バウハウス・デッサウ校舎
(ホームページより)
ここ最近、特に「デザイン」の善し悪しが【売れ行き】を左右するといわれる産業界。「小型化・軽量化」に走り、機能満載へと移り、最後は価格競争になりつつある中で、パッケージとしてのデザインが商品の力となり始めている。そんな流れになっているらしい。パソコンしかり、携帯電話しかり。
それに先駆け、第二次世界大戦前から活動してきた芸術学校・バウハウスは、名前だけなら誰でも知っているというほどに有名だ(ぼくも含めて)。が、一体それは何?と言われると案外知らない(もちろんぼくも含めて)。今回、ドイツ国外では珍しいほどの点数が一挙に集結すると言うことで、「バウハウス・デッサウ展」に足を運んだ。
上野公園の、青い麒麟の彫刻がなんとも哀愁深く建つその奥の、芸大美術館。緑深い都会のオアシスに、鮮やかなオレンジの看板がたつ。バウハウス。ドイツ語がいいのか、フォントがいいのか。ぼくはルフトハンザ航空のデザインも大好きなのだ。下記にあるバウハウス・デッサウ校の校舎に書かれた文字もなんとも良い。極めて単純で、なのに絶妙なバランス。良いなぁ。
バウハウスについて。1919年、第一次世界大戦の終結を受け、ヴァイマール憲法を制定したドイツは民主国家への道へと進む。その都市、ヴァイマールに誕生したのがバウハウスで、初代校長は近代建築の四大巨匠の一人、ヴァルター・グロピウス。生徒数を制限し、芸術家1人、技術職人(マイスター)1人がペアとなって生徒の指導にあたった。確実な技術と機能的なデザイン。商品すべてにこの考え方を浸透させていく。最終目的は「建築」。展覧会でも公開された「ヴァイマール・バウハウス校舎校長室」の見取り図(アイソメトリック図)は、用途に合わせた色分け、そして一目で全てが掴める視点からの線図によって描かれている。灰皿、ランプ、タンス、椅子、そして「家」に至るまで、この力強さ(デザインと機能)が行き渡っている。
バウハウスが、デッサウへ移ったのが1925年。このデッサウ時代に校長がグロピウスからマイヤー、そしてミースへと変わっている。ミース・ファン・デル・ローエは「バルセロナ・チェア」で有名な芸術家で、ぼくのモットーでもある「Less
is more, more is less」の言葉を残した人。彼の時代、バウハウスはデッサウから私立となってベルリンへと移動する。それが1932年。翌年にはナチスによって閉鎖された。つまり、1919年から33年まで、わずか14年間の活動しかなく、それなのに現代生活(モダン・アート)にこれだけの影響を残しているのが不思議なほどだ。
展覧会会場に入ると、バウハウスが出来た時代、世界ではどんな動きがあったのか。そんな品々が陳列されている。一つひとつ見ていくと、「芸術」というのが、なんというかモコモコした華美に溢れていた時代から、確実に変わったと実感させる「スマート」さがある。そして、椅子が数脚ならぶ。シンプルなライン、機能的な配置。何処までも美しい間の取り方。極めつけは、マルセル・プロイヤーの作品。まだ学生だった彼が設計した居間ダンスは、バウハウス実験住宅の中に置かれたらしい。木材とガラスの使い方、色の使い分け、そして全体のバランスと機能性。これだけのモノを「学生」が作るということに、当時は驚きさえあったそうだ。(後に、マルセル・プロイヤーは芸術家として大成する)。
国立で始まったバウハウスは、その成果を発表するため展覧会を何度か開いている。そのカタログデザインも斬新で、シンプルとインパクトを兼ね備えた、なんというか「さすが」なものとなっている。現代でも遜色はまったくはない。
一枚の紙に線を引いて空間を生み出す。
その空間を縦横無尽に「想像」させるモノがあり
色や形の組み合わせで、見るモノの視点に動きを付ける。
「抽象的な赤い人物」(カール・ヘルマン・ハウプト)のデザインは、それらの意味で驚くほどに良かった。カンディスキー、クレーなど、大芸術家が講師陣として「教えた」成果は、これほどまでにはっきりと受け継がれたところに、バウハウスの意義があると思う。
芸大を出ても就職口がない。そんな話を、ぼくが大学受験をした95年には聞いたことがある。が、産業プロダクトデザインがこれほどまでに重要視され、機能美をシンプルに、そしてインパクトある見せ方で提示することが望まれる今、バウハウス的な「芸術と技術」を兼ね備えたモノ(者・物)の存在が必要になっている。そんな時代が、また、来たということだろう。