ゲーテッド・コミュニティ
2008年05月04日
フェンスや壁で囲み、ゲート(門)からのみ出入りできる住宅地(コミュニティ)。これがゲーテッド・コミュニティ。アメリカ西海岸などで多く見られるこれらコミュニティには、パブリック(公共)では安全に対して不安を感じる富裕層の人々が住んでいる。

門番が常駐し、居住者以外の出入りを制限する。

「東ヨーロッパでは壁が次々と倒れていく時代にあって、ロサンゼルスのあちらこちらで壁が作られているのだ」(マイク・デイヴィス『要塞都市LA』より)

アメリカに存在する様々なコミュニティをレポートした著書『アメリカン・コミュニティ』(渡辺靖著・新潮社)の中で、ULIから2000年の「卓越した新しいコミュニティ賞」を授与されたカリフォルニア州コト・デ・カザのゲーテッド・コミュニティをレポートしたものがある。それによると、ロサンゼルスから南へ約100kmに位置するこの地域は、裕福で保守的なことで知られるオレンジ群の中にあって、アメリカで最大規模のゲーテッド・コミュニティらしい。東京ドームの約400倍、東京・港区とほぼ同じ広さにもなる。「ゲート(門)」は4つあり、警備員は24時間常駐、コミュニティ内は警察と警備員の両方が巡回している。ただ、ゲート内は「私道」あつかいのため、飲酒運転などで検挙することはできない。テレビモニター、デジタル自動警報装置、消防署までゲート内に完備するこのコミュニティでは、最近になって「ゲート付近が混雑する」という理由から、住民が訪問者を事前にウェブ登録するシステムまで開発されたらしい。

ここまで読んで、「???」と思うことも多いと思う。

つまり、道路や公園、川や運動場など、共有されるべき公共物が、なぜ「そのコミュニティのもの」のようになっているのかである。ゲートで遮断したエリアに家があり、その家を買うと住民になる。その住民にだけ使うことが許されるのか?公共のものまで……、と。が、そういう共有されるべき資源までを法律的に認めているのが、ゲーテッド・コミュニティの画期的な点だと著者・渡辺靖氏は言う。

う〜ん。アメリカ的というかなんというか。

もともと同じ場所で育んだ「歴史」に薄い移民国家ならではの、防御というか、もっと言えば、時代に逆行した極端な「村」感覚というか。信頼関係の鎖を断ち切ってしまうほどの「恐怖」が実際にあって、それを守るには「自衛」するのみと考える。そこで信頼関係をより強固にしようとは考えず、「だから危険分子を閉め出そう」という発想になる。自分の身は銃すら持って守らないと、誰も守ってくれないというのが根本にありそうだ。

そもそもゲーテッド・コミュニティはなぜ存在するのか。それも最近になって増える傾向にあるのか。理由はいくつかあるだろうが、端的にいえば「質」の確保と、「危険」の回避だろう。土地柄、ヒスパニック系の移民が多く、あまり裕福でない家庭の子供が公立学校などに通う。一方で、裕福層は自分の子供を「そんな公立校」には通わせたくないと考える。税金をよりたくさん払っているのだから、質の高い学校に通う権利がある、と言い出す者までいる。コミュニティを作り、他を閉め出し、そのコミュニティの子供たちが通う公立学校をつくる。そこで「質」を確保しようとしているのだ。もう一つは治安の問題。犯罪の多さに反比例して警官の数は不足がち。そんな背景から自分たちの地域だけでも、とセキュリティ面を強化しようとしているのだ。犯罪者が塀の中(刑務所)にいた時代から、被害者になりたくないものが塀の中へ、と。

自分の家にセキュリティ・システムをつけて守っている人は日本でも多い。外部から侵入する「危険」を家の中から守る。それがもっと進んで?家の周り、地域社会に存在する危険からも守ろうとする「セキュリティ・システム」がゲーテッドなのだ。

ぼくは、このコミュニティが万全でないという結果を読むまでもなく、「これでは無理だよ」と思っていた。事実、窃盗や破壊行為などは統計的に見て減ってはないという。

ドーナツ化現象という大都市に見られる統一した姿で、より安全を求めて郊外へ出て行く裕福層がおり、その郊外には「成り金」的に裕福層入りした人達が住みだした。そんな郊外も、いつしか治安が悪化し、さらなる郊外へ。市街地から100kmも離れた所にゲートで囲んだ安全地帯を作る。そんな動きが「安全でない」のは、『今ある危険分子』しかみていないからだとぼくは思う。

排除し続けて形成したコミュニティには、「それだけで安心」という変な誤解が生じる。さらに、機械任せのセキュリティでその偽の安全を神話にしてしまう。自らの手を用いず、触れず、ただただ理論上の安全。「だから」安心ということには決してならないのに、だ。

もちろん、システムは必要である。危機管理する上で、機械を用いたシステムが、ヒューマン・エラーを補足するのに有用なことは航空・鉄道などの面で実証されている。が、コミュニティとは生活する場所だ。いろんな要素が混ざりあって、それで形成されていく「生きもの」だ。盗人は、生まれた時から盗人なわけではなく、まして、盗人のいない地域だからといって盗人にならないわけではない。肝心なのは、盗人がいる地域で盗人から身をまもる術をつけるというか、盗人にならないための仕事や道徳を教えるというか。人は生まれ、育ち、社会に出ていく。この「道」の中で、カゴの中にいられる期間なんて本当に短い。のに、ゲーテッドで本当にいいのか?

様々な危険分子が入ってくるかもしれない危険性こそが、そのコミュニティを強固にするという「根本」に立ち返るべきなのではないだろうか。世界があまりにも近くなりすぎて、映像コンテンツでライブすぎて、リアルがバーチャルになりつつある中で、目の前の「被害」を、同じようにしてまるでバーチャルに回避しようとしても、それは無理だ。国境ですら、機械的に処理しないと流通スピードに間に合わない。そういう「現代」に逆境するゲーテッドには疑問を持つ。

結論、囲むとするなら、地域の人達との強固な「信頼関係の鎖」でするべきではないだろうか。それは時に汗臭く、多少は面倒くさいだろう。が、忘れた頃にやってくる天災にそなえ、堤防を築いた昔、そういう作業の一つひとつに「鎖を強める」効果があったとぼくは思うのである。



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