私の一票
2007年08月05日
日本人の人口約1億2600万人のうち、有権者はざっと1億200万人。先月末に行われた参議院選挙の投票率が58.64%なので、投票した人は約5900万人。の、1票が「私の一票」ということになる。ただし、その一票の持つ重みは、住んでいる地域で変わる。それが問題になっているが、とにかく、私は一票を投じた。
選挙の結果は、そんな一票の積み重ねの「実数」だ。一度も受けたことのない数千人単位の世論調査や、視聴率何%だから何千人が見ていることになるといった推計ではない。その結果に対して「灸を据えられた」とは、ずいぶんではないか?
政治にモラトリアムは許されない。仮に安倍首相の描く理想の政治があって、そこに行き着くまでのスパンが、国民には待っていられないような「長さ」なのであれば、仕切り直しも必要だろう。一つひとつにしっかりとした対応が望まれるところだ。
民主主義における「選挙」。その歴史は古い。それはもう石ころを並べていた時代から続く。身分によって選挙権がないのはおかしいといって、成人男子に一律に与えられるようになり、男子だけはおかしいといって普通選挙となった。膨大な年数を、この普通選挙権獲得までに要している。今でも、日本の国政選挙においては日本人にしか与えられないが、日本で生まれ育った在日外国人三世など、ほとんど日本人と変わらない義務があるのに権利がないことの問題は残っている。先述の一票の重みもそうだ。数百万人が住む都市に暮らす人と、農村地域などに暮らす人では、分母が違うので、その一票の重みが違う。強引に言えば、Aという都市で落選した人の獲得投票数は、Bという地域にいけば当選した人の獲得投票数より多い、なんてことがおこったりするのだ。
全体に言えることは、日本の国に関することを決める「一票」が、どうも明確ではない。投じた後に行われる政治が、直結しない。そこが、本当に問題だ。投票率云々の前に、ここがネックだと思う。
投票率については、本当に寂しい結果が続いている。6割に満たない民意。それは国民の意見を繁栄しているのだろうか。私の一票は、投票率から考えて、二人弱分の意味があることになる。ただ、期日前投票が1000万人を越えた今回の結果からみても、以前に比べてずいぶんと投票しやすいようになったことは明確だ。ここに来てなお投票しない人は、恐らく、投票日の朝に、係員が投票用紙を持参して訪問したとしても、居留守を使うなどして投票しないだろう。その一票を、私はとてももったいなく、そして空しく思う。
私は政治家をリスペクトする。その仕事の内容が、私達の生活に直結するからだ。が、偉い人を選んでいるとは思わない。選ぶ権利も、辞めさせる権利も私達国民が持っている。それほどに一票は重いと、私は思っている。その一票をいつまでも守りたいし、その一票を武器に政治と関わりたい。そして、投じることで意志を示したい。「私の一票」には、それだけの意味がある。
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