日本男子シングルス初となる世界チャンピオンに輝きました。

じっくり責める。そして、感謝しながらプレーする。相手と自分をしっかり見て、勝つためのポイントを見誤らない。圧倒的とも言える強さを手にした桃田選手の、なんというか振る舞いには、派手さが消えた分、より魅力的に映って見えます。

それにしても、競泳で日本が一気に強くなったり、卓球やテニスがそうであったり。バトミントンは、今や、世界の中での強豪国にのし上がりました。強い人が近くにいるから刺激されて、また強くなっていく。そんな正のサイクルに入ってきた気がします。

二年後の東京五輪。楽しみな競技がまた増えました。日々の中で腐らない。その1つひとつの小さな勝利の積み重ねが、気付いてみたら圧倒的なパワーになる。よく食べて、よく寝ろ。最後まで諦めるな。そんな精神論が最後にはモノを言った昭和のように、

これだけ情報分析が進んで、科学的な練習で効果を上げていくスポーツ界でも、やっぱり、土台にあるのは腐らないこと。色んな局面で、それ(腐ること)に勝利すること。それが大事なんだな、と思います。

連日猛暑です。そして、局地的に豪雨です。気象は異常で、これまでの経験を上回る脅威が起こります。そんなことに腐りかけます。自分の敷いたロードマップが狂いまくり、だからだと言い聞かせたくもなります。

勝った(成功した)事例ばかりを見て、そこにいる(ある)敗者(失敗)に目が行きにくい世の中です。たった一握りの人(モノ)に憧れ、そこに行けないから諦める。日々の生活では、そんな腐り方が多いかもしれません。

ただ、勝った(成功した)人やモノは、1戦1勝ではないということ。何度もやって、何度も負けているということ。その負けの段階で、「勝ってきた」ということ。

そのことに思いを向ければ、目の前の毎日が違って見えたりもするし、こんど、は(こそは)、勝つためにどうするか、を。それが、やっぱり大事なんでしょうね。



■2018年8月4日
『ピコピコやってる』

新しいモノの中に古いモノがあるのか、古いモノの中に新しいモノがあるのか。レトロモダン、モダンレトロ、伝統の中の最先端。何となく、生み出そう(創ろう)としたとき、土台に伝統とか文化とか、そういう土壌があって、そこに「未知」を上乗せすることで納得できる(ごくりと呑み込める)というような感があります。

土台から、未知(見たこともない)のものは、まったく訳が分からなくて遠ざけてしまうというか、蓋をするというか。「そういう歳なんだよ」と言われると言い返せませんが、あえて言うなら、それは歳の問題ではないようにも思います。

昔、両親が「なんか、ようわからんけど、コンピューターでピコピコやってる」と言ってました。

中学卒業を記念をして買ってもらったワープロで、私は、いろんなものを作って、書いて、綴じたりなんかして、それで棚に並べたりしていると、ピコピコ発言があったりするわけです。

ワープロがマッキントッシュになり、ポケベルがピッチに変わっていった2000年跨ぎ。振り返ってみると、21世紀は、やっぱりドラえもんが描き出す未来だったんだな、と思います。

そのままピッチから携帯電話、スマホへとつながり、パソコンがタブレットになり、これからインターフェイス・レス、空間さえあれば、画面が浮かぶ時代が来そうです。

そんな時、土台に「ワープロ」や「ポケベル」があったから、パソコンやスマホに移れたとするなら、「タブレット」や「スマホ」の土台を踏まないと未来は厳しい。

今、私の全く知らないツール、コミュニケーションがあったとして(確実にあるでしょう)、それを土台にして創りだされるモノたちに、きっと蓋をしてしまうような気がして、怖くもあります。

嗚呼、息子がこの先、きっと二十年とかそういう近未来に、ピコピコしてるのを見て、遠ざけてしまうのかな。「そこに、伝統的なものがないから、そんなの偽物だ」なんて、まさか、私が一番言われて嫌だったことを、言ってしまうんじゃないか。はあ、そうはなりたくないと思いつつ・・・

2020年の東京オリンピック、パラリンピックの開閉会式演出の統括に野村萬斎さんが決まりました。

「シンプルかつ和の精神で」。とてもいい抱負です。が、正直、演じる人であって、創りだす人なのかな?とも思ってしまいますが、和とか伝統とか、そういうのを前面に出さず、とにかく世界を圧倒してほしいです。

シンプルに、研ぎ澄まして、そして(ここが重要なんですが)ベタに派手に分かりやすい一面も大切にしながら。

思えば、リオ五輪の閉会式。椎名林檎さんの創りだした「君が代」の音と世界観、そしてロボットたちの演舞、そこにスーパーマリオで首相が登場するという、あの尺(時間)で出来る最高の演出だったように思います。

だからといって、本番でマリオやピカチューでいく、という訳にはいかないでしょうけど、伝統だの相撲だの、なんとなく「入れなければならない要素」を決めつけないで欲しいな、と思います。(まぁ、いろいろ言う人たちが多いんでしょうけどね、想像するに)

世界中が注目する数時間。オリンピックの開会式って、今のこの時代では本当に特殊ですよね。

莫大な資金をつぎ込んで創りだす時間。それを共有する人たちが、目にするコマーシャル。それを期待して戦略を立てる企業。お金=商業。膨れ上がった資本主義は、選手たちの入場行進にもユニフォームという形で熾烈に入り込んできてます。

アメリカの選手団がマクドナルドの旗を「国旗」として持っている夢をみたことがあります。日本選手団はトヨタのロゴで、ソニーはどうした、任天堂じゃないのか、なんて、友達と言い合いをしているときに、目が覚めました。

これって、本当に、鼻で笑えるほどの夢話なのかな?と思うのが、競技スケジュールをアメリカ時間に合わせるという処置を聞いた時です。日本時間では早朝でも、アメリカ時間でまだ耐えうる時間なら、その時間から始めたりすることは、スポーツの祭典の枠を超えていますよね。

世界五大陸を意味する五色の丸い輪。それを繋いで出来上がった五輪マークが、スポーツ以上のショーになっているのは、今に始まったわけではありません。莫大な資金と負のレガシーを気にして、五輪誘致にも中国しか手を上げない、という事態も懸念されています。

ここは、シンプルに、研ぎ澄まして、本質的に。オリンピック、パラリンピックを運営してもらいたいな、と思いつつ。どっかで、誰かが、ピコピコやってる、という状態に陥らないように。みんなで作り上げる東京五輪を、あと2年、成功に向かってしっかり注目したいと思います。

東京世代、ピークを迎えるのは「ゆとり世代の終わり」から「さとり世代」です。ロストジェネレーションの私からは、失ったものを取り返したいと願う時代です。

いろんな人の意見を聞きながら、がんじがらめにもなりながら、それでも「名前」を前面に出して引き受けた野村萬斎さんの気概に拍手を送るとともに、期待を満々に向けていきたいと思います。

嗚呼、楽しみです。

クーベルタンが近代五輪を、その精神を提唱し、なのに、「オリンピックで金メダルを取らせてやったのわしや」というような発言をするボクシング協会の会長。なんでしょう、井の中の蛙的な「悪しき慣習」「古き人」がいることは確かで、それが露呈したとき、申し訳ないほど笑えます。

楽しみにすると同時に、しっかり「見て(見張って・見守って)」いきたいとも思います。改めて、クーベルタンが提唱したオリンピズム(オリンピックのあるべき姿)。

「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」



■2018年7月28日
『皮をむいたら、中身はこれだけだった』

非常に激し雨が、ベランダに入り込んでます。台風の影響で、雨が暴れてます。息子と近所のコンビニまで歩いていって、帰ってきてすぐにザーザー降りになりました。セ〜フ、でした。

本当なら今頃。私たちは、新宿の伊勢丹前とビックロ前でエイサーを見て(新宿エイサー祭り)、その足で神宮球場へ移動し、高校野球の西東京大会決勝、日大三vs日大鶴ヶ丘の日大対決を見ているはずでした。

が、高校野球は月曜に順延、エイサー祭りは決行しましたが、中断や中止の可能性があり、何より、目当てのチームが出場辞退ということで、、、

午前中は、ゆったりと、のんびりと、ただただダラダラと、休日を満喫しました。どこへも出かけず、家族で団らんというのも、本当に、いいものです。

高嶺の花、グッド・ドクター、チア☆ダンと、たまったドラマを見て、アメトーークで乾のトークに笑って。そんなテレビ三昧の午前中にふと、王様のブランチって、MCが変わってから、ほとんど見ていないことに気付いて、ちょっとチャンネルを合わせて相方がバーターで出てる!なんて思って変えたりしながら。

一週間の視聴率ランキングで、大相撲名古屋場所がずら〜とトップ20に並んで、朝ドラにNHKニュース7が上位に居座るニッポンのテレビ。もう、おじいちゃん、おばあちゃんしか見てませんよね。若者は、テレビを見ない。これって、本当なんですね。

昔、新聞や本を読みなさいと言われて、テレビはあまり見てはいけない、というような風潮がありました。どこかで、新聞や本はえらい、マンガやテレビは体に悪い、みたいなイメージがありました。

それが、新聞も本もテレビもマンガも読まないし見ない今となっては、何がよくて、何がわるいんでしょうね。個々の持つデバイス毎に、コンテンツを選んでそれに没頭する。そういう「専用」と「共有」の中で、バランスを取ることが「よく」て、取れないことが「わるい」ということになるんですかね。

さて、昨日。久しぶりに帰国した同期と、新宿の「おねぎや」でネギ三昧を堪能しながら飲んでいました。一緒に飲むはずだったもう一人が通風で来られなくなり、さしで、二時間、ああだこうだと楽しかったのですが。

大学を卒業して最初に入った会社の同期。だから、いつまで経っても、会社や生き方が変わっても、同期という間柄で。その一人が通風。なんだか、歳を感じました。

通風は、四十肩や老眼のように、歳に関連する病気ではないんでしょうけど、なんとなく「歳」を感じます。私も今年で42歳。うわ、やはり数字で書くとすごいですね。これが自分の歳か、と何だか嫌になります。

昔、まだモバイルSuicaがここまで浸透もせず、定期券はカードで持っていたのですが、そこに書かれる自分の氏名と年齢。「30歳」と出た時は、もう、あかん、歳いきすぎた、なんて思ったものです。

今から考えると30歳なんてまだまだこれからで、若いもんなんですが、当時は相当に「終わり」が見えたような気がしていました。それを言うなら26歳の時、22歳の時にも、それ相応の「歳とったな」感はあったように思います。

今、「ここ」から見ると、どれもこれもまだまだで、似たようなもんですが。つまりは、もっと先にいる人からは42歳なんてまだまだなんでしょうね。

スポーツ選手など体力が目に見えて差(劣化)がでるものでもなければ、そうそう自分の歳に悲観することはないのに、なぜか、当然のようにため息が出ますよね。

疲れやすい、胸焼け、肩こり、腰に脚に爆弾を抱えるような劣化。ずっと座っているのも、それはそれで辛いもんです。

テレワーク。東京では特に、通勤が過酷です。少し涼しくなる前、本当に最高気温が40度近い時は、朝から暑く、人が半端じゃないぐらいにいるので、ちょうどエアコンの効いてないコンコースで行列に巻き込まれると、吹き出る、吹き出る、汗。

そして乗り込んだ電車の中では、汗だくのおじさんの腹と腹の間で、もう信じられないくらい不快。それだけではなく、息苦しくなったり。本当、無事に毎日通勤するだけで奇跡だな、とさえ思います。

大阪で働いていた頃。御堂筋線という地下鉄が混雑するんですが、もう、山手線と比べたらましな方でした。どんどん、乗せちゃうんですよね、東京の人は。大阪の人は限界値を越えそうになると、ドア際の人が吐き出すんですよ、「それ以上乗ろうとする人」を。

どっちがいいかと言われれば、大阪です。もう無理なんだから、どんどん乗り込まないで次を待とうよ、みたいな。なんですかね、二、三分置きにくるのに、乗り込みたいんですね。

まぁ、ある程度のバッファをもって、冷静に考えれば、一本待つことに何の支障も無いはずなんですけどね。

そんな感じで通勤する毎日。を、止めてしまう。簡単に言えばそれがテレワークです。自分の家でこなす仕事。そして会議はテレビ会議、共有ファイルへのアクセス権を持たせて仕事を処理する。

会社に行って、席に座って、こなす仕事が、全部パソコン、全部共有サーバー。唯一、話すのは会議。それも話を聞くだけ。という仕事を家でこなす。と、行き帰りのストレスと時間を使って、何か違うことに頭と心が行き、はぁはぁ行ってたどり着いて、ファイルを開いて始めるより、効率的に仕事が出来たり。

もちろん、物理的に子育てや介護という問題も解決出来ますよね。フレックスタイムやテレワークなど、なんだか「どこかの誰かのためのもの」という感じの物事が、自分の会社にもやって来ると、やってみよう、と思うのかな?

実際に、身近でテレワークをしている人を見てるだけに、これは、自分の時間の余った時間で仕事をしているのではなくて、これまで凝り固まって「こうするべき」と思っていた時間の使い方を変えただけ、という気がします。

上手く言えませんが、皮をむいたら、中身はこれだけしかなかった、みたいな感じというのでしょうか。

もう(いや、まだ)42歳。同じ働きを、やり方を変えてやってみる。周りではこれまでの経験値では立ちゆかなくなっていることが多いです。そんな中で、コレまで通りに固執する必要のないし、そうしていてはいけないような気もする訳です。

今、台風は、これまで見たこともないような、ほぼ90度に曲がって、日本列島にやって来てます。



■2018年7月22日
『ミライトワ』

連日酷暑が続く日本列島。37℃や38℃が続いて、もう、なんというかモワモワとぼんやりしちゃいますよね。朝9時や9時半の時点で、Yahooの防災警報アプリから「熱中症の危険のため原則外出禁止」というのが来る日々です。

蝉も心なしか「勘弁してくれ〜」と言わんばかりのミンミンやジージーの鳴き声。ほんと、どうなってるんですかね。2007年、13年に続く18年の酷暑。この間隔で、異常な暑さに雷雨、豪雨、洪水が続くと、対策することが多そうですね。

カジノより被災者へお金を。そんな垂れ幕を掲げる野党議員も、パフォーマンスより着実に届けられる方法、第一プライオリティが何かということを冷静にかつ熱意をもってやってもらいたいです。

二年後に迫った東京オリンピック。マラソンのスタート時間は午前7時、競歩に至っては午前6時から開始するというスケジュールになるそうです。私が子供の頃、夏休みには近くの公園に「ラジオ体操」に行っていたのは、あれ、何時だったんですかね。朝7時頃だったんでしょうか。

班長だった私は、ラジカセを持って行き、前で体操し、終わったらみんなのカードに参加のはんこを押して。そんな一連の出来事を思い出しても、「朝はまだ涼しかった」という印象です。今は、もう、朝7時に新聞を取りに外に出ても、うんざりな日差しですからね。

息子が小学校で育てて持ち帰った朝顔も、直射日光にあたって、朝からぐったりしてます。日陰に移動してもすぐに日があたって。

命に関わる暑さ。いったい、いつまで続くんですかね。今、夏休みになったばかりの小学校からメールが来て、明日の(学校での)プール開放と、サマーワークショップは中止します、との連絡が来ました。

学校への行き帰りも、無駄に外出を控えるように、というニュアンスのことが書かれてました。真っ黒に日焼けをして虫を追いかけ、そんな様子を絵日記にする「ザ」がつくような夏休みが、できるだけ室内、エアコンを付けて、喉が渇いたという自覚症状の前に水分補給をする、というのに変わっていきそうですね。

なんだか、サバイバル・サマー・バケーションです。

気温の観測拠点が増えて、各地の詳細な気温が測れるようになり、最高気温を記録するのは内陸部や盆地のエリアが多いですが、都市部、特に東京は、体感温度が体温のずっと上、それも体に悪そうな暑さです。

山梨にキャンプに行き、農場体験やサッカーをしている息子。同行のコーチからの知らせによると、気温も28度、湿度も低めで酷暑という環境下ではない、と書かれていました。

これは、いわゆるところの避暑する夏休み。それが、どうもスタンダードになるんじゃないかと思わせる今日この頃です。

さて、二年後に迫った東京オリンピック。今日、日比谷のミッドタウンで五輪マスコットの名前が発表されました。

国立競技場の設計やり直しから始まり、エンブレムの盗作疑惑と、なにかとごたごた続きだった東京五輪。マスコットは、「ミライトワ」と名付けられたそうです。

未来、永遠。これからの未来が永遠に続くものは、避暑する夏休み?もしくは、こもって暑さから命を守るもの?

そんなインドアな懸念の中、熱戦が続く全国高校野球の球児たちと、応援席から声援を送る生徒や吹奏楽部たちを見ていると、やっぱり「ザ」が付くほどの夏は気持ち良いです。目の前の勝負に、青春をかける姿、これは色褪せず素敵です。

100回目の夏。北北海道からは甲子園切符をつかんだ第一号の知らせが来ました。丸刈りじゃないだの何だの言われていますが、ふと、ゆとりが拒否し、さとりが相手にもしなかった慣習が、一周回って元通りになりつつあるのでは?と思わなくもないです。

色んな場面でそれを感じます。「昔はこうだった」「俺たちの頃は、そんなこと考えられなかった」という話を聞いて、昔と今は違う、ということに一線を画してきた世代から、どうも、だから今は駄目なんだから昔のように、みたいな世代へ。そんな雰囲気を持った新人がぽつぽつと存在している印象です。

ソー・マイティ。東京パラリンピックのマスコットは、桜を模したピンクの女の子です。その名前が、とても強く、を連想させるソメイティだそうです。

未来が永遠に続き、それに向かって強く生きたい。平成が終わろうとしている今、建物でもプロジェクトでも、やたらと「ミライ」を使いがちです。そこに「希望」や「変化」の気持を乗せて、よくなる結果像を期待しています。

ミライトワ、ソメイティ。未来とは、とても強く。異常気象や少子化など、これまで経験してこなかったことに、柔軟な頭と組織と規律で色んなことを変えていく時期なんでしょうね。その中の「変えないもの」を同時に意識しながら。



■2018年7月14日
『もっとゆったり、とにかくしっかり』

例えば、京王線の新宿駅からJR線に乗り換える通用路、階段を下りて・上る間の地下通路を歩いていると、それがラッシュアワーで、いわゆるところの「かばんも浮く」時間帯は、人と人がぴったりとくっついて、まるでマンガの世界です。

で、ふと、「地面から見上げたら、脚って何本生えてるんだろ」と考えます。逃げ惑うとしたら、逃げ道ってあるんだろうか、とも。ラッシュが去って、その通路で、踏まれて死んでた、名前も知らないキラキラした虫を見て、思ったりするわけです。

東京って、本当に人が多いですね。東京大都市圏としての人口は3,700万人。ジャカルタやデリーといった「人であふれかえっている」イメージのあるアジアの都市よりも多い、世界一の人口を抱えています。

京都に住んでいた時、「東京は人酔いする」なんてことを聞きましたが、まぁ、どこに行っても並ぶ(確かに)、電車で座れることは念頭にない(確かに)、イヤホンは線があると他の人にひっかかってとても邪魔(本当にそう)などなど思います。

それに加えて、ここ最近の日本旅行大ブーム。年間3,000万人に迫る勢いで海外からの観光客が訪れます。月単位で言えば200万人以上。そのほとんどの人が、東京を入国か出国のために滞在することを考えると、データイム・ナイトタイム共に、その人数が増されているという状況です。

小銭のやり取りを減らした電子マネーをはじめ、いろんなサービスを簡略化させたとしても、限界がありますよね。細かいことを言えば、エスカレーターに突っ立たれると、後々列が伸びて団子にもなりますからね(もちろん、ロンプラなどのガイドブックでエスカレーターは歩かない、などのあるべき姿が書かれているんでしょうけど)。

これだけの〈人〉、そして各企業の本社機能としての〈情報〉、政治がらみの〈仕組み〉、そのすべてが一極集中している東京という街の、だから便利とも言えるし、危険とも思えるわけです。

いろんなものを分散させると、床面積が増えてお金がかかるからと、コンパクトに機能を集中させるのは結構ですが、無駄を省いて効率的にということばかりに気を取られていると、そもそもの土台(ベース)となる場所が崩れたら、総崩れです。

首都機能を地方都市に分散させることも、人口の一極集中を避けようとした様々な地方都市の取り組みも、なんでしょうね、東京という圧倒的なパワーの前では玉砕しているという印象です。

先週、西日本を襲った大洪水。平成に入って最悪の事態になりました。ぜんぶ流されて、泥に埋もれて、これまでのモノが無になった映像を見ていると、その最中に赤坂の飲み屋で飲んでる政治家も、いやいや、やることはあるやろ?と思います(言うのも嫌になりますけど)。

シンガポールに香港など、狭い土地ににょきにょきと高層ビルを建てて、物価は上昇するだけ上昇した今を見ていると、これだけの規模でいうなら物価が安いと言われる東京も、近々、住み辛くなっていくことが目に見えてますよね(飲み屋で飲んで集合写真に写ってる政治家たちは赤ら顔で笑ってましたが)。

だから、逃げだそうと思います。ここ(東京)で得られるものより、実は失っているものの方が多いのではないか、とも思ったりします。時間は確実に浪費してます。同じことをするにも、いちいち時間がかかります。そして、造られすぎたモノに感覚が麻痺しているようにも思います。

それらを刺激として自分の中に取り込んできたので、(東京での暮らしを)否定も後悔もしませんが、まだやわらかい感覚を持った子供にとっては、果たして、本当に否定も後悔もしないと言い切れるか、どうか。

アプリじゃなくて、ゆっくりと本を開きます。空調じゃなくて、風で気持ちいいを感じます。カフェじゃなくて、家のリビングで話をします。

有り過ぎない空間で、無いものを作ろうとする時間の中で、あれやこれやとトライ&エラーを繰り返しながら、凝縮した日常を送ります。

これを非日常として吸い込むのは、もったいないです。非日常のような時間と空間を日常に取り込む。365日24時間、全部を日常にして、癒され、刺激を受けて、生きていきたい。

いっぱいお金を稼ぐために、自分のほとんどをつぎ込む。そして、稼いだお金を使う時間すらないという悪循環。それって、本当に必要なんでしょうかね。そんな風にして、出てきた考え方に「働き方改革」、「ワーク・ライフ・バランス」なんてものがあるとしたら、それは、時間の使い方や、考え方次第でできるものでもないではないかと。

めり、と、はるの、はっきりした区別。メリハリをつけて日常を楽しみたい。やりたいことはとても豊かに、あくまでも必要な分だけ必要な時に、働き、休み、ゆっくり生きたい。

パリジェンヌは、あれもこれも手に入れようとしません。手元にあるものをうまく使って、あれもこれもと表現します。さとり世代は、何でもかんでも所有しようとしません。シェアできるものは、みんなで使い回します。

作って、売って(買って)、捨てる。そんなサイクルはおかしいと気づいた二十年前、正のサイクルにするだけのスキルやシステムがなかったのが、ロストジェネレーション世代でした。だから、ただただ失った時間なんですが、それを、「おかしくない」サイクルにできるようになった。

今はそんな時代です。定額で使いたい放題、食べ放題。自分の手元になくても自由に使える。CDも車もスーツもジュエリーも。家も、職場も食事さえも。コレが、オレの、という感覚は、そのうちピンと来なくさえなるんでしょうね。

フレックスタイムで働く人が言ってました、遅刻っていう概念がわかないんだよね、と。今は、働く時間という固定された概念さえ、取っ払ってしまっても、そんなに困ることもないそうです。

もっとゆったり、とにかくしっかり、愉しみたい。そんな風に考える時、それが出来るようになってきている日本のムードに、ここは確実に感謝したい。そう思います。



■2018年7月7日
『みんなやっている、というみんなの正体』

本日午後20時23分、千葉県北東部で震度5弱の地震発生。東京23区も揺れました。ミヤネ屋のメインキャスターなら「こんな時に、なんで起こるんですか」とでも言うのでしょうか?(オウム事件の死刑囚の執行を受けて、〈こんな時〉に、と発言したことにかけて)

西日本を襲った豪雨。その被害の広がりを伝える番組の中で「つぎつぎと伝える事ができて大変」とでも言うかのような発言に、SNSでは色んな意見が飛び交っています。

先日、外資系航空会社トップの講話を聞いていて、改めて、日本はテレビや新聞というメディアが強いことを知らされました。結局、テレビで伝えられることが、世論となる現状です。実際はそうでもないんでしょうが、そうだと信じる人が多いですよね。

航空会社から見て、日本の旅行が「日本人のお客さんには、バスタブが必要」という神話を引きずっていて、完全に世界水準から取り残されていることも、なんだか知らしめされたことのひとつでした。

今、欧米の高級ホテルでは、バスタブを外す傾向にあります。それは、バクテリアなど衛生面の問題に加えて、バスルームにバスタブをつくるより、シャワーオンリーにして狭いくし、その分、居住スペースを広くするのが主流だそうです。そんな中で、ツインベッド(同じく主流はダブルベッド)に、バスタブ付きの部屋を希望するから、なかなか取れないという悪循環です。

今や、旅行者のメイン顧客は中国人です。彼らは、バスタブを必要としていません。泊まっても「害」がない日本人のお客さんは評判はいいけど、やっぱり「金」になる中国人に合わせたサービスを充実させざるを得ない状況。

何も欧米だけのことに限りません。観光客の半分以上が外国人となった京都でも、そして、外国人がいることに何の違和感もなくなった東京でも、もはや外国人用のサービスを持たないと、やっていけなくなっています。

ふと、私は「みんな」ということを考えます。

「みんなやってる」「みんな言ってる」。よく小さい時に「みんな持ってるから、僕も買って」というと、母親に「みんなって誰と誰よ?」と言われたのを覚えています。周りの二、三人の言葉が、みんなになるという狭い視野。

意外と、企業の商品開発でも、会議発言での裏付けでも、この狭い視野の「みんな」が力(パワー)を持っているように思います。

つかみ所のない世論、〈みんな〉の声。SNSがこれだけ発達すると、例えば、たった1人の意見が、ユーザーIDを数百個、数千個もっているだけで、あたかも1つの世論(みんなの声)になりかねません。

視聴率しかり、首相の支持率しかり、私は、一度も世論調査に応えたことがないし、視聴率も、私の見ているチャンネルはパーセンテージに入っていません。あくまでも統計。分母を極力絞った、偏った意見に過ぎません。

1000人に聞いて、20パーセントの意見は、分母を1億人にしたところで、同じパーセントになる。まぁ、それは机上の計算ではそうかもしれませんが、本当にそうですか?と疑問を抱かずにはいられません。

視聴率なんて最たるモノで、今日日、テレビでチャンネルを合わせるより、アプリでオンデマンド的に見る人の方が多いだろうし、実際に、ゴールデンタイムを昭和のように家族で暮らしている人って、一定の塊を成すほどボリュームがあるんでしょうか?と思ってしまいます。

子供の数が減り、家族が少人数化した上に、個々にデバイスを持った今、現状把握の数値は、複雑です。おそらく、まだ、正解を誰も見いだせていないのではないでしょうか。

選挙にしたって投票率が半分を切る状態だし、視聴率は10パーセントを超えるのがやっと。CDの売り上げでランキングを付けるのは時代錯誤だとはいえ、ダウンロードするのはコアなファンばかり。一体、全体的な「人」の中で、何が人気で、何が支持されているのかなんて、つかめません。

ただただ、一途なファンを持つアイドルのCDが売れ、ゴッホだのピカソだのの一部の展覧会が行列を作って、決まり決まったアイドルのチケットが取れない。そんな状況です。

子供からお年寄りまで口ずさめた曲があった時代。若者の間でほぼ100パーセントの認知度がある俳優。猫も杓子も状態で格好いいと評された洋服。

それはどれもこれも、超がつくほど細分化されました。そして、狭い範囲で支持を受け、狭い範囲で消費され、提供する側はその利益を予定して調整した製造に入る。今の流れはこんな感じです。

物理的にやろうと思えばできるけど、非現実的。例えば、テレビの視聴率は、すべてのテレビに視聴記録を持たせて、それを集約することが出来れば、本当の「数字」が見えます。世論調査も、全員に意見を聞ければ、統計上のパーセントじゃなく、本当の支持率が出ます。

しかし、時代はSuicaのデータも個人情報と呼ばれるなんて話を聞くほどシビアです。ヨーロッパのGDPRも納得する現状です。が、ですよ、Suicaのデータで、何歳の男性が、どこの駅からどこへ移動して、何を買ったか、というデータは、個人情報ですか?

答えは、ほとんどの人がNoなんですが、その情報が「どう使われるか分からない」という恐怖が、NoからYesに変えてしまうんでしょうね。

これからのマシーンラーニングの時代。

いろんなデータが、物理的な時間や作業量の問題からピックアップ方式だったのが、全データを対象として、さらには個々の情報に個人の結び付けをまったく持たない単なる数字(つまり住所データを元にダイレクトメールを送りつけるという人を介したものに流用されない)になれば、「みんな」がやってる/言ってるという、みんなの象がはっきりするんでしょうね。

私はあのテレビのキャスターが、あるニュースを取り上げている中で、こんな時に、こんな大きな別のニュースを起こさないでくれ、と発言をするほど、今の日本はとても狭く、小さく、そしてバイアスのかかった状態で世論という言葉をうそぶいているんだなと危機に感じます。

そして、そんなことにも気付かないで「みんな」言ってるなんて思い込んでいることに、恐怖を覚えると同時に、そんな「みんな」という虚像が暴かれるAI時代に、期待します。



■2018年6月30日
『普通になるまでの過程』

毎年毎年、分かり切ったことなのに、飽きもせず口にせずにはいられない「ああ、今年も半年過ぎたのか」というコレ。早いもので、6月も終わりですね。同じように、ここ数年は「もう梅雨、明けたんちゃう?」という、6月にしては高い気温と少ない雨があったりして。

一気に30度超えの日が続いて、何とも気怠く、気分が重い日々に、体もおかしくなりそうです。それにプラスして、今年の場合はサッカーW杯を見るという寝不足も加わりますからね。泣きっ面に蜂と(嬉しい)叫びをあげる人も多いかと思います。

“そんな風にたらたらと思っていると、
え?もう!?ほんとに梅雨が明けたの?”

昨日、統計をとり始めてから初となる6月中の梅雨明けが発表されました。記録的な大雨だったり、酷暑だったり。観測を始めてからの短いスパンで気候は激変していて、梅雨まで早々に去ってしまった気候は、いよいよ本当に危機かもしれませんね。

呑気に、「もう半年過ぎたね〜」と毎年規則的に繰り返していたものが、今は(よかった)昔、なんてことになる未来があるかもしれないと考えると少々恐ろしくもあります。

日本というか、世界というか、全体を包む空気もちょっと異変を感じます。

「普通」に対して「変」を使うのも、だんだん普通寄りになっているような気もするアメリカの銃撃事件。パブリックスクールやショッピングモールで銃を乱射する事件が後を絶ちません。

「そういうもの」という土台の上にあぐらをかいて、誰かが我慢をするのは、やっぱりおかしいと立ち上がった人たち。そんな人たちがモンゴメリーでも歴史を作ったのですが、同じようにして立ち上がったアメリカの学生も(香港や東京の学生も)どうも大きなムーブメントになりません。話題性は十分に盛り上がるのですが、それが身を結ばないといいますか。

日本でも、交番が襲撃されたり、政治家がわいせつだったり。何が普通かを、私たちは無条件に信じすぎているし、どうも安易に設定しすぎているんでしょうね。

小説や映画、漫画の世界で展開される一発逆転ハッピーエンドが、つまりは「普通」になってしまっているから、いつかは、大丈夫、という神話の中にはまっているようにも思います。

性善説に立ちすぎた。そんなことを一国の総理が恥ずかしげもなく言ってのけるぐらいですから、本当、この先どうなるんだか、と思わなくもないです。

東京でオリンピック、大阪で万国博覧会、札幌で冬のオリンピック。このグイーッと上り調子だった古き良き日本の、それを平成も終わる新しい時代にやろうとしている「人」が、まだまだ、昭和なんですよね。

それが良い悪いではなく、《パソコン》なスキルでいろんなことを決めてしまうと、追いつけるのは、せいぜい《タブレット》までという気もします。何もない空間にインターフェイスを浮かべて、そこで「体験」できることの多くを、スーパーフィクション、そんなの空想だ、と言い出しかねませんからね。

大きなうねりの「変」がおこっている今、AIという言葉をなんとなく使っている場合ではないんですよね。マシーンラーニングで何を分類して、ディープラーニングでどう導き出すか。

単純作業をAIに任せて、効率化を達成した後、働き方は自ずと改革されます。そこについていけなくなる自分は、想像しただけで恐ろしいです。

「AI」という言葉を登録して、ひっかかったニュース(記事)をくくってくれる機能をつかって電子版の新聞や、スマホ配信ニュースを見ていると、本当にいろんな業種・業界でAIは盛んです。

ある意味、投資として「新卒社員」を採用するなら、AIに投資しようという話まで出てきそうです。それは、新卒社員には、とりあえずこの「作業」をやってもらおう、という作業が、全部、AIに変わるからです。

では、何が必要か。コミュニケーションだけは「機械」にできないと言われますが、ホテルの受付をロボットがやる時代ですからね、これも「そういうもの」になれば不満なく「普通」になるかもしれません。

じゃ、何?う〜ん、そんな未来に向かって、何を学んで、何を・・・どうすれば。そんな右往左往する現在から、未来って確実に直結しているんですよね。

コレが、いる。例えば、英語が話せる方がいい、という「交流」がベースだったグローバル時代ではないから、AIって厄介です。コレってモノがないんですよね、きっと。あれもこれも全部包含したモノが、ある場面ではコレになり、また違う場面ではアレになっていく。それぞれのスキルが、つまりは大事になってくるんですよね。

お腹が減ります。眠くなって、風邪もひきます。人間は、体を動かすことすべてをロボットに任せて、手足の筋力が落ち、ゆくゆくなくなり、頭(頭脳)だけを持つという、それこそスーパーフィクション、サイエンスが、ぷかぷかと浮かんで笑い飛ばします。

暑い夏のかき氷、寒い冬のホットスープ。それが現実ですよ、確実ですよ、と云々。

さぁ、フランスvsアルゼンチン、ブラジルvsメキシコ、そして、ベルギーvs日本。サッカーW杯はいよいよ決勝トーナメントです。

ストイックに鍛えぬいた心身全てでボールを操り、勝ちに行く姿は、「スポーツって素敵」と思わせます。

画面に向かってコントローラーを操り、神がかったスキルで観客を魅了する「スポーツ」がオリンピック競技になる。昭和なパソコン世代の私には正直分かりませんが、まぁ、それも、ある意味ストイックに、勝ちに行く姿ということなんでしょうね。

変が変じゃなく、普通になる過程を、こうなったら楽しんでやろうじゃないか思う今日この頃です。



■2018年6月24日
『最初も途中も最後も人と人』

手のひら返しで「半端ないって」と歓喜するニュースで溢れていますね。サッカー日本代表がワールドカップという大舞台で、始めて南米の国、コロンビアに勝利しました。

日本のいるグループHでは、ポーランドとコロンビアが勝ち進むという大方の下馬評に反して、初戦は、セネガルがポーランドに、日本がコロンビアに勝って共に勝ち点3。今夜、午前0時から日本はセネガルと対戦します。(また、半端ないって、って叫びたいです)

日韓大会、南アフリカ大会と、初戦に勝利か引き分けになった大会はもれなく決勝トーナメント進んでいるので、期待が膨らむのも分かりますが、もし、今夜、ドローにもっていければ、膨らんだ期待も、かなり現実的になると言えます。

まずは守りをしっかりして、大迫の下で香川、そして柴崎がゲームを作って、まだ出場機会のない宇佐見や武藤なんかがチャンスメイクすれば、これは、もう一気に雰囲気が良くなるでしょうね。考えるだけでわくわくします。

小学1年生の終わりから、ずっと野球をやってきた私にとって、サッカーは「キャプテン翼」すら読んでないほど無縁でした。

ヨーロッパや南米に、一人旅で行っても、「サッカー狂(好き)」とたまたま出会って、観戦に誘われて、「あ、じゃ、いってみようかな」という程度のテンションで観戦してきたのですが、今になって思えば、本当にもったいないことをしました。結構、良いゲームをみすみす見逃してしまいました。

サッカーは、野球で言えば「3−4で負けている8回裏、1アウト2塁で3番バッターが打席に入る時」のような盛り上がりが、数分おきにやって来て、それがころころと反転しますからね。これは面白いですよ。世界的なスポーツな訳が分かります。

パス回し、そのパスをカットする早さ、ドリブル、又抜き、ヘディングにシュート。キーパーも壁になって、ディフェンダーとシステム的に守りに徹するところが、頭使うスポーツだな、と改めて思います。

マーク、チェックにトラップ。もう、全てが最高峰。ワールドカップでの試合は、45分があっという間に経ちます。そして、アディショナルタイムでのドラマが本当に多いです。

四年に一度、この梅雨時期の一番鬱陶しい時期(一番、しんどい時期)に寝不足の毎日で働くのも、ほとほとへとへとです。次回のワールドカップは11月だというので、まぁ、それはそれで寒さでキリリとなって、疲れも半減するのかな、と思いますが、そんなこと、ないんでしょうね。

それより、午後7時半になってもうっすらと明るい、夏の日の長さになってきましたね。夏至も過ぎていよいよプールに海に、大はしゃぎの季節の到来に、またわくわくしたりして。ZOZO SUITがやっと来ました。

去年の冬に注文して、製造が追いつかずに、来たのは今。で、早速アプリの指示に従って体を採寸しました。(太ったな、と数値で示されて、その寸胴な体のラインにショックも受けたのですが、缶ビール飲んでます、早速<苦笑)

その採寸結果に会わせて、無難なデザインのTシャツやYシャツ、ジーパンなんかが「候補」として出てきます。一回買ったら、次々に候補が出てくる。この手法の先頭を行っているのはAmazonだと言われます。興味のあるものがどんどん出てきて、それを1つひとつタップしていると、あっという間に時間が経ちます。

YouTubeの方が、その精度は高いですかね。売りたい人(B)が、買いたい人(C)に人工知能を利用して推薦してくるのにも、すっかり慣れました。

その次の時代、それはCからCへ。つまり、これまでカスタマーと言われた顧客が、不要なものを売りに出して、それを必要としている人(カスタマー)に売るという流れです。

メルカリが、日本ではその最先端を走っているようですが、○○さんに必要なのは、クローゼットではなくて、メルカリだった。つまりはシェアする売り買い。必要な人に、不要な人が提供する流れ。これって、確かにコレからの流れですね。

モノを使い捨てありきで量産して売りまくった時代から、エコをキーワードに再利用してきた過去。ここに、確実に一石を投じるのが、C to C。上場企業になったメルカリの今後が楽しみでもあります。

新しい企業が立ち上がって、どんどん成長していく。例えばFacebookやTwitterがアメリカで巨大化していく中で、日本でも、東日本大震災の時に繋がらないスマホをなんとかして「コミュニケーションツール」にしたいと立ち上げたLINEが急成長しました。

古い企業の中に存在する社内倫理を重視してマーケットに目がいってない会社では出来ない「便利」が席巻しています。大手企業だと言われてきた会社の不手際がフィーチャーされて、だから嫌だとなるか否かは、まぁ、各人の価値観だとして、安定した給料、待遇は、確かに大企業に分がある。だからといって、そこにしがみついてなんとかしのげるのは、十年単位で安泰なのかな、とも心配になります。

とは逆に。今や大企業と呼ばれるNikeも、立ち上げ時期はアディダスの牙城をオニヅカの代理販売でこじ開けたといいます。ヴァージンアトランティック航空も、ブリティッシュエアウェイズの牙城にリーズナブルな値段設定とエンターテインメントで立ち向かいました。

歴史が繰り返されるなら、立ち上げる企業がしっかりとマーケットを見て、先手を打てたもの勝ちということなんでそうね。

今、現在、大企業と呼ばれるところは。外に目を向けよ、という路線に舵を切っていると聞きます。いろんな「人」たちと交流することで出来上がる価値(商品)。それが、これまでのような大量生産して、スケールメリットで単価を抑えるという方程式が通用しないことに歯がゆく思っているように思います。

そういう時代の到来は、中国のように日本を追いかける国ではまだ先でしょう。が、ヨーロッパやアメリカを追いかけた日本が、そのステージに到達したということは、ほぼ、世界中で「1つの価値(マーケット)」として成り立つ分母になるというか。

個々にフィットした商品の「量産」という理想の形が近づいてきた今。その原動力は人が人に商品を計画して、販売していた時代にはできなかったことです。可能にしたのは××と言うことになるんでしょうね。

××。ここには、AIが入ることもあるでしょう。ここにNPSが入ることもあるでしょう。ここに、新たな何かというより、統計化されたデータの「解」。それを元にしてやっていこうとしているんでしょうね。

靄がかかったようで、だけどはっきりしてきたAIの波。それにのっかるように右往左往する「新しい何か」を模作している企業や人たちは、もう一度思い出して欲しいです。

「大迫、半端ないないって」って対戦相手に叫ばせた大迫という選手。その選手のプレー。それは、コツコツと積み重ねた人間の業であったことを。

大阪で阪神大震災を思い出させる大地震がありました。余震も続いていて、地震の少ない関西地方の人達(私の親を含め)は、大慌てで備えを始めているようです。

インターフェイス、接地面は、ウェブやパッケージ、パッと見重視の数々です。そこに快適性と利便性があればあるほど良いのですが、本当の接触。対話し、助け合う物事は、いつでも「人と人」です。

人である私自身も、最初も途中も、最後も「人」であることを十分に認識しながら、それぞれ「間」にあるBPRは、できるだけ人以外でこなせるように。そんな時代の波に乗りたいな、と思ったりして。



■2018年6月10日
『世界が、世間が、世の中が。』

昨日の真夏日から一転、今日はひんやりと、雨の東京です。午前中は何とか“もった”ものの、昼過ぎからはしとしとと、まったく梅雨らしい日です。あじさいの花が、きれいです。

それにしても、昨日は暑かったですね。わが家は、息子の(小学校の)公開授業の後、午後から代々木公園の野外ステージで行われたOKINAWAまつりに行きました。

3年前、このステージで「琉球國祭り太鼓」というチームのエイサー演舞に魅せられ、息子の“はまりよう”も手伝って毎年の恒例と化しているのですが、一昨年も、去年も、ここまで暑くはなかったです。

オリオンビールを片手に、うちわでパタパタ、「沖縄の気温よりも高い東京での沖縄フェス」とMCが言うとおり、この時期の真夏日(の気温)プラス、人が密集して蒸し暑い分、体感温度も上昇してました。救急車で運ばれる人も、何人かいました。

世界中の大都市でも、東京ほど人が密集していることはないと言います(都市圏の住民の数が世界一)。これだけの人がいるのに、駅の階段やホームは、ひとえに性善説で安全が成り立っていて、そんな都民の(冷静な)行動がしばしば世界のニュースになります。

例えば、ラッシュ時。すごい人が新宿駅のホームから階段を下りています。その中の誰か1人でも、前の人の背中を押すようなヤツが居れば、勢いをつけて下になだれる中で、もう為す術がありません。

なのに、それを防ぐために十分な踊り場を作ったり、衝撃を吸収する設備が整っていることはありません。

あくまでも、マナーと安全意識の上に、それを信頼して成り立っているのです。アメリカのパブリックスクール(公立学校)で、銃乱射が頻発して、生徒は登校時、金属探知機を通らないといけない学校があると聞きます。ロンドンでは、無差別テロに対抗するために、チューブ(地下鉄)の防犯カメラの数を増やしたと言います。

日常生活(のスムーズさ)と、安全確保(のための検査態勢)のバランス。実際問題、いちいち検査していたら、日常生活が立ちゆかない。時間が膨大にかかる、という考えから、最後は性善説にたって、信じるしかないという強引な方法で安全を思い込んでいるような気がします。

飛行機は、ひとつの空間に数百人がいて、逃げ場が1つもない。それ故に、ハイジャックが起こると被害が大きくなります。なので、十分に荷物チェックが行われます。

ひとつの空間にいて、逃げ場がない。これは高速バスでも同じで、ナイフを持ったハイジャック犯が出れば、いつも安全対策が叫ばれるのに、日が経てば、また、もとのママ。喉元過ぎれば熱さを忘れるの状態です。

飛行機と同じぐらい、ひとつの空間にいる人数は多く、逃げ場がない新幹線。これぞ、ザ・日本の安全神話を代表する乗り物ですが、考えれば考えるほど不安定な安全体制です。

この間も、開通以来初めての重要インシデントになった設備不備があり、乗客が焼身自殺をしたということもありました。

東京と大阪をつなぐ東海道新幹線のぞみ。途中、新横浜と名古屋、京都にしかとまらない大動脈であり、十分に一本ペースで運行しています。

噂では、無差別テロには新幹線が格好の餌食、なんてことも聞いたことがあります。

昨日の夜、大阪へ向かうのぞみ車内で悲劇が起こりました。むしゃくしゃしていて、だれでも良かったなどとほざく男が振り回した刃物で一人の尊い命が奪われ、二人が重傷をおいました。一緒の車両に乗り合わせた人は(インタビュー時にも)声が震え、逃げ惑う人達はデッキで詰まっていたと言います。

訪日外国人が3倍、4倍のペースで増えている今の日本。良い悪いではなく、日本人の感覚とは異なる感覚を持った人が、同じパニックの中にいるのです。秩序や優先順位、自分と他人という微妙な力加減まで、すべてが違う(のは当然の話)ので、そういった対策も後手です。

同じように、児童虐待のニュースもありました。5歳の女の子が「ゆるして」と懇願したのは、それを願っても叶えることのできない最低の親で、本来、そういう声を聞いて、適切に手をさしのべるべき公的機関が、また機能しませんでした。

日本人にある、親が子に対する権利の強さ。それは百歩譲って守るべきだとしても、やはり、これだけ再婚時の連れ子に対する虐待が多い以上、もっともっと踏み込んで、今、この時点でも「ゆるして」と懇願している子が居るかも知れないことを考えると、急ぐべきです。

今朝、ワイドナショーで松本人志さんが言ってました。この亡くなった女の子が、生まれ変わって、こんどは、あたたかい家庭で育つように、願うだけ、と。

雨で外に出られない息子は、元気を持て余してします。昼食で冷や麦を食べながら、「おやつを作ってみよう」と妻と二人で盛り上がり、スイーツレシピ絵本から、どらやきにしょうか、アイスクリームにしようか、生チョコにするか。そんなこんなで、今、家にある材料でできるものを考えると、クレープになったらしく。

甘く、良い香りが漂って、パパのも作ったよ、とバナナチョコクレープをくれました。生クリームの代わりにバニラアイスを入れたアイスクレープもあって、口いっぱいに頬張って、にこにこする息子を見ていると、世界が、世間が、世の中が。ただただ良くなりますようにと願うだけ、かと思えてもきます。



■2018年6月3日
『進化のベクトルが便利に向きすぎです』

会うと言って、やっぱ、や〜んぺっ、と言ったかと思うと、会うことにします、という三段オチ。こういう相手って、全く信用おけないし、はっきり言って、相手にしたくない、というのが本音です。が、それって大統領としてありえないだけで、ビジネスマンの感覚なら、ありなんですか?

