ツクル
2009年02月22日
他人の受精卵を移植した可能性?
このニュースを読んだ時、まず不思議に思った。昨年11月、香川県立中央病院で不妊治療を受けていた女性に、他人の受精卵を間違えて移植した疑いがあるとして、人工妊娠中絶をすすめ実施したという問題。これは事件なのか?事故なのか?というより先に、「間違えるのものなのか?」という疑問が沸いた。人工授精と体外受精の違いもよく分からないぼくには、取り出した精子と卵子を体外で受精させ、培養した受精卵を体内に戻すという「行為」(治療)が、ものすごく特殊に思え、それなのに他人のものと間違う?なんてあり得るのかと思ったのだ。

報道によると、今回のAさんの受精卵をシャーレという容器に入れ、同時期に治療を受けていたBさんの受精卵を入れたシャーレと間違えたというのだ。それぞれの蓋にシールを貼って識別していたが、その蓋を入れ替えてしまったらしい。結果、Bさんの受精卵をAさんに移植し、昨年10月中旬妊娠を確認。これまでの診断からして、発育の仕方に疑問をもった主治医が、間違いかもしれないと医院長報告。11月、妊娠から9週間で中絶したというのだ。

これをきっかけに様々なことが明らかになった。今、体外受精によって誕生する赤ちゃんは全体の約1.8%、50人に1人の割合いでいるらしく、日本では1983年に初めて体外受精による赤ちゃんの誕生から半世紀で特別でもなくなってきているという。それだけ件数も増えているのだ。また、その急増の中で、他人の受精卵を移植したという例は過去にもあり、今回のように妊娠には繋がらなかったが管理の甘さは叫ばれていたという。

白衣を着た「人」が、容器の中で精子と卵子を受精させ、おなかの中に戻し「人」を誕生させる。倫理や聖域を持ち出すと、話はややこしくなるが、子供が欲しくてもできない夫婦にとっては、治療と呼ばれる違和感を超越して頼みの綱なのだろう。さらには、不妊治療に助成金が出るなど広がるきっかけもあったようだ。少子化、という社会問題もからんでいる。ただ、この体外受精には、今回のようなあきれる事例は別にして問題はあるようで、今年カリフォルニア州で誕生した8つ子の例など、多産の危険性も高いという。

子孫繁栄のたすきをかけて生きていく男女にとって、出産は意義高いものであることはいうまでもない。が、それが【自然】の形ではなく、【人工】的に行われる時代。人が人を裁き死刑にする問題に似て、どこまでも倫理の問題がついてくるように思う。日本では夫婦間以外の人工授精や体外受精は認められていないが、海外では「精子」を売る企業も存在する。

ツクル。そんな言葉が頭から離れない。

子供は愛し合った夫婦の間に出来るものだ。コウノトリが運んでくるなんてことも言われたぐらい、人間の力ではどうしようもないものの一つだった。だから、誕生は無条件に喜びで、どこか神聖なるものと受け止められていたような気がする。「その力」を人間が持ったとき、人の命の重さに、何かしらの変化が出てくるのではないかと心配するのは杞憂だろうか?特に、今回のような事がおこった以上、ますます心配になってくる。この医師は1000例の体外受精をおこなってきたという。だから安心というより、その「麻痺」を心配する。いうまでもなく、デスクに山積みの資料を処理していくのとは違う。ましてや効率性や生産性をあげて行う「業務」でもない。体外受精は、人の誕生を扱うのだという【重要性】を、この医師は麻痺することなく持ち続けられたのだろうか。ぼくの場合、コンタクトレンズですら、左右のレンズを間違えないように注意深く容器にいれる。が、それも回数と年数を重ねると、「麻痺」が始まり、時々間違えてしまうのだ。まさかそんなレベルで、不妊に悩み、人工的な手を借りてでも「我が子」を抱きたいと望むご夫婦の、もっというなら人間の基を扱っていたとしたら。ケアレスミスだ?ヒヤリハットだ?ダブルチェック体制の不備だ?そんな「再発防止」なる医師会の報告を読んでいても、全然違うよ、と首をひねってしまう。根本的に次元が違うのだ。次から次へ処理し、その一つひとつに100%の集中力を傾けられないという「業務」にヒューマンエラーはあるのであって、医師がご夫婦と話し合い、そして決断し、精子と卵子を採取し、それをその医師の手で受精させ、それを体内に戻す「行為」には、エラーなどあってはならない。

分かる。とはいえ医師の人手不足の中に、不妊治療に頼る人の急増。頭では分かっていても単独作業が増え、一種の業務になり云々、事情はあるだろう。本来なら同じ日に違う夫婦の体外受精はしないのかもしれない。けれど現実問題は…、そうはいってられないのかもしれない。であれば、その現状の打開策はすでに講じているのだろうか?一病院の問題でないのであれば、政府も巻き込んだ議論もあって良いはずだ。

そもそも、ツクル方向で、本当に、このまま進んで良いのだろうか。体外受精で妊娠・出産した夫婦の間に、少なからず「自分たちは大丈夫だろうか」という不安がよぎっているかも知れない。そういう面においても、今回の、この取り違え問題は大きい。さらに言うなら、本来、自分たちの受精卵で、体内に移植され、妊娠していたかもしれないBさんにも、多大なダメージを与えたことになる。

ツクル。不妊で悩む夫婦にとって、このカタカナ表記は非常に失礼に当たるかも知れない。そして、ぼく自身も、いつかはその悩む側に行くかも知れない。そうなったとき、どう考えるだろう。できるだけ自然の形でとは思うが、きっと頼れるものなら頼るような気がする。そのとき、ケアレスミスだ?ヒヤリハットだ?と病院側の体制に変化がないなら、「心身の病」を扱う病院としても失格だし、誕生という域まで手を伸ばす資格はとうていないと思う。

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