2001年3月20日(火)
5日目
マサイ・マラ国立公園〜ナイロビ
朝、5時10分前に起床。部屋の外か中か不明だが、キーキーとヤモリが鳴いている。顔を洗い、パッキングを済ませる。朝6時にダイニングへ行き、コーヒーを飲む。・・・と、やたらと日本人がいる。その中の一人に聞くと、どうもこれからバルーン・サファリに行くらしく、このキーコロック・ロッジが受付になっているので他のロッジから日本人の団体さんがわざわざこの早朝に移動してきたようだ。そういえば、昨日、カンさんが言っていた・・・、サファリカーに乗り込んだ、この“大阪丸出し”の団体さんは、ライオンのそばに来て、「あ〜もーちょっと左行って」とか、「もっと後ろ」と添乗員に注文し、添乗員がドライバーに訳す。静かな大自然の中でさんざん騒いでいたらしい。大自然の「空」でも…どうなることやら。
だいたい、普通はライオンのそばでは車のエンジンも無線も消して、静寂の中で、神秘的に、その姿を見るのものなのに、ペチャペチャしゃべり、終いには「もうライオン、ええわ、次行こ、次」と、この大自然をまるで姫路セントラルパークかなんかと勘違いしているのではないか。あまりにも目の前で起こる全ての要素が大自然過ぎて宇宙的で、すっかり僕の頭の中から消えていたが、僕も、この団体と遭遇していた。思い出したよ、この早朝からの大騒ぎを見ていて。お〜、こわい、こわい。万が一、同じサファリカーだったら・・・、考えただけでもゾッとする。そんな僕の同乗者である、「わきまえた」 アメリカ人夫婦がやってきたので、僕は彼らの方へ席を移動し、コーヒーを飲みながらこれからの旅路を話し合った。
この夫婦も、昼からナイロビに移動し、明日、ヨハネスブルグに入るらしい。僕のルートと同じだ。夫の方が、ナイロビのホテルはまだ決めていないという僕に、「うちはインターコンチネンタルホテルに泊まるが、良かったら一緒のホテルにして、空港から送迎をしてもらえばいい」と、あっけらかんと言うので、僕は“インターコン”・・・、無理だ。断った。そんなホテル、逆立ちしても泊まれない。わきまえている、はずの意外なサジェスチョンだった。
さぁ、ゲームドライブ開始。昨日、最後に見た「強い毒をもった蛇」を前にして、ドライバーは、「かまれると五分もしないうちに体が緑色に変わってしまうんだ、さぁ写真をとりな」とむちゃくちゃなことを言って、それを遠慮した僕。動き出した車の中で、「蛇以外!毒以外!」と念じながら、今朝出会える動物を想像していた。頭を屋根から突き出して、今朝も大地を照らし始めたでっかい朝日を眺めた。
と、左前方にジャッカルが2匹。まるでこちらにポーズをとっているかのように凝視している。「食べれるか、無理か」を考えている気がする。そんなジャッカルにカメラをむける。食べれる、なんて全然考えもせず、暢気に…。
車は凸凹と進み、なかなか動物は現れない。このじれったさ。ある意味ハンティングだ。空腹にはならないけど。無線が入った。「○△×※○×□」。「よっしゃー」というようにドライバーはその無線に応え、ハンドルを切った。『ライオンがいる』、そんな情報だったのだ。一昨日なら“ライオン”と聞いただけで興奮していたが、「ライオンかぁ」なんて思ってしまうところが、コワイところで、今朝みた大阪・団体さんとそう大差ないかも、と恥ずかしくもなる。
