極東日記『北京編』

今、これを記しているのは2009年11月。オバマ大統領が初来日し、天皇皇后両陛下が即位20周年を迎えられた、そんな頃合いだ。

決して避けていた訳ではないが、なかなか中国へと足が向かなかったぼくも、北京オリンピックを2年後に控えた2006年の秋、「かわりゆく北京」を「変わってしまう前に」見ておかなければと思い飛行機に飛び乗った。

当時の日記を元に記していくが、日本円換算はその頃のまま。ちなみに、1元≒16.64円(空港換算レート)。



2006年9月16日(土)  
北京、1日目。



日本に接近している台風13号の影響で少し肌寒いが、パックを背負って家から駅まで歩いたので汗だくになった。こういう曇りな天気もなかなかやっかいだ。未だチェックインできずにいるが、僕の飛行機は関西国際空港発北京行き、中国国際航空(CA)928便。早速15分のDelayが表示されている。


…台北に向かう人たちに向けたアナウンスで、「台風13号の影響で台北空港に着陸できない可能性があります。その際は関西国際空に引き返すこともございますので、ご了承のうえご搭乗手続きをしてください」と言っている。そんな了承……。嫌だな。

2008年北京オリンピック、2010年上海万博、これを機に一気にかけのぼっている龍のような国、中国。その姿をちょっとだけのぞいてきまーす。行列の出来ている中国行きのカウンターに、僕は小声で呟いて、歩き出した。

この旅で、僕は2冊目のパスポートとなる。最初のページに出国のスタンプが押された。それを眺める、なんだか旅の第2章が始まったような。出発して3時間、北京は近い。

空港からバスで市内へと向かう。よく見る郊外の光景から徐々に「街」へ入ると、全体的にくもったイメージが。ガスか?砂埃か?なんだか北京はとにかく霞んでいた。そんなぼやけた街は、やたらと建設ラッシュで。これだけ大きな通りでも「人混み」を感じさせる人口の多さに、改めて驚き。それにしてもデカイ。一つひとつの建物、道幅、その全てが大きい。これが北京か。左ハンドルでバイクはノーヘルOKだ。

市内に入り、人と店が増え、飯店や酒店の看板、ほとんどが電飾の、が続く。天安門の前には人だかりができており、毛沢東の肖像画がでかでかとある。北京だ。これを見るとそう思う。西単は都会だ。10年前のガイドブック(ぼくが持っていった物……)によると、ここが北京一の繁華街だという。それも納得。

道幅、チャリ道、そして4?5車線のストリート。でかい。道を渡るところはなく、どうやらすべて地下道を使う。泊まるホテルまで歩いた。途中、ザ・マルコポーロという建物の入り口に人だかりができており、通り過ぎようとすると、ワー、キャーと大歓声が起こった。有名人がいるのだろう。尋常ではなかった。

真っ赤な夕陽も沈み、徐々に暗くなろうとするころ、ようやくホテルに到着。予約していたホテルは「越秀大飯店」。真っ赤な電飾が目立つ。フロントに行く前からかなり心配していたのだが、僕はホテルのバウチャーをもらっていない。関空で受け取ったのはエアーチケットのみだ。怪しい。フロントに行き、取りあえず名前をいう。???あのしかめ面の「はぁ?」が始まる。なんとか名前を調べてもらい、予約が取れていることを確認。朝食のクーポンとカードキーを受け取る。デポの200元はカードできっておいた。チェックアウト時にしっかり破られるのを見とろけなければ。

部屋は1208。エレベーターで12階へ。うん、まぁ、可もなく不可もない、普通の部屋だ。早速行動をおこす。今夜は若者に人気という、前海、后海エリア、フートンでも有名だが、そこに向かう。西単からホテルまで遠かったので、「オイオイ、北京は何でもかんでも、でかくて遠いぞ」と思っていたが、ホテルの真ん前が地下鉄の駅。ここからは楽だった。地鉄と書かれた青い看板が駅の目印。宣武門という駅から環状になった2号線で鼓桜大街という駅へ。今のところ、1号線、2号線、13号線、8号線の4本だが、建設中のラインがあと5本ある。北京っ子たちはスイカのようなピッ!というICカードで通過していく。駅の窓口で3元を出し、切符を買う。改札に座っているおばちゃんにそれを渡す。郊外に行く以外はすべて統一料金だ。車内は狭め、いや日本とほぼ同じ。改札を出るときは切符は不要で、そのまま素通りしていく。

