言いたいことを「言葉」にする。それが出来ずに「殺して」しまう。人を「野菜」に例えて、まるでキャベツか何かを潰すかのように表現したのは神戸連続児童殺傷事件の犯人・少年Aだった。殺すのではなく壊すといわんばかりの行為。その背景には、「また直す」という感覚があるようで、殺めることの重大性、そこでプツンと途切れてしまう「全て」があることに考えが及ばない。被害者からすれば、犯人にのみ、更生するという「続き」があることが納得いかない。僕は、妻と幼い子供を殺された本村さんの、元少年に対する死刑求刑の会見を見て、改めて思った。

続出する身内または顔見知りによる殺人事件。先月末、奈良県田原本町で母子三人を放火殺人するという事件が起こった。逮捕された容疑者は16歳の長男だった。

言いたいことを言葉にするぐらい、しかもそれが家族なら、なぜそれが出来ないのか。……分からないと首を傾げる人もいるだろう。しかし、この少年にとって家族は、他人よりも近い存在だったのだろうか。家族構成だけの問題ではない。確かに、彼の家族は継母と、父と、継母の間に産まれた弟妹の四人家族。客観的に見て、歳の離れた思春期の長男が「浮いてしまう」家庭内の光景は容易に想像できる。だからといって、この家族がそうだったとは言えない。言えないが、僕は、この少年が犯行後、民家に侵入してテレビでW杯を観戦中、眠ってしまって逮捕されたというのを聞き、彼にとっては決して近い家族ではなかったのだろうと思ったのである。早朝、思い立ったように家に火を放ち、燃え上がる我が家を振り返りつつ奈良県から京都に移動したのだろう。家の中がどうなっているのか。W杯の結果より、いち早く知りたかっただろう継母と弟妹のこと。彼はきっと、三人が死亡したことを知っていたのだと思う。これはあくまでも仮の話であるが、知っていたとして、それでもなお、W杯をテレビで見ていたという心境。ここにこそ、およそ自分の家族だという考えが、彼にあったとは思えない。

では、彼にとって家族とは。
今、伝えられているところから察すると、それは実父だけだったように思える。小学生の頃から絶対的存在で、かつ自分もそうなりたいと憧れだった父。勉強という評価基準と、そんな少なすぎる接点。そこにすがって進学校に通うも、なかなかうまくいかない「自分」への苛立ち。そこに油を注ぐような父親からの暴力をともなったスパルタ教育。今、ここでは仮定として以上のようなことを結びつけた。そうすると、少年がふと、家に火を放った心境が見えてくるのである。「何もかもなくして、もう一度リセットしたい」というバーチャル。甘え。そんな少年に、父親は、スパルタ教育という油ではなく、愛情を注ぐべきだった。こんなことも伝えられている。友人が遊びにきている時に、長男に命じて勉強させたこともあったと。父親のこの行為は、長男の人格、彼にある世界を、すべて「勉強」という“矮小”なものさしではかっていたとしか思えないのである。父親が彼をそう見る限り、「英語の試験結果」云々という理由が彼に重くのしかかり、この凶行の引き金になったのかもしれない。対、父親に対しての。その父親は生き残ったが。

逮捕された少年が、今回の事件を、どうしてこんなことをしたのかを、ちゃんと言えるのだろうか。一番初めに出てきた「理由」らしきものが、先述の英語の試験結果だ。愕然とする。考えられるのは二つ。一つは、それほどまでに「勉強」というものが少年の全てあり、接点であり、存在を証す唯一のものになっていたという「悲しい現実」。もう一つは、そんなことしか供述できないほど、彼には言いたいことを言葉にするだけの力がないかである。どちらにしても、「悲しい」。

社会に出れば、言いたいことを言葉にせず、どうせ言っても無駄だ、とか、言わない方がうまくいくことなど山ほどある。それが現実だ。そしてストレスだ。だけど、子供が、家庭という「自由奔放」な空間でそれが出来ないのであれば、大人と同じようなストレスを抱えているとすれば、大人のような犯罪を侵してしまうのも致し方ないのかも知れない。

家族にもっと「気持ち」があれば、その気持ちが「言葉」にできる雰囲気があれば。それが、無いという場合も存在するのが現実で、そういう家族で悲しい事件が続出しているように思う。家出したって、独立したって、自分の親はずっと親で、子供はいつまでも子供なのだ。だから、家庭というのは、決して逃れられない磐石の砦などではない。ガンジガラメになって狂気をため込む檻の中でもない。飛び出せばいいし、逃げればいい。家庭の中に「理想的な」温もりを求めるのは、実際問題として難しいという家族もあるだろう。だったら、距離をおくしかないのだ。飛び出しても、逃げても、関係が変わることのない家族というのは、だから重みなのではなく、だから安心なのだと僕は思う。嫌で、嫌で、解決の糸口がないという家庭が今あるなら、その「嫌」が狂気に変貌する前に、ガス抜きをしなければ。

何度も繰り返し、僕はこのエッセイの中で「家庭は聖域」ではないことを述べてきた。そう考えて踏み込むことが難しい現実があることも知っている。だけど、これだけ親が子を、子が親を殺す事件が続出する今、逃げられる場所を確保することが必要ではないか。そうやって手を差し伸べることが重要ではないかと思う。被害者は完全に100%被害者である場合が多い。そんな被害者が、救えるなら、救うためには、もう躊躇はしていられないのではないだろうか。親からでもいい、子供からでもいい、そういう家族があるなら、SOSの意思表示をするべきだ。ギブアップするべきだ、と僕は思う。

本当に言いたいこと。これは誰にも必ずある。それが言葉にできる環境。これが家族だ。笑って泣いて、時には叱って叩いて。暴言もあるだろう、失言もあるだろう。だけど、それを吸収してしまうだけの大きさが、家族にはある、はずのだが。それがない現状にいるのなら、飛びだそう。殺してしまうのではなく、自分だけで、逃げだそう。そうして、いつか言葉にできた時、また分かち合えばいい。少年にとって、いや親にとっても、人生は決して長くはないが、その「いつか言葉にできる時」までの猶予ぐらいは、十分にある。



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本当に言いたいこと
2006年7月2日