路面電車がチンチンと通る京都・太秦。緩やかな傾斜の上に右京区役所があって、車は出たり入ったりで忙しない。坂道のてっぺんにあるかのような狭い狭い歩道。広隆寺はそんな「通り」に沿うようにある。が、一度門をくぐると、サーッと「音」も「空気」も、つまり目と耳に入ってくる粉塵が一気に消滅して、深く呼吸したくなる、そんなクリアーな「景色」が現れてくる。なんとも素晴らしい。
歴史の街・京都にあって、奈良時代、それも「聖徳太子」をイメージさせるものはそう多くない。渡来人だった太子の側近、秦河勝がこの寺を建立し、新羅からおくられた弥勒菩薩像を安置した。それが、この弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)。半分腰掛けて、思惟している弥勒菩薩。ずっと後の時代に生まれたロダンの「考える人」に相通じるものがあったり。
これは、西洋と東洋の美術が融合されたヘレニズム時代、ガンダーラで興った新しい「仏像」の姿だ。いわゆる「スリムでスタイリッシュ」な彫刻。美しい形は前後左右、すべての絶妙なバランスにある。同じような弥勒菩薩像が奈良・法隆寺の中宮寺にもあるが、美しさで言えばこちらが上か?(観る人によりけりだが、ぼくは断然こちらが好き)。それは何も、数多い「国宝」にあって、一番最初に、国宝と認定されたから、だけではない。
広く開放的な境内を奥に進み、天平時代から鎌倉時代までの重要文化財、国宝がびっしりと並んだ「霊宝殿」の、その中心で、「半分」だけ腰掛け、「深く考え込んでいる」弥勒菩薩を眺めることは、正にゼッケイだと、思う。
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