2003年8月29日  

妊娠中絶



妊娠中絶について考える。それを禁止することと、同時に出てくる悲劇。
それは歴史映画のワンシーンで、松嶋菜々子もデミ・ムーアも演じていた。子供をおろすことの自由。それが、現在の日本では認められている。しかし、ある夫婦の悲劇がアメリカで大きく伝えられると、〈胎児への殺人〉というキーワードで意見が割れ始めたという。妊娠した妻へ暴力をふるった夫。それによって胎児を死亡させたが、夫に課せられた罪は傷害だけ。「殺人罪」も適応すべきだと、紛糾しているらしい。
感情の高ぶりで一方向に突っ走りやすいアメリカの国民性は、イラク戦争でも十分承知している、それはどんなに否定をしても、揺るがないでしょう。

確かに、この夫には、それによって胎児の命が奪われるということが分かっており、それはつまり、胎児を殺人したのだという考え方。十分に理解できる。なら中絶は?という話である。
それに是非をつけるつもりは毛頭ない。が、そういわれてみるまで中絶について深く考えたことのなかった自分に気づいたのでここに記すことにした。

子供を「作る」、または「できた」「できてしまった」。
思わず、夏休みの宿題で?とチャチャを入れたくもなってしまう。

作るものなのか?できちゃうものなのか?
っで、「どうするぅ〜?」と相談しながら考えるモノなのか?
もちろん、「運ばれてくる」とは思ってませんが…、
ある意味、作って失敗したからやり直したり、修正したり、作り物ではないという考え方からいったら「運ばれてくる」といってしまいたくも、僕の場合、する。

子供って不思議なもので、夫婦の危機も溶かして、くっつけてしまう存在になり得たりする。それは、子供が単にそうなのではなく、夫婦間の関係がまず「あり」、その結果生まれてきた子供が二人の間をしっかり繋ぐというか…。だとしたら、生まれてきても幸せにはなれない夫婦の関係の上でできた子供をおろす事は、
やっぱり「自由」なんでしょうね。
でも、と強く思ってしまいます。
生まれてくる子供が幸せかどうか、そんなこと生まれてこないと分からない。
胎児からすれば、その「幸せ」になるチャンスを受動的に拒まれてしまうことになる。

だから自覚をもって子供を作りなさい。どちらかといえばそうゆう風に考えがちだが、あえて言いたい、
『子供ができたら自覚を持ちなさない』と。

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