敏感は〇で、過敏が×なら、鈍感は?
2020年2月29日
何事も、過ぎることはよろしくない。及ばないのと同じだとか、むしろ「それ」以下だとか。昔から、中庸を超える行き過ぎには、手厳しい。例えば、手洗い。外のばい菌を洗い流すために行うというのを、何度も何度も何度もやっている人を見ると、こわい。もう、手なんて洗わなければいいのに、とすら思う。きっと彼(彼女)には、「見えない」はずのばい菌がうじゃうじゃと見えているんじゃないか?なんて思えなくもなく、そんなことをしてたら手荒れはするし、手洗いの雑な人(私)に、敵意すら感じているんじゃないか?とまで思ってしまう。これは、完全なる負のサイクルである。

では、外のばい菌に対して、行き過ぎず中庸であるというのは、どの程度なのか。どこまでやるのが正解なのか。外出から戻ると手を洗う(1回)。この1回を「必ず」行うことは、ばい菌に対して敏感(中庸)なので「〇」。だけど、何回も何回も洗うのは過敏(行き過ぎ)なので「×」。洗わないのは、論外。と、いうことになるのだろう。だとしても、「それは、手を洗っているというより、濡らしているだけだろ」というようなテキトウな洗い方は「×」。洗わないよりちょっとはマシだから、論外ではないけど、「×」。みたいなことを云々考えていると。

ふと、思い出すことがある。私が、ウズベキスタンに行ったとき、サマルカンドの安宿で出会った日本人のことだ。彼は、つくばでウイルス研究をしているので、ベッドにどのぐらいのばい菌がいるか、実際に顕微鏡で見て「知ってしまっている」という。だから敏感にならざるを得ないとおっしゃり。新聞紙を一枚引くだけでも、効果があるとか、ペットボトルに口をつけて飲めば、ばい菌が入り、それを持ち歩くときに「振られる」ことで、ばい菌は倍々ゲームで増殖する、とか。

安宿に泊まるバックパッカーの中で、新聞紙とマイカップが必須というのは、私には衝撃だった。必須と言えば、何かと便利なスーパーの袋とか、飛行機にあるようなふにゃふにゃの枕とか、そういうのはあったが、マイカップである。そして、「そんな使用用途」の新聞紙、である。この感覚は、私にはなかった。

では、この感覚の無さは中庸(〇)で、マイカップは過敏で「×」か?いや、そんなことすら気にかけない感覚の無さは、鈍感で、論外なのか。線引きが実に難しい。ただ、気持ちが「疲れる」かどうかで、それが「過ぎているかどうか」の基準とするなら、人それぞれ、過敏のラインは違う。

今、中国の武漢市から世界中に広がっている新型コロナウイルス感染に、世界中が敏感になっている。名古屋では、夫婦でハワイに行き、帰国して空港から市内まで電車に乗ってウイルス感染した。そのご婦人が、そうとも知らずジムに行ったら、ジムのトレーナーが感染。さらに、お土産でも渡したのか、接触のあった知り合いまでもが感染した。こうなると、このウイルスの感染力に恐れ、敏感にもなる。

そもそも感染者の多い東京で暮らしていると、羽田空港から品川駅に向かう京急で、もしくは浜松町へ向かうモノレールで、スーツケースを引く中国語の会話には、敏感になる。これは、中東あたりで日本人が、「あ、コロナだ」と指をさされたり、あからさまに口を覆われたりする(朝日新聞天声人語より)のに似ているのか(いや、それよりましだろう)。まぁ、私は京急でも、モノレールでも、そっと、その方たちから距離を保とうとするのは確かだが。

折しも、インフルエンザ流行の時期でもあり、花粉症も始まる時期。とにかく、マスクがない。ないよ、ないよと言われるから、不要不急の人も買い、余計にない。朝8時半開店のドラッグストアに、8時33分に入店しても、売り切れたといわれる。え?何?入荷したの、3枚なの?と言いたくなる(実際のところは、開店前から並んでいるらしい・・・)。どこにも売っていない。そんな最近の空気感の中でも、マスクもせずにゴホンゴホンしたり、くしゃみを豪快にする(なぜかおじさんが多い)のを見ると、ほんと勘弁してほしいと思ってしまう。それは、汚ったねぇ〜な、というのではない。気だるくなり、発熱し、そして死んでしまうかもしれないからだ。

