1日1ドル以下
2007年12月14日
5歳未満の乳幼児死亡率、HIV感染者数、初等教育就学率。貧困の実態を示すこれらの数字が、いつまで経っても改善されない地域、アフリカ。特にサラハ以南と呼ばれる国々。1日1ドル以下の生活を強いられる極貧状態にある。

顔の周りを蠅が飛び回り、少しでも水分のあるところを目指すのか?目の中に止まろうとしている。子供はみな裸で、茶色く濁った水を飲み水にしている。コマーシャルやドキュメンタリーで、そんな映像が流れても、ぼくらはどこかで「そういう所」というくくりの中で捕らえ、自分をその立場に置き換えることはおろか、関係のない「モノ」としてみている節がある。それは、ぼく自身も含めてだ。

先日、朝日新聞の記事で、「ミレニアム村」プロジェクトのルポを読んだ。このプロジェクトは、十分な援助があれば貧困からの脱出は可能という主張を実証しようと、アフリカ10ヵ国、79の村で約40万人に対して行われている。

その中の具体例の一つとしてケニア西部のサウリ村の様子が伝えられていた。村の約7割が1日1ドル以下の生活で、学校給食の実施は小学生の20%以下。5割以上がマラリアに感染している状態だった。そこで、貧困生活脱却のために、村で生産できる作物の研究と、その指導。この村ではトウモロコシの生産技術を教えた。これは最近、途上国でも主流になっている支援の形で、それまでは「余った国」のモノを「不足している国」へ提供していたものを、不足している国で生産できるように、土地をつくり、生産者を育てるという「持続可能な」支援だ。トウモロコシの生産量は3倍になったという。そして、マラリア感染を防ぐために蚊帳を配った。「これだけ」で、感染率は8割も下がった。

そして、学校給食の実施。ぼくはこの支援が一番大きな意義を持っていると考える。それまで学校で給食はなく、家に帰っても食べ物がない。空腹の子供たちは昼からの授業を受けなかった。朝食も満足に食べないので、学校へ行っても頭に入らない。目の前で見ている、または体験している「貧しい」暮らしの中で「貧しく」育った子供たちは、おとなになってもその連鎖から抜け出しにくい。そこで、この村では学校給食の完全実施を行った。これにより、昼からの授業も行え、何より成績が向上したというのだ。

昔でいう、「腹が減っては」なんとか、というヤツである。何も戦だけではなく、空腹はすべての生活に関わってくる。その空腹を満たすことで他へも繋がる大きな流れのようなものを作り出す。子供の成績が向上すると、生きる知恵に知識が加わり、これまで実現できなかった画期的な何かを見いだすかも知れない。それも、未来を担う子供達が、である。先細りではなく、末広がりの支援。ぼくはこのプロジェクトに大賛成だし、応援したいし、実際行っている方を尊敬する。

学生時代、海外をウロウロと旅していたぼくは、ロンドンやニューヨークといった大都会の中で1日5ポンドや10ドルの予算の中で生活をしたことがある。なんとかできるものだ。無駄をそぎ落として生きると、視点が変わったり、本来見えるべき姿で物事が見えるようになる。この話をすると、「はい、はい、ビンボーリョコー自慢ですか」という顔をされることがあるが、それが100%ではない。「だから良いのだ」と、ぼくは言いたいのである。今日はミュージアムに入るからランチを抜く、とか、ちょっと贅沢なディナーのために、朝から空腹でいる、とか。そんな体験は、知恵を生んだりする。

話を戻そう。1日1ドル以下。この生活は、「体験」というには無理があるし、そもそも本来的に考えて「無理」なのである。人間の身体には一定量以上の水分と、絶対必要な臓器の活動というものがあるように、生きるために摂取すべき「量」を、1日1ドルではまかないきれない。それは何も「人間らしく生きる」ための話ではなく、純粋に生きるために、という意味で。その証拠に、乳幼児の高死亡率があるのである。

そんな無理の中で、生まれ、死んでいく「人」がいる現実。確かにアフリカは遠い。実際、関わりを持たなくても生きていけると勘違いもするだろう。しかし、日本に住み続けていたって、アフリカから提供される資源がなければ、近所のコンビニも並ぶ商品が代わるかも知れないし、携帯電話や自動車も、部品がなくなったりするかも知れない。そんな見えにくい繋がりの中で、ぼくらは生きているのだ。

遠く、関係のないようにみえるからといって、このまま何もせず「無理な生活」を見過ごすのか。ぼく個人的な意見を言えば、これは外国軍に対する海上での給油活動とは異なることだと思う。国会でも、何かしらの無理な生活者への対応が話し合われてもいいのではないだろうか。

約112円(現在のレート)、缶ジュース一本分の我慢なり節約が、直接極貧生活者の何かになるとは思わない。が、その金額以下で、一日を過ごしている人がいることを思い、繋がりがあるのだということを強く思うことから始めようと思う。

そんな風に思っていれば、具体的に何かが出来るとき、一歩出遅れることもないだろうから。



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