2005年9月19日(月)
3日目

デリー→アーグラー→デリー


朝4時半起床。ひどい二日酔いだった。
「あ〜ふづかよいだぁ〜」と、疲れている場合ではなく、少しでも早めに駅に行って何らかのトラブルに備えなければならない。

トイレに座っていると、部屋の電話がなった。フロントのラナさんだった。僕が「明日の朝起きれるか不安だから」と言うと、「大丈夫、起こしてやるから」と言ってくれた昨夜の話通り、モーニングコールをしてくれたのだ。ありがたいが……、紙も少ないので無駄に「拭く」ことなく、中腰で部屋の中に移動して電話をとった。

準備をして「さぁ出かけよう」とすると、部屋の鍵が開かない。もともと開けにくく閉めにくい鍵だったが、鍵穴の中の方でカラカラという音だけが響く。焦る思いと、「いやいや」と落ち着くことのできる自分と、こういうとき、なぜか落ち着ける僕は、いい。

午前5時20分、すでに薄暗がりのなかメインバザールは起き始めていた。真っ暗で薄明かりが点々と灯り、オートリクシャーよりもリクシャーの方が多い。サッサッサとニューデリー駅へ向かう。昨日、なんとなく2階にのぼっていけばプラットフォームに行けるんだな思いこんでいたので、種々様々な「人」に声を掛けられるが、完全に無視して2階へ。

と…、「クローズ」だという。チケットを見せろと言われ、(これがまたオフィシャルっぽい男だったので素直に)見せると、「これは正式じゃない」と言い出す。「は?」。どうすればいいんだ?と聞き返すとツーリストオフィスに行けという。「それはどこだ?」とたずねる。

「アップスティアーズ」。「は?しまってんだろう?」

だめだこりゃと、思いそな男を無視して2階へ上がった。今から思えばここが一番の失敗だった。日本で手配した、それも額面370Rs(1100円)と395Rs(帰り)のチケットを、片道4200円も出してとったチケットを、一瞬でも僕は、「偽物かも」と疑ってしまったのだ。

2階に行くと、一人の男がいて、ツーリストオフィスは閉まっている、チケットを見せろという。チケットの見方さえも分かっていないヤツらだ、今から考えると。正式なチケットを見たことがないのだろう。「これはコンファームされていない」と繰り返す。僕のチケットをしばらく眺めて、座席は?号車は?と聞いてくる。(僕が先回りしてシートナンバーと列車ナンバーを指し示す)。この2階に一人でいた男も、「これは偽物だ」と言い出した。シャタビ・エクスプレス、C1号車、シート50。「その列車はシートが40までしかない」とか無茶苦茶なことを言っていたことも思い出したぞ。この男(小太りな若者)は、親切ぶる。偽物だったらどうすればいいのか、と聞くと「ツーリストオフィスに行け」という。「はっ?閉まってるんだろ?」と聞き返すと、エマージェンシー・ツーリストオフィスがあるという。どこだと聞くと、「来い」という。「チケットをまず返せ」と言うと、「オレはツーリストオフィサーだ。分かったよ、ほれっ」と、僕にチケットを投げた。「なげんなよ」と小声で僕は言う。

1階に降りて、「ほら、あそこに看板が見えるだろ?」というので「どこだ?どこだ?」とキョロキョロした。そしたら、その男は、「もう、来い、こっちだ」と、どうやら連れて行ってくれるらしい。駅前の道路を渡り、狭い路地に入る。確かにツーリストオフィスがあったが、そこの2階につれていかれて、座れと言われたままに従う。しばらくすると、一人の偉そうな男と対面で座らされた。狭い路地の小さな建物の、二階。椅子に敷かれた真っ白いシーツが怪しさ満開だった。

たぶん、この目の前の男は本物のツーリストオフィサーだろう。そういう雰囲気だ。
チケットを見せると、「プラットフォーム1」だと簡単に言った。そうだ、僕はずっとプラットフォームのナンバーをしりたかったんだ。あれっ?えっ?でも……。

「……」やられた。「心配するな」といい、目の前の男はヒンディー語でさけぶ。さっきの若い男がきて、連れて行ってやれと言っているようだ。下に降りると、もう全員が全員胡散臭い。最後に、「連れて行ってやるから500Rs払え」とふざけたことを言い出したヒゲのおっさん。ついに正体を現したか。インド人ごときに負けてしまうオレではない、と自分に言い聞かせ、怒った。僕は、この旅で初めてというほどに強く。二日酔いで、こんなに早朝なのに、僕はその狭い路地の小さなオフィスの一階で、わめいてしまった。

「わかった、わかった。じゃいくらなら払う?」と、まあこんなことを言うので、思い切り睨んでオフィスを出た。出しなに「もう5時50AMだ。間に合わないぞ」と、店内の時計を指さしながら、ここまでつれてきた若い男が言う。ほざいてろ、と僕は路地を駆け抜けた。

この段階で、列車に遅れるとか、また駅で迷うとか、そういう心配よりも、一つ山をこえた、という安心の方がどこか大きく、だから心配はなかった。僕の列車は午前6時に出発する。