鼓桜大街から南下。この駅前も工事中だった。街灯が少なく、あったとしても淡くて暗い。屋台が並び、昔ながらの店が続く。子供や親たちが外に出て話している。1.5kmほど歩くと狭くて暗い、映画に出てきそうなフートンに入る。昼間みるにはいいが、夜は真っ暗だ。池のほとりに出て、真っ暗の中ボートをこぐカップル、キスをするカップル。

激しくどぎついネオンが並び、ソファに怪しく暗い店内。客引きも激しい。バーだな。しかし、テンション的にはご飯が食べたいのでオールパス。ただでさえ、激しい中国語、その客引きになるとギンギンささってくる。そのまま池の畔からフートンに入り、真っ暗な道を北上。輪タクが「どう?」と誘ってくるが、この真っ暗じゃねぇ〜。と、もちろんのごとくパス。

夕食は、来るときに見てよさそうだったところへ。屋台にも行きたいが、まだ初日でメニューがさっぱり分からないのは明らかなので、渋々普通の店へ。「北京水貨」という店に入った。そこは三汁?と書かれた汁もの、つまり鍋が有名なレストランなのだろう。周りではみんな(すべて現地人)が鍋を囲み、テーブルの真ん中には電気ヒーターのコンロがあった。箸とおしぼりがセットになったでかい箸袋にまず驚く。と、ここの店員の女の子は完全に中国語のみ。メニューが分からない。こういう時の絶対条件として写真つきのメニューがあるところを選ぶべきだが、それもできず、一応英語メニューをだされたのでそれを見ながら、注文。取り合えずガイドブックを取り出し、北京ダックの写真と麻婆豆腐の写真を指さし、マネージャーのような男性に注文する。「オーケーオーケー」と言いながら、首をコクコクと上下させる彼は、で?つぎは?というので水餃子も指さしたが、それはない、と言われた。まずはビール。4元の瓶ビール。北京オリンピックのロゴがはいった瓶。アルミを剥がし、栓をあける。まだ北京にきて間もないが、このオリンピックのロゴは相当に目にする。

ダックに麻婆。この2品は口に合わず、唯一、英語のメニューからたのんだHANDMADE NOODLEが食べられた。が、どんどん頼んだビールでお腹はいっぱいに。ほとんど残してしまった。450円。もったいないことをした。帰りにスーパーでポッキーと水、パンを買う。7.15元。おつりに5角紙幣があった。毛沢東じゃない。なかなかよい。重みを感じるデザイン&色使いだ。ホテルにもどり、シャワーを浴び、日記をかきつつ就寝。12時前。



2006年9月17日(日)  
北京、2日目。



朝6時に起床。すっきりとした目覚めだった。今日は北京郊外(市内から90km離れた)にある川底下村に行く。ここは昔ながらの北京の建物や、生活臭がのこっているという所で、北京の旅のメインのひとつにおいていた。ただ、アクセスが悪く、早朝に出るバス、それも地下鉄の一番端の駅からでることもあり、早起きして向かった。7時から始まるというホテルの朝食は食べられなかった。

まず、ホテルの前の駅「宣武門」から2号線で復興門まで、そこで1号線に乗り換えて終着の蘋果園という駅に。早朝の、それも日曜だというのに、結構人がいた。この大人口の割には電車が少なすぎるのではないか?まったくもってどうしたものか、この川底下村に向かう定期バスは7時半発なので、もう乗れない。ネットで調べたところ、この駅からミニバスが出ており、人数さえ揃えば結構すぐに出てくれるという情報もあった。それに期待もしていた。人が集まりやすいように、北京ッ子が動きやすい日曜日をわざわざ選んだのもそのせいだ。ただ、滞在日数の少なさから考えて、今日のうちに故宮博物院に行きたい。が、そのラストエントランスが4時なので、それまでにいって帰る、そんな都合のいい時間割がミニバスで可能なのか?う〜ん、どうしたものか。

