エコ & ピース
2007年06月02日
世界規模で協力し、温暖化を防止しようと約束した「京都議定書」。確か、あの会議中、ぼくは会場の近くで大学生をしていた。そんな前の、それほど昔の約束が、全然はたされぬまま時間だけが過ぎて、「ポスト京都」なんて「次」の約束すらできず仕舞いの今。そうこうしている間にも地球の温度は上昇している。長野県でみかん栽培が盛んになったり、瀬戸内海でしか捕れないサワラが青森県で大量に水揚げされたり。オゾン層とか、南極の氷といった「遠い」話ではない、身に迫った「危機」がすでに、ある。

エコロジークラスでいきましょう。

このコピーは、吉岡秀隆さんの声音と相まって、非常に分かりやすかった。東京で育った少年が、両親の離婚を機に「ど田舎」に連れてこられ、電気も水道もない地で生活をする。「テレビがなくてどうやって生活するんですか!」と訴えていた少年がもっと大事なモノに気づき成長する…。純。そんな彼の優しい声で「エコ」が発せられると合致した。

他人に優しくすると、回り回って自分にも優しい周りとの関係が築け、だから幸せになれる。「他人」をそのまま「地球」に置き換えても、これは同じ事が言えるだろう。

エコは優しさだ。

だから、地球に優しくすると、それは自分の暮らしも幸せになれるということ。正直、環境にそれほど関心のなかった僕ですら、本気で考えるほどに、地球は危機なのだ。

ただ、この「幸せ」というのが掴みづらい。空気はいつまでもきれいだし、太陽の下で洗濯物を干すとふんわりと気持ちがいい。生まれた時からずっとある「当たり前」の地球・環境が、つまり幸せの像なのだ。それを徐々に破壊していることに気づかず、今までの暮らしが「不便」になるならわざわざやらないとエコへの転換を拒否し続けていると、取り返しのつかないことになる。のに、まだ気づけない。

地球は想像以上にデカい。今日、明日、少しばかり自分たちの暮らしを変えたところで目に見えて何かがかわる訳ではない。それは良くなるときも、悪くなるときも。だから……、ま、いいっか、となる。

例えば、昨日イラクで、はたまたアフガニスタンで、今度はタイの南部で、自爆テロが起こって25人が死亡、なんて言われると「すぐにでも止めろ!戦争はんた〜い、ラブ & ピース」と結集できる。が、地球速度の中で「先」が想像できないと、人間が考え出した兵器などより、何倍も大きな力で「僕らの暮らし」を壊しにかかるのに、それに対して素早い反応ができない。

今、世界の動きを見ると、京都議定書にサインをしなかったアメリカ合衆国が、自分の国の主導で別の案を世界中に発している。相変わらず自国主導で行きたいんだなぁと思う反面、誰であっても頓挫したままの京都宣言が少しでも動き出すならどんどん引っ張って欲しいと思う。そこまで危機的なんだ。不十分だった京都宣言をしっかり補充して、本当に大急ぎで対策を講じないと。

戦争を繰り返してきた歴史の中で、今まで欧米を中心にいくつもの「ムーブメント」があった。ベトナムへの参戦に反対した若者たちが「ラブ & ピース」と叫んだのは有名だ。今、そのムーブメントのように、「エコ & ピース」と叫んでみてもいいのではないだろうか。

どうも環境やエコという問題について、言わば生活に余裕のある「ハイソ」な人達先導のむきがある。インドでは裕福層に「ベジタリアン」が多いというが、それに少し似ている。

早急の問題として「戦争反対」はするのに、もっと大きな規模で地球が壊れ、僕らの生が終わろうとしている最中でも、「余裕」のある人だけの声にとどまっているのが現状だ。
ロハスやスローライフのような、そういう何というか「ゆうがな暮らし」の延長でエコをとらえているのではないか。ハリウッドスターや世界的音楽家、芸術家たちが、まるで「一つのスタイル」として表現しているようでは間に合わない。明日に迫った問題として環境のことを考え、そして地球を守るためにエコを実行する。

先述の通り、僕はあまり環境問題に関心がなかった。それは、あまりにもゆったりとした地球速度の中で、「ずっと先やろ?」という勘違いがあったからだ。だけどそうじゃないという現実は、ゴア元副大統領が告白しなくても、NGOやらNPOが声高にさけばなくても、スーパーにいって産地をみれば分かるレベルまでに迫ってきた。ずっとふたをしてきたこの問題に、僕は「エコ & ピース」を宣言する。



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