しかし、しかし、今朝のライオンはすごかった。ちょうど昨日ハントしたばかりの一頭の草食動物を、五頭のライオンが必死に食べていた。家族だろうそのライオン達から僕らの車までは距離にして3mあるかないか。エンジンも無線も切って、僕らの車以外は一台もない静寂の中で、この朝食の光景を眺める。
辺りに響くのは、このライオン一家が食む音のみ。ボリボリと骨を砕く鈍い音、ペチャペチャッと肉を引きちぎる重い音。位置を変えるために踏み歩く草の音。のみ。
ずいぶん長い間眺めていた。おなかがやけに大きなオスのライオンは、ゴロリと横になって眠り始めた。「ごちそうさんっ!」ってところだろうか。その五頭にばかり目を向けていると、周りには他二頭のライオンと、ハイエナがその様子をうかがっていた。嗅覚が恐ろしく発達し、敏感なのだ。このライオン家族が食べ終わると、ハイエナやジャッカルがおこぼれをもらうのだろう。
“You have to wait!”と、そんなハイエナたちにガイドは笑いながら言う。のそりと起きあがったライオンには、“Good morning”と。この光景は、鮮明に残っている。間近でこの食む音を聞いていると、ここが野生動物の生活の一部であることを強烈に印象づけた。僕は、このハイエナがあの獲物にいきつくまで見ていたかったが、相当に長引きそうな「朝食」だったので引き上げた。
チーター。見てみたかったその姿は、結局最後まで出会わなかった。これにて、今回のゲーム・サファリはすべて終了。ガイド兼ドライバーにチップを払う。僕は、US20$と決めていたが、チーター分を差し引いて、US15$にしよう。カオリさん曰く、例のジョンという老人でも、丸一日のサファリで10$くらいしか払っていないらしい。僕の場合、一日4時間程のドライブだから、そんなに払うこともないし、そもそも、僕に余裕はない。
午前九時半。朝食を終え、僕はシアナスプリング(滑走路)に向かった。最後の朝食をいつものロッジで食べていると、「スズキ!」とやたら笑顔で話しかけてくるウェイター、彼とも今日でサヨナラだ。短いつきあいだったけど、彼の印象で一番は、僕が、「ここは熱くて、日差しがきついからこんなに日焼けしちゃったよ」と腕を見せると、彼は「本当、俺なんてほら。」と自分の腕を見せて笑ったことかな。黒人的ジョーク!最高だった。
ロッジをチェック・アウトしてシアナスプリングの滑走路まで行く。ここマサイ・マラのサファリをするのも最後の最後だ。ゾウがいる。バッファローもいる。いてもあまり気にならなくなったガゼルも飛び跳ね、草を食べている。こんな光景をいつか遠い記憶として思い出すのだろう。
マサイ・マラの敷地を出ると、車はマサイ族の村々を通り抜ける。赤い布を干したり、日陰で休んだり、家畜の牛を散歩させたり。とにかくマサイの村々をたくさん通る。写真に収めたかったが、さっきまで動物に向けていたカメラをマサイ族に向けるのは非常識であるようにも思えたし、直接は聞いていないが、ガイドはマサイ族に厳しい態度をとる。
「マサイってクールだよね」とうちのガイドに聞いても、回答を濁された。そんな事もあって、マサイの村の前で車を止めてくれるわけもなく、僕らの前を走る4WDが巻き上げる砂埃のために、走行中カメラを構える気にもなれない。マサイ族の人達は、陽気に右手を挙げて大きな笑顔で挨拶してくれる。マサイの戦士よ、我々日本人をどう思いますか?
