核のルール
2007年08月19日
核保有国インドとの関係において、核のルールというものが曖昧になりかけている。そもそも、核のルールはあってないようなものだ。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国は核を持ってもよいとされ、インドとパキスタンは早々核保有を宣言。先日、北朝鮮も世界中の非難を浴びながら、核保有を宣言した。イスラエルは、公表こそしていないものの、核を保有しているというのは世界的な認識だ。
これらの国の他は持っちゃダメ。端的に言えばそれに近い。
しかも、それを世界中駆け回って監視しているのが、核保有国のアメリカなのだからややこしい。イランは、核の平和利用を主張して、アメリカと対立している。イランからすれば、核をもっているアメリカに、あーだこーだ言われる筋合いはないというところだろう。
日本はどうか。唯一の被爆国として、憲法において非核三原則を掲げ、国連などの場でも声高に核の廃絶を訴えている。が、先日のシン首相(インド)の言葉にもあるように、「日本はアメリカの核の傘に守られている」というのが世界的な認識だろう。中国と北朝鮮の核の脅威があっても、非核を貫けるのはアメリカのおかげ。シン首相は言う、「我が国は、そんな日本とは事情が違う」。中国とパキスタンに挟まれている現状、核兵器を手放すことはできない、と。
核のルール。原子力供給国グループ(NSG/世界45ヵ国が加盟)では、ガイドラインを作り、核物質はもちろん、原子炉など核関連技術までを含めて輸出にかなりの制限をおいている。核兵器は持っていなくても、それに相当する技術を有する国が多いからだ。このガイドライン(言ってみればルール)によると、核不拡散条約(NPT)に加盟し、国際原子力機関(IAEA)の査察を受けている国にのみ、核関連の輸出を認めると定めている。
インドは、NPTに非加盟で、IAEAの査察も受けていない。ルール上、アメリカや日本などから核関連の輸出はできない。が、アメリカはインドとの間で「米印原子力協力協定」を結ぼうとしている。この協定は、米国がインドに対し、核燃料や原子炉などを輸出するというもので、インド側の民生用原子力施設においてIAEAの査察受け入れを条件にしているが、ルール違反は明確だ。
この協定に対し、日本にも賛成して欲しいとシン首相は言っている。
絶対ダメだろう、と二つ返事でノーとは言えない事情が、日本にもある。
インドの経済発展がそれだ。デリーとムンバイという、同国の二大都市間の高速鉄道網を日本が請け負える可能性があるし、台頭を続ける中国に対して、同じ市場規模に成長するだろう民主主義国家・インドの存在は軽視できない。今、インドを味方につけることは、やはり「得」なのだ。アメリカのダブル・スタンダード。イランに対してはあくまでも核の利用は認めないと国連を巻き込んで「反対」するが、インドとはルール違反を犯してまでも手を組もうとする。アメリカにとって、インドという国は、日本とよくにた事情で大切だからだ。
そんなアメリカのダブル・スタンダードを批判する日本も、かなり苦しいところに立たされている。原則を取るか、現実を取るか。
野球は9人、サッカーなら11人。インフィールドフライやオフサイドやら、それぞれにある「ルール」。それを守るという大前提で国際試合が行われ、熱狂し、勝ち負けに一喜一憂する。「核」。これにルールはそもそも必要だろうか?核兵器というのは、言ってみれば反則技の類であって、「ある」だけで失格なのだ。相手がバットで打つから、こっちもバットで打つんだよ、というのとは根本的に違う。
しかも、そんな反則技にこれ以上拡がらないためにときまりを作って、それすら守れず実利をとるなら、もう世界中で試合にならない。相手が核のスイッチを押したら、いくらこっちが持っていてもゲームオーバーなのだ。こっちも持っているから、向こうもスイッチを押すのを躊躇し思いとどまるだろう、というだけのためのもの。「攻撃は最大の防御」ってか?
全然違う。核にルールはいらない。いるとすれば、反則技禁止、というごく当たり前のことだけ。いつでも、どんな時でも手をつないでいようというのが平和過ぎるのであれば、熱狂するほどの「試合」をするのはいい。
が、反則技は、駄目だ。これが絶対的なルールだと僕は思う。
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