駅の出口を出ると、わっと人に囲まれた。その中の一人、おばさんがなにやら中国語でわんやわんやいうてくる。ぼくはガイドブックを出して、川底下村を指さし、ここ、いける?という。ツアーガイドなのだろうことはすぐにわかった。オッケー、オッケー、200元だ、と言う。この状況ではまだ何も分からない。筆談を繰り返し、片道なら200元、往復なら300元ということに話が落ち着いてきた。が、僕は見逃さない。最初、このおばちゃんは往復で200元というようなことを言っていたのだ。おばちゃんと僕の周りにはひとだからり。おっちゃんやらおばちゃんが囲む。みんなして色々いうので、僕はおばちゃんに「往復」で200元、と書き記し、交渉した。「お〜」と頭を抱える。なら、いい、と行きかけると、「250元」、これでどうだという。ん、まっ、いいか。そもそもここからチャーターしたタクシーがいくらぐらいなのかは分からない。ので、それで手を打った。なにせ、僕には、そんなに時間がない。それに、今回は一人旅ではなく、同行者とシェアできるのだ。一人125元、日本円で約2,000円。諸々の物価(ビール代とか)から考えると、決して安くはない。が、まぁいいだろう。

そこからそのおばちゃんの夫?が運転する車で約2時間。車は高速を飛ばして飛ばして、進んでいく。おばちゃんも同乗する。彼女との意思疎通はもっぱら筆談だった。基本的には完全に中国語を一生懸命話し、それをまったくもって理解しない僕ら。悪い人ではない。ぼろうともしない。車が出てすぐに、木の実?なにやらリンゴの堅い版、種のある、、、かなり小さいものをその辺で買ってきたのか、それをくれた。ビニール袋をこちらに出すので、一つもらう。と、ガバッとひとつかみしても僕らに手渡した。しゃい・しぇい。が、、、すいません、全然食べれなかった。

トイレ休憩を挟んで、山道をずっと進む。途中の道では大型トラックがご飯を食べるために道路に停車し、そのせいで渋滞が起こるという日本ではまず考えられないような光景もあった。痰をはく中国人は有名だが、北京ではポイ捨てする日本人ぐらいに稀少になってきている。が、この変までくると、やはりまだまだそういう人が多い。この川底下村に入るには20元の入村料がいる。が、車内の筆談で、「我」といっしょだと「不要」、「門票」、「一人25元」なるメモを見せられ、、、?な末、僕は二人分の50元をおばちゃんに手渡した。と、村に入る際、それを手渡した形跡がない。あれ?いま払えということかと思っていたが、どうやら、入村料は不要だよ、ということがいいたかったのかも知れない。50元紙幣を渡すと、おばちゃんはドライバーと顔を見合わせて笑っていたから。

さ、着いた。駐車場は有料なのだろう、かなり上の方まで登って車を停め、ここで待っていると行って二人と別れた。まずはずっと下って、村の入口、「かまど」の漢字が示されたところへ。その昔、北京と山西省を結ぶ街道の宿場町として栄えたという。伝統的な四合院からなる村だ。マグカップや毛沢東の赤本なんかがおこかれた土産物屋や、ここまで昔ながら?(かなり綺麗になった北京のトイレとはうってかわって)、便器が仕切りなしに並ぶトイレ。ここで朝から「ニーハオ」とは…。文化の違いとはいえ、この「ニーハオ・トイレ」は絶対にくせ者だ。細い道がぐねぐね続き、宿や食事処が点在していた。天気がかなりよく、北京市内のように、ガスっぽくもなく澄んでいる。階段を上がっては行き止まって、「ここは何?」と覗いては、あ〜、宿か、とか店か、とか、寺か?などなど。不可思議な空間。道ばたにはオレンジの小さなハナが咲いていた。

空腹だった。ちょうど昼前ということもあったが、登ったり下ったりしながらレストランを探す。なかなか見付からなかったのは、テーブルに座る客を待ち構えるというスタンスではなく、座ったら出てくるという店側のやりかたで、そこに僕らがなかなかはいりこめなかったから「無い」ように感じただけかも知れない。ちょっと登って見下ろせば、屋根、屋根、屋根。瓦葺きの屋根が重なるように、傘開いていた。