ちょっと、ちょっと親分、あっし、向こうのトップに会うことになったんですが、先に、親分には言っておきたくて、あっし、来ちゃいました、ってか? ま、どっちもどっちだな。

形の上だけでも、有利に進めているように見せかけるために会いに行く、と言い出す方も言い出す方で、そんなことやってる前に、なんとかしなよ、自分の国の、というか自分がらみの、ごたごた。連鎖が連鎖を生んで、いったい、あなた、何してるの?って感じですよ。はっきり言って、大学の部活の、当該部員たちの方が、よっぽど潔しで、前向きですよ。

ネットに、テレビに新聞記事。飛び込んでくるニュースが全部、何というか、なんとも奥歯に物がはさまったようで、裏で繋がって、それにがんじがらめになってるんですか? そういうの、ほんと古いです。阿呆らしいです。はっきり言って、いい加減にしたいところです

平成で終わりにしましょね、そういうの。

AI(人工知能)の教師データを元にしてかどうか、学習して導き出す回答に従って、もっとデータ的に行きましょ、建設的に進めましょ物事は。人情とか愛情とか同情とか、情はもっと違うところ、というか、もっと深いところでやりとりしましょ。

そんな風に思います。

さて、日本は西から順に梅雨入りを迎えていく季節になりました。鎌倉では紫陽花が綺麗で、江ノ電は満員で乗りきれないというシーズンです。

先週の水曜日、W杯前の国内最終戦、日本代表vsガーナ戦を日産スタジアムで観戦しましたが、雨でした。結構な、豪雨でした。

そんな雨なんてお構いなしに、多くの選手がW杯に照準を合わせてやっている(という雑誌Numberを読んでいると)、サッカー選手にとって、W杯で本当に特別なんだな、と思います。

怪我で欠場が続きたテニスプレーヤーの錦織圭。グランドスラムの全米で準優勝したのは、もう5年前ですか?4年前ですか? ずいぶん経ちますね。去年の全米と今年の全豪を怪我で決楊した錦織も、久々のグランドスラム。全仏の放送が行われていて、どきどきしながら見ながら、ついつい手元のスマホでYahoo!にアクセスしちゃうと、え?錦織、勝ったの?ってなります。時間差があるのかいな。

便利なようで不便な、というか、え?うそ?という原始的な罠があるというかなんとうか。はぁ、旅に出たいです。

旅するなら、どこに行くか。そんな妄想で盛り上がりつつ、それが本当になったりもします。あくまでもニューヨークに行きたい妻、スリランカか、それがきびしいならシチリア島か。息子はフィンエアーに乗りたいのでフィンランドに行きたいと言います。

ロサンゼルスなら安くで行けるぞ、と私。エクスペディアやブッキング・ドット・コムで宿を抑えて、エアーもセットで買って割安感を出すよりも、下手したら航空会社直売りの早特でエアーを抑えて、宿は民泊で、ってそういうのが主流になっている今、大谷に長谷川健太に、イチローは無理でも、まぁエンゼルス、ロジャース、マリナーズという三本立ては魅力です。

それにロサンゼルスからルート1を北上してサンフランシスコに行ってオープンジョー。これって、予算と日数を考えるとベストな方法では?なんていろいろ言いながら。

今、私たち家族は、私たち家族がひとつの塊である以上、それがどこであっても楽しめる自信がある、ということに感謝をするわけです。

どうでもいいですが、Amazonになれすぎていると、楽天市場の発送が遅すぎて戸惑います。息子が2歳の時に勝ったマムートのリュック(8L)が、小学生には限界で、買い直すかと、グレゴリーやホグロフス、ミレーなんかをいろいろとみて、候補をきめてビックロへ。最上階にあるアウトドアショップで色んなリュックを試した結果、初志貫徹でカリマーのstep12のインク(カラー)にきめました。

で、それを、GWの宿予約で貯まったポイントで買ったのですが、まぁ〜、来ないです。土曜日に注文したら、月曜まで見ないのかな?ま、普通の会社(店舗)ならそうなんでしょうね。土日は休みでノーカウント。それで全然いいのですが、Amazonが、ね。オール機械化?なのか、本当、ソッコー発送されて、ソッコー宅配ロッカーに入ってますから、それを考えると、楽天市場が一昔前に感じます。

そんなAmazonが一昔前、って言われる時代のネット通販、というか、おそらくそれが買い物の主流になっていることを考えると、ねぇ、楽しみというかなんというか。

先日、ニューヨークの大繁華街、世界で最も有名な通りである五番街の店舗が、体験型というか、なんというか完全に「来て触ってみて」状態になっているという記事を読みました。

ニューヨークの五番街ですよ。そこは買い物をするために行く場所のアイコン。なのに、そこでモノは買わない。とにかくそこで見てみて、触ってみて、気に入ったらネットで買う。

銀座もそう、ハロッズもシャンゼリゼ通りも。まず、第一に「貨幣」が無くなり、続いて「紙幣」。お金はぜんぶ「ぴっ」で済ましているうちはいいですが、基本的にお金はクレジット番号を入れるだけ。つまり実際に足さえ運ばない買い物へ。

昔、人類は、この後、足の小指の爪がなくなるかもしれないということを聞いたことがありますが(進化の過程で)、もはや足すらなくなる時代?が来るかもです。SF映画的に言うなら、脳とそれを固定させる骨組みだけ。それだけがあれば「人間」が成立する時代。

嫌ですね〜、そんなの。イケメンとか美人って、まぁ、それはそれで居てほしい存在なのに、脳と骨組みだけですからね。

進化のベクトルが便利に向きすぎです。それだけではないし、無駄というヒダがあるから緩衝材になったりもするし、そういう遊びが生み出す「新しいこと」が軽んじられて久しいというか。

つまりは、ですね、便利(楽ともいう)を進化の絶対基準にしちゃいけないということなんです。

政治家は、政治の世界だけでゴタゴタして、黒く塗りつぶして、その場をなんとかやりきって。年老いたビジネスマンは、勢いで一国の長になり、フォーカスの合わないことばかり、インパクト狙いで繰り返しています。

そんな諸々に辟易した私たちの前にぶら下げられる人参(便利)に、飛びついてしまいそうで、怖い今日この頃です。



■2018年5月27日
『歪みが何かを見定める』

休日の公園では、少年と父親というペアが目立ち、キャッチボールよりもサッカーボールを蹴り合うのが主流になっているようです。子供の年齢に応じ、父親の身体の動き(キレ)が違うというか。例えば、小学生の父親だと、遊んできた経年数からか、そこそこ身体が動いていて、二・三歳児を連れた父親だと、まだまだ久々に身体を動かしてます感があからさまというか(すべて一人目の子供の年齢で言うところの、です)。

これが平日の午後(幼稚園終わりの公園)なら、子供と母親というペアが点在し、子供と子供、母親と母親がそれぞれに新ペアを作っていくんでしょうね。子供達はすぐに仲良くなって遊びだして、母親たちは情報を交換します。そして、母同士、気が合えば友達になる。ママともとは、情報交換する間柄に使い、それ以上になると、普通に「友達」と呼ぶようです。

父親同士って、この「横のつながり」が皆無です。まぁ、それはなぜかと考えると、子供が遊んでいるのを見ているという図は、息子と父親の場合あまりなく、一緒に遊んでいますからね。子供が遊んでいるのを見守っている親同士が隣り合うという母親には、だから「あ、どうも、こんにちは。おいくつですか?年長さんぐらいですか?」みたいな会話があるんでしょうね。まぁ、全く同じ状況になっても、父親同士では、あまり情報交換をしたりしないかもしれませんが。

だから、知り合いのシングルファーザーは辛いと言っていました。結局のところ、先述の母親と子供、父親と子供という「図」は、差別や区別ではなく、単純に役割分担的な要素なんです。それを得手不得手を無意識のうちに処理して、子供と接しているのです。「シングル」だと、その役割をダブルでこなすことになるのですが、それは時間的な制約や物理的な理由から不可ということになって、結果、「だから、片親だと、、」という言い訳になるそうです。

物理的に無理、ということこそ、区や税金で助けられないもんですかね。国有地を8億円値引いたり、地方都市に新設する学部にいちいちにコメントしては色んな人が忖度したり、あっちこっちに「声の大きな政治家」がいて、その声のする方から税金を割り振って、足りない、足りないと騒いで、挙げ句、働き方改革。なんですかね、この順番。

「どこの、誰に向けたことなのか?」というのを明確にすると、えこひいきだの差別だの言われるから中和しているんでしょうけど、そこはしっかり「どこの」「誰」宛てなのかを明言しないと有耶無耶になることが多い気がします。

で、私も休日は息子と公園へ行きます。サッカーをやって、なぜか最後は一緒にダッシュ競走をして、1時間、汗を流しました。水を欲してたまりません。日差しがきつくてたまりません。木陰で座って水を飲んで。そんな休憩を頻繁に入れて遊びました。これができるから、都立公園っていいです。都会の真ん中に、これだけの緑が造られすぎず残っているなんて、素晴らしいです。感謝です。

ニューヨークやロンドンに1ヶ月いるだけで、本当に公園が多いことに驚いていました。私の生まれ育った京都でも、二十代に働いてた大阪でも、本当に緑が少なかった印象です。どうも「緑」をわざわざ用意してしまうから、使う方もわざわざ感がでるんでしょうね。そういう、なんとも本当の都会になれてない姿を横目に、ニューヨークやロンドンは素敵だと思っていました。

東京は、住んでみると世界の名だたる大都市に名を連ねるだけあって、緑の置き方、使い方もこなれています。世界で一番「人が多い都市」でありながら、住宅エリアには余裕があるというか。一部、まだまだ日本人特有の「芝生に立ち入り禁止」的なところも、特に観光客が行くようなところには多いですが、東京の西側や東側に点在する中規模の都立公園は、区民の生活の一部に入り込んでいます。

オリンピックがあって、その後の構造改革が波打ち、それからやってくる非サラリーマン社会。人工知能が学習するデータを使いこなして、多くの事が自動化された時、中規模な都立公園の平日の午後と、休日の時間は、どんな風に変わっているんでしょうね。

変わるモノは変わり、変わらないモノは残る。そんな当たり前のことを想像しながら、時間軸を息子の成長に合わせて考えていくと、一気に様変わりする社会の中で、結構、スムースに移行できるような気もします。

日本人特有の「むら」意識。そこに入ってくる外国人たちの波。そこで反応をし、新しい何かが生まれて出来上がる未来。

日大アメフト部の問題が連日マスコミのニュースになっています。監督>コーチ>選手という絶対服従の構造。その中で発破をかけて奮起を促す旧式のど根性理論。勝てば、良し。それだけで突っ走る。もっと言えることは、たかだか大学生の部活、というところに収まらず、その後の人生の就職までに関わる長いスパンの支配は、やはり構造としての歪みを感じてなりません。

何事にも交渉はつきもので、よく政治的なことは任せておいて、あとは決まったことを粛々とこなすだけ。そんなことが、組織が大きくなればなるほど起こっているようです。歴史の教科書の「前のページ」で普通だったことが、二ページほどめくるだけでガラッと変わってしまうという事実。その行間に、立っているという意識をもっと、もっと強く持つべきですよね。

産業革命が起こって変わってきた世界。その大革命が、今、まさに起ころうとしています。

子供はiPadで、昔、鉛筆と紙でやっていたことをこなしています。それは、鉛筆と紙でしか出来なかったことをすっ飛ばして、鉛筆と紙では出来なかったことだけに特化しているようにも思えます。

頭の整理の前に、気持の整理をしっかりして、歪みが何かを見定めて、しっかり先を見たいと思います。



■2018年5月12日
『ぶっつけ本番の猛威』

東日本大震災以降、息子の通う小学校では毎年、避難訓練に合わせて、生徒の引き渡し訓練も行われます。それが今日でした。

それに先駆け、区の「緊急連絡メール」も登録していて、昨日、「近所に不審者が出た」という一報が来ました。「ん?これは、訓練?」なんて思ったりもしたのですが、前日にそんなの来るはずもないので、「本物」でした。

そして、引き渡し訓練当日の今日。長野県で震度5弱の大きな揺れがあって、スマホには緊急地震速報が来ました。ほぼ同時に、校内では「東海エリアで地震が発生しました。緊急の職員会議を行います」なんて放送があったらしく、「え?長野は、東海エリア?」と一瞬思って、いやいや、これは訓練か、と。

訓練と本物。この違いが曖昧になるほど、頻発する事件や災害に、なんとも言えない現在を思ったりしてみるのですが。

マンションを購入する時、耐震と免震の構造をいろいろ聞いて、ふんふん、なるほど、なんて思った私も、住んで5年もすると、はて、自分のマンションは、どうだっけかな?と思うほど無頓着になっているところが怖くもあります。

あるハウスメーカーさんが、「うちの建物は構造がしっかりしていて、地震にも強いです」と謳い、見てくれという写真には、東日本大震災で津波に襲われた東北の写真。そこには一軒だけ残っている家があって、「これがうちの工務店が建てたものです」と言われました。

なるほど、しっかりしている。が、、、だから安心、とならなかったのは、「一軒だけ残っても」という気持ちでした。私たちが住んでいるのは、「家」かも知れませんが、暮らしているのは「地域」で、その地域が壊滅的被害に遭えば暮らしてはいけないよな、というぼんやりとしたモヤモヤ。

自然の脅威に真正面から立ち向かっても勝てません。その脅威をどう乗り切り、その後をどうやって暮らしていくか。

東北でも熊本でも、被災地が元通りの暮らしを取り戻すには、ハード面だけではなくソフト面、メンタルの問題がとにかく大きいと言います。

メンタルを支える「地域」の力。小学校を中心に、避難所となり、支援物資が集まり、ひとり一人がお互いを見合える「余裕」。その余裕こそが「力」だと私は思います。

そしたら、その余裕とは、どこから来るんだろうと想像してみます。

例えば、ひとり一人が暮らす家。その構造がそれぞれにしっかりしていて、そこに家族分の備蓄が1日分でもあれば。地域の避難所に物資が届くまでは、なんとなります。

ひとり一人が、その1日分を持っていれば、翌日になって避難所に行っても「余裕」が持てます。その余裕を持って行くのと、そうではないのを考えと、やっぱり個々の備えは大事だな、と思います。

マンションや会社など、何かしらの「団体」にいると、それぞれに非常食などの備えがある(ように思えます)。だから、いいっか、と自分の家には何一つ備えがない、なんて人もいると思います。

その根底には、家族分だけあっても、とか、1日分だけあっても、なんてことがあるかも知れません。

が、その家族分が、その1日分が、もたらす「余裕」が集まれば、地域の余裕に大きな差が出てきます。

ぶっつけ本番の自然の猛威。そこから命を守るのは、例えば運かも知れません。が、せっかく運よく守れた命を繋いで暮らしてゆくには、やっぱり備えなんだな、と思います。

家に住む。地域に暮らす。国に生きる。

範囲が広くなるにつれ、「やってもらえたら、うれしい」という気持ちが、「やってもらいたい」となって、「やってくれてもいいじゃないか」という風になります。そして「やってくれないから、最悪だ」という考えにいたる頃には、もう根本がぐらぐらと揺らいでいる状態になります。

ひとり一人が備えの気持ちを持って「やる」。やってもらえるまでに「やる」こと。つまりひとり一人が助かろうとすること。

そうすると、全体に備えのレベルが上がって、そこに暮らす人達へ声をかける余裕が出来、結果、みんなで助け合えるという好循環が生まれると思います。

結局のところ、〈避難訓練〉や〈家族分だけの1日分の備蓄〉は、無駄だし、無力だと感じつつも、しっかりやっていれば、無意味ではない、というか。

一軒だけ残った家の写真を見たモヤモヤ。わが家に1日分の備えもない危機感の無さ。どこかで、やってもらえると思っているのだと反省し、やることを誓いつつ、今日の訓練を無事終えました。



■2018年5月6日
『1年後のホリデー』

ゴールデンウィーク後半、連日晴天続きで、夏日でしたね。始まりの5月3日は雨予報でしたが、夜中のうちにザッときて、午前中には晴れ間が出ていました。

油断して、半袖短パンで出かけると、帰り(夕方)になって寒くなることもありましたが、日中は真夏の格好で十分でしたね。

浜田山で、お笑い芸人のロッチが、ゆるくお笑いライブのようなものをやっている際、「まるでカリフォルニアのような陽気だ」とボケてましたが、待てよ、確かに、とも思える程のカラッと加減。初夏って、本当に気持ち良いですよね。

さて、この後半の4日間。わが家は予定をびっちり埋めました。「今日はもうしんどいから、日比谷のイベント行くのはやめとこっか」みたいな事もありましたが、概ね、すべての予定をこなし、息子はそのせいで連日夕方には眠くなり、晩ご飯も食べずに寝てしまうこともあって。

来年のゴールデンウィークは10連休らしいです。

5月1日を天皇即位の休みにして、と、なると4月29日の休みと挟まれる30日はオセロ方式で休みとなり、同じく、5月3日と挟まれる2日も休み。で、10連休ということになるそうです。

10連休もあれば、さすがに前半と後半に使い分けると言うよりは、どこか遠くに旅したいな、なんて予定をはやくも立て始めている友人がいて、そういうのを聞くと、わが家もそわそわします(笑)。民泊を探して、ニューヨークでゆっくり暮らすように旅しようか、シチリア島をレンタカーで一周しようか、息子プレゼンツで九州一周鉄道の旅をしようか。

考えただけでわくわくします。一年後に、わくわくする。なんだか、日本人も欧米化したな、と感じる瞬間でもあります。

20年ほど前に社会人になった当時、エーゲ海のクルーズ船の予約は、日本人に不利なんて話を聞いたものです。欧米人は1年後のホリデーを決めて、さっさと予約を取り、しっかりネーム(予約の名前)までいれて確約させるけど、日本人は、よくて仮予約。名前を入れ込まないので、仮予約の席がどんどんなくなる、なんてことがありました。

そもそも、欧米人は1年後のホリデーを抑えてから仕事を調整するけど、日本人は、仕事ありきで空いているところにホリデーを入れるという順番の違いがありますからね。そりゃ、不利ですよね。(今でも、そうじゃい!という日本人も多いとは思いますが)

少なくとも、私の周りの友人(知人の多くも)は、来年のゴールデンウィークを抑えにかかっているのです。その前の年末年始はスキップしてでも、ゴールデンウィークに照準を合わせています。

来年かぁ〜。
私は来年、どこで何をしているんだろう。

20代の頃は、いつもそう思っていました。30代になって、家族を持って、息子の成長に伴走しながら、来年はここで、こうして、こうしているから、そのために今はこうしよう、なんて生活をしていきました。

だから、激動だった20代とは違う30代だった、なんて思い込んでましたが、今日(今、妻の自転車が壊れているので)久しぶりに家族3人で、近所のスーパーまで歩いた時、はたと思いました。そう言えば、息子がまだベビーカーに乗っていて、それを押しながらこのスーパーに来ていた時、今の場所に住んでるなんて想像だにしていなかったな、と。

そういうことです。来年のホリデーを早めに抑えてわくわくすることはあっても、その時、どこで何をしているかは分からないということは十分にあるのです。だからこそ、楽しいというか。頼もしいというか。例えば、来年のGWのホリデーにニューヨークに行くとして、その予約にネームまで入れて確約するとしても、その時に、出発する家は、今の所とは別かも知れない。

そんな一年間って、ふわふわとして不安というより、それぐらいのバッファがあった方がいいじゃないか、と思う質なんでしょうね。そうやって生きてきたから、そうやって生きていくんだろうな、と。一番嫌なのは、ある日突然、外的な要因で半強制的に「どこか」へ行かされるということです。そんなのは御免なので、自分でしっかりと準備するというか。

1年後のホリデーを予約するのと同時に、1年後の「どこか」で「何」をしているかを同時に準備にしている。それを1年前から見て「何があるかわからないもんだ」と言っているだけで、それはあくまでも結果です。どんな結果になるかは分からないけれど、動き出していることに変わりはないのか。(な〜んて独りごち)

連休の終わりの夕暮れ、駒沢からしんどくなってタクシーで帰宅し、息子は今日ゲットいたおもちゃと戯れ、妻は夕飯を造り、ガーリックのいい匂いが漂う部屋で、私はそんなことをぶつぶつと打っています。

今日、この時点から1年後、1年半後、二年後、どうなっているか分からないと感じているのは、未来にむけて動き出したからで、その結果を言っているんだな、と。ただ、ホリデーありきの体は崩さず、これまで通り、わくわくすることに向けて、準備に入ります。

「は〜い」。
ごはんが、できました。



■2018年5月1日
『あくまでも、どうしたいかの具現化』

ウィズ・ミュージック。まるで夏本番のような日差しで、部屋の中は、その分ひんやりして気持ちのいい午前です。BOSEのスピーカーにつないで流す音楽は、久しぶりに届いたJason Mrazの新しい音(というか声)。この人の言い回し、リズムのとり方、何より声がやっぱり好きだ、と思いつつ「Have It All」を聞いています。

早いもので、今日から5月です。誕生日が来たら、私もまた1つ歳を取るな、なんて思いながら、小学校へ「いってきま〜す」と元気よく出て行く息子を見送りました。

その後ろ姿を見ながら、昔、私(京都)の小学校では、5月1日のメーデーはほとんどの先生がいなくて、自習だったことをぼんやり思い出して、あぁ、やっぱり京都は共産党が強かったんだな、とか。大人の事情というか政治的なことを後々になってよく実感します。

政治的なことと言えば、朝鮮半島と中東で世界の動きが盛んですね。朝鮮半島交渉(というか話し合い?)で一歩出遅れた感のある安倍首相は、昨日、ゴールデンウィークの混雑の真っ最中に成田空港から中東に飛びました。

私たち家族は、その時間にちょうど那覇から戻ってきたところで、警察犬や警備が多かった(と妻は言ってました)そうです。

まぁ、バニラエアを利用したわが家は、成田空港でも第3ターミナルに到着で、警官の姿は第2ターミナルと第3ターミナルの通路(トラック?)で見たのですが。にしても、3タミまでの移動は、過酷ですね。認めたくないですが、歳のせいというのが大いに関係している気がします。

ゴールデンウィークに沖縄に行く。

そう決めてから、ANA、JALの早期申込みを狙いつつ、セーフティーにLCCも抑えようと思い、バニラエアを取りました。家族3人で、沖縄往復が10万円を優に越えるGW。ANAでも取れましたが、ふと、Peachと統合されて消えゆくバニラ。一度、乗ってみたいな、という気持ちが勝り、バニラで行くことにしました。

シートピッチが狭いこと。毛布や機内食など、必要な人は「追加料金」という形で必要な分だけ追加して、それ以外の人はスカスカのサービスで安くする。それが移動することに特化した格安航空会社(LCC)の特徴だということは知っているし、そのことに賛成だし、だからこそ、わが家は必要な分だけしっかりと追加して取りました。

で、3列・3列の小型機、A320機に乗り込むと、これまでのスカイマークやジェットスターでは感じなかったほどの窮屈感。ふと、斜め前を見ると、若い男子三人組が座っています。足が前の席にくっついて見るからに窮屈そうでも、乗ってます。思えば、空港で一夜を明かし、助手席のようなところでガタガタ道に揺られ、アンデス山脈沿いを移動し、大草原や湖の中を「安い」というだけで耐えてきた旅は、私自身幾度となく経験済みです。

なのに、シートが硬く、なんだか眠れない。認めたくは無いですが、これは完全に歳のせいだと思いました。成田から那覇までの3時間弱の飛行が、思った以上に辛かったです。飛行中だけでなく、成田のターミナル間移動、加えて那覇でも、ピーチとバニラはターミナルからバスで10分ほど移動する倉庫?のような場所に着陸します。

那覇空港に到着するとまず、タラップを降りて歩いて倉庫のようなターミナルに入ります。そこで、荷物を受け取るのですが、それはターンテーブルではなく、高速バスよろしく、トラックで山積みされた手荷物を係の人が順番に並べていきます。ネパールのポカラやケニアのロッジ近くの空港ではそうだった、なんて思い出しながら。

荷物をピックアップすると、ターミナル間移動のシャトルバスを待ちます。ピーチ、バニラで沖縄に行く際は、この一手間も加えての安さだということをもっともっと広報して欲しい、なんて思いながら、ANAやJALが使うターミナルに到着。

そこからGWで大混雑のレンタカーピックアップ。午後2時について、4時まで車が借りられず、途中でちょっとスーパーマーケットに寄って泊まるホテルがある部瀬名に着いたのは、7時前でした。

サンセットをバックにサックスの生演奏が聴けるホテルの一押しサービスも、初日、逃してしまいました。

何をするにも沖縄タイム。のんびりしてて、すごく非日常です。それを「いいなぁ」と感じる気持ちの余裕は、LCCでいろんな「一手間」に驚きすぎた身には染みきらなかったというか。

宿は沖縄の中でも屈指の高級リゾートホテル、ブセナテラス・ビーチリゾート。デラックスオーシャンビューの眺めを堪能しながら、海沿いのテラスでバーベキューをしたりしました。

海に入って、プールで泳いで。朝食もゆったりのんびり、沖縄の(まだ)やさしい太陽に照らされながらリゾートしました。そのうち、身体の中のネジが徐々に沖縄タイムに調整されていきながら、車で1時間、那覇市内へ行き、壺町のやむちん通りで、お気に入りの皿と器を買ったり、沖縄県立芸術大学の前の古民家居酒屋で沖縄そばを食べたり。

日暮里からのスカイライナーが満席で、特急で成田空港に着くと時間がギリギリで、なんとか乗り込んだ飛行機は狭く、窮屈で、うまく眠れず、下ろされた那覇空港でも色んなことがうまくいかず、なんだか時間ばかりが経ってしまった昨日の移動日とは打って変わって・・・

観光客数でハワイをしのいだという沖縄のリゾートタイムが、私の身体をいやし、ネジを緩め、ゆったり、のんびり包み込んで、沖縄でまる一日過ごすだけで、いろんなことが「あり」になっていきました。

東京への帰路、同じバニラエアで同じ手順を踏んで乗り込んだのに、不思議なモノでぐっすり眠れました。

歳を行くと、いろんなところが硬くなります。いろんな経験が邪魔をして、なんだかうまくいかなくなります。それを教えてくれたのは、若者たちであり、ずっと隣にいた6歳の息子です。

いつも楽しむ。思い切りやる。そして、目の前の時間と空間を凝視し、飛び込む。

若さって、素晴らしいです。それは経験のあるなし(蓄積)だけでいう「年齢(経年)」ではなく、硬いからだをほぐして、どれだけでも「そこ」に浸れる柔軟さ。いってみれば適応年齢の若さ(柔軟さ)です。

それを持っている人、あるいは「そう」なってからの楽しさは、リゾートという魔力であり、お金を超えた価値です。

あくまでも、どうしたいかの具現化。それに対して手を抜かない徹底的なホリデー。ゴールデンウィークの前半も終了しました。残すは後半です。わが家は、東京で後半のホリデーを満喫します。お天気が優れないようですが、それでも、手を抜かず。



■2018年4月22日
『今日と明日と日常と非日常』

シリア、朝鮮半島という「2つの火種」を抱えた世界の情勢が、一気に動いた1週間だったように思います。それぞれを、こんなにもバーチャルに感じてしまうのは、情報があまりにも速報で、機械的で、だから実感が伴わないからかな、とも思います。

世界のニュースが、いつも他人事です。そうであってはならないのに、上っ面です。どこどこで、だれだれが、なになにした、する、するかも知れない。そんな文字を追いながら、スライドするスマホ画面。流れていくニュース。

そんな中で、自衛隊の日報はズシリと響きました。目の前で起こっていることを今日のこととして記し、明日を懸念した上で眠りにつく。一日の終わりが、明日に確実に繋がっているという緊張感があります。

そんな日報を、無いものにしようとするバーチャルな日本での、国会での答弁が、本当に恐ろしいと思います。個々の私利私欲、そして数量化された目標と評価基準。そんなぐらぐらの軸で、すり抜けようとしていることに、本気でストップをかけるにはどうしたらいいのか。

国会前で声を挙げ、大きなうねりとなって主張しても、政治は政治家の「ぐらぐらの軸」で成り立ち、そんな立て付けのもろい今日が、明日に繋がっているようでもなお、私は、居ても立ってもいられないと思いつつ、何もせずに居て・立って・いるのだから、本当に駄目だな、と思います。

白人に席を譲らなかったある黒人の勇気。それが大きなうねりとなったアメリカでの話。今、銃の被害にアメリカの若者が声を挙げました。少し前には香港や台湾でもそんなうねりがありました。なのに、それが弱火になり、消えていくという図。

昔なら。そんなうねりが口伝えで広がり、おそらくは尾ひれが付いて「大きく」なったからよかったのかな、と想像すると、今は、あまりにも事実が原寸大で速報されるから、うねりが形を成さないのか、とか。そんな現実を前に、「だから」バーチャルに逃避しているのなかな、なんて。

机上でそんな空想をしている私の今も、しっかりとバーチャルです。

リアルなのは、この季節外れの夏日の暑さ。モワッとする気温だけです。そんな中、息子は総合スポーツ教室の体験に行き、汗だくになった後、間髪おかず友達と公園に出かけていきました。

“サッカー大国ブラジルでは、小学生の全国大会を廃止した”そうです。それは、小学生で1位になろうとすると、「そのための」練習しかしなくなり、ナンバーワンになれても、オリジナリティのあるオンリーワンのプレーができなくなるからだそうです。

そういった主旨の説明を聞き、だからこそ、いろんな身体の動き(総合スポーツ能力)が重要なんだと並べ、小学1年生から、とにかく走って、飛んで、回転して跳ねて、相手との距離感、バランス、力の強弱、そして負けたくない気持ちを育みます。

最後に、「お子さんの命は守ります。骨折までは許してください」なんて言葉で締めくくる説明会を聞いていると、さんざん繰り返される〈今の子供たちが失った〉「3つの“間”」に危機を感じなくもないです。

遊ぶ、時“間”、空“間”、仲“間”。

ナンバーワンになって欲しいというわけではなく、オンリーワンで。SMAPの歌のようなことを、突き詰めていけば、やはり息子には望む訳で、とにかく体幹のしっかりした軸のある人間になってほしいなと感じます。

心と身体を鍛えるボーイスカウト。仲間との絆を育て、勝ちたいと思わせるサッカーや野球の少年チーム。そういうのとは一線を画した、総合スポーツ活動というのがある。外国向けには「ニンジャ」というワードで広めているようですが、まぁ、4月も後半に入って、入学したばかりの小学校での活動が、本格化しそうな感じです。

さて、今週の土曜日からわが家は沖縄へ行きます。家族そろっての沖縄は始めてて、息子にとっても初めてとなります。予報ではとにかく暑くなりそうということで、プライベートビーチとプールを備える超リゾートホテルに滞在するので、一足先に夏夏夏夏ココナッツを満喫してこようかな、と思っています。

人が動くGW。旅行者は過去最大規模に膨れあがると予想されています。訪日外国人、国内移動者、そして出国組。その多くが逃避したバーチャルを日常と仮置きして、非日常のためにリアルな混雑の中に身を投じるのだから、いやはや何とも、それはそれで平和なんですね。

非日常。誰かの日常にお邪魔する、その人にとっての非日常は、音と色に溢れています。そして、音って不思議です。色は魔法です。そんな音色に染まって、うっとり、まったり、旅したいと望むのは、どこか必然なんでしょうね。

代田橋に住んでいた頃、休日の昼下がり、沖縄タウンの小さな店からサンシンの音が聞こえてきて、それはたぶん、レッスンの最中で、レッスンをしている人達の日常が、私の中に非日常として聞こえてくる場面を、よく想像します。

旅ってそういうことだと思います。沖縄で、例えば、エイサーの息吹を感じる事ができたら、エイサー好きの息子のやる気スイッチは、また着火するかな?なんて思っています。

兎にも角にも、このGWまっただ中の土曜から、初めてのバニラエアで那覇まで飛びます。楽しみです。



■2018年4月15日
『ただただヒーローを見るように』

次から次へと「やっぱ、あったわ、めんご、めんご」みたいな感覚で、公文書やら決裁文書がどんどん出てきますね。省庁の文書管理って、いったいどうなってんの?と思わざるを得ない感じです。

民間大学の学部創設に、首相云々って、それ、ありですか?という根本的なところよりも前に、「ございません」って国会で言うということは、それはもう、「ござってはいけない」のであって、「あ、すんまへん、やっぱり、ございましたわ」、では済まされないのです。

公務員ですよね?株式会社における株主というのは、利潤を目当てに選りすぐって投資しますが、国民は、税金を無条件に徴収され、だからこそ、しっかりと職務を果たしてもらわなければならないわけです。

言ってみれば、税金を払っている国民を、株主扱いするなよ、と思う訳です。株主ほどの「権利」もない代わりに、省庁で働いている方々への信頼がある、というか。それをパワーバランスで、顔色を見て、忖度?その末、見せたり・見せなかったり、書き換えたり、ないですって言ってみたり。

何してるんですか?

世間の目にさらされ無さ過ぎなお役所対応に、株式会社で働く人達は、一様に首を傾げています。そんなサルでもわかるようなことをよくするな、と。社内倫理と慣習によって、痛い目に遭っている企業はごまんとあって、だからこそ一層に慎重にならないといけないのは

コンプライアンスと文書(データ)管理。それを、つるの一声のように政治家がどうのこうの繕うから、こういうことになるのかな?と、自民党の二階さんの言葉を借りれば「いいかげんにしてほしい」と私も思います。同時に、二階さん、私なんかと一緒に願っているだけでいいんですか?とも言いたくなります。

安倍首相を巡る文書問題。森友と加計問題も、スパッとはっきりさせませんか?来月にはアメリカ訪問もあるし、朝鮮半島問題、シリアにオリンピックにロシアとの関係まで。日本は今、やること山盛りですよ。

それに加えて、働き方改革だの、憲法の書き換え、皇室の節目も来て、さすがに、【また、病気を理由に逃げ出すかな?】と心配するのは私だけでしょうか。

自民党の総裁、三選は無理だと小泉元首相は言います。小泉次男も、鼻息荒く、「おかしいじゃないですか」と言っています。中曽根三世、小泉二世、そんな世襲の若い組が、票を集め出したとき、野党は打つ手があるのか?と心配になったりもしますが、

近々、濃紺の幕をバックに、深紅のネクタイをしめた安倍首相が「辞めます」という記者会見(デジャブ?)を開くのか否か・・・。

辞めます、なんて会見、関ジャニ∞の渋谷すばるさんだけでいいですよ、とも思います。

40歳で単身ニューヨークに渡ったピースの綾部さん、36歳で海外での音楽修行に出る渋谷さん。夢を追いかけて、挑戦するという年齢が、昔の26歳から、後ろ倒しになっているようにも思います。それは、平均寿命が延びたからですかね?

そんな中、アメリカから連日届く大谷翔平選手の活躍。打って、投げて、投手と打者の二刀流を、そのままメジャーに持っていったすごさ。どうせ、駄目だよ、という声も承知で、やってのける力。それに加えて、いずれ調子が悪くなって、「最初だけだった」なんてことを言われるだろうことも承知して、それに向けた準備をしているというから、大したもんです。

二刀流表紙で大谷翔平を特集した雑誌『Number』を読んでいると、本当にこの「子」は、まだ23歳なのか?と驚かされます。スリーランを浴び三失点ながらも味方の援護で勝ち投手になった初先発から、2戦目の完璧なシャットアウトゲーム。ほぼノーヒットで投手・大谷を見せつけたかと思うと、打者としては三試合連続でホームランを打ってしまうあたり。

毎日のように届く、真っ赤なエンジェルの大活躍に、見ているこちらは勝手に「ハードル」をどんどんあげていくのですが、そんなハードル、ないかのような安打、安打、タイムリーという吉報。

“先入観は可能を不可能にする"
“期待は応えるものじゃなくて越えるものだ"
“楽しいことより正しいこと”
(以上、大谷の言葉、Numberより)

活躍する姿が清々しいのは、普段の彼の、こうした考え方、生活態度に現れているからでしょうね。一見、くそまじめで「つまらなく」、遊びのない退屈人間に映ったりもしますが、結果、が、ねぇ。半端ないですからね。

あのメジャーリーグを舞台に、打って、投げて、まるでテレビゲームかアニメの世界のような活躍ぶりですから、見入ってしまいます。

ちょうど野茂英雄投手がスト明けで客足の鈍ったメジャーリーグに、トルネード投法で大旋風を起こしたとき、ロサンゼルスにいた私は、周りから「NOMO、NOMO」と声をかけられたものです。

その後、日本人メジャーリーガーがどんどん増え、当たり前のようになった今、当たり前とは一線を画した大谷翔平というプレーヤー。

メジャーリーガーですから、普通一般から言えばもちろん、「それでお金を稼ぐ」人の中に置いてもずば抜けた存在であることは間違い有りません。そんな人達の集まりが、当たり前という恐ろしい世界(メジャー)で、当たり前を越えること。

野茂にはトルネードがあったように、イチローには安打と足があったように、大谷には投げて、打っての二刀流があるように思います。

それは、当たり前を越えることのできる魔法。その魔法を、まるで魔法使いのように簡単にやってしまうように見える辺りも、なんだか惹きつけられます。

岩手県で生まれた素朴な少年が、花巻の高校に行って、日本のプロ野球には行かずメジャーに挑戦する。そんな風に言っていた彼には、まだ二刀流という魔法はなく、日本ハムで、栗山監督の下で磨いてきた魔法の鏡が、ピカピカになった時、海を越えたんですね。

私は、自分には絶対に出来ないことをする人を見ると、とても清々しい気持ちになります。

それは、悔しさとか、重箱の隅を突きたい衝動とか、何となく目を背けたくなるような(自分に対しての)むなしさ、みたいなものが一切ないからです。

ただただヒーローを見るように。敵チームのファンの子供にバットもくれよ、とねだられ、サインボールをあげたあと、バットを届けた大谷選手。言ってみれば、あの少年と同じ感覚で、私は大谷翔平のプレーを見ている気がします。

4月も早いモノで半分が過ぎました。今日やること、明日すること、明後日すること。それが積み重なって1ヶ月、半年、一年、三年、五年先の未来。「ぼくには魔法がないから、無理」なんて思っていると、ふと「魔法」なんて大それたものを手に入れたって、使いこなせない、と思い直すようになりました。

もし、この先の未来に、「魔法」が舞い降りてきたとして、それを使いこなせる体力と技術と気持ちを、しっかりと身につけたい。

私は、ヒーローをただただ見ながら、そんなことをちょっと思ったりします。



■2018年4月8日
『ボタンは1つ』

黄砂が舞ってます。花粉も多いです。でも、すごく気持ちのいい天気なので、外に出たい。と思うのですが、鼻はむずむず、何だかざらざら。そういう、春特有の休日です。

近所の公園では、商店街主催のさくら祭りがあって、地元密着のプロサッカーチーム(FC東京)がキックゲームをやってくれたり、銀行や酒屋さんが、ポッププコーン、焼き鳥、焼きそばなどの屋台を出したり。区の民生委員や区役所の方達も、子供向けのリサイクルクイズや環境アセスメントなんかをしていました。

見渡す限り、おじいちゃん、おばあちゃん、お孫さん。家族が公園に集まって、なんとも春の光景でした。

このお祭りのメインイベントはビンゴゲーム。一人三枚まで購入可能なビンゴカード(1枚100円)を買い、ずらりと並んだ景品の前で読み上げられる数字を折り曲げていきます。

よく当たる、元は絶対に取れる。という評判通り、当たる、当たる。息子はパジェロのラジコン、妻はドライヤー、私はカップ麺に大量のお菓子。持って帰るのがやっとな程の豊作でした。

そんなお祭りも、(息子は)これまでのように私たちとセットで楽しむのではなく、友達同士で楽しむようになるんでしょうね、小学生にもなれば。

先週の金曜日、息子は小学校に入学しました。

天気予報では雨かも知れない、ということでしたが、なんとかもってくれ、行列を頑張って、校門の「入学式」の看板の前で記念写真を撮り、真新しいランドセルには、新品の教科書をパンパンにして。

どきどき、わくわく、もしかしたら、息子は教室の隅っこで縮こまっているんじゃないか?と心配しつつ、(入学)式が終わって、親も教室へ行く、、、

と、誰よりも大声で、先生の質問に答え、余計なことを言い、調子に乗っていました(笑)。いつもの息子なので、ちょっと安心しました。

一人ずつ机に座り、今日会ったばかりの担任の先生の話を聞く息子たち。小さい、かわいい、というよりも、これまで幼稚園(の教室)に比べると、なんともしっかりして頼もしい、と感じる小学一年生。

それにしても、幼稚園や保育園でしっかりと「教わった」のだろう子供が多く、お行儀もいいし、「おめでとうございます」と挨拶されれば「ありがとうございます」と返事をしていました。

さぁ、これから、ここで、このクラスメイトたちと、一体どんな毎日を過ごすんだろう、と想像すると、私まで楽しくなりました。

入学したらiPadを買ってあげる。これはずっと前から約束していたことで、ちょうど、昨日、新宿にAppleができたので、行ってみました。

Apple Pencilが使えるようになった新iPad。お目当てはそれだったのですが、最初に質問したスタッフが、普段はサポートにいて、技術オタクという方で。いろんな側面から、いろんなことを教えてくれました。

Apple Pencilが目当てなら、間違いなくiPad Proがお薦めだと。その理由は、映像を映す面と、その上のガラスの板(ここにPencilが当たる面)の間が離れているので、ちょっと浮いた所にペンがあたる感覚になる。

それに比べてProの場合は、2つのレイヤーがすごく近く、Pencilの接地面と映し出される面がくっついているので、「描いている」という感覚が紙に近い、と。

そんなことを聞いてから試すと、なるほどその通り。これはProかな、と。あとは料金比較。予算より5万円ほど高くなる。容量、カバーの種類、Apple Careという保障をどうするか、などなど、予算と相談しながら、いろんな用途を聞きまくり・・・。

技術オタクの例のスタッフが、自信を持って!と、タッチ交代したのは店舗スタッフの方。AmazonにGoogleなんかの名称がガンガン出てきて、実態に応じた説明をしてくれました。

あとは、Pencil。これをどれだけ使うか、と言うところが焦点になり、色んなアプリを紹介してもらって、それを息子に試させる。確かに、Pencilは使うかも知れない。けど、今、すぐ、と言うわけではないかもしれない。

何とも「友達」感覚で話せるスタッフの対応はAppleの特徴で。だからか、本音を聞き出せるという利点があって。

結局、iPad Pro(256GB)とシリコンのカバー(ミッドナイトブルー)、Apple Pencil、Apple Care。全部で12万円と少しでした。

スピーカーが両サイドに付いているPro。Xperiaもそうですが、スマホとiPadでは決定的に大きさが違い。その分、信じられないぐらいに音が良いです。後はPencilの書き心地。そして動画の画質。

値段は、値段です。どのスペックを、どうみるか。何に重点を置くか。それを考えて購入した息子のiPad Pro。「iPadで、さぁ、何をする?」というのは、どれぐらい「いじって」、どれぐらいの「発見」をするか次第です。

大学生の頃から、Macでパソコンに入って、大人になってからもMacの時代の方が長かった私自身、暇さえあればいじってました。

Windowsはややこしい、Androidはパソコンみたい。その対岸にあるApple製品の直感。本当に、清々しいほどにフィーリングでどんどん進んでいけますよね。

ふと、スティーブ・ジョブズは本当に気に入ったものしか買わないから、引っ越しした部屋には、しばらく何もなかったことや、まず「この大きさで、この形、そしてボタンは1つ」という(製品の)デザインを決めてから、技術者がその「箱」の中にスペックを詰め込んでいった、という話を思い出しました。

iPad Proから、Ed Sheeranの歌が、とてもいい音で流れています。それをVAIOの横に置いて、XperiaとiPhoneの散らばるテーブルの上で、これを記しています。

4月、本格的に始まる週が明けます。いろいろ考えても、結局ボタンは1つです。とにかく「押して」から。それから始まる「全て」に期待した春になりますように。



■2018年4月1日
『タイミングのいい人になぁ〜れ。』

今、リビング。窓の外では花びらが舞い、テレビでは、5回が終わった時点で14点の大量リードを奪った大阪桐蔭の試合が流れています。

春の全国高校野球(甲子園大会)も、今日がベスト8です。この4試合が一番面白いと言われます。夏の大会は、ベスト8のゲームが2試合ずつ2日で行われるので、“ベストな4試合パック"となる一日は、春にしか見られません。

それも今日は日曜日。甲子園球場には、観客が膨れあがっています。やっぱり高校野球人気でスゴイですね。

第1試合では東海大相模が競り勝ち、智弁和歌山は第2試合で見事な大逆転サヨナラ勝ちでした。そして、この試合。もし、大量リードされている花巻東が巻き返して、14点をもぎとり、延長戦にもつれこんだ末に逆転勝ちなんてしたら、「高校野球は本当に何が起こるかわからない」ということになるんでしょうね。

朝から球場でずっと見てたら、見ている方も(精神力が)持つかな、と心配にすらなります。この後、星稜高校が登場するというから、本当に好カード揃いですね。

よく考えたら高校生の部活ですよ。その全国大会の試合に、6万人を越す観客が集まるんですからね。プロ野球でも、昨日行われた試合の中で一番集客のあった巨人vs阪神戦(東京ドーム)ですら45,963人ですからね。単価は違うとは言え、この集客力と注目度、コマーシャリズムから考えて、爽やかな汗とキラキラした青春だけではない焦臭さを、(高校野球には)ちょっと感じたりもします。