全力疾走。ニューデリー駅の前の大通り。今まで、次々くる車やらリクシャーやら人やらでなかなか渡れなかったが、この時ばかりは止まることなく突っ走った。クラクションを鳴らして突っ込んでくるオートリクシャーを止め、前輪をキックして「どけッ、阿保ッ」と八つ当たり……。

人がやたら座り込んでいるスペースがあって、何となく避けて通っていたが、結局、そこがエントランスだった。不思議と、躊躇することもなく、駆け抜けた勢いでそのエントランスが分かり、吸い込まれるようにして入っていった。やっぱり、無心。これに限る。

あれこれ考えると、ろくなことがない。入り口にいた係員(はじめてみたのだが、オフィシャルってこういう格好をしているのか)に聞くと、だだっ広く、いくつもプラットフォームが並ぶ一番手前の、それも目の前の列車が僕の乗るシャタビ・エクスプレスで、C1号車は向こうだと教えてくれた。僕は怒りと勢いをひきづっており、この関係のない、ともすれば、かなりソフトに親切な係員に対して、「向こう?向こうってどこ?わからん」と食ってかかるように尋ねた。これは英語でいったが、相手には関西弁の勢いで聞こえたはずだ。完全に八つ当たりで、相手にもそんな空気が伝わったのが、一気に不機嫌になり、「この列車やけど、これは(目の前の車両を指し)C2、C1はあっちやゆうとんねん」、、、ぐらいの勢いで教えてくれた。

まだはっきり目も覚めてないうちから訳の分からない大騒動だった。ふ〜、、、と深呼吸をして、車内でサーブされる水などケータリングを詰め込む入り口から乗車してチケットを見せる。

まだ心のどこかで「シートが40までやったりして……」と心配したが、50を見つけた。というより60ぐらいまでシートはあった。ほっと一息つくと、汗がどっと出た。

少し経ち、列車が動き出す。なんと、座席が逆向きだった。後ろ向きに進み出したので、「座席の向き、全部逆かよ」と、笑うことも出来た。

ニューデリーの街は、まだ真っ暗だ。

昨日の日記をつけようと日記帳を開くが、怒りがひとまず落ち着くと、僕は余計に二日酔いがひどくなったような気がして、「よくも忘れてやがったなぁ」と、【二日酔い】が襲撃してきたかのように苦しい。列車では、まず1リットルの水と紙コップがサーブされ、続いて新聞。外国人にはHindUStan Timesという英字新聞を、インド人には地元紙を配りわける。続いてトレイにのったティーサービス。チャイを愛する国らしく、ミルクコーヒーなのだが、コーヒーの粉と、お湯だけが入ったポットを個々に配る。揺れに揺れる中でそーっと飲む。熱い、がうまい。紙包装されたのが別にあたので、何だろうと思ってあけると、同じものが2セットあった。

時間をおかず朝食が出される。一切開かなかったが、パンらしい。気分的にすぐにでも眠りたかった。これらのサービスをアテンドするのは、白と黒の制服を着た男性たち。まったく手をつけずにトレイを戻すと、「ど〜してぇ〜」みたいな悲しい顔をされた。ゴメン。


定刻通り朝6時にニューデリー駅を出発した列車は、予定を30分ほどオーバーして午前8時半、アグラ・カンティ駅についた。

朝陽が昇り、少し煙ったように霞み、オレンジと黄色の間のような、そんな光景の中、線路沿いのでこぼこ道を、会社や学校に通うのだろう、黙々と歩いている人たちがいた。そうか、今日は月曜日なのだ。
アーグラーに着き、まず駅で一服。ゆっくりとEXITを出ると、やっぱりか、というものすごい客引き。完全に無視して、プリペイドタクシーのオフィスへ。そこへ向かおうとすると、後ろからIDカードを見せながら、オフィシャルだ、という男性がいて、それも無視してタクシー小屋へ。料金を見ていると、「これも同じだから」と、さっきの男が小さな紙を示し、Full DayチャーターがRs900で、Half Dayが450Rsだった。今夜、8時半の列車でデリーに戻る僕は、時間もたっぷりあることなので、すべて歩いて移動しようと思っていたのだが。

列車が到着してから駅を出るまでかなりのんびりしていた僕は、完璧に客引きたちのターゲットとなっており、それも一人でそれを受けなければならず、僕の周りにはひとだかりができていた。顔、顔、顔がぼくを見ている。バッグス・ミー、な状態。それにしても、インド人は目を合わしてくるし、一度あったらなかなか反らそうとしない。

このまま歩いて移動し続けて、ちょこちょこタクシーを捕まえるよりも、チャーターしてしまった方が良いかも知れない。ちょっとだけ迷った瞬間、ベストタイミングで「Full Dayで450Rs、OK」と、僕についてきた男性が言う。後ろから、年配の男性が僕の肩をたたきながら、「いいから、いいから」と誘う。こういうのを「流される」というのだろうか。

