罪の基準と罰の有無
2009年08月02日
近頃、2つのキーワードがぼくの頭から離れずにいる。一つは、「普遍的管轄権」、もう一つは「受刑者の他国への委託」だ。前者は、人道犯罪や戦争犯罪など、それらが起きた国や加害者の国籍に関係なく裁く権利があるとしたもので、スペインや英国、ベルギー、ドイツなどで導入されている。ただ、外交的な摩擦を引き起こすとの理由で、スペインが縮小に向けた改正案を出しているという。後者は、増える一方の受刑者と不足する収容所。苦肉の策として、べルギーがオランダに委託料(年間約39億円)を払って国内の囚人をオランダ国内の刑務所で収容してもらうという話。先進国で他国に受刑者を委託するのは初めてだという。(どちらも朝日新聞参照)

罪に対して罰を与える。この2つには、その始まりと終わりのようなものがある。世界各地、どこで起こった事件も普遍的に「裁こう」という姿勢と、その裁きの結果として収容し更正させるまでの道のり。リンクしてこそ初めての一つ姿となる2つの間に、ともに飽和状態的な限界を感じさせるのだ。国と国を考えたとき、政治・経済・軍事のトライアングルが関与し、それぞれの「案配」の中で交渉する。そのとき、目をつむる「罪」というのがあるのも事実だ。そこに「普遍性」をもって、当事者ではない第三者が「裁く」ことで外交の障害になるのも頷けるし、逆に、もっと普遍性をもって「裁く」姿勢が広がれば、世界各国で罪は減るという理想論にも期待をこめたくなる。が、ここで問題なのは【罪の基準】というものだろう。宗教や民族、道徳観など、世界には無数の「基準」がある。罪に対して一元的なルールは可能なのだろうか。人権と戦争は可能だろうという声があるのは確かだろう。そして、ぼく自身もその2つはどんな「背景」があろうと一定基準で裁かれるべきだと思っている。思ってはいるが、原爆投下ひとつとっても、それはうまくいかない。片や「戦争を終わられた投下」だといえば、片や「非人道的な史上最悪の投下」だという。原爆投下なんて「答えの明らかな問題」のような事柄でも、共通の認識は難しいのだ。それが、現実問題なのだ。そんな現実の中で、先述の「案配」を持って交渉し、寄り添いあって成立する世界。イスラム世界の正義がキリスト世界の正義と「闘う」という現象を見ても、なんとも不可思議な状態で成り立っていることが分かる。内政不干渉。この高い塀の中で、歯がゆい思いをするのは、何もミャンマーでのスー・チー氏の裁判だけではない。スーダンでも北朝鮮でも、政府が無いといわれるソマリアでも。それぞれの立場でそれぞれの基準があり、その基準の成り立ちの背景を鑑みて善悪を決めるのが理想だが、そんな「一手」は今の段階で見つかっていない。民主主義を正義としたイラク戦争の泥沼化が、痛いほどぼくたちにそれを見せつけた。

では「罪の基準」。それは一つのコミュニティ(それは国単位であっても)の中だけで確立され、各々がその基準に従って生きていけば良いのか?そうではないだろう。一つのコミュニティを完全に閉ざし、そうやって生き残るのはこのグローバル世界の中では難しい。であれば、単純にコミュニティが広がったものとして「ひとつ」にすればいいのかというと、生まれ育つ中ではぐくまれる「基準」を、それぞれ別に持つ以上、それを融合するのは不可能に近い。それでも何かの基準がないと「共生」するのは大変だ。『国と国の戦争で一番いけないのは個が殺されることだ』といったような事を言った人がいる。「死」。これを基準にしてはどうか。現世での死を来世での幸福にする「宗教」があるが、それは頭の中で考える思考に過ぎず、やはり心の感情は「死」を歓迎する者はいないだろう。それは本人だけでなく家族や友人なども含めて。万が一、感情までも「死」を歓迎するような「刷り込み」が為されているコミュニティがあるなら、それは別の問題として「対処」するべきだ。死。これに伴う行為を基準に「罪」を決めればいい。至極曖昧だが、ひとつの死に伴う悲しみの量というか。その大小で判断してはどうだろか。