さて、春の陽気が続いています。

今朝、ベランダに散りたまった桜の花びらをほうきで掃いていると、風がひゅうっと来て、また舞い散り、ヒラヒラと、掃いたばかりの所に落ちました。

なんでしょう、この感じ。せっかく掃いたばかりなのに!(イラッ)という気持ちよりも、風情みたいなものを感じるから不思議です。

4月1日。昨日まで見ていた桜は、どこか「終わった」ことへのねぎらいというか、これまでのがんばりだったり、辛さだったり、うれしさみたいなものと重ねていたのですが、今日からは、どうも桜の花の下、「始まり」みたいなものを感じます。

よく分かりませんが、昨日までは卒業(卒園)の気持ちで見ていたのに、今日は入学(入園)の気持ちで見ていると言いますか。

昨日と何も変わらないはずなんですけどね。時間も空間も。なのに、違う。こんな区切りを実感できるのは、子供がいるからかな、とも思います。家族が同じ「箱」に入って、移動していく日々だからかな、と。

それにしても桜がきれいです。開花が早く、温暖な気温が続いているので、陽気な気分が長く続いている気がします。

近所に新しいマンションが建って、そこに緑豊かな小道ができて、新しい人が、家族で、笑いながら歩いていて、桜が舞って、晴れていて、なんて気持ち良いんだろうと息をのみます。

同じ道、寒い冬には、人もなく、工事中で、なんだかキンキンと金属音だけが響いていたのに、人がいて春になると、全然違う景色になります。

同じ場所でも、同じ時間でもこんなに違う。

今、私は家族の中でまったりゆったり、大きな声で笑ったりしています。その同じ空間が、180度逆のような気分になる時が来るかも知れません。それは耐えがたく、とても辛辣で逃げ出したいかも知れません。

が、しかし、です。それは、同じ空間でまったく違う時間を過ごしたという過去があり、だから、「またそうなる」未来の可能性も十分にあるわけです。

息子は、今週、小学生になります。

これから、一人での行動が増えます。そして、彼の世界の中で、親にも言えない、なんとも絶秒に沈んだ気分の時もあるかと思います。

だから、コレだけは忘れずにいようと、確認し合いたいです。お互いに、楽しい時も、そうでないときも、いつかはコロっと入れ替わり、入れ替わるからこそオモシロイのだということを。

そして、この家族だけは、この空間だけは、いつも、諸々をしっかりと再確認できる場所でありたいと。

いろんな言葉を覚え、計算をし、遠くまで歩き、同じ距離でも自転車で速く移動するようになる息子。幼稚園を卒園する記念に作成された「卒園ムービー」で、私は息子に贈るメッセージに『タイミングのいい人になぁ〜れ。』と書きました。

これは、息子が産まれた瞬間に思ったことでもあります。まったく同じ言葉でも、タイミングによっては全然受け取られ方が違ったり、意図したことと逆になったりします。

タイミングがいい、とはその時間と空間の「軸」のようなものを察知して、そこにどう絡めていくか、というようなところがあります。

その「軸」をどう見るか。どう設定するか、は、たぶん、一番濃密に関係し合っている家庭での毎日が重要だと思うのです。

彼にとって、とても大事な家庭での時間と空間。そこで起こる様々なこと。それらを避けるでも庇護するでも逃げるでもなく、真正面からちゃんと向き合って、時にはぶつかって、しっかりと、きっちりと「乗り越えたい」。

そんな時間を、この空間(家庭)で過ごしたい。4月1日になって、これから未来を思うように見る桜。朝、きれいに掃いたベランダには、絨毯のように花びらが散っています。大量のコピー用紙を横に置いて、モクモクとマジックで何かを描いていた息子は、京王ライナー(という特急列車のような電車)を10両分、描き終えました。

そして、花巻東高校は1点も取れず、0-19で破れました。夏(の大会)に向けての「これから」。そんな気持ちで散っていく花巻東の選手を、私はテレビで見る訳です。



■2018年3月25日
『不思議な気分』

気温が一気に上昇して、各地で桜が乱舞。早く咲いたぞ、花見だ、花見だ、と各地でいろいろ場所取り合戦なんて様相を呈しているこの週末。

上野行きの電車は混み、それに相まって東急と日比谷線の「中目黒駅」は、目黒川沿いの桜を見ようと人が押し寄せていました。

目に見えて多いのが外国人。いわゆる西洋人というのも場所柄もちろん多いのですが、韓国や中国の方の言葉も頻繁に聞きました。

中国の方かな?あんな強引に入り込んで、突っ張り棒で邪魔だな〜、なんて思っていると、案の定、中国語でなんやかんややってました。もう、正直、言っても無駄感が出てますが、迷惑であることに違いはないです。

そんな目黒川沿いを陽気にのせられて歩いていた昨日、とても久しぶりに息子なしの夫婦二人散歩でした。たまにはいいものです。

ランチは早めに川沿いのグリル屋でサーロンステーキとワインを頂いたりして、ああ、なんとも春だな、とかみしめました。

先週の火曜日に卒園式を終えた息子。幼稚園を卒園して、小学校へ入学するまでのこの2週間(春休み)、彼にとっては、とても大切な時期だと思います。

その大切な時期の最初の週末、息子は、初めてのお泊まりキャンプに出かけました。

通っているサッカースクールのイベントで、コーチが引率してくれ秩父まで。バスに揺られて、鍾乳洞に行ったり、イチゴ狩りをしたり、アスレチックで遊んだり。サッカーももちろんするらしく、「しおり」を息子と一緒に読んでいるだけで、彼のテンションはマックスでした。

ちょうど先々週。自転車で転んだときに小指を挟んだらしく、右手小指を骨折していた息子。雨の日も頑張って超音波治療に励んだ成果(というよりも、こども快復力のすごさ)で、無事にキャンプに参加できました。

集合場所からバスに乗り込んで、いってきます、をするまで。息子はドライで、とてもあっさりと手を振ります。それを見送る両親の方が、なんだかんだと心配しては助言したりして。夜、ひとりで、泣くかな、なんて「心配事の欄」に記入した親たちを横目に、とても元気に旅立ちました。

で、私と妻。昨日、今日と、久しぶりに子供の居ない週末です。それもお泊まりで不在。

集合場所(新宿)で見送った後、そのまま目黒川へ直行しました。時間がまだ早いおかけで、そこまで混雑もしておらず、春を思い存分吸い込みました。花粉症の妻は、とにかく、がっちりガードの格好で、それでも愛でてました。

ランチも済んで、予約していたディナーまでの間。あれもこれも、したいことがあって、でも、いざとなると、そうでもなくて。一旦新宿に戻って映画を見ました。

「リメンバー・ミー」。泣きました。楽しみました。あの色使い、そして、音。やっぱり映画館で見ると、断然違いますね。スマホが手のひらの宇宙なら、映画館の絵と音は、なんでしょう、エアーズロックです。アンテロープキャニオンだしエンゼルフォールです。

家族がテーマだと、ここ最近、私の涙腺は緩みっぱなしになります。

映画の後も、BRUNOでホットプレートを見たり、Leeでジーパンをみたり。ぶらぶら、キョロキョロとしながら、ふと「はやく〜、かえろ〜」と手を引く息子がいないことを思い出してみたりしながら。

夜は、六本木へ移動。桜がライトアップされる東京ミッドタウンで、夜桜を愛でました。オーロラを見る透明のテントみたいなところに数人が集まってパーティーをしていたり(なんて素敵なお花見なんでしょう。ビールで乾杯!じゃなくて、シャンパンでチアーズでした)、男女が顔をくっつけて自撮していたり。

ああ、こういう春もいいな、と思いつつ、東京ミッドタウンにあるニューヨーク・イタリアンの名店「Union Square Tokyo」で妻と2人、グラスを合わせ、美味しい料理を堪能しました。

会話のほとんどは、「今頃、息子は、どうしているだろう」ってことで、また言っちゃったな、と苦笑いなんてしながら。

今朝。私は10時まで寝ました。花粉で鼻が詰まってしょうがない妻は先にベッドから出て、普段はなかなかできない「すべてのこと」を、ササッと片付けてしまい、ゆっくりソファに腰かけていました。

今日も天気は最高です。部屋の窓から満開の桜が見えます。空が突き抜けています。ここに越してきて、本当によかったな、と思う季節の到来です。

私は、コーヒーを淹れて飲んで、新聞をめくりつつ、「今頃、息子は・・・」とまた言って、なんだか、ここに居るべき人が居ないことに、頼もしさを感じる、そんな不思議な気分です。



■2018年3月18日
『桜が咲いた』

気温が高く、風が強い。そんな春の陽気は、花粉が舞って舞って、大変なことになっているようで。今朝、まだ時間もはやいうちから、花粉症の妻は、涙・鼻水が洪水して、もう逆切れ状態でした。

お肌にやさしいティッシュペーパーで、(それでも真っ赤になっている)鼻をかんでは、「っもう〜、嫌、取り外して水洗いしたい」と叫びつつ、太刀打ちできない自然相手に無力さを痛感しながら、処方された薬を一錠、二錠、三錠と飲み増やしていました。

花粉症でない者からしたら、その辛さは想像するだけです。のほほんと「そんな」母親を見る息子は、「たいへんですねぇ、かふんしょうって」とかなんとか言いつつ、はやく食べなさい、片付けなさい、手を洗いなさい、等、諸々「(逆ギレ)被害」に遭っていました。

そんな息子も、先週の金曜日に小指の骨折が分かり、骨折を一度もしたことがない私は、その痛さも想像するだけ、です。

花粉症に骨折。想像するだけですが、どちらも大変そうだな。と、私は「私」のことにおいても、もしかすると想像するだけで終わらせていないか?と不安になったりもした、朝です。

さて、桜が咲きましたね。

東京でも靖国神社の桜が咲いて、開花宣言がされました。昨日、新宿駅の東南口、GAP前の広場の桜も咲いていました。早咲き桜に、十数人が集まって、スマホを構えていたので、私もエスカレーターを降りてから一枚、カシャリと撮りました。↓

何とも東京的な桜です。高層ビルが青空を切り抜いて、その間に桜という名コンビ。やっぱり桜っていいものですね。花粉さえなければ、もっと外で「いいものだね」と言い合えるのですが、妻にとっては、「外=花粉」の状態。写真を撮ったらすぐに、近くのピッチェリアCAPOLIに逃げ込みました。

そこでランチをしていると、隣に関西から東京に遊びに来たらしい関西人カップルが、大きな声で話していました。いやいや、関西の店にも「こんなやつ」いないよ、というぐらいの大声で、どうやら「本場のお笑い」という立場から、新宿ルミネの笑いを語っているようでした。がさつで大声、というよりも、この「立ち位置」が、同じ関西人として恥ずかしく思いつつ。

ふと、お笑いには一人芸、コンビ芸、トリオ芸などがあって、落語に漫談、漫才やコントとスタイルも多岐に渡ります。その中で、いちばん多様性があって斬新なのは「ひとりでできる笑い」だよな、と独りごち。その代表格がR-1って事になるのかな、と思いました。

キャラ設定だけで勝負するようなものばかりで嫌になっていましたが、ここ数年、優勝するのが「そういう笑い」だとはいえ、中にキラリと光る個性的な笑いがあって、dボタンで(視聴者に)選ばれる笑いも、キラリと光る方向に照準があっているように思います。

裸で大暴れするチャンピオンが続いたR-1、今年はほぼ盲目の漫談家と紹介される濱田祐太朗さんが優勝しました。本人の言うとおり、かみたおしたし、他のチャレンジャーもうけていたので、まさか、という感触はよく分かります。

が、個人的には、今回のチャンピオンは、とにかく〈ちょうどいいところを突いてきた〉ことにあると思います。ちょうどいい「顔」「声」「しゃべり方」「ネタ」「自虐」。どっちか迷ったら、笑といてくださいよ、という〈盲目あるある〉が、とても自然に笑えました。

審査結果が見えない濱田祐太朗さんに寄り添って、親切に教えてあげていた女芸人が優しいと話題になったり、彼と同期のユリアンが、R-1のエンディングで「ほんまは見えてるやろ」といって、本人が「見えてへんわ」と突っ込んだことが話題になったり。いろんな意味でも注目された大会になりました。

一人だけで客の前に立って、笑わせる、というとてもシンプルな構図で、アイデアがどんどん生まれて、多様化して、尖ってきた笑わせ方。その日本一を決めるR-1での優勝。

みんながみんな「いじられる」のを望んではいない。だからハンディキャップのある人たちの「希望」にはならないかも知れません。濱田祐太朗さん本人もそういう主旨の事をおっしゃっていました。

それを聞きながら、それはそうだよな、と改めて思います。お笑いが「好きな人」と「そうでもない人」がいて、その大きな区分けの中に先述のいじられるのを望む望まないも入るんだな、と。

濱田祐太朗という桜は確実に咲きました。桜は散るから美しいのだと言われます。それも「すぐに」散るからだと。R-1という大会で花咲いた「桜」が、確かに散っていることも事実です。が、誰だったかが言っていました。

桜の花は、散るから美しいのではなく、また咲くから美しいのだ、と。

家の前の桜の木も、蕾をつけています。来月を待たずして、どうやら咲きそうです。



■2018年3月11日
『丁寧に、じっくり、正直に。』

7年という月日は長いです。子宮の中で出会った小さな命が、お腹の中で育ち、この世に誕生して、寝返りを覚え、よちよちと歩きだして、卒乳して。

さらに言葉を覚えて、色んな人と出会い、あちこち走り回る程しっかり大地を踏みしめては、一丁前の口をきくようにもなる、ぐらい長い月日です。

2011年3月11日に発生した東日本大震災から、丸7年が経ちました。この年に生まれた子は、この春、小学生になります。そして、この震災を知りません。

東北の被災地では、変わったモノや、(変えちゃいけないと必死に守って)変わっていないモノがあります。地域コミュニティや〈てんでんこ〉などは教訓として認知もされました。

一方で、誰のどんな既得権益で、変えたいのに変えられないのか。7年も経っているのに、遅遅として進まないプライオリティの高いモノもあります。

目先のことだけを考えて、しがらみで、がんじがらめにされていると、同じことが、同じように繰り返されるようで、本当に、もう、呆れてしまいます。

なのに、日本は(全体的に?)、やたらと東京2020です。震災復興という「言葉」を上乗せしても、根本にあるのはプラスイメージの成長戦略。この東京オリンピックイヤーの2020年をターゲットとして、色んな企業で中期計画が立てられ、予算が組まれています。

私は、この「東京2020」を聞く度に、震災のことを忘れているというか、そっちはそっちで、と区切っているように思えてなりません。お飾りよろしく、震災復興も兼ねて、なんて言葉が入れば、余計にそう思ってしまいます。

訪日外国人観光客の増加、日本のカワイイ文化の世界基準、成熟期を迎えた日本社会、そこにある町工場の確かな技術力と、勤勉さに裏付けられた信頼。

日本という国が純粋な「豆」でなくても、いろんなものをブレンドし調合する能力がずば抜けていて、だからもう、日本は1つのブランドと化しているように思います。

手のひらのスマホがどんどん宇宙化していき、色んなものをネットワークでつなぐ。街中にはWi-Fiが無料で飛び交い、どこでも電子マネーが使えるので財布が不要になる近未来、が迫っています。

VRにARといった拡張した仮想現実の中で、〈現物〉を介した種々を放棄し、それらを仮想して結びつく時代が来たとしても、今現在必要とされるモノで、不要になるものって、果たして、言われているほどたくさんあるのでしょうか。

出版不況が叫ばれ、CDが売れず、教科書もタブレットになる時代は確かに来ます。だから、今のように印刷するものが多くないのも分かります。プレスするデータが減るのも理解します。が、常につきまとうのは、完全になくなることはない、と言うことです。

今のような利益が上げられないから、今のような規模で存続することは出来ないということもあるでしょうが、活版印刷技術は、もうそれはそれで1つのアートです。需要がある以上、やはり不要、と言うことにはならないように思います。

LPレコードやカセットテープの音源が、ストリーミングがこれだけ普通になって、再び注目されるようになりました。それはかつてのような規模ではないにしても、やはり必要だという声があるわけです。

丁寧に、じっくり、正直に。手間暇かけて本物を作る。そんな日本人の物作りの根本を大事にして、〈現物〉を介さないネットワークでも、日本人の「らしさ」をしっかりと確立させていきたい。そんな風に思います。

GLOBALという言葉に踊らされて、大きなやつが小さいのを食って、より大きくなるパックマンのような企業が現実として強いです。ドラマ「陸王」のこはぜ屋のような例は少ないかも知れません。

確固たるメイド・イン・ジャパンの証。その強さ。さらに持ち合わせる柔軟性。色んなモノを柔軟に受け入れて形にしていくフレキシブルな姿勢。それを持って成し遂げられてきたメイド・イン・ジャパン。

いつしか、メイド・イン・ジャパンの上に胡座をかいて、「順応しよう」とする気持ちを忘れてしまい、「これはこうだ」と限定し、意固地に「古い」ままだと、それは淘汰されるべき結末です。

雑誌「ソトコト」で、地域×ITという特集がありました。ネットで世界は繋がった。これまでは、「場所」に集まらないと、情報は得られなかったし、身につけた知識も使えなかった。が、これだけネットワークが繋がると、英語を身につけたら外国人と気軽にスカイプで話せる。情報はネットにある。

そうなると、狭い都会でせせこましく育った子供よりも、山・川・自然の中で駆けまわった子供の方が「話」を持っている。英語をどれだけ知っていても、話す内容がなければどうしようもなく、大事なのは、あくまでも「中身」。その中身は日々の生活から形成される。

場所を決めて、そこで時間と空間を越えて繋がる相手がいて(ネットワーク)、その相手とリアルな話ができるという構図。これぞ、近未来のメイド・イン・ジャパンを作っていくのでないか。雑誌「ソトコト」の特集を読んで、そんな風に思いました。

虚栄のメッキを身に纏って、吹きだまるように集まっていた都会の空間から、完全に個々が個々のオンデマンドでアクセスし、集まり、生みだし、発信する時代。場所も時間も関係なく、虚栄もメッキもただ、という時代です。

津波が来たら、人の事よりまずは自分。一人一人が自分のことだけ考えて、とにかく高台へ避難しよう。そんな東北の「てんでんこ」を聞けば聞くほど、この「裏返しの教訓」の中に、表の「非てんでんこ」的なことがどれだけあるのだろう、と考えます。

同じように、時間も空間もオンデマンド、〈現物〉を介さないつながりの中に、どれだけ逆の現象が起こるか。LPレコードにカセットテープしかり、便利や効率を超えた「無駄」の「味わい」を求める機会も多くなると思います。

そんな「味わい」を求めるとき、丁寧に、じっくり、正直に。そんな日本人のマインドは強力なパワーとなります。これから近未来の超高速回転の進展の端々に求められるであろう「味わい」。

震災から7年が経った東北には、味わい深い伝統芸がたくさんあります。そこに「ブランディング」する若きアーティストも多いです。そんなコラボが成功すれば、震災の時には存在もしなかった○○が、今や誰もが知るモノとなるぐらいの時間が経過し・・・、なんて記す事になるんでしょうか。

そんなことを楽しみに。



■2018年3月4日
『深呼吸したくなるような、春』

ひな祭りのこの時期って、こんなに暖かいんでしたっけ?土、日、もっと言うなら先週の木曜ぐらいから、本当に暖かい日が続いていますね。

冬の間、部屋に閉じこもっていた植物たちを、久しぶりにベランダに出して、思い切り日差しをあげました。霧吹きで水もあげて、〈日向の緑たち〉は、とても気持ちよさそうに、光合成していました。

見ているこっちまで、気持ちよくなるから、春っていいですよね。

家の前の公園では、休日ということもあって、レジャーシートにランチを広げて、ピクニックする家族連れが多かったです。そこにドッグランで走り回る犬と、サッカーボールやバトミントンの羽を追いかける子供達がいて、なんとも「春が来た」という光景でした。

公園の一角では、フードトラックもたくさん出ていて、カレーや、つきたての餅、たこ焼きにアイスクリームなんかを売っていたので、賑やかな雰囲気に、彩りと香りをオンしていました。

そんな公園を、息子は自転車で前を行き、眩しい光が木々の間だから漏れて、早咲きの桜もあって、その花びらが強い風に吹かれて舞って、深呼吸したいような心地よさに、急に砂ぼこりで目が痛くて。

この、冬を越えて、春になるという感じが、こんなにもカラフルで、こんなにも軽やかに実感するようになったのは、いったい、いくつぐらいからなんだろう、と考えます。

春になって、「世界」を凝視して、深呼吸したくなる。この行動の1つひとつが、なんというか俳句的というか、「縁側っぽい」というか。温かいお茶に、団子の世界。つまり、年いったな、と感じなくもないわけです。

昨日、六本木ヒルズのイベントスペース?(中庭的な場所で、クリスマスの時期にマーケットが出るところ、ロブションの前)で、伊勢志摩の観光をアピールするイベントが行われていました。

簡単なクイズに答えると、くじ引きができて、はずれ(白玉)でも赤福がもらえました。

妻と私と息子。3人なので3枚のクイズ用紙をもらって、伊勢神宮のことや、キャンペーンサイトに誘うもの、伊勢志摩という地の利を活かした特産のもの。ぜんぶ同じ問題ではないところが味噌でしたが、なんとか3人とも正解し。

息子がくじを引いて、みごとに3回とも白玉で、だから3人なかよく赤福の餅をもらって。小箱に2つ入った赤福を広げて食べていると、赤福のブースからお茶を頂きました。

久しぶりにたべた赤福。あ〜、旨い。と舌鼓している縁側的な私と妻。に、息子もにんまり、ほっこり、縁側してるではありませんか。それも、息子はあんこがだめはずなのに、美味しいと言って、あんこデビュー。赤福の底力ですかね。

絶妙に抑えた甘さのあんこで、旨い餅を包む。本当に、これぞ銘菓、という感じです。

今、アイスクリームの中に餅、というのがハーゲンダッツからもでる程、餅の食感とスイーツの組み合わせは多く、その中でも、餅であんこを包むという固定観念を覆した赤福は、見事です。

「コテイカンネンって何?」。そう言えば昨日、6歳の息子がレアンドロ・エルリッヒ展を見ている時に聞いてきました。

広辞苑(だいぶ古く第五版ですが)によると、固着観念に同じとなり、「〔心〕(fixed idea) 絶えず意識を支配し、それによって主として行動が決定されるような観念。強迫観念とは違って病的な感じはない。過価観念。固定観念。」らしいです。

○○は、▲▲なもの。そんな固定観念を完全に操るアーティスト、レアンドロ・エルリッヒの世界感は不思議でした。そして、とても楽しかったです。(詳しくはatelierにて。)

41歳の父と6歳の息子。この年の差で、どれほどの「固定」がへばり付いているのか分かりませんが、狭く、密閉された試着室(という固定観念))に、「続き」があって迷路になってるという不思議感覚は、のび太君の勉強机の引出しから時代を好きに行き来するという漫画の世界よりも現実的で、なんとも塩梅がちょうどいいというか。

この3月に幼稚園を卒園し、4月から小学生になる息子。彼に望むことがたくさんあるようで、いや、でもよく考えると、そう多くもないな、なんて思っていたところ・・・。

例えば、その1つとして、○○は、▲▲なもの、ということを「覚えないとテストの点数が取れない」としても、▲▲なものと○○なもの関係性を、完膚無きまでにフィクションにするか、はたまた、ちょうどいい塩梅の「間」をとっていくか。

出来れば、手で触れた感触を伴って、そして、タブレットでもなんでもいいから、どんどんリンクして先へいくような、○○と▲▲の永続性を探って欲しいな、と願います。

晴天でも花粉症対策でベランダに洗濯物が干せない春の始まりの日において。



■2018年2月25日
『親子、兄弟、箱の中にいる人達』

想像してみます。私に娘が2人いて、その両方から、金メダル、金メダル、金メダル、銀メダル、銅メダルをかけてもらうことを。そんな時、一体、どんな気持ちなんだろう、と。

平昌オリンピック、女子スピードスケートの高木菜那と美帆姉妹は、2人でメダル5個も獲得するという偉業を達成しました。兄と姉と妹の3人兄弟で育ち、おそらくは北海道の雄大な自然の中で、お互いに《負けられない》という凄みを持って育ってきたんだろうな、なんて勝手に想像してしまします。

聞こえてくる姉妹のエピソードが、なんとなく、そんなことを感じさせます。そしてたぶん、この高木姉妹が、女2人だけの姉妹だったら、世に言う次男(女)最強説というやつに、当てはまっちゃったんでしょうけど、そこはお兄ちゃんの存在が大きかったんでしょうね。姉もどこからで次女だったんでしょうね。

次男(女)最強説。長男(女)の姿を見て、親に怒られないような「道」を行き、無条件に愛される長男(女)とは違って、かまってもらおうと仕掛けないと愛されないという立場上、愛される方法を幼い頃から養っている、とかなんとか。

信憑性はないですが、現に中川家や千原兄弟など、兄弟コンビの場合、次男の方が確かに「強い」ような気もします。

いや長男だの、次男だの、三男だの、もっといえば一人っ子だの、結局はその子の性格だろう、という気もします。持って生まれた性質、そして個性。それを大事に育て上げた結果。それがすなわち「その人」を形成しているのであって、長男、次男云々は、どことなく血液型神話に近いものがあります。

持って生まれた性質に大きく関わっているとされる血液型。A型だからきっちりしている、B型だから、あ〜、なるほどね、しかたないよね、とか。O型なのに意外とか、失礼だけどAB型かと思ってた、などなど、特に女性の方はこの手の話題がお好みのようで。

さて、うちの子の血液型は何だろうと、想像してみます。私が産まれた京都では、誕生と同時に手形を取って、そこに血液型が記されてました。

が、東京の、うちの周りでは、ほとんどの子が血液型を知りません。小学5年生になっても知らないという子もいるようです。区立の普通の小学校へ通う以上、血液型を知る必要はないようです。

わざわざお金を払って調べてまで、血液型を知りたいとも思わない、という妻の意見に基本的には賛成ですが、これは男親特有の問題ですかね。もし、ですよ。うちの子が絶対あり得ない血液型、例えばそれをA型としたら、息子がA型だったと中学生になって知ったら。

ちょっと前に話題になったこんなことが、元アイドルのあの家庭だけではなく、結構、頻発しているのかな、なんて思ったりもします。

私に、もし起こったら。確かに、それまでの《親子》として暮らした十何年間の時間は嘘ではありません。が、率直に、その時間を返してくれ、と思うのだろうと思います。子供がかわいいと思うことの定義まで崩れそうになります。

ドラマ『anone』で、自分の母親だと思っていた人が、実際にはそうではなかったことを知り、娘は「その人(母親だと思っていた人)」から距離を置きます。それどころか、嫌ってしまいます。

そうなのかな、と見ながら私はちょっと違和感があったのですが、それを先述のごとき「自分」に置き換えてみると、なるほど納得のいく反応であるようにも思えてきます。

先週、歌舞伎座へ「高麗屋の三大襲名公演」を見に行きました。松本幸四郎という名を背負うのは十人目。市川染五郎改め、幸四郎となった松たか子さんのお兄さんは、十代目です。

繋がって、繋がって、それが十代にもなると、恐らく「血」という絶対的な繋がりしか、つながっていけない、というような気もします。

育てた時間が、イコール親である時間。そんな公式には当てはまらない何か、が血のつながりにはあって。《自分の子が欲しい》。そう思って妊活しているご夫婦も気持ちが、痛いほど分かります。

ドラマ『隣の家族は青く見える』で、深田恭子さんが叫んだ「終わりのない努力」という言葉に、どれだけの人がため息をつきながら納得したでしょうね。

このドラマは、子を産むというワンテーマで押し切った『コウノドリ』とは違って、いろんなテーマの中の1つとして妊活を取り上げています。

前妻の思春期の子を引き取る事実婚の夫婦、ゲイカップル、失業中の夫をかかえる見栄張り団地妻という中に、妊活中の夫婦も描かれています。1つだけ違和感があるとすれば、設定が「ベストアルバム」的であること。普通の夫婦、なんてもちろん居なくて、誰もが何かしらを抱えています。が、その抱えている問題が、サビが強いというか、ヒット曲ばかりというか。

まぁ、そんな違和感を帳消しにするほど、喉がカラカラになって、心臓がちくちくするようなリアルな状況、生の台詞が毎回素晴らしいです。

同時に、今現在、妊活している知り合い夫婦のことを考えたりもします。

養子、里親という「箱(籍)」の中で家族ができる。それは確実に1つの事実です。血の繋がりなどなくても、素晴らしい家庭を築いている人はたくさんいます。私も、アメリカのカンブリアという西海岸の町でホームステイしたとき、そんな家族を実感しました。

が、そういう「作り上げる」モノ以外の、作れないもの。その繋がりが「血」であると思う訳です。

単純に言ってしまえば、そっくりな顔の息子・娘。これは、自分がその立場になると、語ることのできない喜びがあるし、崩すことのできない絶対を感じたりします。

そんな繋がり。親子、兄弟、箱の中にいる人達。小説や映画、ドラマなんかで描かれる設定を「想像する」より、オリンピックのライブで流れる映像と、そこに至までの様子を「想像する」方が、やっぱり、興奮しますね。



■2018年2月17日
『強いと言われてほんとに強い強さ』

ゲームコントローラーの「B」ボタンを押したら、くるくる回転しながらジャンプするプレイヤーのようだな、と。

男子フィギアスケートでオリンピック連覇を達成した羽生結弦の完璧な演技を見ていると、思わずそう思ってしまいます。

十代で金メダリストになり、それからの4年間。彼は、追われる立場を楽しんでいるかのように、ぴょんぴょん跳ね、大人びた言葉を並べて舞っていました。まぁ、よくもこう、徹底的にできるもんだ、隙がないもんだ、といつも感心させられていました。

いよいよオリンピックシーズンとなった去年の冬。羽生は、王者の貫禄とも思わせる演技構成で仕上げ段階に入っていました。4回転ジャンプは、次から次へといろんな飛び方を完璧にし、ショート(プログアム)もフリーも、史上最高得点というのは彼のためにあるのではないかとさえ思うほどでした。

加算される得点の1点、1点。それは、羽生の求める「次」次元の証のようでさえありました。

順調、すぎる展開。そこにちょっと欲しいスパイス。まるで神様が、苦みか辛みか、指先でつまんでパッパッと振りかけたような、オリンピックまで3ヶ月という時期の致命的な怪我。

それは11月の大会の公式練習の最中でした。ほぼ完璧になりつつあった4回転の着地に失敗。右足を負傷しました。

それからオリンピックまで。公の場で滑る姿を見せない羽生をオリンピック代表に選び、「ポカン」と空いた穴を埋めるかのように宇野が完成度の高い滑りを繰り返しました。

日本のエース。そんな風に呼ばれても遜色のない成長ぶりに、羽生が駄目でも、宇野で。あるスケート好き(だけどたぶんあまりよく知らない人)は、そんなことを言っていたのを覚えています、テレビで。

オリンピックが始まって、カナダから韓国に入った羽生を各局がこぞって追いかけました。〈どちらにころんでも、伝説になる選手〉として。振り返ると、韓国入りした時には、実際にプログラムもかたまっていなかったと言います。

情報の少ない状態。実際のところ、羽生の怪我の状況はどうなのか。心配ないだろう、というよりも、体力面や、試合のかんを心配する声が多かったように思います。

数ヶ月ぶりにリンクの上に姿を見せた練習の映像。カメラは羽生を追いかけていました。その日、メダルを取った選手を紹介したら、最後に「今日の羽生」という感じで。

その練習で、氷の感触を確かめるように滑った彼は、最後に、軽々とトリプルアクセルを決めました。フワッと浮いて、高速回転する綺麗なジャンプ。その翌日(二日目の練習)では、4回転も跳んでしまうあたり。さすが、ただものではない、と思わせながらも。

いやいや、何が起こるか分からない。オリンピックには魔物がすんでいる。と慎重な声もあって。

このままじゃ、ひと味足りないと思って足されたひとつまみの怪我が、見ている側には、ドキドキ感を煽りました。あんな怪我をしたのに、リンクに立てただけですごい、いや、ただ立つだけじゃない、羽生なら、やってくれるはず。

それらいろんな気持ちが混ざり合って、昨日の午後2時前。彼は、ショートプログラムで完璧な演技をしました。圧倒的な111点台。外出中に私に、ライブでテレビ観戦した妻からLINEが入り、私もスマホで速報を確かめる。

こんな時の、つまり日本人の活躍を知る日本人の高揚感は、やっぱり、オリンピックって特別なんだな、と思わせます。

そして、今日。体力面が一番の心配だったフリーの演技。4分半。これは、ショートプログラムをノーカットでさんざん見たあとの私の目にも「長い」と思わせます。

家族そろって、テレビの前にスタンバイ。心底、大きな画面のテレビが欲しいと思いながら、見るテレビ画面は、息子がまだ小さい頃に付けた傷が目立ち。その息子も、もう来年は小学生。羽生のことを、ユズル・ハニューとコールしては、4回転ジャンプの真似をしています。

滑り出し、滑らか。そして、最初の4回転。羽生が跳ぶ4回転には余裕があるから、まるで3回転のような気もする。綺麗な滑りというよりは、確実な滑り。そして、ステップの完璧さ。

時間が進み、見ている方も、彼と同じく疲れてくる。「あっ」と思わず声に出してしまうほどの小さなジャンプのミス。そして、連続してミス。「頑張れ」。私と妻と息子の声が重なったりして。

後半は、気力。「感動した!」と小泉首相が貴乃花関に送った言葉が蘇る程の、迫力。

線が細くて、女の子みたいに小さく手を振って、ピースなんかも「かわいらしく」て、プーさん好き。そんな彼とは真逆の気迫。

演技の終わりを知らせる最後の「音」がパンっと弾けたと同時に、「金だな」と思わせる演技。

いやぁ〜、完璧でしたね。66年ぶりのオリンピック連覇。そして、冬季五輪1000個目の記念すべき金メダル。

ラスト滑走の宇野選手が、最初のジャンプで転倒してからも、粘り強く滑り終えて、これまた素晴らしい銀メダル。日本人がワン・ツーフィニッシュしました。今晩行われるメダルセレモニーでは、待ちに待った君が代が聴けますね。

金メダル候補。そう呼ばれるだけの実績を持った選手が、惜しくも銀メダルに泣いてきたオリンピックの前半戦。やってくれましたね、羽生選手。レジェンドを作りましたね。

続けとばかりに、8回目のオリンピック出場となった、レジェンド葛西。彼のラージヒルも、今晩行われます。もし、前回大会で銀に泣いたレジェンドが、金メダルを初めて手にするなら、明日の朝刊一面は、さて、どちらになるんですかね。編集長に、そんな贅沢な悩みを与える結果になることを願って・・・。

東京は、暖かい日と寒い日が入れ替わり立ち替わりにやって来て、体調管理が大変です。ゴホンと言えば、すぐ検査。どうも、インフルエンザになることに対して非難するというよりも、完全に、ゴホンゴホンいいながら病院にも行かずに「がんばって」会社にくる人の方が非難の対象になっているような昨今。

おいしゃさんも、もうかりますね、なんて考えるのは野暮でしょうか。

嗚呼、それにしても金メダルです。先週も書きましたが、強い、強いと言われる人が、本当に強いという結果を出すのが、どれほど強いか。そんなことを改めて見せつけられた気がします。

これからもまだまだ注目の競技があるので、しばらく目が離せません。来週になったらJリーグも始まるし、メジャーの大谷も、日本のプロ野球も。そろそろ梅でも咲くかな。桜はまだか、なんて言う頃には、もっと暖かくなって、桜が咲く頃、わが家の息子は小学生になります。



■2018年2月12日
『あたまのなかに、えいぞうが、でる』

4年前のソチ(五輪)で、スロープスタイル(スノーボード)のかっこよさに惚れて、こんなに興奮するのがあるのか?と思ったのを、4年経って、今、平昌で見ながら思い出しました。

冬のオリンピック競技って、そんなもんなんでしょうかね。それにしても、平昌の天候というか、天気がすぐれませんね。

ソチの時は、空気の澄んだ青空と、太陽を照り返す雪の白のコントラストが、パーフェクトに(ナチュラル)ハーモニーだったのですが、そんなスカッとした映像をまだ、平昌では見ていません。

アメリカやヨーロッパのテレビ局が、放映権をどっさり払って、現地(韓国)時間ではありえないような時間に試合をやっていることも(ベストな天気でないことに)関係しているのかもしれません。

2年後の東京オリンピックでも、そんなことがあるんでしょうね。冬季よりも、夏季大会はもっとなんでしょうかね。東京でやっているのに、23時過ぎに試合が終わるとか、朝の8時から試合開始、とか。

日本で人気のある種目はそんなことはあまり考えられませんが、日本ではマイナーだけど、アメリカで大人気なんて種目は、そうなる可能性が高いんでしょうね。

私の場合は(オリンピック放送は)もっぱらNHKです。放映権を信じられないぐらい払わなくても、東京五輪の場合はいいんでしょうから、そのお金をうまく使って、「いつでも手軽にオリンピック放送」を実現してもらいたいものです。

国民一人一人から、テレビがある以上強制的に支払わせる受信料。その金額を減らすだけが還元ではない、とNHKの会長は豪語しました。言ってくれるじゃないですか!と、私は個人的に「否定・批判的」ではなく、「期待」を込めて思った次第です。

テレビは4K。ハードが進んで、映し出されるソフトはテレビ局が流している番組とは限りません。私の肌感では、半分以下になるような気もしています。ちょうど、パソコンという箱の中にテレビ番組が入っているくる感じ。それに近い感覚でアウェーになるだろう国営放送が、さぁ、受信料を減らさずに、何を創り出してくれるのか。

テレビがパソコンに置き換わって、タブレットになった今、スマホがタブレットの方にいくのか、ウォッチの方にいくのかで、この先が変わるようにも思います。

仮に、インターフェイス/画面が不要な時代がきたら、操作性はどんな快適があって、そこから得られるエクスペリエンスはどうなるんでしょうかね。

今朝、朝日新聞の「しつもん!ドラえもん」で、視覚障害者の卓球、サウンドテーブルテニスで、選手がボールの動きを知る方法は?という質問があり、6歳の息子は「あたまのなかに、えいぞうが、でる」と答えました。

ものすごい時代だな、と思います。正解はもちろん、ボールから音がなって、耳からの情報でボールの位置を知るのですが、「頭の中に映像が浮か」べば、「問題ない」ですよね。

VRだのARだの、メガネをかけたら〈現実のようにみえる〉という技術を競い合ってますが、バーチャルリアリティが当たり前になった世代は「端から現実を現実のまま映しだして」しまうんでしょうね。

その上で、現実と非現実を混ぜて楽しんだり、「ピュアに現実」とか「100%現実」なんて、非現実(不純物)を取り除いて、健康食品のように売ったりして重宝するんでしょうかね。

4年に一度のオリンピックがまさに開催中です。そして、同じく4年に一度のサッカーW杯も6月にあります。

この周期で、5回、6回と続いていくうちに、「昔は、テレビなんかで観戦していたというから、ずいぶん不便だったんだなと思う」なんて言われ出して、NintendoやSONYが選手の中にチップを入れて、対戦型ゲームを作ったりして。それを楽しむ非現実の世界から、ドーピングが見つかったり、コインがなくなったりして破産する者まで出たりするんでしょうかね。

まるで、想像もつかない未来が、待っているように思えて、リニアで地中を40分、東京から名古屋に行ってしまえる時代から、まずは想像してみようかな、と思います。

もし、孫なんてものに出会える幸運があるなら、はたして、何をあげると喜ぶのか。男の子なら、やっぱりトミカにプラレールなのかな。だとしても、その頃のプラレールの動力は、一体、どうなってるのかな。

な〜んて想像の連鎖は止まらないのに、今NHKで放送中の女子アイスホッケー、日本vsスイスを見ていると、モントリオールで私が実際に見たアイスホッケーの興奮が蘇ります。そして、テレビに集中してしまいます。解説の声と、スティックと氷の削れる音が心地良いです。

変な政治ショーもようやく終わり、そろそろ本格的に楽しめそうな気がする平昌オリンピック。今晩は、何と言ってもスキージャンプの最強女子が楽しみです。そして、〈BOZE KAT(ボーズカット)/怒った猫〉の小平奈緒選手に最大限の期待です。

清水宏保さんが小平選手は色にこだわらなければメダルの確率は95%とまで言っていたそうです。強い、強いと言われて、本当に強いということが、どれだけ強いのかを、私はこれまでの結果から知ってます。なので、余計に小平の滑りは見たいです。それもライブで。

ああ、何個いくかな〜、メダル。
と、私は、テレビで、現実だけを、二次元で、楽しみたいと思います。(今現在は)



■2018年2月5日
『同じ(よう)に見えることの決定的な違い』

バイバイ、と手を振る息子はバスの中。で、いってらっしゃ〜い、と両手で大きく振り返す私と妻はバスの外。昨日、早朝7時半、新宿駅西口。息子は、両親と離れて、丸1日の遠足に出かけました。

行き先は横浜なのでそう遠くはないですが、何しろ、知らない子ばかり。通っているサッカースクールのイベントで、引率のコーチは知っているものの、一緒に行く子達は、学年も所属チームもバラバラ。運悪く?息子の所属チームからの参加は一人もいませんでした。

集合場所で、コーチに挨拶し、心配事はありますか?と聞かれ、私は「ちょっと咳が出てますが、熱はありませんので」と答える。と、隣で別の子のお母さんが「車に酔いやすい」「人見知りする」「昨日からちょっと具合が優れない」などなど様々なことをメモランダムに述べていて。

なるほど。うちの息子にも他に、しんぱい・・ごと・・は・・と、考えている間に、とっとと一人でバスに乗り込んでいったわが息子よ。

いってらっしゃい、楽しんでこいよ、と手を振り終えて、早朝の新宿で居残った私たちは、オープンしているスタバで一休みしてから、サラベスでニューヨーク風の朝食をしました。

そのまま初台に移動して、オペラシティのギャラリーでアート展を鑑賞し、また新宿に戻って、ティータイム。

それらの時間のほとんどを、「息子は今頃・・・」「どうしてるかな・・・」「今朝、そう言えば、あの子は・・・」と、息子の話ばかり。ふと気付いて夫婦で思わず笑えるぐらいでした。

普段の休日が、家族そろってが当たりまえの休日が、だんだんと、懐かしくなっていくのかな、と思うと嬉しいんだか、寂しいんだか、ごちゃごちゃになります。

この春から小学生になる息子。来月には、初めてお泊まりキャンプに参加するそうです。自分で参加を決めてきました。その晩、両親と離れて眠る息子を思って、私たち夫婦は「息子は今頃・・・」の会話を続けるんでしょうね。想像するだけで、また可笑しくなります。

それにしても、冬らしい冬です。5年か6年前に、北関東の温泉地で過ごしてから都内に戻った私たちが、ドカ雪で足止めをくらった、という記憶がありますが、それ以来の雪の東京です。

防寒着は、レイア-の下にいけばいくほど重要で、結局のところ、アンダーウエアでいかに暖かくするか。そして、温かさは、空気をできるだけキープできて、風をシャットアウトすることのかけ算で成り立つ。そんな昔聞いたことを思い出しながら、毎朝、出かける洋服を考えています。

いくつもののパターンを試して、邪魔にならず、暑くなったらすぐに脱げて、それでいて完璧に暖かい。そのためには、あまり防寒しすぎないことが正解のようで、周りの人から「薄着ね〜」と言われます。

結果、「防寒のことなんて何も考えていないほど薄着」だと思われても、そうではなくて、考えて試していろいろやった上での薄着なんだから、何も考えていない薄着とは根本的に違う、と思っています。

現に、薄着でも風をシャットアウトしています。空気が蓄えられるフィルパワーのものをインナーダウンに使っています。そういうのが大事なんだな、と痛感しています。

同じ(よう)に見えることの決定的な違い。それをどれだけ持っているかで、大きな差が出てくる。昨日、息子の小学校祝いにiPadを買おうと、店員さんにいろいろ聞いていました。まずはiPad miniとiPadを比べ、やっぱりペンが使いたいからiPad proの方がいいかな、なんて考えながら、それらの違いを聞いていると、なるほど納得。こんなこともできる、あんな風にできる、と想像するわけです。

それを金額に換算して、どこが落としどころか考えていると、「やれることは無限」という店員の連呼する声が重なり、あ、そうか、やっていくうちに、あれもこれもできるようになる(かもしれない)のかと思えてきました。

初めから、こうするために、これを買う。というのは違う、買ってから、どんどん「こうするため」というのが増えてくる。それは無限にあって、今はまだ分からないことへの投資。

小学生に入学する、という人生も同じで、読み書きそろばんをするために小学校へいくわけではなく、いろんな人と出会って、作用し合って、「わからない未来」へ進んでいく。

せせこましく、小手先だけで考えていたら駄目だな、と反省しつつも、強く思ってみたりしました。

おかえり、と昨日、解散場所へ迎えに行くと、多くの子が両親のもとにとんでいくのに、息子は余裕のふりで歩いてきました。

「楽しかった?」と聞いても「普通」と(思春期のように)答える息子。あれ?楽しくなかったのかな?なんて心配しましたが、帰宅すると一目散に爆睡しました。

なるほど、即寝するほど疲れたのか。そんなに疲れるほど遊んだのか。それぐらい、楽しかったのか、と。



■2018年1月27日
『年1行事の東京雪物語』

予報の段階で〈大騒ぎ〉したときは、拍子抜けするぐらいに何もない。「まぁ、何もなかったことに越したことはないじゃない」なんていう台風や大雨が多い中、今回の大雪は予報通りでしたね。

先週末、週明けの月曜日(22日)は関東の平野部でも積雪があるという予報がずいぶん前から出てました。

月曜の朝から積雪があるなら、通勤・通学を直撃して、去年だったかにあった「間引き運行で人が溢れ、ホームに入れず駅の外に溢れる惨事」ではないかと、もう月曜は丸々お休みにしちゃおう、と考えていたのですが、金曜日の段階で予報は変わって、雪は月曜日の夕方からだ、と。

となると、ますます予報の精度が怪しくなってきました。夕方から?ということは、昼間の気温を引きづって、雪に向かうとしても、きっと積もるまで気温が下がるのは夜中だろう。つまり、火曜日は何処にも出ないと決めて、月曜日の内に仕事を片付けよう。

