2003年10月19日  

宇宙
ロシアの宇宙船ソユーズが打ち上げられた。そこに乗り込んだロシア人、アメリカ人、スペイン人の3人が、ドッキング予定の国際宇宙センターに入り、200日間の宇宙実務を行う。
現在、宇宙センターにいる飛行士は、今回のソユーズで地球に帰還する。

この話で、僕はふと思った。

このサイクルで宇宙センターの飛行士が行き来をするということは、もし突然、「宇宙センターには金輪際行きません」なんてアメリカとロシア(有人ロケット打ち上げ国)が言い出すと、今回旅立った3人は戻ってこられないのだろうかということだ。
そんなはずもないかとは思うが、仮にそうだとしたら、僕が幼い頃「迎えにくるからここで待ってなさい」とデパートの一角で置き去りにされたときの不安を思い出す。

戻ってくる、という約束に「必ず」がつくと安心するようで、余計に不安にもなったものだ。このわざわざついてまわる「必ず」には、いつもあやうさを感じてしまう。
デパートと宇宙空間という差は、幼少の僕と宇宙飛行士との間にある差で相殺されるだろう。つまり不安に大小はないとして話を続ける。

デパートは宇宙だった。
幼い僕はエスカレーターにさえ、一人で乗り込む「勇気」が必要だった。変な匂いが充満している一階フロアから、ゾロゾロ出入りする忙しいエントランス。
そこを抜けると足早に目的のものを探す父と、ウロウロ物色する母。いつも両手をひかれているという安心感がなく、あげくの果てにどこかどこだか、宙に浮いたような一角に置き去りにされる。ここで遊んでなさいと、黄色いクッションがやけに並んだおもちゃ売り場だったり。最初の五分、確かに僕は楽しかったし、夢中だった。超合金にラジコン、ファミコンのソフトにでっかいキンケシ。と、気がつけば一人。どっと不安になった。あんなに宝の山のようなおもちゃ売り場でも、口うるさい両親がいないことへの不安が勝り、そしてカラフルな売り場の景色も、どこかで黒かったという記憶。
臆病な僕は、たぶん二、三度「ピンポンパンポ〜ン、迷子のお知らせをいたします」というあの放送ブースにもお世話になったことがある。迎えに来るのは決まって父だった。もしかすると、僕が迷子だと知らせる放送よりも、母にはお歳暮の品定めの方に夢中だったのかも知れない。

父に手を引かれてエスカレーターを降りるとき、ドッとこみ上げたあの安心感。

今回ソユーズで地球に帰還する宇宙飛行士にも似たものがあるのではないだろうか。決して口にはしないし、もしかしたらそんなこと思ってもないかもしれない。しかし、ここはあえて「必ず」と言わせてもらえば、ずーっと深いところで暖かかったりするだろう。それを、僕は、安心と呼ぶ。

考えてみれば、幼少の僕にとって解読不可能な漢字で示されたフロア案内は、アインシュタインの頭の中で空想された「宇宙空間」と同じだ。宇宙は謎だらけなのだ。
突然、考えもよらないことが起こる。「2001年宇宙への旅」の、あのシーンを思い出す。そんな宇宙空間で置き去りにされて、夢中で「実験」をこなしていく飛行士。5分で不安になったおもちゃ売り場での僕と同じように、200日間というのが限界なのだろう。

宇宙はまだまだデパートのように遠い存在で、そこにあるものは高価であったり、即実用性がなかったりする。しかし、今後、この国際宇宙センターに、このほど有人宇宙飛行を成功させた中国が加わったと仮定すれば、地球規模で宇宙を考え、売り場作りを整えていくことになる。みんなは、一年に一度、綺麗な服でデパートに出かけたという、何十年前の銀座のように、一生に一度、大金をはたいて宇宙旅行にでかけるという時代を迎えるだろう。が、それを超えると「コンビニ」のような手軽な存在が埋め尽くすことになるという仮定も十分に成り立つ。

僕が心配するのは、宇宙という空間に、コンビニのような近くて便利で、いつでも開いてる空間ができることだ。地域の中にとけ込むコンビニでは、便利に払う代償も大きい。ゴミに強盗に未成年者の喫煙・飲酒、騒音などなど。
宇宙が人間にとってコンビニになる時代。こんどはどこに理想的な空間をもとめるのだろう。光のように早く動く未来人は、もしかすると、他の銀河系にきちんとその代替箇所を持っているのかも知れない。
けれど、地球を守ろうと環境問題に躍起になっている僕ら人間は、決して、宇宙でそれを繰り返してはいけない。軍事目的で宇宙を利用する?そんなのとんでもない考え方だ!
と、この狭い部屋で僕は、ひとり不安に憤っている。

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