次第に状況が分かってきたのだが、声をかけてきた男性は確かにオフィシャルなドライバーで、後ろからポンポン肩をたたいてきたのが、ガイド。この2人に、一日Rs450を払う。車とガイドのチャーターだ。タージ・マハル、アグラ城などを回って、夜の7時に駅に戻って来るという。この時、何やら「その車はオレが使う、いやオレだ」みたいな、ドライバー同士でもめており、一度乗せられた車から降ろされ、違う車に移った。

車が走り出すと(プリペイドタクシーは白い、ロンドンにあるようなクラシックカータイプ)、年配のガイドが、アーグラーは○%がヒンズー教徒で、○%がイスラム、そして○%がクリスチャン。街の広さは……とガイドを始めた。「……全然ききとれない」、ひどいヒンディアン・イングリッシュだ。歳をくっているせいか、全然改めようとしない。何となく、嫌だな、と感じながら、砂混じりの風が窓から入る中、タバコを吸いつつ、目を細めていた。

タクシーで走るアーグラーの街は、地図上で歩ける、と思っていた自分を打ちのめす、というか。牛もいる、人、人、人、砂。まぁ、歩いても10分もすれば慣れるだろうが、そんな光景が続いていた。車で移動し過ぎているせいか、よくつかめないでいる。ただ、アグラ・カントンメント駅からタージ・マハルのあるタージ・ガンジまでは、車で結構かかる距離にある。車両乗り入れ禁止区域に入ってからも10分ほど歩く。猿、リス、エメラルド・グリーンの綺麗な鳥たち。周囲に広がるシャー・ジャハーン・パークには、緑と清々しい風、1本10Rsから始まって、あげく10本で5Rsにまで下がったボールペンを売る子供の物売りがいる。僕は決して買わない。が、ボールペン7「まい」10Rsと言っていたので、「ほんだよ」と教えてあげる。そうすると、すぐに「っじゃ、8本で…」とすぐに正しく使い出し、最後には、「10ほんまい」と訳の分からないことを言っていた。が、やっぱりこの物売りの子供たちの語学習得力は凄まじい。生きていくための「コトバ」なのだ。カンボジアのアンコールワットでも感じたことだが。

隣で歩くガイドは、オフィシャルなので、物売りをとめることはしないが、僕が入らないというと、すぐに追い払ってくれる。


ついに、タージ・マハルに入る。
タバコは持ち入ることができず、外に預けなければならないと聞いていたので、どうしたものかと思っていたが、チャーターしたタクシーにそのまま置いてきた。ガイドのおじさんの英語(インディアン/ヒンディアン・イングリッシュ)をほとんど理解できないに等しい僕と同様、彼もまた僕の英語を解さない。日本で英会話の先生をしていたというサジャーンに「英語うまいね、ペラペラですね」なんて言われた僕の英語力が、だ。まったく不愉快なガイドめ。

タージ・マハルには、一人で行きたいと言ったのに、「オーOK、OK」と言ったきり、ずっとガイドは付いてくる。入る前に再確認した、「ガイド代は別なんて言い出さないよな?」と。
そしたら、最初、デポジットの意味でさっきガソリンスタンドで渡した150Rsと、夕方(最後)に300Rsの差額、それですべてだといわれた。つまり450Rsなわけで、まぁ、これだけの観光スポットでガイドなしにただ見て回るよりはいいかな、とガイドと一緒に入ることにした。

ここ数年で、過去の僕がそうであったように、最小限の出費、ガイドなんてもってのほかと思いこんでいた自分の考え方を改めるようになっている。ものすごくはまり込んでいる所以外、自分の目だけでみたこと(綺麗、でかい、黄色っぽいんだ)などしれてくる。旅初心者ならその感動も極めて大きいが、これだけ旅を続け、世界を見回ると、どうも限度というか、結局無駄なのだということに気付く。簡単に言うと、ガイディングに耳を傾けることも悪くないというか。

タージ・マハル西門から中に入る。チケットブースは当然のように外国人とインド人でわかれている。オフィシャル・ガイドは無料なので、このガイドの名前、聞いたけど忘れた、は無料。外国人は750Rs(2250円)という破格の入場料。もちろん、それだけ高額の入場料を払っても、一見の価値があるといえばそれまでだが。この料金にはペットボトルの水代も入っている。ペットボトルと、タージ・マハル内で靴にかけるシューズ・カバーが渡される。また、このチケットには、アーグラー城やイーティーマー・ドゥッダウラなど、4カ所での割引もついてくる。

ゲートを入ると、まず、レンガ造りの建物が並ぶ。これは、ムスリムが巡礼に訪れたときのアコモデーションらしい。これも、ガイドがいなきゃ、わからないよな。そこを過ぎると、左手側にメインゲートが見える。このゲートだけでも充分に一見の価値がある。そして、ゲートからのぞくタージ・マハル。この建物ほど、写真で何度も何度も繰り返し見たことのある建築物も珍しい。ガイドはおじいちゃんなので、ものすごく知識があり、「あの木は何?」と突然尋ねても、「何々だ。この葉っぱは薬に使われる」などと、必ず1つ付け加えて説明してくれる。ガイドの鏡、だよな。が、彼の発音が辟易するほどに難解なのだ。

