時効について
2010年02月14日
今、時効について廃止論や延長論が話し合われ、その制度見直しが現実味を帯びてきた。そこで、加害者と被害者遺族にとって「時効」は一つの区切りになるのかという点から少し考えたいと思う。(主な参照:朝日新聞)
時効、つまり公訴時効制度とは刑事訴訟法の規定である。犯罪行為が終わった時点から一定期間が過ぎると、容疑者が判明しても起訴できなくなる制度だ。その理由(存在意義)としては、時間が経過すると(無罪や有罪の)証拠が散逸することと、被害者や社会の処罰感情が薄れること、さらに犯人が罪に問われず一定期間社会で培った関係を尊重するというものらしい。容疑者の国外逃亡期間は進行が停止する。英国(イングランド)は時効がない。ニューヨーク州では殺人など死刑・無期にあたる罪に時効がないが、そのほか傷害致死などでは5年、フランスも集団殺害など人道に対する罪に時効はないが、殺人や傷害致死には10年となっている。日本では、傷害致死などは10年、強盗殺傷などは15年、殺人など死刑にあたる罪は25年となっている。時効寸前でメディアの注目度があがり、それをみた目撃情報などで一気に逮捕につながる場合もあるが、ここ10年、日本では40〜60件ほどの殺人事件が毎年時効をむかえている。殺された被害者遺族からすれば、犯人が罪に問われることなく普通の暮らしを続けることに耐えられない気持ちはあるだろう。そんな被害者遺族達が訴えるのが、他でもない時効の廃止・延長論なのだ。時効の存在意義として2番目に挙げた「被害者の処罰感情の薄れ」というのは、少々疑問を感じる。
絶対条件として冤罪はあってはならない。無実の罪で17年も刑務所に入れられた菅家さんの件もある。「有罪」にするための証拠の積み上げに怪しさがあったとき、それを打ち砕くだけの「無罪」の裏付け証拠が25年を過ぎてもなお確保できるのか。日本弁護士連合会などは冤罪が増える可能性があるという。一方で警察庁も、捜査が無期限になると捜査員の士気も低下し、限られた捜査員の割り振りも難しいと感情論だけでは解決できない問題を抱える。被害者側にも、時効を一つの区切りとして次のステップにしようと考える場合があると言う。科学捜査が進歩し、DNA鑑定は先述の菅家さんの時代よりも劇的に進歩した。容疑者の事情聴取を公開したり、どれだけ時間が経っても変わらない確実な証拠がファイルアップされるようになれば、時効の廃止というのも確かに現実味を帯びると思われるが、そこに慎重論や反対論があるというのも、やはり「区切り」という意味合いが大きいのではないかと思われる。
本来、殺人事件が起こり、その加害者と被害者遺族にとって「区切り」になるのは裁判にかけられ、刑が確定し、その刑に服したときだ。捜査をする警察にとっても、逮捕・起訴までもっていった時だ。それを時効という「勝手につくった諦めのタイミング」で代用してもよいのだろうか。
私の考えは時効廃止に賛成だ。法治国家である以上、法の下で犯罪者は裁かれ、その刑に服すことが加害者・被害者双方にとって「最終形」になると考える。「感情論だけでは解決できない実情」を警察庁は言うが、それは便宜的なものに思えて仕方がない。例えば殺人事件が起こった。その事実に対して、捜査し、解決する(起訴して判決が出る)までの間に、25年という期間が妥当だとは決して思わない。それは弁護士側がいう確実な証拠の信憑性云々も含めてだ。もっというなら社会の犯罪者に対する処罰感情の薄れ? それは20年前でも15年前でも薄れるものは薄れるし、そうでないものはそうでない。そこに「25年」という期間を当てはめる理由なり存在意義なりは全く理解できない。やはり、事件は起訴され判決を下されるまで「終わって」はいけないのではないだろうか。証拠が少なく、迷宮入りする事件がある。捜査員は全力で捜査をすすめ、休みも返上して全身でぶつかる。被害者遺族は心情面のコントロールを含めて、犯人逮捕まで「大変」な時間を過ごす。犯人は、どんな事情があるにせよ、事件を起こし、逃げまどい、身を隠しながら生きる。その期間に「時効まで」という区切りは果たして本当に必要なのだろうか。犯罪を犯したものは必ず逮捕され法の下で裁かれる。それが長期間にわたり犯人が死亡したり、被害者遺族が死亡したりという数十年の期間に及んだとしても、一つの罪が起訴もできない「異常」な状況に置かれるべきではない。時効を廃止し、罪はどれだけ時間が経っても法の下で裁かれるまでは解決できない。それが正常だ。
時効は一つの制度だ。制度というのは個々の諸事情を包括して大前提として置かれるべきだ。そういう意味でも、殺人者が25年逃げれば罪に問われない、というのはやはり異常であり、便宜上の「区切り」は廃止するべきだと、私は思う。
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