そんな風に考えて、まぁ、一応「雨の日ブーツ」で出かけたわけです。ランチの頃から、気温がびっくりするほど低く、なんとなく、小雨があられ?になっている様子。近所のイタリアンで海老とアスパラのペペロンチーノを食べている間に、窓の外では雪が。

いや、まだ雪ではなくて、みぞれか?と食後のホットカプチーノを飲みながら、お会計に1000円札を渡してさっと戻る。

〈来るな〉という雰囲気が満載でした。これは、雪だな、それも積もるな、と。たいてい、みぞれ交じりの雨から雪になっても、アスファルトの地熱でどんどん溶けるのが都心の雪。が、あの日は、しっかりと跳ねて(おそらくあられ)、それが積もっている様子でした。

午後はもう窓の外が気になるばかり。雪は大粒で、雨でいうところのザーザー降り。「これ、札幌やん」と私は思わずに口に出し、「札幌、行ったことないけど」と付け加える。

濃いグレーの生地に細かい水玉模様がいくつもあるような、つまり、雪は上から下に降っているのですが、それが窓枠で切り抜かれた「外」では常に水玉模様がある感じで。

みるみる屋根やら植木の上に積もる雪は、外から「いや〜、大変だよ」と上着の雪をはらいながら帰ってきた人曰く、道路もやばい、ということで。

早々に、勤務免除。できるだけ早めに帰宅しましょうという連絡が来て、どれどれ、と交通公共機関のサイトをみると、JR系の山間を走る路線は、大幅な遅れや運転見合わせは有るものの、まだ都心を走る路線は平常運行。

午後3時。いよいよ、いろんな路線に遅れが出てきて、Twitterでつぶやく「現状」と、掲示板で知らされるタイムラグに戸惑いながら、ついに、小田急も遅れ始めた(そもそも、小田急と京王線のなぞのがんばりに、勤務免除の出ただろう人達からTwitterではそうつっこみでした)ので、まぁ、ぼちぼち帰ろうかと席をたちました。

午後4時半。山手線の外回りは壊滅的。まず、最寄りの駅に着いたら、ホームへの入場制限こそしてませんでしたが人で溢れかえり、やって来た電車はすでに満員。渋谷や新宿へ向かう人が、降りるはずもなくて、1回の電車に数人ずつしか乗れない始末。

気象庁が「はやめの帰宅」を呼びかけて、まぁ、そんなに急ぎの仕事がないなら早めに帰ろうよ、という会社の判断が多かったのか、完全に超ラッシュ状態の午後4時半。

とはいえ、私を含め、並んでいる人達は、早めに退社しているからか、気持ちの余裕があって、まぁ、いずれ乗れるだろう、とラーメン屋の行列のような感じで、焦りはあまりなかったように思います。

ただ、山手線から乗り換える私鉄が止まったら。それを考えると、なんとか動いているうちに近所まで、せめて○○○駅までは行きたい、とは思いましたが、焦りという程ではなかったです。

ようやく乗り込んだ山手線は、圧迫死寸前、ちょうど場所が悪かったというか、雪で濡れた硬いバイオリンケース?を持った女性の後ろで、そのバイオリンケースが私をぎゅ〜っと押さえつけ、カチっとロックが入ったように身動き出来ずに、ほんと大変でした。が、12分。それを耐えれば・・・。

なんて、さすがに甘くはなく、ぎゅうぎゅうのところをどんどん乗ってくるので、ドアが閉まらず、そのチェックになかなか出発しなかったり、非常ベルが鳴ったり、で、遅々と進んでようやく新宿。

ここまでくるとカオス。午後5時を過ぎて、定時で退社する人も加わったんでしょうか。ただでさえ、無事故が不思議と思えるホームが、山手線から総武線に乗り換える波と、階段を上る波、下りる波で濁流状態。それぞれがぶつかりあって、発車を知らせるメロディーがなって。

怖いですよね。だけど、まぁ、もう、慣れ、ですよね。そのまま、新宿で私鉄に乗り換え。そこでも電車を四、五本見送って、乗り込んだのは始発なので、快適な場所をキープ。途中、地上に出た駅で、ドアがなかなか閉まらず、雪が車内に吹雪いてきたのにはあんぐりでしたがなんとか無事に自宅の最寄り駅に付きました。

駅に着いたら、東北紀行状態。ホームに数pの積雪があって、階段を下りると水がたまって、タクシーの行列を横目に、頼りにならない傘をさして。

積もりたてのさらさらの雪を、きゅっきゅっと踏みながら帰りました。ちょうど、今年の年始、富山で踏みしめたようなさらさらの雪でした。

雪の多いところで育ってないので、こういうとき、ちょっと特別感が芽生えます。踏まなくて良いのに、雪を踏んでしまいます。雨の日ブーツはゴアテックスがひいてありますが、底から逃がすべき湿気がたまりにたまってか、うっすら濡れている模様。

ハイカットでもかくれるぐらいの積雪でしたからね、それはもう、許容範囲を超えたんでしょうね。

結局、普段の1.5倍ほどの時間で帰ってこれました。早めに出て、良かったということになると思います。家に到着して、思わずお風呂も入って寝る準備の息子を外に呼び出して、さらさらの雪の中をきゅっきゅっと踏みながら遊んでしまいました。敷地内の中庭で、どこかの小学生が、かまくらを作ってました。

いや〜、ほんと、札幌でしたね。



■2018年1月21日
『人間の持つ味を手に入れたAIは。』

それは、短冊切りした大根が、やわらかくなるまで、弱火で、じっくり煮る時間に似ている、とも思う訳です。出汁の香り、刻んだネギの余韻。ぼんやりと鍋の中の、小さなぶくぶくを眺めたりなんかして。

休日の朝の台所の時間。炊飯器から蒸気が噴き出て、フライパンから目玉焼きに跳ねる油の音がします。高菜と明太子を小皿に分けて、箸置きをどれにするか選びます。そうしたら、ほうじ茶を注ぎます。

まったりした、この時間と空間。休日であるということが絶対条件ですが、すべてが絡み合って、大好きな波長とリズムが流れます。

六本木にある青山ブックセンターは、昔から大好きな書店です。

古本屋のように、店主を常に感じることもなく、セレクトショップのように、選りすぐりばかりを集めたという〈こぜましさ〉もありません。ちゃんとベタに本屋さんなのに、ものすごく特別な所なのです。

それは、もちろん、私にとって、ということです。私の「好き」を凝縮して、「知らない」を平積みしてくれるので、とても刺激的です。

店内に入ると、とても静かです。なのに、私の頭の中で、先述の〈休日の朝の台所の時間〉が流れるわけです。心地よい、配列。気持ちのいい色、目にすーっと飛び込んでくる本のタイトルとポップ。

ニューヨークが読みたいときはニューヨークを、ロンドンな気分の時はロンドンを、で、たまにはパリと思うと、しっかりパリなんだからかないません。

まったく、いつも、この書店は、私の好奇心泥棒です。アート、書、詩、建築、洋書、デザイン、小説、グルメ、旅。モレスキンなんて文具もあって、もう、どこまでも私好みです。

服を買いに行くと、結局はいつも買う店というのがあって、それは自分のサイズや、好みのシルエットに合致しているからで、街で誰かが着ているをいいな、と思っても、自分にはまったく合わなかったりします。

芥川賞に直木賞、本屋大賞にミステリー大賞。新聞、雑誌、情報番組で紹介される「消費されるべき」本がたくさんあって、映画化を待つばかりのモノもあります。誰かが選んだ本を、誰か視点で紹介されて、それを面白い、と思うのは、街で見かけた「いいな」とおもった服が、自分に合う確率に近いです。

そうなると、個々の好みに合わせたレコメンド機能。世界最大の書店とも言われる「Amazon」が持つ広告機能ということになるかもしれません。自分が検索したものと近しいものがどんどん連鎖する。

青山ブックセンター六本木店で、私が一冊のアート本を手にする。文化人類学へ傾斜するその本の中から、突如、フランスが認めた日本料理店というキーワードが出てきて、どれどれと、隣の黄色いグルメ本を手に取る。それじゃ赤いのも、とミシュランガイドに手を伸ばして、隣に、インテリア本がある。どういうわけか、文化人類学からグルメ本に行って、ミシュランを経由してインテリア本を見るという流れが、非常にまったりして心地良いわけです。

それは、たぶん、大根が柔らかくなるのを待っている間に、ネギだったり、炊けたごはんだったり、目玉焼きだったり明太子が、絡み合っている時間のリズムと一緒だと思います。

つまり、Amazonでは連鎖できない、青山ブックセンター六本木店での連鎖。これがあるから本屋の空間は貴重だったりします。

が、仮に、ですよ。4回目の大産業革命と言われるAIが、それをやってのけたら、どうするのか。物流改革が歪みながらも進み、もう、店舗に足を運ばなくても、日本全国、だいたいどこからでも「買える」時代になりました。言わずもがなで情報も氾濫しています。東京だから、島根だから、愛媛だから、なんて、その気になれば、そんなに差がないぐらいに情報取得が容易です。

その情報を、人間味で連鎖させる。多少のブレや重なり、塗り残しなんかが「味」になる、そんな連鎖を人工知能がやってのけたら、本当に、大産業革命になるでしょうね。

手に職があるから大丈夫。なんて言われる美容師でさえ、髪を切るのではなく、髪を付ける時代になると、みんな丸刈りにして、髪型は装着するから、職がなくなる、と言ってました。

私の父親も、ずいぶん昔、着物の柄を決めて、型を彫るのは機械がするようになる、なんてことも言ってました。

人間にしか出せない「味」を手に入れたAIが造る未来。自分という尺度で考えると他人事のように未来ですが、自分の息子の尺度で考えるとどうか。はたまた孫の尺度なら。いや、そんな風に暢気に「先」のことだと思っていたら、レコードがCDになったように、ワープロがパソコンになったように、そのCDすら消えてデータ化され、パソコンはスマホに取って代わられているここ数年。

AIが当たり前になる未来は、実は、速攻でやってくるなんてこともあり得るかもしれません。実際に、そんな風に言う人もいます。数ヶ月で、一気に私たちの生活の中に入り込んでくる可能性。それがゼロではないという事実。

その時、休日の朝の台所の時間は、短冊切りした大根が柔らかくなるまで待っているまったりした時間は、はたして、どうなっているんですかね。



■2018年1月13日
『パンパンですよ』

積雪で立ち往生した、満員電車で夜を明かす。新潟県三条市で起こったこの事故に、私が居合わせていたら、と、想像するだけでゾッとします。

もし、ですよ、座れなかったら立ちっぱなしで辛いだろうし、座っていたとしても、15時間ですからね、「代わった方がいいかな?」と気が気でない状態だったのではないかと思います。お腹も減っただろうし、トイレにもいきたかっただろうな。

私は、超満員の山手線で、このニュースを読みました。顔に近づき過ぎているスマホを下ろすこともできないほど圧迫されていて、身体がちょっと浮いているような具合の中で、です。緩やかなカーブに入れば塊になった私たちが蠢き、その揺れに合わせてどんぶらこ・どんぶらこ、とされているような異様な状態。

とはいえ、山手線なんて長くて15分間。そしたら降りられる(そのまま乗っていたとしても15分間隔の大きな駅で人が減る)から耐えられますが、2時間、3時間となると気分が悪くなって来るでしょうね。たまに、非常ボタンで緊急停車し「原因を調べるので、しばらく運転を見合わせます」なんてアナウンスが流れると、ばくばくしてきますもんね。身体的に、というより精神的に、です。

いつまでかかるか分からない。復旧の目処がたたないという状況での「待ち」ほど苦しいことはありません。それも、電車から降りることも出来なければ、スマホの充電も切れる、という状態で、です。

土地勘がないので、今回立ち往生したJR信越線の東光寺と帯織間の普通電車が主要路線なのかどうかは分かりませんが、学生や通勤客が430人乗っていたというので、そう簡単に運休にすることもできないほどの路線だったのだろうな、と想像します。

東京の山手線や中央線など、ラッシュ時の詰め込みは、どう考えても危険だし、改善すべきですよね。なのに、「とはいえ、どうすることもできない」からと運行を続けている訳で、いつか、本当に、超満員の山手線が立ち往生して、電車から下りることも、救援も迎えないという状態になったら、どうするんでしょうね。

そこに、居合わせたら、と想像すると、ゾッとするどころでは済みません。

そろそろ本気で、自然災害に対するインフラの限界と、人口過多によるインフラの再整備を考えるべきだと思います。

日本の高速道路は倒れ、原子力発電所はメルトダウン。無事故を謳う新幹線も重大インシデントを起こしました。安全神話なんて死語になりつつ中で、まだ超ラッシュの満員電車を見過ごし、ホームに溢れる人を制御しないままホームドアもつけていない。

〈わかっちゃ、いるけど・・・〉と、そのままにしている場合ではないのではないでしょうか。

2017年の訪日外国人の数は3,000万人に近づき、東京や大阪、京都などでは目に見えて外国人が多いし、観光客というか、単純に人の数が「増えた」と感じます。なのに、コレまでと同じハコの中にいることの危険性。

もう、パンパンです。いつか、破裂しますよ。ハード面の改修には時間とコストがかかるなら、ソフト面だけでも、特に、人の命に関わるような駅や交差点などでは、ガードマンや整備員を配置するなどの策が必要だと思われます。

「まぁ、ラッシュのときって、こんなもんだから」というレベルを超えているんですよ、今のラッシュは。

「まぁ、昔から、東京はね、こんなもんなんだよ」なんて、全然違うんですよ、昔と今じゃ。「わしらの、若いころは・・・」の常識を一旦捨てて、今と向き合う時期です。

外国人観光客が増えて、街にいる人が増えているんです。これは絶対的な事実なんです。デパートや小売店では、迅速に対応して、中国語を話す店員の方が多いのでは?と思ったりするほどなのに、どうして、こう、公共的な場では鈍いかな、と思います。

もっと迅速に、的確に、そして誠実に。

ここ最近、いろんな「業界」の不誠実と不的確、それによる鈍さが露呈しています。「わかっちゃいるけど・・・」で見て見ぬ振りして来た人たちが、見たものを見たまま発信する術を得たためです。簡単に言えば、ネットに投稿するだけで済むのでハードルが下がったのです。

そうやって膿を出し切ったら、今度こそ誠実に、的確に、と願います。そして何より、迅速に!と祈ります。



■2018年1月6日
『変えるべきは変えて、変えないものは変えずに』

安室奈美恵さんのラストステージ、そして桑田佳祐さんの出場。そんな紅白歌合戦の合戦場で、骨太な声と、まっすぐな歌詞で静かに暴れた竹原ピストルさん。

"よー、そこの若いの
俺の言うことをきいてくれ
「俺を含め、誰の言うことも聞くなよ。」"

瑛太さん演じるゆとり世代のサラリーマンが出てくるコマーシャルで有名なこの歌が、「ズシン」と心に響いた若者も多いはず。と、思いつつ、いやいや、若者は紅白ではなく「笑ってはいけない」を見るのか、と考え、いや?それはもうアラフォーが見る番組か、なんて考えながら、若者は大晦日、外に出歩くでもなく、スマホで動画を見たりゲームをしているのか、なんて。

"よー、そこの若いの
こんな自分のままじゃいけないって
頭を抱えてるそんな自分のままで行けよ"

そんなメッセージ。これが届かなくなったのかな、なんてステレオタイプに若者を一緒くたにするなんて、私はどれだけ「これまでの大人」と一緒になっているんだと、頭を抱えてみたり。

♪わたしだけの汗のかきかたで わたしだけの汗をかけばいいのか、と思った、今年の年明けでした。

みなさん、新年あけましておめでとうございます。年明けは、いかがお過ごしでしたか? 私は相変わらず、6歳になった息子が眠る時間に、つられて眠ってしまって年を明かしました。

妻の実家に、一週間分の番組をすべて録画できるテレビがあったので、年が明けてから「紅白歌合戦」も「絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時」も見ました。それで、竹原ピストルにグッとやられました。

早速、スマホに竹原ピストルさんのライブアルバムをダウンロードして、聴き始め、「カモメ」は名曲だな、とか「俺たちはまた旅に出た」は分かるな、とか「東京一年生」はタイトルが素晴らしいな、などなど思っています。

"青を塗って
白を塗って
一息ついてから最後に僕の気持ちを塗った
空の絵を描いていたつもりが
海みたいになってしまって
開き直ってカモメを描いた"

文字にすると伝わりにくいニュアンスが、竹原ピストルさんの声に乗ると力強くて、なんとも素敵なんです。

"俺たちはまた旅に出た 俺たちはまた旅に出た
このままこうしていたいって思ってしまった明け方に
俺たちはまた旅に出た"

彼の歌を聞きながら、若い時に出会いたかったコトバの数々だ、なんて、私は、完全に「親目線」になってしまいます。調べてみると、私は竹原ピストルと同じ歳でした。年上だと思っていたので、なんだか、あ、そっか、とも思ったりして。そうだよな、と、二十歳前後で一人旅/バックパッカー全盛を迎えた世代の、就職氷河期でどうしようもなかった二十年前の、そこから繋がる「何か」を感じ取っているのかな、と勝手に思ったりします。

大晦日、私たち家族は、大阪にいました。

キタではなくミナミ。グリコの看板と、かに道楽のカニが踊り、とにかく外国人だらけのアーケードを歩きながら、串カツを食べたりして。関西に住んでいた時には、行こうとも思わなかったNGK(なんばグランド花月)にも行って、なんとも、これが大阪だというのを堪能してきました。

M1を見て、ミキとさや香の漫才にはまった息子。ミキの登場を楽しみにしていました。が、劇場でのネタの持ち時間は、テレビとは違って長く。ので「間」が笑いの理にかなっていて、それが、とてもいいのですが、息子には退屈に思えるのか。

ブラマヨやダイアンの漫才にすら、息子は少し飽きてしまい、大木ひびき・こだま、中田カウス・ボタンの師匠クラスのネタは、もう目を閉じていました。これは、ひとえにテレビの尺度になれた「いいとこ取りの、ベスト盤」に慣れたせいなんだろうな、と。

そもそも、東京に住んでいる息子にとって、おもろい、ことをしたり、話したりする土壌がないので、まぁ、退屈になってもしかたのないことかもしれませんが。

実家に帰って、親戚の中で「揉まれる」息子を見ていると、「あ〜、親である私は、息子の言動に、簡単に笑ってるもんな・・・と、反省したりもします(関西人なので)。

それにしても、毎年のことながら「境目」のない年始でしたね。昨日から今日という時間の問題ではなく、ガラッと変わる何かが、私たちの幼少時代にはあったはずなのですが、それもすっかりなくなってしまいましたね。

そんなボーダーレスな年明けも変わるかも知れません。例えば、元旦は休むという店やレストランが増えてきて、元旦の時間が止まったような空気感が戻ってくるかも知れません。そうなれば、息子が親になったとき、息子の息子に何て言うんだろう、か。パパの小さい時は、正月でも、もっと賑やかだった、なんて言うのでしょうか。

繰り返して、繰り返して、そうやって進むんですね。その一点に、私たちは常に居るんですね。そんな点、2018年も始まりました。カレンダーの関係で、この三連休開けから本格的に始まる人も多いかと思いますが、まぁ、今年もがんばっていきましょう。

変えるべきは変えて、変えないものは頑張って変えずに。



■2017年12月24日
『感じる事を植え付けたい』

メリー・クリスマス、そして、ハッピー・ニューイヤー。はやいもので、2017年の更新も、今日が最後となりました。一年間、ありがとうございました。来年も、よろしくお願いします。

さて、今夜で『陸王』が最終回です。終わってしまうことに「ロス」の人も多いと聞くのですが、私もそんな感じです。下町でロケット部品を作る会社があったり、足袋屋がランニングシューズを作ったり。廃部寸前の実業団野球チームが奮闘したかと思うと、企業再編で異業種の会社に飛び込む銀行員の姿もあったりして。こうなったら、池井戸潤作品のすべての「会社」をひとつの町に集めて、その町の姿を一年ぐらい、ぶっ通しで放送してくれたらいいのに。そんな風に思うほど、どれも面白いです。

思えば、今年のドラマも色々ありました。第1クールは、なんといっても『カルテット』。4人の俳優達の空気感が独特で、とにかく坂元祐二脚本ならではの小気味よい台詞が気持ちよかったです。春ドラマは、冬彦さんリターンのような『あなたのことはそれほど』が一番印象的でしたが、『小さな巨人』と『リバース』が面白かったです。夏ドラマは『過保護のカホコ』ですかね。私の息子と妻は『コードブルー』にはまりまくって、幼稚園児の息子はミスチルのHANABIをカラオケで熱唱する程になるし、妻は千葉までドクターヘリの本物を見に行きたい、と言い出す始末でした。

視聴率が悪くなったとは言え、ドラマを見ている人は多いらしく、特に、スマホで簡単にサラッと視聴するスタイルが定着しているともいいます。

リビングにでっかいテレビがドンと置いてある「定番」は、ここ2、3年で完全に崩れるでしょうね。ちょっと前までは、ネットで繋がれた中心にあるのはテレビで、そこから全てをコントロールするようなイメージでしたが、もはやそのスタイルにも無理があります。

無理があるといえば、かの大国の大統領。自分が「首都」だと決めたことに反対するなら援助しないぞとは、さすがにどうしますか?あまりにも、余ります。目にも、気持ちにも、余りすぎで、安倍さんよ、しっぽ振って、ついて行ってる場合じゃないぞ!と〈ウーマンラッシュアワー〉なら言うでしょうね。

お友達を優遇して、そこをつかれると「うそでしょ?」という程度の嘘でごまかし、さらに追求されれば、逆ギレ。そんな首相を追い込むことすらできない野党はバラバラで、結局、選挙は与党の勝ちでした。都知事選で歴史的敗北を喫した自民党に、しっかりと印籠を渡せなかった緑のおばさま。

思えば、今年の3月、味の素(東京)スタジアムで行われたFC東京のホーム開幕戦に小池都知事が来てました。一体、何しに来たのか?「がんばってくださ〜い、応援してま〜す、東京ではオリンピックで〜す」みたいな・・・。「?」が付きすぎてぽかーんとしてしまいましたが、希望の党の党首になった時も同じでしたね。

政治の世界の一年を追うのも嫌になります。そういう意味では、今年、やはり一番大きなことは、天皇陛下の退位でしょうか。

平成という時代が終わる。そのことよりも、天皇陛下の確信の上に成り立った革新に、最後まで驚かされ、関心させられます。民間からの皇族へ、そして子育て。さらには退位まで。象徴天皇の「基礎」をつくられたように思います。

平成は31年と4ヶ月で終わる。と、言われても、なんとも西暦に慣れすぎて、たまに区役所で平成で書くとなると、今、何年だっけ?ということばかりでした。これは、私が昭和を10年ちょっと生きて、平成になったからなのでしょうか?例えば、今の二十代の人は、初めから平成なわけで、それは一般的に西暦と平成を完全一致で使いこなしているのでしょうか。

仮にそうだとしたら、次の元号、平成生まれにとっては初めての元号変更となるわけで、昭和の私の平成と同じように、あやふやになってしまうかもです。

あやふやになる次の時代とは逆行して、「平成」という時代が回顧され、とても懐古的に語られるかも知れませんね。

私にとってのこの一年。今年も、家庭に主軸をおいた生活でした。毎週、どこかへ出かけ、家族との時間を最優先にしてきました。そんな「優先」が、私判断で出来ている内にこそ、やっておきたいと思っているからです。息子も、来年小学生です。高学年にもなれば、そうそう私判断で「優先」できなくなると思います。そういう意味では、私の中での今年の一大事は、ランドセルを買ったことでしょうか。

「買う」という行為ではなく、買うという「時期」に来たことです。5月の下旬、中目黒の土屋鞄のショールームでいくつものランドセルを背負い、伊勢丹へ移動して何種類か試し。結局、土屋鞄に決めて、種類と色毎に先行発売の受付があって、軽さを重視した黒いランドセルを買い。それが10月にやって来ると、息子は、自分の部屋にかけて嬉しそうに眺めてます。時には、脈略もなく背負って、走り回ってます。

そんな姿を見ていると、まだ大丈夫だな、家族と一緒に居てくれるな、と思います。なので、来年(2018年)も、私は家族の時間を優先して、「覚えること」の多くなる息子の頭と心の中に「感じること」を植え付けていきたい。そんな風に思っています。

皆様にとって、来年も良い一年となりますように。



■2017年12月17日
『完膚無きまでに針の振れなかった世代』

急に冷え込んでますね。東京でも、朝と晩は、切れるような冷たい風です。外を歩いていると、ほとほと、負けそうになります。

思えば、うだるような暑さの頃。「暑いより、寒い方が断然マシ」なんて、真顔で言ってたのが信じられません。「だって、寒いのは、着ればすむじゃん」なんて理由、この寒さには、通用しませんからね。

この、冬型の気圧配置が、これからしばらく続いて、都内でも、ホワイトクリスマスではないか、なんてニュースもありました。"雨は、夜更け過ぎに、雪へと変わり" その雪がちらつくイブの夜、表参道で、くっついて歩く二人、ですか。温かいですよね。

そんな表参道なクリスマスよりも、ここ数年、クリぼっちなんて言葉が流行るように、恋人とクリスマスを過ごさない人が大半だそうです。だからといって、そもそも本来のクリスマスとはそういうもので、家族で、イエスの誕生を祝うのです、といったところで仕様が無く。スシだといっても、カリフォルニアロールにはアボカドが巻かれているのです。

クリぼっち。これが当たり前になったら、明石家サンタで不幸話をする人のネタは、どんな風に変わるんでしょうね。

ただ、そう簡単に「当たり前」にならないようにも思います。なぜなら、「クリぼっち会」なんてものも流行っているというのです。「一人でクリスマスを過ごしたい」人達のクリぼっちが、「クリスマスを一人で過ごさざるを得ない」人達のものになり、だったら、「その人たち」で集まろう、という会です。

かといって、その会で「だれか特別な人」を探すわけでもないというから、複雑です。恋人を「作らない」という(イメージの)若者たちは、ハロウィン並みの、緩い繋がりの中で、盛り上がりたいだけなんでしょうね。

この、緩い、感じは、現代のバランス感覚に端を発しているような気がします。寒い冬も、完膚無きまでに寒いわけではない世代のバランス感覚です。

屋内に入れば、エアコン完備の快適な環境で育ってきたのです。部活が終われば、シャワーを浴びて帰るし、暑い夏は、好きなだけ水を飲み、少しでもしんどかったら休むのです。

寒い冬は、「この人」と決めた相手ではなく、一人きりにならないように繋がる相手(複数)と一緒にいたい。この、感覚です。

十把一絡げにくくるのは間違いです。ただ、現実として、私の周りに存在する若者は、遠からず、この感覚の持ち主です。

ちょうど東京オリンピックに湧く頃から、リニアモーターカーが東京と名古屋を40分で繋ぎ、それが大阪まで伸びる前に、大阪では万博があるかも知れず。

そんな世の中の動きを、この「完膚無きまでに、針の振れなかった」世代は、どうやり過ごすのかな、と思ったりします。それを心配しているのではありません。おそらく、それなりに、やり過ごすのでしょうけど、そこにある数々のチャンスというか、ポイントを、「ぼっち」の楽さに逃げて、落としそうだな、というのが不憫だったりします。

AIが教鞭を執り、生徒は個々別々の「快適」な場所でアクセスし、手と手を取り合うことは仮想現実で成り立つ世代が、その次にやって来ます。この「完膚無きまでに針の振れなかった世代」が、その次の世代を不憫だと感じるとき、果たして、どれだけ今より便利で不便で、幸せで不幸なんでしょうね。



■2017年12月10日
『真っ赤なエンゼル』

アメリカ西海岸の強い日差し、空気も透明でスカッとした気候。そんな光景を想像させる中、真っ赤なチームカラーが鮮やかなアナハイム・エンゼルスで、今日、SHOHEI OTANIの入団会見がありました。

11月下旬から渡米し、数チームとミーティングを行ってきた大谷選手。エンゼルスに決まったというニュースが流れたとき、意外と早めに決まったな、というのが第一印象でした。が、この2週間弱の間に、大谷選手が移籍先を自分でちゃんと選んだ。今日の会見を見ていると、なんとなく、それが分かるような気がしました。

会見では、具体的な名前を連呼して、感謝の意を伝える。それは1つの儀式のようになっており、日本の入団会見ではあまり言わないコメントになっていました。ウエルカムな雰囲気で迎えられれば迎えられる程、神経質な程に「郷に入っては郷に従え」を意識せねばならず、まぁ、その辺りの感覚も、大谷選手は持ち合わせているんだな、と改めて思う会見でした。

メジャーリーガー、SHOHEI OTANI。ついに、誕生しました。思えば、高校生の頃、甲子園での活躍もないまま、メジャー行きを宣言し、大注目された後のドラフト。交渉権をつかんだ日ハムは、大谷選手にサプライズオファーしました。

投手と打者の二刀流。それは、今の時代で可能か?と思わせる驚きのプランでした。まぁ、一、二年の様子見。そう思っていた所、だんだんと本領を発揮して、投手としても打者としても存在感を増してきました。

普通の選手が大学生活を送る4〜5年間。その期間を大谷選手は日ハムで活躍したと考えられるかも知れません。若干、23歳。まだまだこれからの彼が、ついにメジャーへ行くわけです。

挑戦、という言葉はふさわしくないかも知れません。イチロー、黒田、松井、ダルビッシュに田中投手。日本で活躍していた選手がメジャーでも活躍している以上、日ハムでこれだけ活躍した大谷選手は、メジャーでプレーするのは、ある意味当たり前とも思えるからです。

だけど、これは挑戦です。それは、二刀流のまま、メジャーでプレーするからです。

ベイブルースも、打者のイメージが強く、投手としてはパッとしなかったとも言われます。それに、昨今のメジャーでは、投手のローテンションが中3日か4日です。一試合の投球制限の方が重んじられ、休養はあまり取れません。日ハムでは週一回の投手、そして、休養日を設けて、残りをDHで打者として出場していただけに、エンゼルスでの起用法に注目が集まります。

ただ、今年のエンゼルスから考えると、ローテーションピッチャーは不足し、左打者のクリンナップもいない。こうなると、大谷選手が活躍できる可能性は、日ハムに今年入った清宮選手よりあるわけです。

かつて赤ゴジラとしてエンゼルスで活躍した松井秀喜選手も、日本人らしいかわすピッチングで中継ぎを守った長谷川投手も、なんだか、エンゼルスの○○○、とは言えないというか(勝手な感想ですが)。

例えば、マリナーズのイチロー、ドジャースの野茂英雄、ヤンキースの松井に黒田、のような、海の向こうの日本にもしっかりと轟くぐらいの活躍を願ってやみません。

1つだけ心配なのが、やはり怪我です。今シーズンも事実上、棒に振っているわけで、そこのところをなんとか乗り切ってもらいたいなと思います。

あ〜、それにしても心残りです。大谷投手を生で一度も見られなかった。イチローやダルビッシュは、メジャーに行く前に目に焼き付けようと思って何度も見たのですが、大谷投手だけはタイミングが合いませんでした。

なので、エンゼルスの真っ赤なユニフォームを着て、西海岸の青空の下、活躍してくれる「17」番の姿を、生で、それもデーゲームで、見たい。今から、安いエアチケットと民泊で、西海岸旅行を企んでやろうかとも思っています。

真っ赤なエンゼル。そんな空想の姿が、具現化したら大谷翔平だった、なんてことになったら、ほんと、すごいことだと思います。エンゼルスの大谷。ああ、久しぶりにわくわくする日本人プレヤーの「挑戦」です。



■2017年12月03日
『ふるさとを歌いながら帰りました』

「ゆ〜ぐれ、せ〜まるそ〜らに、くものきしゃ、み〜つけた♪」。毎年、12月の最初の週末は、息子の幼稚園のお遊戯会です。この三年間、春の始まりに、まず運動会とこのお遊戯会の予定を抑えてきました。

そんなお遊戯会も、今年で最後です。年長クラスで息子たちが歌ったのは、嵐の『ふるさと』でした。いつか、わが家を巣立った息子が、遠い場所で、この東京の、ココを、故郷と呼び、その懐かしい匂いと空と風の色を、思い出すんでしょうか。

いや、どうも、都内育ちには、故郷の感覚が薄いように思います。隣の区に実家のある家庭や、同じ区内に実家がある家、そんな方達の「故郷」感覚は、京都で生まれ育って、東京で家庭を築いた私とは全く違います。

なんというか、"二つ目"とか、"ルーツ"みたいな、なんとも微妙だけど、心がじわ〜っと温かくなる感じ、が、都内生まれには少ないのかな?と。

「巡りあいたい人がそこにいる
 やさしさ広げて待っている
 山も風も海の色も 
 いちばん素直になれる場所

 忘れられない歌がそこにある
 手と手をつないで口ずさむ
 山も風も海の色も 
 ここはふるさと」

「いちばん素直になれる場所」=「ふるさと」。その故郷の感じが薄い都内生まれの息子。そんな子達が通う幼稚園だから、あえて、先生はこの選曲をしたのかな?と深読みしたくなります。

元気いっぱい叫ぶようにして歌っていた子供たちが、いつのまにかリズムに乗り、強弱を覚え、二番まで歌詞を覚えて歌う姿。両手を後ろに組んで、練習の成果を存分に発揮してくれました。

そんな園児達の、まっすぐな声と、視線に、打ち抜かれました。劇や合唱、合奏にダンス。年少から年中、年長と、それぞれがプログラム順に発表するので、「あ〜、年少のときは、こんな感じだったな」とか、我が子の頃より今年の年中はすごいな、とか。まぁ、涙ぐんだり、笑ったりで忙しくも愉しい時間を過ごしました。

がんばった息子たち園児のみなさん、ご指導いただいた先生方、本当にありがとうございました。演目が終わり、教室に迎えに行くと、先生が父母だけに「今日は、みんなすごくがんばりました。おうちでも、思い切りほめてあげてください」と言った言葉に、うん、うん、と大きくうなずく我々父母たち。

毎年思うことですが、運動会の練習が終わってから1ヶ月ほどで、これだけ仕上げるのはすごいな、と思います。ありがとう。

ちなみに、演劇は『アラジン』でした。年長から「ひとり台詞」が入ってきます。これは、タイミングが大事で、「自分が言わないとストーリーが止まってしまう」というプレッシャーもあります。そんなものと戦いながら、息子は、本番の数日前から「忘れたらどうしよう」なんて心配していました。

本番の今日、息子が言う台詞が何かは知ってました(家で何度も練習していたので)が、どこで言うかは知らず。パンッ!とその台詞を息子が華麗に決めたとき、なんでしょう、バカ親!はスゴイ!と感嘆した訳です。

どの親も、こどもの所へ駆け寄って、思い切り褒めていました。そんな幼稚園の雰囲気の中で育ってきたんだな、と思いました。

幼稚園の園舎から、大きな空が開けています。銀杏の木が園庭にあります。黄金色でした。教室から走ってくる息子が、笑っています。抱きついてきて、私が「おもいきり褒める」と、まぁね〜、と言わんばかりに息子は「おう」と言います。年頃、なんですね。

この空気感、この感じの日々、この時間。これが故郷です。仮に、息子がこのまま東京に住むことになっても、この時間が、故郷なんだよ、と。ここだよ、と。私は、息子にそう言ってやりたくて、家まで、二人で、手をつないで『ふるさと』を歌いながら帰りました。



■2017年11月26日
『キラキラしています』

わが家のベランダに、迫り来るように立っている桜の木。今は桜も紅葉しています。春には、ベランダを花びら絨毯で敷き詰め、ペールブルーの空にペールピンクのザ・ニッポンの春を演出してくれる桜の木。夏には、濃い緑の葉を茂らせ、強い日差しを遮ってくれたりします。そして、秋の今。もみじほど赤くもなく、銀杏ほど黄色にはなりませんが、しっかりと紅葉しています。

秋晴れの、今朝みたいに風の強い日には、ヒラヒラとベランダに葉が落ちます。そのなんともいい感じの光景を見ていると、秋だな、と思います。パリパリと握れば崩れそうな落ち葉。それらを拾って、息子は薄水色の画用紙にボンドでペタペタ貼っています。

このまま冬になって、葉をなくした太い枝が、空気の澄んだ青空を切り裂くように伸びるんですよね。当たり前ですが、桜にも春夏秋冬があって、どの季節にも、美しいモノです。

息子が6歳になりました。ドラマ「コウノドリ」を見ていると、無事に産まれてくれることの奇跡を感じます。早く産まれようとする息子に、もうちょっとママのお腹の中にいて、と1ヶ月の入院をした妻。そのことを、私達夫婦はいつも思い出します。

月曜日から金曜日まで、幼稚園から帰ると毎日のように習いごとに行って、できること、やれること、やるべきこと、やらないといけないこと、今だからこそできること、なんて様々な理由をもって、「やりたい?」と息子に聞き、やりたいっていったからだよ、と通わせている現状。

ふと、産まれてから今までの定点撮影や記念撮影の画像を見て、大きくなったな、と感動します。元気に育ってくれたことに感謝します。それだけでいい、とも思います。

朝、起きてきて早々「水泳に行きたくない」と言い出す息子。「あぁ、明日はくもんと英会話のふたつもある日かぁ、最悪だな」なんてつぶやく息子。それらを聞いて、「止めれば?」と簡単に言ってやることに、どうして、こうも抵抗があるんだろう、と自問自答をします。

私が幼稚園に通っていた頃。習いごとなんて一つもしてませんでした。それは生まれ育った時代と地域性が関係していると思いますが、小学生になって、そろばんを始めて、一年生の三学期くらいから少年野球に通ったぐらいで、まぁ、なんでしょうね、それぐらいでした。

比較するわけでもないですが、何となく自分のことと比べてみて、かわいそうかな、と思わなくもないです。が、ぶれない。ぶれてはいけない。そう言い聞かせています。

花を満開にさせるための冬、そして、花が散った後の夏。最後まで美しい秋。ぼんやりと、包括的に、俯瞰して、息子の時間軸で、色々と考えてしまいます。

秋です。京都の東寺からは絵はがきよろしく、真っ赤で美しいライトアップの映像が届きます。都立公園の銀杏の木は青空に映えて黄金色に輝き、子供達の笑い声がこだましてキラキラした光景を作っています。

今年の誕生日プレゼント、息子は小さくなった自転車を買い直したいと言いました。22インチの自転車を買い、公園の中を颯爽と走る。サッカーボールを前のカゴに入れて、自分で造ったルールのもと、私と対戦する息子。

ずっと、笑ってます。ずっと、走ってます。あくまでも一生懸命です。きっと、楽しくてしょうがないはずです。少なくとも、私にはそう見えます。

聞いて、応えてくれる息子の言葉よりも、声音を、表情を、じっくり見て、真剣に向き合って、そうしていれば、きっと私の自問自答なんて、たぶん小もないことで。そう思わせてくれる息子に、私も妻も、助けられています。

それは私達が助けてやれることと同じぐらいに、です。ふと、秋の桜の、紅くなった葉も落ち葉も、美しいです。それは、満開の春と同じぐらいに、です。

リビングで、妻が息子に「浦島太郎」の絵本を読んでいます。そして、読み終わった息子が私の所にやってきて、「たまてばこをあけたらどうなったとおもう?」と聞いてきます。

「おじいさんになった」と、応えると、
「ブッブー」といって両手で×をします。
ツルになったそうです。

暖房に床暖をつけて、完全に冬モードの部屋の中から、紅葉した葉を風に任せて散らす桜の木が見えます。リビングに妻と息子。ヘリコプターの音が、小さく聞こえます。晴れてます。穏やかです。電動ミルで挽いたコーヒー豆のいい香りがします。

なんともキラキラした午後です。

息子よ、6歳のお誕生日、おめでとう。



■2017年11月12日
『生身でリアル』

鼻がつまって、しょうがないです。昨日から、急にくしゃみが出始めて、そうこうしていると、鼻水が出てきて。で、今、完全に嗅覚を失いました。ランチで食べたカツ丼も、味すらしない始末です。

インフルエンザでは、なさそうです。何しろ、熱がないのです。体温計が壊れていなければの話ですが、平熱です。とはいえ、今年もインフルエンザの季節ですね。

通常、今の時期に予防接種を受けて、12月から、春先の3月ぐらいまで効力があるようにするのですが、今年は、ワクチン不足らしく。毎年予約しているクリニックでは、予約受付を止め、しばらく、ワクチンがないので、また連絡してください、と言われました。

子供のいる家庭の多くでは、両親のインフルエンザ予防接種はマスト。私も、はやくワクチンを見つけ出して接種しなければ、と思っていた矢先の、この風邪です。

昨日、新宿で冬用のコートを物色している途中、ドラッグストアがあったので風邪薬を買いました。店内は中国人ばかり。レジも、中国人専用で、店員もオールと言っていいほど中国人でした。

本当に、一時のローマの、スペイン階段から続く高級ブランド品街の、定員は日本語マスト、という時代を思い出しました。に、しても、13億人の国ですからね。一割が世界中を旅しても、日本の人口より多いというマーケットです。そりゃ、トランプ大統領も安倍首相も、ねぇ、政治と経済を切り離せませんよね。

そのドラッグストアで買った市販の風邪薬を、朝から飲んでます。ので、眠いです、今(笑)。

そろそろ、マラソンの中継番組も増えてきましたね。私は、小学生の頃、毎朝、ランニングをして、マラソン大会ともなれば、トップを争ってました。その血は別に、全然騒がないのですが、走ることに対して「ただ、走ってるだけで、何がおもろいの?」と思うタイプではありません。

自分のペースをつくり、ゴールまでの距離の中で勝負所をつくり、それに向けて自分の体が動くように準備する。そんなマラソンは、山登りにも似て、人生そのものだ、と考えなくもないタイプです。

今日、調布市で行われた親子マラソン、ファンラン1qに参加してきました。1qなんて、余裕。最寄り駅までの往復よりも短い。そんな風になめてましたが、実際に、フルで走ると、汗が噴き出ます。息も荒れます。だからゴールしたぁ〜という感慨も、それなりにあります。

この経験を機に、息子がマラソンの楽しさに目覚めてくれたら、これから毎朝、家の前の公園を走ってトレーニングし、シドニーやボストン、ロンドンなんかの市民マラソンに参加したい。そんな風に企んでました。

で、本日のマラソン後、息子に、、、

「どうだった、走って。気持ちよかった?」
と聞くと、即答で、
「いや、走るのは、好きじゃない」と。
マラソン参加世界一周紀行は、なさそうです。

それにしても天気のいい日曜日ですね。そろそろ冬も本番になるかな、と思いきや、まだまだ秋晴れが続いています。食欲が収まらなくて、結構、ぶくぶく太って、大変です。新しい洋服を買うとき、サイズはジャストフィットより少し大きめ。まるで成長期の子供洋服の感覚になったりします。

嗚呼、鼻水が止まりません。マスクをしているので、なんとも苦しいです。熱があるような節節の痛みも、あります。これ、体温計を買い直そうかな、と思ったりもします。

ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと運動する生活。それができれば、もっとスカッと爽快なんだろうな、と思いつつ、それらを「わざわざ」しないといけない生活スタイルになったんだな、とつくづく思います。

最近、会社の会議で「それはAIでいこう」なんてことが真顔で言われ始めました。aiboも予約受付まもなくで完売。ヴァーチャルリアリティで、行った気、やった気、をいかに演出するかに必死です。家庭には1台、なんでも調べて、何でも応えてくれるAIがリビングの真ん中に居座ろうとしています。

そんな中でのシャンシャン。上野動物園でパンダの赤ちゃんが来月の中旬から一般公開されるというニュースを見ました。大谷翔平選手が、二刀流のままメジャーに挑戦するというニュースと一緒に流れました。

なんでしょう、そりゃ、そうです。生身です、そしてリアルです。結局の所、スマホに大量に保存した写真や動画なんかよりも、目の前でじゃれついてくる息子の今の方が、よっぼど大事で、かわいいです。

鼻水が止まらない、そしてたかだか1qしか走ってないのに、ものすごく疲れている。それが、今です。そんな今の連続が、未来です。

便利なモノに、便利以外のものまで任せようとすることなく、結局は生身、そしてリアルなんですから、と、ここまで書いて限界。鼻をかみます。



■2017年11月5日
『プライスレスな価値』

前の晩から昆布を浸し、翌朝カツオを混ぜて出汁を取る。そうしていただく味噌汁が、なんでしょう、染みるほど美味しい秋の晴天が続いていますね。

この空気の、なんともいい感じ。ふと、そうか、と、味噌汁が美味しいと思う歳になったのかな、とも思ったりして、それでも、やっぱりカツオと昆布の出汁でいただくのは、私には心に染みます。

一年の中で一番晴天率のある日とも言われる文化の日。今年も11月3日は埼玉県の入間まで行き、ブルーインパルスの展示飛行を見ました。今年で4回目。毎年プログラムは同じですが、やっぱり生で見ると驚きのパフォーマンスです。

CDが売れない、映画のチケットが売れない(もっと言えば、ビールも車も売れない)。そんなモノ消費ではなく、目の前で生の、ライブの、そんな興奮にお金を払う。言ってみればコト消費が、伸びているのだと言います。

スポーツ観戦、音楽コンサート、演劇パフォーマンス。チケットぴあは、これまで興業をチケット販売というシステムでバックアップしていましたが、ついに自前でコンサート会場を持つというニュースも流れました。

確かに、ブルーノートなどの小さな「箱」で繰り広げられる音楽パフォーマンスは、息づかいまで聞こえてきて、心臓が震えます。そんな空間には、何事にも変えられない価値を感じます。

プライスレス。マスターカードの名コピーが浮かんできそうな、そんな時代。物欲だけではない経験にお金を払うようになってきたんですね。

コト消費の代表格に、「旅」があるという意見もあります。何処か「違う場所」へ行って、「違う空間と時間」の中に浸る。そんな楽しい消費。星野リゾートやアマンなど、リゾートを売る会社も好調だと聞きます。箱(宿)をつくって、そこで過ごす=体験するコトを提供する。

私は、モノよりコトに消費してきた一人です。その価値観を共にして家族となった妻と共に、わが家は、完全にコト消費一家です。

そんな私達家族は、みんな揃ってNHKで放送中の「チョイ住み」という番組を見ます。年配の方と若手が、ホテルではなく民泊を使って一緒に生活する。近所のスーパーへ行ったり、公共交通機関を使って、ちょっと住むような生活を送る、というコンセプト。昨日放送のあったサンフランシスコ編は、具志堅用高さんと古川雄輝さんでした。年の差は33歳。

これまでパリ編から始まって、ロンドン、フィレンツェ、ニューヨーク。台北、キューバ、ベトナム、リスボン、フィンランド、プサン、香港、マレーシア。不定期でやっているので、いくつか見逃していますが、アンコール放送があったりして、ほとんどの回を見ています。

印象に残っているのは、野村周平さんと土井善晴さんが過ごしたキューバ編。土井さんが持っていった調理道具の多さと夕食や朝食の質、プラス、ハバナの街で弾ける野村周平さんが面白かったです。あとは、サングリアを自前していたリスボン編などなど。

何となく、「若い方」の目線で見ていた番組が、どんどん「年配」側で見るようにもなってきました。例えば、昨日の具志堅さんと古川さんでいうと、息子が30歳目前になったとき、私との歳の差は、あんな感じになるわけで。何とも感慨深いというか。

で、コト消費。何処かの街でチョイ住みするなら、と家族で構想を練ったりします。未だ実現していない九州一周鉄道の旅は、住むというコンセプトから外れるし、ニューヨークに行ってニュージャージーやブルックリンのアパートメントで二週間ほど暮らして、マンハッタン中を歩き回るには、息子がまだ小さすぎるし。

う〜ん、じゃ、大自然の離島は? 与那国島に行って、何もせずに、一日中海に潜って、昼寝して。のんびり家族で暮らすのも面白そう。だけど、やっぱり、基本が都市型のわが家。大自然よりも、ちょっと街の方がいいんじゃないか。と、すると・・・

コロンボなんて、どう?バンコクぐらいから始めた方がいいかな。いやいや、どうせならシンガポールにしようよ。「サンフランシスコがいい」。そんな中で、チョイ住みを見ながら、息子はストレートにつぶやきます。

そんな会話をしながら、○○をするという経験・体験が体感に変わって、それを消費するという流れ。確かに、モノにお金を払って満足するだけではない何か、がありそうに思えます。

豊かになったということでも、あるんでしょうね。



■2017月10月28日
『夢中になろう』

『愛を謳おう』。それは、三池崇史が作詞し、忌野清志郎が作曲した名曲です。『照れないで 夢を語ろう でっかい夢を』。清志郎は、井上陽水と一緒に歌っています。

『何色だっていいじゃん 祈る神様 使う言葉が違うの 素敵』。流れてくる音と声からは、彼らは歌っているというよりも、踊っているように感じます。

どうして、こんな古い歌を、近頃よく聞くかと言えば、息子が幼稚園を卒園する記念に動画を作成し、それにのっける音を探していたからです。

隅の方に追いやられたこの古い歌が、私のスマホの中で息を吹き返し、真ん中で、暴れ出しました。これだ。メインに据えるのは、この音と声にしよう、と決めました。

『そろそろ生まれるはずさ すべてを愛せる子供たち』

先週、台風の中で行われた衆議院選挙は、自民党が圧勝でした。受け皿不足。まだまし、という選択。自民党に入れるけれど、安倍さんには総理を続けて欲しくない。そんなねじれの感情を伴った結果だったかと思います。

受け皿になろうとした野党は、相変わらず数字しか見ない駄目な経営者よろしく、数あわせに走って自滅。その火の粉を浴びてたまるかと、希望の党の代表も血迷ってしまって、リセットだの、排除だの。何様?という状態。

結果、「おごりがあった」という反省を、野党の、言ってみれば挑戦者で、いちばん国民の側に立つべき人が言うのですから、呆れて言葉にもなりません。なにを、おごれる、理由があるの?

