2001年3月16日(金)
1日目
関空国際空港→香港→ヨハネスブルグ
いよいよ出発、身体中の高鳴りをいつも以上に感じる。目的地はアフリカ。どこかでずっと憧れていたところだ。今回は、10日間という短期間にも関わらずアフリカの東部(ケニアやタンザニア)と南部(南アやジンバブエ)を一気に行ってしまう構え。10日しか休みが取れない悲しさ・・・はひとまず忘れて、まぁ、本来なら列車で縦断!みたないこともやっておきたいが、いやいや社会人やしねぇ、ということで飛行機で移動する。「時間を金で買う」ってやつ?学生の頃はあんなに馬鹿にしていたのに、これが社会人の現実だわな。
今日は朝から気分が晴れ晴れするほど気持ちの良い穏やかな天気だった。午前中だけ出勤して、帰りに日記帳とペンを買う。家に一度戻って大急ぎのパッキングを済ませる。相変わらず荷物が少ない。そんな自分が、うん、いい。空港に向かうまで、同じ平日の一日を、会社で過ごしている同期のことを思うと、、、うはは、耐え忍んでしっかり働きたまえ、と、こちらは信じられないほど胸がワクワクしてくるのだ。もう仕事のことなど綺麗さっぱり忘れる。テイクオーバーを強引に頼んだ同僚・先輩、後は任せた!的な開放感。これが最近のぼくに加わったもう一つの旅の醍醐味だったりして。バイバイ、スーツ。ガー、だ。
大自然の中に立って、その空気、雰囲気の中にすすんでとけ入り、
そこにいる自分を存分にたのしもうと思う。
空港内では、いくつかのエアーのファイナル・ボーディング・コールがされている。この英語のアナウンスを聞くと気分が高まってくる。そういえば、近頃大阪駅でも英語のアナウンスがされるようになって、今日、大阪駅から帰宅するとき、そのアナウンスでさえ気分が高まったな。
旅の前の、この高ぶりには、少しばかりの不安と、緊張と、焦燥と、ほんで「でっかい期待」が混じってるから、心地よい。塩ラーメンにラー油、みたいな、とんこつ醤油みたいな。色んな感じが旨い不味いを超えて、ほんまいい。
もう、陽が西に傾いて、今にも沈もうとしている。19:10発、キャセイ・パシィフィック航空、香港経由ヨハネスブルグ行きの飛行機を、ぼくは搭乗ゲートで待っている。
今回の関空とヨハネスブルグの往復分をアメリカン航空のマイルでためた。
こんどそれでベトナムでも行こうっと。
(香港空港にて)
関空の出発ゲート9の喫煙席で一服しているとき、今回の旅が海外10回目のメモリアルであることに気づいた。パーソナルテレビがエコノミーでもついているCX507便。大阪→香港間は、3時間50分。隣の席のおばはんがず〜っとアテンダントと中国語でしゃべっていた。そうっか、香港って中国か。
機内での事を少し記しておくと、「リトルダンサー」をやっていた。日本で1ヶ月くらい前に見たばかりだったけど、もう一度見ながら機内食を食べた。食後にハーゲンダッツのデザートが配られて、ほんまはもらってたけど「まだもらってません」って嘘をついて2個食べた。バニラとストロベリー。関空発の機内食には、近所にある数社のケータリング会社から共通で調達するのだろう、どのキャリアに乗っても「そば」がつく。そんなに、たべたないで、と教えてあげたいが、まぁ、日本発で日本人が多いから喜ぶやろ、というキャリア側の優しさだとおもってありがたくズルズルと頂いた。
それにしても、真っ暗な関空を飛び立って、真夜中の香港でトランジットをしていると、どこか寂しい気分になってくる。夜は、ぼくを深くて暗い、そしてなぜだか分からないが寂しく、悲しい気分にさせる。まぁ、いつもの事だとふっきれてしまえるのも、一人旅10回目のキャリアだろうか。
今回、旅のお供に持ってきたのは、舟戸与一著 『砂のクロニクル(上巻)』。
新しくなった香港の国際空港、Tー4、ゲート46でヨハネスブルグ行きのCX749便を待ちながら、この日記を書いている。
2001年3月17日(土)
2日目
ヨハネスブルグ〜ナイロビ
(ヨハネスブルグ空港にて)
香港から約13時間の飛行で南アフリカのヨハネスブルグに着いた。
アフリカ大陸に降り立つのは初めて。飛行機から、まぶしい朝日に照らされた南アフリカ共和国を眺めると、そこは緑豊かな大地だった。この長フライト中、隣ではフィリピンから来たという男性二人が楽しげに話しており、その横でぼくは機内に乗り込むや否や、強力な睡魔に襲われパーソナルテレビで『ヴァガーヴァンスの伝説』を英語で聞きながらウトウトと眠った。
夕食にポークをチョイスして少しだけ食べた覚えはあるが、そのトレイもなにもかも隣のフィリピン人が片づけてくれたのだろう。10時間は眠っていたように思う。寝心地がなんともすばらしい、キャセイ・パシィフィック航空!
