地域活性化
2007年03月25日
活性化とは、「沈滞していた機能が活発に働くようになること」(広辞苑)。
駅前の商店街の、古びたアーケードに連なる個人商店。シャッターが下ろされたままの平日の午後。人通りは、ない。そんな沈滞した地域の活性化のために……。
観光客を呼ぼう! よくそんな話を聞く。
確かに、ヒトが押し寄せ、それに伴ってモノが流れ出すと、淀んだ空気がかき回されて、そこに活気が生まれる。店はシャッターを上げてモノを売りはじめ、機能が活発に働くようになる。そして、その地域は活性化する。
私は以前、ある町の役所が主催したプレスツアーなるものに参加したことがある。全国から新聞や雑誌などのメディアを招待し、町の名所を巡り、特産品を振る舞う。新しくできた「箱モノ」を紹介し、映画の舞台だという海岸で記念写真まで撮った。一泊二日。バスに乗せられ、降ろされ、ゾロゾロ歩く「御一行」。私はふと、そんな御一行から離れ、小さなたばこ屋に立ち寄ったことがある。そこで見た光景と、漂っていた雰囲気に、活性化という「プロジェクト」が、あまりにも非現実的に思えたのを覚えている。
とにかく、元気がないのだ。商品にはうっすらと埃がたまり、客が来てもなかなか出てこない。心なしか店内は暗く、棚はガラガラと言ってしまえるほど。「でもきっと、おばあさんがひとりで切り盛りをしているのだろうから、仕方ないか」と、大きな声で「すいませ〜ん」と呼ぶ。と、意外なほど若い女性が出てきて、「はい、2つで620円ね」とかなんとか。「ありがとうございます」と言うとまた、女性は奥に戻って行った。うまく言えないが、これが「普通」になっている所に、活性化の非現実性を感じたのだ。
例えば、時間が止まったような空間には、癒しが伴い魅了される。古びた小さなたばこ屋にも、昔懐かしい駄菓子やヨーヨーが、当時のままのパッケージで陳列されていれば心は躍る。しかし、それはあくまで「そうしよう」という意志と意図で作られたものでなければならない。ただ置きっぱなしの吹きざらしでは、「あきらめ」に似た空間としか思えない。自然、そんな「場」には熱もなく、活気がない。いくらキャッチーな箱モノを建てても、「点」だけでは観光客は来ない。その箱モノが、ブームのように火がついたとしても、ヒトは留まらず、ゴミだけを残して去っていく。やがてブームがさると、箱モノも置きっぱなしの吹きざらし……。
このプレスツアーで、「どうすれば、うちの町に観光客を呼べるか。町を見ていただいた皆さんからアドバイスがほしい」と言われ、ある出版社の編集長が「その町の人たちが楽しそうにしていれば、外から人は来る」と答えていたのになるほどと思った。
温泉や全国ブランドの特産品など、わかりやすい観光資源がなくても、星が綺麗に見えるというコンテンツで人は呼べる。が、実際にそこに行った人たちは、温泉の効能や星の大群に魅了されるのではなく、宿の仲居さんとか、道に迷って訪ねた駅員さんとか、バスで隣り合わせたおばさんとか。つまりそこにいる「人」に魅了されて、また行きたいと思わせる方が多い。ただ分かりやすいキーワードとして、温泉や星を使うに過ぎない。
ハードではなく、ソフトなんだという使い古された考え方が、やはり根本にはある。
ソフト、つまりその地域に住んでいる「人」たちの魅力。それだけがあれば十分か?
そうでない例もある。イギリスの西側にアイルランドという国がある。この国にはアイリッシュ・ホスピタリティと呼ばれる「心意気」があり、実際に訪れ、現地人と触れあうと、なんと親切で温かいのかと感動さえするらしい。が、悲しいことにアイルランドには、エッフェル塔や自由の女神などのキャッチーなランドマークがない。そこが難しいとアイルランド政府観光局の局員が嘆いていた。行けば分かる。そんな「人」の魅力は、広告塔となり得ない、、、のか。
私が思う地域の活性化。特に観光によるそれは、「意図して造り上げる空間」と、その入り口になりうるアイコン的なモノの組み合わせで実現すると思う。時間を止めてみせ、徹底的にスローライフをおくる。入り口になるのは自給自足、とか。きれいな海や星空、でっかい夕日を入り口に、地元の人のホスピタリティで包み込む、とか。
だから、沈滞している地域がまず取りかかるべき「プロジェクト」は、地元の人も知り得ない大きな「箱」をつくるのではなく、その地域に住む人のためのものでなければいけない。市場まで遠いとか、病院が少ない、独り暮らしのお年寄りが多いなどの問題があれば、バスを通すとか、巡回看護や生涯学習のケアセンターを作る。例えば、センターを新しく建てるのではなく、廃校になった校舎をみんなで磨きあげて作れば、その「箱」自体が観光資源となるかもしれない。つまりアイコン的なものまで出来て一石二鳥なのだ。
そんな箱の中で、地元の人が笑い泣き、擦れあって暮らす中に温度は生まれ、それに吸い込まれるように観光客が来る。ある意味で、かたくなに「らしさ」を追求する空間には、そっとおじゃましたくなるものだ。言葉と気持ちを触れ合わせた観光客は、仮に「何もなくても」、その何もないが故に漂う雰囲気に魅了されるかもしれない。ヒトやモノの流れは量ではない。それが機能し続ける限り、温度が生まれ、それは絶対的に魅力的だ。プレスツアーを組んでアドバイスをもらうとするなら、そういう「温かい」地盤をつくってからだと思うし、仮にキャッチーなものがないのであれば、「手」探りで、「手作り」なものを造ればいい。そこにしかない空間を造り上げる。アイコンは、ふと何かの拍子に現れる。中村俊介のように。
そう、まずは今ある位置から「意図」する像を持ち、造り上げることから始めよう。
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