シアナスプリングには10時半頃着いた。日差しは強く、遮るモノが何もない大平原なので、強烈に降り注ぐ。滑走路の近くにもマサイの村があるため、何人ものマサイ族が遠くから歩いてきては近寄り、「ジャンボ!」と挨拶して通り過ぎる。決まって、ぼ〜ッと待っている僕らをジロジロ不可思議に見るめる。・・・ずいぶん待った。予定時刻の11時になっても、11時半になっても飛行機は来ない。さすがのマサイ族も木陰に座って涼んでいるという猛暑の中で、1時間以上炎天下にさらされる。もう僕は、車の中に入って少し眠りかけていた。
やっと12時くらいだろうか、飛行機のエンジン音が近づく。ここに来たときと同じ様な小型のプロペラ機でパイロットも同じ大きくて真っ黒なサングラスもしている。八人乗りの飛行機にギリギリいっぱい乗り込んで、ナイロビに向かう。
バスが発車するが如くいとも簡単に離陸した。ガイドにはUS15$のチップを渡し、今までの礼を言う。今日も雲が多く気流は安定していない。パイロットのすぐ後ろの席に座っていたので、滑走路を走り、飛び立つまでを正面から見れる。ガタガタ、ゴトゴト、ちょうど自転車ででこぼこ道を猛スピードで走ったときのような安定の無さだが、まっすぐ進もうとするパイロットのテクニックはすばらしい。アップダウンを続け35分の飛行でナイロビ・ウィルソン空港に着いた。
雲の中に入って、突き抜ける時、青空がパーッと現れるのは爽快だった。が、全体的にはハードなフライト。サービスで回されたキャラメル味のキャンディーのせいもあって気分が悪い。飛行機で酔うことなどほとんどない僕も、少し酔った。
小さなウィルソン空港から市内へ出て、安宿の集まる市場の近くで、ホテルを探す。
ホテル・エンバシー。サファリツアーの勧誘が声をかけてくるが、マサイ・マラから来たんだと言うとスーッと引いてゆく。まず部屋をみせてもらい、まぁ1泊だし、しかも明日は早朝5時にここをチェックアウトして空港に向かうわけだから、料金だな、料金。「OK、気に入ったよ、っで、いくら?」と聞くと、一泊、シングルルームで1000シリング。う〜ん、1300円かぁ。やめよかな、と思いつつ、言い訳を探していると、一気にドッと疲れて、まぁ、いいか、なんて。これも歳かな。「次」へいく気力を失って[日本円換算で物事を考える]という最悪な事態に、この時の僕は陥った。ケニアの物価で考えないと!とは、わかってはいるけど。結果、そこに決めた。
リノベーションをしたところなのか、ペンキ塗りたての匂いが充満している。これは結構きつい。これをもって改装済みという付加価値をつけているのかもしれない。そういえば、下の階は工事中のような改装をしていた。とりあえず、二度目のナイロビ市内に出る。エンバシーのホテル前はゴチャゴチャしており、ビジネスマンも小綺麗なカップルも、そしてストリートチルドレンも行き交う。真ん前にシティーマーケットがあるので、値札のない店で民芸品や食料などを交渉しながら買う。いわゆる露店。すべては交渉次第。なのに、僕は大きな失敗を犯してしまった。マーケットに入る前に、なんと僕は、物価チェックを忘れていたのだ。ここで売っている品物が他ではどのぐらいか。ブラブラを見歩いてから行くべきなのに。初歩的ミス。それというのも、アフリカン・クラフトに目がない僕は、入口ちかくの露店の前の、その「品物」に吸い込まれるようにマーケットへと足を踏み入れ、声を掛けてきた若い男性にあれやこれやと聞いているうちに「タバコをくれたらグッド・プライスで売るよ」と、ありきたりな事を言われ、タバコくらいはいつもあげているので、彼にもあげる。と、奥からマダムが出てきて、木彫りのブレスレットやネックレスを見ている僕に、ドンドン説明をはじめる。とりあえずお土産にネックレスを三つ買おうと思って、いくらか聞くと、奥につれていかれ(このマーケットでは値段交渉は決まって狭い奥行きのない店の一番奥で行う)、紙に1500シリングと書かれた。2400円!!??。お話にならない。「いくらなら買うか書け」と言われるが、なにせ物価が分からない。とりあえず「この同じネックレスを八個買うから1500シリングで」というと、2400と紙に書かれる。まぁ、僕の強引な交渉もどうかと思うが、この拘束感が嫌だった。失敗したな、失敗したな、とこの時になって悔やんだが、時間も状況も進んでしまっている。