真正面からタージ・マハルを見る。前に流れる水路には水がなく、まだ「ため始め」ていたところだったので、リフレクトするその様を見ることは出来なかったが、午前中のベストタイムに、それも抜けるような青空の晴天のもと、真っ白い大理石のコントラストは素晴らしかった。ゆっくり歩きながら、タージ・マハルへと近づく。ガイドは「写真をとるならいつでもいってくれ」と言うので、タージ・マハルをバックに一枚お願いすると、顔のどアップをとられた。いやいや、全体的な景色と僕を上手いバランスで混ぜてよ…、なんて通用しない。

シャー・ジャハーンが妻(2番目)ムムターズ・マハルのために建てた墓であるタージ・マハルは、隣を流れるヤムナー川をはさんで自分の(シャー・ジャハーンの)墓を、黒の大理石で建てようとしていた。それは実現しなかったが、その建設予定地が見渡せる。丸く円形に見える台座。あそこに「白」と対象に「黒」があれば、さぞ…、と思う。中学か高校か、授業中そんな話を聞いたときから、僕は、ほんとに残念でしかたがない、と思い続けていた。

とにかく、暑かった。良い天気だ。
中国人がここでも多い。考えられないようなダサいポーズで写真をとっている。経済的に進んだかしれないが、やっぱり「田舎っぽい」。十年前の日本人も、そうだったんだろうな。

周りの芝生は綺麗に整備されており、芝生刈りには馬車が使われる。数人が炎天下で新しい植物を植えていた。タバコのポイ捨てなんてもちろんなく、ゴミもない。(タージ・マハルの中に限りね)。とてもインドとは思えない綺麗さを保っている。近づくにつれ、タージ・マハルが黄ばんでいるという風評を目の当たりにすることになる。大気汚染が原因の一つといわれ、その為に車両禁止区域が指定されているらしいのだが、ガイドはあくまで「マーブル/このマーブルの発音もマルボロに聞こえてしかたがない。rを「ル」と発音し、音引きしないのだ/の自然現象だ」と言い張る。今から374年前の1631年に建設が始まり、22年間の歳月をかけて完成に至った。いつまでも真っ白じゃないさ、ということか。

これだけの観光地で、期待度もかなり高いところにあったが、あっさりと圧巻させるだけの、力がタージ・マハルにはある。死ぬまでに一度は見ておきたい、それだけの代物だ。

白の大理石の横に赤レンガのムスリム寺院、そしてダージ・マハル土台も赤色(柵のような箇所)。本物の大理石は触ると「冷たい」。タージ・マハルの壁面には、描かれたのではなく、アラベスクやアラビア文字の型(溝)が彫られ、そこに緑や赤の石を埋めている。ところどころ、その埋めた石がなくなっていたり、新しく埋め変えられたりしている。

それにしても高い。そして、荘厳だ。遠くからのシルエットもよく、近づいてみても、その装飾の細やかさに感嘆する。一つで二度おいしい、そんな感じだ。壁面の大理石に触ってみると、うん、確かにひんやり冷たい。まったくもってこの建物は完璧だと言わざるを得ない。中には、シャー・ジャハーンの妻の墓があり、高さ80m?のドームの天井からランプが吊されている。入り口を入ってすぐの所に、下に眠っているオリジナルな墓を覗くことができ、みんな順番に膝をついてのぞき込んでいた。僕も、順番を待って覗いたが、なんてことはないし、よく分からなかった。タージ・マハル内部の撮影は完全に禁止。ぐるりと中を一周する。

外からの風を取り入れる設計も見事だ。心地よい風が吹く。入り口の真後ろに来たとき、「写真、一枚とりたいか?」とガイドが小声で誘惑した。僕は、「ノー」と強く断る。「そっか、そっか、そうだよな」と、またガイドは歩き出す。オフィシャルで、こうか、と少し呆れもした。

外に出て、東西南北、4面がシンメトリーになった、この正方形ボックスを見て回る。南面、つまり北を向いて見えるのが正面だが、それぞれ対面にあるものが違うので、どこか赴きも違って感じられる。東面の入り口、大きく窪んだ台の上で休憩する。ガイドは階段の上り下りや、炎天下でしごくまいっており、加えてシューズ・カバーの紐が切れてひきずるようにして歩かなければいけないので、とにかく面倒になってか、休憩をたくさんとるのだ。

とても清々しくて気持ちがいい。僕としてもそこにずっと座っていたい気分だった。隣に見えるミナレットには、少し前まで登れたらしいが、若者が飛び降りたため、今は入場が禁止されている。(学生が転落したという事件)。

タージ・マハルを一周する。全ての面で同じはずなのに違った顔をもっている。
それは東西南北という方角、そして時間帯が関係しているのだろう。

ガイド経験の長い彼に感謝したのは、いくつかのフォトスポットを知っていることだ。一人なら気づきはしなかっただろう所で、「ここに立って、カメラを覗いてみろ」といわれ、ビデオのスイッチを入れてカメラモードにすると、ちょっと遠くに写る感じですごく「グッド」なのだ。何年もかけてツーリストから得た情報なのだろう。