『バトンを受けてキミよ走れ 地球と踊れ 裸足で笑え』

自由の意味を、それに憧れる時代を知らない子供(私)の、子供(息子)。そんな彼らの未来を託すべく、自公連立なんだろうか、と思います。

政治に何を期待しても無駄なんでしょうか。人工知能が、蓄積したデータに思考を加えて人間と共存し、今、心配されるような「征服される」というおかしな未来がないとしても、

『力を合わせ 宇宙の敵と戦え』
古い歌は、最後、宇宙の敵と戦えと締めくくります。

生まれて6年が経って、一つの「場所」を卒業しようとする息子を見ていると、頼もしいし、その分、責任のような「しこり」を感じずには居られません。

AmazonやGoogleが、相変わらずの勢いで、第二本社を置こうとAmazonが言いだせば、土地がタタで借りられて税金も安くなる。その他、いろんな特典をつけてアメリカ全土から280を越える都市が「来てください」と手をあげる。

今朝、新聞に載っていた広告で、フィル・ナイトというナイキを作った人の自伝「SHOE DOG」を知って、Amazonで注文しました。夕方には家に届き、それをペラペラめくりながら、何も無いところから、二十代の若者が、アディダスやプーマを越えてやると本気で思い、神戸に来てオニヅカタイガーに惚れ、そして、ナイキを、こんなに大きくするまで。

何となく、SONYに憧れた男が、Appleしたような話かも知れませんが、アメリカン・ドリーム。《努力は夢中に勝てない》。そんなことを思わずに居られません。

これからの未来は、きっと色んなモノが変わり、色んな事が終わっていきます。その中で、手法やアクセス方法やソリューションが変わっていきます。

が、たぶん、《夢中》でいれば、それだけは真っ当です。上っ面のおべんちゃらでも、数あわせでも有りません。そして、AIでも水素でも窒素でも何でも、適応しながら進んでいける鍵だと思います。

先述の、息子の卒園ビデオ。何か最後に息子へメッセージを入れるのですが、私は「夢中になろう」。そんなシンプルにして骨太なメッセージにしようと思います。



■2017年10月15日
『何となくハロウィン』

雨がしとしと、と続いて、嫌になります。週が明けても、雨は続くようで、寒さも相当なものです。だいたい、この時期の《寒さ》は、感覚的に「だんだん、寒くなってきましたね〜」という程度なのですが、それが《本気で》寒いからびっくりします。

天気予報を見ると、来週どころか、10月はずっと雨という状態らしく、これは、もはや梅雨ですね。

秋晴れの、爽やかなキリリとした風の中で、スポーツやアートイベントが楽しめるはずのところ、ちょっと、これでは困りますね。食イベント、特にラーメンショーのような「温かい」ものは人気が出るでしょうが、逆に、オクトバーフェストみたいなビールのイベントはしんどいでしょうね。

それにしても、今年もハロウィンがスゴイです。

街のあちこちに、かわいいおばけとオレンジのかぼちゃがディスプレイされていて、夜空と月とすすきに、かぼちゃとおばけが交じって、和菓子屋にまであったりすると、いやはや日本にも本格的に定着したな、と思わせます。

昨日、新宿のH&Mのキッズフロアで、ライオンの着ぐるみを発見しました。ジャンル的にはパジャマになるんでしょうか?まぁ、とにかくかわいいルームウエアとして売られているんでしょうが、そろそろ本格的に「トリックワトリート」する息子には、絶好の仮装でした。

昨日の晩、買って帰ったライオンの着ぐるみを大喜びで着てた息子は、そのまま眠り、なので、今朝は目をこすりながら「おはよ〜」と起きていた息子が、ライオンで、なんともそれがかわいらしかったです。

着替えて出かけた後、また家でライオンを着た息子がソファで昼寝をして。きっと、今日の晩も着て寝るのを思うと、「おはようからおやすみ」までライオンで、がお〜なんて、カワイイのも、いつまで続くのかな、とちょっと寂しくなります。

子供も10歳になると、親から離れる。そんな束の間の子育ての中で「かわいい」どストライクの時期なんてあっという間、だから余計に、この子ライオンの息子を見て、かわいさをかみしめておこうとも思っています。

来年から通う区立の小学校に、昨日行ってきました。公開日で一般の人も見ることができたので、授業風景や校舎内をうろうろして、小学生の5年、6年生になると、もう、さすがに、まぁ、思春期も入ってきたりするんだな、と思いながら教室を覗いていました。

この小学校は面白くて、一年生の横に六年生の教室があったりして、その差が余計に目立ちました。さらに、小中一貫校なので、長い校舎を進むと、ふと、中学生の教室になって、この壁の無さに、余計に、子供の成長を感じたりします。

私が中学一年の頃、三年生はずいぶんおとなに思えたモノです。小学一年生の記憶は、あまりありませんが、六年生は、もうかなりのお兄さんでした。

それらがごちゃ混ぜになっている、息子が来年から通う区立の小中学校。校舎もきれいで、広くて、なんともオープンな印象を持ちました。

あそこに通いながら、一年、一年、経験と歳を重ねていきつつ、このライオンの着ぐるみを着て、「がお〜」と《怖がらせている》息子が、「あ、うん」「別に」だけの返答になるのかと思うと、あぁ、何ともそりゃそうだな、と思ったりもして。

来週の日曜日は、その小中学校が衆議院選挙の投票所になります。自民党が優勢で、緑の党が苦戦。そんな世論調査を受けて、自民党は引き締めを計り、民進党は、再び合流?みたいな動きになってきてます。

自民党以外に任せようと思う政党がないから、とりあえず自民に入れるけど、安倍政権の突っ走りに危惧というか、嫌気が差しているので、安倍さんが笑っている写真を見ると、自民党に入れたくなくなる。

そんな意見を聞いて、「そういう人の一票の行き先が、確かに
ないな」と、今回の選挙を憂います。

いずれにしても、バレンタインデーが廃り、今や、クリスマスも恋人たちのモノ限定になって盛り上がりに欠け(恋人の居ない若者が多いからとも言われています)、そうなると、友達同士で、《気軽に》楽しめるハロウィンは、ちょうどいいイベントと化して、まあ、適当に「参加」する、という人が多いようです。

それぐらいのノリで、自分にピンときた、もしくは、なにかしらやってくれそう、と思った人に、一票を投じる人が増えたら、確実に、この日本は変わるんですけどね。既得権益もあったもんじゃなくなりますからね。

こうなったら、投票所を、ハロウィン仕様にしてみたり、しますか。



■2017年10月9日
『東京というセンスと香り』

例えば、サバンナをしなやかに駆けるチーター、極限まで無駄を絞り込んだ細く強い駅伝ランナーの身体、空を切るように繰り出される鋭いボクサーのパンチ。

思わず、美しい、と嘆息する類の憧れを
白井健三選手の床でも感じます。

体操の世界選手権は、カメラのアングルやライティングが非常に演出的です。あおり気味のアングルだと、いかに「高く」跳んでいるかがよく分かります。クルクル回転して、ひねって、ピタッと着地する。美しい。本当にそう思わせる演技です。

一つの芸術に達している彼の床運動は、誰よりも努力する彼だからこそ可能だと言います。年齢以上に考え方がオトナだとも言われます。そして、内村航平という、史上最強の体操選手の側で時間を共に出来た「運」も持ち合わせています。

体操DNAを持って生まれてきた彼を、本物にした余り有る要素。それら全部が集大成したモントリオールでの床だったように思います。個人総合に初挑戦で銅メダル、床と跳馬の種目別で金メダル。東京オリンピックは三年後です。「ちょうど、照準の合った選手」の一人であることは間違いがありません。

内村の怪我による離脱から、注目を一人で集めていた白井選手の影で、同級生の女子が、快挙を達成しました。池谷さんの体操教室に通っていた村上茉愛選手。女子ゆかで金メダルを獲得しました。

ゆとり世代からさとり世代への「世代交代」の中で、活性化されるスポーツの世界を見ていると、切磋琢磨、ライバルなんて言葉が、本当に清々しく映ります。

今日、10月9日は体育の日。全国の幼稚園、小学校で運動会が行われる時期です。中学や高校の体育祭になると、なんというか「子供達と親」という枠組みから抜け出してしまうので、運動会という感覚ではないですが、人の親となった私には、今、最も身近なのは運動会です。

昨日、雨で一日順延した息子の幼稚園の運動会がありました。年少から3年があっという間に経って、年長になった今年。息子のがんばりには、感涙でした。

組体操やお遊戯、障害物競走に加えてメインイベントのリレーまで、夏休み明けから毎日ヘトヘトになるまで練習していた成果が、あの見事な走りと、演技に出ていて、先生方に感謝する一方で、思い切り息子を褒めたい、と思った一日でした。

一緒に悔しがって、一緒に喜べる、運動会。早起きしてママが作ったお弁当と、おばあちゃんが作ってくれたお赤飯。頬張る彼を見つめる両親と祖父母が、囲むお弁当の時間。ものすごく、色んなものが解け合わさって、柔らかい時間でした。

ここ、東京で、走り回る園児達。彼らが小学生になった頃、ここ東京で、オリンピックが行われます。世界中から、色んな人達がやってきて混ざり合い、混合した中に化合したりして生み出される新しい何か。それが、スタンダードなモノになることもあるかも知れません。

そんな大事な東京オリンピックを前にした今、都知事は、都民のために、都民がファースト!という大テーゼで票を集めたのに、なんだか、あれは一体なんだったんだろう?という振る舞いの緑の方。結局、国政に打って出る前段階、単なる踏み台に使ったんだろうな、と思わせる始末です。

やることやってよ。築地も豊洲も混ぜ返すだけ混ぜかえして、決ぐらい拭いてよ。元からそれほど期待してませんが、それぐらいはやって欲しいし、もっと願うのは、都知事をさっさと他の人にやらせて欲しいです。

東京というセンス、香り、魅力の本当の所。そういうのをしっかり分かった上で、色々発信できる都知事。そういう人を、選びたいし、はやくそういう段階になって欲しいと願うばかりの一都民です。



■2017年10月1日
『ドラマの秋、になるかな?』

食欲、スポーツ、読書に芸術。《秋》は何をするにも良い季節です。そんな時期に今年も突入です。

わが家も、月の初めには運動会、翌週は行楽の秋を地でいくお出かけ三昧と、秋を満喫する覚悟でいるのですが、ちょっと、今年は、「秋ドラマ」が気になります。

視聴率が取れないドラマの低調ぶりは、お年寄りが見ないと数字がとれない、なんて言われますが、録画視聴やスマホでの交換動画を入れたら、やっぱりテレビの発進力は高く、ドラマもそこそこ見られているように思います。

90年代のドラマ黄金期に比べてしまいがちですが、あの頃はスマホもネットもない時代で、なんというか「ライフスタイル」をトレンディドラマが肩代わりしてましたからね。そこと比べてもしょうがない訳です。つまり、数字を追ってドラマは作れないというか。

で、今クールの秋ドラマ。

月曜日から見ていくと、フジテレビの月9。前クールの「コードブルー」で視聴率を回復した同枠は、勝負の企画? 篠原涼子を主演に据えた『民衆の敵〜世の中、おかしくないですか!?〜』。市議会議員という何かと話題の設定で、市政に乗り込む新米ママという、なんとも爽快な感じを受けそうな予感。高橋一生、石田ゆり子、古田新太が脇を固めています。

火曜日は井上真央が久々に主演をつとめる『明日の約束』。スクールカウンセラーが主人公になるという時代なんですかね。生徒の死を巡るミステリー。そして、クドカン脚本、キョンキョン主演で話題になっている『監獄のお姫さま』。女囚人が主人公で、復讐劇?なんだかトピックスを読んでも、よく分かりませんが、この豪華なキャストを据えて、クドカンがどこまで「意味なんて無くすることができるか」が個人的には注目点です。あくまでも、ばかばかしくやってもらいところです。

水曜日の10時枠は、いつも第一印象が面白くないのですが、見てるうちに中毒性を増すのが多いので、今回もそんな感じかもしれません。『奥様は、取り扱い注意』は、金城一紀が脚本、綾瀬はるかが主演という、なんだか大化けしそうな予感です。

木曜日。ザ、最近ドラマという設定。医者と刑事物がそれぞれです。『ドクターX』は、もはや「相棒」並みの定番ですね。で、注目は浅野忠信と神木隆之介がタッグを組む『刑事ゆがみ』。原作はマンガらしいですが、はちゃめちゃな先輩刑事に振り回される若手刑事という、よくある設定の中で、どれだけ「違い」がでるか。

金曜日は『コウノドリ』。前作は、息子が産まれてすぐぐらいのタイミングだったので、個人的には「元気で生まれて来てくれたことが奇跡だ」と自分を投影した覚えがあります。続編ということで、変わらずの期待感です。あとは、深夜になりますがテレ東の『セトウツミ』。これは、映画版をAmazonで見てから、どうやって連ドラにするのか。関西弁は大丈夫かなどなど、ちょっと注目です。

土曜日は学園モノが続く感じですね。土曜日って、やっぱり中高生向けなんですかね?そのクラスターに合わせても、見ないと思うのですが、、、まぁ、『先に生まれただけの僕』は商社マンが校長になるという、教育も商売の一つという感じのドラマ。それと、なんだかよく分からない、30歳オーバーの童貞と処女が、それを卒業出来たら学校も卒業できるという『オトナ高校』。土曜日って感じのラインナップです。

で、日曜日。おそらく大本命の『陸王』です。これまで外れ無しの日9枠の池井戸潤小説のドラマ化。原作を読んでいても、主人公に文句なしでは? ちょっと一足早いですが、「銀翼のイカロス」も楽しみになってきます。

ドラマを見る秋の夜長。エアコンも無しで、窓を開けて、すーっと入ってくる風を感じながら楽しみたい。改めてそんな時期に、そんなドラマを期待します。

ちなみに、去年。この「ドラマの秋」を飾ったのは、「ドクターX」「相棒」という高視聴率定番ドラマに「逃げるは恥だが役に立つ」が躍進。初回10.2%だった視聴率が、最終回には20.8%になるという大化けでした。他にも「校閲ガール」は平均視聴率で逃げ恥につぐ話題性で、この秋にスペシャルドラマも放送されました。校閲という仕事に注目が集まるきっかけでしたね。ただ、気になるのは「シェフ」。天海祐希主演で、面白そう(実際に私は見てましたが、面白かったです)という期待を裏切ってフジドラマの呪縛? 低視聴率に終わりました。

さぁ、今年の秋は、どうなるんですかね?
ドラマ豊作で、ドラマの秋となるでしょうか。



■2017年9月24日
『なんか臭う今だから、でしょうか』

毎年9月、関東大震災の発生に合わせて、この時期は、どこでも防災訓練が開かれます。防災週間って、これは全国的な話ですよね?

私の住居であるマンションでも、本日が防災訓練でした。朝一番に警報が鳴って、手順にそって全員で避難。家族揃って、きっちりと参加する家庭が多いように感じました。

それは、メキシコで立て続けに起こったマグニチュード7台の大地震、アメリカ南部でのハリケーン、ベトナムでの台風。朝鮮半島では、ミサイル発射に続いて核実験を疑うような、自然地震までありました。

そんなこんなの焦臭さ。なんか臭う今だから、でしょうか。

いつ起こるか分からない、だからそれに対する備えが大切。それが自然災害に立ち向かう術ですが、今の世界は、それに加えて人工的な対立にも備えないといけないような時代です。

国連を中心に非難し、挙げ句、国のトップ同士が「言い合う」。何処かの新聞の言葉を借りるなら、まるで子供の喧嘩のような、言葉の応酬にほとほと疲れさえ感じたりもします。

先週の金曜日「報道ステーション」に出演した俳優・仲代達矢さんが、北朝鮮とアメリカの言葉の応酬に「いったい、何のために、やっているんですかね」とシンプルかつストレートな疑問を呈していました。

その通りだと思います。

今の、朝鮮半島危機って、一体、何のためにやっているんですかね?こっち向いてよ、ねぇ〜、と?

戦争体験者の84歳、名俳優は戦争と平和の問題提起を続けています。実際に体験しないと分からないから、経験すべき。99%がそんな類いでも、戦争だけは、これだけは、体験しなくてもいいものであり、体験してはならないものだと思います。

安倍内閣は、今後続くだろう「ごたごた」の前に、国民に信を問うといいます。衆議院を解散して、総選挙をする。都議選でお灸を据えられた自民党も、これだけ日本を取り巻く危機が増えると、そうそう、お灸据えだけで票は動かないだろう、と。そもそも、自民党に対抗する野党の足場がかたまっていないうちに、と?

国民の一人として、問われたことって、正直なんなんでしょうかね?問の意味するところがよく分からないまま、解を求める難題。総選挙まで、一票の投じかたを考える日々が続きそうです。

手のひらのスマホには世界がある。業界によっては、手のひらにマーケットが存在する、とまで言うかも知れません。幕張で開催中のゲームの見本市では、バーチャルな世界を体感するVRが成熟期に入ったとも言います。

かつて、イラク戦争が起こったとき、テレビ画面で飛び交うミサイルの映像を見ながら、まるでテレビゲームのようだ、と言っていたのを思い出します。あれから数十年が経ち、これからの戦争。例えばサイバー攻撃や、電磁波を狂わせる爆弾?など。経験したことのない戦争という形になるだろうことも想像出来ます。

が、です。経験したことのない戦争でも、経験する必要もないし、経験してはいけないということは変わりません。それは、VRとは違い、モノが燃えれば熱く、刺されれば痛く、血が噴き出すと死ぬからです。リセットボタンを押しても、「やり直し」が出来ないのです。

近頃、身の回りのもの付加価値に「体感」が増えて来たことに違和感をもつことがあります。こんなことにも、わざわざ体感という価値が重視されるのか、と。裏返せば、仮想現実の中で、経験したものが「体験」と言い換えられ得るレベルに達してきたということなんでしょうね。

遠くで救急車のサイレンが聞こえます。火災報知器は、訓練でもないのに誤作動で鳴り続けたりします。防災速報は、豪雨を知らせます。

情報が情報の中で成長するかのように錯綜して、どうも、今の時代は生きにくいのかも知れません。それでも生きている。まるで、知っていることが、イコール体験したことのような奢りを生むことがあります。

「戦争がいかに惨たらしく、凄惨で、意味のないことは《知っている》」。だから戦争はいけない。そんな言葉の中に、まるで、自分が経験したかのような勘違いを感じることがあります(安倍首相は戦争を知りません)。

が、その奢りこそが落とし穴です。体感してない経験は、ただ単なるお勉強しただけの知識です。そこには知恵もありません。なので、「判断」も出来ないのです。

そんなことすら、自覚なき者には、さて、どう一票を投じたものか。これから投票まで、思案の日々かも知れません。



■2017年9月18日
『当たり前の晴れになれ』

台風が沖縄に迫る中での出国でした。先週の水曜日、成田を飛び立ちダナンまで。ベトナム航空の直行便が就航してから、この開発の止まないビーチリゾートが、リーズナブルに楽しめるということで、人気です。

家族で旅するので、リビングルームやキッチンがあるレジデンスタイプの部屋はとても便利で、そんなアップクラスの部屋でも、ハワイほど高くはなく。どっかいいビーチないかな、と探している中で、ダナンはビンゴでした。

泊まったのは、ハイアット・リージェンシー・ダナン。どうも韓国人に人気らしく、宿泊客の8割が韓国人では?と思うほど、いや、もう、全員が韓国人じゃないかという状態でした。

が、中国人だらけのハイナン島よりはマシで、まぁ、朝食から本格的なチゲ系のメニューには少々胃がもたれますが、他にもバリエーションが豊富なビュッフェで大満足。ハード面もソフト面も素晴らしいホテルでした。

さて、心配だった台風の影響もなく、飛行機は無事ダナンに着いたのはいいのですが、現地はなんと雷雨。ものすごい雨でした。スコールだろうとのんびり考えて、夜に着いた初日は、部屋でバタンQ(熟睡)しました。

翌朝、窓からオ〜シャンビュ〜、に感動するはずが、どんより、曇り。ホテルのプライベートビーチへ出ても、まるで日本海のような色(日本海沿いで生まれ育った妻、曰く)でした。

と、雨が振り出し。え?また?、とホテルの傘を差し、止んでくれないかなぁ、と願いつつ朝食を食べ、種類の豊富なプールを目の前に寸止め状態の息子は、「どうせ濡れるんだから、プールへ行こうよ?」としつこく。気持ちは十分に分かるので、まぁ、部屋に居てもあれなので、行くか、と、プールへ。

ここで、豪雨に変わり、その雨脚は弱まるどころか強くなる一方。紺碧の空と青く透明な海。そこに白い砂浜というダナンは顔色を変え、あぁ、やっぱり9月から雨期という一般情報があっていたのかな、と気分がどん底に・・・。

この日、無料でホイアンツアーがついており、それが予定通り催行されるということで(中止でしょう、普通!)、まぁ、雨も止むかも知れないと淡い期待のままバンに乗り込みました。

ホテルからホイアンまでは20分。すごすぎる、雨は相変わらず。水はけの悪い道路では、高波のごとく水しぶきを上げながらバンは進み。雨は止む気配、ゼロ。

ホイアンは古都なので、観光地(旧市街)は車両禁止。シクロのみ。サンダルで来れば良かったと後悔しながらスニーカーを水たまりに沈めながら歩き。観光。福建会館やシルクロード博物館など、ガイドを聞きながらも雨がとにかくすごい。ホイアンのシンボル日本橋(来遠橋)に到着する頃には、もう笑いが止まらないほどの雨でした。

近くのトゥボン川は、氾濫寸前の水量で、これは、ほんと、マジか、と。自由時間になって、街を歩いて、夕食を食べてピックアップの時間まで豪雨は止まず、弱まらず。

シクロが我が物顔で通りを行き、歩行者(私達)は、水のたまった端によけねばならず、それが無性に腹立たしくなって、よけてなんてやるもんか、と思えるほどの雨。もう、50円で買ったビニールの簡易カッパなんて使い物にはならず、そして寒く。

なんて日だぁ〜、と叫びそうになりながらも、妻がチェックしていたおしゃれなフードコートへ。そこでミー・クワンを堪能し、数件の店をのぞいて、あとはカフェでゆっくりしよう、、、と。

そしたら、真っ暗に。なんと停電。ホイアンの街並みが、真っ暗で、名物のランタンも雨で灯らず。ここまで来ると、本当、運の無さに笑いが止まりませんでした。

聞くと、日本を襲った台風18号の次に生まれた19号。この台風がベトナム中北部を直撃しているそうで。翌日も、翌々日も雨の予報。がーん。帰国する日から晴れという予報を見て、またまた無性に腹が立ちました。

誰だ、この決定を下したのは、と。神様会議?のような天候をコントロールするモノに、一言文句が言いたくもなり。

真っ暗な中で、全身ずぶ濡れ。ホイアンという古都は、私がバックパッカー全盛だった学生時代、旅行地理の勉強している時から、欧米人に人気と知っていて。日本のノスタルジーが感じられる外国の街の代表だとも聞いていて。そんなホイアンとの発対面がこの豪雨とは。

ホテルに戻り、温かい風呂にはいってすぐに寝ました。で、起きたら、小雨。また、雨かとテンションも下がりつつ。

結論を言うと、幸いなことにこの日から雨はなんとかもちました。そして、翌日は快晴でした。残りのダナンでは、朝食後にホテルのプールで思い切り家族3人で遊んで、午後からダナン市街やホイアン再訪などを楽しみました。

晴れ、って素晴らしい。改めて、そんな風に思いました。

豪雨があったからこそ、この晴れが貴重で、感謝するに値するものだったかも知れません。いや、違うな。やっぱり、ずっと晴れてて、それが「当たり前」になってこそ、本当のダナンなんだろうな。

晴れたダナンのホテルで、またミサイルが発射されたとCNNやNHKで繰り返し知らせるテレビを見ながら、《晴れ》に感謝しつつ、それが「当たり前」になればいいと思いました。ミサイルのない平和。それが「当たり前」になるべきだという思いに重ねながら。



■2017年9月10日
『壁』

「疲れたぁ」。最近、これが私の口癖になってます。特別暑くもないのに「暑いなぁ」と言ってしまうのとは別種の、何というか、芯から本当に疲れているから、口をついて出るような「疲れたぁ」。

40歳になってから、増えたような気がします。これは、世に言う「四十の壁」でしょうか。

おぎゃアと生まれて四十年、ずっと酷使してきた身体におこる「ガタ」。電化製品は10年が周期なんて言いますから、四十年は短くはないのかも知れません。ことさら、現代人は「機械のように」生きることが増えてきましたもんね。コミットする結果が求められ、バッファがないんですよね。

にしても、ですよ。あれも、これも「疲れます」。その(四十)せいにしているといわれてもしかたないほど、不思議と、なににつけても、どれにつけても、疲れます。

壁。その壁を越えたら、「せき止めていた」ものが次々となだれ込んで、連鎖して起こるんですかね。

日本人がどうしても越えられなかった100メートル走の10秒の壁。100分の1秒というタイムを競う競技における、その壁は、日本人というかアジア人の身体能力では難しいと言われてきました。

それは、ちょうど競泳の自由形などがそうであるように。マラソンなど長距離や、平泳ぎ・バタフライなどは勝負出来るが、一番シンプルにして、身体ひとつで勝負する種目(メイン種目)は難しい、と。

確かに、黒人の身体のバネはスゴイです。しなやか、かつ瞬発力があって、とにかく美しいです。マサイ・マラの国立公園で、ジープが故障して、それを助けてくれた「観光客ガイド」をしていたインテリのマサイ族ですら、後ろからジープを押している二の腕はしなやかでした(隣で微力ながら、私も押していました。私の首は、彼の腰の位置ぐらいという差も、ちなみにありました)。

そんな身体的能力を何で埋めたのか。100メートルを10秒未満で駆け抜ける競技で、必要なものは何か。iPadを持ちながらコートに指示するバレーボールの監督さながらの、データ重視の鍛え方をしたのでしょうか。

10秒の壁を越えられるかも知れない短距離走者が、ここのところ多いです。その第一人者?ともいえる桐生選手。高校生の時に10秒02をたたき出して、大学生に入ってからも追い風参考ながら10秒を大きく割り込む記録を出しました。彼が、引っ張ってきたとも言えます。

その後に山県選手、ケンブリッジ、サニーブラウン、多田選手。ぞくぞくと9秒台を狙える選手が出てきました。さて、一番最初に9秒台をたたき出すのは誰か。9秒台がでるのは、もはや時間の問題だと言われる中での競争。まるで、あさのあつこ著作の青春群像劇を見ているよな気持ちにもなったりして。

一番華やかな舞台に躍り出て、プレッシャーを一身に背負い、怪我をしたりスランプに陥ったり、切れてしまったり挫折したり。そんな人生模様を魅せていた桐生選手が、日本人で初めて、10秒の壁を昨日、越えました。9秒98。なんでしょう、ものすごく、結果として「いい」ものになったな、とも思ったりします。

この壁を一人が破ることで、あとは堰を切ったようにゾクゾクと出てくるんでしょうね。9秒台の記録持った選手達が、同じスタートラインに立って日本代表を争う。東京オリンピックまでの「競争」がなんとも楽しみです。

野茂選手はメジャーリーグへの突破口を開きました。中田英寿はヨーロッパのリーグを当たり前にしました。北島康介選手は競泳で世界と戦えることを示したし、高橋尚子選手は、オリンピックの陸上でも金メダルが取れることを証明してくれました。

それぞれの競技には、それぞれに壁があって、それを破るまでの期間の苦悩と苦労が、一度越えることで、花開く、と言いましょうか。

一線を越える、という「線」よりも明確に、高く・分厚く立ちはだかる「壁」。そこに立ち向かった人達の全ての成果が、たまたま誰かの上に降り下りてきて、そこからは、全員で享受するといいますか。

メキシコとの国境に造ったり、東西を分けたり、エルサレムで宗教を分けたり。そんな壁が壊れて、融和する未来。今のところ、なんだか、ひとつの線の上に、一線を越えないように「壁」をこしらえて、それでもって囲い込んでいるというか。そんな現象が多いようにも思います。

戦争と平和。そことに例えば、絶対的な壁を造って、それを隔てるのであれば、私は、その壁の一つの要素、一つの理想、一つの票を、喜んで投じたいと思います。

ここまで記して、ふと、「はぁ、疲れた」と、また言ってしまっている自分にドキッとしました。現在、四十一歳。まだまだだと言い聞かせて、今日も午前中から、息子と公園でサッカーをしてきました。(これか、な、原因)



■2017年9月3日
『鵜呑みせず、丸投げせず、見て見ぬ振りをせず』

早朝、6時。Jアラートがスマホに来て、テレビをつけるとスミバックに白文字の、なんとも言えない「画面」が映し出され。アナウンサーは同じことを繰り返している。

ミサイルが発射され、日本上空をとぶ。地下か丈夫な建物へ非難せよ、と。・・・朝の寝起きに地震に襲われ、大慌てするそんな「自然災害」とは明らかに異質な、なんだろう、このアラート。そして、いったいどうすればいいんだか、つかみきれない「忠告」が流れ続ける漠然とした恐怖。

なんなんですかね、この夏の終わりは。私たちは、この情報社会をある種「過多」ととみて、つまりは情報は必ず「どこか」で発信されていて、だから「その気になれば全部分かる」と思い込んでいるのではないかな、と思ったりします。

情報は精査され制御され、そして整理されているということを再認識した夏の終わりでした。

さぁ、秋に向かって東京の今日の風も、やはりちょっと冷ややかです。蝉の鳴き声は、完全に変わりました。じーっと鳴き続けるそれから、ある種リズミカルになって、18時半を過ぎると暗くなって、月も星も心なしか澄んだ夜空で反射しています。昼間の青空はそれ以上で。特に、午前中にざ〜っと雨が降って、上がった後の青空は、本当に澄んでいます。

昨日、川崎市にある岡本太郎美術館で、シンボルともなっている「母の塔」を見ました。太陽の塔もそうですが、これだけ形を知っていて、ある種有名すぎるぐらい有名なのに、実際に本物を見ると息をのむほど圧倒される。岡本太郎という人の底力を感じます。

そんな太郎が活躍した時代。パリは、世界中の芸術家を惹きつけました。惹きつける何かがありました。それは、明確なものではなく、例えばカフェで、サロンで、通りに並ぶ花屋で、メトロの入り口で。街に流れる雰囲気というかリズム。アパルトマンで過ごし、悶々と生み出される「モノ」が花咲く土壌がありました。

同時に、その時代背景は戦争に塗りつぶされもしました。そんな歴史。例えば、テッパンで繰り返される、としたら、ですよ。オリンピックに万博に、再び世界中がパリに注力する近々の未来は、さてさて、「歴史を繰り返してしまうのでしょうか」。そんなことを考えると、また、あのJアラート後のテレビに写された「異様」な画面を思い出してしまいます。

全部ゼロにして、やり直す。そんなことを都合よく利用しても、なにもならないのに、それを理解するための教育さえ受けていないとすれば、本当の責任者は誰だ、ということにもなります。

と、同時に、日本で生まれ育って、ここ東京にいて新聞や雑誌、PCにスマホに、ずっと見て、知っている私はいつの間にか、「そういう側にはいない」と思いこんでいるようで、不安になります。

先日、三軒茶屋にあるホールで、世田谷区が主宰するコンサートがあり、ジャズのトランペッターが中学生のドラマーに暴行を働いたというニュースが話題になりました。

統率され、ハーモニーを生み出してパフォーマンスをしながら生きていく現代社会。その最低限のルールの徹底には、ある種の「力」が必要で、それをひとくくりに「暴行」と呼ぶことの是非。それと同時に、「完璧」に非暴力へと世界を塗り替えることの必要性。

私は、ぼんやりと思います。

やりたいこと、と、やれること、は明確な「線引き」を持って違うと分かった時、同じように、やらなければならないことと、やってはいけないいことも、明確に分かると思うんですけどね。

そこに、変な読み替えや解釈を持って、繕おうとするから、本当に、なんというか、まいってしまうほど複雑になります。

十人十色。誰一人として、完璧に同じ顔をした人は居ない。だから、考え方も色々だという話を聞くと、前向きになります。そうなるべきところを、なぜかネガティブに、だから「同じ方向を向いて、平和にはなれない」というあきらめは、やっぱり強い調子で否定したいな、とも思います。

古い歴史も、その時点、その時点では、常に新しい未来でした。だから、その新しい未来を、いくつものを選択肢の中から選んで進んで来たことになります。今、ここで、選択すること。それを誤らないこと。そのための、情報。それが制御され・整理されていると知った上で、決して鵜呑みせず、丸投げせず、見て見ぬ振りをせず、でいきたいところです。



■2017年8月27日
『で、さて、次、です。』

夏休みも終わりに近づいて、ようやく本格的に暑い日が連続し、まぁ、そうなったらなったで、もう嫌だと思ってしまうわけですが。暑いですね〜。

例えば、ランチを食べたりして、屋内から屋外へ出たときの、あの殺人的なモワッと感、そしてヒリヒリするような日差し、もう茹で上がりそうな頭のぼんやり感って、あれは屋内が涼しすぎることに原因があるんでしょうかね。

夏に半袖シャツを着ない(若い)サラリーマン男子や、香港やバンコクなんかの暑い都市にいるサラリーマンが半袖シャツを着ないという理由を聞くと、一様に「オフィスの中が寒い(屋内のエアコンが効きすぎている)から」と、女子のような意見が返ってきます。クールビズって、そういうことでしたっけ?と思ったりもします。

キャッチーな言葉を掲げて「それとなく」引っ張っていく。クールビスだの都民ファーストだの、まぁ、お上手ですよね、小池さんって。一体全体、都知事になって、都民の私にダイレクトに伝わる「何か」をしてくれたわけでもないので、なんとも思いませんが。

安倍首相が電撃解散する。一部新聞で噂されるそんなことが現実となったとき、7月の都知事選の時のような「とにかく、自民以外に入れよう」と思って、《ちょうどいい》受け皿(都知事選時の都民ファースト)ってないですよね。

共産党は、与党というのではないし、国民ファーストでしたっけ?なんか違うし、維新の会はないし。となると民進党?と誰か一人でも、これをここまで読んで思うなんてことなんてない、という状態ですもんね。そもそも代表戦が前原さんと枝野さんって、嘘でしょ?どうしたら、ああも、ここぞと言う時にバラバラになれるんですかね。

まぁ、何につけてもちぐはぐな最近。政治の世界もそうだし、企業の中も、家族の中も、友達関係も、という人が多いかも知れません。そもそも、平成が来年で終わろうとする今、この平成の時代って何だったんだろう。今朝の朝日新聞の一面が問いかけてくるのを読み、改めて思いました。

私が小学6年生の時に昭和が終わり、昭和年度最後の卒業生になった訳です。中学は逆に平成最初の入学生という、生まれは昭和・育ちは平成という世代の最古株として、思春期を平成の立ち上げと一緒に見てきました。

どうも、昭和最後のピークの尾を引きつつも、バブルは崩壊、経済的な打撃、全体的な縮小ムードなどなど、「勢い」に欠けた時代だと言えなくもないです。最初の数年間は、CDがやたらと売れる変なバブルがあって、とはいえじりじりと就職氷河期が迫る。もう、就職に関しては、募集すらない超氷河期にあって、ほんと、今の就活生が羨ましい限りです。

リーマンショック。決定打はこれですよね。なんだか、雰囲気からして「不景気」。そんな時代が長らく続き、好調な時代を知らない世代が、だんだん大人になり、就職するようになり、そこには正規採用と非正規採用という、やっていることはまったく同じなのに、企業都合で、つまりは人件費という「経費」(そもそも社員に払う給料を経費といっている時点で、訳がわからないのですが。給料を払うために働いているのであって)を減らすための策がルールとして正当化されるようになると、いろんな問題が生じ始めました。

結婚できない、子供が産めない、社会保障、云々。いろんな「つけ」が回ってきて、それに蓋をするようにやりすごしてきた(あるいはやりすごしている)のが現状です。この先を考えたときに色々と不安も増しています。

そんな「平成」。しかしながら、こと日本においては、平和でした。戦争が色々とあり、過酷な状況が世界レポートとして報告される中でも、往々にしても日本は平和で。それを根底から揺るがすこともなかったかも知れません。

しかし、それも今や、本当か?と疑いたくなる環境の変化があります。一箇所に負担を押しつけてきたという負い目、それを「しょうがない」こととして反映してこれなかった弱み。それらをしっかりと判断し、決断し、実行し、邁進するための「次の時代」へは、持続可能なものごとの定義として、クリアすべきことは山積みです。

その山を、少しずつ切り崩して、「平和」を担保できうる何か。それは《誰が》やるのかを任せている場合ではない状況に置かれるかも知れません。

激動だと言われた昭和の時代。その時代を受けて「流して」きた平成。で、さて、次、です。何だか、「始まり」を予感させる時代の主人公が、今は、まだかわいい盛りです。そのかわいい笑顔をなんとか守りたい。その責任は、平成を大人として暮らしてきた私達にあるのかな、と。



■2017年8月21日
『グイッと押すこと、引くこと』

16日の送り火が済んだら、まぁ、人も引いて、落ち着く頃かな。祇園祭から始まって、川床、浴衣、盆まつりやら何やら、夏の京都はくそ暑いのに、それでも境内の木陰や鴨川沿いなんかに腰かけて「あっつい、あっつい」と言いながら、それでも、また良し、とばかりに人が集まって。

常に人気の観光地、京都。だから盆(=送り火)過ぎの先週末に、私たち家族は帰省しました。

が、あれだけ中国人が多いと、そんなもん(盆だの送り火だの)関係ないですね。とにかく人が多かったです。もう、すれ違う人、全員が中国人じゃないかと思うほどでした(実際は、台湾からの方、香港からの方、韓国の方などなどおられると思いますが。そして、もちろん欧米からの方も多いのですが)。

そんな中国人の、特に若い人の多くは、浴衣を着ている人が多く、その浴衣を着た中国人を別の中国人観光客が自撮り棒で写真に収めるというカオス。まぁ、もはや彼ら独自の別個のコミュニティを「京都」という場所だけ借りて形成しているようにさえ思えました。

訪日外国人。団体でやって来て、買い物をしまくって帰る(爆買い)というスタイルは早々に終わりを告げ、今は、家族単位で日本を訪れる人が多いと言います。大阪→京都→富士山→東京というゴールデンルートがまだまだ主流の極東アジアからの訪日客とはちがって、「コト消費」をするために日本の地方各地に目を向ける欧米からの訪日客に力を入れるという観光庁の施策も発表されました。

つまり、国を挙げて大切にお迎えするお客様である訪日観光客。大切にする、というのが、不便のない環境を整えるというのを越えて、ある程度、我慢する(日本人にとって)という要素まで入ってくると、そこは冗談じゃない、と思ったりもします。特に、例えば、京都を訪れる観光客という立場では、東京から行く我々も、中国からくる人も同じなわけです。そこで、あれだけ花見小路を占拠されてしまうと、「京都・・・って、これ?」とも思えてしまうと言うか。

こうゆう状況になると、思い出すのが「パリのシャンゼリゼには外国人しかいないから、パリジャンは行かない」という言葉です。ローマのスペイン階段から続くブランドストリートもかつては日本人しかいないと言われたりもしました(私が一人旅をしまくっていた時代、95年から05年の10年)。そこかしこで、「シャチョウ、ヤスイヨ」なんて日本語を聞きました。ナイロビでは、小さな子供にバックパックをつかまれて「イチマンエン」と言われたこともあります。

元々、添乗員さんが旗をふって、その後ろをぞろぞろついて行っていた日本人団体客の名残。土産物屋では、ここぞとばかりに買い物をしまくっていたらしいです。それが、日本人はこうだ、という印象になり、ずいぶんと長らく引っ張っていました。その度に、貧乏旅行者の私は、日本語ではなく、あえて英語で「No thanks」と言っていたのを思い出します。

○○人はこうだ、という印象。それは、もちろんのことですが、全ての人がそうではないのに、という印象です。これと同じ事が、今の日本を訪れる中国人観光客の人には思うところがある、というか。いやぁ、たまに本当にすごい人がいますよね。

本国では恐らく当たり前なんでしょうけど、順番に並ばない、横入り、強引、押す、などの行動を東京で目にすると、「あ〜あ。ったく〜」と思うのですが、先日、大阪にある海遊館という水族館では酷かったです。息子が、前列でラッコの水槽を見ているのを、ぐいぐい押し出して、イヤホンか何かで誰かと携帯で話しながら写真を撮っている(たぶん)中国人のオバハンがいました。

さすがにこれは許せん、と、怒りに触れ。私はそのオバハンのリュックをつかんで、グイッと後ろにひっぱり、「子供が見てるやろ?」と冷静に教えて差し上げました。と、わーわーわーとなんだか叫び(叫んだのではなく普通に話しているかも知れませんが、私には理解できないので/しかし、どうもすみませんとは言ってないような気がしました)だしたので、「はぁ?なに?なんやねん」と強めに、こちらの注意を伝えようと「音」重視で言いました。

そもそも、です。こういうことは、やはり伝えないといけないと思うのです。そうしないと、息子にとって、中国人って「みんな、あんな感じ」となってしまいますからね。みんながみんな、ではないのです。そして、その時はたまたまそうだっただけで、他の場所では、あのオバハンもちゃんとしているかも知れないのです。たまたま電話で話してて、前が見えなかったのかも知れないし。に、してもです。こうなった以上、強引にでも、グイッと後ろに追いやって、「あっちいってもらう」ことがないと、各々が楽しい時間は担保されないのです。

真夏の日差しが恋しい東京を離れて二三日、京都と大阪へ帰省すると、頭がクラクラするほどの晴天で、まぁ、夏らしい夏を体感しました。同時に、改めて、観光地化するニッポンの姿を目の当たりにして(東京にいると、東京だけかな?という思いが勝つので)、グイッと押すこと、引くこと、言うこと、聞くことなどの、ソフト面での「おもてなし」を考えてみたりしました。



■2017年8月11日
『山の小川の光景』

夏が終わっていく選手達の涙が、勝って「終わらずに済んだ」選手達の笑顔よりも印象的な甲子園。夏の高校野球は、やはりいいものです。歳をとる毎に、比例してその「度合い」が増しています。

そんな高校野球の中継では、熱中症の注意喚起がよくテロップで流れます。スタンドの白い帽子と首タオル、メガホンを持って応援する人たちを映し出した映像の方が、汗と土にまみれた選手達の映像よりも「熱中症注意」にぴったり来るのが不思議です。

今日の東京は、小雨交じりの涼しい気候で、エアコンをつけるまでもないか否かのちょうどいい感じですが、一昨日の水曜日は暑かったですね。

都内でも37度を超えた今年一番の猛暑。そんな午後の一番暑い時に、私は目黒駅からとことこと歩くこと10分ほど、芸人が始めたうどん屋に行きました。

ご本人は週刊誌の記者として取材中なのか、ランチ営業はもう本人が厨房に立つことなどないのか。よく分かりませんが不在で、他のスタッフが数人で混んだ店を切り盛りし、とても普通に美味しいうどんを提供していました。