オール漢字。それも中国の漢字なので、なかなか掴めるようでつかめない。どうやらレストランか?とおぼしき前でウロウロしていると、ニコニコした女性が、ご飯か?というようなことをいいつつ、こっち、こっちと誘導した。メインストリートから中にどんどん進んで、やってきたレストラン。ここもまさしく四合院造りだった。東西南北に家があり、真ん中のスペースが共有場。そこにテーブルが並べられていた。席に座るとお茶が出される。まずは身振り手振りでビールを注文。よく見る、燕京ビール。この緑の瓶をよくみる。どうやらこのレストランの両サイドは宿なのか?中国人の若いグループが数人で戻ってきて、建物の中に入り、ベットが見えたその部屋で休んでいた。注文は大変だった。筆談、そして、かん。ほぼかんで注文をした。何を食べたか。紅飯(味の薄い赤飯)、粥の文字につられて卵の粥(これまたかなり味の薄い卵スープ)、そしてあとはオイルの利いた豚肉に、肉じゃが?のようなもの。頼みすぎた。北京は一つ一つの量が多い。まぁ、でも天気も良く、ビールも旨いので(しかもかなりギンギンに冷えていた)、おばちゃんたちと喋りながら楽しかった。向かいの宿からも両サイドからもおばちゃんが出てきて、色々話す。おっちゃんも混じっていた。シェイ・シェイ、ニーハオ、ハオチー。これだけ知ってるというと笑っていた。ハオチーの発音が可笑しいと何度も言い直させられる。どうもあの、籠もった音が出せない。途中でナニジンかと聞かれたのでリーベン、日本人だと言うと、一瞬顔を変えるあたり、村ではまだまだ日本人もいずらいのか。それと関係なく、気さくに笑いかけてくれるところも嬉しいが。一人のおばちゃん(この人が日本人と知った途端、あまり話さなくなった人だが)が、若い中国人をつれてきて(英語が話せるという理由で)、その女性経由で「どこに泊まっているのか、宿はどこか」を聞いた。北京に宿があって、帰るというと「そうか」と残念そう。実は、さっきレストランのおばちゃんにも筆談で伝えていたのだが。まぁ、レストランで捕まえた客を宿泊させたいのはよくわかるが。

この嫌日家に思えたおばちゃんも、最後には、村から市内へのバスは3時半だよと親切に教えてくれた。結構かわいい若い女性が英語で通訳してくれた。なんだかすっごく雰囲気の良い、楽しい人たちだったので、ビデオでもまわせばよかったと後悔した。そして、それなのに、ほとんど残して、ごめんなさいとも、反省した。

お腹が一杯になり、暑さもあって、少し反対側の丘に登って川底下村の全景を見て、車にもどった。ドライバーは何をしていたのか、2時間ほどの時間をずっと待っていたらしかった。

帰り、村を出るとき、公安につかまり、詳しくはわからないが、入村料を払わなかったことがおそらく原因だろう。止められてしまった。車内が暑く、僕がおりようとしたら、ドライバーは「ダメダメ」と下りることを許さない。社会主義の国、中国。公安のあんな若造が、やはり怖いのか?統制が緩んできたとはいえ、まだまだ公安は怖いものであり続けるのだろう。

15分ほど待たされて、おばちゃんが交渉し(おそらく入村料を払ったのだろうが)、村を後にした。車内は暑く、陽射しもつよい、だけど窓をあけると風が強いので締めたまま、それでも帰りの道中はずっと眠った。元の駅で終了。250元を払って別れた。2時前には戻ってこられたので、時間的にも余裕だ。さて、この蘋果園という駅の周り。大型ショップなどが軒をつらねて少しばかり郊外の繁華街なのか、人が多い。日曜の昼下がり、若者は群れて楽しげだった。

地下鉄1号線で、こんどは天安門西という駅まで移動。人口比に対して絶対電車が少ない。もう、ギュウギュウ。中国人はよくとなりに座っている人の太ももに自分の脚を乗せるといった「密着」を見せてくる。そんな感覚で混雑している中ではすさまじいのだ、密着が。日本のように「ギュウギュウの中でも自分のスペース」を確保しようと努めない。もう、背中が後ろの人とずっとひっついたままだった。それも14個もの駅を移動する。お年寄りに席を譲る若い女性がそんな中で気持ちよかった。

