芸術という仕事
              2004年5月8日




芸術が仕事として成り立つ歴史の中でパトロンという存在は欠かせない。ルネサンスで花咲いた芸術の大輪は、水も光も土も、大金持ちの王侯貴族が与えていた。と、言っても過言ではないだろう。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチにロレンツォ・デ・メディチがいたように。
折しも、この「芸術」と「金」をリンクさせる事象で、二つの大きな動きがあった。
一つは、ピカソの描いた『パイプを持つ少年』(1905)がニューヨーク、サザビーズの競売において史上最高額113億円で落札された。少し記憶をたどれば、ゴッホの『農婦』もゴッホだと分かった時点で何百倍にも跳ね上がった。芸術の価値は金が決めるのではない。そう突っぱねてしまいたい僕の目に、本当の芸術が分かるほど鮮明なものはない。と卑下するでもなく確信している。
もう一つは、フランスでのお話。何かとお騒がせなフランスは、首相が交代したり、公立学校でスカーフを禁止しているだけではない。フランスでは、1960年代から常勤が難しい俳優や音楽家、舞台技術者らに仕事がない時期も一定の収入を保証してきた。それが、広範囲(テレビ局の臨時雇いまで)になったため、保証水準を下げざるを得なくなり、それに猛反発した舞台関係者の組合は、昨年7月のアビニョン演劇祭やエクサンプロバンス国際音楽祭を爆竹やラッパの騒音で中止させた。そして、今度の標的は「カンヌ国際映画祭」だ、と表明した。(朝日新聞)
自分の職場環境をよりよくするためのストライキ。このGW期間中、アリタリア航空のストライキで大迷惑を被った旅行者も多いはず。言ってみれば今回のカンヌ標的表明もそれに近い。そうされたく無ければ今まで通りの水準で保証しろ、という人質にも似ている。

僕はこう思う。
芸術を愛し、それを手にいれたい、近くにおいておきたい。そのためなら113億円だって出してしまう、というパトロン的な人は現代にも存在する。ただ、ルネサンス期と違うのは、その芸術が「過去」の人であること。「現在」の人はどうかというと、政府に頼り、当然の権利のように主張し、歴史ある映画祭まで潰そうとしている。これは、芸術に生きることの出来る人が欠乏しているのか、それを支える養分が不足しているのか。結局は、芸術も仕事だという現在、今回のカンヌ騒動も不思議ではないのかもしれない。

いや、待てよ、と僕は思う。
ルネサンスほどの大きな時代の変化を外して考えると、芸術はいつも仕事であり、コマーシャリズムの中にあったのではないか。ゴッホが貧しい生涯を送ったように。であれば、温室の保証に頼っている現段階で、もはや、芸術は金であり、金が生活を支え、ゆとりは余剰分のいくらかで、少数の人の手に渡ることになる。そのゆとりにのみ、芸術が入り込むことになるのか。非常に寂しい。村上隆は、奈良美智は、彼らは別格なのだろうか。
「考え方次第で世界は丸かったり、考え方次第で金平糖に見えたり」(THE BOOM)する世の中を四角く切り取った整理ダンスの中で、僕が仮に何を書こうが、そこには、何も無いのかもしれない。
そもそも、仕事という製金マシーンの中でいくつオリジナルができるかということかも知れない。そのオリジナルをできるだけ広めたいという第一義的な目的がある。広がった先に「金」があり、生活を支える「仕事」になる。カンヌ映画祭。それは、オリジナルを見よう、触れようとする「芸術」を根底で支える人たちの眼差しが集中する。それを壊すことの代償は、本当にこの組合の望む所なのだろうか。
仕事なんですから。そう割り切る人がいたっていい、が、それは芸術家ではない。職人という名刺の元でどんどん生産してほしい。果たして舞台関係者の組合はどっち?職人なら保証されることに甘えてはいけないように思える。日本の伝統文化を受け継ぐ職人の多くはそこで喘いでいるのですから。
ここまで書いておいて、締めがそれかよ!というお怒りの言葉を覚悟の上で、、、
「芸術」って何?

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