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軍艦島上陸ツアー
長崎県端島(通称:軍艦島)

2010年05月01日

周囲約1,200mの小島に最盛期は5,300人もの人が住んでいたという炭坑の島、端島。当時、この島は世界一の人口密度を誇っていたという。1916年、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅ができると、その後も棟を重ね、高層住宅の立ち並んだその姿が、近くの三菱造船所で建造されていた軍艦「土佐」に似ていることから通称「軍艦島」と呼ばれるようになる。今、近代化産業遺産群のひとつとして世界遺産暫定リストに掲載されている。

このネーミングにインパクトがある。そして、実際にフェリーで近づくと確かに軍艦のようだった。高台には風呂付き部屋の幹部達の棟がそびえ、島の北端には小中学校もある。病院の横には隔離病棟もあり、当時の不衛生を思わせる。パチンコに理髪店、バーなど、住だけでなく衣食まで満たす充実したコミュニティが形成されていた。とはいえ6畳一間の部屋に家族で暮らす生活。炭坑で栄え、一家にテレビが一台という裕福な暮らしも、やっぱり凄まじいな、と想像してしまう。
フェリーで島の周囲をまわると、顔はもちろん違う。東の方から近づくと、まず桟橋の橋台が見える。どうやって来たのか分からないが、そしてどうやって帰るのかも不明だが、釣り人が竿を垂らしていた。

そして、南の方へ。
高台の幹部棟が目立つ。まずは南端にある探鉱現場や工場、事務所や巻き上げ櫓などが見える。そのまま甲板のように見える広場へ。ここには、周りが海にもかかわらず、淡水のプールがあったらしい。探鉱現場から掘り出し、それを仕上げて出荷する工場群だけに、周りの海は真っ黒だったという。だから、あえてプールが必要だったらしい。とはいえ、当時の子供はたくましく?そんなものは平気でぴょんぴょん海に飛び込んでいたという。フェリーの中で、最盛期の端島の様子を映したビデオを見たが、そこにも飛び込む子供達の様子が残されていた。

そこを越えて西側へ。この角度が一番「軍艦っぽい」と言われている。住居戸数140という30号棟が印象深い姿を見せ、集合住宅がずっと立ち並ぶ。その中には商店街や映画館など、人々が暮らしていた跡を眺めつつ、想像しつつ。で、最大の棟・コの字型の65号棟へ。なんと住居戸数は317。屋上には幼稚園もあったという。その手前には共同浴場も見える。窓ガラスが割れ、朽ちたコンクリートの廃墟。いつ崩れ落ちてもおかしくない状態という説明を聞きながら、強い潮風を顔面に受ける。確かに、吹きざらしの状態なのだ。「いつでも見られる」といった類のモノではないことを実感する。そして小中学校へ戻る途中に病院を通る。当時、衛生状態のあまりよくない暮らしだったことが想像でき、そんな中で、脅威の人口密度だ。火事が一番恐れられていたというが、感染病も致命的だったに違いない。隔離病棟というガイドの説明に納得した。

この島は、もともとは小さな岩瀬だった。それを6回にわけて埋め立て、3倍の広さにしたという。それでも小さな島だ。強風や高波の被害が多く、被害を受けやすい方に人々の生活スペースを、そして探鉱現場は、より被害の少ない方に作られていたという。「人の生活よりも探鉱」という時代だったようだ。

島に上陸するにはフェリー代とは別に300円の施設見学料がいる。そして、6項目からなる「見学における誓約書」も必要だ。そして、見学後、上陸証明書が発行される。見学エリアは3つ。すべて南側の工場現場があったあたりに集中しており、それぞれのエリアを繋ぐ通路から出て歩くことも不可。高層住宅群は、崩れる心配があるので立ち入れない。

ほとんどが崩れたが、当時いくつもあった昇降階段も少しだけ残っている。そして、炭坑夫たちの大きな共同浴場は煉瓦造りの印象深い顔。真っ黒だった炭坑夫は、3回にわけ、まず塩水で、もう一度塩水、そして最後に真水の風呂に入ったという。そう言えば、1974年に鉱山が閉山して無人島になってから、どこかの時点で誰かが残したのだろう落書きもあった。

祠が一番高台に作られ、残っている。プールの跡も、底のラインがちゃんとある。瓦礫だらけの石の中に石炭?もあった。雑草とレンガと、崩れたコンクリート。廃墟と化した島の、5月の晴天の見学は、とても印象深いものになった。