今年も全国高校野球、夏の甲子園出場校が出そろった。相変わらず、高校生の部活動の中で、野球だけは別格扱いだなぁ、と思いつつ、そういう僕も高校野球は好きなのである。毎年甲子園まで足を運んでは真っ黒けに焦げている。もうさすがに「高校生のお兄さん」たちがいつのまにか自分より年下になっていた、などと厚かましいことは言わないが、それでもどこか「いつまでも」そういう硬さ・強さのようなものを高校球児には感じることが多い。それは、一つの目標に向かい、言ってみればそれだけを達成しようと努力し、ほとんどの時間をそれに費やした結果。いうなら「完成」の姿だからそう感じるのだろう。
完成?と、ここで疑問に思う。僕はかつて、アメリカ西海岸の田舎町で高校生たちと野球をしたことがある。彼らは、フォームなどお構いなしに飛ばす、速い球を投げる。冬はフットボール、春はバスケットボール、そして夏はベースボールと、クラブをかけもちする若者たちだった。そんな彼らを見て感じることは強さと『しなやかさ』。アスリートとして、途上であり、どこまでも上っていきそうな可能性を秘めているように見えたのだ。
「完成」、そんなゴールなどずっと先にあった。
エリート学校という言葉が最近あふれている。
トヨタ自動車、JR東海両社の会長らの構想で2006年4月開校予定の「海陽中等教育学校」がその中でも一番知名度が高い。来たる時代、次なるリーダーを育てるためのエリート学校として英国の名門私立イートン校をモデルに教員資格をもった寮長が住み込んで指導する全寮制学校だ。
8年連続となる甲子園出場を決めた高知県代表・明徳義塾高校。この学校も全寮制で、奇しくも同じイートン校の名前を出してモデルとしている。
高知県外の選手が多く、それも全寮制の閉ざされた社会の中で生活する彼らが、高知県代表として戦う姿に県民は応援できるのだろうか?という疑問はひとまず置き、どうも明徳義塾へ行くのは「甲子園へ出るため」で、強豪校が多い大阪などを避けて入学する姿勢が「高校球児」らしくない、というか。星陵高校4番松井に対して5連続ファーボールなんてことも、確か明徳義塾だったような気がする。
甲子園へ出るというゴール。そこに向けて費やす高校時代。16歳から18歳の「柔軟」な時期に「一つ」を詰め込む生活。良い悪いは分からないが、僕は嫌だなと思う。100人を超える部員の中でベンチ入り出来る18人。その中のレギュラー9人。野球という定規だけで測られる「上と下」。敗者はその鬱憤を寮生活という閉ざされた中でどう発散するのだろう。それは想像しただけでも苦しい。
このカチカチに固まった「硬さ」は、柔軟なこの時代を生き抜いていけるだけの術を持つのか?
先述の海陽中等教育学校は次世代のリーダーを育成すると謳う。「?」。まず、リーダーとは種々様々なものの考え、性格、特徴を持った「人間」を引っ張っていけるだけの器を意味する。年間の学費が300万円という学校に通えるだけの生活水準を持ち、なおかつ受験ラインを超えた人間が集まり、寮生活の中で触れあう限られた大人たちの影響を受けながら育つ。そんな、リーダー。コンピューター相手ならまだしも、彼らに「人間」を引っ張ることは難しいだろう。中・高校生の時期は、むかついたり、シカトしたり、されたり、ふられたり、恋したり、校則違反したり。まぁ、若気の至りを繰り返して徹底的につまずく時期なのに。つまずいても立ち上がれる、貴重な時代なのに。
真っ暗な部屋で、ヒソヒソと「談合」する姿が、若き才能あふれる「エリート学校の生徒」から漂い始めるまで、これは偏見覚悟で言わせてもらうと、そう時間はかからないだろう。
大学の全入時代、エンジェル係数(子育て支出の割合)の増加、犯罪、礼儀知らずと、子供はこれからどうなるの?と心配は心配である。が、本質的に変わらないだろうし、なにも「閉じこめなくても」いいと僕には思える。先日、駅のホームで唾を吐き、横を通り過ぎようとしたサラリーマンにかかった。「あっ、すいません」と頭を下げたダルダルズボンの高校生に、そのサラリーマンは無言で立ち去った。すいませんと咄嗟に出た言葉を、スルーしてしまう社会がある以上、そこでガツンと叱れない現実がある以上、エリート学校だろうが、公立学校だろうが、子供の子供はいつまでも子供であり、成熟することなく「損」と「得」が包み隠されて流れていく。
じゃ、自分に子供が出来たとき、エリート学校に入れたいか。そう聞かれると「入れないよ」と返答を逃げるか、「子供の意思に任せる」と曖昧なことを言ってしまいそうな自分がいる。
勝ち負けではないこと、それも「いつが」勝負なのかも分からない人生の中で、少なくともその「エリート学校」と呼ばれるところに入っただけで「勝ち」ではないことを明確に言い切りたいと思う。8年連続で甲子園に出る高校の野球部に入部しても、名門大学に入学しても、大企業に就職しても、そこにいることがエリートなのではなく、何をするかで決まることを忘れずにいたい。と、そんな所に一度もいったことのない僕は、思ってみせるのである。
選ばれ、指導的地位にいる人びと。エリートとはそれを意味するらしい。そのための「養成所」という考え方が「学校」と結びつくかどうか。やはり、場所じゃなく時間や経験がそうさせるのだと思う。
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