「もういいや」と思って店を出ようとすると、腕を捕まれ、100シリングずつジリジリと下げてゆくマダム。こうなったら、絶対に1500までは譲らないと構える僕は、何度も何度も「帰る」ふりをしては一気にさげさせる。
ついにはマダムがおれ、ネックレス8個を1500シリングで購入。やった、と一瞬思ったが、それはどうなのだろう。これって高いのかぁ?1つ300円。その後、例の若い男性がグッドショップを案内すると言い出すので、それは放っておいて近くの店をブラブラ見る。この時の気持ちは複雑だった。「やった!」と「やってしまった?」という気持ちのメルティング・ポット。まぁ、考え込んで立ち止まってもしょうがないので、晴れた気持ちで他を見る。と!またまた興味を引かれる。今度は本命の「木彫りのクラフト」。マサイ族をかたどっている。
さっきからついてくる若い男性は、「この店はグッド・プライス、タカクナイ」と、まるで俺が連れてきてやった、くらいの顔をする。「コンニチハ、ヤスイヨ」が、このマーケットの東洋人に向ける合い言葉だ。この店の店主はたのしいおばさんだった。本当に色々見て値段を交渉する。計算機を持ち出し、数字をはじく。その半額くらいからこちらは交渉をスタートする。小さなマサイ族の木彫りの人形4つを買うことに決め、交渉、スタート。
まずは1500から始まり、僕が500を計算機に打ちだすと、「お〜」という表情をして“You kill me”なんて言いながら自分の左手を首に持っていきスライドさせる。っじゃ、いいよと「帰る」ふりをすると、決して僕を逃がさない店主は、「アイム・ユア・ママ」とかなんとか、訳のわからんことを言い出し、また店の奥につれていっては必死で値段を提示する。僕はすべて日本語、その店主もタカクナイ、タカクナイの連呼。次々に値下げした料金を打ちだした。
「この人形は細いけど、石みたいな堅い木で造っているからベリーストロング」と店主が主張。いやいや人形に「強さ」なんて求めてないよと、僕が帰りかけると、じゃ、じゃ、グット・スメルと、ついには「ウソ」までつき始める。そんな様子を見ていた、軒先に座った若い女性が、声を出して笑う。“マーケット”。ぼくはこうゆう雰囲気が大好きだ。
結局、940シリングで買った。1500円。1000シリング札しかなかったので、それで払うと、そばにあったサイの人形を差しだしておつりだと言う。60シリングでサイの人形一つか。マサイの人形は一個あたり235シリングしているのだが、ほとんど大きさの同じサイの人形が60シリング。本当に値段なんてないのだな。
彼らには生活がかかっていることを僕はちゃんと認識しているので、べらぼうに値切りまくることはしない。が、ちょっと調子に乗って、ここで2500シリングも使ってしまったのには、顔が青くなるほど焦った。明日、国際空港まで1000シリングするらしいし、残り金額は1200シリング。また明日は早朝だからということで1000シリング以上とられるかもしれない。200シリングも使えないとなると昼食、夕食がしのげない。まだこの時点で午後2時だった。こうゆう時に限って喉は乾くし、おなかも減ってきた。とにかく、シティーマーケットをウロウロする。
民芸品のエリアと食品のエリアに分かれており、食品のエリアは完全に地元人の為のもの。魚、果物、肉などが蠅の飛び回る中で売られている。鶏を屋台風に焼いて売っている店があったので、その美味しそうな匂いにつられ近づいたが、ちょうど公衆トイレの前でハエの数が半端じゃなかったので、さすがに引いてしまい、買うのは止めた。屋根のある倉庫の中にも所狭しと出店がある。日本語で話しかけられる事が非常に多く、さんざん「マヤク?、マヤク?」とアジアで「ハシシ?」と声をかけられるが如く言い寄ってくる。ここケニアでエイズになったって言うより、マヤクにはまったって言う方が余計イケてないような気がする。