ヤムナー川に面した通りを渡る。芝生公園では野良犬たちが戯れ、向こう岸からはバッファローが川を渡っている最中だった。そこでも座りながらぼんやり、バッファローたちを眺める。インドには、野良犬が多い。左手にタージ・マハル、右手にヤムナー川。そこを渡るバッファロー。これぞ、インドという光景と、どこかちぐはくなイメージが「混在」や「混沌」という印象をさらに強めてくれる。

ムスリム寺院、そのムスリムたちのアコモデーション(エントランスにあったのとは別)、そして整備された庭、木々。鳥たちのさえずり。もう一度、正面に戻って、ベンチに座った。特に南部インド、マドラス、ムンバイといった地域からのインド人旅行者が多く、そんなインド人たちに、僕のよこのガイドはヒンディーでガイディングし始めた。ちんぷんかんぷんの僕を間にはさんで。


タージ・マハルを見納めて、また車まで歩く。
物売りをのぞけば静かなものだ。が、路上生活者達が多い。彼らに家族があるというのが、日本の路上生活者たちとの大きな違いだ。人口10億人のインド。彼らはカウントされているのだろうか。まだまだ、増殖中を実感する。

タージ・マハルを出たのはまだ昼前で、20:30発の列車でデリーに戻る僕には有り余るほどの時間がある。アーグラーはそんなに広い街でもない。だからか?というより、それをいいことに、ここからはガイドの企み通りの「土産物屋巡り」がはじまった。

こういうシステム(つまり、土産物屋に観光客をつれていくだけで、ガイドとドライバーにはいくらかのキックバックが入る、直接かどうかはわからないが)を充分に理解はしている。オフィシャルというのは、これが面倒臭い。大理石、スカーフ、シルクの絨毯など、我慢してはおりてブラブラ覗く。サッとくっついてきて、色々説明される。紅茶を出されたりもする。「安い、丈夫」を繰り返し、店員は勧める。高級店ばかりだ。確かに綺麗だし、丈夫だし、仕事は細かいし、日本で買うより安いのだろう。

が、まったくもって興味がないのだ。特に、シルクの絨毯ね。

「安いから」と連呼し、「こんなにいいものだ」と必死になって説明する。黒や緑、そして白の大理石、白はライトをすかす。確かに綺麗なのだが、ジュエリーボックスや絨毯には何の興味もない。たとえそれが10$だろうが、日本で買う半値だろうが、買う気のないモノには1Rsだって出せないのだ。そんな僕に次々と商品を広げて見せる店員たち。「綺麗だね、いいね」といいながら、「ノーサンキュー」というタイミングをはかるのに一苦労だ。3軒、4軒と続く。買う必要はない、エアコンが効いて涼しいから、タバコだって吸いたいほうだいだ。ガイドはきまってそういう。その態度と傲慢さに、ついに堪忍袋の緒が切れた。

「ノーショップ、ノーファクトリー、エニーモア」と叫んでしまった。
ガイドは、分かった、分かった、けど…、ドライバーとガイドの名前を書くだけ、助けると思って……などとなだめ、「だから最低20分はいてくれ」とぬかす。こいつの神経はまったくどーなってるんだ。もう完全にむかついた。

まだドライバーの英語の方が通じたので、ドライバーにも訴えたが、何せ、彼は若く、重鎮ガイドには文句が言えないらしい。確かに時間があるのだが……。


ランチはガイドもドライバーも伴わず、一人でとった。日本人が多いから口にあうとおもった、と勧められたレストランは、アーグラーでも中級からそれ以上に位置するのだろう。店内には、欧米系の客と裕福そうなインド人家族しかいなかった。チキンカレー120Rs、ペプシ20Rs、プレーンナン15Rs。炎天下で食欲はなく、半分以上遺した。腹が痛い。

このランチの前にいったアグラ・フォート(アグラ城)は、入場料200Rs、50Rsがタージ・マハルのチケットでディスカウントされる。アクバル皇帝によって1565年、440年前に建設が始まり、ムガルの反映を極めたシャー・ジャハーンによって増築、彼の幽閉の場になっている。

濠を構え、そこにワニを放ち、城壁との間の木々がうっそうとする場所には野生の獣を放していたという。噴水は電気のない時代に「テコの原理」で吹き上げ、風通しやクーリングシステムまで、考えぬかれている。素晴らしいの一言だ。皇帝の間からは、ダージ・マハルが恐ろしく綺麗に見えて、ミナレットがヤムナー川にリフレクト(反映)している。

ワインが好きだったという皇帝は、屋上庭園のようなものを造り、そこでブドウの栽培をしていたという。ブドウの木が一面に植えられていた跡がしっかり残る。妻のベッドルームには、水をため、そこに風を通すシステムや、キッチン、ダイニングなど、数百年前にこれだけのシステムがあったのか、と驚かざるを得ない。そして、何より、オリジナルカラーがそのまま残っている壁画や柱、天井の模様、さらにカービングが素晴らしい。ただ、皇帝の間以外は、大理石ではなくレンガなので、暑く、そう考えると、大理石がいかに涼しいかということを強調していた。