天安門の前、正確には紫禁城への入口、東に労働人民文化宮、西に中山公園があり、前に大きな通りが天安門広場との間に通っている。あたりには軍服姿の兵士がたくさんいて、二人一組で成立して歩く。地下道にもいて、曲がるときには、一方が他方を待ち二人そろって歩いている。なんというか、軍隊のある国だな。まだ若いだろう、彼らの動きは確かに精悍だ。

さ、故宮博物院に入る前に関空で変えたお金が無くなってきた。ので、銀行を探す。天安門広場の方に南下。中国銀行があったので、そこに入ると、日曜日なので米ドルのみのエクスチェンジ、少し離れた北京銀行でも日本円の両替は不可だった。これは致し方ないと、国際キャッシュ(クレジットカード)で500元を下ろした。レシートが出ないので不安だし、レートがどうなっているのかも不明だ。できれば避けたい選択だが、例えばこれからの旅はこういう方法(つまり現金はすべて現地で国際キャッシュから現地通貨で下ろす)をとってもいいかもしれない。ほどにいとも簡単なのだ。ANAカードなのでマイルもたまるしね。

お金も出来たので、故宮へ!の、前に喉が渇いていたのでケンタッキーでペプシを買う。漢字で肯徳基とかかれたその店はマクドナルドよりも北京市内には多い。ペプシ4.5元。これを100元紙幣で買おうとするとおつりがないといいだし、マネージャーを呼んでお札を補充。何人もの列におそらく「おい、あの日本人、なにやっとんねん」と、、、思われていたのだろう、、、な。

天安門広場への入口、最南端にある正陽門。ここから毛首席紀年堂を通り、天安門広場に。中央に人民英雄記念碑が建ち、中国の国旗がたなびいていた。イタリアとの有効年なのか?イタリアの国旗も天安門にはあった。そして何より注目すべきは、チベットの首都ラサにあるポタラ宮のミニュチュア模型が東側に設置されていた。エベレストもあった。

ここまでで熱射病に近いほどの頭痛と、日に焼けた肌が痛い。天安門を潜り、本当は上に上がれるが、なにせ故宮のラストエントランスの5分前だったので急いだ。入城は60元。皇帝と科挙のベスト3だけが通ることを許された門から入城する。映画「ラストエンペラー」の世界だ。・・・んが、、、完全なるままにリノベーション。大工事中だった。メインの大和殿が完全に覆われて修復されているのに、入場料を取られるのがどうも・・・。外宮から内宮へと続く道を右折して、僕が唯一みたいと思っていた九龍壁に。が、それもどうも時間切れで見れなかった。残念。やっぱりここはもう少しゆっくりいくべきだったか。何を見たという感想もないまま故宮をあとにした。最後にかった「緑茶」のペットボトル。中国でも他のアジア同様、紅茶に砂糖を入れる感覚で緑茶にも砂糖が入っていた。甘い。

故宮で九龍壁がみれなかったので、北海公園にある九龍壁を見ようと移動。白塔のある北海という池に浮かぶ島だ。この公園に入るのに10元、そして永安寺への入館で10元。これがセットになっている。入ってすぐに白塔がリフレクトする池に蓮の葉と花が咲き誇り、それはそれで綺麗な光景に出くわす。が、九龍壁のある処までは島の最北からボートに乗らなければならず、取りあえず公園を縦断。ここでも工事中か時間ぎれが定かではないが、なぜか島の先端まで行けず、、、結局九龍壁は諦めた。歩き通し立ったのでシバラク休憩。本当に疲れたが、なんだが霞んだ北京の夕景が、その真っ赤な夕陽がとても和む。

北海公園を出て北京市を縦断する形でオール歩きで宿まで戻る。これは相当の距離だ。故宮の外壁沿いには、これでもか、という程に公衆トイレがあり、うん、オリンピックシフトか、とこんなところでも感じる。夕方の軒先や家の前では、昔の日本のように、親子でバトミントンをしたり、井戸端会議をしたりとなかなかのんびりした雰囲気がある。大通りには、昔のテレビでみたような自転車の大集団はおらず、車だらけ。そう言えば、天安門の前を自転車の大移動がテレビに流れていたのを思い出して、そういう意味でも北京は変わったと言わざるを得ない。昨日はあんなに遠く感じた距離がなんだかスムーズだ。大通りを一本入れば、まだまだバラックのような、都会、とはとうてい言い難い民家に出くわす。まだまだ、街全体豊かな訳ではないのだ。故宮の北長街から西長街に入り、そのまま石碑胡洞(フートン)に入った。小さな店で何人もが夕食のラーメン?か何かを啜り、トイレの匂いが充満し、子供たちがスーパーボールのようなものを壁にぶつけて遊んでいた。

