WAR IS PEACE !?
2009年12月12日
ニューヨークで行われたデモの様子を写した一枚。プラカードには「WAR IS PEACE」と書かれ、その下に「George Orwell」を×印で消し、Nobel Committeeと追記されている。アメリカ大統領バラク・オバマ氏にノーベル平和賞を与えたノーベル賞委員会を皮肉ったものだ。この「WAR IS PEACE(戦争は平和である)」というのは、イギリスの作家ジョージ・オーウェルが著した『1984年』という晩年の作品の一節。後に「FREEDOM IS SLAVERY」「IGNORANCE IS STRENGTH」と続く。しかし、第二次世界大戦前のナチスや全体主義の台頭を舞台にしたこの作品で使われた言葉の意味と、今回の受賞が深いところでリンクしているというよりは、デモを行った人たちは響きとして、この言葉を用いたのかも知れない。

アフガニスタンでの「戦争」、つい先月その戦地に兵士を送る(増兵)と決めたばかりの、まさにその指揮者たる大統領、オバマ氏への「平和」賞。それはいかがなものかという批判の声が強い。特に、アメリカ国内では半数以上が反対しているとの世論調査もある。平和賞受賞スピーチで、オバマ氏は「正義として持続する平和」という言葉を使った。悪はこの世に存在する。武力は、その悪を倒すのだと。その先に「平和」があるのだと。だがしかし、そんなもの(武力)に頼らない、あるべき姿を目指そうとも言った。「核なき世界」という声高な宣言。それが難しいことであると付け加えながらも、それを目指すとしたプラハ演説は、今回の受賞の最大の要因だ。実績のない未来に期待した授与。それに対して、ぼく自身、云々いうつもりはない。ただ「同じく」期待するのみである。

戦争は平和であるという意味について考えた(それは単純に言葉として)。

戦争がない状態を平和とするなら、平和を感じるには戦争が無ければ分からない。平和は戦争で壊せるが、戦争は平和で壊す事は出来ない。平和は無力で、とても貴重だ。誰もがおそらくは望んで止まない状態だ。希少価値。そんな言葉が浮かんだとき、日本に居て、軍事施設も近くになく、「戦艦」などをわざわざ見に行きたくもなり、映画館での戦闘シーンを見ると興奮してしまう自分。バーチャルで遠い存在が戦争であることに改めて気付かされる。そんなぼくから見て、戦争は希で「異常」な状態だが、平和こそ希で異常という状況下で生活する人は多い。日本という国を考えたとき、そんな希な状況下が当たり前という「無知」に恥ずかしくなる日本人も多いだろう(ぼく自身も含めて)。「核の傘下」。アメリカ陸・海・空軍。沖縄米軍施設。それは歴史的に見ても、戦争の狭間に一時の平和がある、とも言える。言ってしまえば、そんな希な状態を永久的に持続させようという趣旨が、オバマ演説にはあったと考えられなくもない。

もちろん、平和であるという状況下であっても、争いは起こる。それは人間が生活していく上で、大小問わず「必ず」存在する。そんな「争い」であっても、平和が吸収出来うる範囲、理想を言えば「話し合い」で解決できればこう言うこともできる、「争いは平和である」と。この争いレベルを「戦争」に置き換えるとWAR IS PEACEは皮肉でもなんでもなくなる。平和で戦争は壊せないが、包括することが出来れば…。一度冷静になって、一定間隔でリセットして考える。誰かが叩いた・蹴った、だから叩き返した・蹴り返したを延々続けると、もう叩かれないために「殺してしまえ」となってしまう。「叩いた」のは何故か、「叩かれた原因」はあるのか。それを一々思い返して、叩かれないためには「殺さなくても」よい方法が見えてくれば最善だ。そこを目指していくべきだと強く思う。

そう考えつつ、オバマ演説の「正義」という言葉にやはり引っ掛かる。正義のために戦争をする。それもテロ「集団」は一つの国ではなく、思想・考え方・(被害者)意識を同じにした集団だ。そこにアメリカは「国」として戦っている。アメリカ兵の中には、戦争相手であるアラブ系の血をひく者もいるし、アメリカの国籍をとろうとする兵士もいる。宗教も祖先もバラバラだ。その「国単位」の兵士が、先述の「集団」に【正義】を振りかざした戦争だと言い切ってしまうと、出口はないように思えてならない。

「誰の正義」か。宗教や民族、考え方は様々だ。誰かにとって正義とするモノの対局に「悪」があるなら、その悪をなくすために戦争をする。だが、その「悪」は本当に「なくされるほどのものか」という土壌の上に立つ人にとって、その戦争は被害者意識でしかない。以前、ぼくはアメリカ西海岸のサンタバーバラにある「ミッション・サンタバーバラ」を訪れたことがある。そこで、かつての入植者が原住民を教会に連れて行き、プリーチ(説教)したという話を聞いたとき、首を傾げた記憶がある。白か黒かの判断は、もういいだろうとオバマ政権には期待したい。

戦争をも包括する「平和」。それを例えば「絶対平和」と呼ぶことにすると、その戦争には大量破壊兵器や核兵器、軍艦や戦闘機はあってはならない。キレイゴトで一蹴される核放棄や武器削減をあえて声高に主張することをやはり諦めてはいけないような気がする。年間で軍事費はいくらになるのか。仮に、そのお金で大量の物資を買い集め、戦闘機からそれを相手国に投下すれば、戦火を逃げ回っていた人に笑顔が戻り、希望が芽生え、戦争が阿呆らしくなって「話し合い」の方向に進むかも知れない。そんなことを考えながら、やはり戦争はバーチャルでしかないぼく自身の「甘い考え」に嘲笑してしまうが、いや、もしかしたら「そんなこと」ぐらいで状況は大きく変わるのではないか!と諦めきれずにいたりするのである。

先頭に立って導くものは、「暴力」を伴うパワーではなく、尊敬されるべき「姿勢」でまとめてほしい。そんな状況下であれば、「戦争」はきっと「平和」であると思う。


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