香港にいる友人が、先月、「香港の街をマスクなしで歩くと、犯罪者をみるような目で見られる」と言っていたのを思いだす。そうなのだ、この時期、マスクもせずにくしゃみする「ヤツ」は、その飛沫で、気だるさ、発熱、死、すら呼び込むのだ。犯罪者だ。と、ここまでくると、過敏で「×」なんだろう。

ウイルスの発症元・中国では、年に一度、政治のすべてを決めるような全人会が異例の延期になった。日本でも、厚労省が「ここ2週間が拡散するか、それを防げるかの瀬戸際」という旨の会見をした。その会見を受けて、Jリーグは、公式戦の延期を決定した。会社によっては、完全にテレワークに変えるところも出てきている(資生堂など)。電通は、本社ビル勤務の男性が新型コロナウイルスに感染したので、本社勤務全員、5000人を在宅勤務にした。

厚労省の会見から、首相がイベントの中止要請、さらには全国の小中高校、特別支援学校のすべてを3月2日から春休みまでの休校を要請し、実質的に来月の始業式まで学校が休みになる。そんなの敏感な反応とは逆に、毎朝、東京は、多少減ったとはいえ、まだまだ満員電車だ。すでに、東京から来た「ヤツ」が地方都市ではウイルス扱いされる、なんてことも聞くが、これが笑い話であるうちに、なんとか収束してほしいと願いつつ。東京オリンピック中止なんてことになったら、戦争以外では初のことなんじゃないだろうか。そんな心配は、杞憂で、過ぎたる、であってほしいと思う毎日の生活にも、気持ち先行で。何かが変わろうとしているし、止めようとしているし、停滞してじっとしてよう、としている。

渦の中心で、これこそが過敏なのか、敏感なのか。なのに・・・マスク無しでゴホンゴホンと鈍感な論外な人もいて混沌と。

さて、論外である鈍感とは違って、鈍感なぐらいがちょうどいい、ということはないだろうか。過敏が過敏を呼んで「過ぎた」空気感の中での鈍感。強いて言うなら、これが、ちょうどいい鈍感ということになるんだろうが、それは、たぶん敏感である状態と言える。(マスク無しゴホン人のことではない)

つまり、ちょうどいい敏感。ここの「点」をしっかりと身に着けて、何事にも対処したいものである。沢木幸太郎は、『深夜特急』の中で、香港を出て、マレー半島を南下し、そのまま西へインドまで行き。そこから、遥かロンドンのトラファルガー広場まで向かう乗り合いバスの旅の途中、ギリシャあたりで、自分の鈍感を嘆いていた。

最初は張り詰めていた糸(=敏感)が、経験値によって、なんとかなるという自信につながり、その自信が過信になったとき、鈍感になった、と。危険・危機に対峙する自分。なるほど、ここでも自信が「過ぎた」というのが原因であり、結局、敏感(中庸な鈍感)は、過敏から差し引かれた状態にあると言えるのかもしれない。

つまり、敏感であることは「〇」、但し、過敏は「×」。では、鈍感(ちょうどいい鈍感ではない鈍感)とは。それは、対峙したときに「感」するものがゼロであり、無であり、なので、鈍ったわけではなく、無である状態をいう気がする。なので、論外なのである。

なんやかんや、そうやって過敏もダメ、鈍感は論外という、カーリングリンクのちょうど真ん中に置くような「敏感」を常に保つという日々。気が疲れた、と思ったなら、それは少し行き過ぎているので、少々緩めてもいいのかな?なんていうバロメーターにしたいところだ。但し、今の時期は、少し過ぎるぐらいの敏感が、ちょうどいいのかもしれない。

まぁ、敏感の敏は、さっとすばやく、という意味なので、ずーっと張り詰めた状態というより、必要なところで、必要な時に、さっと素早く感じ取ること。これが「◎」なのだろう。



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