ガイドは決して悪い人ではない。それはわかっている。僕がビデオを回している間もしっかりウエストバッグを背後から見張ってくれるし、僕が英語のネイティブであれば、アクセントも気にせず彼からの情報がもっと豊富に得られただろう、程に知識量はすごい。ただ、年寄りなので、見ているこっちが可哀想になるほどつらそうだ。そんな中でよくがんばってくれると僕がチップをはずむ気にさせないのは、例えば、こういうことだ。一カ所にどっかりと座り、「カム」と僕を呼びつけ、あそこにみえるのが何々だ、と説明をし、「ゴー」と指示する。そこを見終わって出てくると、また「カム」と呼びつける。また説明をして行け!と手の平をピョンっとかえす。ちょっとでも僕が違う方向にいくと(だいたい僕はこうしろと言われると違った方をやりたくなるのだ)、後ろの方から大声で「違う」と言い出す。そして、自分の英語を理解しないと思うや、同じ事を何度も繰り返し説明する。ガイドすることがなくなれば(何度も繰り返すことにも尽きると)、挙げ句「あれは鳥だ!」とまで言い出す始末。「わかってるわい!」という話である。

裁判が行われていたというコートをみて、ただ、絶対政権だったので、皇帝の判決を聞く、ということのみの場だが、その際、民衆が募っていたという広場でまた休憩する。出来る限り影を歩きながらも、頭がボーっとしてきて、熱射病のようになる。また、エントランスに戻ってきた。アグラ城の門には、ジューイッシュ(ユダヤ教徒)の星(ダビデの星?)、ヒンドゥーのロータスフラワー(蓮の花)、そしてムスリム(イスラム教徒)のドームが混在する。

当時の皇帝の権力の象徴でもある「女達」の広間(ハーレム)もあり、二階に無数にあった部屋には皇帝の相手をする女性たちが寝泊まりしていたそうだ。



ランチの後も、先述の通りの土産物屋巡りを経て、ヤムナー川をわたり対岸へ。アクバル廟にいってほしいというと、それは遠いと拒否され、時間があるんだから、土産物屋よりそっちいけッと怒りかけたが、それよりも…、タージ・マハルのチケットで割引のきくイーティーマ・ドゥッタウラに行くと言い出す。ガイドブックをほとんど読んでいないので、たまたまタージ・マハルとアグラ城の次に書かれていた「アクバル廟」に行きたいと言ったにすぎないが、それにしても時間は余るほどあるのだから、街のいろんな所に連れて行ってやるといいながら土産物屋巡りにひっぱり回すのと、遠いからという理由はつじつまが合わない。まぁ、彼に「つじつま」があればの話だが。

橋を渡る。この橋は凄まじかった。上を鉄道が通り、その屋根下を車、バイク、チャリ、牛車、人、人、人がごちゃ混ぜに通り、だれもがクラクションをならしまくる。オートリクシャーには5人も6人もギュウギュウにあふれんばかりに乗る。秩序、というものがない。道ばたにいる聖なる牛と、牛車としてむちうたれる白い牛の違いはなんだろう。まぁ、聖なるといっても野放しの牛もやせこけ、牛車の牛もやせこけている。どちらにしても辛いだろうが、牛からすれば。

それにしても痩せている。あばら骨といっていいのか、それがむき出しで、表情がどことなく悲しげだ。鞭をうち、クラクションにあおられ早くいけ、という牛車夫が、鬼に見えた。まぁ、彼は彼であおられているわけだから。荷台には「鬼」ほどの荷物が積まれている。

イーティーマ・ドゥッタウラは、ヤムナー川をはさんで、タージ・マハルの反対側にある。
ベイビー・タージという異名をとり、6年という歳月で完成された廟である。数人がここで眠るが、その型は、タージ・マハルに引き継がれるムガル帝国初期の傑作らしい。ペルシャ系の模様や、黄色のアラベスクなど、壁画の美しさが印象的だ。

ここで僕は、ガイドに帰りの列車を8時半PMからもっと早いのかえて欲しいと交渉する。ガイドは分かった、といい、午前中に約束した夕日に染まるタージ・マハルを見る地点(川岸)に行ってから駅に戻ろうと。18:30発のデリー行きの列車があるので5時に戻れば充分だろうと。
少しは気分も楽になり、夕陽を受けたヤムナー川越しのタージ・マハルが見られないのは残念だが、いたしかたない、と思いいち早く駅に戻って、その18:30の列車に予約してほしかった。「じゃ、行こう」と、一応そのタージ・マハルを対岸から見られるポイントにつれていかれ、まだ西日も高いが一枚写真におさめた。

どうも、タージ・マハルといえば真っ白なイメージがあり、下の方に見えるモスクの赤色が邪魔になる。そして、そこが仮に夕映えしたとしても、息をのむほどの絶景になる確率は低いだろうと想像した。まぁ、そう自分に言い聞かせていると言えなくもないが。なので、はやく駅へ!と僕の心ははやるのだった。

昨日の日記もまったくつけていないので、これほど忙しく駆け回ったデリーとアーグラーのことをしっかり記さねば、という気持ちも大きかった。
旅に出て書き留める。それは僕にとって非常に重要なのだ。

