以下は、ドラマ「さよなら、小津先生」(脚本:君塚良一)の中で、子供に暴力をふるう父親に向かって小津先生(田村正和)が放った言葉である。

父:「自分の息子に何しようが、おたくには関係ないだろ」
小津:「子供に何をしてもいいほど、親はえらかないぞ」

今、子供へ虐待を繰り返す親が急増している。児童相談所へ虐待に関する相談を持ちかける件数が、この10年間で16倍になっていると厚生労働省の統計は示す。今年9月、日本中に衝撃を与えた栃木県の兄弟殺害事件(連れ回し殺害、遺体を川に落とす)。その他にも凄惨な事件は多く、メディアは競い合うように報道を繰り返している。
一向になくならないパチンコに夢中で子供を車の中で死においやる母親、ネグレクトとよばれる育児拒否で完全無視状態にある親、泣く・片付けないという理由で子供に暴力をふるってしまう育児ノイローゼの親、など。

親と子の関係。最も小さく、根元的な社会単位である「家庭」において行き詰まりがあるのではないだろうか。そんな息苦しい家庭の中でSOSを出す親・子。社会がその助けに成れば、と児童相談所という所がある。現在、児童相談所は全国に182箇所、そこで様々な相談にのり指導を行う〈児童福祉司〉が1800人。持ち込まれる相談は、なにも虐待だけではない。心身障害者や非行など、多種多様な相談を受ける。1800人、これだけの人数で、「虐待」に関する相談だけでも16倍に膨れあがった相談を処理しているのだ。やはり、少なすぎると言わざるを得ない。

子供にとって「家」とは、逃げ出すことの出来ない環境である。そして、その環境は外側から見えにくい。児童福祉司と言えども、親が拒めば虐待されているかも知れない子供を「家」から保護することが出来ないのである。外から見えにくく、そこにいるしか仕様がない場所、そんなサンクチュアリで行われる「虐待」。疑いだけでは手出しが出来ないのが現実だ。栃木県の事件でも「それはおかしい」と世論が動いた。

家庭の問題に警察なりが介入できないという弊害は、欧米諸国では30年ほど前から言われており、今、その壁がだんだんとなくなりつつある。虐待だけではない。夫の暴力に苦しむDVもその例だ。「暴力」と言える行いには厳罰に処する。それは親でも夫でも、教師でも。
では、それをそのまま日本にも適応すればいいではないか、という意見もある。しかし、簡単に結論づけるには今のままでは、問題が多い。
例えば、自分の住んでいる部屋の隣から子供の泣き声が聞こえる。それも尋常ではない、と判断し警察に電話する。かけつけた警官がその部屋に入り込み、子供を救い出す。と、この子供は虐待されていたという証拠はどこにもなく、元気な子供なので、泣き出すと大声になるのだ、という。警官は良かった、良かったと帰って行くだろうが、入り込まれた家の親はどう思うだろう。何か傷つけられたような、心外だ!と怒り出すんじゃないだろうか。これが「良し」となれば、本当に恐ろしい、でしょう。問題は、隣近所とのコミュニケーションの希薄さである。そんな「他人」だらけの周囲から、あることないこと介入されれば、おとなしく静かに暮らすしかなくなる。周囲を寄せ付けず、孤立し、鬱積し、という悪循環だ。
仮に、この隣家が「隣のお子さん」ではなく、「○○ちゃん」なり「○○くん」とその子のことを十分に知っていたなら、「尋常」というレベルも分かったのではないか。常に、隣の○○ちゃんの様子を見ていれば判断を誤ることもなかったのではないか。家庭へ外部から介入できるようにするには、まず、その地域住民の交流を活発化させなければならない。

育児に追われる親(大半が母親)は孤立状態にあるという。言い尽くされているが、一昔前までなら、おばあちゃんがそばにいて色々アドバイスをくれた。核家族になったと言われた高度経済成長期ですら、今よりもご近所づきあいは活発だった。近所の子供を叱る大人、というのも僕が子供時代にはまだいたように記憶している。
それが今、子育てに悩み、親は孤立している。情報は限りなく少なく、それも平均的なものしかないので、そこから少しでもはみ出していると、我が子のことが心配になる。そして、誰にも相談できないままストレスとなり、無邪気な子供を叱ってしまう。ダメだ、ダメだ、と思いながらも、暴力が辞めれない親たちの苦悩、というのも聞いたことがある。
近頃、そんな親たちのためにコミュティを作ったグループがある。ある「場所」を提供し、そこに親たちが集まる。あーでもない、こーでもないというそれぞれの子育てを話していくうちに、誰かに聞いてもらえたという安心感、誰かが言ってくれた「大丈夫よ」という言葉などが積み重なってストレスがなくなっていく。穏やかな気持ちは子供へも優しく向けられる。

自分の家(サンクチュアリ)に頑丈なカギを閉め、テレビや新聞からもたらせる情報だけで我が子の成長をハカるのは非常に危険な発想だ。そんな風に「守る」から、外から介入されると反発してしまう。サンクチュアリの門戸を開き、だれでも自由に入って来い、と心がけていれば、仮に外からの介入があっても、そこから何かいいアドバイスが得られるかも知れない。
親は子供に何をしてもいいほど偉くはないが、子供にとって親は偉大だ。親は、子供に対して責任がある。それは、何かしてあげた分の対価を期待するものでもない。小津先生の言う通り、「応えてくれなくたっていい、ただ、オレがそうしたいんだから」、という気持ちで「育む」のが、子育てであり、親の責任であるのではないだろうか。サンクチュアリではなく、「家庭」とは一番強い絆で結ばれた集合体。周りの人たちと交流し、交換し、協力し、競争する。その、根本的単位なのだ。プライバシー?という問題をこの場で論じるのは次元が違うような気がする。が、その問題こそが家庭をサンクチュアリにしてしまっているのだが。難しい、確かに難解だ。が、まず出来ることは、ちょっとサンクチュアリの門戸を開くこと、ではないだろうか。隣の人へ、またはお友達のお母さん、お父さんへ。

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サンクチュアリ

2004年12月11日