ノーコントロール
2007年10月14日
最近、ルールやモラル、もっと言えば法の下で「統制」させた世の中から大きくずれているように思えて仕方がない。自由、というもののはき違えではおさまりきらない状態であるとさえ言えるのではないだろうか。まさしく、ノーコントロールだ。

先週、イラン南部のバムという町で一人の日本人青年が誘拐された。現在もまだ開放されていない。誘拐した犯人グループとされるのは、麻薬密輸組織「シャフバフシュ」だと言われている。これまでも日本人が拉致され、殺害されるという事件が起こっており、その都度、自己責任論が出ているが、今回のケースを見ると、宗教や民族ではなく、単なる麻薬密輸という犯罪グループだ。その要求が、収監中のリーダーの息子を釈放しろというもの。これはもはや、来るところまで来たというしかない。
つまり、国に対してモノを言えるのは国だった時代、水面下で様々交渉が行われ、それが上手くいかない場合、戦争という最悪の道を辿ってきた。それが9.11以後、テロ組織という、宗教や民族を単位に組織された一団が「国」に対して交渉を持ちかけ、それが決裂して泥沼の戦争へと進むようになった。そして今回、「血」や「信仰」という一種「強い」結びつきではない、単なる「犯罪集団」が、「国」にモノをいうために外国人を誘拐したのだ。これが連鎖し始めると、収拾のつかない時代になるのは目に見えている。
日本人であれば、パスポートを保持して海外に出る。そのパスポート(旅券)には、日本国外務大臣の名で、「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係所管に要請する。」という文言が記されている。誘拐犯が、何処かの会社社長の息子を誘拐して、何らかの要求をする場合、それは自分の息子だから親がその要求に応じるか否かを決める。それと同じように、単なる犯罪者が、「日本人」を誘拐して、日本という「国」に要求をしてきても、それに応じるのか?これはアフガニスタンで二十数人が拉致された韓国人らに対して、韓国がとった対応が色々と言われた。表向きは、テロ組織などの要求には、国家として従わないというのが大きな流れだ。が、今回は、素早く日本の外務副大臣が動き、イラン国家にも要請をしている。
イラン国内の犯罪者が、イランという国に対して、一人の犯罪者の釈放を求める。そのために、日本人を拉致して、日本という国を介して圧力をかけるという構造だ。もう無茶苦茶だ。一つ言えることは、イランという国に、今の時期行くべきだったかどうかが問われるかも知れない。確かに、今年8月にも同じグループがベルギー人を誘拐している。が、バムである。ペルセポリスだけでは物足りない人なら、イランに行けば観光のハイライトとして入れる遺跡の町だ。近年の大地震で被害が大きかっただけに、行くだけの価値を云々言う人もあるだろうが、仮に僕がイラン旅行を計画しても、バムは入れていただろう。そこで、武装したグループに拉致され、同国東南の何もないような場所に連れて行かれているのだ。後々になって、この辺りが麻薬密輸組織の運搬ルートだったということが分かってきたが、大学生の青年の一人旅。気持ちは、分かる気がする。(バムには行くよな) とにかく、一日でも早い解放を心より願っている。

今朝11時、東京上野の繁華街で、一人の男性が射殺された。商店街に響き渡った銃声。休日のお昼前、人通りの多さを考えると、ぞっとする。銃の拡散は、まさにノーコントロールだと言っていいのかもしれない。

そして、最もコントロールできないトコロは、サイトだろう。先週、ある自殺サイトで知り合った女性の依頼を受けて、少女を殺害、自殺に見せかけるように細工までしていたという事件が起こった。その他にも、今や学校でのいじめは「闇サイト」というのが主流だとも聞いた。匿名性を活かして好き放題やる人達、逆に、実名性を利用して陥れようとする人達。ネット社会は、完璧に統制の効かない状態だ。
言うまでもないが、社会主義の国のように、統制を強めて「自由」な発言を遮ることはやってはならないが、あまりにも無法状態というのも考え物だ。そして何より、バーチャルなネット社会での「事柄」が、実社会にもリアルとして起こっていることに恐怖を感じる。名前も知らない人とコミュニケーションをとり、その「人」がリアルな人間として現れる。そして、そこに「犯罪」がからんでくる。

銃にしても、ネットにしても、つまりは「見えないトコロ」で浸透していて、それが気づかないうちに身近に迫っているということだ。往々にして、それは「犯罪」が絡んでいる場合が多い。

コントロール。それは自由を確保した上での「法」やルール、もっと根本的なモラルの面で、為されるべきだし、それが現状、ノーであると思わざるを得ない。



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