次に、罪に対する【罰の有無】だ。それぞれの国には法律があり、それぞれの善い悪いの判断は罪の基準に似て一定ではないだろうが、それに伴って罰せられる。罰すること。その中に、再犯防止という側面と、懲罰的な「こんなことしたんだから、こうなって当然」という感覚的なところがある。その究極が「死刑」という有り無しの問題になるが、そこまでいかなくとも罰することを無しとするコミュニティはないだろう。それはもうハンムラビの時代から。罪を犯した。だから罰する。その「受刑者」たちを収容する箱。ただではない。食事を与え、不動産的価値がどれほどあるかは分からないが、その分もひっくるめて税金で負担を強いられている「被害者も含めた国民」がいる。十年前、ぼくは大学時代にアメリカの暴力性を専攻し、刑務所不足の問題を何度かレポートで書いたことがある。当時の日本は、まだそんなに不足が叫ばれてはおらず、十年遅れでやって来る現象の通り、昨今では日本においても不足する刑務所というのが問題視されるようになってきた。ベルギーのとった奇策?とも言える受刑者委託という決断は、だからこそ興味深い。場所だけを借りるのだ。それも、委託料を支払ってまで。その背景には、ベルギー各地で刑務官が「仕事が増えた」という理由でストを決行したり、電子監視下で自宅で過ごすという制度のもと、有罪判決を出しても、その器具不足で事実上刑が執行されていないという理由から、ある地方判事が車上狙いの再犯で起訴された被告に無罪を出したなどの議論があったという(朝日新聞より)。

刑務所の過剰収容問題。これは、何もベルギーだけが抱える問題ではない。単純に「箱を増やせばいい」と考えるかも知れない。他の国に委託料を払うお金で、自国に刑務所を増やせば、と。が、それは根本的な問題解決にならないというのがベルギーの基本姿勢であるようだ。そこは頷ける。一方で、オランダは他国から委託を受けられるほど「余裕」があるのかと言えば、軽犯罪者に対する社会奉仕命令の導入が功を奏したらしく、余裕があるのだという。そもそも、箱だけ増やせばいいという問題ではないのが刑務所だ。人もシステムも、それぞれに付随する「教育」もいる。であればアウトソーシング、、、と。何処かの企業の「効率的」な解決策のようでもあるが。

罪に対して幅広く「死」を伴うという基準をつくるとするなら、それに対する罰の有無は白黒はっきりつけるのではなく、多様性を持たせるべきだとぼくは思う。有罪であっても、収容されない形が、「お金」を払うだけではなくもっと多様的に、言ってみれば社会奉仕命令というのは一つの明確な形だと思われる。単純労働だけではなく、生産者として罰を伴った活動、またはその者個人が持つ「得意」性を活かした奉仕の仕方、など。そこに一定の「量」的な平等性を持たせられるかが問題だろうが、それを突き詰めてみても糸口がありそうに思える。さらに、これが最も重要だと思うが、「再犯」の防止に知恵をしぼるべきだ。最近、日本では民間の刑務所が増えてきている。鉄格子のない刑務所で、ストレスを感じさせず罪を犯した者を更正させるプログラム。どの国でも、再犯率というのは非常に高いと聞く。であれば、その再犯を今の数倍防止することができれば過剰収容問題の解決のみならず、社会不安など「幸せ」を脅かす原因も減る。死刑が犯罪抑止には繋がらないとする統計にも似て、どんなプログラムが再犯防止につながるかは数値化しにくいだろうし、一定の「期間」もいる。が、できることを全てやってみる価値は十分にあるだろう。刑務所という「箱」を増やすのではなく、罰の多様性。そんな未来指向型の「処方」に、先に述べた「懲罰的」な感情が収まるかどうかは熟考の余地があるが。

先日の新聞に、インドネシアで10代の少年たちが靴磨きで働きながら生計を助ける傍ら、仲間と少額のかけごと遊びをしており、そんな彼らに対して賭博罪が適応されたというニュースや、マレーシアで国内治安法に対する反対デモがおこったなど、「罪と罰」に関する記事は多い。

頭の中で整理してみて、おかしいなと思えることが世界各地で起こっている。が、その基準を考えて止まってしまう。どんな基準で、有無を決めるのか。当事者かどうかという客観性と主観性。そこにある決定的な「感情」の違い。

罪を罰することの未来は、ずっと過去のハンムラビの時代から変わらないだろう。しかし、そこに「進化」した目から鱗的な処方箋があれば、今の問題は解決されるかも知れない。逆に言えば、罪に対する罰は、今の世の中、世界全体を見れば非常に問題だらけなのだ、とも言える悲しい現状がある。それは、沢井鯨著『P.I.P.』を読むまでもなく……。

……長々記したが、結論は出せず。
その無力さの反動に進化への期待を見いだしたいなどと考えている。


→ essay top