「ことば」が「銃」に代わる狂気
2007年04月22日
銃にまつわる事件が、先週アメリカと日本で起きた。アメリカ東部、バージニア州の工科大学で、ひとりの青年が銃を乱射。自殺した犯人を含め33人の命が失われた。時を同じくして、長崎県でも、選挙期間中の候補者が、ひとりの男の凶弾に倒れた。
この二つの事件に共通するモノ、それは「ことば」の代わりに振るった「銃」ということ。
例えば、口げんかをする。言い返したいが言い返せない心の中の「塊」みたいなものを「拳」で振る舞う。暴力。殴る、ける。これが夫婦間ならDV、学校内ならいじめと言われる。「ことば」を「拳」に代えた例だ。さらに、近年の日本では、子どもが大人を襲うなどの場合、「ことば」を「ナイフ」に代えたりする。心の中の塊を言語化する能力に乏しい者たちの、逆襲ににた「狂気」。この、狂気の滞空こそが、淀みこそが、根源にあるように思う。
近頃の子どもは云々。そんな話題の中で、「何を考えているかわからない」。そうやって凶行にはしるという事を聞くが、僕は基本的には同じで、考えていることは必ずある。つまり心の中の塊としてため込んでいる。それを「ことば」にできない。そして、それを「拳」や「ナイフ」を使って表す。そうだと限定する気はもちろんないが、どうもそういう傾向が強いように思う。
「銃」。この凶器が、先述の「拳」や「ナイフ」にとって代わる社会。それが「銃社会」ではないだろうか。アメリカという国は、今更言うまでもなく、銃社会だ。世界にある銃の、なんと3分の1がアメリカにあるという。数にして2億2千万丁以上(朝日新聞より)。全ての日本人が、2丁近くを保持していることになる。根本にある理念は、自衛のため。1787年の合衆国憲法成立から4年後、「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を保持する権利を侵してはならない」とする合衆国憲法修正第二条を追加している。つまり、憲法で認められた権利なのだ。自衛、、、自分を守る。そのための「銃」。
しかし、このことに誰もが首を傾げるだろう。なぜなら、銃はいつも、攻撃する側の凶器として存在しているからだ。今回のバージニア工科大学での被害者32人も、さらに言えば99年のコロラド州コロンバイン高校での被害者13人も、もっともっといる銃による被害者にとって、はたして「銃」を持っていれば自衛になったのか。ある朝、突然乱射される銃弾を、すばやく察知して自衛する?……それは無理だ。MDぐらい無理なことだろう。
またこう言うかも知れない。「銃」を持っていると分かれば、銃を乱射した青年を抑制することが出来たかも知れない。みんなが銃を持っていれば、「銃をもった」人間だけが特別な力を持つという「ゆがみ」ができない、と。仮にその主張に頷いたとしても、現実のアメリカ社会は、銃による被害者が10万人あたり4.0人という桁外れの多さなのだ。
銃の所持を、自衛のために認めても、被害者の数ばかりが増えているのが現状。それにストップをかけられないアメリカという国が、いかに複雑で、アンバランスなパワー構造かとため息がでる。が、アメリカ国籍もなければ、アメリカでの選挙権もない。そんなアメリカの社会を変える直接的な手だてを僕は持たない。ので、日本のことで話す。
ふと考える。僕の住んでいる所から、半径10kmの範囲に、一体どれだけの銃があるんだろうか、と。例えば、区内に、市内に、県内に…、と考えると、少し怖い。毎朝の満員電車。その中に、銃はあるんだろうか? 休日のショッピングモールには?
銃を規制しきれない状態を、日本は長い間続けてきた。そうしているうちに、銃は「より手軽に」広まっているような気がする。大都会の閑静な住宅街で、昼間から銃撃戦が行われたり、駅前の選挙事務所の前で発砲されたり。それも、いとも簡単に。麻薬の広がりよりも、そのスピードは遅いが、それもこの先どうなるかわからない。
この「広がり」にこそ恐怖を感じる。銃は最後の手段で、不謹慎からもしれないが核兵器に例えると、それをつかった時点で「どれだけのことが起こるか」をしっかり理解した人達だけが持っているという【バランス】が崩れ始めている。つまり、心の中の塊を言語化できない「程度」の人達が、銃を代用して凶行にでる。今の日本では、大半の人がそれに太刀打ちできない。
だったら銃の所持を認めるか、、、なんて「核武装論者」みたいなことを言う気はさらさらない。それは銃の所持を認めたアメリカ社会の現状からも明らかなように、意味がないからだ。いや違う。意味がないどころか、もっと「悲惨」な状態になることが明白だからだ。銃はもちろん規制する。今以上に取り締まりを強化する。その上で、根源にある「狂気」、「ことば」を言葉として表現し、そして民主的に主張し、平和的に生活できない人間の、その塊の代用とさせないようにする。
今回のバージニア工科大学の犯人も、さらに長崎市長を襲った犯人も、銃を放った後、自らも自殺しようとした。心の中の塊を、銃を代用して表し、それで「終わり」にしようとしたのだ。この、狂気。ここまで進んだ「狂気」を、もっと早い段階で抑制すること。自衛というなら、もっと広い意味で防衛ということで考えると、例えばバージニア工科大学の犯人に補導歴があったこと、長崎市長を襲った犯人にも、脅しなどの前歴があったこと、その時点。この段階で何らかの処置を、あるいは処罰を通して防ぐしかないのかも知れない。これは、銃を規制する人達とは別に、もっときめ細かに対処する必要がある。心の中の塊が凝り固まって、「狂気」となる前に。
そこに「銃」があったから殺人は起きた。そんな衝動的な事例を並べて、大学時代の僕はアメリカの銃社会を見てきた。が、今の日本社会は、「銃」のあるなしよりも、もっと深くに凝り固まった「塊」があるように思う。それをうまく「ほぐす」制度なり社会システムが少ない。問題はここにあり、それらがない以上、対策としては先述の通り、もう一段階早い時点で、しっかりとした自衛(防衛)が必要ではないかとも、思う。
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