……ぢか〜しぃ、
アーグラーには黒い宝石があって、トパーズも非常に有名だから10分でいいから見よう、とガイドが言い出した。完全に拒否し、早く駅にいけ、と指示した。が、分かった、じゃ、名前だけ店にとまって書かせてくれ、とひつこい。呆れてものも言わずにいると、勝手に店に行き、知らないうちに降りろ、と言い出す。こういうところで頑としていられない自分がなさけなくもある。店内に入れられ、まったく興味のない指輪やピアスを見せられる。ここでも安い、安い、と言われるが話にならない。じゃ、スカーフは?どうだ?サリーは?大理石のジュエリーボックスは…。ダージリンティにお香、、、もうさんざん連れ回されてみたものばかりだ。店員の一人に、「お前はいったい何が目的でここにきたんだ」と不機嫌になられたので、「ガイドが勝手に連れてきたんだよ」と言ってやろうかと思ったが、大人げないので止めた。

このシステムでつれてこられ、紅茶を出し、商品を次々に広げて売ろうとする。ナンセンスだ。ただ一人だけ、ペインティングのアーティストという老人と話したときは、かなり買うかどうか迷った。象のマハラジャ行列の細密画。シルクの上に描かれていた。一枚一枚手作り。その老人は開口一番、「広島と長崎に原爆が落とされた。悪いのはアメリカだ。そのアメリカにはハリケーンが今年きた。どう思う?」……、そんな話に僕が正直に答えるものだから、、、その老人アーティストとは長く話した。

誰のせいとか、誰が悪いじゃなくて、僕はただ被害者が可哀想だと思う。それは原爆も、ハリケーンも。諭余曲折を繰り返し、うまい具合に商品を売り込むことを思い出したのか、いろんなペインティングを並べ始めた。その話し方や、彼から出る雰囲気が嫌いではなかったので、少し買おう、と思ったのか。もちろん、スカーフや絨毯、アクセサリーなどと違って、「絵」には興味があったというのが大きいが。


ようやく駅に戻り、チケット・リザベーションオフィスに行く。
ガイドが現地語で力強く交渉してくれることを願ったのだが、フォーマットに希望列車を書いて、行列をかきわけ、順番ぬかしの末、あっさり無理だと言われ、こんな時間から予約はとれないと、それらしい門前払いだ。そう言われるやいなや、そそくさと退散した。

ガイドは列の後ろに僕をつれていき、「インポッシブルだ。嘘だと思うなら自分で聞いてみればいい。この20:30の列車はコンファームされているから、あと3時間半、駅でリラックスしていろ。ルック!ここはクーラーも効いていて食べ物もある…」とふざけたことを言い続ける。

じゃ、あと2時間ぐらい町中を走って!と言ってやろうかとも思ったが、駅でたまりにたまった日記を書くのも悪くないし、それに変更しようとしていた列車はニューデリー駅行きではなく、一駅手前の駅に着くので、そこからローカルに乗り換えるか、オートリクシャーで宿まで帰らなければならない。加えて、エクスプレスではないので、3時間半もかかるらしい。

もう、いいかと、さっさとガイドとお別れしようとした。「ノー、ノー、ノー。バランスの300Rsを払え」と。まっ、それは払うかと300Rsを渡すと、「あとチップ」だと。無視していると、「ティー・アイ・ピー、チップ」だと。通じてるワイ!

むかついて10Rs札を投げると、また「ノー」と言い出す。「50Rs、OK」。これ以上鬱陶しいので、払った。ドライバーは結構いい人だったので、もうちょっとチップをあげてもよかったが、とにかくガイドがむかついた。最後の最後にアクセサリー店に強引につれていったあの老人め、絶対に質が悪い。好きか嫌いで言うなら、嫌いだ。それはインドだろうが、日本だろうが、嫌やという店回りを続け、最後にまだ寄ろうとする根性に腹が立つ。老年なので敬いたいが、やっぱりだめだ。後に気付くことになるが、ここインドでは、ドライバーやガイドという職に管理する、現場から離れるということが少ない。オートリクシャーのドライバーも、体の動くうちは、若いドライバーに混じってクラクションの渦の中を運転している。現役ガイドの老体か。まぁ、ありがなと納得することにした。

駅に取り残されるように放り出された僕は、まず、そのクーラーも効いて食べ物もあるカフェに入り、ペプシを飲みながら日記を書いた。昨日一日のデリーのこと。トイレにいったり、カフェよりも落ち着けそうな待合室に行ったり。3時間半。夕暮れになり、暗くなり、真っ暗になってからもひたすら日記を書いた。2001号、シャタビ・エクスプレス、ニューデリー行きは、20:35発だ。列車が来るプラットフォーム2のベンチの上であぐらを書いてひたすら黙々と日記を書いた。デリーでは色々ありすぎた。それを出来る限り詳細に記しておきたい。モノ乞いがひっきりなしにきて、ベンチの、僕の目の前に寝ころび始める。もちろん、こんな何時間も前から駅にきているシャタビ・エクスプレス乗客はなく…、次々に別の列車が発着する。電話のブースか?そこにいた若者は良いヤツで、僕が知らないうちに落としていたマップを拾いあげてくれた。ナマステ、である。