食べ終わって、店を出て、歩いている、と。と、ですよ。頭がクラクラとしてきて、鈍痛。ごますり棒で、後頭部をぐりぐりやられているかような痛みに、汗が出て、出続けて、乾かずに出て。ガンガンの熱射を浴びながら、もう、ほんとね、夏に殺されるかと思いました。

夏は、大自然の中で、真っ黒になって遊んで、思い切り弾けられる。海の日に続いて、山の日も祝日になった夏の醍醐味ですよね。ただ、海や山や川では、自然の危険があるから、安全に思い切り楽しまないといけない、というのは何となく幼少の時から言い聞かされているのですが、、、

ただ、街の中を、うどんを食べ終わって歩いているだけで、死にそうになるとは。猛暑も年々脅威を増していますね。街の中だけに止まらず、屋内にいた方が、熱中症になりやすいとも聞きます。

その日の夜のニュースで、都内で300人以上が熱中症で運ばれたと言っていました。私もその一人になるかと思ったほどでした。

気が付かない間に、暑さは身体に侵入してきて、弱らせます。全国各地で、部活動中に倒れた若者のニュースも入ってきます。これは、栄養のあるものをしっかり食べて、水分補給をしつつ、乗り切らないと。

水分補給といえば。ポカリスエットが工事現場で50円の自動販売機を設置したことがニュースになっていました。水分補給といっても水だけより体に効くものがあるんですよね。効き過ぎたエアコンに芯から冷えた人達にも、ポカリ的な特効の飲み物、ないかな、とか。

鈍痛は、昨日も今日も収まらず、まぁ、しっかりと食べないといけないな、なんて、今週の私の食べたものは、火曜の昼ざるそば、夜カップ麺、水曜の昼ぶっかけうどん、夜カップ麺、木曜の昼パスタ、夜居酒屋、今日の昼ラーメンという次第。

妻と息子が里帰りで、一人なのをいいことに、なんだか好きなモノばかり食べてしまった。こんな時、休日の夜ぐらい元気になるモノを作ってみるか、と台所にたって、丁寧でいて豪快な一品が作れたいいのですが、私は料理がまったく出来ず。

これを書きながら、熱を測って、え?37度じゃん、微熱じゃん、ともう夜すら何かを買いに行って食べる気も起こらないでいる次第。37度の体温か。猛暑の最高気温と同じです。熱湯の中でぐつぐつ茹でるたまごの場合、100度以上で沸騰するお湯と同じ温度になってゆでたまごになるのかな?なんて、よく分からないことを思ってみたりします。

麺類が大好き、たまごが大好き、そして、ビールにワインにサングリア。そんな食生活で、乗り切れるほど、夏はあまっちょろくなくなった。年々、そんなことを思います。

里帰り中の妻から、息子が山の中の小川で、ちいさなカエルを見つけて追いかけている、というLINEと、カエルをゲットした写真が送られてきました。

山の小川のなんとものどかな風景の写真。そして、カエルを追いかけるという夏。東京では、気温が上昇して、山の小川の典型的な夏の風景は、もはや金を払わないと行けないようになっています。地方ではせめて、この夏の光景が残り、そして、東京に住む子供達にも、夏休みの間だけでも体験させ続けたい。

夏の家族旅行の定番? グアム。そこに照準を合わせたというミサイル。その挑発に、戦闘機を出して先制攻撃をするいう大統領。日本の、島根、広島の上空をミサイルが通過するとはっきり言われている現状。

いつまでも、夏の典型の、山の小川の光景を守るために、私達は地球温暖化を防止しないといけません。と、そんなことより以前に、もっと、当然の、平和を強く訴えないといけなくなったのか、と現状を残念に思う次第です。



■2017年8月6日
『自分で考えないこと』

池上彰さん解説のニュース番組は、視聴率がいい。それは見せ方が上手いからで、そんな池上さんの「特番」、それも「緊急特番」となると、ついつい見てしまう人が多いのかも知れませんね。

一昨日、迫り来る脅威、戦争、自衛隊のありかた。弾道ミサイルに迎撃ミサイルなどを扱った緊急スペシャル番組が放送されました。その中で、ミサイルが発射されてから日本に到達するまでの「10分間」を、そのままの尺を使ってシュミレーションしていました。

ミサイル発射から数分で、人工衛星がミサイル種類を判別して、大気圏をでると、迎撃して、同時に、Jアラートで日本国民に避難を呼びかけて、迎撃に失敗したらPACでマッハ10の弾頭ミサイルを打ち落とす。

そんなシュミレーションを見ていると、これまでの経済がどうの、法律やら犯罪なんかの類で「勉強になる〜」とうなってた気分が、なんというか枠をひとつ越えたような印象でした。そんな雰囲気に、ゾッとしました。

しかし、今、日本が置かれている脅威。それらが解説され、それに対する日本のあり方をどうすべきか。自衛隊は宙ぶらりんにせず憲法に記そうとする安倍さんの主張も交えつつ、さてどうしたらいいのでしょうか。

出演者のひとりが、そんな問いかけに「池上さんはどうおもっているんですか」と聞きました。

すると、池上さんは《民主主義の中で、誰かが言っているから、私もそうする》という、【自分で考えないこと】が、最もいけないことだ、とキッパリ。

個々でしっかりと考えて、一つの「意見」を発信する。そんな意見の総数で、物事を決めていく。それが民主主義の大原則であると言いました。

選挙になれば「数」に走り、その数で選ばれた代議士もまた、「数」だけを集めていろんなことを決めようとしています。「最もいけないこと」の典型であるかのように、私には思える現状を脱するには、さて、どうしたらいいんですかね。

アメリカを取材した番組のディレクターが、「まるでアメリカという国が二つあるみたいだ」と言っていたのを思い出します。ラストベルトと呼ばれる地域の人達から熱狂的な支持を集めたトランプ大統領。しかし、就任してから、遅々として「約束」していたことが果たされていません。が、それに対して、支持者たちは、「これまで、大統領が言ったことをしないのなんて慣れている」と言うのです。そして、まだ、「強気に吠える言葉」に熱狂しているのです。

一方で、都市部に住む人たちは、トランプ大統領の言葉を、アメリカの言葉として聞くのではなく、完璧に「トランプの言葉」として聞いているような節があるそうです。

どこか遠くで、勝手にやってる大統領。「わたしたちは、かれを、えらんだわけではない」という国民の声。

これは、個々がしっかり考えて、一つの意見を発信し、その意見の総数で「決める」という民主主義の大原則から言っても、危機的なことです。

そもそも、「決める」というのは、決まった結果に対しても民主主義の意見が続くわけで、簡単に言えば、トランプを選んだやつらとは違う立ち位置から考えるのはおかしいのです。

おかしなことが多い中でも、今のアメリカは、特におかしな状態にあるのかも知れませんね。なんて言っている日本人の私の住む日本も・・・。

安倍政権の落ち、に対して、誰もが活かせてないおかしさがあります。先日、SNSのフェイクニュースで「安倍夫妻の逮捕」が流れたそうです。フェイクニュースにどう対処すればいいのかは、欧米を中心に頭を悩ませているといいます。特に選挙前にイメージを操作する危険性があるからです。

が、このフェイクニュース。フェイクがフェイクだと、つまり端から「偽物」だとわかるものではSNSの中でも無視されます。今の時期、森友学園の前理事長、籠池夫妻の逮捕というニュースと安倍夫妻。一瞬、え?と思ってしまうのでしょうね。

さらには獣医学部創設に関するお友達関係、大臣の問題発言はなかったことにしてしまう勢いの内閣改造。その改造に対する国民のしらけた目。

そのしらけた目をどこに向けたらいいのやら。民進党は民主党時代から続く悪い癖で、こういう時期に、ガッと結束して、とにかく政権を取る、という方向にまとまることが出来ません(自民党の方が、そういう意味では強いです)。ああ、なんなんでしょう。今の、この、日本の状態・・・

嘆くのは、どこか「他人のせいにして、被害者面してる」側面もあるので、ここらで、しっかりと、自分の意見を考えてみようかと思います。



■2017年7月30日
『シンギンザレイン』

明後日から、8月です。幼稚園が夏休みに入り、息子と妻は毎日、毎日、「今日はどこへ出かけようか」と考えつつ、「ここにする」という息子の意見で決まっている朝の二人の光景を見ていると、父である私は、なんとも言いようのない頼もしさを感じます。

夏らしい日差しがあって、夕方にはスコール。それが「日本の夏らしい」とも思えるようになって数年が経ちました。そろそろ、特別なことでもないように思えてきましたね、ゲリラ豪雨にスコール化現状。昨日も、そんな一日でした。

午後いちは、真夏の日差しの中、新宿で毎年行われているエイサー祭りを見て、そのまま高校野球の決勝戦(東東京大会)を見に神宮球場へ移動。それが終わると、原宿のサッカーショップKAMOで息子のスパイクをピックアップしました。

新宿→信濃町→原宿と移動している間は何とかもっていた雨も、最寄り駅に着くと、ざーっと。大雨。いや〜、夕立と呼んで、その雨が上がったら「ちょっとは涼しくなっていいわ」なんて言ってた風情もなく、豪雨ですからね。こればっかりには参ります。

息子は、雨の中でシンギンザレイン。私も、久々に傘もなく雨に濡れました。

あれだけ濡れると、濡れまくる快感を思い出します。私の少年野球時代、急に雨が降って、慌ててバックネットを締まって、バットやボールをコーチの車に乗せて、濡れたまま、自転車で帰宅する途中の、濡れまくる・・・あの感じ。

ちょっとも濡れたくない、と思えば思うほど、雨ほど鬱陶しいものはないですが、もう、濡れてもいい!と腹をくくる(開き直る)と、もう、それは気持ちいいもので。

女性でいうところの日差しに似ているかな、とも想像します。日傘で必死になって日を避け、肘まで長い手袋?をはめて、全身、何かを覆う感じ。それも、全部とって、さぁ、来い!とばかりに日差しと向き合うと、それを浴びる快感があって。

まぁ、雨にしても日差しにしても、それを思い切り浴びて、思い切り笑えるのは、子供の特権ですかね。

私が中学の時。野球部だった私にはよく分からないのですが、サッカー部員はこぞって「KAMO」と書かれたスパイクシューズを持っていました。で、昨日、先述のように息子がKAMOスポーツで、スパイクシューズに名入れしてもらって、それを大事に抱えて寝ているわけです。

そんな寝顔を見たりすると、ちょっと感慨深く。高校野球も、プロ野球も、結構、見せに行ってますが、彼には「サッカー」の方がしっくり来るようです、今のところ。

鮮やかなブルーと白のコントラスト、そこに、シュッと黒いロゴが入っているNIKEのスパイクで、息子はプーマサッカースクールへ行くことになるのです。まぁ、いいんでしょうけど、そこはプーマにすれば? と大人としては思うのですが笑。

夏です。

高校野球の地方大会も終わってきて、甲子園を決めた高校が名を連ねています。昨日は東東京大会の決勝で、今日は西東京大会の決勝。清宮フィーバーで、今日は神宮球場に入れないだろうからと昨日行きましたが、昨日もすごい人でした。

今更ですが、東海大の付属と、日大の付属高校って、全国にどれぐらい有るんですかね。(東東京にも西東京にも決勝進出の高校には東海大付属の名がありました)

地方大会で一番注目なのが、今回は大阪でしょうか。同じチームで争う春の全国大会(センバツ)。大阪の大阪桐蔭と履正社が決勝戦で戦いました。4ヶ月たって、今度は、甲子園に行くための地方大会で、それも準決勝で戦うことになるという・・・なんとも言えない状態。

大阪桐蔭は、履正社を二度とも倒し、今日の決勝でも大冠をやぶって春・夏連続の甲子園出場を決めました。清宮のいない今年の高校野球、夏の全国大会。順当に行けば大阪桐蔭が優勝しそうですが、そんな簡単にいかないのが高校野球です。今年も熱中症注意報が出る中で、熱戦が繰り広げられるんでしょうね。

西宮北口に住んでいた時代、朝起きて、ふと思い立って甲子園球場に行ってましたが、東京にいるともっぱらテレビ観戦です。今年あたり、帰省ついでに家族で観戦に行ってみようかな。(息子はサッカー少年ですが笑)

蚊取り線香の煙がぼんやり立ち上って、縁側でうちわを仰ぐ。線香花火なんて灯す「ニッポンの夏」はもうないですが、スコールを思い切り浴びて、濡れる快感を抱えたまま風呂に入ってエアコンの部屋でテレビ中継の花火大会を見る(昨日のわが家)。

そんな夏でも、100回を目前にした高校野球の選手達は、一つの目標に向かって、丸坊主で汗を流している訳です。ふと、あ〜、だから、いいのかな、高校野球って、と思います。どんなに変わっても、変わらない根本的なものがあるから。



■2017年7月23日
『時間と空間にお金を払う』

しと・しと・と、雨が降って、気温が(グッと)下がった、今日の東京。晴れるもんだとばかり思っていた妻は、大量に洗濯物を回し、どこに干せばいいんだか、と途方に暮れたのも束の間、ふと、セミが鳴き始めたのに気づいて、空を見たら、雨が上がってました。まぁ、雨が降るといっても、こんなもんですよね。

ただ、こう毎日毎日猛暑が続くと、このちょっとの雨でも、助かります。昨日も暑かったですもんね。

〈熱中症の危険あり 運動は原則中止〉。そんなYahoo!の防災速報が毎日のように届きます。それを受けて、冷房の効いた部屋で、長袖で過ごすのも、なんか違うな、と思いつつ、熱帯化したキョウビのニッポンでは、そんなもんなのかな、とも思ったり。

人間だけでなく、オオサマペンギンも、動物園ではクールルーム(エアコンの効いた部屋)で避暑していました。昨日、東武動物公園へ行き、人間はプールで日中を過ごし、ペンギンもホワイトタイガーもカバもみんな水遊びしていました。猿山では、日陰を奪い合うように猿たちが過ごし、夕方になると、人も動物も活動を開始する、といった具合。

いやはや、年々、夏は厳しさを増します。

そんな夏を乗り切るためにうなぎを食べる。土用の丑の日が近づき、今年はどうもうなぎが安い!ということで、広告もバンバン入ってきます。うなぎ好きとしては嬉しいのですが、なんとなく「うなぎだけでは乗り切れない夏になった」ような気もして。とにかく、頑張って、乗り切る、というよりは、涼しいところで乗り切る、ことが命を守ること、になりつつあります。

この猛暑で、締め切りに追われて種々様々な仕事に従事している人達が多いのが実情。新国立競技場の建設現場でも、色んな「圧」があったようです。若者の命が犠牲になりました。そのニュースを読む度に、命より大事なものって、なんだろう、と考えさせられます。

2020年に向けての東京ラッシュ。ダッシュして五輪仕様にしようとする動きがあちこちで起こっています。

ITとAIをつかったデジタルテクノロジー、それに触れる実生活。便利と楽をキーワードに、どんどん進みそう、とぼんやり思います。

造って、造って、2週間のオリンピックが終わったら、ほとんどのモノが無駄になる。北京でもアテネでもそんな「負の遺産」が多いと聞きます。そこで、言われ続けているのがコンパクト五輪。そして、五輪レガシー。できる限りコンパクトに、低予算で開催し、新しく造るものは、五輪後もしっかりレガシー(遺産)として残るモノを。

お題目化するそんな「レガシー」が溢れる東京では、どうも、あれもこれも利用できる多様性、汎用性にばかり目がいっているようで、特化したものになりにくいというのも、又問題と、いうか。

一つのものを造って、あれもこれもと乗せていって、結果、あれにもこれにも使い勝手が合致せず、結局の所、中途半端になる。

総合商社、デパート。二十年前から、専門性と特化が、最終的には良し、とされる時代を先読みしていた多くのところでは、それが成功していると聞きます。そんな中で、チケット販売のぴあが、横浜に音楽に特化したコンサートホールを造るというニュースがありました。

音楽ステージを固定して、どの席からも見えやすく、聞きやすい。そして大型の装置を搬送するのに便利な出入り口にする、など、これまでエンターテインメントを引っ張ってきたぴあだけに、気づきを盛り込んだアリーナになると言います。

音楽CDは売れず、曲はストリーミングで聞き流す。その中から気に入ったアーティストを見つけると、「会いに行く(コンサート)」。

そんな流れになった今の時代、多目的に使えるホールばかりで、最大限できることを、と知恵を絞ったパフォーマンスだけでは、もう「こんなもんか」と思われてしまいがちです。そこで、やりたいことを叶えるためのホール。そんな専門性は、今と、そしてこれからの需要に合っているかもしれませんね。しかも、場所が東京ではなく横浜、というのも、いいような気がします。

会いに行けるアイドル、わざわざ訪れる価値がある聖地、などなど、今の時代は、情報や映像・音楽、ファッションにアートなどがとても身近です。バーチャルで世界一周すらできます。そんな時代だからこそ、触れること。生の感覚。それが「身近」である必要は、もはやないのかも知れません。

苦労して手に入れた情報を元に、私たちの青春時代は「情報」そのものに価値がありました。それと同じように、身近でなくても、会いに行くということ自体に価値がある「パフォーマンス」。

これからは、そんな生の感覚が心にビシッと刺さる、時間と空間というのにお金を払う時代なのかも知れませんね。



■2017年7月16日
『出来ることを、出来るときに、出来るだけ。』

九州を襲った、豪雨と震度5強の地震。沖ノ島をはじめとする世界遺産登録の朗報も、それどころじゃない、という大惨事に、映像を見る度に心が痛みます。

そんな中、全国からボランティアが入り、できることから協力しようとする若者が多い事に、気持ちが軽やかになります。持ちつ持たれつ。その時、出来る人が、出来ることをする。そんな日本人の持つ姿勢が、本当に誇らしいです。

西日本から東海にかけて雨が多いと聞きますが、ここ東京にいると、ほんと雨が少ないです。東京、梅雨知らず。そんな天候でも、ジメッとして、どんよりして、気温だけが高いので、自分が思っているよりも身体には厳しく、「喉が渇いた」と認識する前に水分補給を。そんなことに気をつけています。

さぁ、三連休。

毎年この〈海の日〉をからめた三連休から、一気に夏本番になり、わが家では毎年プールへ行きます。よみうりランドだったり、立川のレインボープールだったり。テントを持っていって、お弁当を作って、一日丸ごと楽しむコース。

流れるプール、スライダー、波のプールでわいわいと、真っ黒になって、1人で駆けてって楽しむ息子の成長だけが年々目だって。ふと、ドラマ「過保護のカホコ」を見てから思うことがあります。

子供と、そうやって「毎年決まってしていること」をしなくなるとき、つまり、それらの終わりって、どういうタイミングでやって来るのかな、ということ。

有る年、急に「ぼく、行かない」とか「ぼくはやらない」なんて言い出すのかな。それを聞いたら、寂しいと思うのかな、それとも頼もしいと思うのかな。

子供が育って、親も育つと思っていた幼児期を越えると、育つのは子供だけで、親は老いて置いてかれるという「悲しいこと」にだけはならないぞ、と、夫婦で、もしくは各々で、やりたいことをやり続けようと誓う、というか。

先週の水曜日から始まった伊勢丹のセールに夫婦で行きました。新宿本店では、初日から大混雑でしたが、メンズ館はそれほどでもなく。やはり平日だからかな。靴の売り場も、土日はいっぱいになるのに、それほどでもなく、何より種類が豊富!セールに行くなら、やっぱり初日だな、平日だな、と。

夫婦で連れだって、疲れたらお気に入りの店でランチして。スパークリングワインで気持ちよくなって、また買い物の続きで。息子の幼稚園は延長して、そのお迎えまでの時間を2人で過ごしながら、、、

旅行会社のツアーのとある特典で、シニア特典なるものが目に入り。その条件が「夫婦あわせて八十歳以上」。で、え?と、私たち夫婦は二人して思うわけです。シニア特典が受けられるじゃないか、と・・・。

息子は育ちます。そして、私たち夫婦はシニア特典が適応される年齢です。なんだかよく分かりませんが、どよ〜んとマイナスな気分にもなるのですが、え?逆に、は?と。なんでマイナスな気持ちになるんだろう。年齢?なんて関係ないだろう!

出来ることを、出来るときに、出来るだけ。

私たち夫婦には夫婦の、息子には息子の〈出来るとき〉と〈出来ること〉があり、それを思いきっり、できる限りめいっぱいやって欲しい。フットワーク軽く、いつか、息子がどこかへボランティアへ行く、ということもあるかも知れない。

そうなるためには、親の姿を見て育つなら、私たちは、未来の「そんな力」のために、今年の夏しかできないことを、めいっぱいやることが大切だと思う訳です。

夏が、いよいよ始まります。



■2017年7月9日
『愛し、愛される』

今日、日曜日。東京は晴れてて、公園に息子とサッカーをしに行こう、と、まずは部屋の掃除をして、それで昼食の準備を妻がしている間に、軽く、・・・と思ったら、Yahooの防災アラームがなる、、、「熱中症注意、原則、運動禁止」。

そんな注意が来たことにびっくりしつつ、確かに、この炎天下で、運動をするのも危険だし、5歳児には、けっこうキツイかも、ということで、サッカーは夕方に行くことにして、これを書いています。

炎天下、白球、グランドの砂と風と、汗と涙。高校野球がいよいよ始まりますね。今日の日曜版アメトーークでも特集されます。

昨日行われた西と東の東京大会開会式の模様も、テレビに取り上げられています。1年生から注目を集めている清宮選手にとっても、今回が最後。西東京大会を制覇して甲子園へ行けるかどうかにも注目が集まります。

そんな清宮選手の選手宣誓。

早実の主将として、都内の全高校球児の前で高々に宣誓した言葉が、個人的には大好きでした。6月の中旬から考え始め、自分と野球の関係を見つめ、そして、小林麻央さんの生きた言葉にも感化されたという清宮選手。

(全文)
「宣誓。私たちは野球を愛しています。私たちは野球に出会い、野球に魅せられ、野球によって様々な経験を重ねてこの場所に立っています。いよいよ今日から夢の舞台へのたった1枚の切符を得るための戦いが始まります。私たちは東東京、西東京の頂点を競うライバル同士ですが、同時に同じ夢を追いかける同志でもあります。青春のすべてをかけて戦うことができる幸せと喜びを、支えてくれるすべての皆様に感謝しながら、野球の素晴らしさが伝わるよう、野球の神様に愛されるように、全力で戦うことをここに誓います。」

愛し、愛される。「野球」に対して、そんな距離感を直球で言葉にしたことにも感心するし、そんな風にして野球をしているという姿に関心もあったりします。

全員にとって、同じ時間だけがあって、その時間をどう過ごすかで、大きく差が付く未来(の時間)があって。それは人生における掟で規則でルール。自分の「先」を一点決めて、そこまでの自分の過ごし方、暮らし方、がんばり方を決める。ビジョンなんて呼ばれる「それ」を、愛し、愛されたという野球人生は、何とも羨ましく感じます。

何をやったらいいか分からない。何が好き(愛し)か、何に向いているか(愛されているか)のかも分からない。そんな時間も確かに必要だし、無駄なことは一つもないとはいえ、早く見つかれば、それはそれで「得」なことなんでしょうね。

最近では、「早く」見つけた若者たちの活躍が将棋や卓球やバレーボールやサッカーなどなど、色んな所で注目されています。

で、自分に置き換えてみて。高校生までは、何もなかったな、と思い返します。

1人で海外を旅し始めて、色んなコトを実感するまでは、ただただ、あたまでっかちで、知った気になって、なんとも思い返しただけでも恥ずかしくなるような、そんな「感覚だけで動く人間」でした。

研ぎ澄まされた「感覚」は、多くの経験に裏付けられて、だからこそ、頭で考えるよりも突拍子もなく、成功率が高かったりするのですが、経験もないヤツの感覚なんて、ただただ恥ずかしいだけです。

そんなことすら、たぶん、私が高校生の頃は気づいてもいなかったんだろうな。でも、それからの人生。大学生、社会人、転職を繰り返して、色んな人に会って、色んな経験、体験、体感を通して、例えば、今、「感覚」を頼りにしたとき、私は、きっとある程度の「突拍子のなさ」と「成功」が見えるよな気もします。

息子の夏休みが始まります。まずは、いろんな所へ連れていって、いろんなことに触れさせてあげたい。その中から、何かひとつを愛し、そして愛されたら、あとは「がんばるだけでいい」のですから。



■2017年7月1日
『数なのか、人なのか』

雨の多い1週間でしたね。と言っても、それは雨量ではなく、頻度というか、鬱陶しさというか、そういうのが「多い」1週間でした。

カラ梅雨は、ここ何年も続いていて、水不足というのが報道されます。どこかのなんちゃら湖の水位が低いといって、それは梅雨に雨が少なかったからです、と。それでも、毎年毎年、なんとかなっているのは、ゲリラ豪雨なんて呼び名の、それはもはやスコールでしょ、という現象のおかげなんでしょうかね。

そんなスコールにやられながら先週の平日、雨宿りのように入った洋食屋が、なんとも印象深かったです。それはメニュー。ラーメンで言えば全部乗せのような、海老フライに、クリームコロッケ、ハンバーグ、スパゲティ、野菜にポテト、までならまだしも、そこにサイコロステーキ。で・・・880円!って、ほんまですか?と思わず突っ込んでしまいました。

目黒なんかで普段、ランチしていると、1000円は覚悟、みたいなところがあるので、880円という値段で「驚く」準備をしているところにこのメニューは、本当、凄いな、と。店名通り「ビッグ」でした。

さぁ、今日から7月です。夏休みの予定も詰め始めて、ここのプール行こう、あの花火大会にしよう、今年は大阪の食い倒れと海遊館にしよう、なんて話しながら、息子はプラレール・トミカフェスティバルなるイベントを見つけてきて、それが確定。さらには、去年からはまりまくっているエイサー祭り(新宿)を楽しみにしている模様です。夏休みが終われば、9月にはダナン・ホイアンの旅に行くために、色々と情報を取り寄せていると、地球の歩き方から「リゾートシリーズ」?のようなシリーズがあって、7月の終わりにダナン・ホイアン版が出るとか。

そんな広告がAmazonのアプリでポッと出てきました。確かに、ダナンのガイドブックを2冊買っているので、そこから引っ張ってきたんでしょうけど、本当、Amazonという「小売店」は、痒いところに手が届きますね。

夜にクリックした商品が翌日の午前中には届くAmazonプライム。ヤマト運輸ではなく、聞いたことのない運送会社だったりし始めているのを目の当たりにすると、宅配クライシスと、それを余所目に「他へ他へ」とプレッシャーをかけていく構図に見えて仕方なく。仕事の「単価」を下げるために「総量」でカバーする歪み。どこの業界にもあるんでしょうね。

築地か豊洲の市場問題、五輪開催、自民の受け皿。なんだか、国会中は「野党の印象操作」、国会が終わると今度はメディアのせい、本質的な反省がない、といった民進党の野田幹事長の言葉を借りるまでもないほど、自民党の悪いところばかりが出て来てますね。お金にまつわることだけではなく、ヒステリックに叫ぶ音声が出回ると、批判すると言うより、疲れます。

明日は都議会選挙の投票日です。私の選挙区は8議席を争って、何人がでるんですかね。一体、だれが候補者なのか、正直よくわかりません。都民ファースト、自民、公明、共産。そんな「数」に投票するような気がして、それでは嫌なので「人」に入れようにも、その「人」(無所属の)が見えてこない。それが現実です。

これだけ情報が溢れている中で、これなのだから、自分の一票なんてしれている、と思ってしまう気持ちもわからなくでもないというか。

それでも、明日は、外食ランチの前に、選挙に行こうと思います。八割方、誰に投票するかも決めました。それは、人なのか、数に入れるのか、正直よく分かりませんが、それでも「私の一票」は行使します。さぁ、自民大敗、都民ファの大躍進、となるのでしょうか。※小池さんが好きか嫌いかでいうと・・・みたいなことを話している人も、いましたが。

個人的には、夏の始まり、夏休みの予定、9月のダナン。そんなコトの方が2020年よりも先にあって、そうだ、ランドセルの注文もしないと、なんて考えているのですが、それでもベースには、焦臭い世界情勢、それに相対する日本の一強政治体制、が心配です。

はっきり口に出していないことを、忖度して、気持ちをよんで、結果ありきで他が動くなら、それって、単なるサラリーマンじゃんとも思うし、組織で働くって、そういうこと、で片付けられそうで、なんとも空しいです。というより、嫌です。それが、税金で運用している物事だからです。

ちょっとここらで、仕切り直して、あるべき姿にしませんか?その小さな、それでもとても大事な一歩として、一票を投じませんか。



■2017年6月25日
『とにかく自分が楽しもう』

大分県や長野県から、震度5の大きな地震速報が来る度に、自分の「備え」を考えます。きっと来る、いつか来る、それもかなりの近未来に。そんな東京での地震速報に怯えながら。

いやぁ〜、すっかり夏ですね。

今日の東京は、小雨まじりの曇り空ですが、昨日は(雨の予報を裏切って)日焼け止めが必要なほどの日差しでした。近所のスーパーまで買い出しに行くのに、息子は、テンションに任せて「歩く!」と言った後、途中で「自転車で来れば良かった」と10分とかからない距離でもへとへとになる始末。

そんな息子も、家の中では、沖縄のエイサーミュージックを流して、お手製の太鼓でバンバンとリズムを刻んでいます。

なんだか、去年もそうだったな、なんて、これから始まる「盆踊り」、「スライダーのあるプール」、「新宿エイサー祭り」に富山や京都への帰省などなど。なんだか、た〜まや〜、な夏の日の始まりを感じます。

もう、今週で6月も終わりですよ。

来週になれば7月。本当(書くのも嫌になるほど)に、はやいもんです。6年前の2011年7月。ちょうど祇園祭の時期に妻の家と両家顔合わせを京都の東山でやって、その時、顔を合わせていた父もこの世を去りました。あの頃、お腹の中に居た息子は、幼稚園の年長さんです。

はやく過ぎる一瞬一瞬が、着実に繋がった「先」にいるというのも、とても幸せなものだと感じます。

強く生きる。小林麻央さんのブログと、34歳という若さでの死。自分をさらけだし、弱音もはきながら、だけど常に前向きで生きる姿。フジテレビ「ワイドナショー」で松本人志さんは、小林麻央さんのことを「美しい人」と称しました。

繋がる先。繋がってきた過去。なんだか、今リビングで寝転びながら、昨日ゲットした紙風船をぽんぽんとトスしあっている息子と妻を見ながら、強烈に、そして新鮮に、備えを考えるのです。

この夏の、始まりの7月。それは、いつも私(私たち)の起点になっているように思えます。(そういえば、このマンションに引っ越してきたのも、4年前の7月でした)

世間では、7月といえば七夕でしょうか。ここ二、三年は「電車の車掌さんになりたい」と願いを短冊に込めていた息子が、今年は「サッカー選手」にしていました。子供から憧れられ、目指され、願われる職業って、本当、羨ましいです。

考えてみると。私が子供の頃、何を願い、何を目指していたのか。思い出そうとしても、それは曖昧です。でも、そんなものです。それはきっと、今の(息子ぐらいの歳)願い事自体が曖昧だからです。

この先、どんどん変わるし、この先、どんどんかたまっていくもの。それが、「将来」だということでしょう?

なのに、その一方で、できるだけはやい(歳の小さい)うちに、何かを始めて、継続して、そうしないと世界と戦えない、なんて、○歳までの○○、みたいな本がバカ売れするのは、親という立場になって、自分をド返しにして子供を〈別個〉と考えているからなんだろうな、と。

昨日、たこ焼きパーティーをしようと誘ってくれた家に招かれ、たこ焼きから連想する縁日風の「射的」「くじ引き」「スーパーボール掬い」の準備万端さに感嘆し、子供は、もう、とにかく初めから終わりまで夢中でした。

子供は別個であって、別個ではない。この境界線が、本当に難しいです。自分が楽しかったこと、嫌だったことなんていうのは、そのまま子供にもあって、とはいえ、自分がたまたま得意だったことや「できたこと」が、必ずしも子供にもできる、とは限らない、というか。

何となく、毎週末、家族3人で出かけて、楽しく笑って、バカやって、ふと、そうか!なんてひらめいたこと。

とにかく自分が楽しもう。

それをベースに生きてます。そのベースになるところが、合致する妻だからこそ、ここで、こうしていることが幸せなんだと、なんだかよく分かりませんが、改めて思って見たりして。



■2017年6月18日
『結局、興味のあるなし』

父親になって6回目の父の日。今日は、3回目の父親参観日でした。幼稚園は、これで最後です。なんだか、早かったような。大声で、とにかく元気よく叫んでいた息子も、お父さんがずら〜っと並んだ教室では、ちょっと緊張して居る様子で。

歌は、大声だけではなく「歌っている」し、糊も両手にベタッとつけずに、人差し指にちょっとつけて、しっかりと貼られる対象物に「ぬって」いました。なんだか、まぁ、そうですよね、来年から小学生ですもんね。

梅雨時期の、らしい曇り空が続いています。カラッと晴れてくれるのは梅雨なので望めませんが、それでいて、雨にもなりきらない中途半端な空。雨が必要な箇所では不足し、不足するほど降らないなら、スカッと晴れてくれでもしたらいいのに。どちらにも、満足度の低い梅雨です。

「三ない運動」というのは色々ありますよね。

人によってパッと思い浮かぶものも違うかも知れません。忘れ物をしない、宿題を忘れない、遅刻しない。よそ見しない、居眠りしない、無理をしない。乗らない、吸わない、バイトしない。そんないろんな三ない運動の中で、今の安倍政権下では、国会答弁がどうも〈認めない・調べない・謝らない〉(朝日新聞より)の三本立てだと言います。

そこにきて、豊洲市場への移転を決めた小池都知事は、豊洲の無害化が出来切れていないこと謝罪するとも書かれています。

謝る。それはどういうことなんだろう、とふと思ってみたりします。謝って済む問題じゃない、とか、謝ってもどうしようもない、などの場合には特に、その謝罪という行為に対して、対応が別れるような気がします。

謝ってからのことが、とにかく大切で、重点は「そこ」にあることはいわずもがなで、それでも謝ってから、か、謝る前にやることをやる、か。(この謝らないということとセットで、認めないということは論外だし、その認めるか否かの判断基準になる調べるというものは絶対に不可欠ですが)

調べて、認めて、謝る、この順序を踏んだ上で、一番したいことはなにか。それは再発防止というか、同じ事の繰り返しをしないことだと思います。そのための順序を踏まない。そして、あったことをないことにする(もしくはあやふやにする)。それは絶対にやってはいけないことですよね。

対抗馬が居ない時代は、安定するかに見えます。物事も、イエスマンばかりで進んでいくようにも思えます。が。それが、数年先から振り返ったとき、致命的になることがあります。企業という組織なら、例えば、それは「自分が離れようと思えば離れられる集団」なので、そこまで目くじらを立てることでもないでしょうか、国、は違います。そこに生まれて、そして離れられない集団です。なのに、無関心。それをいいように解釈して、忖度ばかりする組織と組織のお見合いによって、居座る。

誰か、居ないんですかね、パッとした首相候補。そんな風に待ち望んでいる人ばかりだから、結局、何も変わらないんでしょうね。「それは、うちじゃなくて、あそこ」「それを先にきめてくれないと、何もできない」。そんなこんなの「待ち」が停滞を生み、その停滞が、いつまでたっても一強の状態を作る。そうすると、徐々にイエスマン以外のアウトローは場を追われ、結局の所、損をすることになる。

この負のサイクルの中で生み出されるものに強い不安を覚えてなりません。「よし、じゃ、おれがやろう」。そんな若者がいないことを嘆く重鎮の姿。出る杭は打たれるのに、そこをあえて出ようとしているのに。

結局は、その「杭」に力を与え、打たれても引っ込まない、体よく平らになんかしない未来にするのは、「一票」なのに。それを、幸せな事に生まれた時からもれなく権利を有している人が多いのに。こんなにいるのに。

夏の始まり、7月最初の日曜日は東京都議会選挙です。一票の使い道を見極めたいと思います。話は別ですが、一票をお金で買って、その一票を投じるAKBの総選挙。お金を出して一票を入れて、なのに開票結果には客を入れない。結局の所、「一票」を持っている人は、他になにかの事情があれば「無視」される存在なんだな、とか。

国民の票は、根源的なもので、なのに、その票の重みは、確実に投票に行く人と行かない人で違ってきているようにも思います。都心部と農村部での一票の格差と同時に、決められた日にわざわざ記入しに投票へ行くという行為に対する重さと軽さみたいな格差を埋める方法は、放っておいていいのかな、とも思いますが。

まぁ、そんなこんなで、選挙のごとに、票の重み、投じることの意義、それが最低限必要なことであることを痛感します。

とはいえ、今のところ、東京都議会選で誰が出て、何をしようとしているのか分かりかねています。大阪で言う維新の会?みたいなのが、都民ファーストの会なのか?自民党ではだめなのか?結局、議会は「数」で、ひとり一人の候補者に票を投じるのとは違うのか?なんて考えながら、そう言えば、最近、小泉進次カ議員は、元気かな?なんて。

マスコミ操作で、結局の所は推し量られているのが、現状だな、と思います。こんなにチャンネルが増えたのだから、テレビや新聞なんかに取り上げられなくても、小泉進次カ議員が今、何をやってて、もちろん元気なことぐらい知れればいいのに。

と、ここまで考えて、私はダナンのことを思います。知りたい情報は、こちらから取りに行って、そうすると情報は溢れています。その情報量に触れたとき、やっぱり便利な社会になったな、と思います。興味のあるなし。それに大きく左右される情報の有無。そこから出てくるアクションの速い・遅い。

私たちは、誰かの父です。仮に、具体的な誰かの「父」ではなくても、何かの父になり得る可能性があります。それは未来の国に対しての父かも知れません。それなのに、結局のところ、興味のあるなしで、このまま一強にしていていいのか。もしくは、このまま一強でいい、という意思表示をしなくても、いいのか。なんてことを思いながら。



■2017年6月10日
『昭和的休日?』

旅行を申し込む。これを、私は、これまでの人生で、何十回と行ってきたわけで、で、ふと、昔は小さな旅行会社のカウンターで、色々とルーティングなんてものを考えながら、この都市で次のビザを取って、(エアーは)オープンチケットなので、この辺りで帰りの予約は入れた方がいい、なんて相談してました。

が、この情報社会。インターネットが普及し始めた二十年近く前からは、ばったりと旅行会社の店舗へ行って予約するなんてことはなく、ほぼ、ネット。もしくは知り合いの旅行会社の人にメールで頼んで予約を入れてもらったり、オンライントラベルと呼ばれるところでパーツ買いしたり、エアーとホテルは直買いだったりと。

一人で完結する旅のスタイルから、家族旅へとシフトしてからも、仕事柄メールでお願いして、あとはPDFのやりとりだったのですが、本日、久しぶりに、というか、ザが付くほどの旅行会社の大きな店舗へは「初めて」行きました。

来店予約をして、そしたら翌日ぐらいに来店予約の確認電話が来て、予約するコースが決まっているなら予め仮予約を入れて書類を揃えておいてくれて。当日(つまり今日)、ちょっと予約内容を変えたので、カウンターで予約作業と書類作りに時間がかかるので、「2階で全日空さんがイベントをしているので、(息子と妻と私)三人でどうぞ」と誘われ、そこでパイロット姿に変身した息子を写真に収めたりしている間に、手続きは終了。

息子も飽くことなく(というより、地下にあるハワイをテーマにした階に行っては飴をもらい、二階でも飴をもらいとウロウロしてましたが)、手続き終了。後は、電話するほどのことでもない情報(施設の変更や現地の情報)はメールで来て、最終旅行代金決定(空港税)時と日程表は、出発に近づいたら来る。ということで全てを終えました。

この一連の動作が、面倒だと思う点が多かったから、ネットだの電話だのメールなどで、できるだけ「足を運ばずに」済ませてましたが、これだけの「大きなお金」を払う買い物。ちゃんと店に出向いて、気持ちよく対応を受けて、聞きたいことは聞いて、やりたいことはやって、ちょっとしたお出かけの一部になるのも良い物でした。

昔、デパートへ買い物へ行くというのも、そういう、わくわくするというか、フワフワした感覚があったような気もします。特に、家族がそろって、みんなで街へ出て、お買い物をしてご飯を食べて、ちょっと綺麗な服を着たりしてるから、休日の特別感が出たりして。

この、例えば「昭和か!」と突っ込まれそうな休日の過ごし方、わざわざ足を運ぶ感じが、「面倒」なんでしょうね。デパートや本屋、服も靴もスーパーですら、ネットで注文して自宅に宅配してもらうのが「便利」な時代です。

物がある商品でもそうなのだから(実際に足を運べば手にとって見られるのに)、旅行なんて手にとって見られるものでもないのだから、ネットで十分、というのも分かります。

でも、そこをあえて、店舗に行く。それは、なんだか旅の始まりのようでもあって、ずらっと並んだパンフレットを見て、手にとって、最近どの店舗でも、新宿や渋谷などの大きなところでは特に、カフェや雑貨が一緒に売っていたり、旅を申込むだけではないイベントがあったり、流れる音楽、映像、雑誌に雑貨に飲み物までトータルで、旅の始まり、を感じたりして。

待たされる、と思う前に、情報収集の時間。手間な手続きの時間と思わずに、話せる時間(旅の共有?)と思ってみると、それはやっぱり、「良い時間」になったりするものだ(と私は今日、思った訳で)。

JTBやH.I.S.の大きな店舗で、旅気分を味わうのも、たまにはいいものでした。まぁ、旅のスタイル如何ですけど。女子旅、学生旅行辺りは、小さいスマホの画面で一人でああだこうだと旅先を選ぶ(のももちろん良いですが)のではく、もしくはPC画面だけで決めるのではなく、まぁ、「旅えらび気分」も旅行の一部にしてみては?と思います。

朝一番の来店予約だったので、午前11時に新宿へ行き、その後、お昼を食べて、伊勢丹で買い物をして。

どの業界も、需要は「そこ」にないと見て、ますます人との接点を減らし、簡単で便利に済ませるサービスに移行しています。どこもかしもAIで、いよいよ人を接する対象から外してしまう動きも加速しています。

今朝の朝刊で、天皇退位の特例法が決まり、来年末か、来年度末(12月か3月)に「平成」の時代が終わると書かれていました。平成も一つ前の時代になる近未来、昭和的なわくわく休日は姿を完全に消し、インターネットで申し込むという平成的な「面倒」な行為すら、やっぱりいいよね、と懐かしんだりするのかな、と。

もしくは、昭和的な休日が、一周回って、帰ってくるんですかね。



■2017年6月4日
『これまで通りの〈普通〉』

何かのインタビューで、市川海老蔵さんが「これ(スマホ)を、こう置いてるだけで(すでに)アートですよ。家族との思い出がぜんぶ詰まってますから」というようなことを言っていたのを思い出します。

私のスマホにも、息子を中心にした家族の思い出が、これでもか、というほど詰まっています。そのデータが、次から次へ買い換えるハードの中には蓄積され、だから、ハードの容量は段々増しています。例えばVAIOなら、ついにハード容量が1テラという次元まで来ました。

最近、5歳の息子が、妻のiPhoneを使いこなし、写真にビデオに次々記録することが増えました。妻は、容量が限界だからと、苦い顔をしてますが、そんなことお構いなしに、息子はパシャパシャと撮り、彼の目線から見た色んな光景が、とてもオモシロイ写真になったりします。

毎日を普通に生きて、それらを集めてひとつの想い出にするとき、データは単にデータなのに、それがものすごい力を持ったアートになるから不思議です。

写真に録音に動画。それぞれが、それぞれにしか持ち得ない味があって、それらを一緒に、あんなに小さなスマホで持ち歩けるのだから、本当にすごい時代になったもんだと、ふと、そんな当然なことを考えてみたりします。

先日、満員電車の中で「ビデオ」アプリをランダム再生すると、産まれたばかりの息子の泣き声が聞こえてきました。その優しい、耳障りのなんとも心地よい声を聞いているだけで、言葉にできない「じんわりした感情」がわき起こってきて、なんなんでしょうね、すごく揺さぶられました。

今の息子が、「大きくなった」から「小さかったな」に変わる頃、一体、何がどれだけ進んで、どれだけのモノが整理整頓されているんだろうな、と。


ドイツ・デュッセルドルフ(世界卓球)とフランス・パリ(フレンチオープンテニス)のヨーロッパ2都市を繋いで、毎晩中継を入れるテレビ東京。それにはまっている人も多いはずです。それまでは、韓国で行われていたU-20のサッカーW杯を見ていたので、ここ最近、スポーツ三昧だな、

と、ふと、

そう言えば、野球は見てないな、と思います。サッカーを見る率がぐんぐん増えて、今であればテニス。そんな世界レベルのテレビ観戦の中に、日本のプロ野球というのは入ってこないのかも知れませんね。

スピード感、ですかね。盛り上がりの共有の狭さの問題ですかね。そもそもは、やっぱり、スポーツとしての決定的な欠如、ですかね。上手く言えませんが、ゴルフに競馬などと同じ路線に、野球はあって、クリケットもそれに近いのかも知れませんが、チェスのような、次の一手を考えて、相手の動きを予想して、それを楽しむような類いの深さ(というより狭さ?)のせいかもしれませんね。

卓球の世界にも、テニスにも将棋にもサッカーにも、スーパー中学生が登場してきて、これからが期待されています。ちょうど東京オリンピック(もしくはその次のパリ?オリンピック)にピークを迎える次世代の選手達。

そんな彼らへの注目度に踊らされるマスコミを見ていると、私は浅田真央さんや宮里藍さんを思います訳です。卓球の愛ちゃん(福原愛さん)が最初かも知れませんね。とにかく、小さい頃の才能に焦点を当てて、それを追い続ける。それが共有されて、まるで「見守っている感」が出てくる。

特に、福原愛さん、浅田真央さん、宮里藍さんらのように、早い内に注目して、それがどんどん成長して、世界でトップをはるようになると、親近感を通り越して、なんとも言えない身近さを感じます。それで、なんとなく鼻が高くなるわけです。