平日のナイロビ市内には、人が溢れ、スーツを着たビジネスマンが行き交っていた。ストリート・チルドレンの攻撃も軽くあしらう余裕ができてきたし、あってないような信号の横断にも慣れを感じる。ナクマット・スーパーマーケットがエンバシー側(ケニヤッタ・アベニューの東側)にもあったのでそこで買い物をしようと向かっていると、一人の男が近づき、案の定サファリ・ツアーを勧誘してくる。こちらも案の定、「マサイ・マラからここナイロビに来たんだ。」というと明日はどこへ行く?とタクシーの運転手みたいなことを言ってくる(タクシーの運転手はたいてい、そこかまでお客を乗せると次の予定を聞き出し、その客の次の目的地、たとえば空港など、まで行くからとホテルなどにピックアップに来る)。明日はジンバブエに行くから国際空港に行くと告げると、空港まで800シリングで行くタクシーを紹介すると言う。朝五時に行く事も告げたが800シリングと言い続ける。まぁ、明日どうしてもタクシーが早朝だからと1000シリングでは行かないと言い張ったら困るのでセーフティにホテル・エンバシーに泊まっている事を告げる。じゃ朝5時にホテルにピックアップに来ると言い、彼がジョンと名乗ったので、僕も鈴木と名乗った。ちなみにナイロビでは道でタクシーを止めることはほとんどできず、タクシー乗り場までこちらから行くことになる。そのままジョンというありきたりな名前の男と別れ、ナクマットへ。
シティーマーケットで買った袋は店内に持ちこむことはできず、横のブースに預けるように言われる。そのために入り口にガードマンがいたのか・・・、と気づく。本当にこのスーパーはなんでも売ってる。食料はもちろん、薬局も電気屋も兼ねている。生活品全てが揃ってしまう。そこで水とスプライト、チップスとチョコで127シリング、200円。ブースに預けてあった袋をピックアップして、再びシティーマーケットに行く。例のマダムの店に行き、「ここ、タカイヨー、全然ヤスクナイ」と、他で見聞きした物価を盾に言うと、「タカクナイ、タカクナイ」とまだ主張し、平然な顔でなおも売ろうとする。何の興味も沸かないものならサックリ無視して立ち去るのだが、どうも僕のツボをついたようなモノばかり示してくる。
石の取っ手で木彫りのスプーン2本。僕が少し大きめのスプーンを持ってまた交渉をする。断固100シリングから一歩もひかない僕。何度も何度も計算機に料金を打ち込んで、交渉をする。店主は「ユー・アップ、ミー・ダウン」と手振り付きで言う。相当にくたびれた様子を見せるのは僕だけで、店主の勢いはすごい。なおも「いくらなら買うか料金を打て」と無言のまま差し出された、おそらく計算する機能を一切使いきらない計算機に僕は「100」と打ち続けた。最後の最後には100シリングで購入。「買った」というより「勝った」という意味合いが強い。そのままホテルに戻り、パッキングをし直して、日記を書いていた。
明日も早いし、早めに寝ようなどと思っていると、ドアがノックされた。出てみると、「日本から来た者なんですけど、フロントで聞いたら他にも日本人が泊まっていると聞いたので、情報交換でもしようかなぁと思って」という男性が入ってきた。名前はK君。東京理科大学を今年卒業し、この4月からNECに就職が決まっているという。フロントで誰が泊まっているかを簡単に言ってしまうところが、ナイロビらしいということだろう。
彼はそんなに旅経験のないまま、ここアフリカにやってきたようで、三週間かけてケニアの村々をバスで移動しているらしい。おとといナクルからここナイロビに戻ってくる夜行バスが大きな事故に遭ったという。夜間運行するバスはスリが多発するようで、要注意してピリピリしていたと言うが、突然尋常ではない揺れがバスを襲い、そのまま道路を外れ密林に突っ込んだという。夜中なのでスピードは140キロ程出ており、微かにカーブする道も、街灯なんてナイロビでもないのに、それ以上の田舎の道ではあるとは思えず、真っ暗な道を対向車もないまま調子よく飛ばしに飛ばしまくっていたのだろう。その事故は想像を絶する程ひどく、足が曲がってしまって血を流しながら叫んでいる人、ドライバーはフロントガラスを突き破って前へ飛び出していたという。用心して、人の集まっていない後ろの座席にいたK君はそれが功を奏したのか、眉間と肘に傷を負っただけで済んだという。もちろん警察がどっと押し寄せ、そんな中彼は必死に事故証明を書くから警察署につれていって欲しいと主張したらしいが、想像するにこのような非常時、日本人の警察に日本語で説明するにも一苦労するほどだから、ましてやスワヒリ語の外国とかんがえると、空回りしていたのだろう。現地警察は彼に「とにかくナイロビの日本大使館に行け。」と言われたそうだ。そのままバスを乗り換えナイロビにある日本大使館へ行き、色々な手続きを済ませ、ナイロビ市内の病院で傷の手当をしたという。