個々の確立からグローバルへ
2007年09月09日
英国という国を構成する4つの地域。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド。今でもワールドカップは別々に参加する。これらの融合をシンボルとして示すのがユニオン・フラッグだ。9.11以後、ニューヨークの街中に星条旗があふれていたのと同じく、最近のロンドン中心部ではユニオン旗を多く目にするという。国としてのまとまりの薄れ。多文化主義の崩れ。自分のアイデンティティを「ブリティッシュ」とする人が44%と半分以下の状態だ。これまで、北アイルランドの独立運動はあったものの、英国は一つにまとまってきたと言える。だが昨今、それを揺さぶる出来事が続発。テロ、である。多くはイスラム教原理主義系の移民が起こしているとされるが、それを防ぐために主要箇所に尋常ではない数の監視カメラを置き、見張られている感がつよくなった。誰が誰を監視しているのか。される側もする側も、緊張の糸を張り詰めたような生活。とは言い過ぎかも知れないが、仮にもし、事故でチューブが火災を起こしたとして、まず「あ、テロだ」と思う人は恐らく多いだろう。そんな状態だ。

そこで、就任したばかりのブラウン首相が提言したのは時代に合った英国民のアイデンティティ。英国人らしさを意味する「ブリティッシュネス」だ(朝日新聞より)。日本で言えば「美しい国」のようなものか? 今、もう一度自分の国を見つめ直し、英国人とは何かを英国人に問う。若者の社会参加意欲の薄れ、移民の起こすテロ行為。それらの根源を絶つものとしての提言とも捉えられている。簡単に、そして強引に言ってしまえば愛国教育に近い。

どうも最近、日本も含め、世界的な動きとして自国の方へとベクトルを向ける傾向が強いように感じる。「Nippon2」という素敵なコピーで国内旅行を強力に謳った全日空のキャンペーン。外へ外へと向かっていた旅行者を、九州や東北へと誘った。英国人ではない僕からすれば、何が英国人なのかは分からない。シルクハットにアンブレラを携えている感じか?それは日本人に刀と丁髷といっているようなものか。そういう見えやすい、はたまた分かりやすいものではないもっと奥深いところにあるアイデンティティ。

自分は○○人であるという個々の確立。

国歌を斉唱し、国旗を掲揚する義務に、賛成するわけではないが、特別目くじらをたてて反対もしない。戦後レジームから脱却しようという時代、戦前の国歌・国旗を連想するものおかしな話だ。女子中学生にも武道が必須科目となると聞いて、戦中の武道教育を連想するぐらいおかしい。

以前、「おまえはすぐにニホンジンであること」を口にするなと言われたことがある。どのような会話でそうなったのかは忘れたが、「だったらなぜ英語なんて専攻してるんだ」と続いたような記憶がある。だから学生時代の話だったのか。高校生までの僕は、自分が日本人であることにさほど強い意識もなく、国どころか学校や集団に対しても所属意識というのを極端に嫌っていた節がある。校歌は、小・中・高とぜんぶ歌えない。僕は、塊ではなく個として生きていると自負していたし、そうして生きていきたいと思ってもいた。

が、アメリカのホームステイで「日本ではどうなんだ?」と聞かれる度に、それに答えられない日本人の自分が恥ずかしく、言ってみれば聞きかじったアメリカの流行なんかの方が詳しかったりしたのだ。これじゃだめだと顔を赤らめてから、実家がやっていた着物の仕事にも、そして生まれ育った京都という街にも、日本の文化・伝統に興味を持った。

日本のことを知って、日本人であるという個を確立させようと努め始めたのだ。
それは、今も継続している。確かに、英語は昔のほうがしゃべれたかも知れないが、英語で会話をするなら今の方ができると思っている。それは知ってる単語を並べて「伝えて」いたツールとしての英語から、伝えたいことがあって、それを知っている単語で話すというものに変わったからだ。

今はもう完全なるグローバル世界。地球の裏側だって丸一日ちょっとあれば行けるし、そんな真裏の大地震を数時間のタイムラグで映像付きで知れる。経済は一つが躓けば半日以内に世界中で連鎖するし、電車の隣に外国人が座ることも少なくない。僕らは世界が一つになるなかで融合し合いながら生きることに、もはや拒絶できないでいる。原理主義なんて都合で、テロを起こすことに一体となって反意を示す。

けれど、だからといって浮遊してはいけない。大きな世界で生きていく一人として、何もかもちょっと囓った知識と意識では、本当のわかり合いはない。自分はこうだ、という個々の確立。その確立が深く、そして太ければそれだけ、相手を許容する幅が増す。自分の意識が強いと、それだけ争いが起こりやすいと考えるのは、グローバルではなかった時代の話ではないか。今は、自分と相手が向き合って、それぞれが主張し認め合う。そこから、はじめてわかり合える世界が生まれるのだ。お互いが、中途半端なスタンダードの周りを浮遊していれば、二人の間に生まれるモノも、あやふやなままだと僕は思う。

ハード面先行でグローバルとなった今の世界で、ソフト面、いわゆる人と人が融合するのは、それぞれの個々の確固たる確立の上に成り立つに違いない。



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