奇しくも、三人ともに結婚や引退など、少し早めに身を引いた感じもします。が、コレまでの注目度から考えると、もう、十二分にやった、というのは共通する感想でしょうね。

言ってみれば、テレビでがんがん流される映像や写真が、「置いてるだけで(すでに)アート」になるほど、日本人の、多くの人の中に入り込んでいるのですから。

凄いな、と思います。今、「これから」を注目されている人達すべてへ。これまで通りの〈普通〉を忘れずに、高すぎる期待でも、余裕をもって乗り越えてもらいたい。アートになって、並べられた時に、私は、一人の見守り人として、勝手に、鼻高々にさせておいて欲しい。そんな風に思います。



■2017年5月27日
『同じ時間の軽い重い』

リーグが分裂して、なんだか「よーわからん」状態だった日本のバスケットボール界。それが、ようやくBリーグとして統一され、開幕戦はゴールデンタイムの生放送でした。それはなんとも華やかな幕開けで。

そのテレビ中継。まるで(引退した選手の)解説者?のようにマイクの前に座っていた田臥選手が印象的でした。田臥選手と言えば、日本人初のNBAプレーヤー。日本のバスケットボール界を間違いなく引っ張ってきたスーパースター。日本に帰ってきてからも、ずっと宇都宮で、ストイックにプレーしてきた36歳、173p。

そんな彼が、スポンサーの力や政治力みたいな、なんというか「よーわからん」状態の続きのような演出ではなく、実力で、ここまでの努力とチームワークで、勝ち取ったファイナルの華やかなステージ。

今日、ファイナルゲームのテレビ生中継。(川崎でも宇都宮でもなく東京の代々木での試合になったものの)田臥は、コートの上で、力強いプレーを見せてくれました。Bリーグ、初代王者に輝き、栃木ブレックスの主軸として、精神的支柱として、なによりキャプテンとして、経験と落ち着き、そして、スピードを活かした彼のプレーに、見ている私は吸い込まれました。(もう、さすが、としか言えない放心状態で)

対戦相手の川崎ブレイブサンダースは、言わずと知れた実力チーム。東京アルバルクを破って、このファイナルのステージに上がってきたチームです。優勝インタビューで、田臥はまず、そんな対戦相手の川崎に敬意を表しました。

とにかく、接戦でした。あっという間に1時間経ち、そのままぐーっと画面に惹きつけられたまま2時間が経って。残り、三分を切っても、まったくどちらが勝つか分からない展開。

これぞ、ザ・日本のバスケットボール。ゲストの久保田利伸さんが、本場NBAのバスケと比して、パスが繋がり、スピードとパワーがミックスした、これぞ日本のバスケットボールを体現してくれました。

開幕シーズンとなった今年、私は1試合しか生で見られませんでした。来年は、宇都宮まで見に行きたいな、と思わせる、書いてる今でも興奮する試合でした。

優勝トロフィーを掲げて、黄色い(金色)紙吹雪が、これでもかというぐらいに舞って。なんとも、いやぁ、すごいシーンでした。

今週、私は一つ歳を取りました。

もう四十一歳になり、ここまでくると一つの歳は、あまり重みを持たないのが現状ですが、よく考えると、この四十一年間をブレイクダウンして、まずは大きく最初の二十年と、後半の二十一年間なら、それは間違いなく後半の二十一年間が「今の私」の礎です。

例えば、ひとり旅で海外に出始めて、それまでしっくり来なかった友人関係が、この時期から一気に花咲始めて。色んな所に顔を出して、色んな人と話して、触れて、東京に定住して、結婚して、子供を授かって。家族が出来て6年弱。

つまり、後半の二十一年の、さらに後半の十一年に、今の私に直列する繋がりがあったわけです。何とも、不思議ですね。歳を重ねる度に、私自身の「歳の重み」は減るのに、それまでひとりだけで勝手に完結していたものの多くが、一年一年、誰かと濃密に繋がって経過しているというか。

そこに、無性に幸せを感じます。と、同時に、私の前半の二十年、さらにその前の、つまり誕生してから最初の十年は、私には、今私が息子を見ているように、濃密に見てくれていた両親が居て。ということは、私の息子にとっても、ずっと先、ブレイクダウンしていく内に薄れてしまう最初の十年となるのが今なのか、なんて。

それを寂しいだの、空しいだの、そんなことは思いません。私と彼(息子)。これは個であり、繋がりの関係です。今、同じ時間を共有しているけれど、その時間の重みは、(それは、ゆくゆくという意味で)違っていても、ある意味当たり前というか。

マンチェスターから、ジャカルタから、そしてエジプトから。連日、テロのニュースが届きます。同じ時間を、どう「感じるか」は個々で別ですが、生きるということに違いはなく。それを奪うということに、私は無条件の反対を示したい訳です。



■2017年5月20日
『夏の暑さと夏気分で夏旅モード』

真夏日です。「ザ」が付くほどの晴天で、初夏から梅雨前の、なんとも良い季節(を通り越して熱射病になりかけの)で、都立公園では、芝生も草花も、生き生きとキラキラです。

サッカーボールと水筒を下げて、私たち親子が歩いていると、ピクニックランチ中のお友達にいっぱい出会って、息子はその度に大声で挨拶をして、私は後ろで、丁寧なお辞儀なんてしつつ。

に、しても、暑い。これは、まだ夏モードになっていない身体にはきつすぎる日差し(仕打ち)です。

それにひきかえ、5歳の男の子ともなると、無限に元気です。特に今日は、妻のお姉さんからお下がりの〈日本代表〉のユニフォームをもらい、それを着込んで香川真司モードだったので余計に元気だったのかも知れません。毎週の親子サッカーも、いつまで一緒にやってくれんだろう、と野球部だった私は、なんとも複雑な気持ちでボールを蹴るのです。

さて、国会。韓国で大統領が決まり、ロシアとの関係を疑われてトランプ大統領がニクソン化?する中で中東へと初外遊に旅立ち、中国を巻き込んでの極東クライシスもある中で、東京オリンピックに向けてのテロ対策、という名目の共謀罪。

が、国会を通過。安倍内閣では「あるある」になりつつある強行採決、数の力、審議時間不足、の通過らしいですが、どうも、歴史をしっかりと認識出来ていない人が、しっかりと認識していると勘違いしているようで、たちが悪いと申しますか。

そもそも、なんで、あんなに(私はまったく知らない)学園ばっかりが、忖度だの、総理のご意向だのという「雰囲気」で特別扱いされるのか。ちょっと、ちゃんとしないといけないところを、ちゃんと出来てない状態だと露呈しているのではないかと、心配になってきます。

そんな中でもうれしいというか、気分がふっと浮き上がるようなニュースは、秋篠宮家の長女眞子さまが、大学時代の同級生、小室圭さんと婚約されるという報道。相手の男性には、改めて、結婚相手の大きさ?を知った数日間になったような気もします。ちょうど、皇室典範、退位、宮家などなど、色々とある中ですから、余計ですよね。

いろんなニュースが、どこかの企業の決算に向けたアクションプランさながらの、カラカラ空回りしたようなものばかりで、なのに、着実に「形にだけは残す」という体になっているから、それは本当に怖いことです。

形にしてほしい、と思うニュースは、だけど有って、その一つは「キッズウィーク」という考え方。夏休みの前か後ろの5日間を11月やどこかの月に振り替えて、ゴールデンウィークやシルバーウィークのような大型連休(キッズウィーク)にしてしまおうという案。

これは、子供の学校が休みになれば、それに合わせて親も有給休暇を取り、どこかへ旅行に行ったり、キャンプに行ったり釣りに行ったり、と、楽しめるじゃないか、というもの。ポイントは、日本中が同じ期間でキッズウィークにするのではなく、地域ごとにずらしていくという点。これなら、訪日外国人にプラスして、日本全国からの「客」と宿や座席を奪い合うことも軽減される、というか。

これは、結構、いいですよね。今、わが家の息子は幼稚園なので、親の休みに合わせて幼稚園を休ませて旅に出てますが、小学生になるとそうもいきません。義務教育である以上、息子には裏返しの「権利」があり、親は教育を受けさせる義務がある以上、学校を休む=教育が受けられない、という状態は、少々まずいように私は考えているからです(考え方はそれぞれですが)。

と、なると、飛行機もホテルもレートの高い夏休み時期に、必死の思いをして取って、それで旅立って、で、旅先で芋洗い状態、なんて、疲れるし、辛いし、阿保らしいです。

なので、キッズウィーク案に一票です。これは、プレミアムフライデーよりも、価値あり、というか。それも、まぁ、既婚、独身によって、というよりも子供の有無で、大きく価値観は変わるでしょうけどね。

先述のように、わが家はまだ幼稚園生。なので、今年の夏の旅は、親の都合に合わせて行くのですが、その夏の旅計画もそろそろ詰めないといけない時期になってきました。ニューヨークに行って、思い切りアーバンに楽しみたいのですが、息子の立場からすれば、九州の鉄道を乗り倒したいだろうし、セントーサ島のようなアクティビティ一杯のところで遊び倒れたいだろうに。

なんて、いろいろ考えているうちに、海沿いでのんび〜り、な〜もしないで過ごしたい。ぼーっと、ね。そんな風に思って「ダナン」に白羽の矢を立てて、今、フラマかハイアットか、つまりは昔からのリゾートホテルか、やっぱりアメリカンタイプの絶対安定感か、を模索中です。

夏の気温になって、一気に夏気分。で、夏旅モードに、ようやくスイッチが入ってきました。そんな気分のまま、今から、宵にかけての沖縄まつりへ、行ってきます。



■2017年5月13日
『たまには夫婦で銀座の休日』

銀座へ はとバスが走る 歌舞伎座を抜け 並木をすりぬけ。井上陽水が歌うこの「Tokyo」が、頭の中に巡るのは銀座四丁目辺り。井の頭線から渋谷駅で銀座線に乗り換え、地下から地上に出ると三越と和光、そしてGINZA PLACEが見渡せます。

一番新しい白い網編みのGINZA PLACEの一階では、日産のレーシングカーがぐるぐるまわり、それをじっと突っ立ったままのおばさまが、熱心にガラケーで写真を撮っていました。

それにしても、中国人が多いです。

アップルストアを背面にして、信号待ちをしていても、信号が変わって歩き出した歩道でも、鳩居堂でもトイレでも、もはやどこでも。本当に、中国人ばっかりです。大げさではなく、そう感じます。

これは、海外をひとりで旅していた時に、日本人に会うといったら関西人ばかりだった私の経験に重なるところがあります。それは、人数の問題ではなく、騒がしさ指数によるもの。それによって「○○ばっかり」と思わせてしまうのです。

銀座三越の一階フロア。お出迎えするメインエントランスのすぐ側で、サングラスを買っていた中国人の夫婦(カップルではないような)。パスポートを見せていたので、彼らは間違いなく中国人でした。その彼らは、日本人(特に銀座へは)なら着ていかないような服装で、大声。かつ、彼らにとっては恐らくごくごく普通の扱い方でサングラスを手に取り、それをはめ、そして、戻し。店員を呼んで、喧嘩しているかのように?交渉して、それで購入するとなると、奥さん?が、旦那を大声で呼び、遠く離れた旦那が大声で応える有様。

なんでしょう、「・・・はぁ、しんど」と、見ているこちらが疲れてしまいます。デパート側は、もうそんな日常になれて、順応したんでしょうかね。その異様な光景も、銀座の一部になっているように思えました。

私は、昨日、平日の昼間から、久しぶりに銀座をぶらぶら散歩してみました。誕生日の近い奥さんと二人で、息子を延長保育の施設に預けて。

まずは、この4月に出来たばかりのギンザシックスへ。松坂屋の跡地にできた複合商業施設です。デパートという形態の終わりと、モノとコトがごっちゃになった複合施設の始まりを現すかのようなこの場所。9時半のオープン前から行列が出来ていました。

オフィス階以上の高層階はもっと早くオープンしているようで、屋上庭園も7時ぐらいから開いているようです。これは、観光客を迎える場所としての苦肉の策のようにも思えます。ここギンザシックスは、観光バスの駐車スペースがない銀座での救世主、まずは、ここへ観光バスがやってきて、そして、お客さんを降ろすのです。

そんな関係で、ここに観光バスが到着する一定間隔で、ドクッ、ドクッと観光客をはき出していきます。エントランスは、その都度渋滞します。

館内に入るとまず、草間彌生の《南瓜》を見上げます。エスカレーターに乗って、上へ、上へ。だんだんカボチャのバルーンが迫ってきます。4階には、草間彌生のグッズ売り場があったりします。ここは、日本人に人気のようでした。

同じ階には、京都は宇治の中村藤吉本店がありました。ああ、ついに銀座にまで進出したかぁ、と思ったりします。十五年ほど前、関西地方の雑誌の取材で、宇治の本店を尋ね、和モダンに改装されたカフェの手前、昔からある古い部屋の一角で茶を沸かす大女将から聞いた話を思い出します。「うちは、辻利さんみたいに、街へは出てませんので」。時代ですね。

この階は、ピエール・エルメもあれば、和洋折衷のライフスタイルの提案型店舗が並んで、なかなか面白かったです。他の階も、服や雑貨、鞄にアクセサリーと、キラキラ光る銀座ならではのサジェスチョンが嬉しくもあります。

そして、屋上庭園行きのエレベーターがある階、店舗の最上階には「蔦谷書店」があります。最近仲良しのスタバと一緒に。そのスタバも、スタバ・バー?として、サイフォン式のコーヒーを出していました。

ここの蔦谷書店は、アート本が充実した店舗で、棚の作り方が非常にシンプルでした。かつ、選りすぐった本を、しっかりと面だししてくれるので、何時間でも居続けてしまします。気づけば、予約したレストランの時間!慌てて、向かった次第です。ここで、出会った私の最高の一冊!「Art Is the Highest Form of Hope & Other Quotes by Artists」(Phaidon Editors (著)/出版社: Phaidon Press)。奥さんは「パケ買いしたくなる! ヒット商品のデザイン 」(PIE BOOKS)を興奮気味にめくってました。

それから予約していたフレンチレストラン「ARGILE」で食事をして、近くのバーニーズ・ニューヨークで玄関のフレグランスを買うとまた、ギンザシックスへ戻りました。

○○が欲しいと決め打ちして行かない限り、ブラブラを買い物をするのに、その雰囲気を感じるのに、そして、そこに「本」や「アート」があることに、なんとも心地よさを感じ、フランスフェアを開催している三越で、白ワインをソムリエから色々と聞きながら、普段使いのシャルドネを買ったときには、もう、息子を迎えに行くギリギリの時間になっていました。

最寄り駅から幼稚園までダッシュして、なんとか、間に合った私たちの銀座休日。たまには、やっぱりいいものです。



■2017年5月7日
『世界遺産とミシュラン』

このところ、毎年のように日本から世界遺産登録(ユネスコ)がされているような気もする中、この夏も、また一つ増えそうだというニュース。女人禁制で、玄界灘に浮かぶ孤島、まるでアテネの時代のどこかの神話的な場所をも想起させる「沖ノ島」が、世界遺産に登録される運びになるそうです。

これまた最近ありがちなのですが、その登録の仕方が、百点満点ではなくて困惑している、とも言います。現在、世界中で世界遺産が増えすぎており、登録数を絞る(減らす)動きが数年前からあります。なので、シンボリックなもの単体での登録は難しく、日本でいえばいくつかの自治体が組んで、集合的(群)に登録を目指すという動きがあります。その中で、全部が仲良く登録とはならず、何と何だけ、という部分的登録(申請したものの中からいくつかが落選)することがあり、今回の沖ノ島も、そういうことになりそうだというのです。

人類の宝として、それを守っていくための世界遺産登録。資金援助を受けて、守り続けていくのが主旨ですが、世界遺産には、特に「世界遺産とミシュランが大好き」と言われる日本人にとっては、有名観光地の仲間入りを意味し、観光客が増えて、それによる地域の活性化が見込めるのです。なので、外れてしまう自治体にしたら、それは死活問題といわんばかりに、正式決定が成される7月まで、丁寧に説明を続けるということで。

ふと、世界遺産=観光資源=観光客がわんさか来てお金を落とす、という構図自体、もはや神話じゃないかな?と思えなくもないのです。

特に、熊野古道や明治日本の産業革命遺産のように、複数の県に渡っていたり、国立西洋美術館のように国までまたぐようになると、なんというか、世界遺産って何?という印象まで付いてきて。法隆寺や姫路城、原爆ドームに日光東照宮みたいな、わかりやすさでもない限り、ちょっと観光資源としてはどうかな、と思ったりもします。(沖ノ島の場合は、そもそも観光できない場所?なので、あまり関係ないかもしれませんが)。

そんな世界遺産登録のニュースを北陸から帰京する新幹線の中で見て、東京に着くと、すごい人、人、人。黒部峡谷トロッコ電車にも外国人観光客(台湾の阿里山と姉妹都市なので、台湾の方かな?)が多かったのですが、比べものにならないぐらい、東京駅には外国人が溢れていて。丸の内側の改札口(KITTEの方)の真ん前で、ウエディングドレスとタキシードを着た二人が結婚式の写真を撮ってました。確かに、東京駅の駅舎が復刻して、天井模様が素晴らしい場所ではありますが、ちょっと、ここでウエディングフォトは考えられないな、と思っていると、それはアジア系の外国人カップルのようでした。

まぁ、私たち夫婦も、ニューヨークでカメラマンを雇って、あとはタクシーでいろんなスポットを巡って結婚記念の撮影をしようとしていたので、感覚的にはそれに近いのかな、と思っていると、その日の朝日新聞の夕刊に、とてもタイムリーな記事がありました。

今、アジアのカップルが、自分達の結婚式に飾る写真(結婚式の前撮り)を日本各地で撮るのが流行っているらしいのです。アニメの聖地巡礼はもちろん、SNSで有名になったフォトジェニックな場所、もちろん、有名観光スポットなどでも。つまり、日本は、アジアの中でちょっと尖った(洒落た)観光地として、定着しているようにも思えるのです。

加えて、今や、日本人でも国内旅行の方が価値ありと考えている人も多いらしく、これは、地方自治体としては、何かしらの「看板」を狙って、それを掲げて観光客誘致をしたい、と考えているのでしょう。(世界遺産が無理なら、日本遺産だ!と始めたものの不発だし、撮影誘致をしても、それだけの返りがあることも希なので。どうしたもんかと各観光課の方はいろいろと大変なようで)。

世界遺産の町、●●の舞台の町、何々云々の郷、的な看板、キャッチーなシンボル。それを探して、色々とトライして、それでもなかなか人の流れを呼び込めない。友人の中に、地方都市の観光課で働く人がいて、そいつの口癖を借りると「ないモノを有るように魅せないとダメだから、辛いよ」。そんな場所が多いのも現実なような気もして。

この連休、金沢にある「つる幸」というお店で夕食をとりました。ミシュラン好きの日本人には、ここが二つ星といった方がピンと来るかも、なんて私自身も言われたのですが笑。

雰囲気がとてもよく、それ以上に、なんといいますか、今のこのタイミングで、これをしてくれるから嬉しい、と思えるモノを、しっかりと提供してくれる、正真正銘の高級料亭でした。

私たちは、乗ってきた車を敷地内の駐車場に停めて食事をしていました。そこがたまたま交差点の近くで、なんと、あろうことか、その交差点で2台の車が衝突事故を起こして、その流れ弾をくらって、乗ってきた車が衝突されてガラスは割れ、運転席はつぶれての、大惨事となりました。そんなこと、初めてだというその料亭の方達も、対処の仕方が素早く、そして何より、気持ちがありました。なんだか、その対応もまた、二つ星だな、と感心したと言いますか。

つまり、世界遺産だからとか、ミシュランの星付きだから、というのは、きっかけです。そのきっかけがとても重要なんですが、勝負は、その後。つまりは、毎日の遺産的な、星付き的な、言動、サービス、おもてなし。それがあってこその、観光スポットだし、一生に一度の記念に写真を撮りたい、と思ってもらえる「場所」なんだな、と、大型連休の終わりに、思います。



■2017年4月30日
『ごくありふれた素晴らしい日曜日を』

最高気温が25度を超える夏日、の所も多い今年のゴールデンウィークの始まり。前半(というより、この週末は普通の土日なので)は、あまり連休開始の感覚はないですが、1日・2日と休みを取った海外組の出国ラッシュがニュースになると、なんだか気持ちも連休モードに入りますよね。

そんな浮かれ気分の土曜日。ミサイル発射がニュース速報で出て、そして、東京メトロが運転を見合わせるという事態がありました。

最近、都内の多くの企業ビルでは、Jアラートに即した避難指示なんかも出たりして、いやはや、これは、もう、戦争?というのが、なんだか迫ってきているようで、嫌な雰囲気です。

歴史の教科書で見た戦争は、もっともっと、なんというか普通じゃない独特の雰囲気の中から始まった、と思い込んでますが、意外に「始まり」は、こんな感じだったりして、と焦臭さを感じます。

私が戦争をリアルに感じたことは、正直言ってありません。湾岸戦争がそれにあたるかも知れませんが、当時から、テレビゲームのような戦争と言われていました。実害(というほどのものかどうかはわかりませんが)は、9.11。イランのビザを取って、出発の一週間前にテロがあり、飛行機のチケットが無効になったことでしょうか。

それでも、どこかで、〈外国に行く〉と、戦争やテロに巻き込まれるから、〈日本に居る〉のが一番、なんてことを思っていたかも知れません。

それが、どうでしょう。気づけば、日本を取り巻く近郊で、とんでもない数のミサイルが配備されて、空母が巡回して、軍が備えているとなると、確かに、「避難」についてのアナウンスも必要なんでしょうね。

地震速報。3.11の後、計画停電による間引きで運行していた朝のラッシュ時の電車内で、一斉に、乗客の携帯電話がアラートを知らせて、それでも、ぎゅうぎゅうの中、みんな静かに、そのアラートを消していたのが思い出されます。

パニックにならない。これは都民の行動が世界中で賞賛されたように、とてもいい行動でした。が、一方で、鈍感になることとは違います。

連休2日目、日曜日の今日は、昨日の強風や曇り空、雷もなく、正真正銘の初夏晴れです。気持ちのいい日差しの下で、都立公園では多くの家族連れがテントをはったり、レジャーシートを広げたりしています。お弁当を食べ、子供達はサッカーボールやグローブ、縄跳びにフラフープなんかで、実に楽しそうです。

この、ごく当たり前の、だからこそ貴重で素晴らしい日曜日を。これを守り続ける義務が、私たちにはあって、それを崩そうとするものに対して、どうすればいいのか。

日本の首相、安倍総理大臣は、「対話のための、対話は必要ない」という立場にいるようです。正義とするものを「一つ」にして、そこからはみ出しているかどうかだけで判断して、パワーバランスのみで「解決(のようなもの)」しようとすると、失敗する。それは、歴史の教科書をひもとくまでもなく、世界中で、特に中東で、私たちは目の当たりにしている、はずなのに、どうしたもんか、「同じような」道をたどろうとしています。

良い天気です。昼ご飯も済んで、三時のおやつを食べながら、リビングの窓のカーテンを開け放って、外の、明るい光景の一部と化して、家族みんなでのんびりしています。

この瞬間、この時間。自国主義だろうが、右だろうが左だろうが、なんでもいいから、守りたい。そんなことを、こののどかな昼下がりに思ってしまうほど、今、現在は、とても、なんというかきな臭いです。

杞憂に終われ。だけど、備えろ。そんな天災と同じように、緊急速報アプリなどをセットしている今が、なんとも、不思議です。



■2017年4月22日
『次の世代に向けた次のサービスって』

雨が降りそうだから、急いで買い物へ。牛乳2本とレタス、いちごが安かったら、お願い。妻のそんなリクエストを5歳の息子が聞いている間に、私は自転車置き場から自転車を出し。スーパーまでの道のりで、「ママがね、レタスが180円までで、いちごが298円なら買ってきて、だって」というのを息子から聞く。

私には180円や298円が高いのかどうかは分からず、だから、息子の言っていることが正しいのかどうかも分からない。LINEで聞こうかとスマホを探るが、無い。昨日、スマホを落として、そしたら割れて、それもICカード(チップ?)の入っている背面にヒビが入ってモバイルSuicaが使えず、定期券もチャージも無駄になるので、ケータイ保障で新しいのを買って。それが午前中に届いていたので、移行作業中。つまりは、スーパーには持って行ってない。

スーパーに着く。入り口にいちごがある。あまおう、とちおとめ、あとは白いイチゴになんとかスカイ。398円のあまおうは大ぶりで美味しそう。で、となりには小ぶりで数の多いとちおとめとあまおうが。小さな口で、数を食べたい息子には、そちらがいい。と、その小ぶりの方は298円。妻の言う、というより息子の言う予算内。で、そのまま店内に入るとレタスが。138円。これは、安い、のか?相場なのか?とにかく、買うべきだと思って買う。

スーパーへは、私よりも息子の方が普段行っている(妻と)。なので、彼の方が詳しい。豊富に並ぶワインを、私はちらちら見てると、「パパ〜、次だよ、順番〜」と大声で叫んでいる。え?うそ?そうとう並んでいたから油断していた。その間に、息子は一人で並んでくれていたのか!てっきり、おかしコーナーで明日のおやつでも選んでいるのかと思っていたので、その分までびっくり。

会計を済ませて、帰路の自転車。「あのね、あのおばさんは、レジが速いの!」と息子。おそらく妻が言っているのだろう。そして、それが正解だったのだろう。

ギリギリ雨も降らない夕方の買い出し。家の中で、野球をやって、疲れて、一息、嗚呼、休日です。

それにしても、へんな天候ですね。明日は朝からお出かけなので、今、交換機のスマホのアップデートを待ちながら、これを書いています。もともと、私の機種はエクスペディアのZ。あの角張った感じのデザインが好きだったのに、交換機はエクスペディアのXになっている・・・。なんだか、フォルムが滑らかすぎて、手の中にしっくり馴染みすぎて、なんだか、嫌だな、と思いつつ。まぁ、これが世の流れか、と。

車の話。自動運転だのエコだの。車は運転する楽しみがあってこそ、というコンセプトで作り続けるメーカーもあれば、いろんな層にまんべんなく、ラインナップを取りそろえる百貨店のようなメーカーもあって。そんな中で、ここ最近、アウトドアと車の関係性が濃くなって来ているような気がします。

キャンプに車、は昔からあった関係性ですが、最近はテントの代わりに車、コンロの代わりに車、寝て、食べて、移動して、遊んで。(タープなどでの)拡張空間も含めて、車内でどれだけのことができるか、というのを各メーカーが競っているようにも思えます。それも、コンパクトに。一説には、ファミリーでミニバンという先で、その空間に追加機能としてキャンピング要素を追加した、という流れではなく、そもそも夫婦二人でのキャンピングを想定しているとも聞きます。

なんというか、いろんな業界で、これまで「正」だった考えたの基礎、コンセプトとする拠り所のようなモノが、激変しているように思います。どこに、どんなマーケットがあるのか。それぞれのマーケットの中で、最大限の収益を上げるには、優先度・劣後度はどうか。そんな風に頭を抱えて、もみもみしている人の顔が、多いような気がします。

宅配、というのをキーワードに、Amazonとヤマト運輸が盛んにニュースになりますが、ファストフード、スーパーが宅配に力を入れる(だいたいが電話での注文受付で、Amazonのようにネットではややこしいと思う層をねらって)中、今朝の朝日新聞では、大手コンビニ各社が、本格的に宅配事業に乗り出した、とありました。

コンビニなんて味気なく、どこも同じような空間で、機械音の無機質が一昔前までのイメージで。今や、そのコンビニにさえ、行かずに、家から注文するというマーケットがあるのか、と。日本の、あくまでも団塊世代の塊需要に左右されるのを(良いとか悪いというのはまったくなく)痛感しますね。

次の世代に向けた、次のサービスって、いったい、何なんですかね。
あ、交換機のスマホのアップデートが、やっと終わりました。



■2017年4月15日
『ザワザワする』

準備が整い、玄関先で「はやくいこーよ〜」なんてサッカーボールを抱えて呼ぶ息子。を見ていると、なんとも〈少年〉になったもんだ。と思った今日の昼下がり。天気が良くて、ほんとに暖かい日でしたね。

家の前の公園でサッカーをして。私の知らない息子の友達に会って、息子とその友達はハイタッチをして。「じゃあねぇ」といって別れ、私と息子は二人で駅前のラーメン屋へ行き、帰りに雨に打たれ、トイレットペーパーを買いだしして、大急ぎで家まで戻りました。この春は、なんだか、こういうコロコロした天候が多いです。

だからか、身体に相当な負担がかかっているようで、今朝から喉が焼けるように痛く。昨日の晩にしゃべりすぎた、のかも知れませんが、寒けもあったりして、これは、ちょっと体調を崩したっぽくもあります。

新年度で新しい環境になった人の、ゴールデンウィーク症候群。緊張感がフッと切れるこの時期に、会社を辞める人なんかも多いと聞きます。そこまで行かなくとも、やっぱり、気持ちと気概だけではどうしようもない、傷み、というのは顕著に現れ、だから、それとどう付き合っていくかが問題になります。

その一方で、毎年毎年毎年毎年何の代わり映えもなく、変哲もない生活に比べると、まぁ、そういう環境にあった方が刺激にもなって、幸せ、とも言えるというか。

なんでもないようなことが 幸せだったと思う。

そんな歌詞とメロディが流れます。特に、空爆やテロ、虐待に誘拐殺人なんてニュースを見ると、それ以前にあった普通の生活が、ものすごく奇跡的で貴重で、宝のようだと思うのでしょうね。

ドラマ、「母になる」。初回を見ていて、なんともザワザワしました。子供を持つ身として、重ね合わせてしまうのが一番ですが、ふとした瞬間に、想像でも出来ない誰かに誘拐される。それが、普通の、宝のような、日々を奪うことになる。すぐ隣に存在する恐怖の世界です。

しかも、その誘拐犯は自殺して、保護されるべき子供は10年間も他の女に育てられ、3歳で誘拐されてから13歳まで。この10年にも及ぶ時間で起こった変化を、二話以降はつまびらかにしてくれるのでしょうが、とてもザワザワする気がします。

このザワザワ。これがテーマになっているドラマが、多いと聞きます。TBS系列のドラマが、ザワザワしてキュンキュンするなんて表現されていたり(『あなたのことはそれほど』)、人間くさいドラマの中にザワザワ要素があります(『小さな巨人』)だったり。

さて、「平成」の終わりが、見えてきました。天皇陛下が生前退位し上皇となるそうです。平成は30年(2018年)で終了する。その先の未来が、どうもざわざわしませんか?

東京オリンピック・パラリンピックに向け、東京はもちろん、日本全国が訪日観光客を取り入れようと変わり始めていて、そのゴール(ターゲット)が2020年ということになっています。その5年後には、大阪での万博誘致が正式に始動し、「これから先」はわくわくがいっぱい、とも思いがちです。が、そこがどうもザワザワする。(ちなみに、東京五輪後の候補地としてパリかロサンゼルスか、という一騎打ちになっており、その翌年の万博にもパリは立候補していて、これをふたつとも取ると、一時のブラジルのような、サッカーW杯とリオ五輪の同時開催に盛り上がりを見せるでしょうね。)

ザワザワする。それは、明確な感覚ではない、と私個人は思っています。ハラハラドキドキとも違う、カラカラでもザラザラでもない。ザワザワする感覚。今現在の尺度で皮算用できる「成長」にはほど遠い、ゼロにしてしまい兼ねない脅威もあります。第三国を代理にしていがみ合う国同士という構図という大昔のようなことも起ころうとしています。

そんな諸々合わさって、さて、未来はどうか。ザワワザワワと揺れるサトウキビ畑、その向こうには戦争がありました。それだけはチョイスしないだろうと思っていますが、安倍政権もこれだけ盤石が続くと、麻痺してくるのでしょう。加えても、国際情勢。とりわけ、日本全国がミサイル包囲網にあるという現実。

これから、先の、こと。私には、これほど適している言葉もないような気がしてなりません。



■2017年4月9日
『人間の小さな境目』

今年の花見は、パッとせず、辛い日が続きますね。毎年確かに、花曇りだったり、寒かったりと、春の初めの桜には悩まされることが多いですが、今年ほど、雨、というのも珍しいような気がします。

せっかくの満開の桜が、泣いてるように雨に打たれ、小雨になって風が吹けば、ヒラヒラと舞い散る。桜の花びらが、ベランダに落ちて、絨毯になって、雨に濡れて。なんでしょう、それなのに美しいと思わせる桜のパワーには、あっぱれです。

私は、桜も好きですが、新緑の方がもっと好きです。

花見の頃のような、夜になれば熱燗が欲しいほどの気温でもなければ、空も風もまっさらで、若い緑の色が太陽に照らされてキラキラして。暖かいという単純なものではない特別な心地よさが5月にはあって、ゴールデンウィークは、だから大好きです。

今年のGWは、これまでのプラレール博縛り(息子がプラレール大好きっ子なので、毎年行ってましたが、今年あたりから、そろそろいいかな、と勝手に縛り)を解いて、宇奈月(富山)へトロッコ列車を乗りに行こうかと思います。以前、京都の嵐山で乗ったトロッコよりも、より大自然の、なんというか"生"に近い感覚の5月を体感する。そんな期待を込めています。

温泉(宇奈月温泉)も、日帰りでいいから、ちょっと浸かってこようかと、もうなんだかそんなこんなを考えていると、ついでに九谷焼の陶器市に行こうか、金沢で鈴木大拙のミュージアムに行こうか、はたまた、翁の暖簾を分けた達磨で蕎麦でも頂こうか、と。どんどんと予定が頭に浮かんで、新幹線かがやきの席を、まずは、確保しました。

ゴールデンウィーク、旅気分。そんな方も多いと思います。今年は、5月1日・2日を休みにすれば9連休。前後に一日休みを取るだけで、ヨーロッパにだって行ける日程にです。

・・・なのに。サンクトペテルブルグの地下鉄でテロ、ストックホルムでも乗用車が突っ込むテロがあり、シリアでは化学兵器を使った攻撃だなんだの、デッドラインを越えたシリアに、即反応したアメリカの空爆。なんだか、イラク戦争のような流れになってきてませんか?というムード。

それに加えて、ネット予約する旅行会社のトラブルが相次ぎ。海外へ行ってしまってからのトラブルに、どう対処するのか。私の場合、バックパックを背負って、海外をひとりで飛び回っていたときの方が、家族で旅行するときよりも、よっぽど慎重だったし、冷静かつ準備万端でした。

家族で行くなら、旅行会社に頼んで、頼んだからには、なんというか、おまかせ状態にできて。それを何て言えばいいのか、例えば、快適とか安心とかいうなら、そういうのが旅行会社にお任せしたなら存在して。

それらを放棄するなら、自分でネットでひとつずつ予約して、大使館までビザを取りに行ったりして、そうすることも楽しめるという旅人でもなければ、旅行会社に頼むと費用が高いような気がするから、ネットで取る、という安易な判断は、実際問題として痛い目に遭うというのが証明されたような気もしますね(今回のてるみくらぶで)。

例えば、安いからという理由だけで、旅のパーツをつまみ食い状態で予約する方が、いくつかのパーツを箱詰めして売っている旅行よりも割高だし、現地に着いて、中央駅までトラムに乗って、その中央駅で長距離列車のチケットを買って、二等車の硬い椅子に腰掛けて、下りる駅の名前を口の中で転がしながら車窓の景色を楽しむ、いや楽しめるというタイプの人間でもない限り、旅人気取りの旅程はお薦めできないというか。

旅行って、やっぱり実際に体感する時間を買うわけで、予約時(購入する時)には、千円でも安い方がいい!と思っていても、やっぱり、お金を払った分だけのモノはあったりしますからね。行ってみたら、分かる、という要素が多すぎる分、できるだけ、必要なところは必要な分だけ、備えて、お金を払って、その上で、心も頭も身体も全部で、ふにゃ〜っととろけるぐらい、旅を楽しみたいものです。

ここのところ、海外よりも国内の方が魅力的という声をよく聞きます。なので、国内の地方観光都市では、訪日観光客と日本人観光客の棲み分け?のようなことをサービス別にしている、とも聞いたりします。

そもそも、ここ東京でも、棲み分けするように「別々の東京」の時間を過ごしていますからね。住んでる人と観光で来る人の東京。それはちょうど、二十年以上も前、私がバックパッカー全盛期の頃にパリで聞いた、「パリは、住んでいる人と観光客が過ごす場所は違う」という状態。

旅をする人、旅行をする人の棲み分け、東京での棲み分け。いろんな選択肢の中で、棲み分けしながらシェアしていく時代です。ただ、そんな「人間の小さな境目」など関係なく、今年の桜は、平等に雨に打たれて、風が吹いて舞うんですけどね。



■2017年4月1日
『楽しんでいこう、と思います。』

世界初!を謳う商品は数々あって、このほどボルボ社から世界初の歩きスマホ用のエアバックが発売されたというニュース。これが、auのCMでおなじみの「三太郎」がハリウッドで映画化されるというのと並んで飛び込んできたりして。これはこれは、今年もエイプリルフールだな、という感じです。今日から新MCで刷新されたTBS番組「王様のブランチ」でも、渡部さんが、後ろから谷原さんが「どっきり」の看板もって出てこないか心配、というようなほどで。一年で一度、嘘をついてもいい日。そんな日にも、嘘みたいな本当のニュースはちゃんとあったりするから、世界は面白くて大変で怒りと愛に満ちあふれていますよね。

今日から、4月です。

すっかり春のはずが、今朝から東京は肌寒く、ベランダを掃除していても、何だか、手がかじかみそうでした。でも、そのベランダの前にある桜の木には、メジロが数羽とまって、花も全体の二割程度は咲いていて、だから春なんだな、とも思ったりして。

この桜の木が満開になるのは、来週頃でしょうか。家の周りでは、公園ごとに盛んに桜まつりを開いています。が、早咲きの桜の木でこそ、八割程度咲いて見頃とはいうものの、まだまだ満開にはほど遠いですね。わが家は、今日、花見をする予定でしたが、明日に延期しました。いっそのこと、一週間延期した方が良かったかも知れません。

春とも言えない気温の桜の量で、いやまぁ、どうしたもんかと思っているところに、遠く、西宮市の甲子園球場では熱戦が繰り広げられていて。近畿地方の代表同士、それも大阪の高校同士が全国大会の決勝戦で顔を合わせるという史上初の試合。球場は、テレビで見る限り、ほぼ満席だったようにも思います。

8回まで大阪桐蔭ペースで進み、履正社が8回裏に3点差を追いつくという展開。同点に追いつかれた9回表の大阪桐蔭の攻撃。これは、さすがでした。点を取られたすぐに取り返す。強いチームが強い所以というか、お手本のような試合でした。それも、甲子園の決勝戦でやってしまうのですから、あっぱれです。

この2高が、次の公式戦でぶつかるのは、夏の大会の地方予選、その決勝戦かも知れません。春に全国で決勝戦を戦ったチーム同士が戦って、どちらか一方しか甲子園に行けないという現実。これは、選挙の一票の重みに近い不平等のような気もします。大阪府と神奈川県は、代表を2高にすればいいのに。

それにしてもスポーツはいい物です。昨日から始まったプロ野球。高校野球を見てすぐに日テレで放送していた巨人vs中日を見ると、高校野球とのレベルの差を感じると共に、やっぱりプロは魅せるなぁ、と関心したりします。

高校野球やオリンピックは、勝敗にこだわり抜いて、ただ勝負をしてるので、魅せるというより、こちら側が見る、というのが一般的ですが、サッカーにしてもバスケ、野球なんかのプロスポーツは、やっぱり魅せる要素も大切な気がします、改めて。

東京2020。これはオリンピックのことをいうのですが、その後、大阪に万博を誘致しようという動き。その広告塔にダウンタウンが就任したといいます。

よく受けたな、とも思うし、笑いをテーマに、というのが最初のコンセプトだったので、ダウンタウンに白羽の矢がたったのかな、とも思ったり、いやいや、ダウンタウンも、もう、ベテランで、そういうことも受け入れる(というかオファーが来る)ようになったのか、とも思って。若い人、といっても二十五歳ぐらいまでの人なんて、ダウンタウンは、一昔前の人になってるんでしょうかね?

「刹那に散りゆく運命と知って」。森山直太朗が高音で歌い上げるさくらが、頭の中を巡ります。

さくらが咲いたら、毎年そうです。そして、ほんと一瞬で、散ります。その運命。今しがた、今朝まで、というか、昼食の後も、普通にコーヒーをドリップした、コーヒーメーカが、夕方淹れようとしたら、なんだか水が漏れて、使えなくなりました。

何度かやりましたが、何度やっても同じでした。3年半ほどで、使えなくなったデロンギのコーヒーメーカー。デロンギさん、こんなもんですか?これが、普通ですか?私の、使い方が、なにかまずかったですか?

毎朝、ドリップして、朝の香りをたててくれてありがとう。「さらば友よ、旅立ちの刻」。もはや、友だよ。君と別れるのにも、区に引き取りに来てもらわなければならず、300円のシールを貼らないといけない。

今度のコーヒーメーカーは、何にしよう。無印良品の豆から入れると、挽いてくれてドリップしてくれるのが出ていますが、どの豆でもOKというわけではないし、であれば、シロカなるものにしようか、いや、それでもやっぱりデザインで決めたいな、とかなんとか。

「またこの場所で会おう」。私は、個人的にもこの春、コーヒーメーカー以外に"さらば"することがあって、なんだか、40歳の春、いろいろありそうな予感です。楽しんでいこう、と思います。



■2017年3月13日
『桜は、まだか。』

たった三日。京都で過ごして、東京に戻った今日。新宿駅は、べつにラッシュじゃないのに、スーツケースをごろごろして、息子が前を歩いていて、なんでしょう、この感じ。

同じようにして、京都でも移動してましたが、こんなにも、人が、多いと。いやぁ、すごいな、と思いました。ぶつかり、ひっかかり、押し、押され。東京は「人酔いする」というのをまた思い出したりしました。

いつもは、新宿駅が乗り換え駅で、一番使う駅でもあり、もはや、あまり、何とも感じなくなっていたのに、久しぶりだと圧倒されますよね。

大きめのスーツケースを、よっこいしょと持ち上げて階段を下りるとき、そのスーツケースが宙に浮くスペースもありませんからね。これだけの密集は、世界一の利用客数を誇る新宿駅ならでは、でしょうか?