同じ様な顔つきのアジア人がいっぱい乗っていたが、どうも日本語は聞かなかった。
今、ヨハネスブルグ空港内にある広くて空気の良いスモーキングラウンジで、13時間ぶりにタバコを吸いながら日記を書いている。ナイロビ行きの便まで2時間、ここでトランジットだ。
近くでは日本人おじさん三人組が話している。様々な言葉が氾濫し、騒々しいが日本語だけは特別切り抜かれたようにはっきり聞こえる。この空港降り立ち、まずトランジットカウンターへ行き、ここヨハネスブルグからケニアのナイロビまでのチケットを換える。チェックインするために並んでいると、ザンビアの首都ルサカに行くという日本人に会い少し話した。話しながら流れるようにチェックインを済ませたため、JNB-NBO間、南アフリカ航空のマイレージを貯めるのを忘れてしまった。おそらくタイ国際航空で貯まると思うので、帰国してから半券を送ろう。
空港内のスタッフは確かに黒人が多い。決まってみんなにこやかだ。進んでこちらから話しかけてしまう。街中にいる黒人とは根本的にマインドを異にする人達なのだろう、「いいひと」って感じがにじみ出ている。ヨハネスブルグは本当に危険であるらしい。実際に行っていないので分からないが、イメージしている犯罪を犯す黒人達と、実際、今の段階でぼくが触れる黒人達はおそらく違うのだろう。
セキュリティーを通り、ターミナルに入る。セキュリティを通ってから水曜日のJNB-VFA間、ブリティッシュ・エアーウェイズのリコンファームを忘れていることに気づいた。もう一度グランドフロアーにあるチェックインカウンターに行って、BAのリコファをする。
・・・と、不要だという。
まっ、BAだから安心は安心だが・・・。トイレに行っても清掃の男性が気軽に「ニーハオ」と言ってくるので「こんにちは」という日本語の挨拶を教えると同時に、自分が日本人であるということを主張しておいた。
空港内をブラブラ歩く。どこの空港も似たようなものだが、アフリカンクラフトを扱った店があり、そこでは「Zule」と銘打った特別な民芸品を売っており、ディスプレイにも店員の着ている民族衣装にもアフリカを感じ、本当にぼくはアフリカ的センスが大好きな事に改めて気づいた。
とても刺激され、ワクワクする。早く街中に出たい。気分はまさに高ぶりの絶頂にある。
(ナイロビにて)
ヨハネスブルグから南アフリカ航空182便でケニアの首都ナイロビまでは3時間半強。
ヨハネスブルグのチェックインカウンターで一緒だったルサカに向かう日本人男性と再びヨハネの空港で会い、しばらく話していた。埼玉県出身で現在は和歌山の病院で小児科ドクターをしているらしい。今回のザンビア、ルサカへの旅の目的は、母から子供へのエイズ感染を押さえることはできないかの研究だと言う。
話によるとザンビアの妊婦の三人に一人がエイズ感染しており、母乳で育てると子供は感染してしまう。現在のザンビアの財政では援助が十分に受けられず、もし援助が受けられればエイズ感染している母親から子供を隔離し、子供は人工ミルクで育てると感染率は非常に低くなるらしい。つまり、遺伝などの先天的な要因でエイズは感染するのでは無く、授乳の際の感染という後天的な要因が大きいようだ。援助を受け、人工ミルクで育てさえすれば感染しないのだが、財政上の理由で、援助を途中であきらめざるを得ないケースが多く、そのように隔離された子供達はエイズ感染ではなく、援助が受けれず栄養失調などで死んでしまうという状況があるという。そこで今回の研究は、なんとか、エイズ感染している母親からの母乳で感染が押さえられないかというもの。母乳さえ飲めれば“食いつなぎ”に問題は無くなるからだ。
そんな事を話しているうちにぼくの搭乗時間になり、ゲート7へ。
乗り込んだ機内のアテンダントはほとんど黒人で、ぼくの席がたまたま非常口の横だったので、離陸前にその際はお願いしますと言いに来られた。
張り切って「OK」って言った後、初めてその危険性を実際のモノとして感じ取った。
翼のちょうど上にあたるため、脱出用のエアー滑り台は大きく後方に方向を変える。飛行機に呆れるほど乗っているが、そんな事に初めて気づいた。そういえば、飛行機って客が一人でも、アテンダントは非常口の数だけ必要なのだと聞いた。それってかなり無駄じゃないか?ほとんどのエアーが赤字で飛ばしている昨今、いち早く見直した方が良い規律のように思える。
