監視することについて
2011年01月23日
「増加傾向にある性犯罪。これを事前に防ぐにはタブーを恐れず検討しなければならない」。先日、村井宮城県知事が明らかにした「性犯罪の前歴者らにGPS携帯を義務化」するという条例の素案を受け、賛否両論が巻き起こっている。

性犯罪者の情報公開と聞いてまず思い浮かぶのは、アメリカ・ニュージャージー州のメーガン法だ(1994年)。加害者の出所後住所や前歴をインターネットで公開するという法律。当時、大学でアメリカの暴力性についてレポートを重ねていた私にとって、その「性犯罪者の再犯率の高さ」と「1人の人間としての加害者の人権」、そして「被害者の将来にまで続く気持ち」などを考え、この法律にいきすぎを感じつつも反対とは言い切れない、というような結論を導き出したような覚えがある。

例えば少女に対する性犯罪。それは加害者の「中毒」にも似た快感を持つ。そうである以上、被害者は「誰でもいい」のだ。そんな無差別的な犯罪において、それを防ぐためにはある程度の加害者の人権侵害は、次の被害者を出さないためには必要ではないか。そこに、いきすぎた情報公開で被害者側が二重被害にあったり、加害者側が公開された情報を元に放火されたりという「特異」なケースはあっても、現実として増加する性犯罪と、殺人や傷害致死といった重罪に比べて比較にならないほどの再犯率の性犯罪は、「別」として考えてもいいように思ったからだ。ちなみに、日本の例でもそれは同じで、性犯罪と並んで再犯率の高い重罪は「放火」だ。

と、ここで記したが、言いたいのは性犯罪のことではない。
そんな再犯率の高い犯罪から「被害」を防ぐために【監視すること】について書きたいと思う。

監視する。ロンドンの同時多発テロ後、あの街は監視カメラだらけになった。テロとの戦い。不意打ちを防ぐためには、考えられ得るすべてを監視しようとする動きは、結果、空港での「全身スキャン検査」にまで発展したが、そんな監視の目も最近では緩和する方向に変わってきた。

監視することに対して「人権」という問題がつきまとうが、私はこう思う。
本当のところ、監視しても、防ぎきれないからではないか、と。

正確には違う。「監視する」ということが、誰か(それが警察などの権力者)からの一方向であり、四方八方に散らばるすべてをくまなく見る、ということに限界を感じるのだ。

そんな限界のある「監視」に、関係のない「誰もが」まきこまれることに、人権問題云々が出てくる。

例えば、今回の宮城県知事の素案で言うと、性犯罪歴者にGPS携帯を持たせて監視する。統計的に言って性犯罪者(強姦)は9.4%の確率で再犯を犯す(2010年度版犯罪白書より)。今年の宮城県の強姦は27件おこっており、上記の数字をそのまま当てはめると2.5件は防げる。だから、監視するのだというようにも聞こえる。

はたしてそうだろうか? 大学時代の私が導き出した「反対とは言い切れない」という結論も、実際に救える「2.5件」のことばかりを考えていた。それに疑問が出始めたのは、「増加の一方の犯罪」という事実だ。増え続ける加害者から、被害者を救うには、「誰か」という一点の視点だけの監視では、とうてい追いつかない。なのに、監視されているからという(脆い)安堵感を市民が抱かないとも限らない。誰かがやっているから大丈夫という「脆さ」は、最も危険なのだ。

犯罪から市民を守る。そのために取り入れるとすれば、GPS携帯を犯罪歴者に義務づけるのではなく、GPS携帯よりも無数に張り巡らされた「市民」の目を通して寄せられる「ホットライン」のようなシステムを充実させることではないだろうか。

監視するのは「一点」ではなく「無数」にあり、そこからよせられた情報に迅速に対応する。被害届を出しても実際に被害にあわないとなかなか動かない警察(という例がいくつも報告されている現実がある)。そのマインドこそ、変革すべきではないか。

私は、監視するのもされるのも、どこかの「一点」ではいけないと考える。その一点に権力がある場合は人権侵害も考えられるのでなおさらだ。そうではなく、監視する目とされる人が同じ空間で生活を共にする市民であり、その後の対応こそ議論すべきだ。

システムを張り巡らせて得られる安心感があるとすれば、それは監視ではない。寄せられた情報に対する「迅速」で「正確で」「いかに的を得た対応」であるか。そこにこそ、本当の安心はあるのだと、私は思う。



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