結局治療費が6000円程かかったらしく、それは保険で下りるのだが、なにせ事故証明がない。日本大使館職員がなんとかナイロビで発行できないか交渉してくれたが、もう一度ナクルに行かなければならないらしく、その往復とナクルでの手続きを考えると丸一日を要する。彼の旅も残り少ないらしく、早く次のタンザニアに入りたいという。それも十分に分かる。結局泣き寝入りだが治療費は実費と決意したらしい。旅行社に勤める僕がもっと良いサジェスチョンをしてあげたいが、保険なんて海外で使ったことがないし、最近クレジットカードに付随している簡単なモノだけでちゃんとした海外保険なんてかけていない。詳しいことは分からないが、帰国後でもなんとかなるのでは?と他人ごとなので、それくらいだが、もし僕ならとケース・スタディをしてみた。
大使館サイドで事故証明までは行けないまでも、そうゆう事故があったという証明をしてもらって、そのバスの乗車券を持って、帰国後交渉しに行くかな?でもよく分からない。彼の場合、大使館の人が当時現地のナクル警察に問い合わせたら「彼は何を言っているか分からなかったのでとにかく大使館に行ってもらった」との回答だったらしい。
"Ceartification of this accident"くらいの単語が出てくれば状況は少し違ったかもしれない。彼と話していると、今日も、市内のビルで爆弾騒ぎがあって大騒ぎだったと話し始めた。あ、そういえばと僕も思い出し、警察やカメラなんかが集まって大騒ぎしてたな、と。そっか、あれは爆弾騒ぎだったのか。こわい、こわい。
僕の部屋で話し続け、ご飯でも食べに行くか、ということになった。大学を卒業するといっても、僕と歳は同じだった。僕の残金は少ない。が、こういう出会いは斬り捨てない派の僕としては、途中で少しだけ換金した。シティー・マーケット近くのアメリカン・バーに。チビチビ飲もうかと思っていると、K君はガツガツ食べはじめ、あ、これはまずいと思った僕は、さっさとバーを出て、スーパーマーケットで安く大量に食糧を買った。ホテル・エンバシーにあるレストランにそれらを持ち込んで、ビールだけを注文して、スーパーで買った食糧を食べる。もちろん店員たちはしぶしぶだったが、ここは可愛らしい笑顔で乗り切った。だって、お金、ないんですもん。話はK君ペースで、彼が泊まった、ここケニアの安宿として有名なイクバルで出会った日本人についてだった。「ケニアシリングがないからって、週末どこにも行かずに文庫本4冊読んでたっていうんですよ、意味ないですよね。」とイクバルで出会った日本人について批判じみて言う。そうゆう価値観の違いについては、解決の糸口なんてないと僕は思っている。むしろ、違う価値観はできるだけ受け入れた方が、より深くなるという考え方の持ち主である僕は、少しアドバイスじみて彼に熱く話してしまった。僕自身、価値観を異にする人の全てを受け入れている。それは、僕ならしない、とか買わないというだけで、その人の価値基準でやったり、買ったりすることはなんの問題もないのだ。違った価値観の中に、新たなる自分の価値観を見出す事だってある。などなど、少し長居したので、僕はミート・カリーとチャパティを注文した。180シリング。
いきなり、「スズキ」と呼ぶ黒人がレストランに入ってきた。振り返るとジョンだった。町中で会って、タクシーの交渉をした彼だ。横にマカウとかいうドライバーも来ており、すっぱく800シリングで空港まで、そして早朝5時ね、と念を押して、明日のピックアップを正式に頼んだ。正直、このジョンの行動はかなりびっくりさせたれた。一人の客を空港まで運ぶことがどれほどの価値なのか?1ヶ月の給料の何分かの一になってしまうのだろうか?ホテルで頼んだので、そのタクシーのドライバーともめ出したら、朝からたまらないので、ジョンにその事を言うが、「これは俺と君のビジネスだ。ホテル側にはノット・ビジネス、つまり関係ないと言う」。酔っていたし、まぁいいやと思ったりもした。明日は明日だ。
ジョン達が帰ってからもK君とダラダラと話していると、レストランには客が居なくなっており、夜9時を過ぎていた。明日は5時にホテルを出るので、4時起きだ。K君と別れ、シャワーも浴びず、部屋に入ってすぐに眠った。相変わらず、ペンキ臭い。
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