席の隣には黒人独特の香水をふりまくったテンションの高いおばさんが座った。大学時代の講師、ミズ・アガードを思い出した。機内はすいていたので、そのおばさんは離陸前に少し離れた席に移動した。そのおかげで広々だった。さすがにこの三時間半は一時間ほど眠っただけで、あとはまたまたやっていた『リトルダンサー』を見たり、本を読んでいたりしていた。
機体がナイロビに近づくと地平線が広がる大平原。
緑と茶色の割合は4:6ぐらいだろうか。少し枯れている印象も受ける。飛行機を降りてから空港でビザを取得(米ドル50$)。そのまま出口へ。蠅の飛び交うゲート横のカフェでコーラを飲んだ。
空港で両替をする。一応多めにUS 100$を7490ケニアシリングに。
そこから100シリングの手数料を引かれ7,390シリングに。1円が約1.6シリング。
そのまま空港敷地を出るように歩くと、黒人のドライバーに「ジャンボ!」と挨拶された。それで一気に「アフリカに来たなぁ」と気分が高まる。国際空港から市内まで車で30分弱だろうか。週末のナイロビ市内は閑散としていて、町中をウロウロしている人達はよからぬことを企んでいる輩が多いので注意するようにと、ドライバーに忠告を受ける。
一泊目の宿は、少々高めの「Oakwood Hotel(オークウッド・ホテル)」に決めた。
市の中心、Kenyatta Ave.の東にあるホテルスタンレーの前だった。
宿はフツー。可もなく不可もなく、とびっきり嫌な訳でもなく、すごく良い訳でも無い。101号室に通され、窓からは、一応オープンテラスになってテーブルと椅子が見える。
とにかく街に出てみたかった。空港からの車で眺めたナイロビは、ぼくの想像を遙かに下回るほど田舎で、ビルはあっても、唐突と言う感じがした。ポコッと突き出ている感じ。そんな事より、当たり前かもしれないが、黒人だらけ。そして、彼らはなぜあんなにタムロしているのだろうか?メインストリート沿いのガードレールには5〜6人のグループがいくつもあった。
宿の前にはタクシーが並んでおり、決まって声をかけられる。百mほど歩いて、その黒人率の高さに一々記すのも嫌になるほどで、これは完全に東洋人であるぼくの方こそ、ジロジロ見られる対象になっている。
Kenyatta Ave.からWabera St.までブラブラ歩く。
人混みとまではいかないまでも、さすが東部アフリカ第一の大都市ナイロビの、そのまた中心通りなので、決して閑散としたイメージではない。あってないに等しい信号、目で車を見て、頭で安全だと判断すると渡る。車の量も結構ある。右側通行に相変わらずとまどう。
印象的なのはストリートチルドレンだ。必ずと言っていいほど、声をかけてくる。
「ジャンボ!」と言いながら右手を差し出す。
「ジャンボ、コンニチハ」と言って、ぼくの腕をつかんでくる。
ゴミは散らかり、決して小綺麗な大都会というイメージはない。
でも、ナイロビの人達は決まって「ジャンボ」と笑顔だ。
いつも笑顔だ。その裏にどんな企みがあろうと、ぼくはこうゆう雰囲気が嫌いではない。
宿のすぐ側にある大きなスーパーマーケット「NAKUMATT」に行く。「LION」なんてチョコを見つけた。いかにも!って感じがする。びっくりするほど店員が多く、雇用率アップに貢献しているのではないかと思う。その店で水(33シリング)、スプライト(39シリング)、チリ味のメキシカンチップス(129シリング)、チョコ(42シリング)の締めて243シリング(390円)の買い物を済ませて宿に戻った。
スプライトは、おなかを壊したり食欲が無くなったとき、水を飲むとよけいモドシそうになるが、スプライトだとスッとする。これはぼくが勝手に言ってることではなく、こういうあっついところでは有効だ。そうそう、この宿のフロント?とはいえないが、そこにいる人の笑顔がいい。黒い肌に白い歯っていうのがその笑顔の気持ちよさを強調している。
午後7時半になると暗くなるナイロビの街。明日からのサファリに備えて、動物の勉強をしよう!と、クソ重いのにがんばって持ってきたハンディ動物辞典を開く。少しからだがだるい。長フライトの疲れが出ているのだろうか。一応、日本からもってきた風邪薬PL顆粒を飲む。
夜8時、かなり強い雨音を聞きながら眠る。
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