「捨てる」という概念をステル
                                                 2004年2月14日

いらなくなったモノを、余ったものを、捨てる。今、僕らはその行為自体に神経をとがらせ、ポイっと捨てるのではなく、じっくり考えて、決められた通り捨てている。すべて、リサイクルのため、それは、地球の環境のため。ドイツやデンマークなど、その分野において先端を行く社会へ、後進のニッポンは、お偉いさん方を視察に派遣したりする(どぶに金を捨てるように……)。

太古の昔から「捨てる」という行為は変わらない。『貝塚』がその代表例だろう。かならずしもすべてのモノが自然へとかえっていくわけではない。

ならなぜ今、こんなにも神経を尖らせるのか。
今朝の朝日新聞に、南米の氷河がこの100年のうちに溶けて湖になったという写真が載っていた。
「だからだ」。

つまりは環境が破壊され、その破壊された環境が我々人間にとって危機となるから。だから、リサイクルなのだ。氷河が溶けると海面が上昇して、今の陸地が海に沈む。大気圏を覆うオゾン層が破壊されると、紫外線がそのまま地上に降り注ぎ、「お肌」に悪い。

気温の上昇とオゾン層。

まず始められることは、二酸化炭素を出さないこと、らしい。そして、二酸化炭素を生成する木々を伐採し過ぎないこと。それらは、なんでもかんでも、「環境問題」なのだ。
排気ガスも工場の泥水も。牛のゲップも焼き畑農業も。
 
捨てる。
この概念をステルことも「環境問題」なのだと、そんな風に言われてもう何十年になるだろう。
未だに、僕は、ポイっと捨ててしまう後進的なニンゲンである。
分かっているが、行動がついてこない。

それは、捨てるという考えの中に、ゴミ箱という大きなキャパを持つハコがあるので、そこへ入れることが捨てることだと考えているからだろう。

なら、ゴミ箱に捨てる、という「ゴミ箱」すら無くせばいい。「引き出し」なのだと考えてみることにする。もっと言えば「ゴミ」という言葉も概念もステル。

新聞の広告、キャベツのヘタ、きれたインクジェット、去年の流行の色のシャツ。ビールの缶、ティッシュペーパー。醤油の瓶に乾電池、蛍光灯、14型の映りの悪いテレビ。

みんな、僕にとって、ゴミだ。だから、捨てようと思っている。が!捨てることは置き換えること。洗濯した靴下とワイシャツは、入れる所が違うように、先述のすべても違うところへと置き換える。まず、それが分別でありエコだ。発展して、ペットボトルはビニールとキャップと本体を分別する。
いきなりペットボトルをバラバラに分別しようとするから、まぁいいや、って電車に置いたままにしたりする。やりなさい、ということが多すぎると、簡単なことまでやらなくなる(つまり、駅のゴミ箱に捨てる、という最低限の行為さえもしなくなる)。

捨てるのではなく置き換える。いらなくなった人から、いる人へと、形を変えないまま移動する。
それこそが本当のリサイクルだ。一度溶かして別のものに造り替えることでは解決出来ない本質的な問題。

自然は驚異にして脆い。いや、ニンゲンの発展がその驚異にも増して無謀にデカイ。すべては「捨てる」という不要の概念から来ているのではいかと思ってしまう。いらないから捨てたり、消したり。
それが殺したり、撃ったり、落としたり。そう、なる。

トウモロコシで出来たプラスチック、太陽エネルギーで走る車。「エコ」。大袈裟な資金が必要な大企業のPRに踊らされることなく、まずは、捨てるという概念をステテみません?


な〜んて、決して、僕は地球の未来を憂いて日々の行動に反映させているタイプのニンゲンではございません。すいません。

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