宣武門内大街を東に渡り、新文化街の入口でチャオズ(餃子)の有名な?なにやら賞をとったような店に入った。結果的に大成功。ガラス張りの厨房ではパートのおばちゃん?らしき人が一列になって餃子を巻く。牛肉の10ピースとチャーハン、そして北京特生というアサヒの瓶ビールを飲み、2人で53元。美味しかった。入口には水槽があって、生きた魚が泳いでいた。

団体客の多い店で、案内された席が入口の真ん前だったので、忙しない。料金先払いなので注文が出されるとそれを食べて勝手に出て行く。焼きそばもたのんでおり、伝票にもかかれていたのだが、それにしては料金が安すぎる。どうやら、注文が通っていないのだろう。待っても待っても出てこないので店を出た。うん、例えばもう4、5日北京に滞在するなら、絶対あと1、2回は通っているな、というほどの店だった。店の名前は天津何とか、、、忘れたけど。場所ははっきりわかっている。

まだ午後7時半だったが、なぜだか相当に疲れた。ホテルに帰って、日記も簡単につけて寝る。



2006年9月18日(月)  
北京、3日目。



昨夜は9時半に就寝。あまりにも早いので7時にセットした目覚ましでも爽快な寝起きだった。

フロントの奥から中2階にある朝食へ。チャイニーズ・ブレックファーストだ。ラーメンや焼きめし、卵焼き、あとは青梗菜(ちんげんさい)の炒め物に、色々あったが、どれもあっさりとはほど遠い。何よりショックなのが、コーヒーには初めからミルクが入っており・・・、朝のコーヒーが飲めないのは痛い。まぁ、朝食付きのホテルに泊まるなど希な僕としては、これで十分だが。

今日の予定は万里の長城と廬溝橋。北京の市街から北西郊外と南西郊外というなかなか行きにくいルートだ。例えば、万里の長城だけなら長距離バスがあり安い。それを往復してから廬溝橋までタクシーでいってもいい。う〜ん、まずはホテルのツアーデスクで聞こうということになった。一日のタクシーチャーターで400元が相場?と書かれたガイドブック。それでも万里と明十三廟などエンルートな場所を回るのが普通で、その他に行く場合は追加料金がいると書かれている。どのぐらいかかるのだろうと交渉すると、上記の2スポットのハイヤーで650元。これは高い。なんとか400元まで行こうとがんばるつもりが、あれ?っというぐらいに口がすべって600元と言ってしまった。今でも、あの口の滑り、そして言ってしまったあとの「しまった!」感が口のあたりをムズムズしている。OK、OKとポーターがいい、バッゲージルームにつれていかれ、そこで600元を払った。まぁ、楽は楽だが。かなり高かったな。1人5000円だ。やっぱり2人で行っている分、シェアできるという気のゆるみ・・・。

これでお金が足りなくなったので、またホテルの近くで国際キャッシュを使う。200元を下ろした。

ハイヤーされたドライバーは根津甚八に似た人で、笑うとなかなか優しげだ。万里の長城はもちろんあれだけの規模なのでスポットも北京郊外だけでたくさんある。が、まぁ、一番有名な八達嶺長城へ。あまり期待してなかったが、いやいや、考えれば考えるほどに不思議だ。まずこれが外壁であること。それも国全体をカバーするが如くの防壁。それだけ内陸部の遊牧民族が強敵であったのであろうが、それにしてもだから壁で守ろうという始皇帝からの認識が凄い。中国の歴史のすべて完成させた唯一もモノのようにも思える。あれだけ王朝が代わり、民族も雑多なのに、この認識、感覚だけは変わらなかった。長城へ入るには45元。さすがにこれだけの観光地になると中国人だらけというよりも西洋人の姿が多い。日本人の多くは「女坂」に登るが、その坂(長城)の方がみばえがいい。だから逆側の男坂に登った。確かに急な坂で、それに加えて午前中から強い陽射し。特に、恐怖とも思える坂道と急な階段が一気に押し寄せ、ギブアップ寸前になってしまうようなところがあって、苦労のあとにはご褒美的な絶景が用意されていることを分かった今では「がんばってよかった」とも思えるが、あれはなかなかのしろものだった。なめてかかると痛い目にあう。が、なんといっても絶景だった。歩いているときはなんとはなしに、あの砦までと次々に目標を設定してがんばれるが、後々よく考えると、壁の上を、ただあるくだけのあの時間と空間が不思議に思えてくる。まさしく天に昇る龍の背中。その上をあるいているようだった。うねり方もしかり。