あと30分で来るという時点で、マドリードからきたカップルが僕の横に座り、日記を書き続ける僕に興味を持つ。日記をのぞきこみ、「ダイヤリー?」と聞いてくる。「あ、はい…」と答えただけで、ほんと黙々と書き続けた。駅でも停電があった。

やっときた列車に乗り込む。僕の車両、C1は見事にガラガラで、水、夕食、アイスクリームが矢継ぎ早に出されたが、どれも食べる気がしなかった。熱射病、かな。

ガラガラで5人しかいないのに、後ろの方の3席と2席の一列に固められ、窮屈に食べる。パラパラのインドライスに未だ慣れず、ついついアルミホイルの皿を傾けてしまった。米粒がパラパラ散らばる。すいません……。僕は3席シートの通路側。隣には韓国人のカップルが座っていた。そして、通路をはさんだ右隣の2席シートにはイスラエル人夫婦が座る。

隣の韓国人男性は、なにかと話のきっかけを探しているようであったが、僕はといえばもっぱら日記を書き続け、テンションの高いイスラエル婦人と、サーブをしてくれるインド人青年が僕の日記に異常な興味を引いていた。

「ビューティフルだ」、イスラエル婦人は僕の日記(揺れまくったので、めちゃめちゃ下手くそな字だが、そんなことは関係ない、よめないんだから)を見ていう。それに応じながらも日記を書き続ける。最後に、日記帳の上にインド人青年にヒンディー語を書いてもらった。彼の名前。くねくねとしたインド語、上にかならずある一本線は、最後の最後にびよ〜んと伸ばすのだ。

そんな些細なことが知れて嬉しかった。イスラエル婦人は、私も書こうか?というので、彼女の母国語、ベブライ語でその婦人の名前を書いてもらった。


トイレと洗面台のあるデッキで、車掌に「タバコを吸って良いか」を尋ねると、ノープロブレムだと言われた。ので、吸っていると、さっきのインド人青年のアテンドが来て、「ノースモーキング」と両手をパタパタふっておどけた。「うそっ!」と焦ってみせると、「うそやて」とでもいうように、青年は笑った。

1本くれない?というので、箱をだして「どうぞ」と言うと、トイレに入っていったもう一人のアテンドのほうを指さして、「2本、いい?」と聞く。僕は真顔で「ノー」といってやると、「オ〜」と残念がり、「うそやて」と2本あげた。

その青年が去った後、隣の車両にいたインド人3人組が日本人か?と尋ねてくる。モバイルのエンジニアだという3人組は、日本は本当に素晴らしい。エレクトロニクスは最高だ!と。僕がスズキという名前を告げると、誰もがそうするように、一気に笑顔になり、20分ぐらい話したか。ここでもタバコをあげる羽目になる。

車両に戻ると、あまりにもすいているので、一番前のテーブル付きの席に座り、そこで日記を再開。が、揺れすぎてかけない。足を前の席にのせ、膝の上で書く方がまだ安定する。テーブルはあるけれど、そんな風にして日記を書き続ける。揺れ続ける列車の中で。

早起きだったためか、自然ねむくなる。結局2時間半の移動で、半分は眠っていた。ニューデリー駅に着いたのは午後11時。プラットホームが本当に無数にあるのだ、この駅には。

行きは取り忘れた1リットルの水を、今度はしっかりもって、元いた席に戻り、イスラエル婦人に「ニューデリー?」ときくと、背後にいた韓国人男が、「ヤー、ニューデリー」と答えた。

プラットフォーム1まで歩くには、長い歩道橋を昇って、降りて、また昇る。出口がプラットフォーム1方向なので、みんなそちらに向けあるく。突然、「スズキ!」と声をかけられ、振り返ると、さっきのエンジニア3人組だった。そのなかで一番よくしゃべる男が、大声でよんだのだ。

出口まで一緒に歩く。途中で、その3人組のなかで一番若い男に、いきなり「キミのような髪型が好きだ。オレにもそうすることは可能か?」と、突拍子もないことをきかれ、「う〜ん、たぶん。でもボク、染めてるよ」と答えた。かれは真っ黒な髪の毛を、しっかり七三にわけられたその頭をかるくなで、なぜかニコニコしていた。「えっ?」

メインバザールの夜は相変わらず物騒だ。
急ぎ足で宿に戻ると、ラナさんが「トモダチ、トモダチ」と出迎えてくれた。いつもの柔い握手をする。インド人の握手は決してギュッと握らない。

明日、チェックアウトをすることを告げ、料金を払う。1泊目はA/C付きで625Rs、2、3泊目は同じ部屋だが、NON A/Cにしてくれと言ったので、300Rs/泊だった。これはサービスなんだろうか。プラス、空港のピックアップが450Rs、そして明日のドメの空港までのトランスファーが250Rs。一気に清算を済ませる。ホットシャワーが出るようにスイッチをいれてもらって、シャワーを浴び、ビールも飲まず、日記もかかず、即寝で就寝。




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