そんな東京へ戻ってきてみて、寒の戻りですか?雪まで降るというから、さぁ大変です。

明日の夕方から雨がきて、夜更け過ぎには、雪へと変わるのでしょうか?(右手の人差し指の先に絆創膏を貼っているので、キーボードが死ぬほど打ちにくいです)

そう言えば、京都も、土曜日は寒かったです。山の方は、冷たい雨が降っていたと言います。町なかは、ぽつぽつ程度でしたが、私はうどん店の行列に並んでいるところで、いや、本降りにならなくて本当に良かったです。

京都は岡崎にあって、隣り合ったうどん店が、お互いに行列を作る「岡北」と「山元麺蔵」。私は、岡北で列に並んでました。もし、本降りになったら。待っている人に温かいお茶を出す山元麺蔵なら傘を貸してくれるのかな?と、岡北で待ちながら思ってみたりもして。まぁ、岡北のきつねうどんは、絶品ですから、少々の雨なら、待ち続けますが。(それにしても、外国人が多かったです)

岡北でうどんを食べた後、久しぶりに岡崎をぶらぶらと歩きました。私が少年野球をしていた時、ですから、もう三十年ほど前。岡崎のグランドへは、確か何かの大会で、それは年に一回ぐらいで、その度に、あの鳥居のインパクトがすごくて。平安神宮が十円玉の裏に描かれていると誤って覚えたのも、そのインパクトのせいだったかもしれません。大きさに加えての、あの鮮やかな朱色。さらには、あの鳥居という形ですからね、インパクトを与える要素が揃っていますよね。

その鳥居から平安神宮に向けて。毎月一度の「市」が出ていました。楽市、マーケット、フリーマーケット。なんとも呼び方は色々でしょうが、ぽつぽつ降り出しては止む天候に左右されながら、盛り上がりもいまいちなようで、そんな中、真っ白いサングラスをかけて、旗をふりながらガイドする中国かな?台湾かな?の団体旅行客が面白くて、そればかり見ていました。

平安神宮の桜は、まだでした。この気候も良くなってきて、だけど桜はまだ、で。そんな時期に、観光客を呼ぼうと始まった花灯路。年末前の嵐山での開催が始まってからは、この元祖が東山の花灯路になり、まぁ、やはり、寺社仏閣がそろい、小路も味わい深い東山ならではの雰囲気がでるので、花灯路目当てに京都へ行くという人も、私の回りには何人か居ます。

丸山公園の桜が咲いて、そこに灯り。そんなコラボレーションが見られたら、本当に素晴らしいですよね。もう、十年以上続いていると思います。まだ、立ち上げの段階で、見に行ったことがあるような。確か、夜景の写真家と一緒に巡って、写真家泣かせだったのも覚えています。

桜がまだ、の平安神宮。でも、青空と(雨が止んだら、空は色濃く)、赤い神宮とのコントラストが見事でした。息子の黄色いパンツと紺色のジャンパーも、ラッキーなことにばっちり合って。本厄の私は、その本厄たる片鱗が見え始めていることに焦って、手を合わせたり(笑)。

その後、京都会館がリニューアルしたロームシアターの周辺、特に京都モダンテラスは最高で、なんだか、独特の空間でした。代官山に出来てから、各地で展開している蔦谷書店も、代官山ほど大きすぎず、なんだか手頃で良かったです。そして、モダンテラスで赤ワイン。息子と妻はスイーツ。ああ、これ、桜が咲いて、気候がよければ、その名の通り、テラスで飲んで、食べたかったな、と。

ああ、移動日は疲れます。ただ、新幹線に揺られて、というか、ほとんど寝てたのに、今、とても眠いです。しんどいです。なんなんですかね。昔から「移動する」というのは時間じゃなくて距離に比例する何かの度合いがあって、だから、京都から東京へ移動した日、つまりは今は、とても眠いのかしら、と。ここで、これも、だから終了して。歯磨きをして寝ることにします。



■2017年3月5日
『終わりから、はじまる、もの』

この判断が、致命的な間違いであり、それを軌道修正出来なかったことを、この先後悔するだろうな、とも思いながら、どこか他人事なのが、なんとも怖いような、まぁ、それが現状を正直に、かつ明確に写しだしているような。

ま、色々とある三月です。

外は陽気で、ぽかぽかして、息子は公園で遊ぶ約束があるからと、昼ご飯を掻き込んで、飛び出していきました。のび太が、学校から帰ってきて、ランドセルだけ放りだして出て行くような、そんな感じで笑

そういえばランドセルも買わないとな。この四月で年長さんになり、来年はいよいよ小学生になる息子。去年の例で行くと、夏前には注文差し止めとなる人気店もあって、まぁ、6年間も使うものだから、しっかりと素材とデザインを選んで造りたいという気持ちと、いやいや、ランドセルなんてすごく荒く扱う息子に、そんなに高価なものがいるのか、と言う気持と。(あとは、私なんて洋服を始め、オーダーして造ったものなんて無いぞ!といういじけと)。

だけどまぁ、荒く使うからこそ、しっかりしたものを買ってやりたいもんだという気持ちが勝って、四月から順次受け付けるというランドセルオーダーの資料を取り寄せてみたりして。紺色、選んでくれたら、いいのにな、とか。

卒園、卒業を控えた友人のパパママは、それはそれは感動する準備万端で、入園、入学を同時に迎えるバタバタを楽しんでいる人の多いかな、とも思います。小学校、中学校、高校。あっという間に大学生になっちゃったという話を鵜呑みにして、そんなもんかと思ってましたが、やっぱり、十歳までの成長は、なんともイベント目白押し、変わりゆくところが満載で、日々が濃厚です。この調子で二十歳までいくとしたら、いやいや、振り返って「早かった」というまでには、色々と山有り谷有りだぞと、それは不安もあるけれど、楽しみでもあります。

今回、直木賞をとった恩田陸著『蜜蜂と遠雷』を読みました。電子書籍で大幅値下げで売られていたので、データで買おうかとも思いましたが、本屋で、書籍を持ってみて、なんとも絶妙な(個人的に大好きな)持った感があり、購入。カクカクしていて、ページボリュームも最高でした。で、なにより気に入ったのが、カバーを外してみてから。真っ黒で、それはまるでピアノのような形状。いい、すごくいい。

で、読み始めてみて、それは一気読み必須で。著者曰くの長距離列車の作業。それが手に取るようにわかる作品でした。これから色々と書きますが、つまりは単純に「おもしろかった」ということだけが言いたいだけで、ちょこちょことネタバレかとも思いますので、まだ読んでなくて、これから読もうという方は、読後にこの先は進んでいただければと思います。

風間塵という蜜蜂王子。塵という字に触れるところが、フランスで育つ彼にはいったいどれだけの意味があるのかな、と思いながら読んでましたが、しっかりと、いじった意味がある内容になっていて。ピアノの国際コンクール。この期間中のドキュメンタリーを隅々まで読まされているようで、登場人物も際だっていて、【ああ、これは行定さんあたりが、監督して映画化されるな】とも思い。

揺るぎない価値基準を置き(それがホフマン先生)、それを軸に色んな個性が散らばる構造。天才少女・亜夜、友人、マサル・カルロス、高島明石。それをまたドキュメンタリー番組で追う高島の同級生が出てきて、それはまるでドラマ「シェフ」の友近さんのようで。

自然の中に流れている音を、再現しているという音符が、こんどは、ちゃんと自然の中に解放することができるか。そんな主流の話の中で、コンクールでの勝敗(結果)を越えた、カラフルな感情や個々の感覚を、これだけ上質に書き起こされると、なんだか、すごいな、の一言に尽きます。

とても読後感の気持ち良い作品の中で、三月のこの時期に読んだということもあるのでしょうが、私は特に、サラリーマンとして働き、家族持ちの高島という男が、最後の挑戦だと決めて、相当の無理を強いながらコンクールの準備をし、一次を突破して、二次の舞台に立ったとき、あの開け放たれたような演奏を終えたとき。ああ、これで終わったと満足する彼に浮かんだ、

終わりから、始まる、もの。

これに、私自身のセンサーが大きく反応しました。ここで、簡単に書いてしまえば、サヨナラから始めよう、的な単調なものになってしまいがちですが、2段組で500ページにわたって展開される物語の中で、とても丁寧にそれが描かれると、かなりの強さで反応します。

三月です。卒業される皆様、おめでとうございます。そして、そのまま入学される方、おめでとうございます。この卒業・入学の連続が、学生時代だけではなく、ほぼ一生、色んなライフイベントで続きます。それを退屈だの云々言ってないで、思い切り楽しんでいたいな、と思います。また、仮にその連続から外れてしまったとしても、落ち込んだり、焦ったりしたくないな、とも思います。

いつも、終わりに向かって頑張って、その終わりから、また何かを始める。まぁ、これまでもそうだったし、これからもそうなんだろうな、とと思いつつ、これを記しています。



■2017年2月26日
『サイレントとノイジー』

今年から、(四十にしてどうも)私は花粉症のようです。これは、個々人が持つ「キャパ」のような、アレルギーに対応できる容量があって、それを越えると発症する、という説を受けるなら、ついに、私はキャパをオーバーしたことになります。

キャパをオーバーしそうになっているというと、ここ数日ニュースになっているヤマト運輸。物を届けるという仕事に対する考え方の違いから?Amazonの翌日配達に正対してきたヤマト。同業他社が撤退する中で、頑張ってきましたが、ドライバー不足と長時間労働から、ついに荷受け制限をするか、という判断に迫られているようです。

好調だから、仕事があって。その仕事をこなすために業務する。その、業務時間をどうするか。二十年以上も前の話なら、終わるまでやる、というのが「普通」で、仕事だから、というのは最大の理由だったように感じます。が、昨今のワーク・ライフバランス。長時間労働で、仕事が終わるまでやる、というのは、時代に合わなくなっているようです。

二十年以上前に「普通」だった、真夏でもジャケットにネクタイという男性会社員の多くの姿が、ノーネクタイになって、それが定着(クールビス)した今、ついには、残業時間にまでルールが厳格化しようとしています。

効率化した業務で、残業時間を減らす。このお題目に、応えられる仕事なんて、この世の中にあるのかしら、と思ってしまいます。

時間の経ち方(過ごし方)とは不思議で、同じ時間でも、苦痛で長く感じて、それがストレスなったり、あっという間に過ぎて、進んで、もっと時間を費やしたいと思ってしまう時間もあります。できるなら後者で、その中で、「かかった時間だけの対価」がしっかりともらえる。これが、本当の意味でのバランスというか。時間はかかるだけかけてワークして、そのワーク分の給料をしっかりもらって、ライフに活かす。

ワーク・ライフバランスが、今のところ、やたらと「時間」にばかり特化しているようで、個人的には違和感があります。

先日から始まった、月末金曜日のプレミアム・フライデー。午後3時に仕事を終えて、消費しよう? この、赤信号・みんなで渡れば・怖くない、的な制度に、どれだけの効果があるか。まぁ、クールビスの始まりも、当時の羽田首相が、半袖にしたスーツのジャケットなんかを着てアピールしてて、それは完全にないね、と思ったもんですが、そのうち、だんだんと日本に合ったクールビズの姿が定着しましたからね。このプレミアムフライデーも、世の中が、上手く、色々と変形しながら浸透させていくんでしょうね。

キャパとは少し違いますが、限界(オーバー)に近いといえば、ふるさと納税も最近は話題です。これは、横浜市や名古屋市、世田谷、港、大阪市などの大都市圏の自治体に、本来入るべき税収が、ふるさと納税によって目減りしているという問題。世田谷区の区長は、その額が、そろそろ限界値にきていると発言していました。

やれ、やれ、と勧められたふるさと納税。税収の少ない地方地自体は、このふるさと納税分を、何かのサービスに当て込んで、だからこそ、ふるさと納税してくれた方へは素敵な返礼品を渡す、という制度。その「やりすぎ」が問題になっているのですから、ちょっとおかしな現象ですよね。

それも、税収が奪われている先述の大都市圏のみならず、返礼品の過当競争で、ふるさと納税をしてもらう側も、厳しい状態だとか。市場原理を入れ込むと、公の機関というのは、いつも、ギブアップ状態ですね。まぁ、だからこそいい、とも言えるのでしょうが。

全然関係はないですが、この過当競争を、あくまでも避けてきている出版事業。紙が売れなくなってデジタル化したのに、印刷代やらインク代やら、それにかかわる人件費やら、製本に配送代がはいった書籍の定価、が、そのままデジタル版にも反映されているという状態が、いつ、だれが、どうやって崩すか。

その昔、海外旅行は高い、という常識を壊そうと、ブロック売りされた航空座席を個人にバラ売りした格安航空券。そこから始まった安価な海外旅行で、潤ったり、そうでも無かったり。競争というものは、色んな歪みを生むので「みんなで、渡ろう」という決めが、必要なのかも知れませんね。

昔から、人には堪忍できる「袋」があって、それを越えると緒が切れるといいます。その袋の容量をもって、「美徳」になっていたような気もする日本の感性が、どうも「大きな」問題になると、そうでもないようです。

大きな問題とは、多様性、多様化と言い換えてみて、つまりは、正解や不正解、正義や不正義が、一律では無くなってきているように思うのです。

サイレント・マジョリティという、この何も言わない多くの意見が、ノイジー・マイノリティに凌駕されているような昨今。とにかく右往左往されず、ルールに基づいた統計で、大多数を見極め、その中で、少数意見の多様性を、どれだけ組み込めるか。

キャパを越えて、発症すると、もう、これまで他人事だと思っていたことが、どっと押し寄せてきます。不快だし、不便だし、不安で不満です。なんだよ、ったく、と、それまでのサイレントを後悔したりします。それからでは遅く、だからこそ、匿名でネット上に文句するのではなく、しっかりとした自分の意見を1票に変える。サイレント・マジョリティの弊害は、時々、戦争へと向かう世の中の風潮でも、出てきます。

くしゃみがでました。鼻がむずむずして、透明でさらさらした鼻水が勝手に流れてきます。

これまで、「そんなの気にするから」で、「多少、むずむずぐらい、だれでもする」と思っていた花粉症の外の意見が、中に入ると、とんでもなく的外れなことに気づきます。今、私の中の「正しい」意見が、どれだけ的外れなのか。それは、サイレント状態で、待っているだけでは、たぶん、一生、分からないような気がします。今回の花粉症のように、ある日、突然、受動的に強制されてからでは、右往左往するばかりです。



■2017年2月19日
『門、それから』

三四郎、門、それから。夏目漱石の後期三部作を引き合いに出して、これから社会や新世界へ旅立つ者の心情を重ねたりします。内容ド返しで、「門」から「それから」に繋がると、とても奥行きがあって、いいですよね。

昨日、学問の神様「湯島天神」へ梅を見に行き、大量の絵馬に学校名・氏名を書き連ね「願う」人たちを垣間見て、ついでに歩いて、日本の最高学府、東京大学の赤門を見てきました。この門をくぐって、その先、「それから」のビジョンを強く持っているという人より、とにかくは、門をくぐれますように、と祈るような人の方が多そうで。

5歳の息子が大学生になるころ、北京大学やシンガポール、インドの大学が「トップ」として君臨し、そこに留学するために猛勉強する、なんてこともあるんでしょうね。

いや、猛勉強という、韓国や日本にみられるようなお受験戦争ではなく、なんというか、もっと根本的な「基」で勝負できる者だけが集まって、新しいことを生み出していくんでしょうか。そうだとしたら、それぞれが持って生まれた「基」を活かせる多様的な場所で有って欲しいな、とか。

今、恩田陸著「蜜蜂と遠雷」を読んでいます。音に愛され、ギフトとして与えられた才能を、そのまま無垢に表現できる人へのすごみを丁寧かつ大胆に描く世界を読み、あぁ、いいな、と思っています。東京藝大のカオスを綴った「最後の秘境」(二宮敦人著)も今日、届きました。そんな、なんというか、そこにいくまでの猛勉強よりも、その先というか、そもそも同じルート上ではないというか、そういうのを読んだり聞いたりしていると、ある意味、気持ちがスカッとします。

ただ、まだ日本は「門」をくぐるための猛勉強が必要なようです。「下克上受験」なんて、まさしく、そんな日本だからこそヒットするお話のような気もします。入る(入学)のは論文のみ。そこで自分の考えをしっかりと表現できて、その考えに厚みを持たせるために学びに行く。アメリカやイギリスの大学は、そんなところだと耳にタコができるほど聞きます。現に、アメリカの大学を出た友人などに聞くと、そんなところのようです。そもそも、卒論なしで学位が与えられる学部が、日本の大学には存在するなど、羨ましいというか、反面、それでいいのか?とも思う訳で。

門をくぐる人たちへ。
大事なのは、言うまでもなく「それから」です。

何かにつけ、看板があっての個人、という生き方が主流の日本。中居さんがよく「おれなんて、SMAPっていう看板がないと、やっていけないですもん」と言ってたのを思い出します。それを聞く度に、SMAPっていう看板を作ったのは、あなたたちでは?と思っていました。企業にしてもそうです。よく、会社のために、会社だから、会社なので。そんな風にして、個人よりも「上」に置かれることに、違和感がありました。

が、この歳になると、さすがに、中居さんんたち5人がSMAPという看板を作ったわけではなく、そう仕向けるための圧力や取引など種々、大人の事情があったわけで。企業になれば、なおさら、まぁ、「そんなもんだよ」という事が多かったりします。

会社を存続させるために、社員を辞めさせる。この根本的なおかしさ。会社は社員のためにあって、社員を辞めさせてどうするの、的な。もちろん、分かってます。組織というのは6:3:1。多くの普通6割に、デキル人3割。あとは大事なデキナイ人1割。このバランスをリストラ後も貫くというのだから、すごいですよね。会社への貢献は、目に見えるものも、そうでないものもあって。なんで、おれが、首切りにあうんだ。そんな声をあげて本を出したりする人も出てくるでしょうね。

いずれにしても、門をくぐってからの「それから」の現実に吹く風は、チリ―、とても、冷たいものです。

今、普通の生き方からはみ出した人への感心のようなものが強くなっている気がします。それも、自分より「下」と思える人たちの、逆襲のような物語。ギャルやヤンキーが勉強して更正するという一昔前の感動モノから、童貞で社会適用度ゼロの男の面白いことを考えさせたら天才的という話まで。

これからはさらに、人工知能の時代。人工的な微妙な感覚を、データベース化した「人」の【それから】です。そこに、しっかりとついていって、さらには利用できるだけの「人」。が、身につけるべきモノ。を、学べる大学という場所と、そこに集まってくる人たち。

センター試験が変わる、記述式になる、そんなことで何が変わる?正解がブレルだの云々、色々言われる中での未来の「門」を想像します。そして、その門をくぐってから先の、「それから」。大事なのは、その先、何をどうしたいかというビジョンだと。そんな私は、ある種、悲観的で漠然とした「それから」に対して、やはり期待も込めて、素直に期待したい、と思っています。

頑張ってください。桜が咲く春は、すぐそこです。一昨日、東京では春一番が吹きました。



■2017年2月12日
『コンビニ人間』の『しんせかい』

私は、毎朝、起きるとまず、コーヒーメーカーに豆をセットして、ゆっくりドリップします。その音と香りが、とても好きで、静かな朝の始まりには、なんともちょうどいいです。

頭が起きるまでの身体には、小一時間の読書がほどよく、ここ数日は『しんせかい』(山下澄人著)を読んでいました。時同じくして、移動中にスマホで読む本が『コンビニ人間』(村田沙耶香著)だったりしたもんだから、ここ数日は芥川賞受賞作をはしご読みした恰好になりました。

短編の新人に贈られる賞。又吉さんがとってから、また売れる本の仲間入り、のような感じも受けますが、時々、今回の『しんせかい』のように、あれ?え?あ、そうか、なるほど、みたいな作品があります。『介護入門』(モブ・ノリオ著)なんて、まさしくそんな感じだったような気もします。

で、『しんせんかい』の「谷」での話。

淡々と進む日記の中で、接続語と句読点と、関西弁となんだろ、あのリズム感。ドラマ「北の国から」のシーンを想像しながら、食堂棟や練習場、馬場のイメージを描きながら、一期生や二期生という、「場違い」な若者達が、俳優や脚本家を夢見て集まり、自給自足の生活をするという、おおよそ、マンガのプロットをなぞったような世界が、書かれている文字以外(それは行間を読むという類のものではなく、なんと言ったらいいのか、自分の中にある言葉に置換して?)から理解していくと、とてもおぞましいというか。

そこに、あの、日記のような淡々とした言葉のリズム。これが長編小説なら、放り投げていたかも知れなので、あのぐらいの量で、しかも、最後の最後の台詞に行き着くまでの序章かと考えれば、読み終わって、スカッとした、と言えなくも無いです。

個人的には、一緒に入っていた『率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか』の方が、日記と言うより、事実を詳細に書き連ねた、知らない街の街歩きの記録として、楽しめました。そして、もっと個人的な感想で言えば、装丁の話。題字の「しんせかい」という勢いのある書は、筆者の文字であってほしかったと思います。倉本聰が書いた、となると、なんというか、もう、ええで、となったり。

この『しんせかい』を読んで、私は、軽い朝食を食べながら新聞を読みます。

政治、経済、社会、文化面。特に、一面から三面までは流し読みにします。そのまま、外出をしたりすると、移動中は、他の新聞を電子版で読み。それは経済に特化したもので、どこどこの企業の決算がよろしい・よろしくない、と何が面白いんだか、書き連ねていて、それを〈みんな〉が読んでいるから、一応、ついていくため(あわせるため)に読もう、なんて思っていた古い時代の名残りで、古い私はそうしているわけで。

その電子版の新聞にササッと目を通すと、『コンビニ人間』のブックマークから読み始めます。

この、ウン・タン・ウンの感じが良かったです。

コンビニという、〈人間〉が存在しなくても成り立つような無機質な世界で生きる人間を描いた作品。ここに、縄文時代からのムラだの、オスだのメスだの、価値観と疎外感と順応とあがき、を描きつつ諦めているという設定が、読んでいて、なんとも「焦り」を遠くへ追いやるというか。

コンビニには、マニュアルがある。それは、人間が生きていく上でも、しっかりと存在していて、それは縄文時代からそうだから、わざわざ書き記してはいないだけ。そんなムラでの、はぶれた二人の関係。働くか結婚するか、子供を産んで育てて、夫と妻として参加する社会。その、どれか一つでもいいから「持っている」者と、「持たぬ」者の、圧倒的な差。読んでいて、この作者の根暗さを、どこか心地良いと思える程に、それは文芸作品であり、編み物をしながら、ゆらゆら揺すられるような展開が、移動中の私には心地よかったのかも知れず。

この、『コンビニ人間』の主人公である女性は、決して、『しんせかい』へは行こうとしなかっただろうな、と、それだけは確実に思ったりするわけです。

昔、何かを目指して挑戦した人が居る。それに破れて、他の世界にいる人がいる。その場所が、周りから見れば、「え?どうして?」という、常識外の人も居て、それを「治る」という表現で展開されていく世界が、この私たちが生きている実社会なんだな、と。

そんな風に思った次第です(感想文にもならない感想文でした)。



■2017年2月5日
『I have a dream WHAT』

新しい恋をしたら、新しいペンを買って、新しい言葉を届けよう。そんな風に歌った井上陽水氏(作詞は町田康氏)の声が、耳に残って、繰り返す時期です。二月から三月、そんな新しい○○を迎えるために「準備」する人も多いですよね。雪が降るほどの冷たい季節なのに、暦の上では立春で、梅が咲いたか、いや早咲きの桜か、なんて眺めて見るのも、そんな気分の時は特に、複雑なものです。

新しいことをする。そんなことから遠く離れて、三月も四月も「いつも通り」で、何の変哲も無いわ、なんてここ十年の私。息子の成長に投影して、それ気分を味わっているばかりでいいのか?と考えあぐねた末、ようやく重い腰を上げて、動き出す準備を本格化させたところです。

世界は、二分されています。何が良くて、悪いのか。価値観は人それぞれ。それらを許容し成熟した社会にいた、はずなのに、ここに来て、そんなこと以前の、肌の色や宗教、国籍なんかで分けようとする大統領令が、実際に出されてしまうと、なんだか、キング牧師の「I have a dream」の演説の映像まで流される訳です。

テレビのニュースで、キング牧師を見ながら、「そこまで逆戻りしたか」と、何とも言葉も出ない今日この頃。"ハートのないトランプ"(松本人志氏曰く)が、連日ニュースになっています。

その一方で。ラオス特集やポルトガルの滞在記、パリやロンドン、ニューヨークのスポットを映し出すテレビ番組を見ていると、「ああ、世界ってやっぱりいいし、どっか旅に出たいわ」と思ってしまうのもまた事実で。現実と事実と、空想と夢が、こんなにこんがらがって、ややこしい気持も、ここ数年来、はて、あったかな、と考えてみたりもします。

いつの日か、独立宣言が宣言するように、白人も黒人も平等な世の中がくることを、夢見ている。そんな演説まで、さかのぼった世界であっても、です。

東京の街の変化が止まりません。2020年をターゲットイヤーにした開発や建設ラッシュ、おもてなし精神の制度化や外国人にわかりやすい街作りなど、銀座なんて行ったら、どんどん変わっていく街の風景と、その街を歩く人たちの様変わり模様に、もはやびっくりするどころか、迷ってしまいます。

右手を私が、左手を妻が、両手を繋がれている息子が、この変化していく街の中でも、戦後築いてきた日本の、なんというか直接的な戦争のない平和な、最低限、そういう"普通"の、未来があることを、言ってみれば "I have a dream"といいたい、というか。

昨日、新木場駅を下りて、ゴミを埋め立てた「夢の島」を歩いてみました。広大な敷地が工事中で、そこには東京オリンピックのアーチェリー会場が作られるとか。駐輪しているのか投棄しているのか、自転車やバイクも、道路沿いには溢れており、なのに、作られた施設では、華やかに見える何かしらの大会が開かれていたりして。

人が集まれば賑わう。例え、そこが「何でできていようが」「何のため」であろうが。そんな結果論で、勢いよく造って、跡形もなく廃れる未来だけは嫌だな、と思ってみたり。

今、東京や大阪ではホテル不足で、民泊もやはり日本人には向かないのか? やたらとホテル建設が進んでいると聞きます。無い(足りない)から、造るという半世紀前のような考え方で、まさか走っているわけでもないでしょうが、少々、心配になったりもします。

新築マンションの駐輪場。それもまた、同じような足りないから造ろうか、と議論になるところです。子育て世代が一気に入ってきて、一時、自転車置き場は不足します。が、子が育ち、親も自転車には乗らなくなると、余ります。どこに焦点をしぼって「造る」か。そのバランスを、しっかりとした「先のビジョン」で考えたいものです。

I have a dream, WHAT. 何を夢見ているのか。

あたらしい○○を始める時、新しいペンを持って、何を書き、何を造り、それをどう活かし、どう運営していくのか。WHAT 、その本質的なこと。

私たちが、今こそ「夢見る」べきものは、もっともっと本質的なものの様な気がします。トランプ氏がどうの、ゴミの埋め立て、核燃料棒の処理、ホテル不足とホテル建設、オリンピックのための施設と税金。プライオリティーをつけて政治はできない、というのが持論です。優先順位が難しいなら、劣後順位。今、すぐにしなくても良いものを除いて、残ったものから取り組むべきで、そのすべての指標が、「I have a dream WHAT」。夢見ることの本質、のような気がします。

古い歴史の教科書をひもといて、歴史は繰り返されるのだという教訓を、生かし切れず、また、繰り返すことだけは、ないように願いながら。



■2017年1月29日
『時代に流れに対する YES or NO』

猛威をふるっているインフルエンザ。東京では、本格的な流行段階に入ったらしく、息子の幼稚園でもクラスで10人がインフルエンザ、の状況らしいです。その10人の中に、息子もしっかりと入っており、先週の日曜日の夜から急に高熱が出て、発熱から24時間後、月曜日に検査するとインフルエンザA型でした。

思い出されたのは去年の三月。息子がかかり、2日後に私、そのまた2日後に妻、とインフル連鎖で、わが家は壊滅状態でした。また、あんな風に、なるのかな、と。

今流行っているインフルエンザは、A型もB型も、予防接種のワクチンが合っている?のか、比較的症状が軽いらしいです。息子も、熱は1日中続きましたが、食欲がまったく無いという状態でもなく、薬を飲み始めるとすぐに平熱になりました。まぁ、予防接種をしておいて、よかった、よかった、なのです。が、元気になったのに、家から一歩も出られない状態が続いた訳で。ずっと一緒にいた妻には感謝です。

今回、前回の教訓から、家の中でマスクは必須、そして一番うつりやすい食事を別にするなど、予防に努めたのが功を奏して、息子は、昨日、完治証明をもらい、私も妻も、潜伏期間が2日あるので、金曜に菌をもらっていると今晩ぐらいに発症する恐れもありますが、まぁ、おそらく乗り切った感じです。

インフルエンザなんて、生まれ育った京都では、周りで感染者はほとんど居なかったし、小学生の後半になると、体にワクチンを入れるのが嫌、という意見から、インフルエンザの予防接種すら選択制になっていたぐらいですからね。ここ最近の流行様は異様なのでしょうか。まぁ、なにはともあれ、油断は禁物。これからも予防に努めます。

さて、ドラマ。

年が明けて一発目の冬ドラマは、ヒット作品が多い印象ですが、朝ドラも大河も、可もなく不可もなしなスタートで、結局のところ、キムタクですか?という状態。まぁ、これから分かりませんが、個人的には「カルテッド」が一番です。

脚本が「最高の離婚」と同じ(坂元裕二氏)で、配役も男女二人ずつ、それも演技派を揃えて、世界感がきっちり出ていて気持ちよかったりします。(「最高の離婚」では瑛太、尾野真智子、真木よう子、綾野剛。「カルテッド」は松たか子、松田龍平、満島ひかり、高橋一生。)映画の世界でも、邦画の注目度は高く、テレビドラマと映画の垣根を越えて、作り手が、どんどん仕掛けてきているという印象です。それに、どれだけしっかり応えられるか。観ているこちら側も、多チャンネル化の中で、何を選び、どこを切り取り、何と何を結びつけるか。

先週、他界された松方弘樹さんの結婚会見がテレビで流れていてびっくりしました。サングラスをかけ、タバコを吸いながら応える映像に、「わ、これぞ、映画俳優」と、なるんでしょうね(当時は)。やたらと、豪快にお金をつかったり、遊んだりする伝説を聞いて、「最近は小粒だから」なんて、一昔前は言われもしたんですが。

今、この時代の、日本。この国から発信する多くが、世界中の人を魅了しています。天麩羅に寿司、芸者なんて言っていた時代を過ぎて、今のアニメに音楽、リズムと呼吸の種類?というのか。そういう「あ、うん」の響き合いの中に、世界と日本が合致して、ちっともついて行けないでいると、これはやばい、と思う訳です。

つまり、多チャンネル化して、色んなことを発信する人たちに、しっかりと応えてあげられること。これは、日本にいる人の責務ではないかと思ったりもします。〈分からない、しょうもない、どれもこれも一緒に見える〉。そんなことで、放棄していたら、気づくと、何も手に残らない状態になりそうです。

多くの人が無関心で、一部の尖った人が、尖ったことをして、それに、しっかりNOなりYESが示せない。そんな社会が陥るのは、歴史が証明しています。海外から、いろんな価値や、いろんな考え方が入ってきて、それが混じり合って、何時しか日本オリジナルになった(ものが多いです)。だから、これまでのように、これからも、しっかりとオリジナルにしていかないといけない、というか。

時代はAIによって激変する模様です。石炭から一気に石油に変わったように、レコード盤がCDになったように。アナログがデジタルになったような変化は、それが便利だから、です。その便利に、色んな保険をかけて、流れをせき止めていても仕方ありません。

私は、本が好きです。紙の本の、装丁が気に入ったりすると、持った感が最高で、なんともじんわり気持ち良いものです。が、ここのところ、本屋で、見つけた本を、持ってみて、それらを鞄に入れて持って帰って、重いな、なんて考えると、帰りの電車でAmazonアプリから購入したりします(翌日には届きます)。移動中にさっと読めて、時間つぶしになるのは、もっぱらニュースアプリで、昔でいうところの文庫本(手軽に持ち運べる)の役割は、完全に電子書籍に取って代わっています。

時代の流れに対するYES or NO。それは、今現在の自分だけを観ていてはいけないような気がします。これまでの流れ、そして、今、この瞬間の(水かさのようなもの)、そして、行く先。アメリカもイギリスも、もしかすると欧州の他の国でも、何でもかんでも内向きに走りそうです。今の、その流れは、どこか、自分たち勝手で、強引で、ひょっとして、理想化してませんか?と、問うてみたいきもして。

云々(でんでんじゃないですよ)、思ってみる訳です。



■2017年1月21日
『共有・共感のボーダーレス』

トランプ大統領が就任して、アメリカ・ファーストを声高に叫べば、「おいおい、アメリカ、やばいんじゃねえ?」なんて、政治にあまり興味のない若者でさえ、雰囲気を察しているような今日この頃。都民ファーストや、アスリート・ファーストを叫ぶ小池都知事をして、「おいおい、東京、やばいんじゃねえ?」とはならないところを見ると、トランプがすごいのか、アメリカという国が、言っても、まだ、やっぱり、すごいのか。

東京は今日、身を切るような強い風が吹いています。日本海側では大雪になっているという大寒波中の日本。トランプ時代になって、どう変わるのかを〈先読み〉して右往左往する株の動きと、経済界。政治トップのスケジュール調整などは、とても熱く、どこか滑稽にも見えてくるのですが。

8年前、私の目にはオバマ旋風が鮮烈でした。とても前向きで「さすがに文化的成熟」を感じさせる政治的判断だな、なんて、アメリカ国民に対して羨望の眼差しもありました。

日本の場合、その勢いで自民党から民主党に政権が変わりましたが、蓋を開けてみると、重箱の隅を突くような、(その言葉の意味や、言った人が云々ではなく)どうも「2位じゃ駄目なんですか?」的な流れを汲んでおり、政治判断が文化的に成熟していないという印象が強かったように思います。

時代は進んでクールジャパン。世界に向けた、日本の美の発信の時です。これまでは、工業製品として、日本のきめ細かさや、正確性、それにちょっとした便利という点(何より根本にあったのは信頼と安全性ですが)で世界を席巻しました。

それが、「より安く!」という競争項目の追加で、どうも不利になり、大量にどば〜っと造るモノに負けていきました。そして、注目されるようになったのが一点もの。アートの世界や、特許物、アニメに見られるオリジナル性が、クールジャパンです。それを呼び水に(政治的判断で、ビザ簡略化などがあったとはいえ)、日本を訪れる外国人が増え、その外国人たちが日本で感じた「おもてなし」もまた、日本の一点もののクールになりました。

今や、連休になって海外へ行く!という日本人よりも、国内の「いいところ」へのんびり回る、という方が断然人気で、安く海外に行って、大量に買い物をする!という一昔前の日本人の価値は、完全に中国人のものになりました(その爆買いも一段落したようですが)。とにかくフォーカスは、日本の、または、日本人の良いところにあて、それを元に(外国人向けに)商売をしていく。

ストロング・ボーダーという言葉を繰り返すトランプ大統領は、ヒトとモノの自由な行き来を実現させたボーダーレスな経済を強い調子で否定しています。そして、移民に対する態度も、強固になるだろうと言われています。

なんだかとても悪い方向へ変わろうとしているアメリカ、という雰囲気に対して、「もともと、その国を第一に考えて政治をするのは当たり前だし、これまでのアメリカは、常にアメリカ・ファーストであり、それを言葉にしただけ」という専門家がいたり、「移民に対して云々いうなら、日本の受け入れ体制はひどいし、女性蔑視云々は、日本女性の社会進出の低さに比べてどうなのか」なんて意見も聞きます。つまりは、トランプ大統領の過激発言(Twitterでのつぶやき)をいちいち相手にしてもしょうが無いというのが、大方の意見であるようで。

ただ、私は個人的に、記者会見場に自分の支持者(信者のような)を同席させて、自分の発言後に拍手させたり、特定の記者の質問をシャットダウンしたり。なんとも、小学生のガキ大将がやりそうな感じが、見ていて、アメリカの国の代表がこれだとな……と、森元首相の時代を思い出したりもします。

まぁ、これからアメリカがどう変わるか、というより、そのアメリカと、どう関わるか、の時代に入ったのかな、とも思います。イギリスとアメリカが、そろって内向きに反グローバリズムを敷けば、世界の多くの国も追随するのかな?と、その逆(グローバリゼーションの波)がそうだっただけに心配したりもします。

日本国内の特産品、日本国内の観光資源、日本国内の……と数えては、何か面白そうなモノや場所を探している今の私は、さて、内向きなのだろうか。ただ、東京という場所に居て、こんなにもめまぐるしくいろんなことが生まれて、だからそれを体全部で感じて、「なんだか面白い」「とにかく楽しい」という何かを、積み重ねたいな、と思っています。

そして、そんな自分の積み重ねを、誰かと共有したいし、共感したいとも思っています。独りよがりで、視野の狭い、凝り固まった考え方にだけはならないように意識しながら。

その共有も共感も、国境を簡単に越えて繋がれる今の時代。世界の中で、「自分のところだけ」区切るのに、どれだけの意味があるのかな、と疑念を抱きつつ、いよいよ始まったトランプ時代の幕開け。あくまでも、アメリカという国をつかって、商売熱心になりすぎないで、包括的に色んな方向から物事と対峙して欲しい、と。小学生のガキ大将にしそうなアドバイスが、ついついまた、口をついて出そうになる次第です。



■2017年1月15日
『未来における正解』

全国的に大雪の週末ですね。東京は、土曜日の午後にチラっと雪が舞いましたが、それきりで。とはいえ、キンキンに冷えた空気が、痛いほど寒いです。

私の実家のある京都市内では、雪が積もって一面銀世界らしく、送られてきた画像を見ても、一瞬、どこを撮っているのか分からない程でした。

普段から雪の多い所ならまだしも、雪に慣れていない地域での大雪は、なにも、センター試験の日に降らなくても、という状態でしょうか。受験生の皆さん、条件はみんな一緒です、とは言えないまでも、ここは、若干の不利を吹き飛ばせるぐらい全力を出し切り、奇跡が舞い下りますように、と願うばかりです。

子供が生まれてからというもの、センター試験の話題になる度に、何時の日か、そんな日が来るのかな、なんて思います。(記述式って、ほんと、どうするんでしょうね。しかも、現代文に取り入れるとなると、そこに○×するナンセンスさが際立つな、なんてことも思うのですが)

さてと、本題。

東京は、人が多いです。住んでいる人だけでも、日本中の10人に1人以上。昼間の滞在人口を数えれば、4分の1は居るんじゃないか、と思うほどです。山手線で非常停止ボタンが押されて十数分止まるだけで、各駅では、ホームに入りきれない人で溢れかえり、暴風だの、大雨で小田急線や京王線が止まりでもすれば、もう惨憺たる状態(タクシー待ちで行列、駅のホームは入場制限、全部が各停になり、一つひとつの電車がパンパン)になります。

「人酔いする」(人がいっぱいで気分が悪くなる)から、東京には住めない、と言った地方の方の気持ちも、分かります。

昨日、全国の旨いもんを集めた「ふるさと祭り東京@東京ドーム」へ行きました。午前10時の開門前から、東京ドームシティには人があふれてました。アイドルグループの握手会?も重なり、「そういう人」たちも押し寄せて大混雑。まるで、SALEみたいな状態だね、なんて言いながら、午後になって、新宿伊勢丹のSALEに実際に行ったのですが、SALEは、レベル違いに人、人、人でした。

が、ふと。この伊勢丹のSALEにしても、金曜日(平日)は、伊勢丹メンズ館はあまり人がいないらしく。妻が、私の欲しがっていたダウンジャケットを見にいってくれたら、定価から20,000円引きのダウンが、全色、全サイズ揃っていたらしいです。(翌日の土曜日に行くと、もう色もサイズもほとんど残ってませんでした)。

なにかとシェアする今の時代。先日、カーシェアを展開する会社で、平日昼間の需要をなんとか生み出さないと、経営が成り立たないというニュースを見ました。ランチ営業をするイタリアンレストランも、年越しに檄混みする蕎麦屋も、美容院も。なんというか、かたまった時間帯(時期)に集中する需要は、それが分散されれば解決できることが多いのに、そうはならない独特の感覚ってありますよね。

決まったときに、決まったことを、一緒にやっている、という充実感。必然的に、大混雑や大行列を生み、一種「それ」も含めて楽しんでいるようで。まぁ、それならいいっか、となるのですが。この先、色んな事が分散され、効率化が進んで、簡単に言えば、テレビのチャンネルが9個で、ゴールデンタイムなんて時間帯が存在したこと自体、ものすごく不思議に思われる時代がくると思われます。

好きなモノを、好きな時間に、好きなだけ。Amazonプライムでもないですが、多様化の枝分かれの先が、何億通りになるとすれば、それに全部、人のチカラでバカ正直に対応する「ビジネス」なんてあり得ないですよね。

何億通りも、何兆通りも、AIがしっかりと対応するこの先の未来、何をするのか。今日の昼のドキュメンタリー番組で、大分・別府温泉の宿の女将が、「これからの時代にあった、おもてなし(サービス)を探していく」と強調していました。「変なホテル」で、すべてをロボットに任せて超効率化したサービスの先、〈それ〉では対応できない(無い)ものに気づいてからが勝負というか。今は、まだ過渡期なんでしょうね。

東京には人が多いです。そして、多様です。日本全国から集まり、今や日本だけではなくアジア全域、いや、世界中から集まって来ています。決まった時間と空間軸の中で、あれこれ考えてきた「これまで」が、軸をなくした無限空間で何ができるか。

いや、違いますね。なにをしなくていいか。そのしなくなったことをAIに任せて、やっぱり「しなくてはいけない」ことを、人がしっかりと、〈これまで通り〉やっていく。それこそが、未来における正解、とも思えるのですが。



■2017-01-07 15:31:41
ひとり+ひとりでみんな
テーマ:ブログ


暖かい日が「久しぶり」という感じの、ここ東京。正月三が日は、穏やかだったものの、4日から一気に冷え込んで、朝晩は、もう冬の痛さでしたね。

年も明けて、色んな人と話す中で、「ひとりで、お節料理が食べたくなって、思わず買っちゃった」という話を聞きました。ひとりクリスマス(クリぼっち)に続いては、ひとりお節か、と、ふと、ひとり鍋なんてものもあったな、と思い出してみたりして。

思えば、「え!ひとりでカラオケ行くの??」と驚いてたのも今は昔。ひとりカラオケは平日昼間を始め、主力顧客だと聞きます。井上陽水氏が、昔テレビで「ひとりで焼き肉へ行く人には拝みが入る」とまで言ってた光景も、どうやら「普通」になって来ているようで。確かに、私も最寄り駅の前にある焼き肉屋で、ひとりで焼き肉している人をよく見ます。

と、なると、ひとりお節が商品化されて売り出されるのも、納得がいくというか。それも、コンビニで、気軽に買えますからね。ひとりが一番楽。ひとりでいても、特別困ったと思ったことがない。という意見も、そりゃそうか、と思ったりもします。

やたらと若者の恋愛離れ(ひとり状態)がニュースになります。根拠となったのは、国立社会保障人口問題研究所が、2015年に実施した『第15回出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)』の結果で、交際相手のいない未婚者(18〜34歳)が、男女とも過去最高になったというデータ。男性69.8%(前回調査61.4%)、女性59.1%(同49.5%)に恋人がいないというのが実態だとか(読売新聞参照)。

20代の頃は、誰もが口を揃えて30までには結婚したい、と言い、その年齢を超えると焦りだし、35を越えるといよいよ婚活パーティーなどに顔を出し、40を越えると、落ち着く(諦める)という行動パターン。これは、何も、今に限ったことではないと思うのですが。

ふと、ひとり、ということで言うと、私自身、ひとり旅が好きで、一種のライフワークでした。家族ができるまでは、バックパックを抱えて、世界中あちこち、年に3回は海外に出て、国内に限って言えば、ほぼ毎月のようにどこかへ行ってました。

ひとりが一番楽。
ひとりでいても、特別困ったと思ったことがない。

頷けます、確かに、これ。しかも、今の時代、私がバックパッカー全盛期だった10年〜20年前とは違って、あらゆるものが詰め込まれたスマホさえあれば、海外でも国内でも、みちゆく人に尋ねなくても目的地には着くし、たまり場的なゲストハウスに身を置かなくても、いろんな情報が手に入ります。

海外はもちろん、国内でもWi-Fiはあちこちで飛んでいるし、充電スポットも多い今、ひとりが一番楽な人には、ますます困ったなんて感じさせない時代になったようにも思います。

家族を持ち、子供と妻と三人で行動するのが当たり前になった私の今は、一週間、妻と子供と離れるだけで、ふと、あ、そうか、一人分でいいのか、なんて寂しくなったりもするのですが、もし、仮に、結婚もせず、子供も居なかったら、スマホ片手に、24時間いつでも買える「ひとりパック」で、充実した生活を送っていたのかな、と思ったりもします。

う〜ん、〈そうじゃない今〉からは想像も出来ませんが、なんとなく充実なんてしてないような気もします。これは性格でしょうね。例えば、東証マザーズに上場した!というより、いよいよミャンマーにまで進出するのか、という方が驚きの「一風堂」。同じようにひとりでラーメンを食べるにしても、「一蘭」のように完全に区切られているより、カウンターに並んでいる方が好きだったりします。カプセルホテルの狭い空間に押し込まれるなら、雑魚寝で、自分の空間をあやふやに確保している方がいい、というか。

うまく言えませんが、ひとり旅の最中も、Googleマップばかり見てるんじゃなくて、水でも買ったついでに、その店のおばさんに道を聞き、美味しいモノを聞き、周辺で、行っておくべき所なんかを話した方が好き、というか。

被災して避難している訳ではないんです。四六時中、ず〜と他人の誰かと同じ空間にいるというのは、確かにストレスだし、それは耐えられません。が、生活する上で、ひとりを担保したなら、ひとりで十分なんて思わずに、また別のひとりと、いろいろ触れあっていくうちに、「みんな」になるというか。そのみんなという集合体が、家族になれると、もう後戻りはしたくなりません。

初めの一歩。その一歩を踏み出して、色々諸々様々にぶつかったり面倒だったり、嬉しかったり幸せだったりで、ひとりと出会い、ひとり+ひとりから家族ができたら。

『第15回出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)』とやらを受けた若者のみなさんへ。ひとり+ひとりから家族ができたら、もう後戻りなんかしたくないほど、やっぱり最終的に、楽しいですよ。

なんて、四十を超えると言いたくなったりするのです。



■2017年1月3日
『キラリといきたい始まりの年』

2017年も開けて3日。今日、帰省から帰京しました。年末に京都へ行き、そのまま(妻の実家のある)富山へ移動したのがちょうど元旦。正月も早々、朝8時台に人身事故があり、13:40発の私たちが予約していた「サンダーバード25号」が運休になりました。

他の号は、もちろんこんな時期なので、指定席の予約は一杯で、紙くずと化した指定券を持って、次の号のデッキで立ったまま、京都から金沢へ移動。そのまま乗り継ぐ新幹線「つるぎ」の指定券ももちろん紙くずで、また自由席に座り。へとへとになりながら、払い戻しへ行くと、なんと!2時間以上?か何かの遅れがあれば特急券代は全額返金だけど、それまでに振り替えて乗ってきたなら(立とうが何をしようが???)、半額しか返しません?と?言われ、はぁぁぁ?と窓口でぶち切れた、今年、本厄の私の年明けでした。

そもそも、乗っていた特急電車が2時間以上遅れるどころか、運休にされたら(それも、人身事故のあった号が遅れるのではなく、何時間も経った後の特急電車を、JR西日本の運用上の勝手な理由で)、2時間遅れもくそも、一生、到着しないんだから、指定券代の全額返金は至極当然だと思うのですが。なんとも、不思議で勝手なルールですね。

お客様窓口に電話しようにも繋がらず、なんというか、相も変わらず駅員の態度は悪く。京都に住んでいた時に、なんで、JR(あくまでも西日本ね)の駅員って、こんなに横柄な態度なんだろ、と思っていたのを思い出しました。社風って変わらないのでしょうかね。

まぁ、そんなこんなで始まった今年2017年。

世界を見渡せば、トランプ現象の煽りを受けそうなヨーロッパ各国の首長選挙が目白押しです。内向き、反グローバリズム。その枠の中で、自給自足的な限定的経済で、本当にみんなに幸せになるのかな?と話を聞いていてもよく分からない主張に、あれだけ熱狂的に「YES」と支持するのだから、相当に色んなものがたまってるんでしょうね。この目に見えない不満の矛先を(誘導を)誤らなければいいのにな、と願いながら。

新聞ぐらいは読んで、何事も、しっかり&じっくり考察しよう、と、年末から年始にかけて「取り置き」してもらっていた新聞に目を通していたら、30日付の朝日新聞、朝刊。なに、あれ?SMAPに対するメッセージが何面にもわたって掲載されていました。紅白歌合戦も、カウントダウンも、テレビというものを一切見ずにいた私には分かりませんが、ワイドショーなどでは、大きく取り上げられたのでしょうか?本当に、国民的な人気だったんですね。

私は、ただただ、一突き200円で鐘を鳴らさせていただける?(笑)金閣寺に行ったり、そのまま銀閣寺、銅閣寺を回って、二寧坂の「おめん」(うどん屋)が改装工事で休業?というトラブルに見舞われながら(それも、おめんの本店がある銀閣寺から移動してきたのに)、近くで年越し蕎麦を食べ(蕎麦屋・岡北は行列でした)、富山からは飛騨高山に行き、観光バスでドッとやって来ては、さーっと引いていく訪日外国人に交じり、飛騨牛にぎりを食べたりしながら、今年の目標すら、しっかりと立てられずにいて。

昨日は、三日月の左下に、キラリと綺麗な金星が見事でした。そんな風に、キラリと行くために、今年、いよいよ始まる大波を、しっかりとらえながら、守りに入らず、いつも笑顔で、家族一緒に、思い切り充実した始まりの年にしたい。

と、願いつつ、私はこれから、年末年始に録画した番組を見ながら、夕食でも食べようと思っています。

年賀状を頂いた方の中に、数人、ホームページ見てるよ、というメッセージがありました。嬉しいです、ありがとうございます、今年も、よろしくお願いします。



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