行って帰るだけで2時間弱。帰り、登り口?でビールを飲んだ。なんと35元という破格。水も10元した。さすがは観光地プライス。こんなところはさっさと去るのが正解だ。

根津カーに乗って、北京市の今度は南西へ。いつの間にかエアコンが入っており、かなり快適だった。ので、また、寝た。高速道路代は別払いで行き25元、帰りはルート違いなので20元だった。ETCは、この国にはまだない。大型のトラックが坂道を登れず、びっくりするぐらいのスロースピードで進んでいた。ドライバーはどうやら廬溝橋を知らない。なんとか近くまで来た後、その辺の人にききまくってようやくついた。廬溝橋。金代を代表する美しい橋だ。「東方見聞録」にも出てきたその美しい橋は、永定河の上にかかる。もちろん、そんなことよりも有名なのが、1937年7月7日。1発の銃声から日中戦争へと突き進んでしまった廬溝橋事件。ここは抗日、英語で書かれるともっとダイレクトに感じるのだが、anti-Japaneseな代名詞だ。この獅子が幾頭も並ぶ橋の向かい、今でも銃痕がのこる城壁に囲まれた城の敷地に、中国人民抗日戦争紀念館がある。ちょうどこの日、何かの記念(翌日の英字新聞でしったのだが)で、入館は無料だった。赤いスカーフを巻いた小学生が大勢詰めかけていた。いかに日本人がむごいか、あの戦争で日本は中国人に何をしたか。南京大虐殺の100人斬り、競うように首をはねた日本人将校二人が誇らしげに新聞にのる、そんな日本の新聞が展示されている。グルグルと回って思った。これが江沢民の愛国教育か?いや、ただ単なる日本人バッシングか?例えば、原爆記念館は、原爆の恐ろしさとその無為さを訴える。世界から原爆を無くす、そんなメッセージがあり、「アメリカ人め」という気持ちは少ない。展示の仕方もそうだ。なのに、ここは、ただたんに日本人はひどい、忘れるな同胞よ、あの国はひどいのだ、とただ単に言っている気がする。戦争自体を反対したり、あの時、あの戦争で何を学び、これからどうするべきなのか、というのが、伝わってこない。そもそも、中国語のみの表記で世界に対するメッセージなどそもそも論で皆無だ。

どうも、解せないし、そんな「抗日」になって、なんてひどいんだ、という感情を湧かせる中国人の真横で、日本人の僕が、その展示を見ながら首をふるのもおかしな話だ。まぁ、日本人も「平等」に無料になった分、まだましか?

廬溝橋には西洋人の中学生?も来ていた。彼らも、日本軍の「わやくちゃ」さを非難して帰ることだろう。歴史は歴史、過去は過去だが、ナチスに対して徹底的に排除し、新しいドイツというイメージをつくれたあの国は偉い。確かに日本も戦後60年戦争をしていない。それは立派だが、どうも最近、あの戦争は自分たちに直結していないと思う感覚がある。他の誰でもなく、この僕にも。それはやっぱりダメだな。

廬溝橋からホテルまでは1時間もかからない。宿には結局3時すぎにもどった。この廬溝橋の駐車代、5元も払わされた。600元っていったい・・・。一日ハイヤーなら決して高くないと万里の長城の土産物屋(国営の)の女性店員はいっていたが、ビールがあの値段やったしな・・・。怪しいところだ。

