一瞬からの全体像
2007年07月09日
動きを止める静止画。そこから全体像を巻き戻すように見ると、見えなかったモノが見えたりする。写真には、そういう力があることに改めて気づいた。
先日、恵比寿にある東京都写真美術館で開催中の「世界報道写真展2007」に行った。

大賞に選ばれた写真は、「破壊された南ベイルートの町を車で通り抜ける若者グループ」という一枚。真っ赤なオープンカーに乗った男と女の若者5人が、一様にしかめ面をしながら、ぐちゃぐちゃになった町を眺めている。ある者は携帯写真を撮り、ある者は鼻をつまみ、サングラスにタンクトップ姿の、まるでバカンスのような違和感。それをきりとった一枚に「大賞」の価値があるということなのだろう。
車の奥で、通行人が不思議そうに眺めている。壊れた家の屋根を歩く人達。

僕は、この写真をずーっと凝視しつつ、ハッとした。この写真はつまり、それをまた撮ったということなのだ。

イスラエル軍の侵攻、そして空爆。破壊された町の様子を撮りに走ったカメラマンが見た「事実」。それは、どこの国でもそうであろう「ニュース・ショー」として捉え、観光にでもきたかのような若者だった。世界のニュースは、もはやショーだ。5分ほどの短い時間で映し出され、配信された映像とナレーションに、レバノンがずっと遠い。誰々が結婚したという「お知らせ」程度に軽い。そこにある破壊と、それに埋もれた死。それを伝えるには、短すぎる。

僕は思う。「動画」は凝視する一瞬を奪った。常に「次」を用意して流れる。どんな悲惨なシーンにも、次があり、死者はフェイドアウトして、「新しい」光景の中に自分を置く。一瞬一瞬を吸っては吐いて、実感を「想像」することなく、次々と進める。時々、ガツンとしたシーンに驚きの声をあげても、同じように、次へ、と。

決められた短い時間の中で、全体を薄めながら伝える中で、その全体がとても希薄に記憶され、その記憶の蓄積が、実感を無くしていく。

写真。特に、報道という名目で撮られ、そして売られ、ぼくらに伝えられる一枚には、そうであるものと無いものがあるとはいえ、やはり貴重だ。先の大賞作品、その一枚の写真から見えるものは、「世界」を異にした者の好奇心と実感のない痛み。埋もれ苦しみ、なくなった者の命が想像できない希薄な全体像。それをドライブして流す「感覚」。そんな世界の一瞬を切り取り、今の世界全体の姿を知らせてくれる。

かつて、戦場に向かったキャパやタイゾウなどの報道カメラマンは命がけだった。目の前の人に、さしのべるべき右手を必死で抑え、躊躇いつつもシャッターを押した一枚。その中の被写体が笑っていようと、苦しんでいようと、食べていようと、逃げていようと、死んでいようと、生きていようと、「そこに居ることの実感」がどの被写体からも感じられた。
壊れた町の中をドライブする、若者にはそれがない。

血、骨、肉、死体、泣き顔。モノクロの報道写真は、戦場が似合う。「DAYS JAPAN」という雑誌をペラペラとめくるだけで、今の世界を凝縮して感じられ、そこから想像を拡げると、今の世界の全体像が見える。テロに差別に宗教、エイズに貧富に大災害。

普段「動画」で流れているシーンを、グッと寄って一瞬を止めてみせるのは、スポーツのシーンも同じだ。まるで蹴りこむように頭突きをくらわすジダン、ホームベースでキャッチャーとランナーが交差する一瞬、ダンサーがジャンプし、地面と平行になって宙に浮く一枚。また水中の餌にかぶりつこうとする魚のどアップや、大群をなして夕暮れを渡る鳥たち。写真には、力がある、これは確かだ。

まるで動画を撮るようにシャッターを連射するカメラマンもいれば、かなりの決め打ちでその一瞬を狙うものもいる。南極やジャングルにいって、「獲物」を追う人もいる。世界中にカメラマンが溢れている。彼らが覗き込むファインダーには、リアルな世界があるのだ。それを切り取り、一瞬に凝縮した一枚が、5分やそこらでは伝えられない全体像をぼくらに知らせてくれる。



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