地球を歩き、街をウォークした世代
2008年07月06日
中学に入ったのが1989年、そして大学を卒業したのが1999年。
僕は、中学から大学までを1990年代に生きた。バブル絶頂からその崩壊。CD売り上げは100万枚が当然のように連発し、今では口ずさむことすらできない曲が、消化のいい大豆製品のように入っては忘れられていった。カセットテープからMDへ、ビデオテープからDVDへ、NetscapeからInternet Explorerへ。なんと言うか、今ほど便利すぎず、かと言って不便でもない端境期にあったようにも思う。ハードディスクに音楽も映像もゲームも落とし込んで、超小型のiPodやPSPを持ち歩く以前の、何でも掌で出来てしまう携帯電話ではないポケットベルの、PCですら一人一台ではなく一家に一台、下手をすれば学校でしかPCにさわれない、そんな過渡期とでもいうのだろうか。「おたく」はまだまだ「奇異」で、「世界に誇る」文化の形成へと向かう途上にあった。

「ポパイ」や「ホットドッグ」で外国のモノやシーンをどん欲に吸収した時代が、日本独自のものを形成して、やがて東京や大阪を中心に日本モノが消費物として確立されていった。とはいえ、映画館へ足を運んで見る作品はハリウッドだったし、音楽もアメリカで流行ったモノが時間差をもって日本語化されたものが流行った。

つまり、世界へ向けた発信ではなく、世界からの受信でしかない時代だったと言える(まだまだそういう段階だった)。ファッションは、ブカブカからタイトなシルエットへと様変わりしようとしていた。

そんな中で、ドキドキしながら週末の予定を立て、部活の合間を縫って映画を見たり買い物をした中・高生時代。街あそびには「ウォーカー」が必須だった。東京・関西・東海・九州など地域ごとに刊行されたWalkerはいつからかバイブルとなった。春になれば花見、そしてビーチ、花火、味覚狩り、紅葉、温泉、クリスマス。「ぴあ」が掲載する通なところを、一般化して軽くしたようなイメージを与えた。どこか明るくポップな感じも受けた。グルメから最新スポットまで、とりあえずウォーカーをチェックして予定を立てていた。

90年代後半になると、猿岩石の香港からロンドンまでのヒッチハイクも手伝って?FITと格安航空券なる言葉が一般化され、分厚いAB・ROADをペラペラ捲りながら長期の一人旅へと出る若者が増えた。エアーチケットだけを手配し、後は現地に行って安宿を探す。そんな旅のスタイルが多かった。昨今、大学生は海外に出ないそうだ。若者の旅離れが叫ばれているが、当時、僕が学生時代には(外国語学部なんて場にいた影響も有るのかも知れないが?)回りでは長期休みになれば一ヶ月、二ヶ月の旅の予定を立てる者が多かったのを覚えている。まだ、グランドフロアに店舗が出せないH.I.S.に行っては、南回りの安いチケットでヨーロッパに向かうような。個人的なことを言うと、今でもつきあいのある友達の大半は、世界のどこかの街で知り合った人たちだったりする。そこで必須だったのが「地球の歩き方」。今のようにファーストクラスからスーペリア、デラックスにいたるまでを網羅したホテル紹介でもなければ、フルカラーページでもない二色刷が多かった。だけど、情報は有用だった。マップの誤植が多いとか、値段が全然違うとか、そういう【細かいこと】はおいておいて、読んでるだけでハラハラさせる、なんというか「実感」を伴わせてくれたのだ。「情報」が向こう側にしっかりと見えたというか。街を歩いて、歩き方をもっていれば、あ、日本人だ、と気付いたぐらい。欧米のバックパッカーがロンプラ(Lonely Planet)を見ている感じを、日本人は歩き方で代用していた。

「地球の歩き方」とウォーカー誌。今、インターネットと携帯の普及で広く薄くなった「情報」社会に至るまでの、ギリギリの「良さ」があったと今になれば思う。それは、

「手にとることの出来た最後の世代」ということだろう。

僕は90年代をそんな風に思っている。今、2008年になって情報はインターネットと携帯に完全にシフトした。ドが付くほどの不景気の中でこじ開けた就職先も、多くの企業が変化を遂げる中、過去の例にしばられず新しい方へとシフトしている。日本の文化は、特にサブカルチャーと呼ばれる分野において世界へと発信するまでになった。映画もアニメもしかり。それは「光」によって即時に発信され、不特定多数へと受信される。コロコロと転がっている「普通一般」なものを含めて、何がヒットするのか分からない、ある意味難しい時代だ。(だれが電車内で出会った一人の「持てない男」の恋愛話に、あそこまで惹きつけられると思っただろうか)。書籍の「持った」感、LPやCDの「ジャケ買い」、航空券の半券をスクラップして、パスポートのスタンプをじっくり眺めるような、、、なんというか「パッケージ」として手にすることのできる実感。それが、今ではない。

それは有る意味で寂しいが、そんな時代に逆戻りすることはないだろう。ダウンロードすればいい音楽を、CDで買うか?今でこそウェブブラウザにプラグインしている電子雑誌も、いつかは誌面としてウェブ上に、それもマック、ウィンドウズ関係なくペラペラ捲る感覚で登場するだろう。画面を指でスライドさせればスムーズに次へと進めるのだから。

今の、このコンテンツ至上主義?とでもいうべき時代しか知らない若者が、「持った」感や「ジャケ買い」に再び回帰するなら、今現在の僕らが想像だにできない「新しい」何かを生み出すに違いない。そういうことを「期待」して、90年代を懐かしみ、2000年に入って変わっていった一つひとつを便利に使いこなしたいと、思っている。

そもそも、時代を10年単位でくくるのも、もはや時代遅れなのかも知れない。井上陽水が歌うような「10年はひと昔」という時代こそ、昔話のようにさえ思える時代に、僕らはいるのだろう。


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