宿の隣に「そごう」があり、そこのレストランフロアでビーフヌードル(10元)とコーラ(4元)を食べる。ソニーのコーナーにはブラビアがでかでかと展示されていた。

宿に戻りしばし休憩。本当にこの旅はよく寝た。今日も4時から6時前まで、ホテルで眠った。
最後の夜になる。北京に来たら「北京ダック」だろうということで、建国門外エリア、日本大使館や日系をはじめ外国の企業が進出しているエリア(だからか?外国フードのスーパーや回転寿司屋があった)に。2号線で一本。地下鉄は3元ときまっているので、慣れれば便利だ。夕方のラッシュで混んでいたが。「鴨王」というレストランで北京ダックを食べた。88元で一匹。シェフがテーブルの横にきて裁いてくれる。まるで寿司職人の如く気持ちの良いぐらい鮮やかな包丁さばきでカリカリの皮がはがれていく。丸裸になった(身の部分も結構のこっているが)鴨をもって厨房に帰ると、制服の店員がテーブルにサーブしてくれる。なんとまぁ、あざやかなもりつけ。その盛りつけに驚きと感嘆だ。きゅうりに白ネギ、黒いタレをもちもちした皮でつつんで食べる。旨い。かなりの美味。その他、チャーハンと水餃子、ビールを頼む。チャーハンの量が多く、あ、北京は一品が多いのだとまたしても後悔。相変わらず完食できず残してしまった。北京ダックのハーフもあったので、それで十分だったかもしれない。いやいやそれでもうまい。それに安い。日本なら倍、へたをすれば三倍だろう。88元なら日本円で1400円。これでは日本では食べれない。

帰り外国フードのスーパーでビールと水をかってホテルに戻る。また、、、早く眠った。



2006年9月19日(月)  
北京、4日目。



帰りの飛行機が9時20分なので、7時半には空港に行かなければならない。手元に60元あった僕は、16元のバスで空港までいってもいいのだが、また西単まで移動が強いられるし、時刻表もよく分からない。もう、ホテルからタクシーで行く気だった。シェアの甘え。これが最後まで抜けきらない。

チェックアウトする。でかいジャンバーを羽織って、カウンターで堂々と眠っている女性にチェックアウトを告げると、夜勤なのだろう青年が日本語で「飲みのもは?」などなど、チェックアウト業務を。最後にクレジットカード(デポジットの)の控えを破りホテルを出た。

彼に聞くと空港までのタクシーは130元だというので、まぁ、いいかなとホテルの前にいたドライバーに聞く。空港まで120元。うん、それで行こうと言うことになった。
バスだと一時間もかかった空港までの道のりを考えて早めに出た僕たち。6時過ぎにはチャックアウトしていた。のに、タクシーだと30分ほどで空港についた。ヒュンダイの黄色いタクシー。が、速いのか?

空港で出国をする。東京行き、大阪行き、名古屋行きと、この時間にかさなっているせいか、空港では日本語が溢れていた。韓国人団体客が恐ろしい荷物をチェックインカウンターで預けており、それに巻き込まれなくてよかったとつくづく。僕の飛行機はCA927便、席はなんと8Aというベストシートだった。

■帰りの機内にて記す
北京での滞在を終え、今、帰りの機内でこれを記している。想像を超えるものは確かにあった。例えば自動車。ヒュンダイを中心にタクシーは多く、路線バスも充実。まだ3本しかない地下鉄も2008年のオリンピックに向けて造られようとしている。建国ラッシュのこの街では、早朝も夜中も工事の音が激しい。何やら重機が金属をたたきつけるリズミカルな音、クレーンがはるか空中で回転する。昔見た、天安門広場前のちゃりんこ集団の姿はない。※そういえば、100元紙幣を出すと、どこでも必ず「すかし」をチェックされていたな。

ラッシュ

煙突の上で回転する指標板
次に向かうのは「あっち」だと指し示す。

誰も疑うことなく ラッシュ
棒の振られる方向へ突っ走る。

ラッシュ トゥ ピース
豊かな方へ みんなで一緒に

「必ず」という絶対を疑う者は
またお前かと噂され
違う違うと首を振れば
赤いラインで待たされる

だから一緒に ラッシュ
走り出す豊かな方へ

ラッシュ トゥ ピース



今回の北京の旅、無事終了。



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