2003年9月22日
「先」に「生」きる
以前、凶悪犯罪に手を染める少年が増えており、「自分の子供が被害に遭わないか」という心配をしていた親たちが、いつの間にか「自分の子供が加害者になりはしないか」と不安を抱えるようになっている、と書いたことがある。
今朝の朝日新聞で、教師に対するアンケートで、生徒指導に自信はありますか?という問いに対し、「自信がある」と答えた小中学校の教師は、中国で73%、英国で47%、そして日本では6%だった。6%である。日本の小中学校教諭が何人いるのか分からないが、6%である。正直、驚いた。確かに、「やや自信がある」などという、五段階評価の「4」にも取れる回答を用意したために、そちらにドッと流れた教師も多いのだろうが、きっぱり言い切れるセンセイが少ないのは危機的?ではないだろうか。中国の73%というのも、少し違うような気はするが……。
とにかく、子供に対して、親もセンセイもそうゆう状況。確かにこの数字や風潮だけでは語れないが、著しく異なった結果でもないだろう。
【先に生きている】者として、親もセンセイも…。もっと言うなら、近所に住んでいるおじさん、おばさんが、よその子を叱るなんて昭和的な現象は消え去って久しい。
手探りで、どこかオドオドしながら、教育するというセンセイ(先に生きる者すべて)達の中で、子供は相対的に学ぶ量は減るのではないだろうか。いつからセンセイは正しいことだけを教えようとガンジガラメになったのだろう。こうだ!と思った事をドシドシ言えばいい。叱ればいい。注意すればいい。子供は、そんな幾多の注意の中から、本当に正解だと思う行いや考え方を選び取って成長していけばいい。
つまり、「こうすべき」という形骸化したような、全部正解のような「コトバ」ばかりでは、重要な鍵をかけ忘れ、暴走してしまう子供に追いつけなくなるような気がする。
ただ憂うべきことは、そんなセンセイの中に、近所で遊ぶ子供達に対して『元気がいいねぇ』と微笑む余裕を無くし、『うるさいな』と感じてしまう人が多いことだ。そんな人達が「先」を「生」きていると、子供の脅威は収まらない。
堪忍袋をまず持とう。大人はいつからかそれをあきらめと同時に捨て去っているように思う。どうせ…、言ったって、と。その堪忍袋に緒を締めて、自分の中に適正な限界を設定する。それを超えたときには、ドシドシ叱ろう。
叱られた中から、何かを感じ取って、選んだ「善」を大事に育っていってくれる子供を信じよう。などと、、、書いていると一気に歳をとったような気がする。
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